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No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
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[29805] 3-8 血戦
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/12/21 17:33

 生温い夜気のなかを色とりどりの花びらがたゆたっている。その見事な色彩のなかに、銀色の髪と亜麻色の髪が優雅になびいていた。月明かりが映す一対の影は、さながら演舞を競っているようにも見える。

 息をつく間もなく繰り出される拳を寸前でかわしながら、ナベリウスは間髪入れずに蹴りを放つ。人の認識を超えた速度で迫るつま先を、しかしベレトは身を捻ってあっさりと避けきった。空を切った優美な脚線から、赤いしずくが僅かに飛び散る。

 荘圏風致公園の北に位置する『フラワーガーデン』にて始まった戦いは、完全なる格闘戦の様相を呈していた。両者ともに異能を使わず、人智を超えた身体能力と磨き上げた戦技を用いて、かつての同胞に牙を向く。

 夏の夜は暑い。ねっとりとまとわりつく大気の膜が、全身の熱を際限なく上げていく。じわっと吹き出す汗が、滑らかな肌のうえを伝い、拳や脚を打ち付けあった衝撃で地に落ちていった。

 ベレトとの間合いを離しながら、まずいな、とナベリウスは舌打ちした。彼女にとって、この格闘戦はまったくの不本意だ。なぜなら、左脚の太ももに負った傷のせいで生来の動きができないからである。かといって迂闊に異能を使えば、その瞬間に生まれる僅かな隙を衝かれるのは必定だった。はやく夕貴のもとに駆けつけなければ、という焦りがまた、彼女の体捌きを曇らせる。恐らくベレトは、それらすべてを理解したうえであえて格闘戦に持ち込んだのだ。

「らしくないね、ナベリウス」

 耳元で声がした。考えるよりも先に肉体が反応し、その場に深くしゃがみこむ。頭上を鋭い風とともに少女の脚が通過していった。安堵したのも束の間、跳ね上がったもう一本の脚が、ナベリウスの腹部に突き刺さった。鈍い激痛が、女の肉体を駆け巡る。やがて十数メートルも吹き飛ばされたナベリウスは、その場に蹲って血反吐を吐き出した。

「あたしの知るかぎり、ここまで余裕のないあんたを見るのは初めてだよ。でもまあ、悪くはないね。そうして地面に手をつく姿も扇情的で似合ってるじゃないか」

 肩や首筋に張り付いた髪をさっと流すベレトの視線の先には、四つんばいになって荒い吐息を撒き散らすナベリウスの姿がある。ぱっくりと裂けた左脚からは、いまなお鮮烈な赤色が流れ出していた。《悪魔》の波動を傷口に集中させれば外面は取り繕えるが、それでは意味がないし、なによりもったいない。

「はぁ、はぁ、この……!」

 ナベリウスは口元を拭いながら立ち上がった。左脚に加え、蹴りを入れられた腹も肋骨の一本か二本は持っていかれたかもしれない。痛みには慣れているが、頑丈な精神とは裏腹に肉体のコンディションは悪くなる一方だ。

 ベレトのことは嫌いじゃない。むしろ好きなほうだ。できるなら争いたくないし、機会があればお茶でも飲みながら話をしたいとさえ思う。けれど、それは叶わぬ願いだった。ベレトが、ナベリウスと夕貴の距離を隔てているかぎり。

 苦痛に喘いでいる時間も惜しい。すっと呼吸を整えたナベリウスは、そびえる同胞に向けて駆け出した。汗に濡れた身体がぶれ、足元の花びらが空中に舞い上がる。

「……ま、いいけどね」

 瞬時に攻防は激化した。肉体が思考を凌駕する絶世の速さだった。世界に真っ向から矛盾を叩きつけるような、人の理を外れた者だけが覗ける神速の極地。繰り出す拳は風を置き去りにし、跳ね上がる脚は雷鳴をも凌駕する。

 放たれた掌底を、ナベリウスは体軸をずらして躱すと同時に大きく踏み込んだ。前に出た勢いもそのままに腰の入った右ストレートを打ち抜く。それは神業と称するに相応しい絶妙のタイミングだったが、左脚に負った傷が痛みを訴え、ナベリウスの動きを僅かに鈍らせた。握り締めた拳は亜麻色の髪を叩くだけに終わる。苦し紛れに左脚で回し蹴りを見舞ってみたが、当然のようにそれも当たらない。無茶な攻撃の反動で、ナベリウスの体勢が大きく崩れた。その隙を相手が見逃すはずもない。

 ベレトはぴんと吊り上った目に勝機を見たらしく、防御を捨てて大胆に間合いを詰めてくる。だが、その行動は、ナベリウスの読みが当たったことを示していた。

「――っ!?」

 空中に飛び散った赤いしずくがベレトの端正な顔に降りかかろうとする。ここまであえて放置していた左脚の傷から撒き散らされた血液が、即席の目潰しとなったのだ。神速の戦いの最中、ほんの一瞬でも視界を遮られることは死に直結する。汗が眼に入るだけでも命取りになる可能性があるのだ。この血液が少しでも網膜に付着すれば取り返しのつかないことになるのは火を見るよりも明らかだった。しかし敵もさる者、この程度の罠は見てから回避できる。否、回避してもらわねば困る。目潰しは、単なる布石だ。

 反射的に顔を傾けて鮮血を回避したベレトの腹に、ナベリウスはついさっきのお返しと言わんばかりに全力で前蹴りを打ち込んだ。引き締まった筋肉の感触は、腹部ではなく腕の手応えである。あの咄嗟に防御を間に合わせるとは驚きだが、いまの蹴りでさえ本命ではない。

 開けた間合いを最大限に利用し、ベレトがふたたび距離を詰めてくるまでの間に《絶対零度(アブソリュートゼロ)》を発動させる。地面に右のてのひらを置き、一瞬にしてフラワーガーデンを掌握。いままでになく高速で顕現する凍結現象。ナベリウスの長い銀髪が、おのれの身体から溢れる波動によって大きく巻き上がる。

 さすがのベレトも苦々しい顔をあらわにした。絶大な火力を誇る反面、一切の防御能力を持たない彼女にとって、空間を制圧するナベリウスの力は掛け値なしに厄介だった。

「本気みたいだね、ナベリウス!」

 大きく後ろに跳びながら、ベレトはまっすぐに手を伸ばし、人差し指の先端をナベリウスに突きつけた。甲高い耳鳴りとともに青の光が生まれ、薄暗い夜をまばゆく照らす。その銘を《蒼穹の弓(フェイルノート)》。あらゆるものを貫通する究極の弓が、ぎりぎりと引き絞られる。

 充填された力は、直後に解き放たれた。巨大な氷の剣山が、大地を突き破って次々と出現し、怒涛のごとくベレトのほうに向かって進んでいく。その圧倒的なまでの物量と破壊力は、まさに大悪魔の名に恥じない恐るべき威容だった。

 だが、決して融けない絶対零度は、射られた蒼穹の弓によって破壊された。

 氷が砕ける綺麗な音と、大地を乱暴に揺らす振動。青い光が、透き通った氷に反射し、夜を美しく染め上げる。その壮麗さ足るや、オーロラの比ではない。人どころか自然の手でも再現できない、極限の美しさがここにある。

 粉々に砕け散った氷の破片が雨のように降り注ぐなか、銀色と亜麻色のシルエットは迷うことなく次弾の装填に急いだ。

 ナベリウスには勝算があった。この狭い日本の土地では《蒼穹の弓(フェイルノート)》も満足に使えない。なぜなら、あれは威力がありすぎる。ナベリウス以上に使用が制限される異能なのだ。

 蒼穹の色をした極光は、収束すればするほど破壊力が加速度的に上昇するという性質がある。人差し指一本で、ナベリウスの氷を打ち砕くのだ。両手の指をすべて使い、十の光を束ねて弓を射ればどうなるか。もはや推して知ることすら許されない。

 ナベリウスは笑った。ベレトも笑った。彼女たちの微笑みに魅了されてはいけない。その美貌に魅入られた瞬間、その者は凍てつき、空の弓に貫かれて死ぬだろうから。

 両者が溜めに溜めた力を叩きつけようとした正にそのとき、もうこの世には存在しない偉大なる大悪魔の波動が荘圏風致公園を包み込んだ。ナベリウスとベレトはお互いから視線を外し、示し合わせたように同じ方向に目を向けた。

「これは……」

 ベレトはつり気味の目を細めた。思わず戦意を喪失してしまうほどに、流れてくる波動が久しいものだったからだろう。

「……懐かしいね。まさかこんなかたちで再会できるとは思わなかったよ。さすがはあんたの血を引く坊やだ。フォルネウスを相手によくやってるみたいじゃないか」

 腰に手を当てて、やれやれ、とため息をつく。やはり悪魔の子は悪魔か。顔はさほど似ていなかったが、こうして伝わってくる波動は父親そっくりだった。

 ベレトが目を離した一瞬の隙に、ナベリウスはこの場から姿を消していた。イレギュラーに見舞われたとはいえ、ナベリウスを行かせてしまった時点で、この戦いはベレトの負けだった。

 生温い風が亜麻色の髪を揺らす。健康的な白い肌に浮かんだ汗もそのままに、ベレトはしばらく余韻に浸っていた。風が止んだ頃、フラワーガーデンを覆っていた氷が、ぱりん、と音を立てて消滅した。



 ****

 

「そうだっ! そうだよやりゃできんじゃねぇかっ!」

 耳障りな声が俺を出迎えた。大きく揺れる肩が、凶悪に歪んだ口元が、楽しくて楽しくて仕方がないと笑っている。フォルネウスの身体からは剣呑な鬼気が立ち上っているが、それは《悪魔》の力を解放した俺の足を止めるほどのものではなかった。

 常人には見えない、本来なら自然界には存在しないはずの波動が俺たちの中央の空間でぶつかり合う。薄っすらと外界に流出する程度の俺に対して、フォルネウスのそれは荘圏風致公園を丸ごと包み込むほど膨大だった。でも、男が一度やると決めた以上、そんな些事はまったく関係なかった。

 両手を広げるフォルネウスに向かって足を動かす。大地を駆ける脚力は、すでに人類の限界を超えて魔性の域に達していた。父さんの力は、確かに俺に受け継がれている。このほとばしる活力がなによりの証拠だ。

