うだるような暑さに見舞われた峰ヶ崎(みねがさき)大学は、四月の頃と比べるといくらか活気が薄れているように見えた。道行く学生たちはひたいの汗をぬぐいながら、足早に冷房のかかった教室へと急ぐ。鳴り響く蝉の合唱が、本格的な夏の到来を告げていた。
体育館の壁にかかっている大きな時計が、あと十五分ほどで一限目の講義が始まることを示している。バスケットコート二面分のだだっ広い空間には、すでにバレーボール用のネットが二つ立てられ、暇を持て余した女子たちが黄色い歓声を上げながらボールで遊んでいた。
俺が大学において専攻しているのは経済学だが、卒業に必要な取得単位数のなかには『体育』がもれなく含まれている。ちょうど今日は、一限目からバレーボールの講義があった。
「ねぇ萩原。あんた、ここ最近学校休んでるみたいだけど、なんかあったの?」
体育館シューズの靴紐を結びながら、藤崎響子(ふじさききょうこ)は言った。活発さを伺わせる勝気な目と、癖のないショートカットの黒髪。身長はやや高めで、手足もすらりと長い。その恵まれた体格と優れた運動神経を見込まれて、高校時代は女子バスケ部のキャプテンを務めていた。
「あぁ、まあ色々あったな。悪魔が添い寝してきたり、予知っ娘が押しかけてきたり、自称ニーデレとか名乗る女の子と共闘したり」
「……頭、大丈夫? とりあえず保健室でも行ってきたほうがいいんじゃない? それとも、嘘をついてまで隠したい事実があるってことかしらね」
自分で口にしても荒唐無稽としか思えない出来事の羅列だ。あえて嘘偽りを交えず赤裸々に語ってみたが、案の定、藤崎は冗談だと解釈したようだった。俺のとなりでじっと考え事をしていた彼女は、やがて「ははーん」と意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど、そういうことだったのね。悪いけど萩原、あんたの秘密はたったいま秘密じゃなくなったから」
「は? 秘密?」
「もうっ、とぼけちゃってっ、この色男! どうせあれでしょ、可愛い彼女ができたとかそういうオチでしょ? 思わず大学をサボっちゃうぐらい、熱々の恋愛をしてると」
このこのー、と意味ありげに肘でつついてくる。ほどなくして藤崎は、打って変わって朗らかに目元を和らげた。
「ま、萩原のことだから健全な恋愛してると信じてるけどさ。ちゃんと相手の子の門限とかも気遣ってあげないとだめだかんね? なんかあったら相談乗ったげるから、いつでも言いなよ」
とてつもなく気持ちいいことを言われてしまった。実際のところ、俺を茶化したのは友人に恋人ができたことに対する様式美のようなもので、本音では純粋に祝福してくれていたのだろう。この居心地のいい距離感は、高校のときから変わっていない。
彼女と一緒にいると、いい意味で気を遣わなくて楽だ。竹を割ったようにすっきりとした性格には、しかし絶妙な塩梅で年頃の女性らしい淑やかさも散見される。男子からも女子からも好かれるのは、そうした気質が所以だろう。俺たちが高校三年の頃、クラスの委員長としてまわりを引っ張っていたのは伊達じゃない。
「そういやさ。玖凪のバカはなにしてんの? あいつも最近休みがちだよね」
「俺が聞きたいぐらいだよ。何度か連絡してるんだけど、一向に返事が来ないし」
「……はぁ、そっか。どこほっつき歩いてんのかしらね、あいつ。また余計な面倒起こさなきゃいいけど」
不機嫌そうにぼやく顔は、俺の気のせいでなければどことなく寂しそうに見えた。そんな藤崎の不安を和らげるように、あるいは心労を募らせるように、くだんの男が体育館に姿を見せた。
明るめに脱色した髪が、窓から差し込む光芒に輝いている。引き締まった端正な顔立ちは、だらしなく緩んだ口元のせいで本来は抱くはずの好印象を台無しにしていた。左耳に空いたピアスがその最たる例だろう。身長も高く、体育館にいる学生のなかでも目立っていた。
玖凪託哉。それが俺の親友であり、藤崎響子の同級生でもある男の名だった。
「よぉ夕貴ー。実はこないだ、街でOLのお姉さん二人をナンパしちゃってさー。初めは手応えなかったんだけど、夕貴の写メ見せたら途端に連絡先教えてくれちゃったりなんかして……」
さっそうと現れた託哉は、しかし藤崎の姿を認めると笑顔のまま見事に石化した。そして、くるりと背を向ける。
「あー、なんかオレもうすぐ急用できるっぽいから帰るわ。んじゃ、そういうことで……」
「待てこの女の敵。あたしに挨拶もしないなんて、ちょっと冷たくない玖凪くん?」
不自然なまでに優しい声とともに藤崎は手を伸ばし、逃亡を図った託哉の首根っこをつかんだ。実にいつもの光景である。託哉は肩を落とし、これみよがしに渋面を作った。
「ちっ、口うるさい委員長に捕まっちまった。夕貴ちゃん。OLのお姉さんのうち一人は食べてもいいから、オレを助けてくれよ」
「……藤崎。こいつの性格を存分に矯正してやってくれ。なんなら俺も手伝うから」
久々に会ったというのに、いきなり友人をちゃん付けときた。なんて失礼な態度だろうか。心配して損した。もう俺は託哉のことなんて知らないのだ。
「よろしい。あたしに任せなさい。玖凪を真人間にしてあげるから」
「おいおい。せっかくの楽しいキャンパスライフなのに勘弁してくれよー」
唇を尖らせて文句を言う託哉のことなどお構いなしに、藤崎は話を進める。
「そんで、あんたはなんで学校休んでたのよ? 面白くないこと言ったら許さないからね」
「べつに何でもいいじゃん? どうしてもオレが大学を休んでた理由が欲しいってんなら、巨乳の美女と一夏のアバンチュールを楽しんでたってことで納得してくれ」
「バカ。調子のいいことばっか言ってるとしまいに怒るよ?」
「へー、もしかして嫉妬してんの委員長? 自分には男がいないからって、幸せを掴もうとしている人間の足を引っ張るのは止めてもらいたいんだけどなー」
「うっさい! あんたにだけは、あたしの恋路についてとやかく言われたくないね! あとその委員長っての止めな! あたしが委員長だったのは、三年の前期だけ! 後期は武山だったでしょ! 大体あんた、いまから体育なんだから早く着替えてきなさいよ」
この体育館に集まっている学生は、俺や藤崎も含めてみんな運動に適した服を着ている。でも託哉は、なぜか普段着のままだった。女子バスケ部の主将を務めていた藤崎からすれば、それは見過ごせないことなのだろう。
「いや。オレはこのまま講義を受ける。着替えるの面倒だし」
素っ気無く言って視線を逸らす。藤崎が、やれやれ、と肩をすくめてため息を漏らした。
「ようやく大学に来たかと思えばすぐこれなんだから。朝から無駄なカロリー使わせないでよ。もう子供じゃないんだから、ワガママ言ってないで早く着替えてこいバカ凪」
「考えてみろよ。オレの露出が増えれば、女の子たちが運動どころじゃなくなるだろ?」
