夢を見ていた。誰よりも大切だった人を救えなかった夢。親友と交わした約束を違えてしまった夢。それは十数年もの間、彼女が向き合い続けてきた過去であり、ここ数ヶ月ほどは一度として見なかった、在りし日の咎。
時間の流れは早いものだった。特に幸せな時間は矢のように過ぎ、泡沫のように消えていく。六月、遅れてやってきた梅雨も終わり、暦は七月に差し掛かっていた。
「はぁっ、はあっ……んっ、くぅっ……」
寝苦しい夜だった。気温、湿気とともに高く、全身に何かがまとわりつくような不快感があった。ごうごうと空調が音を立てる。冷房はかかっていた。それでも部屋は暑かった。彼女にとっては。
「んっ、あっ、くっ、うぅっ……!」
ひどく汗をかいていた。それほど彼女は、夢にうなされていた。悪夢ではない。これはただの夢だ。かつて背中を預けて共に戦った人と刹那の間とは言え邂逅できるこの一時を、悪い夢だなんて思いたくない。
「――だめっ! 駿貴!」
悲哀に掠れた声が、熱帯夜に残響する。弾かれたように身体を起こしたナベリウスは、室内にわだかまる闇を見据えて、荒く熱っぽい呼吸を繰り返した。顔にかかった銀髪の房を気だるげに払いのける。目尻からは、汗とは違うしずくが一筋だけ流れていた。
「……また、あの夢」
もうずっと見ていなかったのに。あの朝、初めて少年に触れたときから、夜は苦しむための時間から安らぐための時間に変わったはずだったのに。どうして今になって。
いや、本当は分かっている。ここしばらく、ナベリウスは夕貴のぬくもりを感じていない。いつも例の夢を見そうな夜は、一人だと心細いから、夕貴の腕のなかに潜り込んでいたのだけれど。
「うわぁ、すっごい汗……」
素肌にべっとりと張り付く衣服の感触が気持ち悪かった。腰まで伸びた長い銀髪も汗を吸い、雨に濡れたように毛先が束になっている。服の胸元を引っ張って中を覗いた。布が吸収しきれなかった水滴が、まだ滑らかな肌のうえで輝いている。時計を見ると、午前二時を回ったところだった。
こんな汗だくの状態では眠ることもままならないと思い、彼女はシャワーを浴びることにした。冷房の効いた自室から出ると、すぐに嫌になるような蒸し暑さが襲ってくる。ぺたぺたと素足のまま脱衣所まで歩き、水分を吸って重くなった寝巻きを洗濯籠のなかに放り込むと、浴室に入ってシャワー栓をひねる。
「……ん、はぁ」
思わず悩ましげな吐息が漏れるほどに心地よかった。やや温めに設定したシャワーを頭から浴びると、女性らしい起伏のある身体に小さな滝がいくつも現れる。腕、肩、腹と順にゆっくりさすり、全身にこびりついたものを洗い流していく。
十数分ほどかけて湯浴みを済ませると、緩慢とした足取りで脱衣所に出た。備え付けられた鏡には、絶世という形容が似つかわしい美貌が映っている。
濡れそぼった銀髪は肌に張り付き、絹糸のごとき麗しさを披露している。豊満な肢体は、男性を欲情させるだけの肉付きがあり、それでいてすらりと細い。ヒップから腰にかけての優美な曲線は芸術的とさえ言える。かたちのいい豊かなふくらみが、身じろぐたびに上下に柔らかく揺れ、きらきらとした水滴を飛ばす。
世の男性を虜にする整った美貌は、どこか物憂げに歪んでおり、それが却って彼女を魅力的に演出していた。
「……ひどい顔だなぁ」
だがナベリウスは、鏡に映った女を不細工だと思った。こんな情けない顔をした自分は見たくない。まるで王子様の助けを待つ無力なお姫様を気取っているような顔。まったくもって最低だった。
バスタオルで全身を拭き終えると、用意しておいた替えの寝巻きに袖を通した。まだ幾分か濡れたままの銀髪が、背中の布をかすかに濡らす。
