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No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
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[29805] 3-4 それぞれの夜
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/06/25 00:52
 すべての事情を説明するのに一時間近くも奔走した俺は、間違いなく今日だけで嘘と言い訳がうまくなったと思う。
 もっとも骨が折れたのは、やはりと言うべきか菖蒲のことについてだった。苦肉の策として俺が提唱したのが『じつは萩原家は高臥家の遠い親戚で、菖蒲は通学時間を短縮するために居候している』というものだった。幸いなことに萩原邸は大きく、言われてみれば名家としての風格もなくはない。実際、うっちーと委員長は半信半疑なふうだったが、これを信じると言ってくれた。女優としての資質か、菖蒲の演技と口裏あわせが抜群に上手かったのも功を奏した。
 ちなみにナベリウスは母さんの友人、美影は俺の従兄弟という設定になった。「わたしは夕貴の奴隷なのにー」とか「従兄弟。べつにどうでもいい」などと文句も出たが、それは黙殺させてもらった。
 みんながみんな、まだ完全に納得したわけじゃないだろう。それでも日が暮れ、真っ赤な夕焼けが空を染め始める頃には、萩原邸にもある程度の落ち着きが戻っていた。



 鮮烈な紅色が尾を引き、地平線の彼方に消えていく。ノスタルジックな夕焼け空は、その有りようを少しずつ群青の帳に変えていた。
 午後七時をまわる頃、リビング・ダイニングには俺、ナベリウス、菖蒲、美影の萩原家組。そして託哉、藤崎、うっちーのお客様組が顔を揃えていた。さすがに七人もいると手狭に感じるが、いままでが快適すぎただけなので、家の規模を鑑みればこれぐらいの人口密度が普通なのだろう。
 親睦会も兼ねて、みんなで夕飯を食べることになった俺たちは、それぞれ分担して支度を進めていた。

「嫌」
「そう言うなよ。たまにはいいじゃないか」
「しつこい。嫌って言った」
「せっかく藤崎とうっちーの説得がうまくいったんだ。頼むから今回だけは俺の顔を立ててくれよ」

 食事の支度そのものは滞りなく進行中である。しかし、美影は見知らぬ人間と食事をすることに抵抗感があるらしく、俺の説得も虚しく響くだけだった。長い黒髪を揺らし、三階にある自室に上がろうとする背中を必死に引き止める。

「なあ。そんなにみんなと飯を食うのが嫌なのか?」
「ぜったいに嫌」

 どうあっても美影の意志は変わらない。仕方ない。こうなったら最後の手段に出るか。本当は食べ物で釣るような真似はしたくないんだけど。

「そっかー。残念だなー。今日はしゃぶしゃぶなのになー」
「ポン酢さま……!?」

 気だるそうだった切れ長の目がきらきらとした輝きを放つ。

「夕貴、夕貴っ。それ本当っ?」
「あ、ああ。本当だぞ」

 とてつもなく嬉しそうに俺の服を引っ張ってくる美影に気圧されて、思わずたたらを踏んでしまった。いまは夏場だけど、ダイニングには冷房がかかっているので問題なく食えるだろう。ナベリウスは、美影の好物がポン酢であると知り、以前からしゃぶしゃぶをする機会を伺っていたのだ。それが偶然、今日だったというわけである。
 けっきょく、ポン酢という神の調味料(本人談)に釣られた美影は、こうして参加の意を示したのだった。それから全員が協力して食事の場を調えていった。

「……うん、こんなものね。みんな、もう座っちゃってもいいわよ。あとはわたしがご飯よそってあげるから」

 満足げな顔でうなずき、ナベリウスがよく通る声で告げる。
 ダイニングテーブルの上には所狭しと料理が並べられていた。ぐつぐつと煮立つ大鍋と、赤身と白身のバランスがほどよい薄めの肉。箸休めには、たくさんのきのこをバターや粉チーズとともに炒めてハーブで香りづけしたものや、さっぱりとした味わいのトマトとアボカドのサラダ、そして漬物が数種類。各自の手元には、ポン酢用とごまダレ用に、二つの小皿が用意されている。もちろん刻みネギや大根おろしといった薬味も忘れていない。

「みんなグラスは持ったね。それじゃあ乾杯しようじゃないか。僕たちの期末試験を祈って、そして菖蒲ちゃんと出会えた奇跡を祝って――乾杯!」

 うっちーがコーラの入ったグラスを掲げて声高らかに叫ぶ。さきほどまで狂ったように涙を流し、菖蒲を困惑させていた青年の姿はすでにない。普段から場を盛り上げることの多い彼は、緊張やら葛藤を押し殺し、こころよく乾杯の音頭を引き受けてくれたのだ。
 号令に合わせて、そこかしこでグラスをぶつけ合う小気味よい音が響き、談笑する声とともに笑顔が咲いた。乾杯して十秒も経たないうちに、盛り上がりは最高潮に達していた。

「はぁ、ほんと綺麗ですよね、ナベリウスさんって。プロポーションも信じられないぐらい整ってますし。あたしもこれぐらい美人に生まれたらよかったのになぁ」

 藤崎が恍惚とした顔でつぶやく。おなじ女として、ナベリウスの完成された美貌に憧れてしまうのかもしれない。でも藤崎は知らないのだ。悪魔の本性を。

「それほどでもないわよ。わたしなんて、大したことないし」

 お褒めに預かったナベリウスが、さらさらとした銀髪を耳にかけながら上品に微笑んだ。まさに天使と呼ぶに相応しい、洗練された美である。もちろん俺は騙されないが。

「うわぁ、謙遜するなんて大人だ。まるで欠点が見当たらないですね。これはさすがの萩原でも釣りあいが取れないでしょ」
「待て待て。さっきから思ってたんだけど、もしかしておまえ、俺とナベリウスが付き合ってるって勘違いしてねえか?」
「だって事実じゃん。大学を休んでたのも、ナベリウスさんと熱々の恋愛をしてたからじゃないの?」

 こいつ、体育のときの勘違いをまだ引っ張ってるのか。あのとき即座に訂正しなかったことが、ここまで尾を引くとは。さっきから”彼女”とか”付き合ってる”とか声に出るたびに、菖蒲がびくっと身を竦ませて、俺のほうを『し、信じてもいいのですよねっ?』みたいな弱々しい目で見てくるから凄まじく気まずい。
 ここは穏便に事を済ませるためにも、慎重に訂正しなければならない。が、いつだって場を引っ掻き回すのは銀髪悪魔だと萩原家では相場が決まっていた。なにを思ったか、ナベリウスは雪のように真っ白な頬をほんのりと紅潮させてわざとらしく俯いた。いつもどこかで見るような光景だった。

「彼女か……うん、そう呼ばれてたこともあったかな。でもいまは、ただ夕貴の欲望を受け止めるための肉人形でしかないから……」
「え」

 ぴたり、と藤崎の動きが止まった。

「に、に、にに、肉人形って……どういうことですか?」
「そのままの意味よ。わたしに自由なんてないの。ご主人さ……いえ、夕貴にいっぱいご奉仕するのが、わたしの仕事だから」
「萩原ー! あんた、そこに正座しなさい! 健全な恋愛してると信じてたのに、その結果がこれ!? 見損なったわ!」
「お、落ち着けよ。俺は悪くないんだ。おまえがナベリウスに騙されてるんだよ」
「男はみんなそう言うのよ!」

 両手を振って無実をアピールするが、藤崎の顔から怒りが薄れることはなかった。口元を手で抑えて、ぷくく、と笑っているナベリウスに、あとで説教してやろうと俺は心に決めた。結局、なにも悪くないはずの俺が謝り倒すことによって、藤崎に許してもらった。なんて理不尽だろう。もういい。こうなったら男らしくやけ食いしてやるのだ。

「はーあ。これからは玖凪だけじゃなくて萩原の動向も観察しないといけないのか。あんたさぁ、お母さんがいないからってハメ外しすぎじゃない?」
「俺は健全だって言ってんだろ! それに母さんは実家に遊びに行ってるだけだ。もうすぐ帰ってくるよ」
「……それそれ。前から疑問に思ってたのよ。この際だから言わせてもらうわ」