「いいねぇ懐かしいねえ! この感じ、てめぇの親父を思い出すぜ!」

 駆け抜けた速度を殺さず、返答の代わりに右ストレートを打った。腕力に加速を乗せた手加減なしの一撃を、しかしフォルネウスは顔色一つ変えずに躱してみせた。驚愕する俺の視線と、愉悦に満ちた悪魔の視線が交錯する。

 瞬間、ぞくりと背筋が震えた。

 言葉にせずとも、瞳を介して弾けんばかりの殺意が伝わってくる。フォルネウスの目を見ることは、おのれの無残な未来を垣間見ることと同義だった。腕が上がる。殺される。死が近づいてくる。脳髄に流れ込むネガティブの濁流から逃げ出したくて、俺は真横に跳んで仕切りなおそうとした。それは臆病な俺がもたらした失着だった。

「オイオイつれねぇなぁ! 逃げんなよ!」

 紅い悪魔は難なく後を追ってくる。いったんプラスまで開いた彼我の距離は、またたく間にゼロに戻った。戦闘能力で圧倒的に上回るこの男から逃げ出すことは、無防備な背中を見せるに等しい愚行だ。その過ちを犯した代償として、豪腕が唸りを上げ、空気を断ち割る鋭音を発しながら、迫る。

「ぐっ!」

 重荷を積んだトラックが正面衝突してきたかのような馬鹿げた膂力だった。とっさに両腕を交差して衝撃に備えたが、あえなく俺は吹き飛ばされた。骨の軋む幻聴を聞きながら、空中で体勢を整えて着地し、靴底で芝生を削って慣性を殺す。

「このっ、野郎……!」

 今度は俺から駆け出し、不気味なほど高揚しているフォルネウスに向けて拳を振りかぶる。妙手や奇策を用いず、ただ真正面から行く俺を見て、それでいいと、それでこそ面白いと、悪魔が不敵に笑った。半瞬後には渾身を込めた技が入り乱れ、人智を超えた衝撃の連続に大気が悲鳴を上げた。フォルネウスに追い縋るために肉体のギアは際限なく上がっていく。自らの限界を超えた動きに肉体が軋みを上げるが、表面上は互角の勝負を演じることができている以上、ここで手を緩める謂れはなかった。

 しかし、瓦解はすぐに訪れた。いままで培った技術や経験、そして父さんから受け継いだ力をフルに使っても、《ソロモン72柱》のまえにはあまりにも儚い。徐々に呼吸は乱れ、筋肉は休ませろと訴えてくる。それが体捌きを鈍らせて、刹那にも満たない、けれど確かに存在する致命的な隙を生み出した。

 戦闘の合間にできた不自然な間隙を、天性の慧眼によって見抜いたフォルネウスは針の穴をつくような正確さで拳打を放った。俺は体勢を立て直さず、むしろ崩れるままに身を流して片足に重心を移行し、蹴りで拳を迎撃する。次の瞬間、途方もないパワーがぶつかり合い、空気が爆ぜて、夜が震えた。遅れて発生した衝撃を利用して距離を稼ぎ、心身を少しでも回復させようと努める。場に静けさが満ちて、夜のとばりが主役に戻った。

「……なるほどなぁ。キャンキャン喚き立てるだけの犬だと思っちゃいたが、ちっとは戦いの心得があるみたいじゃねぇか」

 首の骨を鳴らしながらフォルネウスが言う。俺は気息を整えながら、疲労を悟られぬよう平然とした顔を装って切り返す。
 
「バカにすんな。男なら喧嘩のやり方ぐらい知ってて当たり前だろ。それに」

 ふと、脳裏に浮かぶのは長い黒髪をポニーテールに結わえた少女の姿。あいつの気が向いたとき、広々とした庭で格闘の訓練をしていたことを思い出す。ああ、そうだよな美影。おまえの弟子として無様な戦いはできないもんな。

「俺にはおまえより百倍強い師匠がいるからな。こんなのウォーミングアップにもならねえよ」
「ほぉ、そりゃ結構。てめぇの次はそいつを殺してやるよ」
「次なんかあるわけないだろうが。明日の予定を立てる前に、まずは自分の心配をしやがれ」
「言うじゃねぇかよ。そこまで上等な口叩くからには楽しませてくれんだろうな――ガキぃっ!」

 フォルネウスは弾丸を思わせる不可視の速度で間を詰めてくると高速で手刀を薙いだ。もはや視認できるスピードではなく、触れただけで人体をバターのように切り裂くだろうことは明白だった。全神経を回避に専念させて辛うじて逃れられる絶世の刃だった。

 速い。いや、速すぎる。風圧だけで肌が裂けて、頬に血がつたう最中、俺は背筋が凍る思いにとらわれていた。もし仮に、これでまだ手を抜いているのだとしたら、いったいこの男の底はどこにあるのか。俺の絶望を具象化するように、フォルネウスの動きは秒刻みで加速していく。すでに目は意味をなくし、本能と反射だけが俺の命を繋いでいた。死線を紙一重で掻い潜りながら想起するのは、他でもない美影の言葉。

 ――見てから、考えてからでは駄目。勘や反射で動かないと間に合わない。

 そんなこと簡単にできるわけがない、と弱音を吐いた俺に、あいつは言ったっけ。

 ――できる。こうして何度も何度もひとつの動作を反復し、脊髄反射の行動パターンにすりこんでいく。

 自分でも本当にどうかと思うが、認めるしかない。俺がいま生き延びているのは、自分よりも小さな女の子にボコられ続けた成果が出ているからだと。しかし、生まれた頃から相応の鍛錬を積んでいる美影とは違い、一朝一夕で身に着けた付け焼刃だけで戦っている俺が、いつまでも敵の攻撃を捌き続けられるわけがなかった。いずれ遠からず限界がくるだろう。

 このままではジリ貧だと判断した俺は、多少のダメージ覚悟で前に出た。フォルネウスの蹴りがわき腹にかすり、服が裂けて血が飛び散った。痛みの報酬として、無防備なふところに入る千載一遇のチャンスを得る。神経を焼く痛覚に顔をしかめながらも、俺はがむしゃらに踏み込んで全力のパンチを叩き込もうとした。

 目が、合った。

 愉しそうに歪む瞳には余裕があった。罠にかかった獲物を見つめる狩猟者の目だった。生存本能がかき鳴らす警鐘に身を任せて、俺は拳を引っ込めると同時に地面を蹴って大きく距離を取った。遅れて噴き出した汗は、まだ命がある証だった。

「いい勘してやがる。あんな見え見えの誘いに乗るような莫迦なら、ここで一思いに殺してやろうかと思ったが」

 その声には、殺し損ねたことを悔やむ響きはなく、まだ獲物をなぶる愉しみが続くことの歓喜があった。

「……余裕だな。遊んでるつもりかよ」
「冷てぇな。遊ばせてくれよ。同族のツラを拝む機会すら滅多にないんだぜ。バアルの血を引く、それも人間と混じったガキとやり合ってはしゃがねぇほうがおかしいってもんだ」

 そう、俺に語りかける声もひどく高揚していた。絶えず吊り上がった口端は凶暴に、殺意に燃える瞳は獰猛に。

「オレがこのときをどれだけ待ったと思ってやがる。いまなら慎重すぎるグシオンも、口うるせぇアスタロトも、頭の固いベレトもいねぇ。それによぉ、ちっとばかし遊んでやったぐらいでくたばる出来損ないなら、さすがのグシオンもいらねぇって言うだろうよ」
「……グシオン」

 今日聞いたばかりなのに、どこか懐かしい響きのする名だった。リズたちの話によれば、現存する《悪魔》の三大勢力の一角を率いているという。とは言え、そのグシオンとやらがどれほど強力な能力を持っていたとしても、戦いを至上とするフォルネウスが誰かの後塵を拝するとはとても思えないが。

 逆に言えば、この男が曲がりなりにも忠誠を誓うほどのカリスマを、グシオンは備えているのだろう。

「やっぱり、おまえらが日本に来た目的は《悪魔の書(ゴエティア)》ってやつを手に入れることなのか?」

 訊ねると、フォルネウスは酷薄とした顔で笑った。

「……《悪魔の書(ゴエティア)》ねぇ。アレはいいもんだ。桁外れの事象を引き起こす点ではアガレスの力と似ちゃあいるが、その本質は破壊にだけ特化してるときた。まったく、バアルの野郎も面倒な代物を遺してくれたもんだぜ。なぁ?」
「父さんが、遺した……?」
「聞かせろや。おまえはアレがどこにあるか分かるか?」

 予想していなかった質問に言葉が詰まる。そういえば先の展望台で、リズもまったく同じ質問を俺に投げかけたことを思い出す。一度だけなら偶然で済ませることもできるが、立て続けに訊かれては何らかの必然を疑ってしまう。どちらにしろその存在を今日知ったばかりの俺に、くだんの書物の在り処など分かるはずもないが。

「はあん。そうかよ。まあハナから期待しちゃいなかったがな」

 沈黙をつらぬく俺の様子からおのずと答えを得たのだろう、フォルネウスは嘆息した。

「おい、勝手に納得すんな。いったい、おまえらは……」

 あの子は、リズは――

「俺に何を期待してるんだ? 父さんが遺したってどういう意味だ?」
「さあねぇ。どうしても聞きたけりゃ力づくで吐かせてみな。――そろそろいいだろうが」

 変化は唐突に訪れた。気配が変わり、夜の闇がいっそう深くなる。初めは錯覚かと思ったが、違う。ついさっきまで夜空に点在していた月や星々は見えなくなり、見渡すかぎりの世界は混じりけのない黒一色に染められていく。

「あんまり懐くなやガキ。いつまでもペラペラとお喋りなんざ退屈なんだよ」

 フォルネウスの輪郭がゆがみ、少しずつ曖昧になっていく。キィン、と甲高い耳鳴り。物理法則を冒涜する異能の力が顕現しようとしていた。

「ナベリウスの助けは期待すんな。ガキの子守に夢中な女を見逃すほどベレトは甘くねぇ。目障りな法王庁の連中も、ソロモンによく似たあの女も、ここには来ねぇ……いや、もうだれも入ってこれねぇよ」