なんとなく。本当になんとなく夕貴の顔が見たいと思ったナベリウスは、一階にある自室ではなく、二階にある彼の部屋へと向かった。広い家のなかは耳鳴りがするほど静まり返っていて、家人の気配はしない。みんな眠っているようだった。
迷いのなかった足取りは、しかし夕貴の部屋のまえで止まった。普段ならあっさりと回せるはずのドアノブが、今夜だけは微動だにしない。きっとあの夢を、萩原駿貴の夢を見たせいだ。圧倒的な罪悪感に蝕まれた身体が、彼の血を引く少年に会うのを拒否しているのだろう。やっぱりわたしは臆病だな、とナベリウスは自嘲気味に唇を歪めた。
わざわざ二階に上がったのに、このまま自室に引き返すのも間抜けだと思ったナベリウスは、なけなしの勇気を振り絞り、萩原邸に来てから一度も入ったことがない部屋に足を踏み入れた。
ややアンティークな趣のある調度類と、ところどころに散見される女性らしい小物。そこは萩原小百合の部屋だった。おそらく夕貴が定期的に掃除しているのだろう、ほとんど埃は溜まっていない。
大きく息を吸ってみると、懐かしい匂いが胸を満たした。どこか夕貴を彷彿とさせる、心地いい匂い。おかしなものだ。ずっと気後れしていたのに、いま自分はこんなにも安心感を覚えている。部屋は薄暗いのに、心はこんなにも温かい。
ふと、化粧台の脇に小さな写真立てがあることに気付いた。それを手にとって眺めてみる。映っているのは美しい母親と、あまりにも可愛らしい少年だった。まだ幼い夕貴が、どこか照れくさそうに小百合と手を繋いでいる。小学校の卒業式の日に撮ったものらしく、卒業証書の入った黒筒を抱える小百合の目は、すこし赤くなっていた。ありふれた、どこにでもあるような一枚の写真が、なぜかナベリウスには尊いものに思えて仕方なかった。
「……あぁ、そういえば小百合、髪の毛切ったんだっけ」
かつて萩原駿貴が生きていた頃は、小百合の髪もずいぶんと長かった。でも、夕貴が生まれると同時に、小百合は自慢だった髪をばっさりと切ってしまった。それはきっと一人で子供を育てる覚悟の証だったのだろう。
――あのときの小百合の苦悩を、ナベリウスは誰よりも知っている。
ため息混じりに写真立てを元あった場所に戻すナベリウス。そろそろ戻ろう。ここにいても感傷に浸ってしまうだけだから。そう自分に言い聞かせた彼女は、振り返った瞬間、本棚に並べてある古いアルバムに目がいった。興味を惹かれて、なんともなしにアルバムの一つを手に取る。そのとき、ページの間に挟まっていた一枚の写真が、ひらひらと足元に落ちた。
「こ、これは……とんでもないものを見つけちゃったかな……」
拾い上げた写真には、ソロモンの序列を持つナベリウスをも震駭させる、驚きのものが映っていた。
****
深々とした青空と、連なるようにして浮かぶ白雲の群れ。風が吹き、花壇に植えられた色とりどりの花が優しくそよいだ。小さな池には色艶のいい鯉たちが元気に泳ぎまわっている。俺と母さんが長い年月をかけて少しずつ整えてきた萩原邸の庭は、今日も平和だった。
七月の初頭。燦々と降り注ぐ日差しは留まることを知らず、ただ突っ立っているだけでも汗が噴き出てくるような猛暑だった。強烈な紫外線が、じりじりと肌を焦がしていく。男子はともかく、女性はこぞって日焼け対策に念を入れてからでないと外にも出られない。ちなみに俺は男らしいので、もちろん日焼け対策などこれっぽっちもしていない。
「はぁ、はぁ……くそっ」