 藤崎は怪訝顔をした。

「まずひとつ確認しておきたいんだけど、萩原のお母さんっていつから家を空けてるんだっけ?」
「……今年の四月だけど。それがどうかしたのか?」
「つまり三ヶ月以上もいないってわけね」
「ああ。里帰りなんだから、こんなもんだろ?」
「なに寝惚けたこと言ってんのよ。はっきり言うわ。長すぎる」

 それは断言だった。

「いくらなんでも、三ヶ月以上も里帰りするなんておかしいんじゃない?」
「そうなのか? ……俺、昔から親戚とかいなかったから、そのへんの感覚がよく分からないんだけど」
「ま、なにか特別な事情があるならべつだけどさ。とにかくあたしはおかしいと思うよ。もう大学生になったはいえ、一人息子を置いて長いあいだ家を空けるなんてさ」
「でもたまに連絡くれたりするぞ?」
「じゃあ事故とか病気になってるわけじゃないのね。それならよかった。あたしも高校の行事のときに何度か萩原のお母さんと会ったけど、すっごく綺麗でいい人だったしね」

 んー、と何かを思い出すようにして藤崎は言った。一方、俺は顔が緩むのを抑え切れなかった。母さんが褒められると何でこんなに嬉しいんだろう。もういちどだけ他人の口から母さんのことを聞きたくて、俺はたずねた。

「……そ、そうか? 母さん、優しくて綺麗だったか?」
「さすが萩原のお母さんって感じだったよ。よく似てた」
「いやぁ、なんか照れちゃうなぁ。俺が母さんと似てるのは当たり前だし、母さんが優しくて綺麗なのはもっと当たり前だけど、やっぱりあらためて言われると照れるなぁ……」

 母さんと似てる。それは他人から言われてもっとも嬉しい言葉のひとつだ。胸がぽかぽかと温かくなる。ただ、それとはべつに、藤崎の言葉が俺の脳裏にずっと引っかかっていた。

 ――いくらなんでも、三ヶ月以上も里帰りするなんておかしいんじゃない?

 ずっと母さんと二人で生きてきたから、世間的な常識のことは知識でしか知らない。たしかに漠然と、帰ってくるの遅いなぁ、とは思っていたけど、母さんだから大丈夫だって盲目的に信じてた。いや、それはいまでも信じてる。母さんが俺を放って、いなくなったりするわけがないんだから。
 ……まあ、考えていても仕方ないか。とにかくいまは飯を食おう。
 グラスに注がれたコーラを半分ほど飲んでから、お預けを食らっていた空腹を満たそうと、小皿にポン酢を注いでいく。実を言うと、俺はごまダレがそんなに好きじゃない。
 ふと気付くと、となりに座っている美影がとても満足そうな顔でこちらを見ていた。どうやら俺がポン酢を選んだことを喜んでいるらしい。よくよく見れば俺だけではなく、美影は、ここにいる全員がポン酢とごまダレのどちらを選ぶか確認しているようだった。偶然か、ほとんどの者はポン酢派らしく、ごまダレには見向きもしない。どうやら惨劇は回避できそうである。
 美影の小皿には、当然のようにポン酢が注がれている。ちなみに刻みネギがたっぷりと盛られていたりするが、なぜか定番の大根おろしは入っていなかった。

「おまえ、大根おろしはいらないのか?」
「あれは邪道。真のポジョリストは、ネギちゃんとポン酢さまと肉くんだけで食べる」
「…………」

 突っ込むな。ここで突っ込んだら負けだぞ萩原夕貴。なんか美影が俺の反応を伺うかのようにこちらをちらちらと見ているが、あえて無視を決め込んでやるのだ。

「夕貴、夕貴」

 くいっくいっと服を引っ張られる。

「……なんだ?」
「ポン酢さまと将来を誓い合うまでの領域に到達した者を、人は畏敬を込めてポジョリストと呼ぶ」
「聞きたくなかったー!」
「夕貴がどうしてもって言うなら、私がポン酢さまのイロハを教えてあげてもいい」
「いらねえよ! ポン酢が美味いことぐらい知ってるわ! それに俺も母さんも、萩原家は昔からごまダレじゃなくてポン酢派だから安心しろ」
「……そう」

 どことなくつまらなさそうに呟き、ちびちびとオレンジジュースを飲む美影。どうやら自分の手で、俺にポン酢さま……いや、ポン酢の素晴らしさを説きたかったらしい。

「いやぁ、僕ってポン酢はだめなんだよね。やっぱりしゃぶしゃぶと言ったらごまダレだろう」

 俺と美影がポン酢について語り合っていると、対面の席から不穏な発言が飛び出した。菖蒲にコーラのお代わりを注いでもらって上機嫌のうっちーが、ほこほことした顔で”ごまダレ”の入った小瓶に手を伸ばす。彼の正面には、ちょうど美影が座っていた。いまだかつてない悪寒が総身を駆け抜ける。次の瞬間、上機嫌だったはずの美影から表情が抜け落ちた。

「……ごま、ダレ……?」

 小さな手から箸がこぼれ落ちる。それが床に落ちる前に、俺がギリギリで拾い上げていた。美影は俯いたままぷるぷると震えている。まるで極寒の吹雪にさらされているかのようだ。

「おい! しっかりしろ!」
「……ポン酢さまを、見捨てた……ポン酢さまを……裏切った……」

 なだらかな肩をつかんで揺さぶるが、まったく反応してくれない。美影は物憂げな表情で、ずっとうわごとのように呟いていた。目元の泣きぼくろが、色白の肌に映えて、より一層の憂いをもたらしている。

「うん? どうしたんだい? きみは……たしか、美影ちゃんだったよね」

 伊達めがねを押し上げて、うっちーが言う。

「うっちー。悪いことは言わない。今日だけはごまダレじゃなくて、ポン酢で食べたほうがいい。でないと、おまえの命が危ないかもしれない」

 ひとりの友人として、おなじ女優を応援する同志として、そして心からの善意で、俺は忠告した。しかし、うっちーは朗らかに笑うだけだった。

「ははは。萩原も大げさだね。たかが調味料の話じゃないか」
「止めろ! それ以上は言うな! おまえは命が惜しくないのか!?」
「おいおい、どうしたんだい萩原くん。冷静になってよく考えてみてくれよ。ポン酢だろうがごまダレだろうが大差ないだろう?」
「俺がなんとか美影を抑えるから、だれかうっちーの口を塞いでくれー!」
「……夕貴。もういい」

 美影の肩に乗っている俺の手に、細くて白い指が重ねられる。美影はいままで見たこともないような寂しげな目で、俺をじっと見つめていた。

「めがねくんも、気にせず食べて。もういいから」

 謎の名称を口にする美影。うっちーは苦笑した。

「えっと……めがねくんっていうのは僕のことかな、美影ちゃん?」
「うん。もういい、ごまダレで食べて。もういい」
「み、美影……?」
「もういい。ごまダレでいい。私だけがポン酢さまの素晴らしさを理解してるから。もういい。ポン酢さま、ポン酢さま、ポン酢さま……」
「美影が壊れたー!」

 小皿に注がれた黒い液体を見つめる美影からは、なにか不吉なオーラのようなものを感じた。不気味である。ぐつぐつと煮立つ鍋が、ほんの一瞬、黒魔術のための釜に見えたのは気のせいだろうか。
 しかし美影の乱心も長くは続かなかった。肉をしゃぶしゃぶして、ポン酢に浸し、それを口に含んだ瞬間、世にも幸せそうな顔になったからである。
 
「……おまえ、本当にポン酢が好きなんだな」

 思わず破顔した。美影の唇は、いや、口はその体格を裏切らない小ささだ。ハムスターのように頬を膨らませて食べる姿は、なんとも愛らしい。父性本能みたいなものが湧き上がってきた俺は、思わず美影の頭に手を伸ばすが、指が触れる寸前で「んー」と不機嫌そうに払われてしまった。

「触るな。ヘンタイ」

 などとお決まりの罵倒も追加された。

「いや、それは言いすぎだろ。不用意に触ろうとしたことは謝るけど、俺のどこがヘンタイに見えるってんだ」
「全部」
「……え、マジで?」
「もっちー竹原」

 瞬間、ダイニングの空気が凍った。楽しそうに談笑していた全員が、箸を止め、美影を見つめる。当の本人は、なぜ自分が注目されているか分からず、きょろきょろと周囲を見渡していた。しばらくして現状を理解した美影は、

