優しく、どこか懐かしい温もりを背中に感じる。それを大切だと、絶対に手放したくないからと、俺は抱える手に力を込めた。
街を撫でる夜風には、すでに太陽が残した熱の面影は残っていなかった。日中には第二の熱源となっていたアスファルトも時間の経過とともに冷たくなって、いまは何食わぬ顔で月明かりを眺めている。どこまでも径を拡げる夜空は透明な表情で、彼方から訪れる星の輝きを受け止めていた。
夜の住宅街からは喧騒が遠のき、目に見えて分かるほどに静寂が始まっていた。一家団欒の時間も終わって、もうほとんどの家は明かりが消えている。光量の減った地上は、きっと空高くから見下ろせば夜空に見えるだろう。星の光と人の営みが調和して合わせ鏡のように広がっていく暗闇に、こつこつと一人分の足音が静かに響いていた。
「ねえ。ちょっと気になるんだけど」
やけに神妙な声でナベリウスが口火を切った。
「わたし、重くない?」
「あー、まあ、重くはないな」
世辞を抜きにしてもそれほど苦ではないのだが、あらためて確認するために俺は彼女を背負いなおした。女性の体重の適正値は分からないが、やはり重いとは感じない。どうやら抜群のプロポーションは見掛け倒しではなく、数値としてもきっちり表われているようだった。
ならいいけどー、と投げやりに応えたナベリウスは、ついさっきよりも遠慮なく俺にぎゅっとしがみついてくる。
「……おい。確かに負ぶってやるとは言ったけど、そこまでくっつく必要はないだろ」
「あるわよ。だって、こうでもしないと落ちちゃうかもしれないでしょ?」
「くっ!」
実のところ、俺はいくつかの大きな問題と直面していた。例えば、両腕に密着する肉付きのいい太ももの感触とか、ときおり首筋に吹きかけられる温かな吐息である。とりわけ背中に押し付けられた豊満な胸は悩ましいの一言に尽きる。俺が足を踏み出すたびにナベリウスの身体は上下に揺れて、むにゅん、むにゅんと柔らかな感触を伝えてくる。しかも絶妙な弾力があるものだから、押し付けられる際にベッドのスプリングのように何度も弾むのだ。
ことの始まりは、ふらふらの俺を見て、ナベリウスが冗談げに「わたしが負ぶってあげようか?」といかにもお姉さんぶった発言をしたことだ。それに男としての誇りを傷つけられたような気がした俺は、逆に見栄を張って「バカ。おまえが俺の背中に乗れよ」と口走ってしまったのである。その結果、荘圏風致公園から萩原邸までの短くも長い距離を、俺は彼女をおんぶして帰路に着くことになったのだが。
「夕貴さえよければ、いつでも好きなだけ触らせてあげるんだけどなー」
そう、俺はこいつの奔放すぎる性格を一瞬だけ忘れていたのだ。もう惑わされないと覚悟を決めていたはずなのに、紳士ぶろうとする理性とは違い、正直者の心臓は刻一刻とリズムを早めていく。
「さ、触らせるって、なにを……?」
「さあ、なんだと思う?」
ナベリウスは両腕でぐっと俺の身体を引き寄せて、たわわに実った乳房をこれでもかと押し付けてきた。強い圧力をかけられたふくらみは抜群の柔らかさを証明するようにぐにゅっとかたちを変えるが、それに匹敵する瑞々しい張りが作用することによって、元来の美しい丸みを保つことに成功している。
「どうしても分からないっていうなら、ナベリウスちゃんが分からせてあげよっか?」
艶然とした目で俺の顔を覗き込みながら、小さな紅い舌でくちびるをぺろりと舐めるナベリウス。蠱惑的な身体もそうだが、この女は仕草のひとつひとつに何ともいえない色気があって、男の本能を妙にくすぐってきやがるのだ。
しかし、侮ってもらっては困る。いつまでも銀髪悪魔に誑かされる俺と思ったら大間違いだ。日本でも指折りの名家の血をひく予知っ娘や、特殊な糸を用いた戦闘術を伝える家系に生まれた我らが師匠。そんな、お近づきになりたいのかなりたくないのかよく分からない女の子たちと過ごした日々が、俺の神経を図太くしていた。いまの俺ならば、ナベリウスの攻撃に耐えることもギリギリ不可能ではない。
「べつに我慢しなくてもいいのに」
ちょっぴり拗ねたようにそう言って、ナベリウスは前傾させていた上半身を立て直した。それに安堵しつつも、一抹の名残惜しさを感じてしまうのは男である以上、仕方がないのだろうか。
夜も深まった閑静な住宅街に、一人分の足音が響く。俺のやや荒い呼吸音と、彼女の穏やかな吐息。お互いの服が擦れあう音。風が吹いて、軒先から顔を出している若葉がざわざわと揺れる。見慣れた景色を歩きながら、俺は平穏を破る一言を口にした。
「……でも、厄介なことになったよな」
目の前に広がる、代わり映えのしない街並み。誰もが安心して眠っているだろう。夢を見たあとは必ず明日が訪れると信じているだろう。いろんな悩みや不安を抱えながらも、それぞれが掛け替えのない大切な毎日を生きているだろう。
だが、それを壊そうとしている奴らがいる。
「グシオンは……」
透き通った氷に小さな亀裂が走るように、静かで、どこか寂しげな音色でナベリウスが言った。
「バアルと同じぐらい、人間という生き物のことを見てた。昔から何を考えてるか分からないやつだったけど、それでもグシオンがいなければ人類はここまで発展しなかったでしょうね。……だからこそ」
俺の首に巻きついた二本の腕に力がこもる。
「あなたの父親とグシオンが分かり合うことは、最後までなかった」
果たして、ナベリウスがどんな心境で語っているのかは分からない。ただ、そこに憎しみはなかった。憎しみがないからこそ、彼女の声は辛そうだった。戦いたくないのに、戦わなくてもいいはずなのに、互いに譲れないものがあるから目を逸らすこともできない。もしも、負の感情だけに身を任せて相手を傷つけることができたなら、それはどれほど楽だっただろうか。