 波動の流出が、爆発的に膨れ上がっていく。俺は直感した。フォルネウスにとっての遊びは、もう終わったのだ。いや、ここから始まるのか。

「そういやぁ……ずっと昔、バアルに言われたぜ。”戦いの目的ではなく行為そのものに意味を見出すおまえは、いつか戦いに裏切られる”ってな。抜かせよクソが。くたばったのはてめぇだろうが」

 忌々しげに吐き捨てるフォルネウスの顔は、どこか寂しげに彩られていた。

「オレは死なねぇ。どいつもこいつも、邪魔する奴ぁ一人残らず消してやる。まずは手始めにバアルの血を引くてめぇを殺して――」

 直後、影が狂奔した。

「オレたちを裏切ったソロモンに証明してやるよぉ! 野郎の血よりもオレのほうが強ぇってなぁっ!」

 昂ぶった咆哮に呼応して、暗黒の衝撃波が吹き荒れた。大地を駆け抜ける一陣の疾風は、あらゆる自然を蹂躙しながら広がっていく。巻き上がった土埃に視界は支配され、広場は混沌に包まれた。

 舌打ちとともに駆け出した俺は、フォルネウスから距離を取りつつ逃げの一手に甘んじる。こちらから仕掛ける余裕など微塵もなく、完全な防戦一方を強いられる。それでも諦めずに活路を見出さなければならない。無茶だとしても、無理だとしても、ここで俺が死ねば悲しむ人がいるのだから、弱音なんて吐けるはずがなかった。

「ガキが。甘ぇんだよ」

 しまった、と息を呑んだときにはもう遅かった。吹き荒れる影を隠れ蓑にした接近と、巻き上がった砂塵が晴れるほどの神速の踏み込みだった。反応は間に合わず、前蹴りが無防備な俺の腹に突き刺さる。気が遠くなるような激痛に晒され、口から血反吐を撒き散らしながら、俺は地面をバウンドして転がっていく。

「くそっ、たれ……!」

 目がかすむ。脚が震える。拳がうまく握れない。だが、寝てるわけにはいかない。口元の血も拭わず立ち上がるのと、フォルネウスがふたたび肉薄するのは同時だった。バカの一つ覚えか。フォルネウスは真っ向から向かってきて、右腕をまっすぐ突き出した。いくら速くても、フェイントも交えず同じ動きを何度も見せられてはさすがに対処もできるってもんだ。

「がはっ……!?」

 しかし、フォルネウスの腕は何事もなかったかのように俺を捉えた。軌道を予測し、腕をいなそうとしたはずなのに、どうして――

 喉の奥からこみ上げてくるものがあって、俺は蹲ったまま何度もえずいた。生臭い鉄の味を口腔内に残しながら、嫌味なほど赤い血がくちびるからこぼれ落ちる。たった二発食らっただけで、俺の身体はあれだけ溢れていた活力をなくしていた。もし俺がただの人間だったら、もう何度死んでるか分からない。

「そんなもんか? 違ぇだろ。おまえの親父はもっと強かったぜ」

 血の海に溺れてもがき苦しむ俺を、じっと見つめる双眸があった。見下ろす視線は冷たく、そこにはかすかに退屈の色が浮かんでいた。紅い髪が風にゆれ、均整の取れた四肢は静かに眠っていた。

「やっぱり人間の血がまずかったみてぇだな。どこぞの薄汚い野良犬と交わったせいで、産まれたのはチンケな雑種になっちまったってことか」
「雑種……だと」

 犬を彷彿とさせる四つんばいの体勢で地に伏したまま、俺は搾り出すように言った。

「そうさ。てめぇは雑種だ。最高の雄と、野良犬の牝から産まれた半端者だ。そうして這いつくばってんのが何よりの証拠だろうが」
「野良犬の牝、って言ったのか、おまえ……」
「気に入らねぇなら言い方を変えてやるよ。いい男を見つけたら股を開いて子種をねだる淫売ってな」
「……取り、消せ」
「あ?」
「取り消せっつってんだぁっ!」

 湧き上がる怒りに任せて駆け出した。肉体の限界を超えた動きに関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。痛みのあまり視界は赤く染まり、すでにガタガタだった骨や内臓は激痛というかたちで無言の抗議を訴える。知るか。いまは黙れ。ありとあらゆる無理を気力でねじ伏せて、血に濡れた拳を振り上げる。噛み締めた奥歯が砕けた。

「興ざめだなぁ、オイ」
 
 だが、現実は非情だった。俺の想いは、紅い悪魔のまえには無意味だった。両手をポケットに突っ込んで気だるげに佇むフォルネウスの身体を、俺は立体ホログラムを透過するようにして、ただ、通り過ぎた。触れることすら叶わなかった。

 肩越しに背後を見ると、そこには闇に揺らめく輪郭があった。まだだ。まだ諦めるわけにはいかない。おのれを鼓舞して振り向きざまに裏拳を放つと、俺の手はフォルネウスを空振った。当たったはずなのに手応えはいつまで経っても訪れない。そのまま惰性で何度も何度も仕掛けてみたが、恐怖とともに振るわれる俺の四肢には人のぬくもりも、悪魔の冷たさも、なにも伝わってくれなかった。

「――ぁ」

 堰を切ったように圧倒的な絶望感が襲ってくる。いままでの俺は手加減されて、遊ばれて、いいように戦ってもらっていただけなのだ。その気になったフォルネウスは実体を持たない闇そのものになる。物理攻撃の一切は通じず、不死身に等しい正真正銘の怪物に。

 出鱈目すぎる。こちらからは指一本触れることもできないのに、あちらからは好きなときに好きなだけ攻撃することができるなんて。俺はなにを思いあがっていたんだ。戦闘能力に差がありすぎるなんてもんじゃない。こんなの初めから勝負にすらなってないのに。

「継いでるのは血だけか。どうやらバアルの力は、あの野郎だけのもんらしいな。くだらねぇ。これじゃグシオンの計画にも不備が出そうだな」

 つまらなそうに言って、おもむろに脚を上げる。蹴りがくる、と頭では分かっていても、それを避けるだけの能力と、戦いを続ける意志が絶対的に不足していた。上段蹴りを側頭部に食らい、俺はあっけなく地面に転がった。悲鳴を上げるだけの力もなく、芝生のうえにうつ伏せに倒れこむ。

「……ちくしょう」

 あまりの悔しさに涙さえこぼれそうだった。伸ばした手はなにも掴めず、傷ついた身体では護りたいものも背負えない。舐められたままでは終われないと言っても、他人を見返すだけの力がない。両親を侮辱されても満足に言い返せない。

 ふざけんな、と自分に対する怒りが爆発する。上等な口を叩いたくせに、いざ戦いが始まるとこのざまだ。おまえは誰かの背に護られてるだけのガキじゃないか。いままでだってそうだった。櫻井彩のときはナベリウスが助けてくれた。菖蒲が誘拐されたときは参波さんと託哉が一緒だった。ダンタリオンのときも美影とともに戦った。

 おまえは仲間の力を借りてようやく生き延びてきた、ちっぽけな男だ。この十九年間、いったい何をしてきたんだ。努力しても、そこに結果が伴わなくては意味がないのに。

 つまりは簡単な結論。

 これまで俺が積み上げてきたものは、すべて無駄だったと――

「……んなわけ、ねえだろうがっ」

 絶対に認めてやるわけにはいかなかった。ここで下を向いたら全てが無駄になる。しっかりしやがれ萩原夕貴。ちょっと劣勢に立たされたぐらいでなに弱気になってやがる。

 ふらつきながらも身体を起こす。この暴力に満ちた非日常の最中、まぶたの裏に蘇るのは慌しくも幸せな日常。口ではなんだかんだと文句を言いながらも、俺はあの陽だまりが大好きだった。ナベリウスに大切なことを教えてもらい、美影に無理を言って訓練に付き合ってもらい、疲労した心身を菖蒲に癒してもらった。彼女たちと触れ合う日々のなかで、こんな俺でも目の前にいる人たちを護ることぐらいならできると思った。護りたいと、強く思った。

 それを、勘違いで終わらせることだけはしたくない。

「頑丈だな。まだ立つかよ」

 ゆっくりと立ち上がった俺を、フォルネウスは無感情な目で見つめていた。すでに獲物から興味を失いかけてる目だった。

「さすがに《悪魔》の血を引いてるだけのことはあるか。パパに感謝しとけよガキ。ただの人間なら、もうとっくに死んじまってるぜ」

 そう言って笑うフォルネウスの身体は依然として闇に揺らいでいた。この男の真の恐ろしさは、戦いに熱狂しながらも完全には冷静さを失っていないところだ。猪突猛進な戦闘狂かと思いきや、こと戦いに関しては非常にクレバーときた。いまだって注意深くこちらの挙動を伺っている。唯一、俺が付け込める可能性のあった実力差がゆえの慢心も期待できそうにない。

「おまえに、言われるまでもねえよ……父さんにはいつだって感謝してるさ」

 父さんがいなければ、俺はこの世にいなかった。二十年前に何があったのかは知らない。なぜ父さんは死んでしまったのか。ちょうどその頃に起きたと聞く《大崩落》と関係があるのか。すべてを知っているはずのナベリウスは黙したまま何も語ってくれない。それでも、いつかは知らなければならないという確信があった。父さんの血を引く俺にしかできないことが、きっとあるはずだから。

「いいぜ。おら立てよ。こんなもんで終わりじゃねぇだろう」

 好戦的な笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。ほとばしる威圧は、ただ面と向き合って対峙することもままならないほどだった。まったくもって底知れない。ただ、フォルネウスはまだ力の半分も出していないことだけは漠然と理解していた。それも無理からぬことだろう。つい先日まで最近は不景気だなとか、将来はどんな職業に就けるのかとか、そんなことをぼんやり考えていた俺が、絶えず闘争と付き合ってきたフォルネウスに勝てる道理はないのだ。