「あ、もっちー竹原とは、”もちろん”という使い古された言葉にコメディ風味を加味したもので、これからの時代を担うに相応しいセンシティブな……」
「つまんねぇな。そんなもんが流行るかよ。変わってねぇのは発育皆無なナリだけじゃないんだな」

 バカにするように託哉が言う。美影の頬がかすかに膨らんだ。

「……相変わらずうざい。死ねばいいのに」
「そうツンケンすんなよ。胸が絶望的なんだから、せめて器ぐらいはでかくいこうぜ」
「黙れ。全身生殖器」

 よく分からないが、とてつもなく剣呑な雰囲気である。もしやこの二人、知り合いなんだろうか。気心が知れてるとは言いがたいけど、微妙に顔見知りっぽい空気を醸し出しているのだが。

「とにかく、もうつまんねえこと言うのは止めとけ。せっかく上等な容姿に生まれたんだ。口を開いて損するのはもったいないぜ」
「……もっちー竹原はつまらなくない。きっと流行る」
「どうだか。みんなの意見を聞いてみろよ」

 託哉は肩をすくめて、一同をぐるっと見渡した。

「う、うーん。僕には美影ちゃんのセンスは斬新すぎてちょっと理解できないかなー」
「わたしはノーコメントで」
「ナベリウス様、ずるいです! ちゃんとコメントしてあげてください! 人はそうやって成長するものだと、お父様も言っていました!」

 うっちーが、ナベリウスが、菖蒲が、とりあえず否定する。それを見た美影は、唇を尖らせたまま、なにかに耐えるようにじっと俯いていた。オリジナルの流行語を否定されるのは、自分の子供をバカにされるような気分なのかもしれない。

「へぇ、可愛いじゃん。これからはあたしも使わせてもらおっかな」

 そのとき、ずーんと重くなった場に明るい声が響いた。気まずい雰囲気のなか、藤崎だけが興味ありげな顔で身を乗り出している。

「美影ちゃん、だったよね。他にもなんかないの? よかったら教えてほしいんだけど」
「……!」

 こくこく、と凄まじい勢いで美影の首が縦に動く。よほど嬉しいのか、ほっぺたに赤みが差して本来の年齢よりも幼く見えた。俺は萩原家の長男として、美影の居候を認めた者として、藤崎に聞いておかねばなるまいと思った。

「確認させてくれ。おまえは、本当に、心の底から……”もっちー竹原”を可愛いと思ったのか?」
「そうよ。なにか文句でもある?」
「ち、ちなみにどのへんが?」
「語感とか可愛いじゃない。それに”竹原”ってチョイス、絶妙だと思わない? きっと山田とか佐藤だと、これほど人の心の琴線には触れないわよ」
「そもそも琴線に触れてるのは藤崎だけのような気が……」

 言わぬが花、という言葉を思い出した俺は、あえて口をつぐんだ。もういい。そっとしておこう。ここから先は、俺たちが入っちゃいけない領域だ。
 すでに美影は藤崎に懐いてしまったようで、二人は楽しそうに会話している。あの他人に気を許すことが少ない美影が、まさか菖蒲以外に懐くとは。聞くところによると藤崎には弟がいるらしいし、長女なだけあって年下から好かれやすいのかもしれない。
 一緒に食事することは、お互いの心の距離を近づける効果があるらしい。かつて何かの本だったか番組だったかで聞いたその説を、俺はいま強く実感していた。当初、あれだけ混沌としていたのが嘘のように、萩原邸のダイニングには心地いい空気が流れている。

「でもさぁ、ほんとびっくりしたよね」

 それなりに打ち解け、皿に乗っているしゃぶしゃぶ用の肉がほぼなくなった頃、藤崎がぽつりと言った。

「まさか萩原が、あの高臥菖蒲と一緒に暮らしてるなんてさ。あんた高校の頃から、ずっと高臥菖蒲のこと好きだって言ってたよね?」

 みんなの視線が、俺と菖蒲に集まる。いずれ焦点の当たる話題だとは思っていたが、とうとう来たかという気分だった。やっぱり遠い親戚という設定は、ちょっと無理があったのかもしれない。ここはうまく誤魔化さないと。すべての真実を告げるには、さすがに話が長くなりすぎるし、ともすれば彼女たちを巻き込まないとも限らないから。

「……あの、響子様。先にも申しましたとおり、萩原家は、我ら【高臥】の遠い親戚筋に当たります。なんでしたら親族の者に連絡して裏を取っていただいても構いません」

 弱々しい表情で菖蒲が言う。大きくふくらんだ胸元に手を当てて、儚げに目を伏せながら。ほんのりと赤らんだ頬が、衣服からのぞく白い肌が、やけに艶かしく映る。

「いや、ごめんごめん。べつに疑ってるわけじゃないんだけどね。ただ驚いただけっていうか……」

 藤崎は罰が悪そうに苦笑したあと、あごに手を当てて、ぶれることなく菖蒲を見つめた。

「な、なんでしょう? わたしの顔になにか……?」
「いや、べつに不満とか文句はないんだけどね。むしろその逆っていうか、菖蒲ちゃんを見てるとおなじ女として自信がなくなるっていうか」
「……?」
「だーかーら、菖蒲ちゃんは美人だって言ってんの。ちょっとはあたしにも分けてもらいたいもんよ、特にその胸とか。大人しい清楚な顔立ちしてんのに、こんな凶悪なおっぱい持ってたら、そりゃ男が騒ぐのも無理ないよね」

 頭の後ろで手を組み、あははと観念したように笑う。藤崎は、俺の次ぐらいに男らしいさっぱりとした性格をしているのだ。

「うぅ……響子様、その、あまりこういう場で胸のことを言うのは……」
「あ、そうだね。配慮が足りてなかったよ。ここには男子が三人いるのに」

 藤崎の発言のせいか、託哉もうっちーも食い入るように菖蒲の胸元を見つめている。年相応のあどけなさを残した顔立ちに似つかわしくない豊満な乳房は、ほとんど強制的に男の目を惹きつけてしまう。
 菖蒲は、両腕でやんわりと胸元のあたりを隠していた。照れているのか、頬が妙に赤い。そんな仕草でさえも周囲の者の目を奪って止まなかった。

「くっはー! や、やばいぞ萩原! 頼むからちょっと僕の胸に手を当ててみてくれ。人間の心臓がこれほど早く脈打てることにびっくりするぜ……」

 うっちーは深呼吸を繰り返しながら、やたらと興奮した様子だった。気持ちはよく分かる。初めて菖蒲がこの家を訪ねてきたときは、俺もまったく同じ症状に陥ったから。まともに喋れるようになるまで時間がかかるんだよな。

「そこまで言うなら、菖蒲ちゃんとメールアドレスでも交換してもらえよ」
「な、ななな、なにを大それたことを言っているのだね!? この僕に神様を殺すなんて恐れ多い真似ができるわけないだろう!」

 託哉の提案に、うっちーが慌てて立ち上がって反応する。どうやらうっちーにとって菖蒲にメールアドレスを聞くことは、神殺しと同列に並ぶほど恐れ多いことらしい。

「すでに僕の人生には一度、奇跡が起こっているんだぞ!? 本物の菖蒲ちゃんと会えただけでなく、こうして一緒にご飯を食べて、挙句の果てに言葉さえも交わしたというのに、この上さらに連絡先を交換するなんて……くっ、しまった! 改めて数えてみたら、奇跡は一度じゃなくて三度も起こっているじゃないか! 僕のバカ!」

 ひとりで楽しそうに悶えるうっちー。勝手に神格化されている菖蒲は、とにかく困っていた。嬉しさと気恥ずかしさが入り混じって、素直に喜べないようだ。うっちーの熱意に、俺と菖蒲は目を合わせて苦笑した。

「萩原? なに菖蒲ちゃんと見つめあってんのよ」

 不思議そうに藤崎が指摘してくる。

「あ、いや、べつになんでもない」

 俺は短く言って、ふたたびうっちーに視線を向けた。藤崎はじっと考え込んでから「ま、いっか」と呟いた。
 まわりの後押しもあって、菖蒲とうっちーはメールアドレスを交換することになった。いや、彼女らだけではなく、携帯を持っている者はみんな互いの連絡先を交換した。仲良きことは、それだけで尊いことだと思う。母さんも「友達は大事にするのよ」って言ってたし。まあ美影だけは頑なに男性陣と触れ合おうとせず、藤崎とだけアドレスを交換したのだが。
 できることなら、こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいなと。そんなガキの夢みたいなことを俺は真摯に思うのだ。
 