「寝言ほざいてないでとっとと着替えろー!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、藤崎は託哉の服に手をかけると無理やり脱がそうとした。いまさらこの両者の間に恥じらいなんて上品なものがあるはずもない。が、その瞬間、託哉の顔に浮かんでいた人懐っこい笑みが消えた。息を呑む気配。普段の軽薄な振る舞いからは想像もできないほど素早い動きで、託哉は、面倒見のいい委員長の細い腕をつかんだ。でも、それは少しだけ遅かった。
「……え?」
驚きが、か細い吐息となってこぼれる。生き生きとしていた藤崎の表情が、あっという間に曇っていく。まるで青天の霹靂だと思った。いまにも雨が降りそうなほどに、彼女の瞳は不安げに揺れていたから。
「あんた、それ……」
まくれあがったカットソー。託哉の上半身。幾重にも巻かれた白い包帯。ちょっと道端で転んだ、という度合いではありえない、物々しい治療の痕跡がそこにはあった。ここ最近、託哉とはまったく連絡が繋がらなかった原因がこれなのだろうか。
「そろそろ離せよ。さすがのオレも、公衆の面前でストリップする気はねえって」
「で、でも、それって……大丈夫なの、あんた?」
弱々しい声。いつも人の目を見て話をする彼女が、いまはひっきりなしに視線を泳がせている。託哉が衣服の下に隠していたのは受療の名残。他人のデリケートな領域に踏み入ってしまったのだ。藤崎にしてみれば申し訳なさでいっぱいだろう。
「大丈夫じゃなかったら学校に来るわけねえだろ。それに、こりゃあれだ。車に轢かれそうな美人のお嬢さんを身を挺して庇ったときにできた傷だったりするんだよ」
「……その、ごめん。あたし、あんたが酔狂で学校サボってるって勘違いしてた。配慮が足りてなかったよ」
藤崎は頭を下げて訥々と謝った。不和により生じた沈黙が、重苦しい空気に拍車をかけている。そこかしこから聞こえる賑やかな喧騒が、俺たちの間に流れる静寂をより顕著なものとしていた。
藤崎響子という女の子は、いつも眩しいぐらい正しい。責任感が強く、自然とみんなから慕われるような人柄。高校の頃、素行に問題のあった託哉を厳しく、そして優しく叱りつけて彼女なりの道を示そうとした。俺も何度か、困ったときは相談に乗ってもらったりした。クラスメイトとはいえ、他人のためにここまで親身になれるのは珍しい。
でも、だからこそ自分が間違ったときは強く反省する。それも今回のケースは、託哉の事情を知らずに藤崎が勝手に非難した形だ。沈痛な面持ちになるのも頷ける。
「はっ。なに女みたいなツラしてんだよ委員長」
可笑しくてたまらないと、託哉は吹き出した。この状況で笑うのは、いささか緊張感が足りていないかもしれない。だが付き合いの長い俺には分かる。こいつの口からこぼれた笑いには、嘲りの意などこれっぽっちもないと。こいつは意味もなく嘲笑などしないと。少なくとも、可愛い女の子のまえでは。
「いいか、響子ちゃん。さっきも言ったように、これは悪党に命を狙われる大人っぽい美女を助けたときに負った傷なんだ。いわゆる名誉の負傷ってやつ?」
「……さっきと言ってること変わってるじゃない」
「まあ細かいこと気にすんなよ。女が悩んでいいのは、惚れた男が浮気してるかどうかって案件だけだぜ?」
おどけるように託哉が破顔する。その人懐っこさに毒気を抜かれたのか、藤崎は短く切りそろえた黒髪を気だるげに掻き上げながら相好を崩した。
「……はは。あんたと話してると、落ち込んでた自分が滑稽に思えてくるから困るね」
「それでいいんじゃねえ? 響子ちゃんは、落ち込んでる顔よりも笑顔のほうが可愛いと思うけどなー」
「バーカ。あたしを口説こうなんて百年早いよ」
「ちっ、バレたか。この機会に響子ちゃんを一人前の女にしてやろうかと思ったのによー」
「だから馴れ馴れしく下の名前で呼ぶな! バカ凪のくせに!」
そうこうしているうちに、また中身のない、けれど決して無駄でもない喧嘩が始まった。実のところ俺は、この二人の関係が好きだったりする。遠慮のない男女間の友情って、見ていて気持ちいいよな。まあ本人たちは「友情じゃない!」と否定するだろうけど。
やがて講義開始を告げるチャイムとともに、名簿をわきに抱えた体育教師がやってきた。集合の合図がかかる。
「なあ託哉。おまえ、その怪我どうしたんだ?」
「んー?」
散らばっていた学生が一箇所に集まる最中、退屈そうにあくびをする託哉に声をかけた。
「藤崎にはああ言ってたけど、さっきの包帯の巻き方を見るに、ちょっと転んだとかじゃないよな?」
「まあな。これは建物の屋上から落ちた美少女を颯爽と抱きとめたときの傷だ。羨ましいだろ?」
「ふざけるなよ。ここ最近、ずっと連絡が取れなかったし……」
「オレのことがそんなに心配か、夕貴ちゃん?」
「……あのなぁ。俺は真面目な話をしてるつもりなんだぞ」
「安心しろよ。核ミサイルか隕石でも降ってこないかぎり、おまえらのことはオレたちが護ってやるから」
おまえらのことは、オレたちが護る。これだけ聞けば格好のいい台詞だが、しかし俺は騙されない。託哉が手を尽くすのは、きれいな女の子が関わっている案件だけ。事実、菖蒲が誘拐されたときも今までにないぐらい協力的だった。つまり。
「おまえらって……どうせナベリウスと菖蒲だけが目当てなんだろ?」
「惜しい! 大本命は小百合さんだったりして。あの人、マジで美人だよなー」
「んだとコラぁ!? てめえ俺の母さんに指一本でも触れてみろ! そんときは冗談じゃなくマジでぶっ殺すぞ!」
わりと本気で怒鳴ったのだが、ぬらりくらりとかわされてしまう。相変わらずキャラが掴みにくい野郎である。結局、怪我の理由も聞きそびれてしまった。
こいつは女好きで、何を考えているか分からなくて、俺の母さんの入浴シーンを覗こうとしたこともあるぐらいアホなやつだけど、それでも大切な親友なのだ。もし困っていることがあったら、俺は相談に乗る。解決まで導いてやる。たとえ託哉にどんな事情があったとしても、俺たちが親友であることに変わりはないのだ。
「……なるほど。やっぱりか」
あごに手を添えて託哉がつぶやく。その目に宿るは怜悧な光。視線の先には、抜群の運動神経で華麗に活躍する藤崎の姿。体育館中にいる男子が、いや女子ですら、きらきらとした汗を流しながら動く藤崎に見蕩れていた。
「どうしたんだ? そんなにマジな顔して」
「夕貴。あれを見てみろ」
有無を言わせぬ迫力に負けて、俺は託哉の指示に従った。藤崎が跳ね回るたびに、白い半袖のシャツがまくれあがり、ちらちらと滑らかな腹部が見える。
「バっカ。ちがうちがう。それじゃねえ。あれだよ、あれ」
「だからどれだよ。藤崎のことじゃないのか?」
「もちろん響子ちゃんのことさ。んでもって、オレが注目してんのは――」
そこでようやく気付く。いまは夏場。気温はかるく三十℃を越えている。つまり運動をすれば相応の汗を流す。藤崎のすらりとした身体にシャツがぴっちりと張り付き、薄い水色のブラジャーが透けている。どうりで体育教師までニヤけてるわけだ。