「……でも、だからって逃げる理由にもならないよな」

 肝に銘じよう。ここで諦めたら、俺はもう可愛いとか女々しいと言われても何の反論もしないと。そう決めたら不思議と腹を括るのも楽に思えた。

「覚悟しろよ、クソ野郎。いまから、おまえの顔面に一発ぶち込んでやるからな……」
「はっ、そうかよ」

 風と形容するのもおこがましい脚力で接近してきたフォルネウスに殴り飛ばされる。腕で防御は間に合ったのに、脚を踏ん張る力も残っていなかったものだから、俺の身体は宙を舞ってから芝生に落ちた。満身創痍の身体を必死に起き上がらせると、間髪入れずに腹を蹴られてまた倒れこむ。もう何度目かも分からない血反吐を吐きながらもがき苦しむ俺の頭を、フォルネウスが踏みつけた。

「退屈だな。期待が大きかった分、余計に冷めるぜ」

 靴底から伝わる力はあまりにも強烈だった。地面が少しずつひび割れ、頭蓋骨はミシミシと軋みを上げる。

「バアルも莫迦な野郎だ。よりにもよって、どうして人間を選びやがった。こうなることは分かってただろうによ。人間の女にたらしこまれるとは、さすがの野郎も落ちぶれたか。いや、ここは《悪魔》を誑かせた女のほうを褒めるべきか?」
「て、めえ……」

 その母さんをバカにするような言い方が。

「さっきから気に食わねえんだよっ!」

 怒りが爆発した。どこかから活力が溢れてきて、傷ついた身体の痛みを無理やり消し去った。頭を踏みつけている脚を全力で払う。だが、そのまえにフォルネウスは飛びのいていた。

「ほぉう……」

 広場を占拠していたフォルネウスの波動に対抗するように、俺の身体からいままでにない勢いで《悪魔》の力が流れ出す。もう少しだけ、あとほんの少しだけ、戦える。

「身内をおちょくられるとキレるタイプか。おもしれぇ。火事場の馬鹿力でもイタチの最後っ屁でもなんでもいい。せいぜい楽しもうや」
「黙れよ。おまえだけは絶対に許さねえ。もう二度と俺たち家族をバカにすんな」

 おまえになにが分かる。懸命に生きてんだよ。大切に想ってんだよ。ずっと二人で生きてきた。誰も助けてくれなかった。きっと母さんは想像を絶する苦しみと戦いながら俺を育ててくれたはずだ。なのに過去を振り返っても、憶えているのは優しい笑顔だけなんだ。父さんを失った悲しみを背負っているのに、俺のまえでは見せないんだ。

 なあ。泣きながら笑うことがどれほど難しいか、分かるか?

 それを知ってなお、母さんをバカにすることができるのかよ?

「にしても、解せねぇな。ここまできて力の差が測れねぇほど戦いを知らないわけじゃねぇだろ。どうして立ち上がった? 勝てるとでも思ったのか?」
「……特別サービスだ。おまえにいいことを教えてやる」

 勝てるとか負けるとか関係ない。もう小難しいことを考えるのは止めた。力の差なんて推してまで知りたくもない。だから、もう単純でいいだろ。

「まず一つ。俺はこう見えても男らしいんだよ」

 女の背に隠れてるだけのガキとか不名誉なこと言われたら、そいつのツラに全力の一撃をかましてやりたくなる程度には。

「そしてもう一つ。これはいままで誰にもバレてないとっておきの秘密なんだけどな」

 ぐっと親指を立ててから、それを下に向けた。

「俺は、マザコンなんだよ」

 母さんをバカにされると頭に血が上って支離滅裂になる程度には、だけどな。

「だから、おまえをぶっ飛ばす。菖蒲や美影にも言ってない秘密を知られたんだ。このまま黙って帰すわけにはいかない」

 腰を落として構えを取る。フォルネウスはしばらく喉のおくでくつくつと笑っていたが、やがて右腕を前に伸ばした。

「そうかい。もう死ね」

 鍛え抜かれた体躯が夜にかすんだ。強烈な耳鳴り。俺に向いたフォルネウスの腕から、禍々しい闇の奔流が放たれた。黒い火炎としか形容できないそれは、空間を根こそぎ侵犯しながら俺を消し去ろうと迫る。津波や台風にも似た、大自然の猛威を感じる。速く、重たく、昏い。

 真横に跳んで軌道上から逃れたが、着地した俺を狙ってすぐさま次弾が解き放たれた。先の跳躍で酷使した脚の筋肉にさらなる鞭を打ち、ふたたび回避運動を取る。しかし、三度目の正直か。脅威から脱して顔を上げた俺の目に映ったものは、焼き直しのような怒涛のごとき闇だった。奔流の向こうに哂うフォルネウスが見えた。

 一か八かだ。俺は最小限の動きだけで闇を避けてみせた。おかげで掠った左腕に焼けつく痛みを感じたが、男の意地で我慢して駆け出した。あれほどの力を三度も立て続けに使ったのだ。逃げ回る一方だった俺が無謀にも攻めに出るとは思わないだろうし、さすがの奴も多少の消耗はしているだろう。裏をかいたとも言えない稚拙な特攻だが、長期戦は望めないいまの俺にとって、ここで打って出るしか道はなかった。

「よぉ。久しぶりだな」

 前方、ほんの十メートルと離れていない距離に悪魔がいた。俺と同様に、向こうも地を蹴り加速していたのだ。殺意に酔った目が、お見通しなんだよ、と告げていた。

「くっ……!」

 いまさら止まることはできない。ここで退いてしまったら、そのときこそ俺は死ぬだろう。中途半端な躊躇いは、デッドヒートの途中に急ブレーキを踏むようなものだ。であれば、初めから全力でぶつかったほうがいい。たとえ、結果が玉砕だとしても。

 そのとき、視界のすみに銀色の軌跡が見えた。

「――っ!?」

 驚きは誰のものだったか。衝突しようとする俺とフォルネウスの中央に、なにか小さな物体が投げ入れられた。それは《悪魔》の波動に反応するや否や、青白い輝きを発し、邪悪な闇に呑まれていた広場をまばゆく照らし上げた。

「こりゃあ……《精霊の書(テウルギア)》!」

 歪められていた物理法則が是正されていく。満足に目も開けていられないほど鮮烈な光が視界を満たす。その聖性を帯びた極光の最奥に、ひどく懐かしいものがあるような気がして俺は手を伸ばしたが、それに触れる寸前で指輪が一際強く輝き、巻き起こった衝撃波によって俺は地に墜とされた。

 ほどなくして精緻な紋様が刻まれた指輪は、芝生のうえに音もなく落下した。太陽よりも地上を照らしていた星が潰えたことによって闇は蘇ったが、そこにあるのは俺のよく知っている夜だった。きれいな月明かりと、黒天を彩るまばらな星々。もう禍々しさはどこにも残っていない。

 ぞっとするほど冷たい表情を浮かべたフォルネウスが広場の端にたたずむ人影を睨む。

「……驚いたぜ。何しにきやがった、クソガキが」

 絶対零度よりも冷え切った声は、言外に興がそがれたと伝えていた。俺はゆっくりと彼女を見つめる。ここまで走ってきたのか、自慢だと言っていたストロベリーブロンドの髪はひたいに張り付いていた。ミニスカートから伸びる脚線は疲労を訴えるように弱々しく身体を支えている。夜風にツインテールの房が揺れていた。

「……リズ」

 リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長という肩書きを持つ少女は、切羽詰った表情でこちらをじっと見つめている。

「なんで……」

 フォルネウスが怒り心頭に発したならば、俺はただただ戸惑っていた。なぜこの場にリズが現れたのか、まるで意味が分からなかったからだ。彼女があの指輪を投げたのは、状況から見て俺を助けるためなのは明白だったが、曲がりなりにも《悪魔》の血を引く俺に法王庁が手を差し伸べるとは思えない。アルベルトや他の隊員の姿が見えないのも気がかりだった。

「よかった、間に合った……」

 俺の顔を見ると、リズはひたいの汗を拭いながらほっと息をついた。

「夕貴くん、わたしね……約束したの」

 いきなり何を言い出すんだ。いまは約束なんて関係ないだろう。それよりも早く逃げろよ。ちょっとぐらいなら俺が時間を稼いでみせるから。いくら敵対するかもしれない組織に属しているとはいえ、女の子が傷つくところなんて見たくない。
 
「わたしには、どうしても見届けたい世界がある。頭のよさそうな肩書きなんて関係ない。使命と理想はべつだもん。……うん、だから、なんていうか、わたしは」

 言いにくそうに視線を泳がせてから、リズは笑みを浮かべて言った。

「夕貴くんに、いなくなってほしくない」

 翠緑の瞳に親愛の情を乗せて、ぶれることなく見つめてくる。俺の混乱はますます深まるばかりだったが、彼女がなにかの冗談を口にしているようにも思えなかった。まるで真意が掴めない。彼女は俺を騙したいのか、助けたいのか、利用したいのか。こうして笑顔を向けてくるのも、俺の警戒心を解くための計算なのか。考え出せばキリがなかった。

 リズ。きみはいったい何を考えて、なにを為そうとしてるんだ……?