きっと何があっても、ナベリウスを俺を護ってくれるだろう。世界の全てが俺に牙を剥いても、彼女だけは味方をしてくれるはずだ。それと同様に、きっと何があっても、フォルネウスやベレト、そしてグシオンは己が道を突き進むだろう。たとえ、かつての同胞が牙を剥いても。
ほんの少し、悲しいなと思った。
「ねえ、夕貴」
声のしたほうに顔を向けると、俺の肩口からぴょこんと顔を出したナベリウスと目が合った。月明かりよりも繊細な銀色の瞳は、どこか不安げに揺れている。彼女は躊躇うように何度か口を開いたり閉じたりしたあと、訥々と語を継いだ。
「夕貴は、イヤだって思ったことある? バアルの、《悪魔》の血を引いてさえいなければ、こんなことにはならなかったのにって」
「それは……」
ない、と言えば嘘になってしまうかもしれない。たまに想像することがあるんだ。理不尽な暴力のない毎日を。《悪魔》の血とは無縁の自分を。父さんは普通の人間で、母さんもただの専業主婦。大学に進学した俺は、友人に誘われた初めての飲み会でお母さんのことが大好きな女の子と出会い、自然と恋に落ちる。やがて就職して、愛する女性との間に子供もできて、家族のために働くことを生きがいとする人生。そんな未来があってもよかったと、たまに思うときがあるんだ。
だが、それは都合のいい妄想だ。ありえたかもしれないだけで、結局はありえなかった未来だ。悲しくて、辛くて、泣いて、逃げ出したくて、それでも前を向いてここまで来た。いや、何度も転びそうになる俺をとなりで支えてくれた人たちがいた。だから。
「……ないな。イヤだなんて思ったことない」
首を横に振って、俺は断言した。ナベリウスは目を丸くしたあと、勢いよくまくし立てる。
「ほんとうに? だって、夕貴はいっぱい傷ついたでしょう? こんなことが、これからもずっと続くかもしれないのよ?」
「バカ。そんなのどうだっていいんだよ」
家に帰れば、俺を待ってくれてる人がいる。その事実に勝る苦痛なんてない。この先、どんな悲劇に見舞われても、俺は諦めないと自信をもって云える。
「それに、さ……」
夜空を見上げて、一度だけ深呼吸。熱っぽい吐息が薄闇に溶けていくのを見届けてから、俺はありのままの心情を吐露した。
「もし俺に父さんの血が流れていなかったら」
優しく、どこか懐かしい温もりを背中に感じる。
「……きっと、おまえとも出会えてなかったからな」
それを大切だと、絶対に手放したくないからと、俺は抱える手に力を込めた。
「……バカ」
俺の肩で口元を隠しながら、ナベリウスは小さな声で言った。視界のすみに映る彼女の頬は、ほんのりと赤くなっている。ちゃんと向かい合って顔が見たいと、そう思った。
「……夕貴のバカ」
何度も彼女は繰り返した。いつものナベリウスからは想像もできないほど幼く、まったくもって腹の立たない罵倒だった。
しばらくして、大きな大きなため息が聞こえてきた。かぶりを振る気配。長い銀髪が揺れて、心地のいい匂いが鼻腔を掠める。
「……でも、そうよね。夕貴は、もう男の子じゃない。一人の立派な男だもんね」
「今頃気付いたか。言っとくけど、俺はずっと前から男らしいからな」
「うん。あのときとは逆になっちゃった。背中だって、いつの間にかこんなに大きくなってるから」
言ってから、身体の力を抜いてしなだれかかってくる。余計な力が入っていないからか、あれだけ俺の心を乱した乳房の感触も、いまはさほど伝わってこない。俺の首筋に顔を埋めて、彼女はじっとしていた。少しずつ呼吸の間隔は長くなり、身じろぎの回数が減っていく。
「眠たかったら寝てもいいぞ。着いたら起こしてやるから」
返事はなく、代わりに穏やかな寝息が聞こえてきた。よほど疲れが溜まっていたのだろう。俺のためとは言え、かつての同胞と殺しあったのだ。これで疲弊しないほうがどうかしてる。
「一人の立派な男、か……」
なるべく静かに歩きながら、すこし引っかかった言葉を反芻する。いざ他人から言われると、あまり馴染まない表現だ。それはきっと、俺がまだまだガキで、ほんとうの意味で大人じゃないからだろう。
だから、この大切な温もりを背負えるだけの強さが欲しい。これから帰る家を、一緒に暮らすみんなを、ずっと背負っていけるような強さが。
諦めずに走り続ければ、いつかは父さんの背中に追いつけるのだろうか。男は母親に似るという。俺の容姿が母さん譲りなら、果たして、父さんからは何を受け継いだのか。
――あなたのなかに流れる血はだれにも負けない。
託哉たちが泊まった夜、月のきれいな庭先でナベリウスはそう言っていた。不思議なものだ。彼女の言葉を思い出すだけで、胸中に巣食う迷いが晴れるのだから。
――きっと夕貴はなんでもできるわ。
他でもない、父さんのことを深く知る彼女が、俺を認めてくれているのだ。
――友達を助けることも、母親を護ることも、好きな女の子と添い遂げることも。
ゆえに忘れるな、と彼女は言った。なぜなら、俺が父さんから受け継いだ力は。
――多くの人を護れる代わりに、大切な人を――
「……大切な人を」
そこで俺は歩みを止めて、過去の想起にのみ意識を集中した。掘り起こした記憶には、看過できない決定的な欠落があったからだ。時間を遡って、欠けた言の葉を追憶する。しかし。
……思い出せない。あのとき、彼女が続けた言葉が、どうしても思い出せなかった。
無理もないと思う。眠りの淵に落ちる寸前の人間に、まともな記憶を期待するほうが間違ってる。それにほんとうに大事なことなら、ちゃんと面と向かって伝えるはずだ。つまり、ナベリウスが口にした言葉はそれほど重要ではなかったということだろう。
