<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[29805] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/07/12 00:25

 今年一番と銘打たれた猛暑も、休日の昼下がりというファクターを前にしては形無しという他ない。冷房のきいた室内でゆっくりしたい、と怠惰なことを願う俺とは対照的に、繁華街は多くの人でごった返していた。そして悲しいかな、いまの俺には冷房のきいた室内でゆっくりできるほどのゆとりは心身ともになかった。
 単刀直入に言おう。俺はすべてに絶望して家出したのだ。いや、もっと正確を期して言うならば、萩原邸は個性豊かな三人の同居人に乗っ取られてしまったのだ。
 萩原家の長男たる俺をここまで追い詰めるほどの残酷な事件が起こったのは、託哉たちが一泊した次の日だった。俺と菖蒲と美影がリビングでくつろいでいると、やけに機嫌のいい笑みを浮かべたナベリウスが後ろ手になにかを隠しながらやってきた。訝しむ俺たちに、銀髪悪魔は声を大にして告げた。

「ふっふっふー! これなーんだ!」

 ナベリウスが持ち出してきたものは、まだ幼い少女が映った写真だった。とても可愛らしい女の子が、唇に人差し指を当てて涙目になっている。あれ、これどこかで見たことあるような……と俺の心中がざわめき始めた瞬間、菖蒲と美影が血相を変えてナベリウスに駆け寄った。そして彼女たち三人は、一枚の写真を囲ってきゃーきゃーと黄色い声を上げ始めたのである。

「……ま、まさか」

 そこでようやく、俺は写真の被写体となっている少女の正体に気付いた。いや、もしかすると初めから気付いていたのかもしれない。きっと男らしく生きようとする萩原夕貴の心が、かつての女々しい自分を否定していたのだ。ぶっちゃけると、ナベリウスが持ち出してきた写真とは、俺の女装写真だった。かなり本気で嫌がる俺を意に介さず、

「やっぱり夕貴ちゃんは可愛いわね。さすがはわたしのご主人様」
「こ、これは可愛すぎます……さすがは菖蒲のごしゅじ……こほん、旦那様です!」
「べつに夕貴とかどうでもいい。……でも弱味を握るために写真はもらう」

 などと口々にほざきながら、彼女たちは一枚の写真をめぐって壮絶なバトルを始めた。そして俺は、いつまでも飽きずに萩原夕貴ではない何者かが映った写真の争奪戦を続ける馬鹿どもにぶちギレた。

「ふっざけんな! おまえら自分がなにしたか分かってんのか!」

 その日の夜、俺の部屋には三人の少女が正座していた。やれやれと肩をすくめるナベリウス、しゅんと項垂れる菖蒲、眠そうにあくびをする美影。二名ほど反省してなさそうなやつがいたが、それでも心をこめて説教すれば、きっと分かってくれるだろうと思っていた。

「おまえら、俺のことを温厚な男だと思ってんだろ! はっ、違うな! それは大きな間違いだ! 俺はその気になれば燃えるゴミの日に燃えないゴミを出せるんだぜ!? どうだ、いまさら男らしいと思っても遅いからな!」

 腕を組んで居丈高に叫ぶと、「いるいる。悪いことを男らしいと勘違いしてる子が」とか「あの、夕貴様? それは一周まわって逆に女々しいかと思うのですが……」とか「……ぐう」とか、最高にうざい反応が返ってきた。

「んだとコラぁっ! もっぺん言ってみろ! こう見えても俺はおまえらが思ってるよりも遥かに男らしいんだじょ……だ、だぞっ!」

 やべえ噛んじゃった……と羞恥に顔を赤くしつつも男らしく言い直した俺に、さらなる追い討ちがかけられた。

「あれま。顔真っ赤。夕貴ちゃん可愛い」
「……ふふ。夕貴様ったら、”だじょ”なんて……ふふ」
「だじょ……これは流行る」

 俺のなかで怒りが爆発的に高まっていった。いつの間にか萩原邸のヒエラルキーは狂っていたらしい。長男である俺の威厳が地に落ちていたなんて知らなかった。そのことに気付くのが、俺はすこしばかり遅かったのだ。

「分かった。もういい。おまえらなんか嫌いだー!」

 翌日の早朝、つまり今朝、俺はなんの未練もなく萩原邸を飛び出したのだった。



 じりじりとした陽射しが照りつける街中を、俺はやさぐれながら歩いていた。太陽光や自動車から出る熱をアスファルトが吸収して熱源となり、周囲の気温を押し上げている。これが俗にいうヒートアイランド現象なのだろうか。とにかく暑い。
 本格的な夏の到来を示すように、すれ違う人々は春の頃と比べるとかなりの薄着だった。腕や足を露出し、帽子をかぶってサンダルを履く。それでも暑さを緩和するには至らないのだから、今日の最高気温が35℃を超えるというのは伊達じゃない。

「ふん、もういいんだ。あいつらのことなんか知らないんだ。俺はこれから一人で生きてやるんだ……」

 むかむかとした気持ちのまま空を仰ぎ見る。晴れ渡った空を見れば怒りも収まるかな、と思ったのだが、どこまでも広がる蒼穹のなかに彼女たちの姿が浮かんできて、余計にイラつく結果となった。
 当てもなく繁華街をうろついていると、携帯に着信があった。液晶に表示された『自宅』という文字を見てげんなりしたが、心の底ではあいつらのことを嫌いになりきれていない俺が無意識のうちに通話ボタンを押していた。