 あれだけ騒がしく、そして大いに盛り上がった夕食会の名残を惜しむように、託哉と藤崎とうっちーは萩原邸に泊まっていくことになった。空いている部屋はたくさんあるから、友人三人を泊めることに支障はまったくなかった。
 しかし俺が言うのもなんだが、年頃の男女がひとつ屋根の下で眠るのは問題が起きる可能性がある。それぞれの寝床を決めるのにはさすがに慎重にならざるを得なかった。結果として、藤崎は一階の空いている客間。託哉とうっちーは二階の俺の部屋で寝て、俺は母さんの部屋で眠ることになった。三階には美影が住み着いているので、この構成なら男女の住み分けがきっちりとできる。
 午後十一時を回る頃には、夕食の後片付けや宿泊のための準備も終わり、みんな思い思いに寛いでいた。入浴は、女性陣から先にゆっくりと汗を流してもらい、そのあと俺たち男性陣が手早くシャワーを浴びた。
 シャワーから上がったあと、俺はひとり母さんの部屋にいた。定期的に掃除しているので生活臭は残っているが、部屋主を失って久しい空間は、いくらか色褪せて見えてしまう。
 夕食のとき、藤崎が何気なく言った言葉が、いまだ俺の脳裏で残響している。確かに冷静に考えてみれば、いくら絶縁していた実家との交流が復活したからといって、三ヶ月以上も向こうに滞在するのはおかしいよな。それに俺は、まだ親戚と話したことすらないのだ。たまに母さんが電話してきたときも、通話口から漏れ聞こえてくるのは母さんの声だけだし。
 ……まあ、考えても仕方ないことにいつまでも拘泥するのは止めておこう。そう自分に言い聞かせて、俺は深くため息をついた。部屋のなかをぐるりと見渡し、特に異常がないかを確認する。

「……あれ?」

 ふと本棚に並べてあるアルバムが気になった。きちんと整理整頓し、時系列順に並んでいたはずなのに、俺が幼稚園あたりの頃のやつと小学校あたりの頃のやつが逆に並んでいる。もしかして誰かが『アレ』を見たのだろうか。だとしたら由々しき事態である。アルバムを手に取って中身をあらためる。

「ぐ、ぐぬぬ……!」

 頭をがしがしと掻き毟りたくなる衝動が走るが、寸前で我慢する。そこに映っていたのは、母さんに女装させられた幼き日の俺だった。認めたくないが、はっきり言ってむかつくぐらい似合ってる。微妙に涙目で、俯きがちにカメラ目線を決めているショットなんか、未来の俺を悶えさせるために母さんが計算していたとしか思えないほどだ。
 本当なら、いますぐにでもこれらを処分したい。実際、俺が中学生の頃、ひっそりと燃えるゴミの日に出そうとしたことがある。だがそれを見咎めた母さんは「もういい! 夕貴ちゃんなんて知らないもん!」と泣き喚きながら、家出してしまったというエピソードがある。ちなみにその後、母さんは深夜を過ぎたあたりで「……おなか減った」とむくれながら帰ってきた。
 とにかく、俺の女装写真を、母さんは宝物のように扱っている。どう頑張っても処分はできそうにない。
 自嘲交じりのため息を吐き出し、俺はそっとアルバムを元あった場所に戻した。なんだか女装写真の枚数が微妙に減っていたような気もするが、こんなものを密かに持ち出すやつなんているわけないよな、と俺は自分を安心させた。


****


 澄み渡った夜空が広がり、夏の星座がその儚いかんばせを覗かせている。萩原邸の二階に設けられたバルコニーは、階下に広がる庭を一望できる造りになっており、その見晴らしのよさに加えて風通りも悪くない。涼やかな風が、まとわりつくような夜の暑苦しさを中和させている。質のよさそうな木製のホールディングテーブルとチェアが置かれていて、天気のいい日にはここでランチを摂ることもできそうだった。

「はぁ……」

 胸の裡にわだかまる熱を吐き出し、ロートアイアン製のフェンスにもたれかかりながら、内村竜太は緩慢と頭上を見上げた。果てのない宇宙が、きらめく星々を飲み込むように径を拡げている。もっとも強くまたたく星に向けて、彼はゆっくりと手を伸ばした。

「やっぱり……届かないよなぁ」

 なぜかは分からないが、この場所からなら星にも手が届くような気がした。だが竜太のてのひらには生温い夜気が絡みつくだけだった。それでいい、と彼は思う。星は届かないからこそ尊いのだから。
 携帯電話を取り出し、ぽちぽちと当てもなく弄る。ぼんやり操作するうちに、いつしか竜太は、電話帳に新しく登録された人物のページを開いていた。そこには『菖蒲ちゃん』と、確かに刻まれている。しかもアドレスだけではなく電話番号まで。
 信じられない気分だった。いまも半ば夢見心地だ。ずっと憧れていた女優と知り合いになれただけではなく、まさかこうして連絡先まで交換してもらえるなんて。挙句の果てに、自分たちはいま一つ屋根の下にいるのだ。これを奇跡と言わずしてなんという。
 実在するかも分からない神に感謝するように夜空を見上げていると、屋内からバルコニーへ通ずる扉が開いた。

「……邪魔」

 竜太が目を向けるよりも早く、素っ気無い声がした。泣きぼくろが印象的な壱識美影が、切れ長の目を細めて竜太をじっと睨んでいる。風呂上りなのだろう、夜に溶けそうなほど艶のある黒髪はほんのりと濡れ、うっすらと紅潮した頬が目立っていた。夕食のときはポニーテールに結わえていた髪も、いまはストレートに背中まで流れている。
 竜太がなによりも驚いたのは、彼女の服装だった。長袖のタートルネックに、下はジャージ。露出しているのは顔ぐらいで、胴体も四肢も布地に覆われている。暑さに強い体質なのだろうか。

「いや、邪魔って言われても、先にここにいたのは僕なんだけど……」
「うるさい。邪魔」

 やはり素っ気無く言って、美影は備え付けられていた椅子に腰掛けた。竜太とは目を合わそうともしない。

「……もしかして、このバルコニーは美影ちゃんのお気に入りの場所なのかな?」
「邪魔って言ったはず。どっか行け」

 取り付く島もなかった。言動の節々から、竜太を追い出そうとする思惑が透けて見える。さきほど聞いた話によると、美影は夕貴の従兄弟なのだという。親等で言えばそれなりに近いほうだが、性格的にも容姿的にもあまり似ていない。竜太にとって夕貴は気の合う友人だが、どうにも美影と意気投合する未来だけは見えなかった。

「あー、こほん。ところで美影ちゃんはいつもそんな厚着なのかい?」

 わりと誰とでも仲良くなれる自信のある竜太は、友好的な関係を築くためにもうすこしだけコミュニケーションをはかることにした。だが竜太の決意も虚しく、美影は口を閉ざしたまま夜の闇を見つめているだけだった。
 このままでは気まずくなる一方である。なにか話題はないだろうか。苦し紛れに視線を泳がせた竜太は、美影の胸元に揺れるペンダントに気付いた。

「……あれは、たしか」

 見覚えがあった。美しい光沢を放つ石。以前から夕貴がたまに身に着けている代物とよく似ている。しめた、と竜太は思った。女子とはアクセサリを好む生き物だし、そこに夕貴を絡めれば話題にはもってこいだろう。

「そのペンダント、きれいだよな」

 なるべく愛想のいい笑顔を浮かべて口火を切る。美影が流し目で竜太を見た。やはり向こうも興味を持ってくれたようだ。

「たしかそれ、萩原が持ってるのと同じやつだろ? いくら従兄弟とは言え、お揃いのアクセサリを着けるなんて珍しいね」
「べつに同じものを持ってても意味なんてない」
「そうかなぁ。普通、お揃いのアクセサリを持つのは恋人同士ぐらいだと思うんだけど」
「……恋人?」