ぽたぽたと滴り落ちる汗が、足元に広がる芝生に吸い込まれていく。すでにシャツは水分を吸って重くなり、素肌にまとわりついていた。そろそろ着替えないと運動に支障が出るかもしれない。
すぅっと肺一杯に酸素を吸い込み、ゆっくり気息を整えてから、俺は乳酸の溜まった脚で強く踏み込んだ。握り締めた拳を、一切の加減なく突き出す。
「遅い。動きが直線的すぎ。バカの一つに覚えにもほどがある」
抑揚のない、ともすれば退屈しているとも取れる声。しっかりと目で捉えていたタンクトップ姿の美影が、半歩だけ後ろにずれる。俺の拳は、彼女の鼻先で止まっていた。腕の長さ、踏み込みの距離、拳を振るうタイミング、それら全てが完全に見切られている。彼女は最小の運動で、俺の最大をいなした。差し引くと、こちらが晒した隙の分だけ、向こうが自由に動けるということになる。
「格闘戦で大事なのは直線運動じゃなく、曲線運動。こういうのは身を持って覚えたほうがいい」
言葉を置き去りにするほどの速さで美影が動いた。艶のある黒髪をなびかせて、俺の死角に潜り込んでくる。肉薄すると同時、彼女は大きく弧を描くように足を跳ね上げる。視界の外から飛んでくる蹴り。俺は反射的に上半身を逸らし、顔面に迫る脅威を避けた。逃げ遅れた前髪が、靴底に叩かれる。
「まだ動きが鈍い。見てから、考えてからでは駄目。勘や反射で動かないと間に合わない」
「そんなこと簡単にできるわけないだろ!」
「できる。こうして何度も何度もひとつの動作を反復し、脊髄反射の行動パターンにすりこんでいく」
言うが早いか、舞うように絢爛な蹴りを放ってくる。回避に専念すれば防ぎきれないこともないが、反撃など夢のまた夢だった。美影の攻めは芸術のように美しく、猛火のごとく容赦がない。《悪魔》の波動で身体能力を強化していないとは言え、ここまで一方的にやられるのは男として不甲斐ない。
「隙あり」
息つく間もなく、美影は劣勢の俺を畳み掛けてくる。引き締まった肢体が半回転し、遠心力を乗せた裏拳が繰り出された。それをてのひらで受け止めると、今度は跳ね上がった膝が俺の腹部に突き刺さっていた。
「ぐはっ!」
一瞬、気が遠くなった。覚悟を決めていたにも関わらず、全身に伝播する鈍い衝撃に耐え切ることはできなかった。それは身長一五〇センチほどの小さな身体に似つかわしくない膂力。事実、美影の力は弱いのだろう。だが天性の格闘センスとしなやかな筋肉によって繰り出される一撃は、パワー不足を微塵も感じさせない。変幻自在にして予測不能な彼女の攻撃に、俺は抵抗する術を持たなかった。
「待てっ、参ったっ、俺の負けだ!」
「そう」
素っ気無い返事。美影はあっさりと拳を収めると、眠そうにあくびをした。
「もう無理だ……死ぬ」
あまり男らしいとは言えない台詞を口にしてから、芝生のうえに大の字になって寝転ぶ。照りつける日差しは正直うざかったが、吹き付ける風が汗に濡れた体には心地よかった。
「悪い、美影。飲み物とってくれ。喉がカラカラだ……」
「ん」
ひょいっと投げつけられたペットボトルを受け取る。すぐさまキャップを外し、中身を煽った。キンキンに冷えたスポーツドリンクが喉を通るのは、もう死んでもいいと思えるぐらいの満足感があった。
体力を使い果たした俺とは違い、美影はいつもどおりの涼しい顔をしていた。このクソ暑い中、ほとんど汗をかいていない。彼女はポニーテールに結わえた長い黒髪と、左目の下にある泣きぼくろが特徴的な、とにかく怠惰な感じの女の子だ。とくに日焼けの心配はしていないようで、服装はタンクトップとショートパンツ(ちなみに上下とも熱を吸収する黒色)という開放的なものだった。それでも肌は抜けるように白いのだから、さすがの太陽も形無しといったところである。