うまく言い表せない気持ち悪さに蓋をして、俺はふたたび歩き出した。規則的な寝息を立てる彼女を起こしてまで、わざわざ聞くほどでもないことだと。
このときの俺は、そう思っていた。
****
カチカチと時計が鳴っている。何もかもが静かだった。無機質な音を刻む秒針だけが、立ち込める静寂に影を差している。窓辺のカーテンは揺れることなく内と外を遮断しており、空調のかかっていない室内は、風の凪いだ外と比べても幾分か暑い。
誰もいないリビングのソファに腰掛けて、高臥菖蒲は行儀よく揃えた膝のうえでぎゅっと手を組み合わせていた。胸騒ぎが止まらない。とても嫌な予感がする。カチカチと時計が鳴っていた。
【高臥】の家に生まれ、未来予知の異能を受け継ぐ菖蒲は、その副次的な効用からか人よりも直感に優れたところがあった。吉兆にしろ凶兆にしろ、その前触れを少しでも感じ取ったら当たってしまうことも少なくない。ゆえに菖蒲の面持ちは暗く沈んでいた。せめて彼だけは無事でありますように、と、じっとりと汗の滲んだてのひらで祈っていた。
夕貴が家を出てから、もう半日以上が経過している。気付けばナベリウスの姿もなく、がらんとした家のなかは水を打ったように静まり返っている。とりわけリビングは、ゆとりのある広さが裏目に出て、寒気さえ感じるほどの寂寥感が充満していた。自室に閉じこもっているよりは気持ちも晴れるだろうと思っての判断だったが、どうにも芳しくない。とは言え、いまさら部屋に戻るのも億劫で、菖蒲は飛びかたを忘れた小鳥のようにソファに留まっていた。
多くは望まない。ただ、夕貴に帰ってきてほしい。無事な顔が見たい。おかえりなさいませと温かく出迎えてあげたい。しかし、なぜか菖蒲には、その願いがとても儚いものに思えてならなかった
ぼんやりと虚空を見つめていた菖蒲が微かな足音を耳にしたのは、そんなときだった。
「あやめ。まだ起きてる」
抑揚のない声のしたほうに視線を向けると、リビングの入り口に美影が立っていた。ポニーテールに結わえた長い黒髪と、左目の下にある憂いを湛えた泣きぼくろ。抜けるような色白の肌は、清潔感や透明感を越えて神秘的な趣さえ感じられる。これで愛想笑いの一つでも身につければ間違いなくたちの悪いことになるが、美影がいちいち他人の顔色を伺うような少女でないことを周りの者たちはよく知っていた。
「そろそろ部屋に戻って寝たほうがいい」
美影の声色は冷たかったが、それなりに付き合いの長い菖蒲は、彼女の気だるげな眼差しのなかに垣間見えるほんの僅かな優しさを見逃さなかった。
「……いえ。今夜はベッドに入っても眠れそうにありませんので」
現れた気配が待ち人ではなかったことに思わず落胆してしまう自分に嫌気を感じながらも、菖蒲は、なんとか笑顔を取り繕って気まぐれな猫を思わせる同居人を遇する。
「べつに心配しなくても、どうせ夕貴はすぐ帰ってくる。ついでにヘンタイ女も」
「やっぱり、美影ちゃんも心配なのですか?」
「ぜんぜん。まったく。これっぽっちも。あいつらなんか帰って来なくてもいい」
手をぶんぶんと横に振って力強く否定する美影。ひどい言い草だったが、しかし菖蒲は気付いていた。普段は三階にある自室に引きこもってほとんど下に姿を見せない美影が、今夜に限ってはなぜか意味もなく一階付近をうろついていることに。口には出さないし、態度からも分かりづらいが、もしかすると彼女も夕貴とナベリウスの身を案じているのかもしれない。そう考えると、自然と笑みがこぼれた。
それからしばらく他愛もない話をしていると、どこからともなく単調な電子音が響いた。美影は会話を中断し、ポケットから携帯電話を取り出した。どうやら電話ではなく、メールのようだった。
「夕貴様ですか?」
逸る自分を抑えつつ、菖蒲は言った。すると、美影はすぐに違うと答えた。ではだれなのか、と再度聞くと、美影は逡巡するような素振りを見せてから口を開いた。
「……壱識千鳥。私の母親」
じっと液晶を見つめる美影の顔は、携帯が鳴る前よりも幾分か冷たくなっていた。
詳しい事情は知らないが、夕貴から伝え聞いた話と本人からのおぼろげな情報をもとに推測すると、美影と母親の仲はそれほど良好ではないはずだった。少なくとも、菖蒲の知るかぎりでは、美影が萩原邸に来てから母親と連絡を取ったことはまったくと言っていいほどない。
それなのに、いったいどうしてこのタイミングで?
言いようのない感情が菖蒲の胸をぎゅっと締め上げる。事態が悪いほうへと転がっているような気がしてならなかった。
菖蒲は何も言えず、美影は何も言わない。リビングに再び静寂が訪れた。カチカチと時計が鳴っていた。
「……リチャード・アディソン」
母からの文面に目を通していた美影が、ふいに小さな声で呟いた。
「え? リチャ……なんですか?」
「なんでもない。リチャ、リチャ……そう、自転車の新しい呼び方」
「えっと、美影ちゃん? さすがにチャリのほうが呼びやすいような気がするのですけれど……」
「あやめのセンスは夕貴並み。これ、きっと流行る」
間違いなく流行らないと菖蒲は思ったが、それ以前になんとなく誤魔化されたような気がしたので話を戻そうとすると、すでに美影はこの場を切り上げようとするかのように携帯をしまって背を向けていた。
「あやめも、部屋に戻ったほうがいい」
さきほど丁重に断ったはずの提案を、美影はふたたび口にした。
「……ごめんなさい、美影ちゃん。やっぱり、わたしはここで夕貴様とナベリウス様のお帰りを待っていたいのです」
菖蒲は胸に手を当てて真摯に告げた。男なら見蕩れ、女なら憧憬するその佇まいに、しかし美影はため息で応えた。