 美影がぴくりと反応する。その反応を見て、竜太は閃いた。

「ははあ。そういうことか」
「……?」
「いや、だからさ。美影ちゃんって、萩原のことが好きなんだろう?」

 なんともなしに指摘した瞬間、美影は不愉快そうにペンダントを服のなかにしまいこんだ。そして冷たい声で言う。

「べつに夕貴とかどうでもいい」
「じゃあ美影ちゃんから見て、僕はどうだい?」

 冗談げに問いかけると、

「死ね。おまえなんか嫌い」
「一刀両断されちゃったー!」

 一拍の間も置かず、あっけない答えが返ってきたのだった。自分だけ嫌いと言われたままでは悲しすぎるので、彼は友人の評価も聞いてみることにした。

「だ、だったら玖凪は?」
「問題外。あいつは大嫌い」

 抑揚のない声には僅かな棘が混じっていた。詳しくは分からないが、どうも美影は託哉のことをかなり嫌っているらしい。自分ひとりだけ嫌われているわけじゃないと知り、ほっと安心してしまう竜太だった。

「じゃあナベリウスさんは?」
「あいつも嫌い。ヘンタイ女はいつか私が倒す」
「ヘンタイ女って……まあ確かに、あの人ってなんかエロいけど」

 健全な若い男子にとって、ナベリウスは毒にしかならないだろう。蠱惑的な顔立ちや出るところは出た豊満な身体もそうだが、あの艶かしい物腰は菖蒲一筋を公言する竜太でさえ気を抜けば見蕩れてしまうほどだ。
 
「美影ちゃん。萩原はどうだい?」

 もう一度だけ聞くと、美影は露骨に不機嫌そうな顔をした。

「……ちっ」
「舌打ちされたー!」

 思いのほか会話は弾んでいたのだが、ここにきて地雷を踏んでしまったらしい。美影はゴミを見るような目で竜太を睥睨した。もともと端正な顔立ちをした美人だ。ほんのすこし表情を崩すだけで酷薄とした陰翳が差し、相対する者を威圧する凄みが出る。

「めがねくん」
「は、はいぃっ!」

 底冷えのする視線に射抜かれて、竜太はびしっと直立した。女子高生に似つかわしくない、凶悪なまでのプレッシャーを感じる。年の功による序列も忘れて、思わず従順な挙措を取るほどだった。美影は肩にかかった黒髪の房を背中に流して、告げた。

「ポン酢さまを裏切るようなやつは、邪魔」
「失礼しましたー!」

 まだ根に持っていたのか、と内心で驚きつつ、競歩に近い足取りで早々にバルコニーから退散する。夕食会のときからずっと感じていたことだが、壱識美影という少女はあまり人付き合いに関心がないようだ。
 逃げ帰るように夕貴の部屋に入った竜太は、扉を閉めて大きく深呼吸をした。不思議といい匂いのする室内には、客用の布団が一組だけ敷かれていた。今夜、託哉と竜太はここで一夜を明かす。どちらがベッドで寝るかはあとできっちりと話し合わねばなるまい。
 夕貴を交えた男三人で夜通し騒ごうという意見も出たが、ひとつ屋根の下に若い少女が何人もいるような状況ではそれも気が進まなかった。結果として、部屋のスペースの関係上、夕貴は母親の部屋で眠ることにしたというのが今回の経緯だった。

「……なにやってんだろうなぁ、僕」

 しんと静まり返った部屋に一人でいると、今日あった色々な出来事のせいで高揚していた頭が、途端に冷静になった。そして頭の芯が冷えれば冷えるほど、当初からずっと引っかかっていたことが確固たる疑問として浮かび上がってくる。

 果たして、ほんとうに高臥菖蒲は萩原夕貴と親戚なのだろうか?

 当人たちがそうだと断言した以上、あまり疑るような真似はしたくない。事実、夕貴の説明に穴はなかったし、菖蒲の態度にも不審なところはなかった。ここ萩原邸も、ただの母子家庭ではまず手が届かないぐらい大きく広い。高臥家の人間に連絡して裏をとっても構わない、とまで菖蒲は言った。客観的に見れば、なるほど親戚だと言われても違和感はない。
 だが、と竜太は思う。確かに話の整合性は取れているが、なぜか完全に納得することはできない。もしかすると菖蒲と同棲している夕貴に嫉妬しているだけかもしれない。それでも、うまく形容できない違和感がある。率直に言うと、突拍子がなさすぎる気がするのだ。そして、なにか都合がよすぎるような気がするのだ。
 竜太が取り留めのないことを考えていると、部屋の扉がコンコンとノックされた。思考に没頭していた彼は、相手を確かめもせずに入室を促した。

「失礼します」

 そう断って姿を見せたのは、薄いピンク色のパジャマに身を包んだ菖蒲だった。丁寧に畳んだ衣服を両手に抱えている。竜太が大口を開けて固まっていると、菖蒲は弾んだ口調で言った。

「夕貴様。お洗濯した服をお持ちしました。菖蒲が箪笥にしまわせて……」

 そこで菖蒲は、部屋にいたのが竜太だと気付いたらしい。すこしだけ眠そうに閉じた二重瞼の瞳が、ぱちぱちと何度かまたたく。

「や、やあ菖蒲ちゃん」

 緊張により顔を赤くしながらも、竜太は手を上げて挨拶した。正直、目を合わせるだけでせいいっぱいだ。これで半径一メートル以内に近づいたりしたら、間違いなく心臓が破裂する。だが竜太にとって、目を合わせるのは不幸だったかもしれない。なぜなら。

「あ、うっちー様……」
 
 幸せそうだった菖蒲の顔が、竜太を認めた途端、残念そうに曇ってしまったから。竜太は、彼女の表情が変化した理由を、部屋にいた相手が気心の知れた親戚ではなく今日出会ったばかりの自分だったから、と解釈した。ただ相手を間違えただけでこれほど申し訳なさそうにするなんて、やっぱり菖蒲ちゃんは優しい女の子だ。

「えーと、今夜は僕と玖凪がここで寝る予定なんだけど……」
「……そういえば、そうでしたね。申し訳ありません。わたしとしたことが、お客様が使用なされる部屋を失念してしまうなんて」
「い、いや、そんなに落ち込まなくてもいいって! 菖蒲ちゃんは悪くないよ!」

 どよよん、と暗いオーラを発散する菖蒲を、竜太は励ました。小さな声で「これでは未来の妻として失格です……」と呟きが漏れたが、憧れの少女を前にした竜太の耳には入らなかった。

「そうだ!」

 わざとらしく大きな声を上げたのは、話題を変えるためだった。

「さっきバルコニーで美影ちゃんと会ったんだけどさ」
「……また、ですか?」

 菖蒲が困り果てたというようにため息をつく。

「お風呂から上がったばかりでは風邪を引いてしまうと何度も言っているのですが、どうも美影ちゃんはバルコニーを気に入っているらしくて」

 火照った身体を冷ますだけならいいのだが、美影はあのままバルコニーで眠ってしまうことがあるという。深夜、ふと心配になってバルコニーへ行ってみると、テーブルに突っ伏して静かに寝息をたてる美影の姿があるらしい。なるほど、と竜太は納得した。夏にしては厚着をしていると思ったが、涼んでいるときに睡魔を覚えたときのための用心だったのか。

「とりあえず、あとでわたしが様子を見に行ってみますね」

 そうまとめて、菖蒲は両手に衣服を抱えたままぺこりと頭を下げた。

「それでは、わたしは夕貴様のお洋服を箪笥にしまいますね。うっちー様はごゆっくりと寛いでいてください」

 勝手知ったる親戚の家、菖蒲は迷いのない足取りで部屋の奥にある箪笥に近づいた。すれちがうとき、竜太の鼻腔に爽やかな柑橘系の香りと、甘ったるいボディーソープの匂いが届いた。どくん、と心臓が跳ねる。密閉された空間に二人きり。竜太の顔は見る見るうちに赤くなっていった。
 菖蒲は箪笥のまえに両膝をつき、上品な所作でひとつひとつの衣服を引き出しにしまっていく。その後姿を、竜太はじっと見つめていた。
 テレビや雑誌を見るかぎり、高臥菖蒲は育ちのいいお嬢様という印象だった。そこには竜太の理想も多分に含まれているだろう。何かしらの偶然により本人と出会ったとき、理想と現実のギャップによって『高臥菖蒲』に幻滅してしまうのではないか、という不安もわずかにあった。

 しかし、なぜだろうか。こんなにも胸が痛むのは。こんなにも鼓動が高鳴るのは。こんなにも想いが溢れるのは。

 ただの理想だったはず。芸能人と一般人。まず間違いなく、死ぬまで交わらないはずの間柄だった。だからこそ竜太は、純粋な気持ちで菖蒲を応援することができたのだ。
 衣服を箪笥にしまう。そんな地味な作業を一生懸命にこなす菖蒲は、竜太の理想とぴったり一致していた。

「ふふ。夕貴様の服、柔軟材のいい香りがします」

 楽しげな独り言だった。何もかもどうでもいいと思えてしまうぐらい、楽しげだった。夕貴と菖蒲がほんとうに親戚なのかということも。そして、ほのかな憧れが確かな想いに変わりつつあることも、菖蒲の幸せそうな横顔のまえには些細な事実だった。

 手が届かない位置にあるからこそ、星は見るだけで満足できる。では、手が届く位置に星が瞬いていたら?