ここ最近、俺は彼女に訓練をつけてもらっていた。実際のところ、こいつの体術は常人離れしている。ほんの数分、拳を交えるだけで生まれ持った才能の差に絶望したくなるほどだ。だから少しでも、先のような模擬戦のなかで身をもって美影の技を盗んでいきたいとか思っていたりするのだ。
一分ほど芝生のベッドを満喫した俺は、汗を吸って重くなったシャツを脱いだ。ちょうどウッドデッキに替えの服を用意しておいたので、それに着替えようと思ったのだ。その最中、ふと気付くと、美影がじっと俺を見つめていた。
「なんだよ?」
「夕貴、男にしては肌白い」
「ほっとけ。俺は日焼けしても赤くなるだけで一向に黒くならないんだよ。前もって言っておくけど、女みたいな肌質とか間違っても言うなよ?」
「女みたいな肌質」
「……よほどぎゃふんと言わされたいらしいな、おまえ」
「フリかと思った」
「誰も笑いを取ろうなんてしてねえよ!」
タオルで汗を拭き取りながら、俺は続ける。
「でもさ、そういうおまえだって日焼け対策とかしなくてもいいのか?」
「……?」
「いや、せっかくきれいな色白の肌してるんだからさ。もっと気を遣ったほうがいいんじゃないかと思ったんだよ。ほら、いまだってけっこう露出が多いじゃないか。そっちのが涼しいのは分かるけど」
「UVカット的なものは嫌い。あやめにクリームを塗れって言われたけど、丁重に辞退した。洗い流すの面倒」
「そっか。まあおまえの好きにしろよ。俺も無理にとは言わないし」
「夕貴は」
「ん?」
新しいシャツに袖を通していると、相変わらずぼんやりとした眼差しで美影が言った。
「夕貴は、肌が白いほうがいい?」
「そうだな。ぶっちゃけ男はどっちでもいいけど、やっぱり女の子は肌が白いほうが可愛いと思う」
「そう」
「なんだ、とうとう日焼け対策をする気になったのか?」
「ううん。めんどいからしない。それに夕貴の好みとかどうでもいい」
「……あ、そう」
こいつが俺にいい感情を抱いていないのは知っていたが、こうもはっきり断言されると傷つくなぁ。
「まあいいか。それで師匠、今日の俺はどうだった? 自分で言うのもなんだけど、今日はそこそこ調子がよかったというか、けっこういい動きができてたような気がするんだけど」
冗談げに問いかけると、茫洋としていた美影の目がなぜかキランと輝いた。
「師匠……師匠……」小さな声で、語感を確かめるようにつぶやく。「夕貴、さっきの聞こえなかったから、もう一回」
「は? ……いや、だから今日の俺はどうだったって聞いたんだけど」
「じー」
「確かにまだおまえには敵わないけど、これでも自分なりに過去の反省を生かして、寝る前にはイメージトレーニングをしたりとか……」
「じー」
「……美影?」
「じー」
「…………」
「じー」
「……えっと、師匠?」
「今日の夕貴は、確かにいつもよりマシだった。でもまだ頭で考えようとしすぎ。それじゃ間に合わない」
どことなく嬉しそうな顔で、美影はぺらぺらと本日の感想を述べていく。どうやら師匠という言葉を偉く気に入ったらしい。アドバイスもためになるものばかりで、やっぱり戦闘という分野において彼女は逸材なのだということを再確認した。
「あら、まだやってたんだ。そろそろお昼ごはんができるから、適当なところで切り上げなさいよ」
