俺に聞きたいことがある、とリズは言った。聖職というよりは軍隊を連想させる組織を統べる少女は、愛くるしい笑顔のなかに理知的な面影を垣間見せながら、透き通った目でこちらをまっすぐに見つめてくる。
「まずは一つ。夕貴くん。きみは《悪魔の書(ゴエティア)》がどこにあるか、知ってるかな?」
「……は? なんだそれ?」
まったく耳に馴染みのない発音だった。自分が置かれている状況も忘れて、思わず呆けた声を上げてしまう程度には。
「真実を述べたまえよ少年。これは尋問ではなく、審問だ。ひとつの嘘が取り返しのつかん結果を招くやも知れんぞ」
リズのかたわらに控える男が語を継いだ。灰色の髪に、彫りの深い顔立ち。不動の佇まいは、さながら巌のごとき存在感を振りまいている。手には鞘に収められた一振りの剣。アルベルト・マールス・ライゼンシュタインと名乗った彼は、リズから戦隊長と呼ばれていた。
アルベルトの言ったとおり、いまは下手に隠し立てしないほうが賢明だと俺のちっぽけな人生経験が訴えている。慎重に言葉を選び、警戒を怠らず答えた。
「嘘じゃない。おまえらがなにを言ってるのか、俺にはさっぱりだ」
「……そう。知らないんだね。それとも分からないのかな」
真意の掴みづらい言い回しだった。なんだかリズと出会ってから俺はペースを乱されっぱなしだ。
「じゃあ二つ目。夕貴くんはリチャード・アディソンのことを知ってるかな?」
「それは知ってる。実業家だろ?」
「そうだよ。リチャードさんに会ったことは?」
「会うどころか顔も見たことねえよ」
「本当に?」
「疑うなよ。サブマシンガンの銃口をいくつ向けられてると思ってるんだ。こんな状況で腹芸なんてできるわけないだろうが」
皮肉と、かすかな敵意を交えて反駁する。気圧されたら負けだ。飽くまで対等に接しなければ、わずかでも隙を見せれば、そこから一気に食いつかれるだろう。
「……どう思う、アルベルト」
「嘘は言っていないでしょうな。不用意に虚言を口にするほど頭が悪い男には見えません」
「そっか。これはまだ繋がってないってことで結論してもいいかな」
俺の理解の及ばないところで、なにか重要な話が交わされている。意図的に主語の抜かれた会話からは、大した情報も拾えない。俺は意を決して、こちらから質問を投げかけることにした。
「……いいか。ちょっと聞かせてくれ」
「うん? なにかな」
後ろ手を組み、機嫌よさそうに目元を和らげてリズが応える。アルベルトは口を閉ざしたまま、鋭い目で俺を見据えていた。
「おまえたちの目的はなんだ? この国で、いったい何をやらかすつもりだ?」
「まるでわたしたちが悪者みたいな言い方だね。安心して。法王庁には日本と戦争をするつもりはないから。それじゃあ本題に入るけど、夕貴くんは《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》って知ってるかな」
まるで聞き覚えがなかった。押し黙った俺の反応から知識の有無を察したのだろう。彼女は、ふむ、とちょっと偉そうに頷いた。
「強大な力を持つ、ソロモンの大悪魔。遥かな昔、一人の王は、彼らを使役して古代エルサレムに聖所を建設したの。でも、古くは神々にも匹敵する威容を誇っていた七十二柱の《悪魔》は、人の手には余る危険な存在だった。だから、彼らを律するために”これ”が造られた」
リズが右手をかざす。人差し指には、精緻な紋様が刻まれた銀の指輪が、斜陽を受けて紅くきらめている。
「悪魔に対して絶大な効力を発揮する、魔封じの書物。この世界の法則とは異なるルールを用いて産み落とされた五つの法典。以下の五部から構成されるそれを、昔の人たちはグリモワールの一つから名前を取って《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》と名付けたの」
一つ、《悪魔の書(ゴエティア)》
二つ、《精霊の書(テウルギア)》
三つ、《星の書(パウリナ)》
四つ、《天空の書(アルマデル)》
五つ、《天元の法(アルス・ノヴァ)》
「書物の名を冠してはいるけれど、その形状はさまざまだね。わたしの所有する《精霊の書(テウルギア)》は、このとおり指輪のかたちをしているから。夕貴くんにも分かりやすく例えるなら、シルバーブレットが近いかもしれないね」
強い力を持った人狼や悪魔も銀の弾丸にはめっぽう弱い、という西洋の言い伝えがある。無敵の怪物にも弱点の一つはあるものだ。《悪魔》にとってのシルバーブレットが、リズの持つ指輪ということなのだろうか。
「夕貴くんがこの指輪に――《精霊の書(テウルギア)》に苦手意識を抱いたのは、きみのなかに流れる《悪魔》の血が原因なの。いま言った四つの書と一つの法は、それぞれが異なった効力を持ち、人智を超えた力を持つ《悪魔》を抑止してきた。例えば……」
言いかけて、彼女は口を噤んだ。翠緑の瞳をすっと細めて、油断なくあたりを見回す。リズだけでなく、白い軍服を着込んだ男たちもまなじりを吊り上げて周囲を強く警戒した。
心身を凍えさせる圧倒的な冷気が、夕焼けに照らされた空間に満ちる。急速に低下する気温。真夏にも関わらず空を染める白い雪。風に揺られていた若葉が次々と凍っていき、自然の息吹が停止した。石畳のうえには薄い霜が張り、唇からこぼれる吐息は驚くほど白い。ここらで凍てついていないのは俺たち人間ぐらいのものだった。
《絶対零度(アブソリュートゼロ)》と、誰かが小さな声で言った。
寒気と殺気のせいで肌が粟立つ。顔を見なくても、言葉を聞かなくても分かるぐらい、この凍結現象をもたらした者は怒っていた。その怒りの主は、神の審判のごとく展望台にいる全員に対して平等に敵意を振りまいていながら、例外として俺という個人だけには慈しむような感情を向けていた。
「法王庁の狗が……よくもやってくれたな」
響いた重たい声音は、耳に心地いい女性のものだった。冷たい氷に覆われた背の高い樹木、その枝のうえに見知った人影が立っていた。銀色の目が怒りに凍えている。普段の彼女とは似ても似つかないぐらい、ナベリウスは怒りをあらわにしていた。
「不愉快だな。貴様ら、誰に向かって銃口を向けているつもりだ」
ナベリウスが目を細めて、武装した男たちの手元をぐるりと見渡す。ただでさえ歪んでいた美貌が、ここにきて氷点下に達した。まずい。ナベリウスは臨戦態勢に入っている。このまま放っておけば一秒後にでも攻撃しかねない勢いだ。
しかし、俺は積極的に殺し合いをするつもりはない。リズたちは俺を威圧したが武力行使には乗り出さなかった。ならば、平和的とまではいかないかもしれないが、血を流さずに済む可能性もあるんじゃないか?