「オレの下着予報によると、今日の委員長は水色系統のブラとショーツをつけるはずだったのさ。どうよ? この絶対の的中率。まあ近いうちに、響子ちゃんはオレの指示する下着しか身に着けられなくなるぐらいオレに夢中になるから、そんときはもっと――」
そのとき。凄まじいスピードで飛来してきたバレーボールが、得意げに俺のほうを向いていた託哉の横っ面にクリーンヒットした。託哉は無言のまま床に沈んでいく。
「――丸聞こえだっつーの! 死んでもあんたにだけは夢中にならないわよ! そこで講義が終わるまで反省してろ、バカ凪!」
なんとも見事なスパイクだった。ただし得点は、藤崎の相手チームに入った。
午後三時過ぎ。その日の講義にすべて出席し終えた俺たちは、食堂棟の最上階に位置するカフェに集まっていた。冷房のもたらす人工的な心地よさと、壁一面に張られたガラスから入り込む太陽光の自然的な安らぎが、店内をゆったりと包み込んでいる。
うちわ片手に窓のそとを眺める託哉と、知り合いから借りたノートを写すのに必死な俺の対面には、疲れた顔でオレンジジュースを吸い込む藤崎が座っている。今日一日の講義が被っていた俺たちは放課後になっても行動をともにしていた。
そんな、あまり盛り上がっているとは言いづらい雰囲気の中に、やおら芝居がかった声音が響いた。
「僕は思うわけだよ。この世で一番美しいものはなんだろうって」
視線を上げると、俺たちが陣取っているテーブルの前に、清潔感に溢れた好青年が携帯を持って立っていた。さっぱりとした短髪に、おしゃれな伊達めがね、流行を取り入れたファッション。内村竜太という名前の彼は、親しい者からはうっちーというあだ名で呼ばれる。
「ごめん、うっちー。もうちょっと汗が引いてからじゃないと騒ぐ気になれないってのが正直なところなのよねー」
憔悴した様子の藤崎が答えた。右手でぴしゃりと頭部を叩き、うっちーは大げさに嘆息する。
「分かってないね、藤崎くん。疲れているからこそ、疲れているときにこそだよ。いまから僕が、君たちに最高の癒しを提供してあげよう。この世で一番美しいものは、これだ!」
ふふふ、と謎の笑みを湛え、握り締めていた携帯を印籠でも見せつけるが如く、俺たちの眼前に突き出した。液晶に映っているのは、色素の薄い鳶色の髪を揺らす可憐な少女だった。何を隠そう、女優『高臥菖蒲』の画像である。相変わらず俺ですら舌を巻くほどの熱狂ぶりだ。しかし気分の高揚を隠せない男性陣とは裏腹に、藤崎は頬杖をついて呆れ顔をあらわにしている。
「また出た。それもう見飽きたわよ」
「見飽きた……だって!? 言論の自由が許されてるからって、それだけは言っちゃだめだろう! よく見てくれよ、この天使のごとき微笑を浮かべる菖蒲ちゃんを! 僕なんか興奮を通り越して新たな境地を拓けそうになるよ!」
「だーかーら、それも聞き飽きたってーの」
うっちーが顔を赤くして力説しても、彼女の表情が晴れることはなかった。まあ藤崎が芸能人のことで騒いでいるのはほとんど見たことがないから、仕方ないといえば仕方ない。
「くっ、なんて面白くないやつなんだ!」彼女の攻略は適わないと見たのか、伊達めがねの似合う友人はこちらに視線を向けてきた。「萩原と玖凪からもなんとか言ってやってくれよ! 菖蒲ちゃんは可愛いよな!?」
俺はノートを模写する手を、託哉はうちわを扇ぐ手を、それぞれ止めた。
「そんなの当たり前だろ。俺の母さんに誓って、菖蒲は可愛いと断言できる」
「確かに、あのおっぱいの破壊力はやばいよな。一度でいいから、後ろから手を入れて思う存分に揉み揉みしてみたいっつーか」
俺が強く同意すると、続けて託哉も深く頷いた。悲しいかな、男という生き物はいつだって可愛い女の子には弱いのだ。
元はといえば、うっちーこと内村竜太とは大学の入学式のオリエンテーションで知り合い、そのまま仲良くなった。会話のきっかけは、うっちーの携帯の待ちうけに設定されていた『高臥菖蒲』の画像。一人の女優を応援する同志として、俺たちが友人となるのは時間の問題だった。
「ダメだね! ぜんぜんダメだ! 君たちの心意気や良しと言いたいところだが、しかし僕たちの天使を呼び捨てにするのは許せんなぁ同志萩原! 菖蒲じゃなくて、ちゃんと”菖蒲ちゃん”と呼ばないと罰が当たるぞ!」
「あ、悪い。これからは気をつける」
つい癖で菖蒲と呼び捨てにしてしまった。世間的に見ればあの予知っ娘はかなりの有名人なのだ。事情を知らない人の前で、親しげに名を呼ぶのは得策じゃないだろう。
「そして罪深きはおまえだ、玖凪! 菖蒲ちゃんだけが持つ、あの天元の果実を揉みたいと口にするなんて万死に値するぞ!」
「じゃあ、うっちーは揉みたくねえのか? あのけしからんおっぱいを。いや、あそこまでいくと、もはや”けしからん”じゃなくて”だらしのない”おっぱいと言うべきだな。もう一度だけ聞こう。おまえは揉み揉みしたくねえのか? あの、だらしのないおっぱいを」
「……ひ、卑怯だぞ玖凪! 僕を貶めるつもりか! そんな脅しに屈するほど、僕の愛は弱くないぞ! 僕はおっぱいもひっくるめて、菖蒲ちゃんのことが好きなんだ!」
「なるほど。揉みたいと」
託哉がささやく甘言のまえに見事敗北したうっちーであった。
「まあ気持ちは分かるけどなー。あの巨乳を好きに揉みしだける野郎がいたとしたら、オレはそいつを絶対にぶっ殺すわ。なあ、夕貴?」
よりにもよって、ここで俺に話を振ってくるとは。さすが託哉、うざすぎる。自分が楽しむためなら親友でさえも見捨てるのか。いや、もしかすると、これは復讐なのかもしれない。託哉が何に対して怒っているかは想像したくもないけど。
刻一刻と悪化する動悸を悟られないように、俺は頷いた。
「……だ、だよなっ! ぶっ殺すよな! そのときは俺も参加するから呼んでくれ!」
「オッケー。絶対に呼ぶから、絶対に来いよ。なにが起こるから分かんねえから、ちゃんと遺書も遺しとけよ。分かったか?」
「……う、うん」
「萩原? どうしたのよ。そんなに汗かいて」
オレンジジュースをずずっと吸い込みながら、藤崎はじっと俺の顔を見つめていた。もちろん俺は何も言わず男らしい態度を貫いた。
「にしても、男って生き物はどうして女の胸にこだわるかな。これ、そんなにいいもんじゃないよ?」
自分の胸に目線をやりながらぼやく。藤崎はすらりとした身体をしていて、お世辞抜きにスタイルは抜群だと思うが、胸は平均ほどしかない。
「おいおい正気かよ。いま響子ちゃんは、世の男をすべて敵に回したぜ」
託哉の顔は、いままで見たこともないぐらい真剣だった。こいつは女絡みのことになると無駄に頑張るのだ。
「それはさすがに大げさでしょ。胸なんて大きくても邪魔なだけだと思うけどね。ていうか何度も言ってるけど、あたしの彼氏でもないあんたが馴れ馴れしく響子ちゃんって呼ぶな」