そのとき、庭とリビングを繋ぐ掃き出し窓からナベリウスがひょこっと顔を出した。夏場の彼女は、薄い青色をしたノースリーブタイプのシャツと、七分丈の黒のパンツという服装でいることが多い。美影とおなじく開放的な服装だが、こちらは胸元のふくらみが半端ではなかった。薄手だから、歩くたびにゆさゆさと弾むのだ。俺も健全な男子なので、ほんと勘弁してほしい。
現在時刻は、十一時半。たしか午前九時ぐらいから庭で特訓してたはずだから、実質二時間以上は運動してたことになる。これまで意識してなかったけど、お昼ごはんができたと言われた途端、腹の音が鳴るのだから不思議なものである。
「むー」
もはやお馴染みとなった猫のような唸り声を上げた美影は、俺の背中に隠れて警戒心マックスの目でナベリウスを睨んだ。やっぱり出会い方がよくなかったんだろうな。あのダンタリオンを苦もなく退けたナベリウスは、美影にしてみれば未知なる存在に思えるのだろう。
「相変わらず嫌われてるわね。わたし、なにか悪いことしたっけ?」
「した。私の目は誤魔化せない。きっとおまえはヘンタイ男をも上回る、最強のヘンタイ女」
「さすが美影師匠だ。洞察力も半端じゃねえな……」
俺がうんうんと頷いていると、「……ちょっと夕貴? わたしはべつにヘンタイじゃないわよ?」と人のベッドに裸で潜り込んでくる銀髪悪魔が優しく笑っていた。ただし顔の筋肉がぴくぴくと動いているところから見るに、内心では怒りを堪えているらしい。
「はぁ、しょうがないわね。ここは美影に誤解を解いてもらうためにも、このナベリウスちゃんが一肌脱いであげよっかな」
「さすがヘンタイ女。すぐ脱ごうとする」
「ねえ夕貴ー? この子、ちょっとオイタが過ぎるみたいだから本気で調教していいかなー?」
パキ、と乾いた音がした。見れば、ウッドデッキに置いてあるペットボトルの中身がカチカチに凍っていた。ナベリウスのやつ、思いのほか本気のようである。もちろん俺は止めない。女同士の喧嘩に割り込むことの恐ろしさは、ここ最近で嫌になるほど理解していたからだ。
笑顔のままナベリウスが庭に出てきた。美影はびくっと身を竦めてから、一歩前に出る。肌を刺すような緊張感が生まれ、庭に吹いていた風が一瞬だけ凪いだ。それと同時に、かたわらにいた美影が地を蹴り、ナベリウス目掛けて駆け出した。
「いい度胸ね。愚かにもわたしに挑もうとする心意気だけは認めてあげるわ、美影ちゃん!」
「美影ちゃんって呼ぶな、このヘンタイ女……!」
類稀なる身体能力を駆使し、果敢にも間合いを狭めていく美影に対し、ナベリウスは飽くまで泰然とした佇まいを崩さない。その余裕に付け入るように、美影は容赦のない奇襲をしかける。左の拳が閃く。空気が鋭く揺れた。だが空気は揺れても、ナベリウスの笑みは微塵も揺れない。小さな舌打ちが聞こえた。攻守が秒刻みで交代しながら、まばたきする暇もない、一瞬が命取りになる駆け引きが繰り広げられる。
ふいに美影が緩急を変えた。小さな身体が地に沈む。深く、強くしゃがみこんだ姿勢から体軸を回し、相手の機動力を削がんと足払いが放たれた。
「甘い甘い。この程度じゃわたしは倒せないわよ」
優越の笑みを口端に刻みながら、ナベリウスは真上にジャンプして相手の狙いを外す。しかし思惑を読まれた程度で動揺するような素人は、この場にいない。
しゃがみこんだ体勢のまま、美影は芝生のうえに手をつき、逆立ちする要領でしなやかな脚を空に伸ばし虚空を蹴りぬいた。もはや呆れるぐらいの体幹バランスである。避けきれないと判断したのか、ナベリウスは両腕を交差させて真下からの蹴りを防ぐ。その身体がさらに宙に浮いた。
「へえ……」
白い陽射しに溶ける銀髪の合間から感嘆の吐息が漏れる。我らが師匠の体捌きは《悪魔》にも通じるものらしい。