 静かな夜が、ゆったりと庭を包み込んでいる。よく手入れされた花壇の花も、色艶のいい鯉が悠々と泳ぐ池も、青々とした元気のいい芝生も、すべて夕貴と小百合が十年以上もかけてガーデニングしてきたものだ。一見して豪勢にも思えるが、素人が四苦八苦しながら整えたことが分かる痕跡が、そこかしこに見られる。金持ちの道楽では決してない。ここにあるのは親子の絆だけだった。
 ナベリウスは庭に出て月を見上げていた。風になびく長い銀髪を左手で抑え、豊かな胸元に右手を添える優美な輪郭は、一幅の絵画のごとき華がある。

「美人ってのは罪だなぁ。ただ月を見上げるだけでも絵になる」

 飄々とした声とともに、玖凪託哉がリビングの掃き出し窓から庭に下りてきた。

「ナベリウスさんは自分がどれだけ魅力的なのか分かってないな。気をつけないと、悪い男に言い寄られるかもよ。例えば、ここにもひとり候補者がいる」
「あら、わたしを口説くつもり?」
「つもりじゃなくて、口説いてるんだよ。どうどう? 今晩あたり、二人でちょっと新たな世界の探検にでも行ってみない?」
「残念ね。こう見えても、わたしって一途なの」
「はは、そりゃ確かに残念だ」

 人懐っこい笑みを浮かべて、託哉は夜空を振り仰いだ。青白い月光に照らされる澄ました横顔は、ともすれば女性の心を一瞬でさらえるだけの魅力がある。背も高く、ナベリウスがやや見上げるようなかたちだ。これで紳士的な嗜みを身につけ、軽薄な振る舞いを矯正し、意中の女性だけに愛を捧げることができるようになれば言うことなしだろう。

「……ありがとう、託哉」

 なんの前触れもなく、ナベリウスは真摯に感謝した。ずっと前から言おうと思っていたことをようやく口にできたのは、この美しい夜のおかげかもしれなかった。託哉はきょとんとしたあと、自嘲気味に肩をすくめる。

「なあに。たった二年か三年さ。改まって感謝されるような覚えはない。それにオレたちがいなくても、あの人なら一人で何とかしてみせたと思うぜ」
「あなたは、どこまで知ってるの?」
「人並み程度にはってところさ。いや、むしろ知らないことのほうが多いかもしれねえな。当時、オレはまだ生まれてもいなかったからな」

 ナベリウスは遠い過去に想いを馳せる。背中を預けて戦った人と、想いを持ち寄った親友がいた。抑えきれない愛が、やがて大きな闘争に発展した。誰かが死に、誰かが殺した。邪宗門の徒。ソロモンの小さな鍵。四書一法のなかでも最悪の書物。すべてが消え去ろうとしていた。だから大切なものを護るために命を捨てる決断をした。けれど、それは叶わず、消えることのない咎だけが手元に残された。

「……駄目だぜ、ナベリウスさん」

 はぁ、とこれみよがしにため息をついてから、彼が至極真面目な顔で言う。

「そんな物憂げな顔されたら抱きしめたくなるじゃん。どうして男の身体が大きいか知ってるか? 可愛い女の子を抱きしめてあげるためだよ。……どうどう? いまのオレ、わりと男前じゃなかった?」
「ぶれないわね、あなたも」

 託哉の決め台詞は、ナベリウスの苦笑によって相殺される。それから二人はしばし無言で月見を楽しんでいた。

「……リチャード・アディソン。この名に心当たりはあるか?」

 沈黙を破ったのは託哉だった。

「ううん、ないけど。それがどうかしたの?」
「いや、どうもしないさ。ただ最近、日本にうざったらしい連中がなだれ込んできてるらしいからな。もしかすると今後、どうかするかもしれないって話だ。ナベリウスさんも肝に銘じておいたほうがいいぜ。オレの勘だと、きっとまた厄介なことが起こるね」
「厄介なこと、ね」

 唇に指を当てて、ナベリウスは思考する。リチャード・アディソンという名に聞き覚えはない。ここ十数年ほどの間、彼女には裏世界の情報を取り入れるほどの余裕はなかったから。
 これから先、また誰かの血が流れるのだろうか。数日前の夜、久しぶりに見た”あの夢”が、なにかの予兆のように思えてならない。もうあんな想いだけはごめんだ。いや、自分はまだいい。本当に悲しいのは、残された母親と子供のほうだ。今度こそ、命に代えても守り抜いてみせる。ナベリウスは夜天に煌めく壮麗な月に向けて、ふたたび誓いを立てた。

「あー、なんつーか。ナベリウスさん」

 どことなく妖しい光を目に宿した託哉が真正面から見つめてくる。もしかして大切な話なのかしら、と心を引き締めた。それは念のためだったが、ナベリウスの傾注も虚しく、託哉の声には好色の響きが見え隠れしていた。

「そろそろナベリウスさんも寂しくなってくる頃だろ? よかったらオレが人肌で温めて、きみの孤独を……」
「ふーん。へーえ。ほーう。また性懲りもなく女の子を口説いてんのね、あんたは」

 さきほどの託哉と同じく、リビングと庭を繋げる掃き出し窓から藤崎響子が顔だけをぴょこんと覗かせていた。託哉は数秒ほど石化したあと、こほん、と小さく咳払いし、ゆっくり背を向けた。

「あれぇ? どこ行くのかなぁ、玖凪くん? ナベリウスさんを口説いてる最中じゃないの?」
「委員長が嫉妬するから今日のところは引き上げるわ。じゃあな」
「だれが嫉妬するってーのよ! いい加減なことばっか言ってると、ほんとに怒るかんね!?」
「図星を衝かれたからって怒鳴んなよ、響子ちゃん」
「響子ちゃん言うな!」

 近所迷惑にも等しい声量で怒鳴る響子の脇を、託哉は悠々とすり抜けていった。響子は拳を握り締めて「ぐぬぬぬっ!」と乙女らしからぬ唸り声を上げていたが、やがて肩を落として大きなため息をついた。

「すいません、ナベリウスさん。あいつに何かバカなこと言われませんでした?」
「ううん、べつに何も。ただ夜のお誘いを受けたぐらい」
「いやそれバカなことですから!」

 言ってから、委員長のように背負わなくてもいい苦労を背負っている少女は、庭に出てナベリウスのとなりに立った。
 誰が貸したのかは分からないが、響子は薄手のジャージを着ていた。そのすらりとした身体と勝気な目は、活発な、ともすれば男勝りな印象を抱かせる。だが反面、ショートカットの黒髪から漂うシャンプーの香りが、たおやかな少女の余韻をもたせていた。

「玖凪にも困ったもんですよね。高校の頃からちっとも変わんない。いつも女の尻ばかり追いかけて、学校にはちゃんと来ないし、来ても授業中は寝てばっかだし。どうしてあいつが萩原と友達なのかがよく分かりません」
「そうね。夕貴は優等生みたいだし、託哉とはある意味、正反対なのかもしれないわね。託哉なんてちゃらんぽらんな軟弱ナンパ野郎だから」
「……そ、それはちょっと言いすぎじゃないですかね? あいつも案外、ちょこっとだけいいところあるんですよ? まあよく見ないと分かんないんですけど」
「つまり響子は、託哉のいいところが分かる程度には、よく見てるってわけね」
「え」