「――おいコラ、クソガキ。オレの許可なくしゃしゃり出てきた挙句、なに頭の弱いことほざいてやがる」

 殺気が目に見えて増大していく。怒りが手に取るように分かった。

「てめぇのツラを見てるだけでも吐き気がするってのに、盛り上がってんとこに水差しやがって。そんなに混ざりてぇならそこにいろや。バアルのガキをぶっ殺したあと、そのツラで生まれてきたことを後悔させてやるからよぉ」

 抑揚のない声とは裏腹に、弛緩した身体から溢れる波動は吐き気を催すほどの密度だった。純粋なプレッシャーなら、ナベリウスやダンタリオンよりも遥かに上だろう。おそらく、戦闘において枷を外したフォルネウスは最強だ。

 肉食獣を連想させる、余分なものが一切ない四肢がぎりぎりと引き絞られる。感情の見えない目からは醜い肉塊と化した数秒後の俺が見えた。ここから先は戦いではなく、一方的な狩りだ。捕食者が獲物を殺して食らう、自然界では日常的に見られる当然の摂理。

 リズの介入は、俺の死を先延ばしにしただけで、結果はより残酷なものとなるだろう。もちろん責めるつもりなど毛頭ないが、彼女はフォルネウスを怒らせただけで根本的な解決をもたらすことはできなかった。

「……ナベリウス、ごめん」

 夜空を穿つ月を見上げて、ここにはいない彼女を想う。諦めるつもりなんてない。でも、たぶん俺は殺される。だから、あの美しい銀髪を連想させる月明かりに祈っておこうと思った。せめて彼女が、俺を護れなかったという呵責にとらわれませんように。

 俺が死を覚悟した正にそのとき、ふいに聞き覚えのある唄が耳に届いた。

 思わず対峙している敵から目を離して、ふたたび広場の隅を見た。もう遠い昔にも思える記憶が蘇る。俺たちが出会ったときとまったく同じだ。リズは目を閉じ、両手を組み合わせて唄を歌っていた。悪魔の支配する死地と化した広場において、少女のきれいな声は呆れるほど場違いであるがゆえに戦慄を鎮める効果があった。

 俺はこれを知ってる。だって、ずっと昔、母さんが子守唄として聞かせてくれたから。リズと母さんが共通した旋律を知っているのは偶然なのだろうか。俺には特別な符合があるように思えてならない。

「……ははは、ははははは」

 リズの唄に同調して、決定的な変化があった。静かに激昂していたはずのフォルネウスがてのひらで顔を覆いながら、乾いた笑い声を上げているのだ。

「……なるほどなぁ。そうか、そういうことかよ。おかしいとは思ってたんだ。その顔。その身体。その声。その魂の在り方。そして、この唄。相変わらず人をおちょくるのが好きな女だ。いまさらになって、よくオレのまえに現れやがったもんだぜ」

 俺が怪訝に思い、ぶつぶつと独り言を漏らすフォルネウスに呼びかけようとしたときだった。

「答えろや――なぁっ!」

 荘厳と屹立する霊山が突如として噴火するように声を軋らせると、フォルネウスは大地が陥没するほどの踏み込みとともに疾走した。害意が凝縮されきった双眸に映るのは俺ではなく、ひとりの小さな少女だった。

「くそっ……!」

 事態の深刻さに気付いた俺も一拍遅れて走り出したが、明らかに間に合わない。超絶に加速して一条の雷鳴と化すフォルネウスに対し、ここまで誤魔化してきたダメージが一気に返ってきたのか、俺の足取りは鈍重だった。まだ立っていられるだけでも奇跡に近いのに、悪魔を上回る脚力を望むのはさすがに無謀だった。これ以上、父さんの血が俺を甘やかせてくれることはないだろう。

 それでも、早く、早く、もっと早く。頼むから間に合ってくれ。自分の無駄に豊かな想像力が恨めしい。どうしてフォルネウスがリズの心臓を抉り出している未来が視えるんだ。

 そんな俺の心情を知る由もなく、真紅の大悪魔はリズに向かって問いかける。 

「ソロモンっ! なぜオレたちを裏切りやがったっ!」

 叫びにも似た詰問をまえにしても、少女は透き通った声で唄を紡ぐだけだった。




 どうしても、届かない。

 目の前に広がる光景を見て、ジャンルの違う物語を無理やり組み合わせたみたいだ、と俺は思った。形相を怒りに染め、鮮烈な殺意を手に疾走するフォルネウスと、誰かに願いを捧げるように手を組み合わせながら、懐かしい旋律を口ずさむリズ。きれいなお姫様が登場する絵本のページに、恐ろしいモンスターの切り抜きを貼り付けたかのように、どこか愉快さと違和感が同居していた。

 でも、これは紛れもないリアルだった。

 夢ではないし、物語ではもっとありえない。目には恐怖を。耳には唄を。肌には夜風を。舌には血を。鼻には草の匂いを。このうちのどれか一つでも欠けてくれれば現実逃避もできるのに、鋭敏になった五感はより鮮明に絶望を拾ってくる。

 身体がひどく重い。気を抜けば脚がもつれそうになる。ひたいを伝って流れてくる汗が邪魔だ。それでも、前に進むのを止めるわけにはいかなかった。俺がここで止まってしまえば、か弱い人間の少女でしかないリズは悪魔に殺されるだろう。

 しかし、変えようのない現実として俺にはフォルネウスを止めることはできない。複雑な要素など微塵も介在していない。ただ単純に、俺の走るスピードよりも、フォルネウスのほうが圧倒的に速いだけ。そして、いまはそれが全てだった。

 いつだって俺の力は及ばない。四月、俺が非日常に足を踏み入れるきっかけとなった事件もそうだった。少しずつ冷たくなっていく女の子の身体を、こんな俺を好きだと言ってくれた彩の笑顔を憶えている。両手を血に汚し、記憶と、そしておそらく想いも失った彼女がいま、どのように生きているのかは詳しく知らない。知りたいという欲求を、言い知れない罪悪感で押し殺してきた。俺にもう少し力があれば、あんな悲しい結末を迎えることはなかったはずなんだから。

 もう、嫌なんだ。
 
 また目の前で誰かが傷つくのは。それを傍観するしかないのは。おのれの無力を嘆くのは。必死になって伸ばした手が、届かないのは。

 絶望は連鎖していく。その、人の憎悪や慟哭を繋ぎとめて連環した強固な楔は、やがて俺を縛り付けて身動きを取れなくするだろう。じゃらじゃらと、耳障りな金属の音色が足元から這い登ってくるイメージ。具象化した過去の後悔が、どうせリズを救えはしないという諦観が、幻想の枷となって踏み出す一歩を重くする。

 だが、それでも。

 ここで止まりたくない。ここで止まるわけにはいかないんだ。だって、いままで俺はそうして生きてきた。前を向いて、拳を握って、何度も転びそうになりながら、できるかぎりの全力疾走で、諦めずに走り続けてきた。その不器用で、あまりにも女々しい生き方の結晶が萩原夕貴なんだ。ここで立ち止まることは、リズを見捨てることは、すなわち俺の生涯を否定するのと同義だろう。

 俺の体内を循環する血潮が熱くたぎる。《悪魔》として与えられた力が、人間として生まれ持った誇りが、こんなところでは終われないと吼える。くたびれきった身体に一握りの活力が芽生えた。それを踏み出すための一歩に変えて、俺は僅かでも速く、少しでも遠くに踏み出した。

 それはきっと、今際を迎えた草花が最期に美しく咲き誇る現象と似たようなものだった。心臓が痛いぐらいに鼓動して、視覚化できるほどの強いDマイクロウェーブが溢れた。身体能力は限界を超えて強化されて、肉体にまとわりつく後悔や諦観という名の枷を振り払うがごとく、俺はラストスパートをかける。

 そこに、銃声が割って入った。


 ****


 フォルネウスは疾走する。その目に圧倒的な憎悪を乗せて、リズ以外のなにも見ていない。

 当然だった。リズが口にした唄は、かつて一人の王が《ソロモン72柱》を召喚する際に用いた詠唱に旋律をつけたものだ。もう現代には残っていない、忘れ去られた唄。ソロモン王と酷似した容姿を持つ少女がこの唄を知っている、という符合はすでに偶然では片付けられない。

 リゼット・ファーレンハイトという人物にまつわる背景など知らない。だが、フォルネウスは一秒でも早く、あの顔でこの唄を口ずさむ女を殺してしまいたかった。戦いの目的ではなく行為そのものに意味を見出す彼も、いまだけは純粋な殺意のみに縛られている。

 いまだ唄は続いていた。リズは逃げも隠れもせず、ただ一心に歌っていた。悪魔の怒りに油を注ぐように。くじけず前に進む少年を導くように。戦場の真っ只中にあって朗々と響く声は、どんな荒れ果てたステージでも、観客がいなくとも、孤独という名のドレスを身にまとって歌い続ける。

 そんな歌声を放ってはおけないと、小さな楽団が伴奏を提供する。一斉に楽器を構えて、汚れた衣装で舞台に上る。各奏者の腕は壊滅的で、リズムもてんでバラバラだが、それは確かにひとりの少女のためだけに奏でられた音だった。夜のしじまを揺らさんと銃器が吼えて、ここに型破りのオーケストラが幕を開ける。

 空気を震わす乾いた音色は、しかし大地を濡らす雨のように連続して降り注いだ。広場を囲う木々の奥に、目も眩むほどの輝きを放つ星がいくつも現われ、鮮烈に明滅する。生温い大気を焦がして飛来する金属製の嵐が、荒れた芝生を見るも無惨に穿っていく。うっそうと生い茂る木立を掩体にして、白い軍服を着込んだ男たちが銃火器を構えていた。

 それは法王庁特務分室をして、本来ならありえない戦闘行動だった。なぜなら、彼らが《悪魔》と対等に渡り合うための必須条件が、いまは何一つとして揃っていないからだ。ことを公にしたくないという事情から、今夜の人員は後方支援の者を入れても二十人以下に抑えてあるし、現行の装備も心もとないの一言に尽きる。いや、来日して早々、市街地での作戦に銃火器の携行許可をもぎ取っただけでも、アルベルトの苦労と手腕は推して知るべしと言えよう。
 
 でも、それとこれとは別なのだ。

 戦うと決めた。護ると誓った。あの幼い室長に仕えることが決まった日から、彼らの志は特務分室ではなく、ひとりの少女とともにあった。女のワガママの一つや二つ、笑って許せずしてなにが男か。彼らは優秀だが、それと同じぐらい莫迦だった。

「だからよ! もう小賢しいことなんざ知らねぇよ!」

 だれかが吼えた。それは全員の代弁でもある。戦略的見地から見た分析など知りたくもないし、知ろうとも思わない。いくら絶望的な数字がはじき出されようと、それを目にしなければ関係ないだろう。

 戦うと決めたのだ。護ると誓ったのだ。心身に叩き込んだ戦術を駆使した高度な実戦とは根本的に異なる、ただ闘争本能を揺さぶるだけの原子的な戦い方。

 それが、楽しくて楽しくて仕方なかった。

「はっはー! これだから室長のお守りは止められねぇよなぁ!」

 野太く力強い声には、銃声にも負けない強靭な意志が込められていた。生身の人間が、強大な力を持つ《悪魔》と対峙するのは並大抵のことではない。彼らのひたいには脂汗が浮かんでいた。楽しげに歪んだ口元は、だが震える自分を無理やり鼓舞するための産物でもある。これは精神論や、訓練でどうにかなるものではなかった。大気を伝播するフォルネウスの波動は、もはや当てられるだけでも吐き気を催すほどの密度なのだ。