「鏡、見てきたほうがいい。そんな顔したあやめを見ても、夕貴は喜ばない」
いまいち美影の言っている意味が分からず、菖蒲は答えを探すように視線を泳がせた。そして、電源の入っていないテレビの液晶を見て、そこに写った自分の顔を見て、ようやく気付いた。不安と緊張と疲労がない交ぜになった、病人のように覇気のない女の顔。確かにこれでは夕貴を出迎えた瞬間、逆に心配されてしまうだろう。
夕貴とナベリウスが帰ってくるまで眠るつもりはない。だが、それでも最低限の休息は取っておくべきだ。友人に気を遣わせてまで張る意地は、きっとどこか間違っている。だから、いまは少しだけ休もう。夕貴を出迎えるときは、なるべく自然に微笑んでみせたいから。
「……そうですね。美影ちゃんの言うとおり、かもしれません」
「ストレスは美容の敵って、ヘンタイ女が言ってた」
まさか美影から美容という言葉を聞けるとは思わなかった菖蒲は苦笑した。それが気に入らなかったらしく、美影は「むー」と不満そうな唸り声を上げて去っていく。
「……美影ちゃん」
その背中を呼び止める。不躾と分かっていながらも菖蒲は聞かずにおれなかった。
「お母様からは、なんと?」
「……あやめには関係ない話」
突き放すように言って美影はリビングから去っていった。釈然としなかったが、そもそも壱識家の事情に菖蒲が関係するはずもないので、これはこれで正しい帰結なのだろう。
階段を上がっていく足音を耳にしながら、菖蒲もいったん自室に戻るために歩き出す。とても静かだった。となりに誰もいないというだけで、世界はこんなにも味気なくなるのだと菖蒲は知った。
停滞した家のなかで、時計の秒針だけがカチカチと無機質に時を刻んでいた。
****
オフホワイトの三階建ての家屋と、敷地のそとからでも伺える広々とした庭。萩原の表札がかかった我が家は、いつもと変わらない顔で俺たちを待っていた。その見慣れた佇まいを前にした途端、張り詰めた緊張の糸が一気にほどけて、深い安堵が去来した。
ロックを解除して玄関を潜る。萩原邸はしんと静まっていた。廊下の明かりはついているが、生活音の類はまったくない。いつもなら菖蒲が満面の笑みとともに出迎えてくれるのに、靴を脱がずに十数秒ほど待ってみても何も聞こえてこない。ぱたぱたとスリッパが駆け寄ってくる音も、おかえりなさいませと弾む温かな声もしない。菖蒲が出迎えてくれないと、なんだか家に帰ったような気分にならないなと思った。
それからすぐに階段の上から足音が降ってきた。ぺたぺたと素足で下りてきたのは、長い黒髪と色白の肌が特徴的な少女である。母親譲りの美貌と、胸元には御影石のペンダント。
「……美影か。やっぱりまだ起きてたんだな。菖蒲は?」
「知らない。たぶん部屋」
そっけなく答えてから、美影は日常に紛れ込んだ異質なものを見定めるかのように目を眇めて、血に濡れた俺とナベリウスの身体を注視した。
「それ、なにがあったの」
普段とはまとう気配が完全に違う、彼女の母親を彷彿とさせる大人びた顔だった。俺たちが持ち帰った暴力の残り香が、美影の危機感にスイッチを入れたらしい。
しかし、問われた俺は早々に返す言葉を持たなかった。今夜に起こった出来事のすべてを上手く語れるほど、俺は事態の全貌を理解しているわけじゃない。いまだ混乱を引きずったままの頭で継ぎ接ぎの情報を整理して美影に伝えるのは、ひどく疲れる作業だった。
「んー、さすがのナベリウスちゃんも今夜は疲れちゃったなぁ」
そのとき、わざとらしいぐらいの大きな伸びをしてナベリウスが一歩前に出た。それがあまりにも緊張感のない砕けた態度だったものだから、俺は呆気に取られたあと苦笑した。重苦しい空気を意に介さないマイペースな言動は実に彼女らしい。
しかし、ナベリウスの奔放さを疎ましく思う少女もいた。
「あれ、どうしたの美影ちゃん。そんなに怖い顔してたらせっかくの美人も台無しよ?」
「うるさい。邪魔」
「ひどいわね。このわたしを邪魔者扱いするのなんて、夕貴ぐらいと思ってたのに」
「夕貴とかどうでもいい。いま一番邪魔なのはおまえ」
「お、おい。落ち着けって」
二人の温度差がかけ離れていくのに見かねた俺は、彼女たちの間に割って入った。ナベリウスはともかく、非常事態であることを踏まえても美影の様子がいつもより刺々しい気がするのだ。
「喧嘩してる場合じゃないだろ。ナベリウスもあんまり美影をからかうなよ」
「ふーん。夕貴は美影ちゃんの味方なのね」
「だから、そういう問題じゃ……」
「ええ、確かにそういう問題じゃないわね」
ナベリウスは一転して冷静な顔で、俺と美影を交互に見た。
「分かっているなら話は早いわ。よく考えなさい。こんなところで立ち話をするほど追い詰められてるわけでもないでしょう。夕貴も美影も、順序を間違えないで」
思わず、はっと息を呑んだ。ナベリウスの気遣いに、ではない。彼女に気を遣わせてしまったことに気付けなかった自分が、信じられなかったのだ。
美影にも思うところがあったらしく、彼女は複雑な面持ちのまま何かを考えるかのようにじっとナベリウスを見つめていた。やがてちらっと廊下の奥を、俺の勘違いでなければ菖蒲の部屋のあたりを見てから、意を決したように顔を上げて言う。
「ヘンタイ女。こっち来い」
「え、わたし?」
唐突に名指しされて呆けた声を上げるナベリウスに頷きを一つ返し、美影は権高に顎をしゃくって階段のほうを指した。
「まずは治療から。簡単な手当てならできる」
「あら、急に殊勝になっちゃって。いったい、どういう風の吹き回し?」
「勘違いするな。おまえなんか嫌い」
不機嫌そうにぷいっとそっぽを向く。