 ぽかん、と呆気に取られたあと、響子の顔が見る見るうちに赤く染まった。

「な、なんでそうなるんですかっ? あたしはもっと誠実な男のほうが好きなんです! これは命を賭けてマジです! 大学出て五年ほどOLやって平凡な巡りあわせで公務員の男性と出会って二年ほど付き合ったあと結婚して子供は二人産みたいんですよ!」
「急にそんな人生設計を語られても困るんだけど。とりあえず落ち着きなさい。テンパりすぎよ」
「テンパってません! あたしは不名誉な事実を誤認されて慌ててるだけです! あんなふしだらな野郎と結ばれでもしたら、藤崎家のご先祖様に申し訳が立ちません! バカ凪なんて屑です! 人間の恥です! あいつに惚れる女なんて頭の一部がおかしいとしか思えません! 玖凪と付き合うぐらいなら、萩原の犬にでもなったほうが二万倍はマシですよ! あたし、なにか間違ったこと言ってます!?」
「……なんだか託哉が可哀想になってきたわね」

 ナベリウスがあのつかみどころのない青年に同情していると、響子は「うっ、確かに言いすぎたかも……」と気まずそうな顔で反省の意を示した。響子自身、まっすぐな芯の通った性格をしているから、託哉のことを悪い人間ではないと理解しつつも、その軽薄な言動を認めることができずにいるらしい。まさしく風紀を乱す不良の更生に燃える委員長そのものだった。
 いちど声を荒げると冷静になったのか、響子は頭痛を払うようにかぶりを振ってから、静かな声で語りだした。
 
「べつに玖凪のことなんてどうでもいいんですけど……ただ、あたしは、なんだか怖いんです」

 響子の声はかすかに震えていた。それは恐怖というより不安の表れではないかと、ナベリウスは分析した。

「玖凪は……あいつのことだけは、高校の頃からよく分からないんです。なんだか他の人とは違うっていうか。あたしたちと同じところで生活して、同じものを見ているはずなのに、もっと違うところを見てる気がするっていうか。そして、いまにも消えちゃいそうな気がするっていうか。……まぁ、うまく説明できないんですけど」

 あはは、と申し訳なさそうに笑う。やるせない不安が、心痛の種となって響子を苛んでいるのかもしれない。

「正直に告白すると、あたしは玖凪のことが気になってるんだと思います。もちろん惚れてるとかじゃありません。ただ、なんていうか……心配、そう、心配なんです。すこしでも目を離すといなくなっちゃいそうで。自分でもバカなこと言ってるのは自覚してますけど。あいつも普通の大学生なのに」
「……なるほどね」

 託哉が大学生の身分を持っているのは本当だし、学校生活をそれなりに楽しんでいるのも嘘ではないだろう。しかし、それは真実の一部でしかない。響子は生来の勘のよさで、玖凪託哉という青年にまとわりつく違和感に気付いたのだろう。親友である夕貴でさえも見逃すそれにわずかでも引っ掛かりを覚えたのは、もしかすると託哉が男で、響子が女ということに関係しているのかもしれない。
 双方の幸せを願うなら、違う世界に生きる二人を遠ざけるべきだ。いまよりも深く踏み込めば、託哉は知られたくないことを知られ、響子は見たくないものを見てしまうかもしれない。それが賢い選択であることは誰よりも分かっている。ずいぶんと昔、違う世界に生きる二人が出会い、愛し合い、離れ離れになってしまった事例を間近で見ているから。託哉と響子の距離は、あの二人よりも遠い。必然、ナベリウスの答えは否定的なものとなる。

「そうね。確かに託哉とあなたでは生きる世界が違うかもしれない」
「……です、よね。どうやっても仲良くなれない人ってのはいますし。あたしとあいつも、どこか合わない部分があるのかもしれませんね」

 響子は不器用に口端を歪めた。笑っているはずなのに、いまにも泣き出しそうな、か弱い少女の顔だった。普段は強がっているけれど、その実、年相応の女の子らしい弱さもちゃんと持っている。なぜ響子のとなりにいい男がいないのか、不思議でならなかった。その疑問が、ナベリウスの喉をふたたび震わせた。

「……でも」

 でも、と前置きして、本来なら終わらせるべき会話をさらに繋げる。人間よりも長く生きた彼女の老婆心は、悩める少女を放っておくことをよしとしなかった。大した助言はできないかもしれない。それでも、せめて女の先輩として、なんの役にも立たないささやかなアドバイスを贈るぐらいはできるから。

「悩むぐらいなら、いっそ男の好きにさせてあげればいいんじゃない?」
「……好きに、ですか?」

 おうむ返しに応える響子に、ナベリウスは頷いてみせた。

「そうよ、好きにさせてあげるの。男なんてふらふらした生き物だからね。理解しようとするだけ無駄なのよ」
「でも、あたしは……」
「べつに相手のすべてを理解する必要はないでしょう」

 諭すように言う。

「自信を持ちなさい。あなたは今日まで託哉とうまくやってきた。そこに秘密はあっても嘘はないはずよ。だれにだって人には言いたくないことの一つや二つはあるものだしね。響子だって、その歳になってもまだろくに男を作ったことがないっていう事実を隠してるでしょ?」
「それは、まあ……」
「あ、やっぱりそうなんだ」

 指摘すると、響子は「うぐっ!」と絞首されたような声を上げた。本人の言い訳によると、小学校から高校までバスケ一筋だったので男を作る暇がなかった、ということらしいが、それは詭弁の域を超えていなかった。
 顔を真っ赤にして支離滅裂な言い訳を繰り返し、すこしずつどつぼに嵌っていく響子に向けて、ナベリウスは優しい声音で言った。

「まあ、わたしが言いたいのは、あんまり悩む必要はないんじゃないってことよ。たしかに託哉はふらふらした子だけど、あなたの生真面目さに救われてるところもあると思うわ。はたから見ればお似合いだしね」
「あのー、ちょっと疑問に思ったんですけど、なんだかあたしが玖凪に惚れてるのが前提になってません?」
「違うの?」
「それだけは絶対にありえませんね!」

 きっぱりと否定してから、響子は続ける。

「でも……なんだか気分が楽になったような気がします。ちょっと考えすぎてたみたいですね、あたし。余計なことでバカみたいに悩んで……ほんと、これじゃ委員長って呼ばれても仕方ないなぁ」
「考えて、悩んで、そして損をするのが女って生き物だからね」
「あはは、ナベリウスさんの言うとおりですね。だから、これからは単純にいこうと思います。あいつはよく分かんないところばっかりですけど、きっと悪いやつじゃないと思いますから。もし玖凪がどこかでバカやったら、それをあたしが叱り飛ばしてやる。……って、こういうと夫婦みたいですけど、勘違いだけはしないでくださいね?」
「はいはい。分かったわよ」

 晴れやかな顔で夜空を見上げる響子は、ナベリウスの見間違いでなければ、ほんの数分前よりも綺麗になっているような気がした。
 男が迷って、負けて、そして立ち上がって強くなる生き物なら、女は悩んで、泣いて、そして前を向くことによって綺麗になる生き物だ。これはただそれだけのことだと、ナベリウスは思った。


****


 眠る前に冷たいお茶を飲もうと思った。明かりの消えた萩原邸のリビングは静かだった。十年以上前から壁にかかっているアンティーク風の時計の針は、二本とも頂点を指している。さすがにもう全員、自分の部屋に戻っているようだった。
 水分補給を終えて母さんの部屋に戻ろうとしていた俺の頬を、ふいに微かな風が撫でた。よく見れば、掃き出し窓がわずかに開いている。ジャガード織のカーテンがふわりと舞い上がった際、庭のほうに月明かりよりも鮮烈な銀色が見えたので、俺はすこし寄り道していくことにした。

「なにしてんだよ。いくら夏だからって、そんな薄着だと風邪引くぞ」

 窓枠に手をかけてそう言うと、ウッドデッキに腰掛けていたナベリウスが肩越しに俺を見た。ノースリーブタイプのシャツと、七分丈のパンツ。剥き出しになった二の腕やふくらはぎは息を呑むほど白く、艶かしかった。

「大丈夫よ。わたしは風邪を引かない女だからね」
「いや、それだとおまえ馬鹿だってことになるぞ」
「だったら言い直すわ。わたしは悪魔だから、風邪なんか引かないのよ」
「そっか。なら大丈夫だな」