これまで女性とバストについて議論などしたことはなかったが、もしや世の女性はみんな自分の胸を邪魔だと思っているのだろうか。そういえば菖蒲も胸が大きいのを気にしてるとか言ってたな。
しばらく議論は続いたが、どうあっても乳房を軽視する藤崎のスタンスは変わらない。業を煮やした託哉が苛立ちを隠そうともせずに告げる。
「はーあ、これだからおっぱいで勝負できない女は嫌なんだよなぁ。いいか、響子ちゃん。巨乳はファンタジー、貧乳はリアリティなんだよ。人間って生き物は、現実よりも理想を追い求めるわけ。分かったらとっとと男に揉んでもらってファンタジーを目指せ。相手がいねえならオレが直々に手伝ってやるから」
あれ、なんかどこかで聞いたことがあるような言葉だな……気のせいか? もしかして有名な名言だったりするのだろうか。
「またバカなことを言い出したわね。あんたと話してると頭が痛くてしょうがないんだけど。それに間違っても玖凪にだけは指一本、触れさせないからね」
両手で胸を隠し、椅子を大きく後ろに引いて距離を取る藤崎。さらりと揺れるショートカットの黒髪の隙間からは、勝気な目が威嚇するように細められているのが見える。ポロシャツにジーンズという動きやすさを重視した服装で、袖と肌の境目はかすかに日焼けして色が変わっている。
控えめに見ても、藤崎は美人だと思う。高校の頃も男子バスケ部の連中を中心にかなりモテてたし。これは冗談みたいな話だが、バスケの公式時代で偶然にも撮影された藤崎の写真(ユニフォームの隙間からブラチラしてる)が男子の間ではかなり有名だったりする。たった一枚の写真に、バカみたいに歓声を上げて拳を掲げるのが男という生き物なのだ。男のなかの男である俺が言うのだから間違いない。
託哉と藤崎が冷戦を続けている間にも、菖蒲の大ファンを自認するうっちーは携帯の待ちうけを見つめながら詩的なことを囁いていた。
「あぁ、菖蒲ちゃん……咲き誇る花よりも可憐な顔立ち、美しいガラス細工よりも繊細な佇まい、流れる水よりも清らかな声……くっ、まずい。菖蒲ちゃんのことを考えていたら家に帰って写真集を見たくなってしまった!」
うっちーの愛は、冷たい戦争を終結させるほどの奇跡を起こしたのか、託哉と口論していたはずの藤崎がしょうがないなぁと苦笑した。
「うっちーって、ほんとに高臥菖蒲のことが好きだよね。萩原よりも熱狂的なんじゃない?」
「それは違うよ。菖蒲ちゃんを応援するファンには、上も下もないんだ。みんな等しく、一人の女優さんに憧れている仲間なんだよ。僕たちは、ファミリーなのさ……」
いまにも天に上りそうなほどの朗らかな笑顔だった。窓から差し込む陽の光が、キラキラと彼を照らし上げている。これほど美しいうっちーは初めて見たかもしれない。
「あれは忘れもしない。僕が勇気を出して、初めて菖蒲ちゃんの握手会に行ったときのことだ。緊張して手と足が同時に出ていた僕に、菖蒲ちゃんは白魚のような指を差し出して、こう言ってくれたんだ。『そんなに緊張なさらなくてもよろしいですよ。わざわざご足労いただき、どうもありがとうございます』ってな! くはー! 菖蒲ちゃん可愛すぎるだろマジで! ちなみに握った指は、思わず顔面の筋肉が痙攣するぐらい柔らかかったよ!」
自分の体を抱きしめて、いやいやするように首を振る。間違いなくいい奴なのだが、ちょっと菖蒲のことを好きすぎるのが玉に瑕だ。
「なぁ夕貴。おまえ、事情を説明するなら早いほうがいいんじゃねえ?」
うっちーの暴走を呆れ顔で見つめていた託哉が、俺に耳打ちしてくる。
「……確かに、なぁ」
実を言うと、俺もまったく同じことを考えていた。うっちーと藤崎は、以前から萩原邸に行ってみたいと口を揃えて言っていた。いままではそれとなく理由をつけて断っていたが、そろそろ彼らの要望を無碍に却下するのも限界だった。ナベリウスたちのことをいつまでも隠しきれるとは思えないし、頃合を見て萩原邸に居候している愉快な同居人のことを紹介したほうがいいかもしれない。
「コラそこ! 僕はまだ菖蒲ちゃんの魅力を語り終わってないぞ! これからが本番だということをじっくりと教えてやる!」
俺と託哉が小声で会議をしていると、うっちーの怒号が飛んだ。どうやら途方もない使命感に燃えているようである。実際、彼ほど菖蒲のことに通暁しているファンも珍しいだろう。
延々と続く女優『高臥菖蒲』の話。いくつか旬の話題を語り終えたうっちーは満足げにアイスコーヒーを口に含んだ。ひとつの仕事を終えた男の姿がそこにはあった。
「はあん。男って女の話をし始めると長いよね。それよりあたしは、リチャード・アディソンのほうが興味あるよ」
その名が出た瞬間、みんなの顔色が変わった。興味ありげに伊達めがねを押し上げるうっちー。目を細めて押し黙る託哉。俺はおぼろげな記憶を頼りに話を繋げる。
「……それって確か、外国出身の実業家の名前だよな? 情報処理分野において画期的かつ斬新なアイデアで大きなシェアを獲得し、莫大な資産を築き上げたって。情報マネジメント論の講義で先生が事例として挙げてたような記憶があるけど」
「そうよ。しかもリチャード・アディソンって、ほとんど人前には姿を見せないって話じゃない? よく芽衣とか彩ちゃんとお昼を食べるときに話題に上るのよね。まあ若い女の子の間だとリチャードさんは美男子に間違いない、って決め付けられてるけどさ」
あははー、と藤崎が頬を緩めると、託哉の口から失笑がこぼれた。
「女って、いくつになってもそういうの好きだよなー。まさか委員長が男に興味を持つなんて夢にも思わなかったけどよ」
「うっさいバカ凪。年中、女の尻を追いかけてるあんたにだけは言われたくないわよ。そんで話は戻るけどさ、そのリチャードさんが、近々来日するって話なのよ」
「あー、やっぱ委員長から男の話を聞かされても違和感しかないわ。年中、女の尻を追いかけてるオレが言うんだから間違いないぜ」
背もたれに深く身体を預けた託哉が、皮肉げにつぶやく。藤崎の動きがぴたりと止まる。こめかみがぴくぴくと痙攣していた。
「玖凪くーん。それはどういう意味かなー。つーか委員長言うな!」
「そりゃ悪かったな委員長」
「ねえ萩原、うっちー。あたし、こいつのこと殴っていいかな? グーで」
「怪我人を殴んのかよ。ひでぇ委員長だな」
「うっ……そ、それを言われると、あたしも手が出せないような」
「ひとつ、忠告しといてやるよ。リチャード・アディソンには関わらないほうがいいぜ」
投げやりに託哉は言った。それは一見、藤崎への当てつけのようにも思えるが、しかし付き合いの長い俺には託哉が冗談を口にしているようには感じられなかった。ごうごうと自己主張する冷房の音が、俺のなかに浮かんだ微かな違和感をすこしずつ消していった。