『ねえ夕貴ー。そんな女の子みたいに拗ねてないで、とっとと帰ってきなさいよ』

 明らかに悪びれていないナベリウスの声が耳朶を打つ。ちょっとでも期待した俺がバカだったらしい。この銀髪悪魔は、俺を辱めたことを何とも思っちゃいない。

「……いますぐにでも電話を切ってやりたいところだが、これだけは言わせてくれ。俺は女々しくなんかない」
『そう? でも拗ねてる時点で女々しくない?』
「ほっとけ。もう俺はおまえのことなんか知らないんだ。ナベリウスなんか大嫌いなんだ。ちょっとでもおまえのことを信じた俺がバカだったんだ」
『あら、そんなこと言っちゃうんだ。わたしのおっぱいを揉み揉みしたくせに』
「それとこれとは関係ないだろ! 元はと言えば、人のベッドに裸でもぐりこんだおまえも悪いんだ!」
『まぁ、べつにわたしは夕貴になら揉まれてもよかったんだけどね』
「そ、そんな男心をくすぐるようなこと言っても、俺は騙されないぞ!」
『はいはい。わかったわかった。それより美影が謝りたいって言ってるから代わるわね』
「美影が謝りたい……だって?」

 もしかして天変地異の前触れなのだろうか。なんだか怖くなってきた。普段の言動から察するに、美影は俺のことを嫌っているとばかり思っていたのだが。いままであいつに謝られた経験なんてないぞ、たぶん。
 ひたいに流れる汗が、暑さによるものから悪寒によるものへと変わった直後、聞き覚えのある怠惰な声がスピーカーから吐き出された。

『夕貴。ごめん』

 開口一番、美影は平坦とした声で言った。あまりにもストレートなその態度に、携帯を持つ手が震えた。

「お、おまえ……正気か?」
『うん。ごめん』

 思わず涙が出そうになった。あの気まぐれな猫のごとき美影が、まさか自分の非を認めて素直に謝罪の言葉を口にするとは。さすがの美影も、人の恥ずかしい過去を面白おかしく突くのは罪悪感があったのだろうか。清々しい気持ちが胸に生まれるのを感じながら、苦笑交じりに言葉を返す。

「いいんだ。いいんだよ美影。おまえが謝ってくれただけで、もうじゅうぶんだ」
『そう。安心したじょ。私も悪いと思ってたんだじょ』
「は?」
 
 ぴしり、と音を立てて大切な何かに亀裂が走った気がした。俺の気のせいでなければ、美影の語尾にあまり思い出したくないものが付加されていたような。

『夕貴、もう帰ってくるんだじょ。あやめが心配してるんだじょ』
「…………」
『どうしたんだじょ?』

 一瞬、俺の耳に異常があるのではないか、と疑ったが、こう何度も繰り返されては聞き間違えることもできない。

「……なあ、ひとつ聞いていいか?」
『なんだじょ?』
「その”だじょ”って、もしかして……」
『ぎくっ』

 受話器越しなのに、美影の狼狽がはっきりと伝わってくる。

『べ、べべべつにパクってなんかないし。私、”だじょ”を編み出した夕貴のセンスに嫉妬なんかしてないし』
「…………」
『それにアイディアに著作権はないってあやめが言ってた。夕貴が世に発表する前に私が……』
「ふーん。美影って人のアイディアを盗むようなやつだったんだな」
『ち、違う! 私は今年の流行語大賞を狙える器!』
「だまれ! このパクリが!」
『……パク、リ……私が、パクリ……パクリ……パクリ……』

 湧き上がってくる苛立ちを堪えて、飽くまで冷静に追い詰めていく。しばらくするとバタっと何かが倒れる音がして、「美影? ちょっと、しっかりしなさい」というナベリウスの声が聞こえてきた。これで多少は溜飲が下がったというものだ。携帯を耳から離し、通話を終えようとボタンに指をかける。

『夕貴様……』

 そのとき、儚げな声が空気を揺らした。いちど電気信号に変換されているにも関わらず、その声はスピーカーから従来の美しい音色となってこぼれた。荒くれていた心がおだやかに凪いでいくのが分かる。電話を切ろうとする俺を踏み留めるだけの魅力が、彼女の声には備わっていた。俺はゆっくりと携帯を耳に押し当てた。

「……なんだよ菖蒲。俺に言いたいことでもあるのか?」

 本当はもっと優しい声で語り掛けたかった。しかし俺の胸のうちで渦巻く怒りと羞恥が、口をつく言葉を刺々しいものに変えてしまう。
 十数秒ほど沈黙が続いた。菖蒲のかすかな吐息と、繁華街の喧騒だけが耳に入ってくる。後者のほうが圧倒的にやかましいのに、なぜか俺は前者のほうに意識を吸い寄せられていた。それだけ菖蒲の存在は、俺のなかで大きな比重を占めているのだろう。

『……申し訳、ありませんでした』

 意を決したように彼女は言う。それはさきほどの美影を彷彿とさせる突然の謝罪だったが、抑揚のない口調の美影とは違い、たしかな感情のこもった声が菖蒲の抱く罪の意識を如実なものとしていた。

『菖蒲としたことが、夕貴様と添い遂げる者としてあるまじき非道な行いを……これでは未来の妻を名乗る資格は、ありませんね』
「そ、それは思いつめすぎじゃないか?」
『いいえ。菖蒲は愚かな女なのです。夕貴様の嫌がることを嬉々として行うような、とてつもないあんぽんたんなのです……』
「げ、元気だせって! 菖蒲はあんぽんたんなんかじゃないから!」

 あの大事件を棚上げして励ましたくなってくるぐらい、彼女の吐露は悲壮さを帯びていた。

「それにさ。こうして謝ってくれただけでもじゅうぶんだよ。やっぱり菖蒲はいい子だな。ナベリウスや美影とは違う」
『……っ』
「俺には菖蒲しかいないんだ。だから落ち込むなって。な?」