 わたしは悪魔だから風邪を引かない。その言葉になぜか不思議なぐらい納得した俺は、彼女の左隣に腰を下ろした。そのまま俺たちは何も言わず、黙って寄り添っていた。この場所には母さんとの思い出がたくさん詰まっているからか、あるいはナベリウスがとなりにいるからか、夜の帳が下りた庭の風情のなかにいても俺は孤独を感じず、母の胎内に包まれているような安心感を覚えていた。
 あくびを噛み殺しながら横を向くと、ナベリウスが柔らかな微笑を浮かべて俺を見つめていた。

「な、なんだよ」

 月明かりに照らされる彼女は、さながら女神のごとく美しかった。至近距離で触れるその美貌に、俺は頬が熱くなるのを感じた。普段なら「あれー? なんか夕貴の顔が赤く見えるんだけど、気のせいかなー?」とか言ってくるはずなのに、彼女は優しげな佇まいを崩さない。

「もしかして夕貴、眠いの?」
「ん? あぁ、まあな。今日は暑かったし、大学で体育もあったし、夜はみんなで騒いだし。そりゃ眠くもなる」

 すると、ナベリウスは心なしかうきうきした顔で問いを重ねる。

「じゃあ、いますぐにでも眠りたかったりする?」
「べつにいますぐってわけでもないけど……なんでそんなこと聞くんだ?」
「決まってるじゃない。わたしが夕貴の枕になってあげようかと思って」
「は?」

 なに言ってんだこいつ、と口を開ける俺を一目も見ずに、ナベリウスは自分の太ももをぽんぽんと叩いた。

「膝枕してあげる。ほら、寝転びなさいよ」
「…………」
「あれー? なんか夕貴の顔が赤く見えるんだけど、気のせいかなー?」
「やっぱおまえはそういうやつだよなぁ!」

 この静かな夜のせいだろうか、ナベリウスと面と向かって話すのが妙に気恥ずかしい。きっと俺の顔は、彼女の言うとおり赤く染まっていることだろう。

「はぁ。まさか夕貴が、女の膝枕も素直に享受できないような女々しい男だったなんてね」
「……なんだと?」

 いまのは聞き捨てならない。萩原夕貴にもっとも似合わないとされる言葉の一つが”女々しい”であるというのは周知の事実なのに。

「ほらほら、そんな拗ねた顔してないで、はやく寝転びなさいって。べつに他意はないから」
「怪しい。俺のなかの何かが、おまえを信用してはいけないと叫んでいるような気がする。だっておまえは……」
「もしかして、イヤ?」

 いつものように親愛なる罵倒をかましてやろうと思ったら、ナベリウスが悲しげに目を伏せた。長いまつげが銀色の瞳に影を落とす。悲しいことに、女の子にそんな顔を許すほど俺は女々しくなかった。

「……わかった、わかったよ。じゃあ膝枕してくれ」
「ほんとに? いまさら嘘だって言っても聞かないわよ?」
「ああ。どうせ演技だろうけど、おまえの落ち込んでる顔なんか見たくないし」

 投げやりに告げると、ナベリウスは満面に笑顔を咲かせて「うん。こっちきて」と催促した。促されるままに身体を傾け、ゆっくり頭を下ろすと、たわやかな感触が右側頭部に伝わってきた。

「なんで庭のほう向くのよ。こっちに顔向ければいいじゃない」
「う……」

 それはさすがに恥ずかしいような。しかし彼女の提案を断りきるだけの明確な理由もないので、俺はしぶしぶと体の向きを変えた。

「ちょっと。それはこっち向きすぎじゃない?」
「いいだろべつに。どこを向こうが俺の勝手だ」

 仰向けに寝転んでナベリウスと目を合わせるのが気恥ずかしかったので、体を九〇度ではなく一八〇度ほど動かした。鼻先数センチのところに、青い薄手のシャツに包まれたナベリウスのおなかが見える。彼女は、仕方ないなぁ、とでも言うように相好を崩した。

「どう? 悪くないでしょ?」
「……まあな。悪くない」

 ナベリウスの太ももは反則的なまでに柔らかかった。ほどよく筋肉がついていながら、女性としてのしなやかさもある。この膝枕を人工的に再現できたら人類から不眠症がなくなるかもしれない。
 ゆっくりと大きく息を吸うと、ナベリウスの身体から甘い匂いがした。なんだかすごく落ち着く。人工的には作り出せない、彼女だけの匂い。まだ銀髪もすこしだけ濡れていて、そこから微かにシャンプーの芳香が漂っている。疲れていた体が急速に眠りを求め始めた。

「眠りたくなったら眠ってもいいわよ」
「俺はそれでいいかもしれないけど、おまえが疲れるだろ。人間の頭ってけっこう重いからな。足、痺れるんじゃないか?」
「気にしない気にしない。夕貴の寝顔が見れるって特典があるしね」
「そんなもん見ても何の得にもならないぞ。つーか、こんな話してる暇があるなら、自分の部屋に戻ったほうが……」
「だーめ。いくらご主人様の命令でも、それだけは聞けないわ」

 ナベリウスは慈愛に満ちた瞳で俺を見つめながら、幼子をあやすように髪を撫でてくる。これがまた信じられないぐらい気持ちよくて、眠気が一気に襲ってきた。そんな俺を見て、彼女はくすくすと笑った。

「夕貴の目、とろんってなってる。かわいい」
「……バカ。俺にもっとも似合わない言葉の一つを堂々と吐くな」

 すこしずつ薄れていく意識のなか、俺は小さな声で言った。なんともいえない幸福感が身を包んでいる。こんなに安心して眠りに落ちた記憶は、俺の十九年の生涯のなかでもそうないと思う。

「ねえ夕貴。月がきれいね」
「ああ……そう、だな」

 ナベリウスの声がぼんやりとしか聞こえない。自分がうまく喋れているかも自信がない。ただ彼女に包まれていることしか、分からない。俺の髪を優しく撫でる白魚のような指の感触がまた、睡魔に拍車をかける。

「あれ、もう寝たの?」

 まだギリギリ起きてるよ、と言いたいのに、喉を震わせる力はもう残っていなかった。俺が眠りに落ちたと判じたのか、彼女は沈んだ声で言う。
 
「……ごめんね」

 なにが、と聞きたいのに、やはり声は出なかった。

「……わたしが、夕貴を護るから。あなただけは絶対にわたしが護るから。ずっと見てきたもの。夕貴が小百合を護ろうと努力してきた姿を」

 ずっとって……どういう意味だ? 俺とナベリウスが出会ってから、まだ数ヶ月ほどしか経っていないはずなのに。

「いろんな約束を破ってきた。果たすべき責任からも逃れ続けてきた。それでも、最後の、ほんとうに大切な”約束”だけはまだ破ってないから」

 俺の頭を撫でていた彼女の手が止まる。一抹の名残惜しさを覚えた。ずっと昔にも、こんなふうに誰かの膝でまどろんでいた気がする。涼やかな風が吹くたびに銀色の髪がさらさらと揺れ、彼女の匂いが鼻腔に届いた。ほんとうに心地いい。

「正直に言うと、ちょっと怖い」

 意識が闇に落ちる寸前。いまにも泣き出しそうな、弱々しい声を聞いた。

「あなたのなかに流れる血はだれにも負けない。きっと夕貴はなんでもできるわ。友達を助けることも、母親を護ることも、好きな女の子と添い遂げることも。そして」

 大切な人を護って死ぬこともね、と。さながら懺悔のように彼女は呟いた。

「だから忘れないで。あなたが父親から受け継いだ《天元の法》は、多くの人を護れる代わりに、大切な人を悲しませてしまうかもしれない力だってことを」

 抽象的すぎて言ってることがよく分からない。もっとはっきり言ってくれよ。おまえが不安だってんなら、俺が男らしさ全開で助けてやるから。そう口に出したつもりだったのに、声にはならなかった。睡眠を欲する俺の体は、ナベリウスの包み込むような優しさに甘えて現実から遠ざかっていく。

「おやすみ、夕貴。愛してる」

 バカ。そんな恋する女の子みたいな、蕩けた声で冗談を言うなよ。勘違いするだろうが。



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