深夜、リゼット・アウローラ・ファーレンハイトは湯気の立ち上る浴室に佇んでいた。何をするわけでもなく、ただじっと頭からシャワーを浴びて、熱い水流に身を任せている。それだけで身体に蓄積された疲れがゆっくりと洗い流されていく気がしたし、なにより、鼻唄を歌いながら汗を流すような気力はいまの彼女にはなかった。
手足が鉛のように重い。心がじくじくと痛む。体調も芳しくない。ここ数日は食事もあまり喉を通らなくなった。嘱託医の診断によれば過労とのことらしい。まあそうだろう、とリズも納得した。なにせ欧州を発って日本の土を踏んでからというもの、彼女がまともに睡眠を取ったのは数えるほどしかない。激変した生活環境と膨大な執務に大きなストレスを抱える程度には、リズは普通の人間だった。
荘圏風致公園での死闘から一夜が明けた。各陣営に差異はあれど、とりわけ大きな被害も戦果もなく、開幕戦はドローに終わったといえる。広場からフォルネウスとベレトが姿を消した後、間もなくリズたちも所定のルートで帰投した。別れ際、夕貴は何かを言いたそうにリズを見ていたが、けっきょく一言も交わさないままに二人は離別した。
萩原夕貴。人と《悪魔》の血を引く少年。彼は優しかった。夕焼けに染まる展望台で彼と過ごした時間は、自分がただの女の子なのだと錯覚するほどには楽しく、ありふれたものだった。あの永遠にも思えた刹那の合間だけ、リズは抱えたものを忘れて心の底から笑うことができた。
彼の笑った顔を思い出す。リズの歌声を褒めてくれた。彼の悲しそうな顔を思い出す。わたしには親がいないと、そう告白してあんな辛そうな顔をされたのは初めてだった。彼の戸惑った顔を思い出す。裏切ったのはリズのほうだ。彼の必死な顔を思い出す。リズを助けるために最後まで諦めることなく走り続けた、そのひたむきさを。
血筋とは残酷だな、とリズは思った。せめて夕貴がもっと冷たい少年だったなら、ここまで思い悩むこともなかったのに。
必要以上に時間をかけて汗を流してからリズは浴室を出た。清潔なタオルで軽く髪だけを拭いて、濡れそぼった身体にバスローブを羽織る。ひたいや首筋に張り付いた髪をさっと流してから、彼女は脱衣所をあとにした。
諸々の事情により、リズは格式の高いホテルの上層階にある部屋を一時的な住居としている。シンプルながらも細部に意匠を凝らした調度の数々と、大きなサイズのベッドが二つ。さらに壁一面がガラス窓になっていて、階下の夜景をゆっくりと望める造りになっていた。
毛足の長い絨毯に湿った足跡を残しながら、薄暗い部屋を突っ切って窓辺に向かう。バスローブの帯も結んでいない、ほとんど半裸の格好で行くにしては人目に触れる可能性のある場所だったが、街は眠りに落ちているうえに部屋は高所にあるため、たおやかな少女の肌を目にした者といえば夜空に浮かぶ月ぐらいのものだった。
窓辺に立ち、遠く広がる夜の情景を見つめる。思えば、こうしてゆっくりと日本の夜景を目にするのは初めてかもしれない。バチカンも陽が落ちるとライトアップされて見事な景観が見られるようになるのだが、この国のそれはより現代的な光で満たされている。
だが、なぜだろう。絶景というに相応しい眺望なのに、美しいと感じない。それはたぶん、もっと美しいものをリズは知っているからだ。自然で溢れる公園の展望台。夕焼けに染まる街並み。となりで笑うだれか。ふと、リズは横を見る。そこには何もなかった。だれもいなかった。
「……あはは」
思わず苦笑してしまう。一人で見る絶景よりも、二人で見た景色のほうが心に残っているなんて情けない話だったから。
ひとしきり笑ったあと、リズはベッドに倒れこんで枕元に置いてあった携帯電話を手に取った。これはもともと彼女の持ち物ではなく、日本に来て支給されたものだ。
あまり馴染みのない、真新しい携帯をしばらく眺める。覚えたての手順で操作して電話帳をひらく。登録されている件数は驚くほど少ない。たった三件。そのうちの一つは、ちょうど昨日に登録されたばかりのものだ。赤外線通信とやらの使い方がいまいち分からなくて、彼に教えてもらいながら連絡先を交換したことを思い出し、リズは目元を和らげた。