やがてナベリウスが膝を曲げて華麗に着地するのと同時に、小柄な影が疾駆していた。反撃の隙など与えないつもりなのだろう、美影の攻めは留まることを知らない。しかし当然ながら、ナベリウスの受けも崩れることを知らなかった。
目にも止まらぬ攻防が続く。拳が、肘が、膝が、脚が、刹那のうちに交錯する。あまりにも美しい格闘の音色。常人の理解が追いつかない洗練された技の応酬。その道の者が生涯を賭けて到達せんと足掻く、武の極地がここにある。華やかな銀髪と艶やかな黒髪が尾を引き、灼熱に晒される庭を彩っていく。俺は静止の声をかけるのも忘れて、ただ呆然とそれに見蕩れていた。
直後、ナベリウスの体勢が崩れた。恐らく芝生に脚を滑らせたのだろう。絶好の隙を見逃さず、美影は間合いをさらに詰めた。黒髪が踊り、槍を思わせる横蹴りが繰り出される。余力を振り絞った渾身の一撃。もし当たれば、さすがの《悪魔》でも相応のダメージは免れない。
「はい捕まえた。わたしの読み勝ちってとこね」
ナベリウスが得意げに笑う。彼女はわきに美影の右足を抱えるようにして挟んでいた。あの一瞬、咄嗟に身体を捻り、腕と胴体のあいだに蹴りを通し、攻撃をかわすと同時に獲物を捕まえたのだ。脚を滑らせたのは演技だったのか。
「ふふふ。さあ、わたしをヘンタイ女と言ったことを後悔させて――げっ」
明らかに妖しいことを企んでいたナベリウスの眉が歪む。なぜなら美影の重心を支えていた軸足が、ふわりと宙に浮いたからだ。さすがの師匠でも、両足が地面についていない不安定な姿勢ではまともな威力の蹴りはできないはずなのに。
「私をちゃん付けしたことを後悔させてやる」
不敵に告げてから、美影は、ナベリウスにがっしりと固定されている右足を”軸”にして、左足を”矛”に変えた。なんて素早い機転だろう。逃げられないのは脚を掴まれた美影も、脚を掴んだナベリウスもおなじ。であれば、先に仕掛けたほうが勝つのは自明の理。
相手の思考をあらかじめ読みきっていたのか、あるいは咄嗟の判断でナベリウスの考えを見抜き、コンマの世界でリードを取ってみせたのか。どちらにしろ美影が《悪魔》を上回ったことに変わりはない。達人同士の勝負とは、刹那の駆け引きによって決するもの。その圧倒的な戦闘センスに、俺は肌が泡立つのを感じた。
「いい線いってるんだけど、惜しいわね」
が、やはりと言うべきか。膨大な戦闘経験を持つナベリウスにとって、不測の事態などあろうはずもなかった。
ナベリウスはぱっと手を離し、せっかく捕まえた獲物をあっさり解放する。動作の最中に軸足を失った美影は、まるで泳ぎ方を忘れた魚のように宙でばたつき、芝生のうえに落下した。どすん、と痛々しい音が響くが、そこは我らの師匠である、ちゃんと受身をとったようだ。
「うー、もう本気だす」
「あら。いちど読み負けたのに、次があるわけないでしょ?」
悔しそうな顔で身体を起こした美影の両肩を、ナベリウスが背後からがしっと掴む。こうして幕引きはあっけなく訪れた。
「は、離せー!」
「ふっ、まあわたしがちょっと本気を出せばこんなものよ。さて、聞き分けのない子にはオシオキが必要よね?」
じたばたともがく美影の耳元で、ナベリウスがぞっとするほど綺麗な声でなにか悪いことを囁いていた。ぎくり、と美影の身体が跳ねたかと思えば、今度はおろおろと周囲を見渡し、俺と目が合った途端、視線で助けを求めてくる。
「ふっふっふー、それ!」
ナベリウスは両手の指をわざとらしくわきわきさせてから、美影の胸をむんずとつかんだ。それも服の上からではなく、タンクトップのなかに手を侵入させるという徹底ぶり。薄い黒地の下で、合わせて十本の指がもにゅもにゅと動き、胸元をわずかに押し上げていたふくらみのかたちを思う存分に変えていく。