 我ながら恥ずかしい台詞だったが、なんとか菖蒲を慰めるに至ったらしく、電話越しで息を呑む気配がした。

『……本当ですか? 夕貴様は、菖蒲のことを嫌いになっていないのですね?』
「当たり前だろ。いちいち確認すんなよ」

 自然と唇がゆるむのが分かる。たぶん、向こうでも菖蒲が顔をほころばせていると思う。すべてを許せるような気分になってきた俺は、ヘソを曲げるのを止めて萩原邸に帰ろうかと思った。ナベリウスに直接文句を言ってやりたいし、この機会に美影を徹底的にいじめてやりたいし、そして落ち込む菖蒲の頭を撫でてやりたいのだ。

「じゃあ、そろそろ……」

 帰ろうかな、とさりげなく言おうとしたまさにそのとき、銀髪悪魔の声がかすかに聞こえてきた。

『ねえ菖蒲。さっきわたしがコピーした夕貴の写真、家宝にするって本当なの?』
『な、ナベリウス様! 声が大きいです!』
「…………」

 よし、家出しよう。うっとうしいぐらい青い空に、俺は男の誓いを立てた。

『あの、夕貴様? 菖蒲にも菖蒲なりの事情というものがありまして、率直に申しますと、愛らしい夕貴様のお姿に心を奪われてしまった愚かな女がひとりとでも言いますか、とにかく落ち着いて話し合いの場を設けるのが適切かと……』
「菖蒲だけは信じてたんだけどな」
『うぅ……面目ないです。夕貴様があまりにも可愛らしくて、つい……』
「いままでありがとう。みんなにもよろしく言っといてくれ」
『お待ちください! いやです夕貴様! 菖蒲を置いて行かないでください!』
「じゃあな。俺は男を磨いてくるよ」

 告げてから、俺は電話を切り、携帯の電源も落としていた。もういい。萩原邸は個性豊かすぎる三人の女の子に乗っ取られてしまったんだ。俺に帰る場所なんてないんだ。
 春の頃からは想像もできない灼熱がふりそそぎ、地表のコンクリートを焦がしていく。際限なく上がっていく気温が、俺の体力をじわじわと奪っていく。したたり落ちる汗は、まるで涙のようにも錯覚した。
 ポケットに両手をつっこみ、背中を丸めて、冷たい風に吹かれるようにとぼとぼと歩く。まわりには楽しそうに笑う家族や、友人連れ、カップルばかりが目立つ。どんどん孤独感が強まってきた俺は、どうせ手に入りもしない人の温もりから遠ざかるために繁華街を離れることにした。そのまま十分近くも歩いた頃、俺の視界にはのどかな住宅街が広がっていた。
 そこからさらにまっすぐ進むと、汐坂(うしおざか)というこの街でも有名な長い坂道がある。両脇には街路樹が等間隔で並び、春になると一斉に桜を咲かせる。それがまた軽く感動を覚えるぐらい美しいのだ。
 汐坂を上った先には、やや開発の遅れた昔ながらの住宅街と、なかなかの敷地面積を誇る自然公園が構えている。俺はこのサウナのごとき熱から逃れるため、そして陵辱された心を癒すために緑の豊富な自然公園を目指すことにした。
 しかしながら、真夏日に徒歩で坂道を上るのはなかなかの重労働だった。いつしか太陽はてっぺんまで上り、夏に相応しい炎天下がアスファルトのうえに完成している。家出してしまったことをちょっぴり後悔しながら、俺は汐坂との死闘に意識を集中した。



 男の意地で汐坂を踏破した俺は、しかしそこで体力の限界を迎えていた。このままだと冗談抜きにぶっ倒れそうだったので、疲労困憊の心身を労わろうと自然公園のなかに入る。
 この荘圏風致公園(そうけんふうちこうえん)は、緑の少なくなった現代において往時を偲ぶことのできる貴重な憩いの地だ。都市計画法上、風致公園の一種として自然が保全されている。よって、正確には”自然公園”ではなく”風致公園”の名称が正しい。色とりどりの花壇で占められたスポットや、大勢の子供が遊んだり家族がピクニックシートを敷くことのできる広大な広場などがある。
 公園を造ってから緑を植えた、というよりは、うっそうと生い茂った森を切り開いて公園にした、という形容がしっくりくるほど、ここは瑞々しい自然に溢れている。背の高い樹木があちこちに屹立するなかを散策路が貫き、いくつかの道に分かれて伸びている。
 公園の南端部にはちょっとした展望台があり、高台から街を見渡せるようになっている。俺が死ぬ思いで上ってきた汐坂の高さだけ、開ける景色も美しいものになるのだ。
 鮮やかな緑に包まれた散策路を歩きながら大きく息を吸うと、清浄な空気が肺を満たした。木立が日光を遮っているからか、街中よりもずいぶんと涼しく感じる。滴っていた汗がゆっくりと引いていく。これで蝉の大合唱が小鳥のさえずりだったら言うことなしなのだが、そこまで望むのも贅沢だった。
 のんびりと散歩する老夫婦や、犬のリードを引く子供、ジョギングする初老の男性などとすれ違いつつ歩いていると、ふいに木立を縫って歌声のようなものが俺の耳に薄っすらと届いた。

「……なんだ?」

 純粋に興味を引かれた。唄は展望台のほうから聞こえてくる。爽やかな風に乗って流れてくる発音は、あまり馴染みのない外国のものだった。それがまた余計に俺の知的好奇心を刺激する。俺だけじゃない。あれだけ喧しかった蝉も鳴くのを止めて、この歌声に聞き入っていた。
 甘い蜜に誘われる蝶のように、心が惹きつけられる。
 展望台に近づけば近づくほど歌声は鮮明になる。どこかで聞き覚えがあると思ったら、この旋律は、俺が子供の頃に母さんがよく子守唄として歌ってくれていたものに酷似している。
 やがて散策路の果てまで辿りつくと、一気に視界が開けた。扇状に作られた展望台の弧を描く部分には落下防止用の鉄柵が建てられ、その向こうには俺たちの街が絶景となって広がっている。そして。