あと二週間もしないうちに期末試験が始まる。この時期になると、キャンパス内に設置されているコピー機の前には講義中にも関わらず行列ができるようになる。俺の場合、さすがにノートは自分で書き写すけど、講義中に配布されたプリントまでは模写できない。コピー機を使いたいのは山々だが、大学ではその機会を手にいれることは出来そうにないのだ。
だが萩原邸には、俺が高校入学と同時に母さんが買ってくれたカラープリンターがあるので、帰宅すれば無料でコピーすることができる。コンビニを利用してもいいけど、金がかかるうえに人の目があるところで地道に作業を続けるのも落ち着かないしな。
「……なんだよ、おまえら?」
ドリンク一杯でいつまでも居座るのはマナーが悪いということで、俺たちは解散することになった。しかしカフェを出ても、食堂棟から離れても、大学の正門を抜けても、みんなは俺から離れなかった。むしろ当然と言わんばかりに、あとをついてくる。
「いやぁ、なんだよって言われてもねえ?」
「僕に他意はないんだ。ただ菖蒲ちゃんを愛する同志として、もっと萩原と語り合いたいと思ったんだよ」
「久しぶりにナベリウスさんの顔でも見に行くかー」
揉み手をしながら擦り寄ってくる藤崎。うっちーはなぜか俺から微妙に目を逸らしている。そして託哉は、わざとらしく言いながら萩原邸の方角に向かって歩いていく。
「ちょっと待ておまえら。あらかじめ言っておくけど、俺の家にはついてくんなよ?」
最高に嫌な予感がしたので、前もって釘を刺しておくことにした。託哉はともかく、他の二人は隙あらば萩原邸に来ようとするから。
藤崎とうっちーは顔を見合わせたあと、示し合わせたように頷いてから、にんまりと意地汚い笑顔を作った。
「まあでも? なんだかんだ言って萩原っていいやつだからさ。きっとあたしたちの頼みも聞いてくれるよね」
「うんうん。萩原は、菖蒲ちゃんを応援する同志を見捨てるような男じゃないしね。初めて会ったときから、僕は萩原のことを信じてたよ」
まずい。なんか徐々にみんなを萩原邸に連れて行かなければならないノリが形成されているような気がする。二人の言葉を聞いた託哉は、満足そうに頷いた。
「よく分かってるじゃん二人とも。夕貴は『わたしはあなたと結ばれる未来にあります』とか言って押しかけてくる美少女をも温かく迎え入れるような男だからなー」
「ぷっ、はははは! 冗談は止めてくれたまえよ玖凪くん! そんな電波を受信してるとしか思えない女の子、この世にいるわけないじゃないか!」
ツボに嵌ったのか、うっちーは腹を抱えて笑い転げている。あとで絶対、本人に告げ口してやろうと俺は心に誓った。
結局、俺にはこの三人の波状攻撃を捌ききれなかった。以前から「でかいと噂の萩原邸を見てみたい」と会うたびに口にしていた藤崎とうっちーは、俺の許可が出るや否や大層喜んでいた。表向きの理由は、大量に溜まっているプリントをコピーしたり試験対策をするためだが、藤崎たちの目は勉強ではなくイタズラをする子供のそれだった。
真面目な話、いつかはバレるだろうと思っていたので、これを機にみんなにも萩原邸の現状を知ってもらったほうがいいかな、と俺は前向きに考えることにした。ただナベリウスと美影はともかく、菖蒲のことを説明するのは骨が折れそうだけど。
この選択が吉と出るか、凶と出るか。おみくじでは”凶”を引く確率は三割ほどらしいが、それは裏を返せば十回中七回はセーフでもあるということだ。初っ端から”凶”を引くなんて、よほど運に見放されたやつだけに決まってる。
俺は大丈夫だ、きっと。
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愛華女学院の校舎は、明治初期から連綿と受け継がれてきた伝統ある学び舎だが、しかしその外観は古色蒼然とした歴史を伺わせない。幾度かの改築を経た結果、くだんの女学院は年月がもたらす貫禄と、最新の建築技術が生み出した住み心地を同時に手に入れていた。いくら名門と言えど校舎は木造建築ではないし、とうぜん教室には最新の空調設備が取り付けられている。敷地面積は大学のそれに匹敵するほど大きく、警備体制も万全。その有りようは由緒正しい女学院に相応しい、荘厳たる重みを漂わせている。
放課後の教室では、一日の授業から解放された女生徒たちが気楽に、されど淑女としての嗜みを忘れずお喋りに興じている。口元に手を当てて微笑む仕草は、年頃の女子としては上品に過ぎるが、ここ愛華女学院ではよく見られる光景だった。
「ご、ごきげんよう壱識さん。もう放課後になったよ?」
窓辺の列の一番後ろ。教師の目が最も届きにくいその席は、入学したときから七月の現在に至るまで壱識美影が陣取っていた。美影は広げたノートのうえに頬を乗せ、それはもう気持ちよさそうに眠っている。小さく開いた唇から垂れたよだれが、なにも書かれていない紙に染みを作っていた。
「んん……」
クラスメイトから声をかけられた美影は、むずがゆそうに目をこすりながら身体を起こした。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、口元のよだれを拭ってから、ようやく自分の置かれた状況を理解する。
「……なに?」
美影の周囲には、黒を基調としたセーラー服に身を包んだ女子が十人ほども集まっていた。彼女らは好意と遠慮を足して二で割ったぐらいの態度で、じっと美影のことを見つめている。
「……ファイトですよ、美影ちゃんっ」
高臥菖蒲は、教室の端からその光景を見守っていた。謎の使命感に満ちた顔で、ぎゅっと拳を握り締めながら。
実のところ、菖蒲はクラスメイトたちの心境を知っている。みんな、美影と仲良くなりたいのだ。だが無愛想で協調性がなく学校を休むことも多い美影は、お嬢様が多い愛華女学院では怖がられる対象だった。
しかし萩原邸に居候するようになり菖蒲と仲良くなったことが、美影の境遇にささやかな変化をもたらした。菖蒲はクラスでも中心的な人物。とうぜん影響力も大きい。有り体に言えば『あの高臥さんが仲良くしているのだから、きっと壱識さんは不良ではなく、ただ不器用なだけなんだ』と思われるようになった。
もともと美影は、良くも悪くも目立つ。気まぐれな猫のごとき生活態度もさることながら、端麗な容姿は人ごみのなかでは浮いてしまう。小柄だが、無駄な贅肉のない引き締まった身体も、ダイエットに精を出す年頃の女子からは羨望の眼差しで見られた。
四月の頃はクラスで孤立していた美影だが、ここ最近はそうでもなかった。みんな、美影と仲良くしたいのだ。
「あのね壱識さん。実はこのあと、みんなでお茶をしようってお話をしてるんだけど、一緒にどう?」
「めんどいからいい」
「そんなこと言わずに、ね? 松島さんのおうちのコックさんが作るケーキ、とっても美味しいんだよ」
「……ケーキ」
不機嫌そうだった美影の顔から、わずかに険が取れた。女の子にとって甘いものは偉大なのだ。
「……フレンチトーストはある?」