「待てよ、ナベリウス! 俺はまだ何もされてない!」
「ありがたく思えよ無知蒙昧ども。弁えぬおまえたちに、いま一度だけ教えてやる」
どうやら思っていた以上にはらわたが煮えくり返っているらしい。俺がどれだけ静止の声をかけても、ナベリウスは踏みとどまろうとしない。
ちょっと、イラっときた。
昨日の夜はあれだけ俺のことをバカにしたくせに。今朝は家出しようとする俺を「どうせ夕方頃には帰ってくるんでしょ? おみやげよろしくー」と見送ったくせに。いつも人の頭を悩ませるぐらい奔放なのに、どうしてこういうときだけ過保護なんだ、こいつは。
俺は拳をつよく握り締めて、高みから見下ろすナベリウスをねめつけた。
「心して傾聴しろ。そこにおられる方は、我らが偉大なる《バアル》の血を引く――」
「――うるせえバカ! おまえはちょっと黙ってろ!」
不気味なまでの静けさに支配されていた空間に、俺の怒声が響き渡る。そこでようやく彼女は言葉を紡ぐのを止め、こちらに注目した。凛としていた面持ちが、へなへなと歪んでいく。
「で、でも、こいつら夕貴に危害を加えようとしたんでしょ? 夕貴はわたしのマスターだから、こうして護るのは当たり前で……」
「うるさい。言い訳すんな。おまえが怒るのも分かるけど、俺はリズと話がしたいんだよ。だから、黙ってろ」
あえて冷たく、権高に告げた。ナベリウスのことは好きだけど、だからといって、いつも振り回されてばかりの俺じゃない。たまにはガツンと言ってやらないと男が廃るというものだ。
やがて十数秒ほど沈黙が続いたあと、ナベリウスは観念したように体重を預けていた枝のうえから弱々しく飛び降り、俺のとなりに着地した。ふわりと舞い上がる銀髪とは対照的に、滑らかな線を描く肩はひどく落ち込んでいた。
「ご、ごめん。わたしが悪かったから、そんなに怒らないでよ……」
こっぴどく叱られた仔犬みたく、彼女は俺のほうを上目遣いでチラチラと見ながら言った。よほど堪えたのか、ひどく殊勝な態度だった。もっと憎まれ口が返ってくるかと思っていたので拍子抜けしてしまう。そこらじゅうを侵食していた氷が、ぱりん、と澄んだ音を立てて消滅した。
「……いや、俺も言いすぎた。べつに怒ってるわけじゃないんだけどな。むしろ、おまえが来てくれて助かったぐらいだし。ただ俺は、もっとあいつらから話を聞きたかったんだ」
「夕貴は甘いわ。こいつらは話が通じるほど頭の柔らかい連中じゃ……」
そこでナベリウスはぴたりと動きを止め、アルベルトに視線を集めた。背後にリズを覆い隠すようにしてたたずむ彼も、じっとナベリウスのことを睨んでいる。
「へえ。どこかで見たことがある顔だと思ったら、アルベルト坊やじゃない。ずいぶんと老けたわね。二十年振りぐらいになるかしら?」
「正確には二十三年振りだ。相変わらず奔放な女だと見えるな、貴様は」
「ひどい言い草ね。こう見えても、わたしって淑やかさには自信があるんだけど」
「自己に対する評価をオブラートに包んで認識しているところは変わっていないらしいな。まずは自分を見つめなおすことから始めたほうがいい」
挑発的な笑みを浮かべるナベリウスと、険しい眼差しを崩さないアルベルト。どうやらこの二人は、遠い過去に会ったことがあるらしい。だがあまり友好的な間柄ではないらしく、両者ともに隙あらば噛み付こうとする思惑が感じ取れる。
味方が敵の情報を知っているのなら話は早い。俺が尋ねると、ナベリウスはアルベルトの着ている軍服をじっくりと観察してから言った。
「どうやら出世したみたいね。あの略綬や肩章は、法王庁特務分室の戦隊長である証だし」
「戦隊長?」
「そうそう、戦隊長。ありのままに説明するなら、実動部隊の一つを率いる指揮官ってところかな。とにかく偉くて強い奴とでも思っておけば万事オッケーよ」
「さすがにアバウトすぎるだろ、おまえ……」
けっきょく、俺が想像していた以上の情報は得られなかった。こんな状況なのに平時のごとく鷹揚と話をするナベリウスは、大物か馬鹿のどっちかだと思う。
「べつにアバウトじゃないよ。いまの説明に間違いはないからね」俺たちの会話に清らかな少女の声が割り込んだ。「ただ真実のすべてってわけでもないけど」
アルベルトの大きな背に隠れていたリズがぴょこっと横に一歩踏み出し、年頃の女の子らしくお洒落した姿を斜陽のもとにさらした。
「こんばんは、《ナベリウス》。わたしはリゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長だよ」
首を傾げて微笑む。下手をすれば数秒後には血と悲鳴が飛び交うかもしれない切迫した状況なのに、リズは飽くまで自然体だった。対して、ナベリウスはなにかありえないものを見るかのような目でリズを凝視してから、震える声で呟いた。
「あんた……なに?」
弱々しい誰何だった。ついさっきまで堂々と胸を張っていた彼女とは似ても似つかない。こんなナベリウスを見るのは初めてかもしれなかった。
「なにって聞かれても困るなぁ。わたしはわたし。他の何者でもないよ。それとも、もしかして、わたしの顔に見覚えでもあるのかな?」
「……いえ。わたしはあんたのことなんて知らない。知っていたらダメなのよ。絶対に」
「そうだね。ソロモンの《悪魔》が、まさか十八才の小娘を知ってるわけないもんね」
ナベリウスの様子がおかしい。あのダンタリオンを前にしても鈍らなかった覇気が、いまは見る影もない。人間の小娘を相手に、歴戦の大悪魔が戸惑うのはなぜだ?