 展望台の最奥、白い陽射しが天使の梯子のように降り注ぐなかで、その少女は歌っていた。

 瞳を閉じ、両手を胸に添えて喉を震わせる姿は、歌っているというよりも祈っているように見えた。
 黄金を溶かして繊維状にしたような長い金髪は、ほのかに赤みがかっており、ツインテールに結われてちょこんと肩口から背中まで流れている。目鼻立ちのくっきりとした顔は卵形の輪郭を描き、清廉な声を紡ぎだす唇には果実を思わせる瑞々しさがあった。
 プロポーションもよく、ミニスカートの縁からは健康的な脚線美がのぞき、くびれた腰とほどよくふくらんだ胸元のバランスは見事と言うしかない。年の頃は俺とおなじか、すこし下ぐらいだろうか。鮮烈な赤いチュニックが、珍しい髪の色とよく合っていた。
 やおら唄が止まる。ぴくり、と長いまつげが震えたかと思えば、少女は胸に添えていた手を下ろし、ゆっくりと両目を開いた。自然公園を彩る若葉に見劣りしない、翠緑の双眸が俺をそっと捉える。見つめあうことしばらく、挨拶の一つでも投げかけるべきかと思慮をめぐらせていると、

「こんにちは」

 俺の逡巡を汲み取ったかのように少女のほうから声をかけてきた。ついさっきまで彼女が口ずさんでいたのは異国の唄だが、その第一声は日本人と比べても遜色のない流暢な発音だった。

「恥ずかしいの聞かれちゃったね。だれもいないと思ってたから、びっくりしちゃった」

 そう告白したわりに彼女には気分を害した様子はなく、むしろ歌姫が観客にパフォーマンス後の礼を述べるがごとく自然体のままで俺を遇した。それにしても、出会ったばかりの男に自分から声をかけるなんて、やっぱり外国人の方は日本人と比べるとフレンドリーなのだろうか。

「ここはいい場所だね。景色はきれいだし、風はとっても気持ちいいし。うん、日本にきてよかった」

 展望台の入り口で呆然とたたずむ俺をまっすぐに、優しい眼差しで見つめてくる。なんだか浮世離れした雰囲気の持ち主だな、と思った。聖性を帯びているとでも言えばいいのか、相対しているだけでもひどく緊張する。

「名前」
「え?」
「教えてほしいな。きみの名前」
「…………」
「だめかな?」
「……萩原、夕貴だけど」

 ペースを握られていたからか、暑さに頭が参っていたからか、俺は問われるがままに自分の名を口にしていた。彼女は「はぎわら、ゆうき……」と語感を確かめるように呟いてから、うっすらと目を細めた。

「うん。いい名前だね。きみにとても似合ってると思うよ」

 俺は両親から頂いた自分の名に強い愛着を持っているが、しかし一般的に見て”萩原夕貴”というそれは平凡の域を出ない。さりとてお世辞であっても他人から褒められると嬉しいことに変わりはなく、少女の言葉は、俺の胸中に芽吹いていた僅かな警戒心をふたたび種に戻すのにはじゅうぶんだった。

「ありがとう。それで、君の名前はなんていうんだ?」
「わたし? わたしはリゼットだよ」

 一陣の風が吹き抜ける。若葉がざわざわと揺れた。自然の息吹に呑まれてもなお、彼女の声は鮮明に俺の耳まで届く。

「リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。長いからね、リズでいいよ」

 赤みがかった金色の髪とエメラルドグリーンの宝石を思わせる翠緑の瞳を持つ少女は、柔らかな微笑とともにそう名乗った。風になびく長髪を抑える手には、精緻な紋様が刻まれた銀の指輪が白光を受けて輝いていた。



 木立を貫いて差し込む陽光が、荘圏風致公園の展望台を白く照らしている。柔らかな風が吹き、じっとりと汗に濡れた体を労わるように撫でていく。展望台の奥にたたずむ少女の、赤みがかった金髪が揺れる。それは陽のなかに溶けていきそうな、ひどく美しい色合いだった。
 リゼットと名乗った少女は、軽やかな足取りでベンチまで歩み寄ると腰を下ろし、空いたとなりのスペースをぽんぽんと叩いた。木陰にあるので涼しそうだ。

「ほら、ここ空いてるよ?」
「……いや、それは見れば分かるけど」
「よかったら少しお喋りしようよ。だめかな?」

 なんだかつかみどころのない女の子だな。出会ったばかりの男を遇するにしては、いささか気安い態度に思えるけど。

「袖触れ合うも他生の縁、だったかな。この国の言葉って素敵だよね。たまには行きずりの相手と縁を深めるのも悪くないと思うよ」

 とりあえず自分で行きずりの相手って言うな、と思ったが、初対面なのでツッコミは自重しておいた。
 そんな俺の思考など知る由もない少女は、満面に笑みを咲かせてこちらをじっと見つめていた。あまりにも無垢な目だった。幼い子供特有の、成長するに従って失われるはずの無邪気な視線である。その清廉な眼差しに、素性の知らない他人に対して無意識のうちに作っていた精神的な距離が、ゆっくりと埋められていくのを感じた。
 出会ったばかりの、それも異邦人の女の子とうまくコミュニケーションを取れる自信などあるわけがない。だが、そこまで考えたところで、いまの俺には帰る家なんてないことを思い出した。どうせ日が暮れるまでは当てもなく街をぶらつくつもりだったわけだし、ちょっとぐらい変わった寄り道をしても罰は当たらないか。
 のろのろとベンチまで近づいた俺は、小さく会釈してから少女のとなりに座った。踏み出す足が重かったのは、きっと見知らぬ女性と二人きりというシチュエーションに一抹の不安を覚えたからだろう。