 恐怖はある。力が及ばないことは百も承知だ。にもかかわらず、退却という選択肢はすでに全員の頭から除外されていた。戦力に決定的な差があっても、彼らには室長たる少女を守りぬけるという、確かな自負があったのだ。

 その瞬間、彼らの心はわずかに、けれど確かに《悪魔》を上回っていた。

「雑魚が――」

 人間の儚くも尊い矜持は、《悪魔》によってあっさりと踏みにじられる。弾丸すらも余裕で躱してのける脅威の肉体性能。慣性を無視するほどの方向転換で蛇行するフォルネウスを捉えようと、弾幕は物理的にかわせる余地をなくすまで激しさを増した。それを無駄だと嘲笑うかのように、フォルネウスの右手に漆黒の影が揺らめく。

「調子に乗ってんじゃねぇ!」

 垂直ではなく並行に降る雨に向けて、拳を叩きつける。甲高い耳鳴りとともに禍々しいエネルギーが炸裂して、一秒後にはフォルネウスを穿つはずだった銃弾がすべて消し飛ばされた。硝煙の匂いが広場に充満しても、フォルネウスは身に一つの傷も負っていなかった。

 ――特務分室の男たちが稼いだ時間は、ほんの数秒ほどしかない。が、その数秒を足場にして、萩原夕貴は遠く隔てる距離を数歩分だけ埋めていた。

 銃声が一時的に途切れるのを見計らって、どこからか純白の疾風が現れた。芝生を決然と駆け抜ける音。灰色の髪。日本人離れした彫りの深い顔立ち。たくましい身体を包むのは、さまざまな略綬や腕章に彩られた白い軍服。手には一振りの剣。法王庁特務分室、戦隊長。

 アルベルト・マールス・ライゼンシュタイン。若かりし頃は上官のものだった《マールス》の銘を法王庁から頂いたのはいつのことだったか、もう彼には思いだせない。ただ、あの日を境に、アルベルト・ライゼンシュタインという青臭い青年は死んだのだ。

 二十年以上も前、日本から遠く離れた異国の地で、大きな戦争があった。表の歴史には残っていないが、多くの命が儚くなった血で血を洗う戦いだった。その最中、切迫した戦況に任せて、アルベルトはあの男と共闘するはめになった。長い銀髪を背中に流す女からは坊やと呼ばれ、おのれの無力を散々に噛み締めた。

 バアル、ナベリウス、そして――

 彼ら三人の顔が思い浮かぶ。あの日、あのときを境に、アルベルトの価値観は大きく変わった。それまで絶対と信じていた”人”という生き物に疑いを持ち、悪魔の王から永遠に解けない命題を課せられた。人はかくも傲慢で醜いと、従者のうち一人が吐き捨てた。

 鈍い痛みが、彼の全身に沈殿している。人体は、そんなに丈夫にはできていない。先の展望台で、ヒトの身でありながら一時とはいえ《悪魔》と対等に渡り合ったアルベルトだが、いくら達人であっても筋肉や関節にかかる負荷から逃れることはできない。ここに駆けつけたときにはもう、アルベルトの肉体は限界近くに達していた。

 それでもなお、剣を執ると決めたのだ。幾多の苦難が待ち受けるだろう少女の進むべき道を、となりで支えてやりたいと思った。それは奇しくも、萩原夕貴を見守るナベリウスとまったく同じ生き方だった。

 いまの彼は法王庁特務分室の戦隊長にあらず、在りし日のアルベルト・ライゼンシュタインだ。

 銃弾のみに意識を集中していたフォルネウスに対し、その背後を見事に取ったアルベルトの奇襲は神業の一言に尽きる。かすかに漏れ出る殺気を、フォルネウス自身の殺気に紛れ込ませて察知を困難にしたのだ。気付いたときにはもう遅く、振り向いたときには首を斬り落としているだろう。それほどまでに必中のタイミングだった。

 ゆえに驚嘆すべきはフォルネウスだ。闘争の権化とも言うべきこの男は、発露した殺気がどれほど極小であろうとも、それが自身に向けられたものであれば絶対に反応してみせる。アルベルトの判断は間違っていなかったが、相手が悪すぎたのだ。

「おもしれぇ。戦神(マールス)とはよく言ったもんだ」

 真紅と純白のシルエットが交差する一瞬、フォルネウスの口元が不敵に歪み、アルベルトの目が大きく見開かれた。

「だが、それだけだ」

 爆轟する衝撃。砕け散る鉄の凶器。吹き上がる鮮血。蹂躙される希望と、止め処なく紡がれる絶望。半ばから折れた剣を手に、アルベルトは膝をついた。軍服が裂けて、肩口から血が流れる。その毒々しい深紅の色合いも、しかしフォルネウスの紅い髪よりは危機感を覚えない。

 ――消耗したアルベルトでは《悪魔》を足止めすることもできない。が、砕かれた剣の残骸が地に落ちる頃、夕貴は無限にも思えた距離をさらに詰めていた。

 あらかじめ結託していたわけではないし、彼らにはお互いを利用するつもりもない。ただ結果として、特務分室がフォルネウスを足止めした僅かな時間が、夕貴の追い風となったのも事実である。夕貴には夕貴の意地が、特務分室には特務分室の矜持がある。自分が信じた道を突き進んだ結果、先の見えないレールがわずかに交わっただけの話。この夜が明ける頃にはまた、それぞれの道を行くだろう。

 さりとて、依然としてフォルネウスの疾走は止まらない。人間の抵抗を歯牙にもかけず、殺意と憎悪を原動力にして狂奔する。生半可な攻撃では足止めにもならない。いくらか距離が縮まったとはいえ、地力に差がある以上、夕貴には追いつけないだろう。

 だからこそ、彼女は来た。伸ばした手を届かせるために。

 真夏に見る雪とはなんとも風流なものだった。血に濡れた広場を、絶対零度の氷が覆っていく。顕現した凍結現象はまたたく間に空間を制圧したが、《精霊の書(テウルギア)》と呼ばれる指輪が落ちている周囲だけが不自然に緑を保ったままだった。指輪の発する青白い輝きが、見る見るうちに氷を溶かしていく。季節外れの冬は、またすぐに夏に主役を明け渡すだろう。

「……まったく、相変わらず血の気が多いわね」

 広場のすみに立つ大木に背中を預けて、ナベリウスは熱っぽい吐息とともに言った。腰まで届く長い銀色の髪は肌に張り付き、それと同じ輝きを放つ瞳はすっかり憔悴していた。左脚の太ももから流れた血が、細い足首や靴を真っ赤に染めている。

 一瞬のすきをついてベレトの目を逃れた彼女は、まっすぐに夕貴のもとまで駆けつけた。さすがの彼女も今夜ばかりは無事とは言いがたい。連戦のなかで力を消耗したうえ、左脚には裂傷を負っているし、ベレトに蹴られた腹は肋骨の一本か二本を折られている。決して戦えないわけではないが、戦闘能力に陰りがあるのも事実だった。

 それが、どうしたというのか。

 彼女は間に合ったのだ。大切な少年のかんばせを、もう一度だけ見ることができたのだ。夕貴が無事ならば、ナベリウスは無限の力が沸いてくる。体力の消耗がどうした。怪我なんて些事にも値しない。いまなら、あのときの約束も果たせると彼女は思った。

「言ったでしょ、フォルネウス。それじゃ女にモテないってね」

 ナベリウスが伸ばした腕の先、疾駆するフォルネウスを取り囲むようにして無骨な氷の槍が無数に生成された。そのうちの何本かは《|精霊の書(テウルギア)》の効果範囲に侵入して打ち消されたが、まだまだ数は残っている。全方位から飛来する鋭利な氷塊をまえにして、だがフォルネウスはなおも足を緩めない。

「はっ――そうかよ!」

 暴力的な破壊音。迫りくる絶対零度を砕き、ときに躱しながら、フォルネウスは一瞬だけリズから目を逸らし、ナベリウスを見た。交錯する二人の視線には、決定的なまでの温度差がある。もう二度と、彼らが同胞として手を結ぶことはないだろう。

 やがて氷塊は、そのすべてが粉砕された。ガラスが砕けるような音を発しながら、ぱらぱらと氷の破片が舞い散る。

 これでもうフォルネウスを阻むものは何もない。銃弾は効かず、戦士の剣は折れ、悪魔の力は無力化される。あとは一直線に駆け抜けるだけで、リズのもとまで辿りつける。

 しかし、それは夕貴も同じこと。

 フォルネウスが氷を打ち落とし、リズから視線を外したその隙に、夕貴はあれだけ遠かった距離を踏破していた。

 無駄なものなど一つもなかった。法王庁の銃撃が、アルベルトの奇襲が、未来を繋いだ。彼らの介入がなければ、ナベリウスは間に合わず、リズの命はとうに散っていただろう。そしてなにより、ほんの一歩分でも足取りを緩めれていれば、夕貴の手は届かなかっただろう。

 おのれの無力を自覚している夕貴にできることと言えば、何があっても諦めずに走り続けることだけ。それが萩原夕貴という少年の生き方だった。

 ここまで走り続けてきたことは、決して無駄ではなかった。


 ****


 あれだけ遠かった背中は、もう間近に迫っていた。目の前にいる。手を伸ばせば届く。だからこそ、ここからが死線だった。

「てめぇの役目は終わってんだよ」

 リズを見据えていた双眸が反転して俺を睨んだ。反応が早すぎる。強烈な殺意が爆発し、濃密すぎる死の気配が漂う。やはりこの男は希代の怪物だ。ナベリウスの氷を跡形もなく粉砕するという荒業を為した直後なのに、その肉体には一分の硬直もない。

 最後の一歩を踏み出した俺を、フォルネウスが拳で迎撃しようとする。極限の緊張感がトリガーとなって、体感時間を無限に引き伸ばしていく。あらゆるものが停滞して見えて、飛び散る汗や血の一滴まではっきりと知覚できた。