本人に直接問いただそうと思った。だが、その沈痛な横顔が「なにも聞かないで」と言っている気がして、俺は喉まで出かかった言葉の嚥下を余儀なくされた。
かなり長く話し込んでいたのだろう、あれだけ街を紅く染めていた太陽もずいぶんと地平線の彼方に沈み、もう間もなく黄昏が終わろうとしていた。空には深い黒と、かすかな赤が混じっている。夜が訪れるのも時間の問題だった。
「それで、法王庁特務分室が日本に来た目的はなに? あらかじめ言っておくけど、もし夕貴にちょっとでも危害を加えたら、わたしはあんたたちを潰すから」
ナベリウスはきっぱりと宣言してくれた。その言葉が嬉しく、同時に悔しくもあった。男って生き物は、やっぱり女を護ってナンボだと思うのだ。いつの日か、俺がナベリウスを護ってやりたい。そんな渇望を抱き始めたのはいつからだろうか。
「むー、怖いね」ぷくっと頬を膨らませるリズ。「でも安心して。わたしたちは《バアル》の血が目的じゃないから」
「そのわりには夕貴に接触してきたじゃない。あんたたちのせいでわたしは怒られちゃったんだから。この責任はどう取ってくれるつもり?」
「そうだね。じゃあ見返りは情報提供ってことでどうかな」
リズの右手がゆっくりと上がる。
「質問に答えてあげる。わたしたちが来日した目的の一つが、これだよ」
女の子らしい細い指には、きれいな指輪がはまっている。じっと見てるだけで吐き気がしてきた。苦手意識なんて生温い言葉では説明できない、もっと根源的な恐怖が湧き上がってくる。
「……《精霊の書(テウルギア)》。ずっと所在が不明だったって聞いてるけど、まさか法王庁が秘匿してたなんて」
「なあ。ずっと気になってたんだけど、あれって何なんだ?」
さきほどリズから説明されたが、いまいちよく分からなかった。ナベリウスはしばらく考え込むような素振りを見せたあと、「そうね。実際に見せたほうが早いかな」と言って、空中に氷で形成された槍を何本か生み出した。尖った先端が、リズを向いている。
「バカっ、おまえなにを――!」
声を荒げる俺を手で制したナベリウスは、流し目で氷槍を見やった。それが合図だったのか、冷たい凶器が一斉に滑り出し、少女を穿たんと宙を奔る。次の瞬間、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。
生温い大気のなかを疾走していた絶対零度の氷が、リズの眼前で停止した。まるで不可視の障壁に阻まれたかのように。
リズの指にはめられた指輪が強く発光している。太陽に代表される自然的な光とは根本から異なる、不思議な輝きだった。バチバチ、と音を立てて周囲に青白い電荷が走り抜ける。《悪魔》の波動を帯びた氷槍は、どれ一つとしてリズに届くことなく砕け散っていく。やがてナベリウスの氷は破片すら残ることなく消滅した。もし魔法なんて陳腐な言葉が許されるとしたら、俺は遠慮なく口にしていただろう。
「見たでしょ。あれが《精霊の書(テウルギア)》の力よ」
呆然とする俺を一目も見ずに、ナベリウスは言った。
「わたしたち《悪魔》の異能を無力化し、無効化する。どんなに強力でも、どんなに膨大でも、それが《悪魔》によって発生した力なら、アレはことごとく消し去って見せるわ」
それぞれの書が異なった能力を持つなかでも、リズの持つ指輪は『悪魔の異能を無力化し、無効化する』という性質を持つ、と銀髪悪魔は語る。
でたらめすぎる、と否定することはしなかった。ここ数ヶ月ほどの間に立て続けで起こったさまざまな出来事が、一般的な常識を信じて不可思議な現象を否定するだけの小賢しさを奪っていた。ぶっちゃけ、菖蒲が俺の家に訪ねてきたときのほうがインパクトとしては上だったし。
「ようやく夕貴くんにも分かってもらえたみたいだね。百聞は一見にしかず、だったかな。日本のことわざって的を得ているものばっかりだよね」
それを言うなら的を射るだろ、と訂正しようと思ったが、日本のことわざを口にする彼女の顔がちょっと嬉しげだったので俺はなにも言わないことにした。知らぬが仏だ。
「この指輪そのものに殺傷力はないけど、純粋な防御だけならずば抜けてるし、なにより四書一法のなかでもっとも小さいの。おまけに可愛いしね」
それが《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》か。また面倒な代物が出てきやがったな。できるなら俺の人生とは一切関わらずに海の向こうで勝手に大活躍していてほしいところだ。
「いま説明したことをすべて踏まえて、夕貴くんにどうしても聞きたいことがある。正直に答えてね。きみは《悪魔の書》がどこにあるか、分からないかな?」
「そんなの分かるわけないだろ。なんで俺に聞くんだ」
呆れ半分にかぶりを振る俺を、じっと見つめる視線があった。どうやら冗談の類ではないらしく、リズの顔は真剣そのものだった。
「……夕貴、与太話に耳を貸す必要はないわ」
俺のまえにナベリウスが立った。華奢な背中には艶やかな長い銀髪が揺れている。なぜか、彼女は拳をぎゅっと握り締めていた。なだらかな肩はかすかに震えていた。
「与太話なんかじゃないよ。わたしたちが面倒を冒してまで夕貴くんに接触した理由が知りたいんでしょ、ナベリウス?」
「……前言を撤回するわ。べつにあんたたちのことなんて知りたくない。それに夕貴はなにも知らないわ。知ってるわけない。ううん、知らなくてもいいのよ」
小さな声で自分に言い聞かせるように言う。ナベリウスはリズから視線を逸らし、唇をきゅっと引き結んでいた。憂いを湛えた横顔から目が離せない。いつも俺を護ってくれる彼女の大きな背中が、このときは生まれたての赤子よりもか弱く見えた。しばらく押し黙ったあと、リズは「そっか」と短く相槌を打った。
「我々が、法王庁特務分室が、この極東の島国を訪れた目的は大きく分けて二つある」
会話の間隙を見計らって、アルベルトが厳かに言った。
「まず一つ。現在、日本のどこかにあるとされる《悪魔の書(ゴエティア)》の発見、および回収。これは五つの書物のなかでも特異かつ最悪な力を持っている。その性質は、純然たる破壊にのみ特化しており、悪意を持って使用すれば甚大な被害をもたらすこともできる」
「……そう。《悪魔の書(ゴエティア)》が」
まだ日本にあるのね、と。ナベリウスは俺にしか聞こえない、小さな、本当に小さな声でつぶやいた。いまにも泣き出しそうな顔に心が痛む。俺は直感的に確信した。きっとナベリウスは、その《悪魔の書》という書物に深い因縁があるんだ。それも、憎悪に値するような縁が。
「そして二つ。こちらのほうが重要度では上だろう。《悪魔》の三大勢力の一角を率いるグシオンが、この極東の島国へ入ったという。奴らを牽制し、予想される闘争を未然に防ぐための抑止力となることが、我らの最重要任務だ」
「グシオンがこの国にいるなんてね。ちっとも知らなかったわ。まあ、あいつは他の二人と比べると温厚なほうだから下手に暴れることはないでしょうけど」
「おおむね同意だが、しかしアレは強い野心家でもある。油断はできまいよ」
俺は二人の会話を聞きながら、かつてダンタリオンが言っていたことを思い出していた。
”加えて、我らが同胞のあいだにも派閥があります。まあ現時点では《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》が率いる三大勢力が抜けていますがね。彼らはこぞって貴方のお父上である《バアル》、ならびにその従者二名を血眼になって捜索していたようですが、ついぞ行方は掴めなかったという話です”
ナベリウスやダンタリオンと同等以上の力を持った連中が、すでに日本の土を踏んでいるだって? 俺たちが平凡な日常を謳歌している間にも、そして今このときも、そいつらは裏で暗躍してるってのか?