「ヘンタイ女はいつか私が倒す。それだけ」
むっつりとした美影らしい物言いに、俺とナベリウスは顔を見合わせて頬を緩めた。一気に緊張が緩和して、張り詰めていた空気は和やかになった。
「むー」
いきなり笑い出した俺が気に入らないらしく、美影は猫のような唸り声を上げて近づいてきた。
「……てい」
ぼすっ、と間抜けな音を立てて、力も腰も入っていない拳が俺のわき腹に突き刺さる。もちろん、まったく痛くなかったが、暴力を振るわれる理由が相変わらず分からなかった。
「だから何がしたいんだよ、おまえは」
「知らない」
踵を返して階段のほうに歩いていく。その背を、俺は呼び止めた。
「あ、美影」
長い黒髪を揺らしながら怪訝そうに振り向いた彼女に歩み寄り、俺はずっと伝えようと思っていたことを口にした。
「ありがとうな。おまえに鍛えてもらったおかげで助かった。師匠としては、こんな不出来な弟子じゃ不満かもしれないけど、よかったら今後もいろいろと教えてくれると助かる」
あのフォルネウスと戦って生き延びることができたのは、間違いなく美影との特訓があったからだ。自分よりも年下の女の子を師匠と呼ぶのは相応しくないかもしれないが、しかし戦闘において彼女は尊敬に値する逸材だった。
「師匠……」
ぽつりと呟いてから、黒髪の先っぽをちょこちょこといじる。
「夕貴がどうしてもって言うなら考えないこともない」
「じゃあ、どうしてもだ」
「私を師匠と呼ぶなら考えないこともない」
「これからもよろしくな、師匠」
「べつに夕貴とかどうでもいい」
「そっか。俺は美影のこと尊敬してるのにな」
「むー」
どうやら俺の素直さが逆に不本意だったらしく、頬が微かに膨らんだ。
「……夕貴、嫌い」
そんな態度ですらも楽しく、温かかった。実を言うと、俺はこいつと意味の分からない話をだらだらと続けるのが嫌いじゃないのだ。
もうおまえなんかと話すことはない、とでも言うように、ポニーテールを揺らす背中は足早に去っていく。今度は引き止めず、代わりに忘れていた言葉を投げかけた。
「ただいま、美影」
ほんの一瞬、彼女は足を止める。そして、また何事もなかったかのように歩き出し、階段を上っていった。足音に混じって何か小さな声が聞こえたような気がした。
「まったく、素直じゃないんだから」
ナベリウスは肩をすくめて美影のあとを追っていく。反射的に俺も歩き出すと、彼女は行く手を遮るように立ち止まり、ゆっくりと首を振ってみせた。流れるような銀髪が優しく揺れた。
「夕貴には夕貴のするべきことがあるでしょう?」
仕方のない弟を諭すような口調でそう言って、ナベリウスは悠然と歩み去った。しばらくすると上のほうから「とっとと服を脱げ。ヘンタイ女」とか「あれー? わたしにそんな口をきいてもいいのかなー?」とか「ち、近づくな! 離せー!」とか、姦しい会話が聞こえてきた。なんだかんだ言って、あいつらって実は仲がいいように思えるのは俺の気のせいなのだろうか。
静かになった玄関に佇みながら、俺はナベリウスが口にした言葉の真意を考えていた。夕貴には夕貴のするべきことがあると、彼女は言っていた。
……いや、考えるまでもない。ほんとうは分かってるんだ。美影がナベリウスだけを誘った理由が。ナベリウスが俺に伝えた言葉の意味が。
なぜなら、俺には美影のほかにもう一人、ただいまを言わなくちゃいけない人がいるから。
「……夕貴様」
ゆっくりと振り向いた先に、だれよりも会いたくて、だれよりも会いたくなかった人がいた。緩やかなウェーブを描く、鳶色の髪。おっとりとした優しい性格を反映するかのように、いつも眠気を湛えた瞳。老若男女を問わずに魅了する、年相応のあどけなさを残した淑やかな美貌。古くから続く由緒正しい大家の一人娘。高臥の少女。
菖蒲は、いまにも泣き出しそうな顔で俺を見つめていた。
****
おかえりなさいませ、と喉元まで出かかった言葉は、夕貴の身体に刻まれた暴力の爪痕をまえにして無価値だった。
堰が壊れたように溢れる感情を、菖蒲はせき止めるのに必死だった。すぐそばに大切な人がいるのに、心はまるで温かくならない。一人が二人になっても、リビングは痛々しいほど静かだった。カチカチと時計が鳴っていた。
菖蒲と夕貴はソファに並んで腰掛けていた。会話はなく、冷たい沈黙だけが二人の距離を隔てている。いつもなら自然と出てくる言葉が、意識せずとも触れられる身体が、いまは果てしなく、遠い。
ツンと鼻をつく消毒液の匂いに埋もれながら、菖蒲は何も言わずに手を動かしている。女性特有の艶やかな肌には赤黒い血がこびりつき、元の白さも相まってひどく痛々しい。彼女が受けてきた淑女としての教育も、さすがに怪我の治療の方法まで網羅することはなく、その手つきは不器用でぎこちなかった。
夕貴の身体は素人目に見ても酷い有様だった。ボロボロだったシャツをハサミで切り裂いて裸の上半身を見た瞬間など、気を失いそうになったほどである。血と痣に覆われた肌は、もはや白よりも赤と紫の割合のほうが多かった。明らかにただ事ではなく、それゆえに菖蒲はやるせなかった。何かよくないことが起きているのは明白なのに、自分はあまりにも無力だ。こうして傷ついた彼の身体を看てあげることしかできない。それすらも満足に行えているとは言えなかった。
「……もう、いいって」
どれほどの間、沈黙が続いていただろう。きっかけとなったのは夕貴の掠れた声だった。余計な心配をかけたくないのか、それとも泣きそうになりながらも治療を続ける菖蒲を見ていられなくなったのか。その答えは夕貴の辛そうな表情のなかにある。
「菖蒲も知ってるだろ。俺は普通の人間じゃない。この傷も、ちょっと時間はかかるだろうけど自然に治る。だから、もういいんだ」