「なんでそんなに離れて座るの? もっとこっち来ればいいのに」
「…………」

 遠まわしに『女慣れしていない女々しい男』と言われた気がしたので、ほんの少しだけ距離を詰める。

「わたし、きみとは仲良くなりたいな。萩原夕貴くん」

 どこか妖艶にそう言って、身体を寄せてくる。流れるような金髪はツインテールに結われ、かたちのいい鼻梁とふっくらとした唇が、白い陽射しに照らされている。鮮烈な赤いチュニックに、黒を基調としたチェック柄のミニスカート。そして彼女の細くて滑らかな指には、この世のものとは思えないほどの美しい銀色の指輪が――瞬間、かつてないほどの強烈な危機感を覚えた。

 あれは、ひどくやばい。

 言いようのない感情に駆られた俺は、立ち上がると同時に少女から距離を取った。ほとんど無意識の行動だった。なぜかは分からないが、彼女の持つ見事な指輪が、世界中のどんな凶器よりも恐ろしく見えた。全身に悪寒が走り、身体中の毛穴が開く。冷や汗が背中を濡らした。

「どうしたの。そんなに怖い顔して」

 荒く呼吸を繰り返す俺を見つめて、少女は無邪気に微笑んだ。

「もしかして夕貴くん――この指輪、知ってるのかな?」

 右手をかざす。精緻な紋様が刻まれた白銀の指輪が燦然と輝いていた。驚くべきことに、少女が当て推量で口にした言葉は、不気味なほど的を射ていた。確かに俺はあの指輪を、どこかで見たことがあるような気がするのだ。
 深呼吸をして気息を整える。脳にまでしっかり酸素を回すと、支離滅裂だった思考もクリアになる。なんだかバカらしくなってきた。たかが指輪一つに何びびってんだ、俺は。

「……知らねえよ、そんなもん」

 もう一度、彼女のとなりに腰掛ける。吐き出した言葉には棘とともに幾分か自嘲が混じっていた。勝手に取り乱した挙句、初対面の女の子を突き放すなんて、女々しいと言われても何の反論もできない。

「そっか、知らないんだね。じゃあしょうがないね」

 俺が足元の石畳に視線を落としていると、そんな暢気な声が聞こえてきた。横目に見れば、少女は俺の態度をまるで気にしたふうもなく空を見上げている。ほんとうによく分からない子だった。

「……あのさ。ひとつ君に聞きたいことがあるんだけど」

 先の非礼を反省して柔らかい声で口火を切る。しかし俺の努力も虚しく、彼女は不服そうに首を傾げた。

「君じゃないよ。わたしの名前はリゼットだよ。リズでいいって言ったでしょ?」
「いや、会ったばかりの女の子を愛称で呼ぶのは失礼だと思うんだけど」
「そんなことないよ。向こうだと普通だしね。夕貴くんさえよければ、リズって呼んでほしいな」

 気まずい。なにが気まずいかって、目を期待にキラキラと輝かせて見つめてくるのだ。いままでに経験したことのないタイプのプレッシャーに敗北した俺は、鳴き方を忘れた小鳥のような情けない声でつぶやいた。

「……リ、リズ」

 なんたる屈辱だろうか。いままで男らしさを欲しいままにしてきたこの俺が、まさか女の子の名前を呼ぶのに緊張して思春期の子供のごとき様相を呈してしまうとは。とりあえず家に帰ったら枕に顔を埋めて気が済むまで叫ぼう、とアホみたいなことを考えていると、

「うん。夕貴くんはそれでいいと思うよ」

 リズは笑ってくれた。ミニスカートから伸びる脚が機嫌よさそうにぶらぶらと揺れている。まだ名前ぐらいしか知らないが、少なくとも悪い子ではなさそうだ。
 それから俺たちは言葉を交わすことなく、ベンチに掛けて木陰がもたらすささやかな避暑を楽しんでいた。気心の知れない相手と一緒なのに、なぜか沈黙が苦痛じゃなかった。かすかな蝉の声と、風の音色と、木の葉がざわざわと揺れる音。自然が与える安らぎとは偉大だと改めて実感した。いくら文明が発達しようと、きっと人は緑から離れることはできないと思う。
 あらかた汗が引いた頃、俺はさりげなくリズの様子を伺ってみた。彼女は目を閉じていた。柔らかな表情。まるで自然の息吹を全身で感じているかのようだった。瑞々しい若葉を透かして降る光が、循環する風が、ありとあらゆる生物の鼓動が、リズを祝福していた。現代において、これほど自然と調和できる人間も珍しいだろう。
 とりわけ俺の目を奪って止まなかったのは、リズの髪だ。薄っすらと赤みを帯びた金色の髪。これまで見たことがない不思議な色合いだった。

「あっ、これ?」

 いつの間にか、じっと見つめていたらしい。俺の視線に気付いたリズは得意げにツインテールの房をつまんだ。

「ストロベリーブロンドって色なんだよ。きれいでしょ? わたしの密かな自慢なの」
「確かにきれいだな。日本人も髪を染めたりするけど、その色は人工的には出せないんじゃないか?」

 基本的に女という生き物は髪を褒められると喜ぶものだが、リズはそれが顕著だった。その証拠に、彼女は頬を赤く染めてもじもじと膝をすりあわせながら「えーそれほどでもないよー」と、明らかにそれほどでもあるように謙遜してみせた。抑えきれなかった喜びが、だらしなく緩みきった唇に現れている。

「でも、夕貴くんもきれいな髪してるよ」
「そうか? あんまり髪を褒められたことはないんだけど」
「あと肌も男の子とは思えないほど色白できめ細かいし、目もぱっちりとした二重だし。女の子にモテモテじゃない?」
「……お世辞にしか聞こえないから止めてくれ」

 俺の顔立ちは本当に平凡だと思う。特徴といえば、母さんに似ていることと、男らしいことぐらいか。……あれ、待てよ? 母さんに似ている時点で、男らしいという特徴は当てはまらなくないか?