「日本はさまざまな利権が複雑に絡み合っており、身動きのしづらい国だ。にも関わらず、わざわざグシオンが来日したのは、まず間違いなく《悪魔の書》を手に入れるためだろう。ローマ教皇庁の権威が及ばないこの国なら、我らの戦力も大幅に限定される。ゆえに今しばらくはそちらの対処で手一杯になると予想される」
「つまりあんたらは、俺やナベリウスに構ってる暇はないって言いたいのか?」
「端的に言えばそうなる。すでに貴様らがグシオンと接触していたのであれば、この場で排除することも考えていた。しかし、いずれグシオンは、少年に接触を試みるだろう」
なるほど。俺たちは見逃されるわけではなく、泳がされるということか。でもそれは見方を変えれば、リズたちと殺し合わなくても済むということだ。俺たちが《グシオン》と繋がらないかぎりは。
あらかた話が終わる頃には、世界はすっかりと夜に包まれていた。太陽が沈んだ代わりに、漆黒の帳が下りている。展望台からは美しい夜景が見渡せて、点在する明かりが人の営みを教えてくれた。地上に現れた星空だった。
「――楽しそうな面子じゃねぇか。オレも混ぜてくれや」
そのとき、横柄ながらもよく通る声が響いた。俺たちは揃って宵闇の向こうに目を向ける。静かな足音。深い闇のなかから、ナベリウスに匹敵する強大な存在感がほとばしる。
「ほぉう、懐かしい顔がいやがる」男が感心したように言う。「相変わらずいい女だなぁオイ。たまにはグシオンの野郎の言うことも素直に聞いてみるもんだ」
血に濡れたように紅い髪が夜気のなかに揺れている。非の打ちどころがない整った相貌は、本来なら美丈夫という言葉がよく似合うのだろう。だが好戦的に吊り上った口端を見れば、彼がただの色男ではなく血に飢えた肉食獣に類似するものであると瞬く間に看破できた。なんの変哲もないジャケットと、ダメージの入ったジーンズ。紙巻き煙草を咥え、両手をポケットに突っ込みながら、こちらに歩いてくる。
「うわぁ、最悪。よりにもよって、なんでこいつが日本にいるのよ」
ナベリウスが柳眉を歪めて悪態をついた。無理もない。俺でも分かるんだ。あの紅い髪をした男の、圧倒的なやばさが。
美味そうに紫煙を吐き出しながら、男はゆっくりと歩み寄ってくる。愉悦に満ちた双眸が、紅い髪を透かして輝いている。
俺は漠然と、避けられない殺し合いを予感した。
澄んだ夜気のなかに紫煙が混じる。風に乗って流れてくる煙草の臭い。俺が、ナベリウスが、そして法王庁の者たちが最大級の警戒心を抱いて身構えるなか、紅い髪をした男はのんきに紙巻きのフィルターを咥えている。それが強者としての優越がもたらす余裕であることは一目瞭然だった。
「ずいぶんと久しぶりじゃねぇか。相変わらず最高にいい女だな、てめぇは」
やや場違いにも思える賛辞は、俺のとなりにたたずむ女性に向けられた。真横から、はぁ、とため息をつく気配。
「あんたこそ、相変わらず殺気が剥き出しね。それじゃ女にモテないわよ」
わずかな親しみと多大な皮肉を込めてナベリウスが応える。けんもほろろなその対応が愉快だったのか、男は小さく笑って煙草を指で弾いた。
明らかに旧交を温めるような空気ではないが、彼女たちの態度は強敵を前にしているときに取る挙措ではなく、古い馴染みの悪友と軽口を交わすときのそれだった。たぶん、お互いに最古の同胞として認め合っているのだろう。俺には理解できないが、きっと二人にとっては殺しあうことですら”交友”なのだ。
「それで、あんたは何しに来たのよ。戦争がしたいなら世界中の紛争地域でも渡り歩いてくればいいでしょう。念のために言っておくけど、この国は戦争という概念が途絶えて久しいわよ」
気だるそうに銀髪を掻き上げつつ、ナベリウスが口火を切った。
「戦争ねえ。それ自体は悪くねぇ提案だが、もう人間どもと遊ぶのにも飽き飽きしてんだよ」
「驚いたわ。まさかあんたが殺しにマンネリを感じるなんてね。お願いだから博愛主義に乗り換えるのだけは止めてよね」
「オイオイ、笑わせんなや。乗り換えたのはてめぇだろうが」
そこで初めて、男の視線が俺を捉えた。肉食獣が獲物を吟味するように、全身をくまなく観察される。
「よぉナベリウス。その女みてぇなツラしたガキがそうかよ?」
ナベリウスはなにも言わず、毅然と胸を張って頷く。すると男は退屈そうに鼻を鳴らした。
「……つまんねぇな」
舌打ちとともに吐き出された言葉には失望の念が混じっていた。俺に向けられていた殺気が霧散していく。品定めの結果、どうやら俺は喰らうに値しない獲物だと判を下されたらしい。
「懐かしい波動だ。確かに《バアル》の面影はある。だが、それだけだ。こんなチンケなガキじゃ野郎には遠く及ばねえ。アレは正真正銘のバケモンだったからな」
「おいおまえ。いきなり出てきたくせに、俺の父さんをバケモン呼ばわりすんなよ。あと、俺はガキじゃねえ」
「はっ、口だけは一人前だな。身の程も知らねぇガキが吼えやがる。どうしてグシオンはこんなガキに執心すんのかねぇ」
「……三回目だぞ」
「細かいこと気にすんなや。女々しいのはツラだけじゃねぇのか、ガキ?」
「……上等だ。ガキかどうか思い知らせてやる」
力の差なんて関係ない。これは沽券の問題だ。男だったら嘘でも意地を張らなければならないときがある。その瞬間を見逃すほど、俺は伊達に十九年も男をやってない。
だが男のすかしたツラをぶん殴ってやろうと足を踏み出した俺の肩に、ナベリウスが優しく手を乗せた。どうして止めるんだ、と視線で尋ねると、彼女は黙って首を横に振った。銀色の目が、危険だから止めなさい、と告げていた。
「そういうこった。止めときな、ガキ。おめえじゃ力不足だ」
俺たちの様子を見ていた男がくつくつと笑った。
「まぁ安心しな。オレは女の背に隠れるような野郎に興味なんざねぇからよ」
「俺が、女の背に隠れてるだと……?」
「そうだ。悪いことは言わねえ。てめぇは隅っこのほうで丸くなって震えてな。あの世にいるパパにでも祈っとけや」
だめだ。もう我慢できない。ダンタリオンもそうだったが、どうして《悪魔》ってのはこうも癪に障る野郎ばっかりなんだ。
物心ついたときから今の今まで、ずっと努力してきたつもりだ。勉強もスポーツも人一倍頑張ってきた。天国にいる父さんに安心してもらうために、母さんに頑張ったねって頭を撫でてもらうために。子供ながらに母さんを護らなきゃって、空手の道場にも通ってた。積み重ねてきた努力の数は自分でも胸を張れる。
しかし、それでも、本音ではあの男をぶん殴れる気がしなかった。どう脳内でシミュレートしても、自分が殺される光景しか思い浮かばない。
悔しかった。べつに俺はナベリウスの背に隠れているわけじゃない。むしろ俺が彼女を護ってやりたいんだ。いくら《悪魔》と呼ばれていても、俺の眼前にある長い銀髪を揺らす背中は、抱きしめれば壊れそうになるほどに細いから。
女の子を護ってやることができて初めて一人前の男なんじゃないのか?
