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No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
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[29805] 3-7 加速する戦慄
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/10/01 15:56
 
 目が覚めたときにはもう、となりに大好きな温もりはなかった。

 真夏なのに肌寒いと感じた。果てのない暗闇に一人ぼっちにされたかのような寂寥感。意識が途切れる寸前まで俺を抱きしめてくれていた彼女の温もりは、すでにどこにも残っていなかった。

 自分が土のうえに仰臥しているのだと理解するのには時間がかかった。尋常じゃない倦怠感が全身を包んでいる。思考は鈍く、瞼は重い。身体の至るところが痛んだ。きっと服を脱げば、そこには打撲や擦り傷のオンパレードが見れるだろう。

 ゆっくりと上半身を起こし、あたりを見渡す。うっそうと生い茂った草木が目に入った。荘圏風致公園には緑が多く、敷地面積の大部分は雑木林にも似た木々の連なりによって占められている。どうやら俺は散策路から大きく外れた木陰に倒れているらしい。強すぎる自然の香りが肺を満たし、爪のあいだには土が挟まっていた。

 覚醒してから、時間にして十数秒ほどは自分がなぜこんな場所で寝ていたのか分からなかったが、じんじんと鈍い痛みを訴える身体がすぐさま現実を思い起こさせてくれた。あれだけ美しかった展望台が一方的に蹂躙されていく光景を強く憶えている。血よりも紅い髪をした悪魔の笑い声が耳に残っている。

 そうだ、俺はフォルネウスの一撃から逃げ切れなかったのだ。風に吹かれる紙クズみたいに吹き飛ばされて、この場所に落ちたのだろう。

「くそっ……」

 その場に座り込んだまま、言い知れない悔しさを紛らわせるために拳を握り締めた。俺はなにもできなかった。あれだけ大口を叩いたくせに、フォルネウスの力を前にして為す術を持たなかった。でも俺は辛うじて命を拾い、こうして自分の無力を嘆いている。俺が助かったのは運がよかったからではなく、そうなる必然があったからだ。

 黒い奔流に飲み込まれる寸前、反射的に目をつむった俺を抱きしめてくれた人がいた。柔らかくて、いい匂いがして、気持ちよくて、温かくて。あの優しい感触がまだ薄っすらと肌のうえに残っている。

 恋人のように強く抱きしめられたのだ。もしかしたら近くに彼女がいるかもしれないと考えたが、拙いなりに《悪魔》の波動を探ってみても、周囲からはあの冷たくて美しい気配は感じられない。

「……あのバカ、俺に黙っていなくなったりしたら許さないからな」

 じっとしていても始まらない。俺はすぐそばにあった大木の幹に手をついて立ち上がった。身体の節々から焼け付くような痛みが自己主張を始めたが、懸命に歯を食いしばって我慢した。その気になれば動けないことはなさそうだった。

 夜の荘圏風致公園は、あの展望台での喧騒が嘘のように静まり返っていた。虫の求愛する声も、小動物が地を駆ける気配も一切しない。俺の荒い吐息だけがやけに大きく聞こえ、歩くたびに葉擦れの音が響いた。

 ぼんやりと、うまく思考がまとまらない。気を失っていた時間はそう長くないはずだが、頭のなかは寝覚めが最悪の朝と同じぐらい鈍っている。それでも足が前に進むのは、きっとナベリウスのことが心配だったからだ。いまはフォルネウスなんてどうでもいい。とにかく銀髪悪魔の元気そうな顔が見たい。

 見晴らしのいい散策路は避け、あえて繁茂した木陰に身を隠して木々の群れのなかを歩いていると、ふいに無邪気な少女の顔を思い出した。ストロベリーブロンドの髪が自慢で、ちょっとお尻が大きいことを気にしていて、日本のことわざが大好きな女の子。リズは、法王庁特務分室は無事なのだろうか。彼らの実態はよく分からないし、今後の展開によっては最大の敵となるかもしれない連中だが、できるなら生きていてほしい。それが甘い考えなのは自覚しているが、いままで平凡な学生として暮らしてきた萩原夕貴の常識は、見知っただれかが死んでしまうことに否定的な見解を訴えている。

 どうしてここまであの少女のことが気になるのか、と心のなかで自問してみれば、答えはすぐに見つかった。わたしにはお父さんとお母さんがいない。リズが笑顔で口にした言葉が、俺の心を強く抉っていたからだ。

 叶うなら、もう一度だけリズと話がしたい。彼女の目的が知りたい。あの子には、特務分室の任務とは別に、もっと大きな使命のようなものがある気がする。少なくとも、あんな澄み切った目をした子が腹のうちで邪悪なことを画策しているとはどうしても思えなかった。

 小川のようにゆっくりと流れる思考に身を任せて、俺はとくに強く痛むわき腹を抑えながらナベリウスの姿を探していた。

 そして、足を踏み出した瞬間だった。

『――そこにいたかよ、ガキ』

 否が応にも殺戮を予感させる声が薄闇に響いた。いちど交通事故に遭うと車に恐怖心を抱くように、圧倒的な力によって俺を打ちのめした男の声を耳にした途端、胸のおくから抑えようのない戦慄が湧き上がり、傷ついた全身を硬直させた。

 俺が立ち止まるのとまったくの同時に、かすかな風切りの音が耳に届いた。とっさに大地を強く蹴り、衣服が土に汚れるのも構わず前に転がる。直後、闇色の刃が閃き、俺の毛髪を数本だけ断ち切った。あと刹那も遅ければ、どうなっていたか。その答えを知ろうと、俺は片膝をついた体勢のまま後ろを振り返った。