黒髪の先っぽをちょこちょこといじりながら美影が言う。落ち着いた物腰の松島さんが、曖昧な笑みを浮かべて首を傾げた。
「うーん、どうかしら? たぶん、お願いすれば作っていただけると思うけれど。もしかして壱識さん、フレンチチーストが好きなの?」
「ぜんぜん。まったく。これっぽっちも好きじゃない。あんなのどうでもいい」
「えっ……」
フレンチトーストで釣れば一緒にお茶ができるかも、という思惑をあっさり打ち砕かれた松島さんは、笑顔のまま石化してしまった。微妙に気まずい空気が流れるなか、今度は携帯を手に持った快活な女子がずいっと身を乗り出した。
「ねえねえ。よかったらあたしとメールアドレス交換してくれない? 前から壱識さんとはメールしたいって思ってたんだ」
「べつに私はメールしたくない」
「わたしも!」
「べつに私はメールしたくな……」
「わたくしもいいかしら?」
「べつに私は……」
「ずるい! わたしも!」
「…………」
ずっと機会を伺っていたのだろう、勇敢な一人の発言を皮切りにみんなが携帯を取り出した。美影は抵抗を続けているが、それも長くは持ちそうにない。
そのとき、菖蒲の携帯に着信があった。見れば、夕貴からのメールだった。はて、いったいどうしたのだろう。怪訝に思いながらも受信ボックスを開く。件名はなし。本文は『覚悟して帰ってきてくれ』だけだった。絵文字がなければ顔文字もない。その簡素な文面からは、菖蒲の気のせいでなければ切羽詰っている様子が感じられた。
「覚悟して帰ってきてくれ……? なにか覚悟せざるを得ない事態でも発生したのでしょうか。……はっ! ま、まさか!」
菖蒲の脳内に、不穏なイメージが浮かびあがった。ベッドのうえでもつれ合う夕貴とナベリウス。もしかして夕貴は、菖蒲をポイと捨てて、ナベリウスと昼下がりのアバンチュールを楽しむつもりではないのか。ありえる。存分にありえる。夕貴が浮気するとは思えないが、しかし男性とは一時の欲望に流される生き物だと、つい最近ネットで見た。
「こ、こうしてはいられません。すぐにお家に帰って、ナベリウス様を阻止しなくては……!」
間違った方向に情熱を燃やす。彼女には天然なところがあった。通りがかった女生徒が、未来の妻としての気迫に満ちた菖蒲を見て「ひっ!」と息を呑む。
「――いい加減にしろ」
直後、放課後の賑やかな喧騒に満ちていた教室の空気が一変した。ぞくり、と肌が泡立つのは、きっと冷房のせいではあるまい。生物としての生存本能が警鐘を鳴らしている。素人の菖蒲にもはっきりと感じ取れるぐらいの、殺気。
「もう私に構うな」
剣呑な顔つきで美影が言う。クラスメイトたちはタイミングが悪かった。安眠を邪魔されて不機嫌だった美影には、自分を囲んでいる女子たちが、逃げ道を塞ぐ敵のように思えたのかもしれない。邪魔だ、どけ。離れたところにいる菖蒲にも、美影の怒りが手に取るように分かった。
「これ以上、私を怒らせたら……ただじゃ済まさない」
湖水のように静かだった瞳が、暴風雨のような荒々しさを宿す。厳格ながらも平穏だった学びの園に、暴力的な雰囲気が立ち込める。いまこの教室を支配しているのは、間違いなく美影だった。温室で育ったクラスメイトたちは、体験したこともない圧倒的な害意に震え上がり、涙を流して命乞いする――はずだった。
「か、か、か」
みんなが一斉に叫んだ。
「可愛いー!」
きらきらと目を輝かせたクラスメイトが、険しい面持ちの美影に飛び掛かり、これでもかと抱きつく。
「ねぇいまの聞いたっ? 私を怒らせたらただじゃ済まさない、だってっ! んもう、美影ちゃん可愛すぎるよー!」
「む、むー!」
「ていうか、今日ちょっと冷房強くないかな? なんか寒気がしたんだけど。ほら、ここ鳥肌立ってるし」
「うー!」
喜色満面に嬌声を上げるクラスメイトに囲まれて、美影はじたばたと暴れていた。なんのことはない。温かな陽だまりのなかで育ったお嬢様は、自身に向けられる敵意に鈍感だった。率直に言えば、彼女たちは天然すぎて、研ぎ澄まされた美影の殺気を理解できなかったのだ。
いくら名門女学院に通っていても、彼女たちが女子である以上、可愛いものを愛でたくなるのは自然だろう。もっとも、愛でられるほうはたまったものではないだろうが。
「美影ちゃんの黒髪、すごくきれいよね。どこの美容室に通ってるの? よかったら使ってるシャンプー教えてもらえない?」
「はなせー!」
「お肌も真っ白だし、羨ましいわ。わたしも美影ちゃんぐらい色白だったらよかったのだけれど」
「はなれろー!」
「それにとても引き締まった身体をしているし。体育の着替えのとき、いつも美影ちゃんを見るたびに自信をなくすんだけど」
「やめろー!」
いつの間にか『壱識さん』から『美影ちゃん』に呼び方が変わっているが、それを気にする者は誰もいない。
いい傾向だ、と菖蒲は思った。清々しい気持ちで窓のそとを眺める。美影は無愛想だが、とても優しい女の子でもある。できることなら、もっとみんなに美影の素晴らしさを知ってほしいと、菖蒲はひとりの友人として切に願うのだ。
「あやめ」
名を呼ばれて視線を戻した菖蒲が見たものは、憔悴した美影の姿だった。髪が乱れ、胸元のリボンが緩み、中途半端にソックスが脱げている。よほど激しく可愛がられたらしい。
「美影ちゃん。また今度、メールするね」
教室から出て行く女生徒のひとりが、携帯を握った手を振りながら言った。どうやらメールアドレスの交換は無事に終わったようだ。帰路につくクラスメイトが別れの言葉を告げても、美影はそっぽを向いたまま不機嫌そうな顔を崩さなかった。
「高臥さん。さようなら、また来週ね」
「はい。お疲れ様でした。さようなら」
愛想のいい笑みを浮かべて会釈する。みんな気軽に声をかけてくれるのは嬉しいのだが、どうせなら自分も『高臥さん』ではなく『菖蒲ちゃん』と呼んでほしいな、と彼女は心のなかでごちた。
「……ひどい目に遭った」
美影がぽつりと漏らす。
「そうでしょうか。美影ちゃん、楽しそうに見えましたよ」
「あやめの目は節穴。私はあいつらのことなんか嫌い」
「本当に?」
「本当」
「絶対に?」
「しつこい。絶対の絶対」
「……そうですか。残念です」
もしかすると美影は、心の底から嫌がっていたのだろうか。たしかに表面上は煩わしそうだったけれど、その実は満更でもないように見えたのだが。
「……でも、美味しいケーキだけは一緒に食べてやってもいい」
かすかな声だった。ただ一緒にケーキを食べるだけ。小さな、小さな決意。だが菖蒲には、それが大きな一歩に思えて仕方なかった。
「生クリームたっぷりのショートケーキを考えたやつは天才。てっぺんに苺を乗せるという発想は、もはや神にも等しい」
「…………」
いや、実は本当に甘いものを食べたいだけなのかも、と菖蒲は呆れと同時に微笑ましい気持ちを覚えた。
「あやめ、あやめ」