それは紛れもない真実だった。菖蒲の常識に鑑みても、夕貴は負っている怪我の度合いに反して身体活動に支障がなさすぎる。意識もはっきりしているし、内臓や骨も無事のようだ。肌の各所に散見される擦過傷や打撲も、きっと、そう時間をかけずに治癒するのだろう。いまさら驚くほどのことでもない。彼が人外の血を引いていることは菖蒲も知っていた。
だが、これは理屈ではなく感情の問題だった。菖蒲の不慣れな治療が、夕貴の身体に微々たる恩恵しかもたらさないことは分かっている。それでも、傷ついた夕貴をまえにして指をくわえて見ているだけなど菖蒲にはできなかった。できないからこそ、そんな彼を癒してあげられない無力な自分に涙がこぼれそうだった。
「……お思いですか」
絶えず動かしていた手を止めて、菖蒲は呟いた。俯きながら、溢れる感情を押し殺すように唇を噛み締めて。
決して、夕貴と目を合わそうとはしない。
「このような痛々しい傷を負った夕貴様を見て、菖蒲がなにも感じないと……お思いですか?」
一言一句を搾り出すように告白すると、夕貴はわずかに息を呑んだあと気まずそうに視線を逸らした。物憂げであっても凛々しく、女性的な美しさを湛えた彼の横顔を見て、こんなときなのに菖蒲は思った。やっぱり愛しいと。
「夕貴様がお辛い思いをなさっているのに、菖蒲には何もできません。無知で、無力で、世間知らずで……夕貴様のおそばにいさせて頂く資格は、菖蒲にはないのかもしれません」
「それは考えすぎだ。そこまで思いつめなくてもいいって。菖蒲はじゅうぶんやってくれてるよ」
夕貴の言葉を受けて、菖蒲は己が感情を反芻するかのように押し黙ったまま、しばらく視線を泳がせていた。カチカチと時計だけが鳴っていた。
「……あのときも、そうでしたね」
そう、小さな声でつぶやいて手元に視線を落とす。菖蒲の白い肌には、乾いた血が染みのようにこびりついていた。その赤い色が、いつかの光景を強く思い起こさせる。
「いまでも鮮明に憶えています。夕貴様のお体から流れる血を。力なく横たわる夕貴様を。何もできず、ただ諦めようとした自分を。忘れようとしても、忘れようとしたのに、どうしても忘れられません」
かつて菖蒲が誘拐されたとき、真っ先に駆けつけてくれたのは夕貴だった。しかし、そのせいで夕貴は凶刃に倒れることとなり、一時は死の危機にまで瀕したのだ。
夕貴は芯の強い少年だ。また菖蒲の身に何かあったら、きっと彼は火の中にだって迷わず飛び込むだろう。そして菖蒲は、囚われのお姫様を気取って救いの手を待つことしかできないだろう。それが分かるからこそ嬉しくて、辛かった。
「菖蒲はもう、傷ついた夕貴様を見たくないのです。たとえそれが菖蒲のためであっても、夕貴様が血を流すのは嫌なのです」
必死に感情を押し殺した抑揚のない声。
「けれど……」
それが叶わぬ願いであることは、他でもない彼女自身が一番よく知っていた。
「菖蒲が何を言っても、夕貴様は戦うのでしょうね」
だって、優しいから。
「夕貴様は、悲しくなるぐらい優しすぎますから」
そして、そんな夕貴だからこそ、菖蒲は愛したから。
「……違う。俺は、おまえが思ってるほど出来た男じゃない。ほんとうに優しいのは菖蒲だ。何も聞かず、こうしてそばにいてくれるんだから。おまえが、みんなが一緒にいてくれる事実に勝る苦痛なんてないんだよ」
嘘だ、と確かな否定の声が、菖蒲の心を強く揺さぶった。
「そんなの……嘘です」
何も聞かなかったのではない。何も聞けなかっただけだ。夕貴を困らせたくなかったし、菖蒲には彼を支えるだけの力がないことは嫌になるほど分かっていたから。
心配だった。失いたくなかった。これから先、ずっと彼と一緒に歩いていきたかった。みんなのためなら平気で血を流す彼を、となりで支えてあげたかった。それが上手くできないから、菖蒲は少しだけ自信をなくしている。これはそれだけの話なのだ。
伝えたい心情はこんなにもはっきりしているのに、どうして言葉にすればするほど違っていくのだろう。傷ついた夕貴に何もしてあげられない自分がもどかしいだけなのに、どうして素直に彼の言葉を受け入れられないのだろう。
とめどなく溢れる想いが、ひたすらに苦しかった。
好きになればなるほど、心はこんなにも思い通りにならないから。
「そんなの――嘘です!」
悲痛な声とともに感情が弾けた。菖蒲は顔を上げて、濡れた瞳で夕貴を見つめた。ようやく二人の視線は交わったのに、彼と彼女の想いは平行線のまま交錯する兆しを見せない。だから、カチカチと時計が鳴っていた。
「わたしは何の役にも立ってません! 夕貴様はきっと、わたしがいなくてもやっていけるはずです! だって、だって!」
自分の気持ちを繕うこともできない菖蒲とは違い、夕貴には戦うための力があるのだから。
「わたしにもナベリウス様のような力があればよかった! 美影ちゃんのように強ければよかった! そうすれば、夕貴様のお力にもなれたのに! こんな想いをすることもなかったのに!」
しとどに流れる涙を拭いもせず、夕貴の胸元に縋りついて菖蒲は叫ぶ。荒くなった呼吸が、乱れて頬にかかる髪が、彼女の必死な想いを物語っていた。
「こんな、に……!」
自信がなかった。武の心得がなく、怪我を満足に治療することもできない自分を、夕貴が好きでいてくれるのだろうかと。考えても考えても分からない。どうして彼は菖蒲を大切にしてくれるのだろう。由緒正しい家柄だから? 容姿が美しいから? 大人しい性格だから?
それとも、菖蒲が――
「こんなに、好きなのに……!」
――わたしとあなたは結ばれる未来にありますと、勝手なことを言ってしまったから?