「そ、そういうリズこそ、スタイルいいよな」

 十九年越しに気付いた究極の矛盾から目を逸らすため――いや、お世辞を頂いたせめてものお礼に、俺は出会ったときから思っていたことを口にした。ミニスカートから伸びる滑らかな脚がとくに目を引くが、全体的に文句のつけどころがないプロポーションをしている。

「べ、べつにわたしのお尻は大きくないよっ!?」
「は?」

 いったいどうしたというのか。リズはすばやく立ち上がると、両手で臀部を隠して、俺に威嚇するような目を向けてきた。

「お尻……?」

 失礼を承知で目を凝らしてみる。きゅっと上がったかたちのいいヒップは、くびれた腰と相まって女性特有の魅惑的な曲線を描いている。だがよく見ると、平均的な女性よりもお尻のサイズが大きいような。

「あぅ、気にしてるのに……」

 どうやら俺の視線から自分のコンプレックスが見破れらたことに気付いたらしい。リズは大きく肩を落としながら、ふたたびベンチに腰掛けた。この世の終わりを目前にしたような勢いで落ち込むリズを励まそうと、俺は彼女が自慢だと言った髪の話題に戻すことにした。

「あー、ところでリズの髪は、お母さん譲りだったりするのか?」

 リズはきょとん、としたあと、

「ううん」

 首を大きく振った。はっきりと、横に。

「じゃあ、お父さん譲りなのか?」

 釈然としないままに問いを続けると、彼女はもういちど首を振った。やはり、横に。今度は俺が首を傾げる番だった。

「知らないんだよ。なにも」
「……? どういうことだ?」
「わたし、お父さんとお母さんいないから」

 あっさりとリズは告白した。自分には尊敬する父親も、愛する母親もいないと。

「詳しくは知らないんだけど、わたしは生まれたときから両親がいなかったみたい。だから顔も名前も知らないよ。それに里親に当たるような人もいないしね。まあ生活には困ってないからいいんだけど」

 返す言葉がなかった。頭は回らないし、喉も震わない。お父さんとお母さんがいない。リズが告げた事実が、俺の心を深く抉っていた。
 この十九年間、俺のまわりには色んな人がいた。父親がいない、母親がいない、兄妹がいない、祖父母がいない、そんな人たち。病気や交通事故によって死に別れた者、離婚によって愛を無に帰した者。大切なものが欠けてしまった家族なんてどこにでもある。俺だって生まれたときから父さんがいなかったから、ずっと母さんと二人きりで生きてきたんだ。

 だが、それでも俺たちは一人じゃない。

 お父さんがいなければ、お母さんが抱きしめてくれる。お母さんがいなければ、お父さんが護ってくれる。どんなに不完全で不恰好な家族でも、そこには絶対に自分を支えてくれる人がいるんだ。子供のとき、俺が泣いているといつだって優しく抱きしめてくれた母さんのように。

 しかし、ここにそのぬくもりを知らない女の子がいる。

 正直に告白すると、リズの境遇は、俺の理解を完全に超えていた。もちろん、孤児という言葉があるように、現実には孤独な子供が少なからずいることは知っている。いや、知ってはいたけど、それは遠い世界の話だと思っていた。俺の目の前には絶対に現れないと思ってたんだ。

「そんなに悲しそうな顔しないで。わたしは何とも思ってないから。いまの生活も気に入ってるしね」
「……ああ、ごめん」

 彼女の言うとおりだ。出会って一時間も経っていない少女に感情移入するほうが間違っている。しょせんは行きずりの関係。太陽が中天を過ぎて、西の彼方に沈む頃には別れるだろう。リズだって、よく知りもしない男に深く干渉されるのは不愉快に決まってる。
 だから、せめて心に刻んでおこうと思った。この世には親の顔も知らずに育った子がいて、それでも大丈夫だって、したたかに笑ってるんだ。あんなにきれいな声で、静かに唄を歌ってたんだ。リズに比べれば、母さんがいないと寂しくて死んでしまう俺なんて女々しいに違いないが、今ある幸福な日常の大切さを忘れないためにも、俺は下ではなく前を向くべきだ。
 日が暮れたら、リズと別れたら、まっすぐ家に帰ろう。たまには喧嘩もするけど、俺はあいつらのことが大好きだから。まあ例の忌まわしき写真をふたたび母さんの部屋に封印する予定に変更はないが。もちろんコピーされた分もすべて回収する。もし菖蒲に泣き喚かれても俺は心を鬼にして、写真を奪い取る覚悟だ。

「……リズって、日本に来たばかりなんだろ? それにしては日本語、上手だよな」

 つとめて明るい声で言った。彼女もわざわざ暗い話題を引きずる気はないらしく、「あぁ、うん。それはね」と頷いてくれた。

「子供の頃から、ちょっとずつ勉強してきたの。もちろん日本語だけじゃなくて、他にもたくさんね」
「そっか。リズは頑張り屋さんなんだな」
「えー、そんなことないよー。夕貴くんこそ、きっと頑張り屋さんだよー」

 ほんのりと頬を赤くして謙遜するリズ。とりあえず安心した。勉強ができるということは、それなりに安定した環境で生活していたということだから。
 その後、時間の許すかぎり、俺たちはいろんな話をした。今日は暑いとか、この間は雨が降っていたとか、展望台からの景色は本当に見飽きることがないほど綺麗だとか。途中、リズの提案で携帯の電話番号を交換することになった。

 ――いざというときに役に立つかもしれないでしょ?