 はっきりと知覚できたからこそ分かった。ここまでしても、俺はまだ届かないと。

 この握り締めた拳がフォルネウスの頬を打ちぬくよりも、俺の頭が消し飛ばされるほうが確実に早い。フォルネウスの戦闘能力はでたらめすぎる。正攻法ではまず勝てない。いまの俺では、やはり無理があったのだ。

「信じて、夕貴」

 それはいかなる奇跡か。音よりも速く交差する俺たちの耳に、ナベリウスの声が聞こえた。

「あなたなら、きっと届く」

 俺は苦笑した。あいつの言葉に背中を押される自分が、あいつの顔を見ただけで無限に力が沸いてくる自分が、なんだか可笑しくて。

 フォルネウスの豪腕が、大気を断絶させながら猛烈に迫る。異能を使うまでもない。この男は、生身の肉体だけでも物理法則を冒涜する。でも、そんなの知るか。御託なんかいらない。俺が欲しいものはそこにはないんだ。もっと手を伸ばせ。最後まで走り続けろ。この暴力に満ちた非日常を戦い抜くために。あの大切な日常を護り抜くために。そして、俺が俺でいるために。

 ゼロまで踏み込んだ距離から、俺はさらなる一歩を踏み出して、マイナスまで間合いを詰めた。禍々しいほどの風切り音。超常の破壊力を秘めたフォルネウスの拳は、俺の頭上をかすめて虚空に消えていく。

「このガキ……!?」

 無我夢中でふところに潜り込んだ俺は、忌々しそうに目を眇めるフォルネウスを見上げた。

「なぁ、おい」

 おまえ、俺を女の背に隠れてるだけのガキだって言ったよな。母さんのことを侮辱したよな。

 そのことは、忘れてねえぞ――

「フォルネウスっ!」

 怒号とともに、俺はあらん限りの余力を振り絞り、腰だめに構えていた拳を振り抜いた。フォルネウスはとっさにもう片方の腕を上げて防御を試みたが、渾身を込めた俺の拳打は、吸い込まれるように奴の頬を打ち抜いていた。骨の髄まで痺れるような手応え。屈強な男の身体は、地面を強烈にバウンドして転がっていった。

 いつの間にか、唄は終わっていた。リズは何も言わず、じっと倒れたフォルネウスを見つめている。透き通った翠緑の瞳は、凪いだ海のごとく静かだった。そこには驚きも安堵もない。俺には、リズがこの結末になることを予想していたかのように感じられた。

 身体のそこかしこが痛い。指先を動かしただけでも痛覚が暴走して、痛みのあまり視界が真っ赤に染まる。とりわけ心臓がやばかった。鼓動のリズムが速すぎる。血の供給に需要が追いつかないという矛盾。毛細血管が破裂したのか、肌の至るところに青あざが浮かんでいた。フォルネウスを殴りつけた拳は皮膚が裂けて、ぽたぽたと血が滴っていた。

「だから……言っただろうが」

 もはや呼吸をするだけでも苦痛だった。生理現象によって涙が滲み、酷使した脚はけらけらと笑っている。それでも大きく息を吸い込んで、ふらつく身体に喝を入れて、俺は仰臥するフォルネウスに言った。

「いまからおまえの顔面に一発ぶちこんでやるってな。ちゃんと忠告はしといたぞ」

 真紅の大悪魔は、倒れたまま動かない。



「……くっ、くっくっくっ」

 やがて静けさを打破したのは、抑揚のない笑い声だった。

「ははは、ははははははは」

 荒れた芝生のうえに大の字になって、フォルネウスは笑っていた。無邪気な子供のように純粋で、一切の打算がない歓喜だった。

「よぉガキ。てめぇの名は?」

 夜空を見上げたままフォルネウスは問いを投げた。それが誰に向けたものかは考えるまでもない。俺はしゃんと胸を張って応えた。

「萩原夕貴。萩原は父さんの姓。夕貴は母さんがつけてくれた名だ」
「はっ、クソつまんねぇ名前だな」
「俺は気に入ってるんだよ。おまえにとやかく言われる筋合いはない」
「あぁ聞いて損したぜ。おかげで忘れるのにも難儀しちまいそうだ」

 そう締めくくってから、フォルネウスはゆっくりと立ち上がって血の混じった唾を吐き出した。全力でぶん殴ってやったのに、ほとんどダメージを負った様子はない。それどころか、飢えた肉食獣を思わせる貪欲な闘気は以前よりも強壮になっている。まだ夜明けは遠く、戦いは終わらない。これは殺し合いだ。俺たちかフォルネウスのどちらかが死ぬまで黎明は訪れない。

「そこまでだ。双方、退きな」

 巨大な存在感が一つ増えた。フォルネウスのような禍々しさはなく、晴れ渡った蒼穹を思わせる清澄な波動だった。空気が揺れて、木々がざわめく。ほんの一瞬、月光が陰ったかと思うと、フォルネウスのとなりに華奢な人影が着地していた。肩口よりも少しだけ長い、亜麻色の髪。気の強そうなツリ目。タンクトップにデニムというラフな服装。新たに現れたのは、リズと同い年ぐらいの年若い少女だった。

「何しに来やがった、ベレト。いまからが最高におもしれぇとこなんだよ。邪魔しやがったら、いくらおまえでも許さねぇぜ」

 フォルネウスが言うと、ベレトと呼ばれた少女は不愉快そうに眉根を寄せた。

「あたしは言ったはずだよ。この国では軽挙は慎めと。相変わらず聞いたそばから抜けていく便利な耳だね」
「ほざいてんじゃねぇよ。てめぇのほうこそナベリウスを放って何してやがった。日本に来て腑抜けちまったんじゃねぇだろうな」
「それはあたしの台詞だ。鏡を見てきな。男前になった自分が映ってるよ」

 剣呑な視線がぶつかり合う。下手をすれば、このまま殺し合いでも始めかねない雰囲気だった。

「……ちっ、うざってぇ。マジで白けたぜ」

 フォルネウスが放射していた殺気が色褪せていく。

「今回だけはグシオンの顔を立ててやる。眠くなる横槍も入りやがったしよ」

 その言葉を最後にフォルネウスは身体の力を抜き、気だるげにふところをまさぐった。そして、舌打ち。どうやら目当ての嗜好品は切れているらしい。それに一瞥もくれないまま、少女は「ほら」と真新しい煙草を差し出した。礼の一つも言わず当然のように新品のパッケージを受け取ったフォルネウスは、紙巻きを咥えて大きく火を吸い込んだ。夜空に紫煙が立ち昇る。

「そういうわけだ。今夜は黙っておうちに帰りなよ、坊や」

 坊やと呼ばれたことには一抹の不満が募ったが、それに対する反論よりも、まずは相手の素性を把握しておきたかった。その旨を簡潔に伝えると、亜麻色の髪をした少女はベレトと名乗り、あたしも《悪魔》の一員だと何の衒いもなく口にした。

「おまえは、フォルネウスの仲間なのか?」
「こいつと同列に見られるのは甚だ不本意だけど、まあ間違っちゃいないよ。そういう坊やは、あいつの息子とは思えないぐらい可愛い顔してるじゃないか」
「待て。おまえ、俺をバカにしてんのか?」
「まさか。坊やの顔、けっこう好みだよ」

 どうにも分が悪い。このままだと口車に乗せられていきそうな気がしたので、俺は潔く口を閉ざした。ベレトは肩をすくめたあと、腰に手を当てて広場の片隅を――特務分室の連中がいるあたりを一瞥した。

「さすがに今夜は派手にやりすぎた。日本の国家権力も黙っちゃいないだろうね」

 なんとも含みのある言い回しだった。ベレトの視線に、アルベルトは沈黙で応える。これ以上、騒ぎを大きくしたくないのは全員の総意なのだろう。異論を唱える者も、これみよがしに臨戦態勢を取る者もいない。

「もうじゅうぶん派手にやっちゃってるわよ」

 背後からナベリウスの声がした。近づいてきた足音は、俺のとなりで止まる。

「いいのベレト? こんな後先考えないことばっかりしてたら、あなたたちの大好きなグシオンに怒られちゃうんじゃない?」
「心配には及ばないよ。あいつはきっと、フォルネウスが自分勝手な行動を取ることも計算に入れてる。すべては予定調和さ。ただ……」

 明確な敵意を乗せた目が横に動いて、広場の一点で止まった。

「その女だけは、イレギュラーだ」

 ベレトに倣って、この広場にいる全員の視線がリズに集中した。俺たちの意識が交わる先で、ストロベリーブロンドの髪が風に流れていた。リズは無感情な顔で、なにか思索をめぐらすかのように口を閉ざしていたが、やがてころっと微笑んだ。

「怖いなぁ。そんなに睨まれると泣いちゃうよ」
「あんた、何者だい?」
「リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長だよ」

 あらかじめ用意していた台詞をなぞりあげるように答えて、ゆっくりと歩き出す。静止した闇のなかに生まれる足音がやけに目立っていた。不思議なことに、だれもリズの歩みを止めようとする者はいない。どこか触れがたい、それでいて目を逸らすことも許されない、魔性のカリスマだった。

 しばらくして足を止めたリズは、ミニスカートを抑えながらその場に屈んで地面をまさぐった。がさごそと手を動かして、なにかを拾い上げる。月明かりを受けてかがやくのは銀色の指輪だった。ふたたびリズの右手の人差し指に収まった貴き円環を見て、ベレトの目が鋭くなる。

「……法王庁が《|精霊の書(テウルギア)》を秘匿しているのは知ってた。なぜなら過去に一度、それが使われた記録があるからさ。1945年、ダンタリオンのやつがバチカンで暴れたときにね」
「俗に言う《バチカンの惨劇》だね。あれは大変だったって聞いてるよ。特務分室の精鋭部隊が一晩のうちに壊滅したって。そこまでしてダンタリオンが目指していたのは、たぶんバチカンの地下百二十八層に封印されてる《ベリアル》を解き放つためだったんだろうね」
「自分から望んで封印されたやつのことなんてどうでもいい。あたしは、法王庁がずっと出し惜しんでいたはずの《精霊の書(テウルギア)》を、どうしてあんたみたいな小娘が持つことを許されたのかって聞きたいんだ」
「んー、そうだね。人徳じゃないかな」