「……おいおい」

 背後にあった大木に一筋の亀裂が走り、ゆっくりと斜めにずれていく。ちょうど俺の首の位置の高さで切断された木は、物々しい音を立てて地面に倒れた。

『いい反応だ。悪くねえ』

 立ち込める『闇』がくつくつと湿った音を漏らした。フォルネウスの姿はどこにも見えないが、きっと奴はどこにでもいる。

 ひどく静かな時間が流れる。大きな音を立てて暴れる心臓が邪魔だった。天然の遮蔽物に囲まれたこの場所は、俺にとっては死角だらけだ。身を隠すために利用していた木陰がここにきて仇となり、フォルネウスの能力をより凶悪なものに仕立て上げている。

 忙しなく前後左右に視線を這わせて、ひたひたと近づいてくる死の気配を探った。まるで体を動かしていないのに、高まる緊張から大量の汗が噴き出し、服をべっとりと濡らしていく。

 ……どこだ? 次はどこから来る? 向こうの樹木の脇からか? すぐそばにある木陰からか? 俺はちゃんとそれを察知できるのか? 気付けたとしても躱せるのか?

 初撃から数えて十秒も経っていないのに、俺の神経は磨耗する寸前だった。一秒がどこまでも引き伸ばされて、時間が無限に感じる。周囲のあらゆる音が聞こえなくなり、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえていた。

 そのとき、ぽたり、と大粒の汗が顎から滴り落ちた。何気なく地面に目を向ける。それが功を奏した。

「――っ!?」

 ほんの一瞬、俺の真下の地面が醜く歪んだかと思うと、そこから夜空に向かって漆黒の炎が吹き上がった。見上げるほど高い火柱は、木々が咲かせた若葉を無残に散らしながら屹立する。バックステップが間に合い、コンマの差で命を繋ぐ。

 いま助かったのは奇跡だ。汗が落ちなかったら、俺は間違いなく死んでいた。前後左右どころじゃない。上からも下からも死神の鎌は容赦なく迫ってくる。偶然はそう何度も起こらない。であれば、次の攻撃も躱せる保証なんてどこにもない。

『オレはよ、ずっと楽しみにしてたんだぜ』

 どこかでフォルネウスが言った。

『あの《バアル》の遺産だ。野郎が最後に遺したおもちゃの出来はどうなんだってな』

 ガキの次はおもちゃか。この男もダンタリオンと同様に、俺を萩原夕貴ではなく、ただ父さんの血を引くだけの子供と見てるんだ。

『なぁ、おい。てめぇはいったいなんだ? 人間か? 悪魔か? 手を抜いてんのか? それともマジになってその程度なのか? つまんねぇ引きなんざいらねぇぞ。退屈で退屈でしょうがねぇんだよ』
「べつにおまえを楽しませるつもりなんかねえよ。それに俺は俺だ。人間でも悪魔でもない。父さんと母さんの息子だ」
『こうして見るかぎり、野郎の血を引いてるとは思えないがねえ。なんだ、バアルはそこらの犬でも孕ませたってのかよ?』
「おい」

 自分でも驚くほどドスのきいた声が出た。死の恐怖を吹き飛ばすだけの怒りがふつふつと沸いてくる。両親を侮辱されるとすぐ頭に血が上るのは悪い癖だ。こればっかりはたぶん死んでも治らないし、治そうとも思わない。そんな利口さはいらない。

「もっぺん母さんをバカにしてみろ。そのときはおまえの舌を引きちぎってやる」
『出来もしねぇことほざいてイキってんじゃねぇぞガキ。だがまあ――』

 癪に障る笑い声が漏れた。憤る俺を嘲笑うかのような響き。この野郎、調子に乗ってやがる。
 
『ニワトリみてぇにビビってるよりかはそっちのほうが何倍もおもしれぇ。保護者の子守なしでどこまでやれるか見せてみな』
「知るか。ぺらぺら御託を並べてる暇があったら、煙草にでも火をつけてろ。最後ぐらい煙を味わう時間をやるよ」
『はっ――』

 小馬鹿にしたような呼気を皮切りに、ドクン、と不気味な音を立てて空間が脈動した。主人から狩りの許可を得た『闇』の眷属が、およそ人が考えうるかぎりの凶器と化して俺に襲い掛かってくる。木々が見るも無残に切り裂かれ、焼き尽くされた若葉が儚くなり、舞い上がった土や木片が夜に散った。

 軋みを上げる体を無理やり黙らせた俺は、鋭敏になった感覚だけを頼りに駆け出した。迫りくる凶手を皮一枚で躱しながら、脇目も振らずに全力疾走する。戦うことを放棄したわけじゃない。ここでは地形が悪すぎる。もともと気が遠くなるような実力差があるのだ、せめて俺が満足に戦える場所に移動しないと話にならない。

 俺のすぐ後ろを、人あらざる力の権化が追従してくる。肩越しに背後を振り返ると、あらゆる植物を破壊しながら逃げる獲物を飲み込もうとする黒い奔流が見えた。尖った枝が、よそ見する俺のほほに掠り、つぅ、と一筋の血が流れる。

 そうして走ることしばらく、俺はそこに辿りついた。

 月明かりも満足に届かなかった森のなかとは対照的な、とてつもなく開放的な空間。中学校か高校のグラウンドほどもある敷地面積。足元は芝生に覆われ、周囲を背の高い木々がぐるりと囲んでいる。ここは荘圏風致公園の東に位置する広場だった。休日には子供が大勢でボール遊びをしたり、家族連れがピクニックシートを敷いたりする憩いのスポットだが、夜の帳が下りた今となっては形無しという他ない。

「ここなら……」

 戦える、と思った。戦ってやる、と自分に言い聞かせた。今日は月明かりが綺麗だ。この銀色のベールに包まれた場所なら、フォルネウスとも真っ向から対峙できる。だって、月光を見ているとナベリウスを思い出すから。彼女に見守られているような気になるから。