誰かの名残を振り切るように携帯を放って、ベッドのうえで寝返りを打つ。露出した素肌に触れるシーツの感触が心地よかった。近頃はあまりベッドで眠る機会がなかったからか、心と身体は疲れているのに眠気がやってくる気配はない。もう一度だけ寝返りすると、ついさっき手放したばかりの携帯が目に入った。なんともなしにリズは手を伸ばす。決意はとても早かった。
止めておくなら、引き返すなら今しかない。彼女は過ちを犯そうとしている。越えてはいけない一線を越えようとしている。頭では分かっているのに、リズは止まらなかった。シャワーの余韻で火照った耳に、ひんやりとした携帯のボディを押し当てる。
眠れない夜には誰かの声が聞きたくなる。これはそれだけの話だと、自分に言い訳をして。
****
電話が鳴ったのは、もう間もなく空が白ずむような時分のことだった。
迷いはあった。罠かもしれないと疑った。それでも、もう一度だけ彼女と話したいと思う気持ちのほうが強かった。
『……もしもし、夕貴くん?』
液晶に表示された名前から相手がだれなのか分かってはいたものの、いざ声を聞くとどうしても緊張が高まった。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったはずなのに、うまく言葉が出てこない。通話が始まった瞬間から、ただ時間だけが無為に過ぎていった。
『夕貴くん、だよね』
必然的に生じた沈黙が、気まずい静寂に取って代わられる前に、もう一度だけ彼女は言った。俺は小さくため息をついてから答えた。
「……ああ、そうだよ」
『よかった。間違えちゃったかと思ったよ』
「そういうきみは、リズだよな」
『うん。いまはリゼット・A・シュナイダー。表向きはローマ法王庁大使館に勤める職員さんの娘ってことになってるね』
とつぜん訪れたこの状況に戸惑いを隠せない俺とは違い、リズの声には何の気負いもなかった。飽くまでも自然体。彼女と話していると、お互いの立場を忘れてしまいそうになる。
「リズはいったい……何を考えてるんだ?」
『んー、そうだね。夕貴くんはどんな女の子が好きなんだろう、とかかな?』
「ふざけるなよ。そんなことを知ってどうなるってんだ」
『うん、どうにもならないね。だからこれは、ただのプライベートコール』
相変わらず本音の掴みづらい女の子だった。まさかほんとうに意味もなく電話してくるとは思えないが、しかし彼女の声や口調からは白々しさがまったく感じられない。
『あぁ、それとあんまり踏み込んだことは言わないほうがいいと思うよ。この電話、もしかしたら盗聴されてるかもしれないから』
釘を刺すように彼女は言った。俺の詰問を避けるための方便の可能性もあったが、なぜか嘘だとは思えなかった。
「盗聴? だれが?」
『さあ。心当たりが多すぎて絞り込めないけど、第一候補は日本政府の人たちかなぁ。ちょっとした知識と技術があれば一般回線の通信を傍受することなんて簡単だしね。まあ大丈夫だとは思うけど、注意するに越したことはないでしょ?』
「特務分室ってのは、ずいぶんと微妙な立場にいるみたいだな」
『七十年ぐらいまえに試験運用が始まった、《異端審問会》のなかでも歴史の浅い部署だから。それに今回の件に限って言えば、外だけじゃなくて内からも批判の声が上がってるの。それだけ《法王庁》にとって日本は扱いの難しい国ってことなんだよ。アンクル・サムとも仲がいいしね』
「アメリカがアジアを初めとした中東戦略を考える際、日本があると便利だからな。よほどの外交問題でも起こらないかぎり不和にはならないんじゃないか」
『むう、人がせっかく隠語を使ったのに。これじゃ頭隠して尻隠さずだよ』
微妙に使い方が間違っているような気がしたが、もちろん突っ込む気にはなれなかった。
「そういえば《法王庁》と欧米の関係はどうなんだ?」
『普通だね。たぶん』
「たぶん?」
『じゃあ恐らくでいい?』