彼を想う気持ちは誰にも負けないつもりなのに、現実は無情だった。温室で育ってきた菖蒲は、知識に反して経験が少なすぎた。家事の腕はナベリウスに劣るし、夕貴と美影が庭で特訓しているのを見ていつも羨ましいと思っていた。萩原の家で暮らす者のなかで自分だけが何の役にも立っていないと、常日頃から水面下で少しずつ育まれていた劣等感がここにきて一気に肥大し、涙となってこぼれたのだ。
やがて室内は静かになった。菖蒲の微かな嗚咽と吐息だけが聞こえる。自分が作り出してしまった空気に耐えられず、菖蒲はゆっくりと夕貴から目を逸らした。果たして、彼はどう思っているだろう。困惑ならまだいい。もし失望されてしまったら、と思うと、また涙が出そうだった。
「……わたしは、もっと夕貴様のお役に立ちたい。ずっと夕貴様を支えて差し上げたい。でも、わたしにはできないことが多すぎるのです」
端的に言えば、菖蒲は悔しいのだろう。夕貴と同じく、戦うための力を持ったナベリウスと美影が羨ましいのだ。あるいは自分だけが無力だと拗ねているのかもしれない。それは考えすぎであると同時に、菖蒲にとっては動かしようのない事実だった。
「バカだな、菖蒲は」
淑女としては無様に過ぎる醜態を晒した菖蒲を、しかし夕貴は笑顔で包んだ。
「……確かに菖蒲はバカですけど」
そこまではっきり言わなくてもいいではありませんか、と唇を尖らせて子供のように呟く。もうここまで来れば逆に自分の愚かしさを開き直るだけの余裕も出てきた。さきほど思いの丈を叫んだことが功を奏したのか、気持ちもかなり落ち着いていた。
「ああ、菖蒲はバカだ」
もう一度だけ夕貴は言った。
「いちいち俺の役に立とうなんて考えるなよ。俺たちは損得勘定で付き合うほど打算的な関係じゃないだろ。それに」
おまえにはおまえだけにしかできないことがあるよ、と言って、夕貴は壊れ物を扱うような手つきで菖蒲の細い身体を抱きしめる。腕にはほとんど力がこもっていないのに、なぜか抜け出すことができなかった。
「そばにいてくれるだけでいいんだ。この家で、俺の帰りを待っていてほしいんだ。俺にとっての日常は、菖蒲におかえりを言ってもらうことなんだから」
ふと、思った。
戦う力を持ったナベリウスや美影が夕貴の”非日常”を支えるなら、果たして、彼の”日常”を象徴するのは誰なのだろう。
帰りを待つ。この家で、みんなの帰りを待つ。それは戦う力のない菖蒲だからこそできることだと――
「それでも、おまえはまだ嘘だって言うのか? 自分が何の役にも立ってないって、おまえがいなくても俺はやっていけるって思うのか?」
問いかける声は怯えていた。抱きしめる腕が震えていた。自分のことで精一杯だった菖蒲は、ここにきてようやく気付いた。彼女だけでなく、夕貴も等しく不安を抱えていることに。
「俺は弱い人間だ。男らしいとか言ってるけど、実際は女々しくて頼りない男だ。自分一人の力じゃ何もできない。だから菖蒲が……みんながいてくれないと困るんだよ」
強く、強く抱きしめられる。
「菖蒲がいない家になんて、帰りたくねえよ……」
母親に縋る子供のような弱々しさで夕貴は囁いた。
「それは……」
ほんとうですか、と続けようとした言葉を飲み込んで、菖蒲は己の不粋を恥じた。夕貴が吐露した想いの真贋を見極められないようであれば、それこそ彼のそばにいる資格はないだろう。
言葉にしなければ伝わらない想いはある。でも、それと同じぐらい、言葉にしなくても伝わる想いもあるはずなのだ。
「夕貴様」
「なんだ?」
「おかえり……なさいませ」
夕貴の胸に顔を埋めたまま菖蒲は言った。それは遅すぎた言葉だった。いまさらすぎる挨拶だった。しかし、なぜか菖蒲は言いたくて言いたくてたまらなかった。きっと夕貴と同じように、菖蒲にとっての”日常”は彼におかえりなさいませと言うことなのだろう。
夕貴は、ほんとうに嬉しそうに苦笑した。
「ああ。おかえり、菖蒲」
その一言が大切だった。絶対に手放したくない響きだった。また落ち込んでしまうかもしれない。また子供みたいに泣いて彼を困らせてしまうかもしれない。時には他の女の子に嫉妬して、淑女としてはしたない姿を見せてしまうかもしれない。それでも、夕貴にならどんな自分を見せても構わないと思った。人はこの感情を愛と呼ぶのだろうか。その答えを知るには菖蒲はまだ幼く、知識も経験も足りなかった。
ただ、ひたすらに強く願うのだ。これからもこの人とずっと一緒にいたいと。だから、菖蒲は何も言わず、そっと夕貴に体重を預けた。誰もいないリビングのソファで二人は静かに寄り添っていた。あれだけ冷たかった空気が嘘のように触れ合う肌は熱かった。
身体だけでなく、心も触れ合わなければ温かくならないと菖蒲は知った。
どれほどの間、抱き合っていただろう。菖蒲が目を閉じて静謐に身を任せていると、ふいに夕貴は寄りかかる身体を優しく引き離した。名残惜しそうに菖蒲が見上げると、夕貴は照れくさそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、とくん、と胸が熱くなり、どうしようもなく呼吸が苦しくなった。
自然とまぶたが重くなる。彼の瞳に吸い寄せられるように、ゆっくりと顔が近づいていく。甘い吐息が鼻先を掠めて、熱に浮かされたように全身が火照った。いつの間にか菖蒲の両手は、夕貴の胸板にそっと添えられていた。そんな彼女を受け入れるかのように、夕貴は細くくびれた女の腰に手を回した。時間が一瞬にも永遠にも感じられて、世界が彼と彼女で飽和した。
「じー」
そのとき、何やら不穏な視線を感じた二人はぴたりと動きを止めた。ゆっくりと振り向くと、物陰から顔をぴょこんと出している美影と目が合う。その途端、夢が醒めたように冷静になった菖蒲は、人の目があるリビングで必要以上に夕貴と近しい距離にいて、なおかつ抱き合いながら甘い行為に身を委ねようとしていた自分に気恥ずかしさを覚えた。どうやらそれは夕貴も同じだったらしく、二人は弾かれたように距離を取って、そそくさと佇まいを直した。
「み、美影ちゃん。おはようございます。今夜もお月様がきれいですね」
気が動転して支離滅裂なことを言う菖蒲。そんな彼女には任せておけないと思ったのか、ひたいに脂汗を浮かべた夕貴が妙に愛想のいい笑みを浮かべた。
「おまえ、そんなとこで何してんだよ。もうナベリウスはいいのか?」
「じー」
「俺たちも、ほら、もう大体の応急処置は終わったとこなんだけどな」
「じー」