 けっきょく、ナベリウスの安否は分からずじまいのままこのときを迎えた。せめて一目だけでも、あいつの無事な顔が見たかった。とは言ったものの、俺はさほど心配していない。自惚れを承知で言えば、ナベリウスが俺を放っていなくなるわけがないんだ。あれでくたばるような女なら、俺はもっと安寧な生活を送ってるに決まってる。

「おもしれぇじゃねぇか」

 強い風が吹いた。停滞していた広場に台風のごとき乱流が生まれ、渦を巻いた。その中心に膨大な『闇』が凝縮されていく。それは少しずつ人のかたちを描き出し、なにもなかったはずの空間に一人の男を浮かび上がらせた。幽鬼のごとく顕現したシルエットは、紅い髪を揺らし、整った相貌にどこか子供のような笑みを浮かべて口火を切った。

「よぉガキ。ここで死ぬのか?」

 万の軍勢の吶喊を思わせる、個人が放つにしては大きすぎる存在感。ダンタリオンが人知れず進行する病魔だとするなら、この男は狩りを至上とする生粋の肉食獣だ。戦いを楽しみ、戦いだけを求める。その単純明快な気質上、一切の打算的なものがない代わりに、フォルネウスを御することは誰にもできない。

 あらためて確認した事実を、しかし俺は鼻で笑ってやった。ちょうどいい。望むところだ。フォルネウスを退ける方法が戦いしかないっていうなら、そのルールに従ってやろうじゃないか。

「そういや小耳に挟んだんだが、おめぇもダンタリオンと殺り合ったってのはマジかよ?」

 豪奢な金色の髪、不健康そうな白蝋の肌、亀裂を思わせる細い糸目、神を冒涜するように血に染めた神父服。ダンタリオンは恐ろしいというより、怖かった。脅威ではなく恐怖だった。俺の大切なものを俺の知らないうちに奪い取っていきそうな、言い知れない悪意の権化だった。

 俺が黙って頷くと、フォルネウスは珍しく感嘆した。ほぉう、と。

「あいつと戦って生き残るとは大したもんだ。ダンタリオンは小賢しい野郎だったが、その強さは厄介という意味では本物だった。グシオンも仲間に入れたがってたからな」
「だからなんだよ。昔の仲間がやられて腹が立ってんのか? あんなのただのヘンタイじゃねえか」

 父さんの血を引く俺だけならともかく、なんの関係もない美影の心身をも弄ぼうとしたのだ。しかも後になって聞いてみれば、よりにもよってあの野郎、ナベリウスにも手を出そうとしたらしいじゃないか。女の子を暴力で従えようとする奴なんか、ヘンタイでじゅうぶんである。

 かつての同胞を侮辱されたのだ。さすがに業腹だろうと思って目を向けてみれば、なぜかフォルネウスは楽しげに笑っていた。腹に手を当てて体をくの字に曲げ、ともすれば目尻から涙がこぼれんばかりに笑い転げている。

「そうかヘンタイかっ! なぁるほどなるほど、面白い例えだっ! 確かに言われてみりゃ、ダンタリオンはただのヘンタイ野郎じゃねぇかっ!」

 言って、また笑う。俺としては軽い挑発のつもりだったのに、まさかここまで同意されるとは思っていなかった。

「……あぁ、違いねぇよ。気が遠くなるような昔からそうだった」

 打って変わって冷めた声が、夜のしじまを揺らした。

「ダンタリオンはとにかく傲慢で、強欲で、野心家だった。あのバカが素直に言うことを聞いたのは、ソロモンとバアルの二人ぐらいさ。そのくせナベリウスとは数え切れないほどの因縁がありやがるし、アガレスのちびっ子とはなぜか気が合ってた。いま考えてもいけ好かねぇ野郎だぜ。ヘンタイってのは大いに同意してやる」

 だが、とフォルネウスは続けた。

「あいつのことを認めてない奴は、オレたちのなかには一人もいねえ。二十年ほど前にくたばったバアルに続き、この極東の地でまた一人、ソロモンの同胞が逝っちまった」

 つまらなさそうな目で夜空を見上げる面持ちは、殺しに熱狂していた男とは似ても似つかなかった。ただの戦闘狂だと、死と破壊を撒き散らすだけの怪物だと思っていたのに、こんな顔もするんだ。儚くなってしまった仲間を偲ぶだけの情緒も持ち合わせているんだ。

「だからよ、オレは気に食わねぇんだ」

 矢のように鋭い眼光が俺を突き刺す。

「バアルは人間の女を愛したばかりにくたばった。ダンタリオンはどこぞのチンケなガキに関わったばかりに逝った。なぁオイ、聞かせてくれや。てめぇみたいな何の力も持たないガキに、あいつらの命に勝る価値があんのかよ? バアルの血を引いてるんだろ? ナベリウスを従えてんだろ? ダンタリオンが手に入れようとしたんだろ? 割に合わねぇんだよ、てめぇの存在は」

 フォルネウスの言い分にも一理ある。もし俺が産まれなければ、全てが上手くいってたかもしれない。父さんは死なず、ナベリウスは主人を失った呵責を負わず、日本を訪れる理由のなくなったダンタリオンも世界のどこかで違う悪事を働いていただろう。もしかしたら、という仮定の話でしかないが、そういう可能性もあっただろう。

 でも、だからといって俺は、自分の存在が間違いだとは思わない。それだけは絶対に思っちゃいけない。子供ってのは両親にとって宝物だ。ここで俺が自分の存在を否定することは、すなわち父さんと母さんの想いを踏みにじるのと同義だ。そんな親不孝な真似はするわけにはいかない。