「ふむふむ、なるほど。柔らかさは抜群だけど、カップは予想を裏切らないわね」
「ち、違……んっ、やっ!」
珍しく女の子みたいな艶然とした声を上げて、美影は悪魔の手から逃れようとする。しかし人間の身体とは、動作の基点となる部分を効率的に押さえれば、大した力を入れずとも拘束することができる。いくら美影師匠の体術がずば抜けているからと言っても、自分の体格を上回る相手を出し抜くのは至難の業だった。
「……おいナベリウス。美影も嫌がってるみたいだし、いいかげん離してやれよ」
彼女らの絡みを見ないようにしながら、ため息混じりに注意すると、ナベリウスはぴたっと手を止めて、一言。
「夕貴も一緒に調教する?」
「しねえよ!」
そんなところを菖蒲に見られたら今度こそ人生が終わる。ナベリウスは「まあ、ご主人様がそう言うなら従うけどー」と明らかに渋々といった体で美影を解放した。いじめられた猫のように距離を取った美影は、身を丸めて「うー」とショックを受けていた。
「……まったく、なんだかんだ言って仲いいよな、おまえら」
こうして天下の美影師匠は、ナベリウスという偉大な壁にぶち当たったのであった。ちなみに昼食は夏にぴったりの冷やしそうめんだったのだが、
「もうちょっとネギ入れよっかなー」
「――っ!?」
ナベリウスが薬味の入った皿に手を伸ばすと、正面にいた美影は見ていてかわいそうなぐらい身体をびくつかせる。そして猫もかくやの素早さで椅子から立ち上がり、となりに座っていた菖蒲の背後に隠れるのだった。
「むー」
「あの、美影ちゃん? なぜわたしの後ろに隠れるのでしょうか?」
ちゅるちゅると可愛らしくそうめんを啜っていた菖蒲が困惑顔で問いかける。色素の薄い鳶色の髪と、いつも眠そうにした二重瞼の瞳。お嬢様然としたロングスカートが、開けた窓から入り込む風に揺られている。
「あやめは気にしなくていい。私はヘンタイ女から身を護ってるだけ」
「はぁ、なるほど……分かるような分からないような」
むっつりとした顔で応える美影に、きょとんとした顔で頷く菖蒲。俺のとなりではナベリウスが我関せずとそうめんを吸い込んでいる。そんな銀髪悪魔を、我らが師匠は親の敵でも見るような目で警戒していた。窮鼠猫を噛むとも言うし、いつの日か追い詰められた美影が、ナベリウスに対して反乱を起こすのではないかと、ちょっぴり心配だったりする。
****
夜も深まった頃、高臥菖蒲の部屋にはどこか不貞腐れた様子の美影がいた。テーブルの上には冷たい麦茶が入ったグラスとともに、化粧水やら乳液やら保温クリームなどの美容道具が所狭しと並んでいる。
「さて、美影ちゃん。それではお肌のお手入れをしましょうか」
「……めんどい。だるい。眠い」
「駄目ですよ。今日はたくさん紫外線を浴びたはずです。わたしがお手伝いしますから、てきぱきとお手入れを済ませちゃいましょう」
「むー」
一階の客間。ベッドに深々と腰掛ける美影を、菖蒲が苦笑しながら説得している。
この二人は、当初の修羅場が嘘だったように仲がいい。温室で育った菖蒲と、過酷な修練を積んできた美影。性格から生まれ育った環境まで正反対だが、だからこそ惹かれあった部分もあるのだろう。おなじ学校のおなじクラスということもあり、彼女らはすでに親しい関係を築いている。
萩原邸に居候する際、美影が陣取ったのは三階にある空き部屋だった。そこにみんなで苦労して家具を運び込んだのは数週間前のことだが、菖蒲と美影が仲良くなったのもそのときだった。