 そのとき、煙草が指で弾かれて宙を舞った。ぞわり、と肌が粟立つほどの怒気を漲らせて、フォルネウスが一歩前に出る。

「舐めやがって、クソガキが。ぶっ殺してやる」
「待ちな」

 ベレトが手を上げてそれを制する。フォルネウスはまなじりを吊り上げて、リズに向けていた殺気の何割かをかたわらに移す。

「オイ。死にたくなかったらその手を退けろや。そろそろマジでキレんぞ」
「あんたは一度暴れると見境がなくなるから駄目だ。ここは大人しくしてな」
「大人しくだぁ? じゃあ逆に聞くがよ、おまえはあのクソガキのツラを見て思うことはねぇのか?」
「あるさ。だから」

 小さくかぶりを振ってから、彼女は右手の人差し指をまえに伸ばした。

「あんたの代わりに、あたしが確かめてやるよ」

 次の瞬間、野生動物を思わせるしなやかな肢体から膨大なDマイクロウェーブが溢れた。あの線の細い華奢な身体のどこにこれほどの力が眠っているのだろう。夜の闇が、月の明かりが、穏やかな風が、荒れてなお豊かな自然が、何かに怯えるかのようにざわついている。暴風雨に似て乱暴。津波のように無慈悲。地震のごとき暴虐。ひとりの少女が力を解放しただけで、天災が起きた。

 無造作に吐き出されるだけだった波動は、やがてベレトの指先に集まった。白魚を連想させる細長い指が青い輝きを発し、それは次第に大きく苛烈になっていく。目もくらむほどの空色をした極光だった。亜麻色の髪は大きく巻き上がり、タンクトップの裾がはためいて健康的な白い腹部があらわになる。

「な、なあ。あれって……」
「バカ! 下がりなさい!」

 ナベリウスに腕を引かれて、俺はよろめきながらも後ろに下がる。銀髪悪魔の判断が正しかったと知るのは、ほんの数秒後の未来だった。

 ベレトの人差し指から、強烈な光が解き放たれた。夜を射抜く一条の光は、さながらレーザービームのように大気のなかを突き進みながら、リズを目指して唸りを上げる。一目見ただけでも規格外の破壊力が秘められていると分かった。

 しかし、何事にも例外は存在する。光の弓は、リズの眼前で視えない壁に阻まれるかのように停止し、あっけなく消失した。どれほど強力でも、それが《悪魔》によって生み出された力である以上、あの指輪を突破することはできない。

 とは言ったものの、たったいま目の前で繰り広げられた攻防は、俺を戦慄させるにはじゅうぶんだった。

「……あれが、ベレトってやつの全力か。それを防いだリズもやっぱりでたらめだけど」
「全力? そんなわけないでしょ」

 ナベリウスはため息をついた。

「あれでまだ、一割も出していないわ」

 そんな、冗談にしか聞こえない情報が耳に入るのと、ベレトの身体からふたたび波動が流れ出すのは同時だった。

「なるほど、さすがに硬いじゃないか」
「そういう問題じゃないよ。これはあなたたちには破れない。絶対にね」
「よく言った。その指輪、あたしが貫いてやる」

 ベレトが大胆不敵に宣言する。直後、青き閃光に世界が塗りつぶされた。夜は朝になり、朝は昼になり、昼は空になった。満足に目を開けることもできず、両手を交差して網膜を保護する。腕の隙間から見える景観は、ひたすらに青かった。大地は細かく振動し、一時的に力場が狂って地面に落ちている小石や自然物がふわりと浮き上がる。

 その極光の中心で、ベレトは右手をまっすぐに伸ばして、人差し指と中指の二本をリズに向けた。女の子らしい指先にすべての光が収束していく。加速度的に増大していくエネルギーは、どこまでも広がる蒼穹のように果てがなかった。

 腹の底に響く重たい衝撃とともに、ベレトの連なった指から空の弓が解放された。その反動だけで足元が深く陥没する。巨大なエネルギーの奔流は、すでに天災に喩えるのもおこがましいほどに破壊力として完成されていた。

 弓となって奔る極光に飲み込まれる寸前、リズは大きく目を見開いた。《精霊の書(テウルギア)》も負けじと光り輝いて、《悪魔》の異能を無に帰そうとする。ついさっきと同じだ。ベレトの力は、やはりリズの眼前で停止して、あっけなく消失する。

 消失する、はずだった。

 《精霊の書(テウルギア)》の暴威に晒されながらも、しかし空の弓は消えなかった。究極の矛と、絶対の盾。本来なら起こるはずの矛盾は、両者の拮抗というかたちで現れていた。衝突の際、莫大な力を乗せた余波が広がって、広場の周囲に立っている木々が折れそうなほどにしなっては若葉が宙を舞う。

「……お願い」

 リズが手を組んで、小さな声でつぶやいた。

「力を貸して。バアル」

 少女の呼びかけに応えるように、指輪に刻まれた精緻な紋様が白く輝いた。そして、それによく似た紋章が、リズの周囲に光って浮かび上がる。

 そのとき、何かに呼ばれたような気がして、俺は顔を上げた。

 声にならない声が聞こえる。気配にならない気配を感じる。四つだ。この場所に一つ。ここより北に一つ。海を遠く隔てた地に一つ。光の届かない地下深くに一つ。そのなかでも北のやつが、ひどくやばい。禍々しいなんてレベルじゃない。これは絶望だ。決して解き放ってはいけない、パンドラの箱だ。

「――うっ!」

 ずきん、と鈍い頭痛。我に返ったときにはもう、何も感じなくなっていた。ナベリウスがどこか悲しげな顔で俺を見ていた。

 視界を満たすほどの極光が弾けて、俺は反射的に目をつむった。一気に場が静まる。ゆっくりと目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。あれほど退廃としていた広場が、まるで今夜の出来事の一切がなかったかのように元通りになっていたのだ。都会には珍しい豊かな自然と、青々とした元気のいい芝生。息を吸えば、清浄な空気が肺を満たす。間違いない。いま俺がいるのは、人と《悪魔》の戦場じゃなく、この街の住人から長きに渡って親しまれてきた荘圏風致公園だ。

 なぜか、この魔法のごとき現象を、俺はだれに教えられるまでもなく理解していた。これこそが、《精霊の書(テウルギア)》のほんとうの力。《悪魔》の力を無力化するのではなく、無効化してしまう。それはつまり、ソロモン72柱の異能が引き金となった事象をなかったことにするという能力に他ならない。おそらく、フォルネウスに破壊された展望台も、在りし日の姿を取り戻しているはずだ。ただし、特務分室によってつけられた弾痕もきっちり復元されているだろうが。

「……なるほどね。わかったよ」

 ベレトは面倒くさそうに髪をかきあげた。自身の力が打ち消されたことに打ちひしがれている様子は微塵もない。

 いつの間にか、あれだけ行き交っていた殺気や波動は完全と言っていいほどに姿を消していた。耳を澄ませば小動物の鼓動や、虫の求愛する声が聞こえる。気持ちのいい夜風が木々のあいだを通り抜けて、さわさわと軽快な葉擦れの音を奏でる。

「最後にもう一度だけ聞こうか。お嬢ちゃん、あんたは何者だい?」
「さっきも言ったでしょ。わたしは法王庁特務分室の室長だよ。それ以外の何者でもないもん」
「ふん」

 リズの返しが愉快だといわんばかりに鼻を鳴らして、ベレトは身を翻した。俺には彼女が自分の知りたかった答えを得たように見えた。

「よく言うよ。幼い室長さん」

 その亜麻色の髪が揺れる背に、フォルネウスが続く。凶悪に歪んだ顔に浮かぶのは、底知れない愉悦だった。

「くっくっくっ……いいぜ、楽しくなってきたじゃねぇかよ。グシオンの野郎とアスタロトの犬っころはどう反応しやがるかねぇ」

 二人分の足音が静かに響く。だれも彼らを止める者はいない。否、引き止めることのできる者がいない。 

「ナベリウス。あたしらと一緒に来る気はないかい?」

 最後にぴたりと立ち止まって、ベレトは言った。

「愚問ね。わたしが仕えるのは一人だけよ。グシオンなんて眼中にないわ」
「もちろん、そこにいる坊やも一緒さ。悪いようにはしない。客人として、ソロモンの同胞として、最高級の待遇を保証するよ」
「だって。どうする、夕貴?」

 茶化すような口調でナベリウスが振ってくる。悩むまでもない。彼女と同じく、俺の意思は決まっていた。

「どうするもこうするもないだろ。俺には、俺たちには、帰りを待ってくれてる人がいるんだからな」

 ちらりと横を見ると、満面に笑みを咲かせたナベリウスと目が合った。なんとなく気恥ずかしくてそっぽを向いた俺は間違っていないと思う。

「貴様らは、いったい何を企んでいる」

 低い男性の声が割り込んだ。険しい顔つきをしたアルベルトが、鷹のように鋭い目をベレトに向けている。

「貴様らがこの国に来た目的はなんだ。戦争を仕掛けるつもりか。それとも、やはり《|悪魔の書(ゴエティア)》が狙いなのか」
「あたしに聞くな。おまえの知りたい答えはグシオンしか知らない」
「いずれ会うぞ。貴様らの主に伝えておけ」
「いいだろう。伝えてやるよ」

 そっけなく切り返して、華奢な背中は闇に溶けていった。アルベルトは考え事をするかのように押し黙っている。

「よぉガキ」

 フォルネウスが肩越しに俺を見た。

「次に会うときまでにはもうちっとマシに仕上げとけ。適当に場数踏んで、好きなだけ殺してこい。せいぜいオレを楽しませてくれや。なぁ?」
「ほざいてろ。今日のことは絶対に忘れねえからな。おまえは俺がぶっ倒してやる」
「はっ、その物怖じしねぇ性格だけは父親にそっくりだぜ」

 俺の啖呵に気分を害したふうもなく、むしろ面白いとでも言うように笑って、紅い大悪魔は姿を消した。

 まだ夜明けは遠く、戦いは終わらない。それでも地平線のずっと向こう、まだ目に見えぬ彼方から、瑠璃色の黎明がやってくる。


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