 俺は逃げない。フォルネウスの強さから、そして自分の弱さから逃げ出さない。すべてを理解して受け止めたうえで挑戦してやる。

「……だったら、確かめてみろよ。ほんとうに俺に価値がないのかどうか」

 それに俺はこう見えてもイラついてるんだ。

「おまえ、俺を女の背に隠れてるだけのガキだって言ったよな。母さんのことを犬だと言ったよな」
「はっ、だからなんだってんだ?」
「決まってんだろ。男が舐められっぱなしで終われるか。いまからおまえの顔面に一発ぶちこんでやるから覚悟しろって言ってんだよ」

 せいいっぱいの虚勢を張って告げると、紅い色をした大悪魔は落胆の面持ちもあらわにかぶりを振った。

「そうかい。まあ自殺願望があるなら止めねぇが……ただ、てめぇの子守をしていたナベリウスはここには来ねぇぜ」

 瞬間、言葉に詰まった。べつにナベリウスの助けを期待していたわけじゃないし、あいつがいないと戦えないということでもない。単純に彼女の身に何かあったのかと心配したのだ。

「オイオイ、そう怖い顔すんなや。オレは何もしちゃいねぇよ。あっちはあっちで旧交を温めてるだけさ」

 暖炉に入れられた火のように、かすかな不安が俺の胸中を焦がした。旧交を温める、とは本来ならポジティブな意味で使われるはずの慣用句だが、この状況下ではひどく不吉な言葉に聞こえた。

「感謝するんだな。あれだけのいい女と遊べる機会を蹴って、てめぇみたいなガキを引き受けたんだ。だからよぉ、これ以上オレを失望させやがったら――」
「うるせえ。ほざくな雑魚」

 かすかに目を見開くフォルネウス。俺はこれみよがしに唾を吐いてから告げた。

「さっきからうるさいんだよ、おまえ。男なら拳で語ってみろ。弱い犬ほどよく吼えるって日本のことわざ、知ってるか?」
「かっはははっ!」

 もう抑えきれないとフォルネウスは哄笑をぶちまけた。その体から《悪魔》の波動が一気に流出し、大気を激しく揺らす。あまりにも暴虐で、限りなく強烈だった。ゆらりと上半身の力を抜いた体勢のまま、おのれの存在を世界に知らしめるようにゆっくりと示威的に歩いてくる。

 しかし、比類なき威圧を受けても、俺は一歩も下がることなく平然と構えていた。足が前に進むことを拒んでも、拳が恐怖に震えても、それを悟られないように取り繕って見せた。

 そうだ。こんなところでビビッてる場合じゃない。前に進め、顔を上げろ、拳を握れ。おまえは女の助けがないと何もできない男か。違うだろう。せいぜい意地を張れ。いつも俺を見守ってくれていた彼女がいなくても、自分の足だけで立てるんだってことを証明してみせろ。

 立派で、強くて、誰からも尊敬される父さんがいた。綺麗で、優しくて、誰からも好かれる母さんがいる。

 子供の頃はずっと不思議だった。どうして俺には父親がいないのか。何気なく母さんに尋ねてみても、とても寂しそうな顔で「ごめんね」と抱きしめられるだけだった。その抱擁の意味も分からなかった俺は、深夜のリビングでひとり父さんの名前を呼びながら泣いている母さんを見かけて以来、俺がしっかりしなきゃって思うようになった。

 ほんとうに小さい頃は、実を言うと父さんのことを恨んでた。どうして母さんを一人にしたんだって。でも時が経つにつれ考え方も変わり、やがて恨みは尊敬へと変わった。さらにナベリウスやダンタリオン、そしてフォルネウスまでもが父さんのことを褒め称えて、俺は嬉しく、誇らしかった。

 いまならなんとなく分かる。

 ――あなたのなかに流れる血はだれにも負けない。

 父さんは、俺と母さんを残して死んだんじゃない。

 ――きっと夕貴はなんでもできるわ。

 俺たち家族を守るために命を賭けたんだ。

 ――友達を助けることも、母親を護ることも、好きな女の子と添い遂げることも。

 そのための力は、息子である俺にもきっと宿っている。

 ――そして、大切な人を守って■■こともね。

 いつかの夜、優しい庭でまどろむ俺にそう教えてくれた銀髪の悪魔もいたから。

「おもしれぇじゃねぇか! かかってこいや、《バアル》のガキ!」
「だから……」

 心の奥底に、鍵をかけて厳重に抑えていたものを解き放つ。父さんから受け継いだ、母さんとみんなを護るための力。励起した《悪魔》の波動が体内を駆け巡り、熱くたぎっていた身体をさらに燃え上がらせた。

「俺はガキじゃねえっつってんだろうがぁっ!」

 ソロモン72柱が一柱にして、序列第三十位に数えられる大悪魔フォルネウス。圧倒的な実力を持つ男に向けて、俺はがむしゃらに走り出した。


****


 ナベリウスが目覚めたとき、最初に思ったことは己の不甲斐なさだった。

 かたわらには誰もいない。あれだけ強く抱きしめていたはずなのに、ほんの一瞬、意識がブラックアウトした隙に愛しい温もりは消えてしまった。絶対に離さないと、この子だけはわたしが護ってみせると誓ったはずなのに。

 先の展望台で、彼女とフォルネウスの明暗を分けたのは戦闘能力の差ではない。絶えず闘争のなかに身を置き続けていたフォルネウスとは違い、ナベリウスはここ十数年以上もの間、平和な日本でぬるま湯に浸かっていた。ナイフを研ぎ続けた者と、錆付かせたまま放置した者。実力ではなく、実戦における勘の冴えに開きがあったのだ。

 とにかく夕貴を探さなければ、とナベリウスは気だるげに身体を起こした。首筋に張り付いた銀髪の房を払い、熱のこもった吐息を漏らす。汗の浮かんだ美貌にはいささかの陰りも見えないが、銀色の双眸はいつもよりも精彩を欠いていた。