 それが彼女の言い分だった。個人的な連絡先を教えていいものか迷ったことは事実だが、とくに断る理由も見つからなかったので、俺はリズの提案を受けることにした。
 たまにはこんな出会いも悪くないものだった。出会って間もない相手だからこそ、気心が知れたナベリウスたちには言えないようなことまで素直に口にできる。ストレス発散といえば彼女に失礼かもしれないが、俺の心は少しずつ穏やかに凪いでいった。若緑と涼風に包まれた展望台は、ここだけ時が止まったかのように静かだった。鉄柵の向こうに広がる街並みと、それを俯瞰する空の暮れだけが、時間の経過を知らせる唯一の時計だった。

「そういえば、リズはどうしてこんなところで歌ってたんだ?」

 すでに陽は西に傾き、木立から差し込む光は朱色に変わっていた。空はその有りようを刻一刻と変えていき、地平線の彼方には赤と紫のグラデーションがかかり、展望台からの眺めをより一層、美しいものにしている。
 会話が弾み、リズと一緒にいることが楽しくなってきたからか、俺の口調は最初のころと比べると幾分か気安いものになっていた。

「うー、そっか。わたし、夕貴くんに歌ってるところ見られちゃったんだっけ」
「まあ、こんなところで歌ってたら、誰に聴かれてもおかしくないしな」
「夕貴くん意地悪だよー。そこはあえて、俺はなにも聞いてない、って言ってくれたほうが男らしいのに」
「は? なに言ってんだ? 俺は最初からなにも聞いてないぞ」
「な、なんて素早い心変わり……夕貴くん、顔だけじゃなくて性格も可愛いね」
「悪い。俺の耳が狂ってたかもしれないから、もういちどだけ聞かせてくれ。いま”可愛い”って言わなかったか?」
「ううん。言ってないよ」

 やんわりと否定する。釈然としなかったが、わざわざ怒鳴りたててこの穏やかな空気を壊すのも嫌だった。

「話は戻るけど、実はわたし、ちょっと探しものをしてるんだ。でもこれといった当てもなくて、直感に従うままに街をぶらぶらしてたら、この自然がいっぱいの公園を見つけてね。ちょっと汗が引くまで休もうと思って公園内を散歩することにしたの」
「なるほどな。それで展望台を見つけたってわけか」
「そんな感じだねー」

 石畳を赤く照らす斜陽を見つめながら、彼女は語る。こんなにきれいな景色が目の前にあって、とっても気持ちいい風が吹いてる。だったら歌わないのは嘘でしょう、と。

「でもやっぱり恥ずかしいな。わたし、あんまり歌に自信ないから」
「そうかな。普通にうまいと思ったけど。それにあの歌、懐かしいよな」
「……え?」
「俺が子供の頃、よく母さんが子守唄がわりに歌ってくれてたんだよ。だからよく憶えてる。でもさすがに曲名までは……って、どうした?」

 ふと横を見やる。リズの顔から親しみが抜け落ちていた。彼女はくちびるに指を当てて、じっと思考に没頭している。翠緑の瞳には、愛嬌ではなく学者然とした理知的な光が宿っている。

「……夕貴くん。さっきの歌、知ってるの?」
「ああ。まあ歌えって言われても自信はないけどな。ずっと昔に聞いてただけだし」
「どこで聴いたの?」
「だから母さんがよく子守唄代わりに歌ってくれたんだよ。ほとんど鼻唄みたいなものだったから、リズみたいに歌詞まではなかったけど」
「……そう、なんだ」

 それっきり彼女は押し黙ってしまった。なにかまずいことでも言ってしまったのだろうか。沈黙が続く。居心地のよかった雰囲気は、リズが無言を貫けば貫くほどマイナスの色を帯びていく。ノスタルジックを呼び起こすはずの夕焼けが、いまとなっては血や警報を連想させた。元来、”赤”は警告色だ。人間は赤い色に本能的な危機感を抱くようにできている。

「やっぱり――夕貴くんが、そうだったんだね」

 リズはベンチから立ち上がると、展望台の中央まで歩を進めた。優雅な立ち居振る舞い。穿ちすぎだろうか、彼女は俺から距離を取ろうとしているように見える。
 やがて彼女は振り返る。ミニスカートが花弁のごとく広がった。赤い生地のチュニックに覆われた右手が、ゆっくりと上がる。人差し指にはめられた銀の指輪に斜陽が反射し、俺のもとに深紅の光芒となって届いた。
 
 きっと、そのリズの行動は気まぐれなどではなく、明確な意図のもとに行われた”合図”だったのだろう。

 突如、展望台を中心とした半径に鋭い緊張が走った。俺が腰を上げるのとまったくの同時に、展望台を囲うように繁茂していた木陰から武装した男が何人も躍り出てきた。人数は目に見えるだけで十二人とそう多くないが、一様に白い軍服に身を包み、黒光りする短機関銃を油断なく構える姿は、それだけで強烈な存在感がある。
 彼らは二人一組になってお互いをカバーしあえるような位置取りで動きながら、ゆっくりと包囲を狭めてくる。明らかに専門の訓練を受けた者たち特有の連携だった。
 俺の混乱をさらに促すように、散策路のほうから新たな人影が姿を現した。筋骨隆々とした体を、やはり純白の軍服に包んでいる。白いものが混じった灰色の髪と、彫りの深い顔立ち。外見は三十代後半から四十代前半ぐらいに見えるが、その揺るぎない眼光だけは、きっと若かりし頃と変わらないのだろう。男の手には銃火器ではなく、無骨な鞘に収められた一振りの剣が握られていた。