だとすれば、ナベリウスの背に隠れてるいまの俺はなんなんだ?
「堪えなさい。あいつは、いまの夕貴が敵うような相手じゃないわ」
「……ああ。分かってる」
そんなことは誰よりも俺が一番分かってる。分かってるからこそ、情けなくて悔しいんだろうが。
「法王庁特務分室か。珍しいじゃねぇか。普段は欧州に引きこもってるてめぇらが、わざわざ日本くんだりまで来やがるとはよ」
男は挑発するような声音で、俺とナベリウスから十数メートルほど離れた位置にいる特務分室の連中を揶揄した。武装した十二人の男と、鞘に収めた一振りの剣を構えるアルベルト。彼らの後ろにいるのか、リズの姿はよく見えなかった。
俺は素直に驚いた。《悪魔》の血を引く俺でさえ、あの紅い髪の男に気圧されているんだ。にも関わらず、白い軍服を着た男たちは一歩も引くことなく堂々と対峙している。きっと《悪魔》と戦闘することを想定した訓練を日常的に行うだけでなく、己が胸に揺るぎない矜持を刻んでいるのだ。いきなり人に銃口を向けてきたりと物騒な連中だが、一人の男として、彼らの在り方には敬意を払うべきだと思った。
「確認したい。先の北欧の惨劇は、貴様たちの仕業で間違いないな」
男が煙を吸って吐き出すまでの間、じっと口を閉ざしていたアルベルトが長い思慮の末に言った。
「あぁ間違いないぜ。よく調べてやがるな。オレたちの姿を見たやつぁ例外なくぶち殺したはずだが、さすがにてめぇらの目までは誤魔化せねぇか」
その諜報能力だけは利用価値がある、と男は続けた。
「一つだけ聞かせろや。《悪魔の書(ゴエティア)》はどこにある?」
アルベルトたちの目が鋭くなる。ついさっき男は《グシオン》と口にしていた。すでに状況証拠は出揃っている。裏の世情に疎い俺ですら、大体の事情を察することができるほどに。
「やっぱりあなたたちも《悪魔の書(ゴエティア)》を探してるんだね。ところで、グシオンは元気にしてるのかな?」
「あ?」
緊張の糸が張り詰めた一触即発の場に、きれいな少女の声が響いた。アルベルトの大きな背に隠れていたリズが、軽やかな足取りで姿をさらした。ツインテールに結われたストロベリーブロンドの髪が風に揺れている。
「わたしたちの調査したところによると、あなたともう一人は北欧で好き勝手に暴れたあと、グシオンの指示に従って来日したはずなんだけど。ちがうかな?」
後ろ手を組み、愛らしい笑顔を咲かせて問いかける。リズの質問に対し、男はどう応えるのか。俺が状況の推移を見守っていると、男の唇から紙巻き煙草がぽろりと落ちた。石畳のうえに短くなった灰が舞い散る。
「てめぇは……」
男はまるで幽霊を見たときのような顔で、リゼット・ファーレンハイトという少女の風采を仔細に眺める。ほどなくして、乾いた笑いがこぼれた。恰幅のいい肩がやおら上下に揺れ始め、その失笑の要因を悟られまいとしてか、男はてのひらで顔を覆って夜空を振り仰いだ。
「……知ってる。よーく知ってる」
ひとしきり笑ったあと、いびつに歪んだ唇から興奮を殺しきれない声がリズに向けられた。
「てめぇのツラには死ぬほど見覚えがあるぜ。忘れようとしても忘れられねぇクソ忌々しいツラだ」
むむむ、と眉をしかめるリズ。
「だめだよ、女の子にクソ忌々しいなんて言ったら。あんまりひどいこと言われると泣いちゃうんだから」
「はっ! そのうざってぇ物言いもあのクソガキにそっくりじゃねぇか!」
まるで話の流れが理解できなかった。初対面の俺から見ても、フォルネウスの様子は尋常じゃない。そういえばナベリウスも初めてリズを見たとき言葉を失っていたが、なにか関係があるのだろうか。
「ナベリウス。おめぇも気付いてんだろ?」
「……ええ。その子は」
「ああ。こいつは」
男は、冷淡な声で告げた。
「このクソガキは――あまりにもソロモンに似すぎている」
リズは何も言わなかった。
「その顔、その身体、その声、その口調、そして魂の在り方までもが瓜二つだ。唯一、違うとすりゃあその気色わりぃ髪の色ぐらいか。どちらにしろ親兄弟でもここまで似ることはないだろうぜ。なぁオイ、クソガキ。てめぇは何者だ?」
「うーん、何者って聞かれても困るね。リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。それがわたしの名前だよ」
凄烈なまでの威圧をバックに放たれた誰何にも顔色一つ変えず、リズは丁寧に自己紹介した。だが、いくら懇切に名乗りを上げても、そこに男の求める情報がなくては意味がない。男の顔が、ぎりり、と歪む。
「……そうかい。まぁ何でもいいがよ。てめぇがソロモンの縁者だろうが本人だろうが生まれ変わりだろうが興味はねえ。《悪魔の書(ゴエティア)》に関する情報を洗いざらい吐かせてから殺してやるよ」
「怖いね。でも、あなたにはわたしを殺せないよ」
リズが右手を胸のまえで水平に構えた。その人差し指にきらめく指輪を見て、男の目の色が変わった。次いで、口端が吊りあがり、黙っていれば色男と形容しても差し支えない顔立ちが、好戦的な形相へと変貌していく。ただでさえ容赦のなかった闘気の発露が、ここにきて完全に人の域を超えた。
ナベリウスが俺を護るように身を寄せてきた。白の軍服を着込んだ男たちは連携を乱さず、サブマシンガンの銃口を突きつける。リズは一歩下がり、目を細めて敵を見据える。鞘から剣を引き抜いたアルベルトが、姿勢を低くする。
各々が満を持して戦闘態勢を整えるなか、男はふところから取り出した新しい煙草を口に咥えた。
「いいぜ。始めようじゃねぇか」
投げやりな声が空気を震わせた瞬間、アルベルトが疾走した。その踏み込みを見ただけで、彼の武芸が神域に達していることが分かる。流水のごとく滑らかな初動でありながら、駆ける姿は疾風そのもの。アルベルトは間合いを詰めると、大上段に構えた剣を躊躇いもなく振り下ろした。
だが、それが届くことはなかった。
「そういや、まだ名乗ってなかったか」
アルベルトの剣先は、男のすぐ目の前で停止していた。リズがナベリウスの異能を無効化した光景とよく似ているが、本質はまったく異なる。なぜなら鼓膜を揺さぶる強いハウリングが、いま俺の目の前で起こっている現象の正体を教えてくれたから。