「――っ」

 立ち上がろうとして、そのまま尻餅をついた。左足がやけに熱い。見れば、七分丈のパンツが大きく裂けて、白い太ももから大量の血がどくどくと流れていた。おそらく、吹き飛ばされた際、尖った木の枝か何かで切り裂かれてしまったのだろう。《悪魔》である彼女なら一日もしないうちに治癒する程度の傷だが、かなり出血が多い。さらに言うなら、機動力の要たる下肢にダメージを負ったことは、夕貴と離れ離れになったこの状況下において最悪と言ってもいい。

 もしかして普段から夕貴にイタズラしてる罰が当たったのかな、と冗談交じりに苦笑し、彼女は立ち上がった。傷口にDマイクロ波と呼ばれる悪魔特有の波動を集中させることにより即席の応急処置も可能だが、いまは自分の身体に回すだけの余力がない。兎にも角にも夕貴を探して、見つけなければ。

 ナベリウスの周囲では、色とりどりの花が穏やかな風にそよいでいた。赤レンガ作りの花壇と、多種多様な季節の花が目立つこの場所は、『フラワーガーデン』と名付けられた荘圏風致公園の目玉スポットだ。ほのかにただよう甘い香りが心地いい。

 一瞬、和みかけた精神を再燃させる。いまは暢気に花を見ている場合じゃない。

 目を閉じ、感覚を細く細く糸のように伸ばしていく。世界中に散らばっているならともかく、この狭い日本の土地にいる同胞の波動を感知するのはそう難しいことじゃない。フォルネウスが大きな力を使っているせいで夕貴の気配は見つけにくいが、その気になったナベリウスが見つけられない道理はない。愛の力は無限大なのだ。

 そんな、全神経を”探知”に費やしている彼女が、フォルネウスとは異なる新たな同胞の接近を感じ取るのは時間の問題だった。いや、すこし遅かった。懐かしい波動を感じて視線を上げたときにはもう、相手は攻撃態勢に入っていた。

 ナベリウスが己が失態を恥じると同時、遥か上空から青の極光が降り注いできた。蒼穹の色をした光芒は、さながら一手の弓となってナベリウスの足元に突き刺さる。

「くっ……!」

 骨の髄まで揺るがす轟音と、まばゆい空色の閃光。ナベリウスは両手を顔のまえで交差して頭部を護りながら、大きく後方に跳躍して難を逃れた。巻き上がった土埃が晴れたあと、そこにはぽっかりと大穴が空いていた。威力の桁が違う、常識外れの破壊力だった。

「こうして直に会うのはいつ以来だろうね。鈍ってないみたいで安心したよ」

 凛とした少女の声が頭上から降ってくる。突然の事態に目を見張るナベリウスの正面に、華奢なシルエットが着地した。肩口よりも少しだけ長い、亜麻色の髪。気の強そうなツリ目に、スッと通った鼻梁。ぴっちりとしたタンクトップにデニムというラフな服装が、野生動物を思わせるしなやかな肢体を際立たせている。年の頃は、およそ十代後半ぐらいで、ナベリウスよりは幾分か下に見えた。

「……《ベレト》。まさか、あなたまで日本に来てるなんて」

 ソロモン72柱が一柱にして、序列第十三位の大悪魔ベレト。それがナベリウスの前に立ちはだかった見目麗しい少女の真名だった。

 ソロモン王が定めた序列は絶対にして不動である。第十三位に座するベレトは、こと破壊力という点において他の追随を許さない。そのすらりとした体躯に秘められた力は、ナベリウスのような汎用性はないものの、いざ戦闘になると絶大な真価を発揮する。

「あたしが来日したのはグシオンの指示さ。いちおう、フォルネウスのお守りも兼ねてるけどね」

 ベレトが肩をすくめて言った。あれのお守りをしてくれるのは大歓迎だが、せめて有言は実行してほしいと思った。

「ちょっとちょっと、ぜんぜんお守りできてないわよ。あいつを抑えるつもりがあるなら、初めから鋼鉄製のワイヤーでがんじがらめにして地下深くにでも埋めてなさいよ。今回の騒ぎ、もう冗談じゃ済まされないって分かってるの?」
「それには抗弁する余地はないね。あたしがちょっと目を離した隙に、あのバカは勝手に消えてたんだ。慌てて後を追ってきてみればこの有様さ。まあ、こうして懐かしい顔を見れたし、気分的にはそう悪くないけどね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。そんなにわたしに会いたかった?」
「否定はしないさ。あたしは昔からあんたのことが気に入ってる。だから、今夜は大人しく引くんだね」

 その提案に、ナベリウスはぴくっと柳眉を逆立てた。

「……ずいぶんと身勝手ね。元はといえば、先に仕掛けてきたのはフォルネウスよ。やるだけやってはいさよなら、なんて都合がいいとは思わない? 軽薄な男だって、女を抱いたあとはもう少し責任を持つわよ」
「下手な挑発は止めな。冷静に考えるんだね。いまこの場であたしとフォルネウスを敵に回して、あんたに勝算はあるのかい?」

 正直に言えば、ない。

 フォルネウスだけでも厄介なのに、《悪魔》のなかでも最強の火力を誇るベレトを相手にして、この夜を乗り切るだけの自信はさすがになかった。

 こうしている間にも、離れた場所では夕貴とフォルネウスが戦っているのが分かる。大気を通して伝わってくるDマイクロウェーブの多寡は、明らかに異常だった。これほど膨大な量を放出させる必要のある行為は、ナベリウスの思いつくかぎりでは”戦闘”しかない。四月の頃と比べると夕貴は心身ともに強くなったが、一柱の《悪魔》と真っ向から戦うのはいくらなんでも早すぎる。どう考えても無謀だった。