くいっくいっと服を引っ張られる。茫洋とした目が「疲れたから早く帰りたい」と告げていた。そこで菖蒲は、夕貴から届いたメールのことを思い出し、美影に説明した。
「……メール?」
「そうです、メールです! 夕貴様から怪しげなメールが届いたのです! きっとまたナベリウス様がよからぬことを企んでいるのでしょう。これは急いで帰らねばなりませんね」
決意を新たにしていると、美影がこそこそと携帯を取り出し、受信メールをチェックしていた。
「……きてない」
「美影ちゃん?」
「帰る」
短く言って、足早に教室の出口へと向かう。なぜか美影の機嫌が悪くなったような気がする。菖蒲は首を傾げながらも、小さな背中のあとを追った。
峰ヶ崎大学から徒歩で三十分も歩くと萩原邸が見えてくる。閑静な住宅街のなかでも一際大きい敷地と、オフホワイトの三階建ての家屋。その華やかな佇まいが、周囲に劣等感を振りまいていることは想像に難くない。だが不思議なことに、門扉の前に立っても、玄関を潜っても、内村竜太と藤崎響子は驚きはしても嫌味の類はまったく感じなかった。
優しいのだ、この家は。
この『萩原』という表札のかかった邸宅は、ひたすら優しい空気に満ちている。ここだけ時間がゆっくり流れているような錯覚に陥るほどに。犬は飼い主に似るというが、この場合、家が住人に似たのかもしれないと竜太は思った。
「話には聞いてたけど、これは凄いわね……」
「ま、まさか萩原は、どこぞの名家の血でも引いてるんじゃないか?」
内村竜太、藤崎響子、玖凪託哉の三名が通されたのは、玄関を潜ってすぐのところにある応接間だった。さりげなく高級感を漂わせるアンティーク風の家具がしつらえられ、客人をもてなすための大きなソファが目を引く。純白のカーテンがかかった窓からは、青い芝生の張られた庭が一望できた。フルパワーで稼動する冷房が、冷たい風を勢いよく吐き出し、熱のこもった空間を居心地のいいものへと変えていく。
夕貴はここにはいない。竜太たちを応接間に押し込めたあと、「おかしいな。靴はあるのに姿が見えないぞ。……まあいい。おまえらはそこの部屋に隠れててくれ。俺は悪魔がいないか調べてくるから」と二階に上がっていったからだ。
「にしてもさぁ、なんで萩原はあんなに挙動不審なわけ? ここ自分の家でしょ?」
おっかなびっくりとソファに腰を落ち着けている響子が言った。癖のないショートカットの黒髪と、勝気な目。すらりとした健康的な脚を所在なさげにぶらぶらさせながら、部屋のなかを見回している。
一方、竜太は、忙しなく部屋を歩き回っていた。さっぱりとした短髪と伊達めがね。見るからに好青年然とした彼も萩原邸の大きさに戸惑っている。ただし窓辺に立つ託哉だけは落ち着き払った様子で、のんきに携帯などを弄っているが。
竜太は腕を組み、大げさに唸って見せた。
「うーむ、確かに謎だね。萩原の足取りは、まるでお化け屋敷を進むときのようだった。なにか未知なるものを警戒しているとしか思えない」
「だよねぇ。もしかして家のなかに誰かいるのかな?」
「玄関には女物の靴があったし、お母さんがいるんじゃないだろうか」
「でも萩原のお母さんは家を空けてるって聞いてるけど。それに普通、自分の母親を警戒するかしら?」
二人は顔を見合わせた。
「……謎だ」
「……謎ね」
貧乏揺すりをしながら唸る響子を尻目に、竜太は伊達めがねを押し上げて思考に没した。萩原邸に到着してから、夕貴の様子がどうにもおかしいことが引っかかる。普段はあれだけ乗ってくる高臥菖蒲の話にも今日はほとんど乗ってこなかった。むしろ避けている節すらあったほどだ。
「あっ、そっか、あの玄関にあった靴は……」やおら響子がぽんと手を叩き、小さな声でぶつぶつと独り言を漏らした。「まったく萩原のやつ、彼女をお泊りさせるのはいいけど、ちゃんと家に帰してあげないとだめじゃない」
「なにか分かったのかい、藤崎?」
「んー? べっつにー?」
わざとらしく口笛を吹きながら窓のそとに目を向ける。竜太がなにを聞いても、彼女は答えてくれなかった。どうやら玄関にあった女物の靴がヒントらしいが、そこから閃くものが竜太にはなかった。
「おまえら、邪推もほどほどにしとけよ。もうすぐ面白いもんが見れるから、黙って待ってろ」
託哉が言う。響子の貧乏ゆすりがぴたりと止まった。
「面白いもの? あんた、なにか知ってるの?」
「おいおい、オレを誰だと思ってるんだ。夕貴ちゃんのことなら何でもお見通しさ」
「御託はいいから、とっとと教えなさいよ」
「悪いな。オレは女の頼みしか聞かない主義なんだよ」
「だったらちょうどいいじゃない。可愛い響子ちゃんが聞いてるんだから、はやく教えなさい」
「悪いなっ」
「あたしは女の子だっつーの! もうキレた! この世からあんたの存在を抹消してやる! 表に出ろ、バカ凪!」
飽きもせずに罵りあう二人。これは長引きそうだな、と思った竜太は、萩原邸の様子を探るためにもトイレに行くことにした。この家にはなにか大きな秘密が隠されているような気がしてならないのである。
「あぁ、トイレならこの部屋を出て左に真っ直ぐ歩けばあるぜ」
響子に胸倉を掴まれた託哉が、廊下のほうを指差して告げる。「それじゃ、行ってくるよ」と断ってから、竜太は応接間を抜け出した。
長く、そして広い廊下をゆっくりと歩く。どこからか取り入れられた自然光が、よく磨かれたフローリングに反射し、ささやかな光芒となって竜太の伊達めがねに届く。うっすらと目を細めながら足を進めると、目的のトイレを見つけた。その内部は、母親と子供の二人暮しにしてはやたらと清潔にされている。まるで何人もの若い女の子が利用することを想定しているかのようだった。
間もなく用を足した彼は、応接間に戻る途中、玄関のほうから物音を聞いた。もしかしたら家族の方が帰ってきたのかもしれない。失礼にならないよう、挨拶をしておこうと思った。
「美影ちゃん、なにか聞こえませんか?」
「なにかってなに?」
「い、いえ、ですから……その、あれです。男女がもつれあう音色と言いますか、とにかく、そんな感じのものです」
「うん。聞こえる。そこにある応接間から、ヘンな声が」
「応接間から!? ま、まさか夕貴様とナベリウス様は、上司と部下、あるいは社長と秘書といった特殊な設定を使って……あら? 玄関に靴がたくさんありますね」
若い少女の会話が聞こえてくる。どうやら二人いるらしい。なぜか竜太には、そのうちの一人の声にひどく聞き覚えがあった。
なんともいえない胸騒ぎがする。暴れる鼓動がうるさい。この先にはやく進め、ここから先に進んでは駄目だ。相反する二つの思考が、脳髄のなかで激しい火花を散らしている。両者のバトルは、好奇心という味方がついたことにより、前者の辛勝に終わった。
応接間の前を通りすぎると、そこはもう玄関だった。西に傾いた陽射しが、女学院の制服を着たシルエットを二つ、浮かび上がらせている。その姿は、逆光気味で判然としない。