「だから、なんていうか……なぁ?」
「じー」
菖蒲から見ても夕貴は挙動不審だったが、それ以上に美影の態度が気になった。なぜか妙に機嫌が悪いように見えるのだ。
「美影ちゃん。なにかあったのですか?」
「……ふん」
心配になって訊ねると、美影は冷たい目で菖蒲を一瞥してからこれみよがしに顔を背けた。その反応を見て、夕貴は小さく首を傾げていた。
菖蒲が「うぅ、美影ちゃんに嫌われちゃいました……」としょんぼりしていると、その居心地の悪い空気を打ち壊すように、軽快な足取りでナベリウスが姿を見せた。さらさらとこぼれる長い銀色の髪に目を奪われるが、よく見れば肌の各所からは包帯が覗いている。
「あちゃあ、もしかして修羅場? とうとう夕貴の悪事が日の目を見ちゃったかー」
「……おい。俺を女たらしみたいに仕立て上げるのは止めろ」
「違うの? いつもわたしのおっぱいをチラチラ見てるのに?」
「べ、べつに見てな……いや待て、頼むからこれ以上ややこしくするな!」
とても気になる発言があったので、菖蒲はあとでたっぷりと本人から話を聞こうと思った。
「まあ、べつにいいんだけどね。夕貴がどこを見ようが夕貴の勝手なんだし」
言ってから、ナベリウスは腕を組んだ。かたちのいい豊かなバストが強調されて、薄手のシャツを大きく盛り上げる。その魅惑的なふくらみに夕貴の視線が吸い寄せられた一瞬を菖蒲は見逃さなかった。ほらね、とナベリウスが呟いた。
「異議ありです! いまのは聞き捨てなりません! 夕貴様が見ていいのは一人だけだと思います!」
慌てて立ち上がって声を張り上げる。菖蒲は気付いていなかった。ソファから身体を起こす際、ナベリウスを上回る豊満なふくらみが大きく揺れたことに。そして、それを夕貴がちらっと見ていたことに。
「夕貴が見ていいのは一人だけ? それってだれのこと?」
意地悪く口端を歪めながら、ナベリウスはわざとらしく問いかけた。まさか自分だと堂々と宣言するわけにはいかず、菖蒲は顔を赤くしてかぶりを振る。
「そ、それは……秘密です!」
「まさか自分だなんて言わないわよね。菖蒲がそこまで自惚れちゃってるとも思えないし」
「自惚れてるとは何ですか! 夕貴様はわたしの夕貴様なのです! いくらナベリウス様でもこれだけは譲れません!」
「でも秘密なんでしょ? ほんとうに愛してるなら、声を大にして言ったらいいのに。夕貴が見ていいのはわたしだけです、ってね。まあ今時、そんなふうに束縛されて喜ぶ男がいるとは思えないけど」
「うー! もう怒りました! 意地悪なナベリウス様なんて知りません!」
「待て待て! おまえらはなんで喧嘩してるんだ!」
二人の間に割って入って夕貴は仲裁に努める。しかし、ついさっきまでの名残もあり、夕貴の視線はほとんど無意識のうちに彼女たちの胸元を掠めていく。そんな彼にとことこと歩み寄った美影は、どさくさに紛れて思い切りすねを蹴り上げた。
「いっ――てぇっ!?」
片足を抱えてけんけんしながら、夕貴は苦痛に揺れる目で美影を睨んだ。
「ちょっと待て! おまえは俺になんの恨みがあるんだ!?」
「なんかむかついただけ」
美影はくるりと背を向けた。ポニーテールの房が尻尾のように揺れている。
「あーあ、美影ちゃんが拗ねちゃった。夕貴がわたしと菖蒲のおっぱいばっかり見てるから」
「え、俺が悪いのか……?」
「小さいのは小さいなりの魅力があるのよ。あの子、いい張りしてるわよ」
「なんの話だ!?」
騒がしくなり始めた場を収拾しようというのか、夕貴はソファに深く腰掛けて大きなため息をついた。
「……だめだ、これはいつもの失敗するパターンのやつだ。ちょっと落ち着こう」
「そうね。じゃあ腰を落ち着けて話し合いをしましょうか」
すんなりと同意したナベリウスは、まるでそこがわたしの居場所と言わんばかりの自然さで夕貴のとなりに座った。となりに座るだけならまだいいのだが、彼女がこともあろうに夕貴の腕を取って恋人のように抱きついた瞬間、菖蒲は頭に血が上るのを感じた。
「……いやいや、近すぎるだろ。もっと離れて座れよ」
「いやよ。だってわたし、夕貴のとなりがいいもの」
薄手のシャツにできた大きな谷間に腕を挟まれて夕貴はたじろいだ。ナベリウスが艶然と微笑む。ついに我慢できなくなった菖蒲は、飛び込むようにナベリウスの反対側に座って夕貴のもう一本の腕を取った。
「あ、菖蒲?」
「はい、何でしょうか」
「なんか……おまえも近くないか?」
「いいえ、それは夕貴様の気のせいだと思います」
ツーンとそっぽを向きつつも、菖蒲はナベリウスに勝るとも劣らない密着具合で夕貴のとなりをキープしていた。もちろん彼の腕は絶対に離さないようにと強く抱きしめる。清楚な容姿を裏切る肉感的なバストが圧迫されてかたちを変えた。夕貴がごくりと生唾を呑んだ。
「ほら、美影ちゃんも座ったら?」
「ヘンタイ女の指図は受けない」
ナベリウスの提案を無碍にして、美影は踵を返した。ほっと安堵する夕貴。その気が抜けた夕貴の顔に腹が立ったのだろう。あるいは、ただ夕貴を困らせてやりたかったのだろう。
「むー」
美影は引き返してくると、夕貴の膝のうえに何の遠慮もなく腰を下ろした。
「おい! 美影まで何のつもりだ!?」
夕貴は困惑した。ナベリウスは感心した。菖蒲は特等席を取られたと思った。美影は眠そうにあくびをしていた。
「おまえら、とにかく俺から離れろ! 暑苦しいんだよ!」
「そうですか。夕貴様は菖蒲が邪魔なのですね……」
「い、いや、いまのは言葉の綾っていうか、菖蒲がそんな気に病む必要はないっていうかだな」
「あれま、夕貴が菖蒲を泣かせちゃった。男の風上にも置けないわね」
「アホ! 元はと言えばおまえのせいだろうが!」
「……ぐう」
「とりあえずおまえは寝んなー!」
夕貴とナベリウスが帰ってくるまではあれほど静かだったリビングも、いまは蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。夜も深まった時分、近所迷惑になってしまうかもしれないと菖蒲は思ったが、この幸せな気分をとなりにもお裾分けできるのならどんな苦情も受け入れられる気がした。
じたばたと暴れる夕貴にぴったりと身体を合わせて、菖蒲は幸せそうに目を細めた。夕貴と同じように、彼女もこの騒がしくも楽しい日常が大好きだった。だからナベリウスのように、美影のように、菖蒲は自分にできることを、自分にしかできないことをしようと心に決めた。
カチカチという時計の音は、もう聞こえなかった。