 十秒ほど、じっと黙り込んで思考に身を任せたあと、ナベリウスは結論を静かに伝えた。

「……分かったわ。今夜は見逃してあげる。でも気をつけるのね。次にわたしの目の前に現れたときは、問答無用で凍らせてあげるから」

 負け惜しみではない。毅然と胸を張って告げる姿は、触れがたい神々しさに満ちている。彼女はどんなときでも気高く、美しいのだろう。ただし、その美貌とたわわに実った乳房に惑わされる少年は堪ったものではないだろうが。

「まあ戦うまでもなく、勝敗なんて分かりきってるしね。ベレトちゃんよりもわたしのほうがおっぱい大きいし」

 戦いが終わることから来る安堵か、これまでとは打って変わって茶化すような口調だった。対するベレトはむっとした顔で応える。

「……調子に乗らないことだね、ナベリウス。胸は大きさよりもかたちと柔らかさだ。それに肌の滑らかさならあたしも自信がある」
「負け惜しみにしか聞こえないわね」

 残念ながら、月明かりに照らされる二つの影は、長い銀髪を背中に流した輪郭のほうがより女性らしい体つきをしていた。ベレトも決して貧相というわけではないが、さすがにナベリウスと比べると見劣りする。

「……オッケー。いいよ。この話は終わりにしようじゃないか」

 よく分からない勝負は、こうしてよく分からないままに決着を迎えた。不機嫌そうな顔でそっぽを向く亜麻色の少女を見て、ナベリウスは頬を緩めた。実のところ、彼女にとっても、ベレトは同胞のなかでもかなり好きな部類に入る。できるなら争いたくないのは同じなのだ。

「じゃあ交渉成立ってことで。今夜、あたしらはあんたに手を出さない。それでいいね」

 即興の和平の申し出をしっかりと聞き届けてから、ナベリウスは頷いた。

「受託したわ。そうと決まったら、とっととフォルネウスを止めてきなさいよ」
「いや、それはできない相談だね」

 小さく、けれど確かに、首を横に振る。その所作が意味するところを理解するのには数瞬を要した。ナベリウスは嫌な予感を飲み下しながら、かつての同胞を質した。

「……どういうつもり? まさかついさっき自分が口にした言葉も忘れたの?」
「忘れてないさ。”あんたには手を出さない”。ただ、あの坊やにはちょっと付き合ってもらうけどね」

 それは残酷な宣言だった。約束されたのはナベリウスの明日だけで、彼女が護ると誓った少年はいまも死の危機に晒されたままなのだ。しかも夕貴を助けるためには、自分と同等以上の力を持つニ柱の《悪魔》を退けなければならない。いや、そもそも脚を負傷し、少なからず体力を消耗している状態で、ベレトとまともに戦えるかも不明だった。

「……ひとつ聞かせて。グシオンは、夕貴をどうするつもりなの?」
「さあね。あいつの考えてることは昔からよく分からない。フォルネウスの行動はまったくの予想外だったけど、ここまでお膳立てが整ってるなら話はべつさ。あの可愛い顔をした坊やには……」

 そこから先は言わせまいと、ベレトの顔のすぐ横を鋭利な氷の刃が通過していった。少しでも位置がずれていれば、いまごろ血の噴水が完成していただろう。亜麻色の髪が乱雑になびくのを気にすることもなく、ベレトはぴんと吊り上ったツリ目を細くした。

「……本気かい、ナベリウス?」
「そこを退きなさい。邪魔をするなら、ここで殺すわ」
「正直、驚いたよ。あんたが土埃に汚れてる姿を見るだけでも感慨深いのに、まさかそんなに怖い顔をするなんて。せっかくの美人が台無しだよ」
「……二度は言わないわよ」
「あたしもさ。世の男どもを散々に狂わせてきた美貌も、そうまで歪んじゃ形無しだね」

 冷たくも美しいナベリウスの波動に対し、ベレトのそれは晴れ渡った蒼穹のように澄んでいながら、引き絞られた弓のごとき力強さがあった。

 銀色の大悪魔は己が主人のもとに駆けつけるため、亜麻色の大悪魔は己が目的を達成するため。それぞれ譲れぬものを抱えて、かつての同胞は互いに牙を向いた。



 月明かりも満足に届かない木々の群れのなかに、暗闇を切り裂く純白の佇まいがあった。一切の外連味がない白の軍服は、聖なるものを象徴しているがゆえに穢れやすく、いまは土と埃に汚れていた。人としての性能を限界まで高めた鋼の肉体は、総重量にして十数キロにも及ぶ装備をいとも容易くまとう。高潔な矜持を胸に、彼らは闇夜を照らす光でありつづける。

 結論から言えば、法王庁特務分室に目立った被害はなかった。フォルネウスの凶手にかかった者はおらず、隊員たちはおしなべて行動に支障はない。此度の来日に際して、対悪魔の切り札と目される《|精霊の書(テウルギア)》は、こぼれ落ちる砂に等しかった彼らの命を寸分の狂いもなく掬い上げた。

 しかし、絶対の死地から生き延びた彼らの間に流れているものは、命を繋げたことによる安堵ではなく、立ち込める暗雲にも似た不安だった。

 アルベルト・マールス・ライゼンシュタインは大きな決断を迫られていた。いまこの場にいるのは彼を含めて十三人。つまり、一人足りない。リゼット・ファーレンハイトの姿がどこにもない。

 展望台から逃れた彼らは、そのままの足で退却する腹積もりだった。それは敗走にあらず、正しくは戦略的撤退である。フォルネウスの乱入という想定外の出来事が起こった以上、早々に退いて部隊の存続を第一に考えるのが賢い選択だった。戦力のなかでも人員ほど貴重なものはない。むざむざ犬死にさせるような真似を強いれば、間違いなく上の連中は幼い室長の責任問題を追及するだろう。ゆえに少しでも勝算に陰りがあるならば、時間的な先の展開を視て、貴重な戦力を次の戦いに持ち越すのが最善だった。