男の周囲が黒くかすんでいく。地面から炎が吹き上がるように、あるいは風が逆巻くように、男の周囲を闇よりも濃密な『影』が取り巻いている。自由自在にかたちを変えるそれは、堅固な盾と化して男の正面に展開し、銀色の剣先を受け止めていた。
常識が通じない。否、俺たちの常識が通じるはずもない。なぜなら彼らは――
「オレの名は《フォルネウス》。ソロモン72柱が一柱にして、序列第三十位の大悪魔だ」
告げてから、ライターを取り出し唇に咥えたままの紙巻き煙草に着火する。闘気と闘気が、武威と武威が、黒と白が激しく衝突するなか、ゆらゆらと立ち上る紫煙だけが孤独だった。
フォルネウスは煙を肺に入れて味わいながら、目の前にせまる刃を楽しげに見つめていた。人の手によって鍛え上げられた鋭利な凶器を前にしても、堂々たる佇まいには微塵の揺らぎもない。それは幾百、幾千の闘争を乗り越えてきた者だけが持つ、無窮の威風。どれだけ戦いに身をやつせばこれほどの領域にまで辿りつけるのか、もはや推して知ることもできない。
対するアルベルトは剣を振り下ろした体勢のまま、邪悪に揺らめく『影』と鍔競り合いを演じている。超常の異能を視認しても目の色も変えないのは、《悪魔》という種族のことを凡百よりも存知しているからか。フォルネウスがこの程度のことを造作もなくやってのけるのは、アルベルトにしてみれば百も承知なのだろう。分かったうえで、彼はおのれの誇りと武練を賭けて切り結んでいるのだ。
金属と影が拮抗し、宵闇に火花を散らす。自分が渦中の人物ではなく傍観者であると錯覚するほどに、その剣戟は美しかった。
「悪くねぇな。人間にしちゃ上出来だ。てめぇの名は?」
「法王庁特務分室第一戦隊所属、戦隊長。アルベルト・マールス・ライゼンシュタイン」
「長ったらしい名前だな。まあいい。憶えておいてやる」
「いらんよ。貴様はここで果てる」
「おもしれぇ。口じゃなく行動で示してみな」
無論、と言葉を置き去りにして、アルベルトは脚の筋肉をたわめて一気に後ろに跳んだ。大きく距離を開けたあと、間髪いれずに駆け出しふたたびフォルネウスに肉薄する。長い刀身を横薙ぎに一閃。しかし、それも寸前で『影』によって阻まれた。打ち込みの衝撃ですさまじい衝撃波が生まれ、石畳にかすかな亀裂が走った。アルベルトの剣技や体捌きは超人の域にあるが、どうやってもフォルネウスに刃は届かない。
「あれは……」
いったいなんだ? 《悪魔》が恐ろしい能力を持った生き物であることは知っていたが、まさか『影』を使役する者がいるなんて夢想だにしていなかった。
そのとき、俺の疑問に合わせてリズが言った。
《夜影を歩く者(ミッドナイト・ウォーカー》
わざわざ説明されるまでもない。それがフォルネウスだけが持つ異能の名であることは明白だった。元来、『影』とは特定のかたちを持たない像だ。それに質量を持たせて操り、アルベルトの剣技を一歩も動くことなく防いでいるのだ。あれが《ハウリング》でなくて何だと言うのか。
「戦隊長!」
特務分室の男が叫ぶ。アルベルトは横目にちらっと声がしたほうに視線を向けたあと、裂帛の気合とともに剣を振りぬき、フォルネウスを守護していた『影』に一筋の亀裂を作ると真横に跳んで離脱した。
「斬りやがったか。やりやがる」
悪魔の賛辞を掻き消すように、サブマシンガンの銃口が一斉に火を噴いた。アルベルトが全身全霊をもって作り出した間隙を狙って、秒間に何百発もの弾丸が放たれる。銃器の奏でるオーケストラは鼓膜を侵し、連続するマズルフラッシュは夜空にまたたく星のようだ。
フォルネウスは短くなった煙草を指で弾き、銃弾の嵐から逃れるために駆けた。深紅の大悪魔が走ったすぐあとを無数の弾丸が貫き、石畳に弾痕を穿っていく。
「このチャンスを逃す手はないわね……!」
「えっ、おい!」
やにわに俺のとなりにいたナベリウスが走り出した。反射的に手を伸ばすと長い銀髪のさきに指が触れたが、彼女自身を捕まえることは叶わなかった。
「あいつは危険よ! 法王庁と手を組むのは癪だけど、フォルネウスを野放しにはできない! 夕貴はそこにいなさい!」
振り返りもせずに告げる。俺の抗弁を封じるように、ナベリウスの身体から冷たい波動がほとばしった。
「いいねぇ! やっぱりてめぇは最高にいい女だぜ、ナベリウス!」
かつての同胞の参戦を見受けたフォルネウスは、無邪気な子供のごとく声を張り上げた。それを完全に無視して、走った勢いもそのままに回し蹴りを繰り出すナベリウス。つま先がえがく軌跡は、月の弧よりもなお美しい。しかし、跳ね上がった細い脚はあっさりと受け止められた。ちょうどマガジンが空になったのか、銃撃が止む。しんと場が静まった。
「アスタロトから聞いたぜ。てめぇ、ダンタリオンを殺りやがったそうだな」
「それがなに? わたしの夕貴にちょっかいを出したあいつが悪いのよ」
「いい加減、目ぇ冷ませよ。あのガキに、てめぇほどの女が命を賭ける価値なんざねぇだろう。言っとくが、オレはダンタリオンのことがそう嫌いじゃなかったぜ」
「呆れたわ。まだ分かってないのね。そろそろ女心を理解しなさいよ。いい、女って生き物はね」
ナベリウスの声を遮るように再度、銃撃が始まる。大気を焼く弾丸。耳をつんざく銃器の咆哮。密着した二柱の《悪魔》めがけて、鉛の雨が降り注ぐ。
「――かわいい男の子が好きなのよ!」
とりあえずあとで説教してやろうと思う程度にはアホらしいことを真顔で告げながら、彼女は脚を強く振りぬいた。それはダメージにはならなかったが、両者は蹴りの衝撃によって鏡合わせに吹き飛んだ。その中間を銃弾が通過していく。
フォルネウスは石畳を削って勢いを殺したあと、ゆらりと上半身を起こし、真上に注目した。すでにナベリウスは空高く跳躍し、夜空に向かって手を伸ばしていた。鮮烈な冷気が集まる。
「凍ってろっ!」
銀髪悪魔が手を振り下ろした。それに従って、大型自動車ほどはありそうな巨大な氷塊が落下する。次の瞬間、フォルネウスの周囲をたゆたっていた『影』が幾重にも枝分かれして帯状に伸び、一つ一つの先端が刃物のように変形した。氷塊はズタズタに切り裂かれ、大きな破砕音とともに細かな破片が展望台に散らばる。白い霧が吹き荒れ、視界を覆い隠した。