だが竜太には、シルエットだけでじゅうぶんだった。ずっと憧れていた少女を見間違えるわけがない。例えそれが、影絵のようにおぼろであったとしても。
「…………」
うまく言葉が出てこない。冗談だろ。なんだこれは。マジかよ。だってここは萩原の家なんだぞ。熱が出るぐらい回転している頭脳とは対照的に、口と喉はまったく機能しない。結果として、竜太はまばたき一つすらせずに呆然と立ちすくむだけの怪しい人物と化していた。
「なに、これ?」
長い黒髪をポニーテールにした小柄な少女が、気だるそうに竜太を指差す。それを受けて、黒のセーラー服越しでも分かる豊満な胸をした可憐な少女が、淑やかに首を傾げながら口を開いた。
「お客様でしょうか? もしかすると夕貴様のご友人の方かもしれ……」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
少女の声に割り込み、竜太は叫んだ。心の底から、命を燃やしつくす勢いで叫んだ。「ひっ! な、なんですか……?」と怯えられようとも、「うるさい。だまれ」と罵られようとも、竜太は叫んだ。魂の疼きを抑えるためには、力のかぎり声を張り上げるしかなかったのだ。驚きはあったし、混乱もした。しかしそれらを上回る極大の喜びが、彼を包み込んでいる。
「な、なにっ? もしかして萩原とその彼女があんなことやこんなことをしてる現場に遭遇しちゃったっ?」
「あー、よかった。これでようやく響子ちゃんの説教から解放されるわ」
応接間の扉が勢いよく開き、動転した響子と肩をすくめた託哉が出てくる。二階からどたばたと足音がしたかと思えば、「なにが起こったー!?」と夕貴が階段を駆け下りてきた。さらにタイミングを見計らったように、買い物袋を提げた銀髪の美女が帰宅した。
「なんだか大勢いるわね。夕貴のお友達?」
「おまえ買い物に行ってたのかよ! 玄関に靴あったじゃねえか!」
「もう夏だからね。今日はサンダルで出かけたのよ」
銀髪の美女と夕貴が仲睦まじく会話していると、黒髪ポニーテールの少女が忍び寄り、
「……てい」
夕貴の足を軽く蹴った。
「いきなりなにすんだ、美影!」
「知らない」
冷たく言って、美影と呼ばれた少女は背を向けた。色白の頬がぷっくりと膨らんでいる。どうやら拗ねているらしい。
「うわぁ、きれいな人……銀髪なんて初めて見た。もしかしてこの人が萩原の彼女?」
陶然と響子がつぶやくと、銀髪の美女は頬を染めて俯いた。
「……ううん。彼女じゃなくて、性欲処理用の奴隷かな。毎晩、夕貴にいっぱいご奉仕して、溜まりに溜まった熱いリビドーを抜いてあげてるのよ」
「ナベリウス! おまえは話がややこしくなるから黙ってろ!」
夕貴が慌てて、ナベリウスと呼ばれた女性の口を塞ぐ。それははたから見れば抱き合っているようにも見えて、響子は「あわわっ。さ、さすがに付き合いたてで露出プレイは早くないっ?」と両手で顔を隠した。まあ指の隙間から、ちゃっかり覗いているのだが。
「夕貴様、ご無事ですか!? ナベリウス様の毒牙にはかかっていませんよね!?」
「まあまあ、落ち着きなよ菖蒲ちゃん。夕貴よりも遥かにいい男が、君のとなりにいるじゃないか。オレ、今晩空いてんだけどな」
「性懲りもなく女の子を口説いてんじゃないよ、バカ凪! あんたはもっと節操ってものを弁えて……えぇっ!? ちょっ、えっ、なにこれっ、女優の高臥菖蒲!? 本物!? なんでこんなとこにいんの!?」
響子はこれでもかと目を見開くと、まじまじと菖蒲を見つめる。彼女らの影に隠れるようにして、皮肉げに口端を歪めた託哉と機嫌悪そうに目を細めた美影が対峙していた。
「これはこれは。どこかで見たようなまな板だと思ったら、《壱識》さんちの美影ちゃんじゃねえか。あのシリアルキラーのときの騒動以来だな。あれだけファンタジーを目指せって言ってやったのに、まだリアリティを追い求めてんのかよ」
「…………私だって、ちょっとぐらい、ある」
肩を落とし、唇を尖らせて美影は応える。セーラー服の胸元には女性的なふくらみの痕跡があるにはあるが、ナベリウスや菖蒲のそれと比べると、いささか心もとない。
「ちょっと萩原! これどういうこと!? なんであんたの家に高臥菖蒲がいるのよ!? ただでさえ銀髪のきれいな彼女がいるのに!」
いい具合に混乱した響子が、次々とまくし立てながら夕貴に詰め寄る。
「ま、待て。落ち着け。いまから説明するから」
「これが落ち着いてられるかっての! うわっ、しかもそっちの黒髪の子もめちゃくちゃ可愛いじゃん! こんな美人を三人もはべらせるなんて萩原も偉くなったわね! あんた、高校のときは色んな女の子からアピールされてたくせに、ちっともいい顔しなかったじゃない!」
「嘘つけ! 俺はいままで告白とかほとんどされたことないぞ!」
「みんなさりげなくアピールしてるのに、あんたが『女の子はもっと男らしい顔をしたやつに惚れるはずだ』とか意味分かんない理論を発動するから、だれも告白までいけないのよ! それともやっぱり、男は巨乳じゃないと嫌なの!? 高校のときはこんなにおっぱいが大きい子いなかったものね!」
「違うって! それによく見ろ、胸が大きいのはナベリウスと菖蒲だけだろうが!」
ナベリウスと菖蒲。ややベクトルの異なる美貌を持つ二人だが、男性の視線を釘付けにする豊満な乳房が、絶対の共通点となっていた。なるほど確かに、響子の言ったとおり巨乳だろう。だが夕貴の発言によって暗にバストが小さいことを示された美影は、さきほどと同じように夕貴に歩み寄ると、今度はかなり強い力ですねを蹴った。
「いてぇっ! おい美影! さっきからおまえは何がしたいんだ!?」
「…………知らない」
ぷいっとそっぽを向き、艶やかな黒髪をなびかせて去っていく。垣間見せる横顔は、怒っているというよりも、やはり拗ねていると表現したほうが似つかわしいものだった。そのまま美影は二階へと続く階段を上っていき、姿を消した。
残された夕貴は蹴られた足を抱えてケンケンし、響子はなおも混乱を続けている。ナベリウスは買い物の戦利品を冷蔵庫にしまいにいき、所在なさげに佇む菖蒲をこれ幸いにと託哉が口説いていた。
どこからどう見ても成功したとはいえない状況だ。もし夕貴がおみくじを引いていたら、白い紙片には”凶”の一文字がこれでもかと自己主張していたことだろう。
しかしながら、入り乱れる会話も、看過しえぬ謎の数々も、竜太にはどうでもよかった。この混沌とし始めた場において、彼だけが状況を正しく理解していた。小難しいことを考える必要はない。ただ憧れていた少女と邂逅した。これはそれだけの話ではないのか。
「ふおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 本物の菖蒲ちゃんだぁああああああああああああああっ!」
男、内村竜太。その十九年という短くも長い生涯において、もっとも歓喜した瞬間だった。