 視野を広げて全体の概況を掌握したうえで、おのれの位置づけを理解して的確に行動する。時間的な先の展開を予測し、そこから逆算しておのれがいま何をすべきか考える。これは戦況を見極める際の基本的な方法の一つであり、どれほど熟練した部隊であっても――否、その道を知れば知るほど頼みにする、生き残るための術だった。

 現状における様々な要素を咀嚼し、おのれの目で見たものと部下からの報告によって得た情報をもとに概況を掌握し、非凡な戦術眼によって脳裏に浮かぶいくつものアイディアを反芻した結果、アルベルトは迷うことなく戦略的撤退を推奨した。室長たるリズもそれを承認し、間もなく彼らは死地と化した荘圏風致公園を後にするはずだった。

 いまにして思えば、アルベルトはあのとき気付くべきだったのだ。撤退の準備を進める最中、リズが明らかに挙動不審だったことを。弱々しく俯いていたかと思ったら、次の瞬間には何かを決意したような強い眼差しで何度も頷いていた。さらに小声で「アルベルト、やっぱり怒っちゃうかな……」とか「でも、わたしは室長さんだから、いざとなれば減給を盾に説得すれば……」とか「そうと決まったら、あとはタイミングだよね……」とか、謎の怪しい言動も増えていた。

 その直後である。夜空から蒼穹の色をした光芒が降り注ぎ、轟音とともに大地を激しく揺らした。条件反射に倣って、彼らはその場に伏せた。そして耳に残響する音の余韻が消え去った頃、全員が立ち上がってみれば、リズの姿は見事に消えていたのだった。

 まだ成人していない少女である。いくら肝が据わっていようと、やはり生と死が寸刻みで交差する現場特有の緊張感は荷が勝っていたのではないか。あの小さな身体では重責を背負うにも限界があるだろう。そう思うのが、普通だろう。

 しかしアルベルトは他の誰よりもリズのことをよく知っているつもりだった。過去の経歴が病的なまでに抹消されつくしている理由も、異例の人事で特務分室の長となった事情も、法王庁が厳重に秘匿していたはずの《|精霊の書(テウルギア)》を個人が所有することを許された背景も。そして彼女が、アルベルトたちに黙って姿を消したその訳も。

 恐らく、いや間違いなく、リズは逃げたのではなく一人で戦場に舞い戻ったのだ。なにも言わず、どさくさに紛れてこっそりと行動を起こしたのは彼女なりの免罪符だろう。それはいたずらをする子供と同じ心理だが、じつにリズらしいとも言える。

 なぜ彼女がわざわざ死地に逆戻りしたのかは分からない。だが真意はどうであれ、組織の長がこの公園のどこかにいる以上、残された彼らは戦略的撤退と決め込むわけにもいかなくなった。結果として、アルベルトの部隊は本来なら回避できたはずの危険を背負い込むはめになり、それは転じてリズの責任問題として後日、処理されることになる。あの聡明な少女なら、そうした仕組みもじゅうぶん理解しているはずだ。つまり、そこまでしても成し遂げなければならないことが、リゼット・ファーレンハイトにはあるのだろう。

 繰り返すが、アルベルトは大きな決断を迫られていた。この夜に起こった諸々を包み隠さず上に報告するか、それとも突発的な少女の過失を見逃すか。アルベルト個人の私情としては、リズを庇ってやりたいと思う。まだまだ幼く、か弱い少女だ。誰かが護ってやらねばならないだろう。それが自分の役目だと、彼は僭越ながら自覚している。例えるなら娘を見守る父親の心境に近い。

 アルベルトだけなら、まだよかった。だがこの場にいるのは彼を含めて十三人。アルベルトに温情があるように、部下たちにも不平不満があって然るべきだ。重要な任務の最中に公私混同などもってのほかである。よって、これからリズを追うまえに、上司の仕出かした軽率な行いについての是非を明らかにしておかなければならなかった。

「……さて。おまえたちに言っておかねばならないことがある」

 長い黙考の末、響いた声にはかすかな苦悩が滲んでいた。技能的には優秀でも、人間である以上、士気の低下は避けられない。隊員たちは一様に黙り込んでいた。夜の薄暗い闇が邪魔をしてその表情はよく見えない。

 一人の男として、法王庁特務分室の戦隊長として。二つの立場で板ばさみになるのを感じながら、アルベルトは言った。

「ファーレンハイト室長の行動には明らかに問題がある。本来ならこうした人事も室長の管轄だが、今回ばかりは彼女も当てにならん。私から直々にシュナイダー卿に報告するつもりだ」

 全員に緊張が走った。何名かは俯き、口元を手で抑えて震えている。もしかすると幼い室長のあまりにも愚かな軽挙に吐き気さえ覚えているのかもしれない。

「証人は私と、おまえたちだ。無事に帰投した後、作成した報告書を総括部に……」

 そのとき、誰かが白々しい声で言った。

「あれ、おかしいな。そういえば室長はどこ行ったんだ?」
「さあなぁ。俺はまったく見てないぜ」
「気が合うな。じつは俺もだ」
「右に同じだ」
「なんだぁ? どいつもこいつも見てねえってのかよ。また室長が拗ねても知らねえぞ。まあ俺も見てねえんだがな」

 アルベルトは一瞬、みんなが何を言っているのか理解できなかった。装備を点検する者、ひたいに手を水平に当ててこれみよがしに人を探すジャスチャーを取る者、わざとらしく肩をすくめて呆れる者。各人の行動はそれぞれだったが、共通点として全員が笑っていた。