轟音と衝撃が立ち込めるなか、肌と肌を打ち付けあう音が爆ぜた。よく目を凝らしてみれば、白煙の向こうに深紅と白銀のシルエットが拳を合わせているのが分かる。双方はふっと笑ってから、俺たち人間の理解が及ばない領域に突入した。
驚異的な速さで交差する戦技。一瞬の読みが数手先の死に繋がる刹那の攻防。恐るべき膂力で振りぬかれる拳。踏み込みは鋭く、かすかな残像が尾を引いていた。俺も、リズも、アルベルトも動けない。飛び道具を持つ隊員たちですら固唾を飲んで見守っている。それほどまでに二柱の《悪魔》の戦いは圧倒的だった。うかつに介入すれば死ぬだけだと、誰もが頭ではなく本能で理解していた。
彼女たちが強いのは知っていた。知っているつもりだった。そんな俺の甘い認識は、ほんの一瞬にして粉々に打ち砕かれた。
これが、《悪魔》か。
いまさらながらに自分の身体に流れる血を意識してしまう。決して他人事じゃない。ナベリウスが忠誠を誓い、ダンタリオンが敬い、フォルネウスが認めた大悪魔の血が、俺のなかには流れているんだ。
そうこうしているうちに拮抗は崩れた。フォルネウスの一撃を受け損ない、ナベリウスは容赦なく蹴り飛ばされる。もともと格闘戦の相性が悪かったのだろう。俺が見たところ、技はナベリウスがやや上、力はフォルネウスがかなり上といった塩梅である。あそこまで競り合っただけでも、銀髪悪魔は賞賛されるべきだった。
ここまで機を伺っていたアルベルトが一息に間合いを詰めて、剣を横一文字に薙ぎ払った。
「バカが! 効かねぇよ!」
フォルネウスは右手を前に伸ばし、真っ向から迎え撃った。漆黒の『影』が踊り、銀の剣閃を阻む。衝突の際に火花が散り、爆発的な風圧が二人の髪を揺らした。
今宵、三度目の鍔競り合いを演じる大悪魔と戦隊長。並みの使い手では立ち入る隙のない膠着に、銀色の影が割って入る。
長い髪をなびかせながら低姿勢で肉薄したナベリウスが、全力でハイキックを見舞う。足を踏ん張り、腰をしっかりと使い、膝のスナップを利かせて、柔らかい身体を最大限に生かした蹴りである。そこらの男なら見蕩れている間に意識どころか命まで刈り取られているだろう。
だが美人からのプレゼントをすんなりと受け取るほど、フォルネウスは紳士じゃなかった。
左手を伸ばし、大きなてのひらで細い足首をがっしりと掴み取る。ウィングスパンを計測するように両手を大きく広げた体勢で、ナベリウスとアルベルトの攻撃を同時に防ぎきった。
「どうしたよ。そんなもんか?」
すでに理解していたことだが、あらためてフォルネウスの戦闘能力には畏怖の念を禁じえない。初見で達人の剣技を見切る慧眼。かつての同胞をも圧倒する武威。数の不利なんて関係ない。気が遠くなるような時間、闘争のなかに身を置き続けたフォルネウスの実力は、俺の想像しうる次元のさらに上をいっている。
「調子に――」
アルベルトの手にぎりぎりと力がこもる。微動だにしなかった刀身に動きが見えた。
「――乗るなっ!」
ナベリウスが叫んだ。瞬間、崩れる拮抗。切り裂かれる『影』。フォルネウスは大きく身を捻って迫りくる剣先をかわし、その過程で自由になったナベリウスは脚を引き戻しながら体軸を回して裏拳を放った。ふわりと腰まである銀髪が舞い上がり、汗の浮かんだ白いうなじがあらわになる。
戦況が変わった。攻撃とは最大の防御である。であれば、敵が防戦にまわったら一気に畳み掛けるのが定石だった。
華麗な蹴り技と、隙のない剣戟が交差する。氷と体術をうまく使って柔軟に仕掛けるナベリウスと、自らが振るう刃と同等以上に磨き上げられた剣技を用いるアルベルト。
「はははっ! 最っ高だよてめぇら!」
打って変わって防戦一方に追い込まれても、紅い悪魔は笑みを絶やさない。苦々しい気持ちが胸を焦がし、嫌な予感が脳裏をかすめる。もしここに万の軍勢がいたとしても、フォルネウスを打倒することは適わないのではないか。心の奥底で、弱くて女々しい自分が顔を出す。
そんな俺の葛藤を、けたたましい銃声が掻き消した。特務分室が手持ちの火器を乱射したのだ。ナベリウスとアルベルトが同時に飛び退き、残されたフォルネウスは超人的な身体能力を駆使して銃弾の雨から逃れる。いくら強力でも、人が作り出した兵器では《悪魔》に対する必殺にはなりえない。
「……だから」
俺が必殺に変えてやる。無機質な大量生産の鉛弾に血を通わせるのが、俺の役目だ。
もう下を向くな。いまはできることをやれ。おまえには父さんからもらった力があるだろう。
心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。やたらと熱い血液が全身を駆け巡り、頭のなかでは甲高い耳鳴りが薄っすらと響いている。普段は水平に構えている天秤が、人ではなく《悪魔》のほうに傾き始めるのが分かった。
なぜか悲しそうに顔を歪めるナベリウスが視界に入った。そんな顔すんなよって言いたかった。いまの俺でもおまえを護ってやることができるんだって証明したかった。
俺は男らしさだけじゃなくて諦めの悪さにも自信があるんだ。舐められっぱなしじゃ気が済まない。
「こりゃあ……」
フォルネウスが怪訝顔で動きを止める。なにを訝しんでいるのかは知らないが、この機を逃す手はない。
発砲された何百発もの弾丸が、ありえない軌道を描いてフォルネウスに襲い掛かる。いくら躱されても、何度でも軌道を修正させてみせた。まだ自分の力のことはよく分からない。それでも『金属を操れる』という特性だけはしっかりと理解している。かつては銃弾を逸らすのが限界だったのに、いまはこうして操作することまでできる。自分でも気付かないうちに、俺の力は確実に強まっていた。
「おもしれぇ! 見せてみろやガキ! グシオンが執心するほどの価値がてめぇにあんのかよ!」
うるさい。グシオンのことなんて関係ねえよ。俺をだれだと思ってやがる。父さんと母さんの息子だ。ずっと強くなろうって足掻いてんだ。いつか自分の力で母さんを護ってあげたいって夢見てんだ。おまえなんかに邪魔されるほど俺の目標は低くない。
なにより心配そうな目で俺を見つめる銀髪悪魔に、無様なところを見せてもいいのか? またいつものようにあいつの優しさに甘えるのか?
ほんとうにそれでいいのか、萩原夕貴?