「アルベルト。首尾は?」

 またたく間に状況を始めた連中を見ても動揺することなく、リズは散策路を決然と踏みしめて登場した男性に問いかけた。

「上々と言ったところでしょうな。念入りに人払いもしておきました。これで民間人の邪魔が入ることはありません」
「……ふうん。そうなんだ」

 気のない返事を投げつつ、どこか呆れたような目でまわりに佇立する軍服を見渡してから、

「でもね戦隊長。これじゃ物々しすぎるよ。市街地でこれだけの装備を投入するなんて、よくシュナイダーおじさんが承認したね」
「相手が相手です。警戒するに越したことはありません。備えあれば憂いなし。ファーレンハイト室長のお好きな日本のことわざです」
「備えすぎても余計な摩擦を生むだけだってば。わたしたちはべつに戦争をしに来たわけじゃないのに」

 かすかに頬を膨らませるリズと、休めの姿勢でそばに控える男。並んで立つ姿は、厳格な父と育ちのいい娘といった塩梅だが、イニシアチブを握っているのは明らかに少女のほうだった。

「……どういうことだよ、リズ」

 身構えながら俺は言った。どう見てもやばい状況である。あるいは一目散に逃げ出すのが正解かもしれない。それでも、聞いておかねばならないと思った。彼女の笑った顔を覚えている。わずかな時間だったが、彼女とともに過ごした時間は楽しかった。そこに嘘があったなんて、思いたくない。

「ごめんね、夕貴くん。なんだか騙すようなかたちになっちゃって」

 言葉とは裏腹に、彼女は悪びれもしていない。しかし同時に、悪意や害意も感じられなかった。

「わたしが探しものをしてたっていうのは本当だよ。てきとうに街を歩いて、この場所を見つけて、ついつい歌っちゃったっていうのも本当。夕貴くんとお喋りして楽しかったのも本当に本当。わたしにお父さんとお母さんがいないのもね。きみと語り合った時間のなかに、作為的な嘘は何一つとしてなかったと誓ってもいい」
「……おまえの、いや、おまえたちの目的はなんだ?」
「口を慎め、少年。質問をするのは我々のほうだ」

 割り込んだ声は、低く力強いトーンだった。リズのそばに控える男が、俺をまっすぐに見つめている。あまりの眼力に気圧されそうになった。男はしばらく俺を観察していたが、やがて口を開いた。

「……あまり似ていないな。あの男には」
「あの男だと?」
「ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位の大悪魔バアル。いや、この国では萩原駿貴という名のほうが通りがよいかもしれんな。己が父のこと、まさか知らぬわけではあるまいよ」

 がちり、と頭のなかでスイッチが切り替わった。俺の出生に関わる秘密を知っている者は、せいぜいナベリウスを含めた七十二柱の《悪魔》ぐらいなものかと思っていたのに。

「……だれだ、おまえ」
「答える義理はない、と言いたいところだが、問われて名乗りを上げないのは非礼に当たるか。私はアルベルト・マールス・ライゼンシュタイン。好きなように呼んでくれて構わない」
「そんなことを知りたいわけじゃねえよ。おまえたちは何者かって聞いてんだ」
「そう急くな。次はこちらから質問だ。正直に真実を述べよ。おまえの父は、《悪魔》か否か」

 もはや隠し切れないと思った。ならば、あえて事実を認めることで、向こうから情報を引き出してやるのが得策だろう。

「……そうだ。萩原駿貴は、俺の父親の名前だ」
「なるほど。とぼけるほど愚かな男ではないらしいな。話が早くて助かる」
「じゃあ次は俺からだ。おまえたちはいったい何なんだ?」

 しばし逡巡してからなにかを言いかけたアルベルトを手で制して、リズが一歩前に出た。

「なかなか哲学的な質問だね。逆に聞くけど、夕貴くんにはわたしたちがどう見えるのかな?」
「どうって……ただの人間だろ。思いっきり武装してるところを見るに、かなり大きな組織が背後にありそうだけどな」
「んー、そうだね。わたしたちは経済的なバックアップには困ってないけど、ローマ教皇庁の庇護を受けているという特性上、政治的な拘束を強く受けるデメリットがある。ここが欧州ならもっと無茶もできたんだけど、利権が複雑に絡み合って身動きのしづらい日本でお忍びの行動を起こそうとしたらこの人数が限界だった。無駄に騒ぎを大きくして、日本政府との間にこれ以上の軋轢を生みたくないしね」

 ふう、とため息混じりに語られる事実は、一度聞いただけで理解するには情報量が多すぎた。脳裏に疑問符を浮かべる俺を知ってか知らずか、リズは翠緑の瞳に怜悧な光を宿して喉を震わせる。

「ローマ教皇庁の影としてバチカンに総本山を置く《法王庁》。裏世界最大の抑止力と目される彼らが、人が人であるために人の理を外れた者たちに人だけで対抗しようと作り上げた一大部門を《異端審問会》と呼ぶの。異教の徒、背教者、吸血鬼(ヴァンパイア)、人狼(ライカンスロープ)、悪魔、妖、果てには存在そのものが伝説に等しい狼人間(ヴェアヴォルフ)まで、とにかく”自分たちが気に入らないもの”を排撃することを目的に、いまも回り続ける一つの機構。――そこに所属するのがわたしたち、と言えば分かりやすいかな?」
「ま、待ってくれ。そんなぺらぺら説明されても意味が分からないって」
「難しく考える必要はないよ。わたしたちは《異端審問会》という一大部門のなかでも、《悪魔》にまつわる事象を中心的に担当する部署なの」

 出会ったときとおなじ、柔らかな微笑のままにリズは言う。

「それが法王庁特務分室。室長はわたし、リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。萩原夕貴くん。きみにはすこし聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」




前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.034003019332886