「おまえたち。自分がなにを言っているのか、分かっているのか?」

 部下たちの思惑を読み取ったアルベルトが静かな声で質した。口元を手で抑えて笑いを押し殺していた隊員の一人が答える。

「ええ、もちろん分かってますよ。要するに、俺たちはレディのエスコートも満足にできない無作法者ってことでしょう。なんせここにいるのは”女性が何をしていたのかも一切見ていない”男どもばかりなんですから」

「バカ言え、俺はちゃんと見てるぞ、室長の脚はたまらん」「いやいや、それを言うならあのプリっとした尻だろう」「たわけ、女はとにかくバストだ」などと冗談めいた声がそこかしこから上がる。切迫した状況などお構いなしに、どっと笑い声が起きるほどだ。

 難しく考える必要はなかった。決断など迫られてもいなかった。アルベルトを苛んでいた心痛の種も、部下たちにしてみれば”室長のわがまま”ぐらいの些細な問題だったのだ。あの浮世離れした少女のもとで任務に就くことが決まった日から、彼らはこの程度のハプニングで戸惑うことはなくなったのである。

 わたしにはお父さんとお母さんがいない、と一人の少女は言った。でもわたしは大丈夫だと、いまの生活も気に入っていると続けて笑った。その笑顔もむべなるかな、彼女に両親はいないが、家族はちゃんといるのだ。

「なあに。戦隊長が頭を悩める必要はありません。俺たちはただ、お転婆なお姫様を連れ戻すだけのことです。屁が出るほど簡単でしょうよ」

 世迷言としか思えない部下の台詞に、アルベルトは生涯でも五本指には入るであろう大きなため息をついた。これもカリスマというのだろうか。ここまで下の者から慕われる上司を、彼は他に知らない。ともすれば上司ではなく、放っておけない妹のように見られているのかもしれないが。

 もういっそ無線で連絡を取り、応援を呼ぶのはどうかとアルベルトは考えた。いや、これは現実的ではない。いまから新たな戦力を要請しても間に合わないし、来日早々あまり多くの人員を導入しては日本政府との間に厄介ごとが噴出するだろう。ここにいる自分と、十二人の馬鹿どもだけで何とかするしかないのだ。

「……話にならんな。どうやら私は人選を誤ったらしい」
「恐縮であります、戦隊長殿」

 びしっ、と全員が敬礼をする。それは軍属の者として申し分ない所作だったが、わずかに緩んだ唇がすべてを台無しにしていた。

 これより彼らはリズを追う。《悪魔》が死闘を繰り広げる舞台にふたたび上るのだから、ただの人間でしかない彼らには大きな危険が付きまとう。そのことはアルベルトを含め、部隊の全員がしっかりと理解していた。理解していてなお、彼らは意気揚々と笑っていた。自信があった。矜持があった。男子たる者、女のわがままの一つや二つぐらい聞いて当たり前だと、誰もが弁えていた。相手が見目麗しい少女ならなおさらだ。

 けっきょく、アルベルトの苦渋の決断は無駄に終わった。証人がいない以上、リズの責任問題を追及することはできない。

 そう、証人など一人もいないのだ。

 アルベルトは任務よりも私情を優先した自分と、部隊の存続よりも年下の上司を取った部下たちを秤にかけて、どっちもどっちだな、と内心で呆れた。



 不気味なほど静かな散策路を、リゼット・アウローラ・ファーレンハイトは走り続けていた。ときどき背後を振り返って、誰も追ってきていないことを確認しながら。

 悪いことをしたな、と他人事のように思う。きっとみんな怒っているだろう。何も言わずに姿を消した彼女は、責められても文句は言えない。でも仕方なかったのだ。リズのわがままを、堅実なアルベルトや部隊のみんなが素直に聞いてくれるとは思えない。我を通すためには、時宜を見計らってこっそりと行かなければならなかった。

 なぜおまえは危険を冒してまで再び戦場を目指しているのか、と問われれば、ただ後悔したくないからとリズは答えるだろう。

 戦略的撤退という名目でこの公園を去ろうとする自分が、かつて大切なものを目の前に逃げ出した少女と重なって見えた。そのことを自覚した瞬間、リズは居ても立ってもいられなくなった。気付いたときにはもう覚悟を決め、絶好のタイミングに合わせて駆け出していた。

 彼女には約束があった。どうしても果たしたい理想があった。そのために全てを裏切り、大切な想いに蓋をして、涙を流しながら別れを告げた。もうあんな思いだけは二度としたくない。

 とある少年の顔が脳裏をよぎる。彼と過ごした時間は楽しかった。同い年の男の子とあれだけ長く話したのは初めての経験である。そこに嘘があったなんてリズは思っていない。ほんとうに伝えたかったことも、まだ口にできていない。

 あの人間と《悪魔》の血を引く少年は、遥かな昔、いと小さき少女と偉大なる大悪魔が信じた理想のカタチだ。こんなところで死なせるわけにはいかない。

 駆けながら、右手の人差し指にはめた指輪のあたりにそっと左手を重ねた。また力を貸してね、と心のなかでささやく。冷たい銀の表面から、懐かしい波動が伝わってくる気がした。それに懐旧の情を抱き、リズは寂しげに笑った。

 ちらっと背後を振り返り、誰も追ってきていないことを確認しながら、彼女は走り続ける。きれいに整えた髪は乱れ、日本の土地に馴染むようにと揃えた洋服は早々にしわが寄っている。足を踏み出すたびにミニスカートの裾がふわりと舞い上がり、引き締まった太ももに汗が伝った。身だしなみよりも目的を優先する姿は、年頃の女の子としてはちょっとどうかと思うが、リズの果たすべき使命に比べればそれも些細な恥だった。いまは前を向いて、迷わず走ればいい。

 ただ、後悔しないために。


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