「――んなわけねえだろうがっ!」
他の誰にでもなく、俺自身に向かって叫んだ。奮い立たせるんだ自分を。見返してやるんだ相手を。虚勢でもいいから思いっきり前を向いてやれ。力では劣っていても、男としては絶対に負けてやるわけにはいかない。
女々しくてもいい。情けなくてもいい。いまは強い自分を追いかける弱さがなくてはいけない。弱い自分を認められる強さがなくてはいけない。
だから、舐めるな。俺は女の背に隠れてるだけのガキじゃねえ……!
「……気が変わった」
フォルネウスが静かに呟いた。抑揚のない、平坦とした声。殺しに熱狂していた双眸が急速に冷えていく。血に飢えた肉食獣のごとき獰猛な笑みはすでにない。
その異変は唐突に起こった。これまでの比じゃない強烈な耳鳴り。フォルネウスを目掛けていた銃弾が、奴の身体を突き抜けていく。確かに被弾したはずなのに血や体液は一切出ないし、ダメージを負った様子もない。
よくよく目を凝らせば、銃弾が貫通した箇所から黒い煙が吹いていた。それだけじゃない。フォルネウスの輪郭が少しずつ曖昧になっていく。固体が気化するように。もっと言えば、肉体が闇と同化するように。
「てめぇらはおもしれえ。ここからは全力で遊んでやるよ」
刻一刻と強壮さを増していく《悪魔》の波動が、少しずつ世界の法則を書き換えていく。歪められた物理法則は、やがてフォルネウスにフィードバックする。
そう、これは《フィードバック》だ。
ソロモン王に封じられた七十二柱の大悪魔は、本来の力の大部分を失った。ゆえに現在の彼らがふるう異能は、大きな湖からバケツ一杯分の水をくみ上げた程度のものでしかない。しかし彼らは、体力の多くを費やすことによって、かつて失った本来の力を限定的に行使することができる。それは諸刃の剣だが、最大の切り札でもある。ちっぽけなバケツと、広大な湖。どちらがより強力かは考えるまでもない。
かつて俺に《フィードバック》の何たるかを説いたダンタリオンは時の流れを止めて見せたが、それに匹敵するほどの不気味な気配が漂い始めた。
「……あのバカ、ここが日本だってこと忘れてるわね」
俺のかたわらにナベリウスが着地した。法王庁の連中はじりじりと後ろに下がりつつある。あのリズでさえ、いまは分かりやすく渋面をしていた。
「光栄に思えや。これを使うのはずいぶんと久しぶりだ」
俺は戦慄した。もはや『影』なんてレベルじゃない。この自然公園を包み込む『闇』そのものが、フォルネウスに隷属している。底知れない深淵が、石畳やベンチや樹木を少しずつ、けれど貪欲に飲み込んでいく。
大地が揺れる。気流が乱れる。ここになにも知らない民間人がいたら、間違いなく今日が世界滅亡の日だと確信を抱いているところだ。ブラックホールに吸い込まれるように、『闇』がフォルネウスの腕に凝縮されていく。冗談抜きに馬鹿げてる。だって、あんなのをぶっ放したらどうなるか想像もできない……!
「はぁ、まさかここで使うなんて……あいつの力は見境がないうえに超広範囲に及ぶから厄介なのよね。おまけに力を発動させている間は基本的に不死身だし」
ナベリウスが銀髪をくしゃりと掻き上げて悪態をつく。古い知り合いであるがゆえにお互いの能力もばっちり把握しているのだろう。
みんなが一斉にフォルネウスを止めようと試みる。だが空から氷が降り注いでも、どれだけ銃弾を打ちこんでも、それらは意味を成さなかった。あらゆる物理的攻撃は、すべてフォルネウスの身体をすり抜けていく。いつの間にか奴の身体は、ほとんど『闇』と融合していた。いや、フォルネウスそのものが闇になっていた。
俺たちの視線の先には、冗談としか思えない光景が広がっている。フォルネウスの手に宿る絶望。影を操っていたときとは比べ物にならないほどの物量と禍々しさだ。
「まずは小手調べだ! 躱すなら上手く躱せや! 受け止めんなら死ぬ覚悟でかかってきやがれ! あっけなく死んでくれんなよなぁオイ!」
ハイになった口調で声を張り上げて、フォルネウスは石畳に拳を突き刺した。紅い髪とジャケットの裾が激しく巻き上がる。
「ぶっ飛べぇっ!」
夜が爆発した。本当に、夜が爆発したとしか言いようのない現象だった。フォルネウスを中心に、黒い衝撃波が田んぼの稲をなびかせる風紋のごとく広がっていく。丁寧に敷き詰められていた石畳が剥がれて宙を舞い、接地していたベンチが砕け、そこらに茂っている木々がなぎ倒されていった。
「げ、やば――」
「うわっ!?」
ナベリウスは俺の腕を引いて大きく後ろに跳び退った。出来の悪いジェットコースターに乗っているような体感と視界。すぐさま俺は自分の脚で立ち、ナベリウスとともに爆心地から離れようと執心する。
「甘ぇよ。ガキ」
そんな俺たちを紅い悪魔が嘲笑う。うるさい。おまえなんかにガキ呼ばわりされる筋合いはねえよ。そう声に出そうとしたまさにその瞬間、邪悪な黒い奔流がとうとう俺たちの身体を飲み込んだ。ナベリウスが咄嗟に展開した氷の壁も、数秒の時間稼ぎにしかならなかった。
思わず目を瞑ると、なぜかいい匂いがした。ぎゅっと抱きしめられる。顔に当たる柔らかい感触と、後頭部を優しく撫でる彼女の手。さらさらとした銀髪が頬をくすぐる。
こんなときなのに俺は呆れた。本当に過保護だよな、おまえは。
****
・《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》
ソロモン72柱の力を抑制するために産み落とされた五つの法典。書物の名を関してはいるが、その形状はさまざまである。例として、リゼット・ファーレンハイトが所有する《精霊の書(テウルギア)》は本ではなく指輪のかたちをしている。
それぞれの書が異なった能力を持つ。四書一法という隠語で呼ばれることもある。
・《悪魔の書(ゴエティア)》
現在、日本のどこかにあるとされる書物。能力は不明だが、アルベルト曰く『純然たる破壊にのみ特化しており、悪意をもって使用すれば甚大な被害をもたらすこともできる』とのこと。
これを発見、および回収することが法王庁特務分室の目的。また《悪魔》の三大勢力の一角を率いるグシオンは、この書物を手に入れるために来日したと目されている。
・《精霊の書(テウルギア)》
リズが所有する指輪のかたちをした書物。『悪魔の異能を無力化し、無効化する』という能力を持つ。四書一法のなかでも純粋な防御だけならトップクラス。
・《星の書(パウリナ)》
所在、能力ともに不明。
・《天空の書(アルマデル)》
所在、能力ともに不明。
・《天元の法(アルス・ノヴァ)》
所在、能力ともに不明。