「あやめ。さっさと済ませて」
むくりと起き上がった美影が、ストレートに下ろした黒髪をちょこちょこといじりながら言った。よく無愛想と言われ、あまり人付き合いに精を出さない彼女も、なぜか菖蒲に世話をされるのは嫌いじゃないようだった。
「はい、それでは化粧水を塗りましょう。じっとしていてくださいね、美影ちゃん」
「うん」
まずはスプレータイプの化粧水を軽く吹きつける。次に、美白効果と保温力に優れた別の化粧水をてのひらに垂らし、美影の肌に優しく馴染ませていく。案の定と言うべきか、美影は「んー、んー」と猫のようにむずがっていたが、菖蒲はお構いなしにてきぱきと作業を進めていく。
「終わりました。次は乳液ですね。乳液を塗り、油膜を張ることで、お肌の水分が蒸発するのを防ぐことができます」
えっへん、となぜか誇らしげに胸を張って解説する。ただでさえ目立つ胸元の豊かなふくらみが、寝巻きのボタンを無理やり外さんばかりに盛り上がる。基本的に彼女は、誰かに尽くすことに喜びを覚えるタイプだ。それは美影の世話をすることも例外ではない。
それから数分後、しっかりとスキンケアをされた美影は、べたべたとする肌に慣れないらしく、居心地の悪そうな顔をしていた。
「あやめ。これ、いつになったら落とせる?」
「明日の朝です。……前から疑問に思っていたのですが、もしかして美影ちゃんは、いままでお肌のケアをしたことはないのでしょうか?」
「うん」
「の、ノーケアでこんなにきれいなお肌を……うぅ、わたし、自信がなくなっちゃいました」
ぐすんぐすん、とわりと本気でにじむ涙を拭い、菖蒲は世の理不尽さを呪った。
「でも美影ちゃん。次からは、ちゃんと日焼け対策をしないとだめですよ? なにかトラブルがあってからでは遅いですからね」
「……ん」
美影は曖昧に頷いてから、くるりと背を向けた。それは暗に「面倒くさい」と言っていることを、菖蒲はこの短い付き合いのなかで学んでいた。
「せっかく美影ちゃんはきれいな色白の肌をしているのですから、日に焼けちゃうのはもったいないかと。お肌を黒くするのは簡単ですが、もとの白さに戻すのは時間がかかりますし」
「……きれいな色白の肌」
「そうです。きれいな色白の肌です。美影ちゃんが肌のお手入れを疎かにするのは、タイヘンな損失だと思います」
「…………」
「美影ちゃん?」
なにか引っかかるものがあったのか、美影はどこか物憂げな顔で虚空を見つめていた。はて、いったいどうしたのだろう、と菖蒲が首を傾げていると、
「あやめ。次からは、私に日焼け止めのやつ塗って」
これはもしや、わたしの想いが通じたのでは。どんな心境の変化があったのかは分からないが、ようやく美影は日焼け対策をする気になったようだ。菖蒲は密かに心のなかでガッツポーズをした。
「もちろんです。美影ちゃんが望むのなら、わたしに異存はありません。女の子にとって紫外線は天敵ですからね」
「べつに日焼けとかどうでもいい」
「はい? ではなぜ日焼け対策を?」
「……なんとなく」
「はぁ、なんとなくですか……」
美影の言動は明らかに矛盾していたが、菖蒲は気にしないことにした。実際のところ、本人もなぜ日焼け対策をしようと思ったか分かっていないようだった。美影の突然の心変わりには驚かされたが、それもまあ日に焼けた肌がぴりぴりして痛いとか、そういう単純な理由なのだろうと菖蒲は自分を納得させた。
こうして萩原邸の夜は更けていく。何が起こっても変わらない、彼女らなりの、彼女らだけの幸福な日常がそこにはあった。