「……とりあえず日本語の勉強をやり直してきたほうがいいと思うぞ」
探りを入れるつもりでいろいろと訊ねてみると、思いのほかすんなりとリズは答えてくれた。状況が状況だけに機密は口にしないだろうし、情報が脚色されている可能性もあるが、それでも何も知らないよりはマシだろう。
現状、俺とリズの間柄はあまり友好的とは言えない。《グシオン》という共通の敵がいるから一時的に休戦しているが、それは本格的な戦いが始まるまえにお互いの戦力を減らさないようにするための一種の戦略であり、決して友誼を図ってのことではないのだ。
さらに言うなら、特務分室は俺という存在に《グシオン》をおびき寄せるための餌――つまりライブベイトのような役割も期待しているのだろう。だから俺が下手な真似をしないうちはリズたちと争うようなことにはならないはずだ。
それが単なる願望に過ぎないことは自分でもよく分かっていた。分かっていても願わずにはいられなかった。彼女の楽しそうな顔を思い出す。あの眩しい笑顔を、わたしにはお父さんとお母さんがいないと気丈に告げた彼女を、この手で傷つけることなどしたくない。
もし、そのときが訪れたら、俺は――
「……なあ、リズ。どうしていまさら連絡してきたんだ?」
たぶん、俺の声は冷たかった。それをまったく意に介するふうもなく、リズは穏やかに答えた。
『夕貴くんにはないかな。眠れない夜に誰かの声が聞きたくなることって』
「どうだろうな。あんまり意識したことはないけど」
すると、羨ましいね、と彼女は言った。
『それはきっと、夕貴くんには眠れない夜にとなりにいてくれる誰かがいるからだよ』
「リズには、いないのか?」
『もし、いないって言ったらどうする? 夕貴くんがわたしのそばにいてくれるのかな』
「…………」
『なんてね。冗談だよ』
リズの声は少し寂しそうだった。いま、彼女はどんな顔をしているのだろう。もし悲しそうな顔をしていたら、俺はどんな行動を取っていただろう。目の前にリズがいたらよかったのに、と思うと同時に、これが電話でよかったと安心する自分がいた。
『わたしのとなりにはね、誰もいなくていいの。ううん、いたらだめなんだよ。誰かがいると甘えちゃうから』
「甘えればいいだろ。誰にも頼らずにやっていけるほど人間は強くないんだから」
『ふむふむ。ちょっと哲学的な話になってきたね』
「……あのなぁ。元はと言えば話を振ってきたのはそっちだろ」
『そうだったっけ。そうだったかな。そうだったような』
「眠そうだな。切っていいか?」
『もう、夕貴くんは冷たいなぁ。ちょっとぐらい甘えさせてよ』
「甘えるのはダメじゃなかったのか……」
『そうだね。だめだったね。だって』
自分の足で立てなくなることほど怖いものはないんだから、と彼女は続けた。でも、俺はそうは思わなかった。
「……それの、何がいけないんだ?」
なにも自分の足だけで立つ必要なんてない。
「辛いなら、甘えたいなら、誰かに寄りかかればいいだろ」
人間は弱くて、なにかに躓くたびに諦めの言葉が脳裏をよぎって、一人ではどうしようもなくなるときがある。それでも、となりに誰かがいてくれるから人は生きていける。支えて、支えられて、支えあいながら生きていくのが人間だから。一人で立つことはできても、立ち続けることはできないのが人間だから。
『……夕貴くんは優しいね。でも、それと同じぐらい、残酷だね』
リズが優しい声で言葉を紡ぐたびに、彼女の境遇を見てしまう。自分でも残酷なことを言っているのは分かっている。しかし、あえて気を遣うほど俺と彼女は近しい距離にはいないこともまた心得ていた。
『もしわたしが普通の女の子だったら、きっと、夕貴くんの言うとおりにしたのにね』
「リズは普通の女の子だろ」
『ちがうよ』
「違わねえよ』
『じゃあ、夕貴くんは普通の男の子?』
そうだ、と反射的に応えようとして言葉に詰まった。ごめんね、と、なぜかリズは謝った。
『わたしときみが、わたしときみじゃなかったらよかったのに。でも、わたしときみじゃないと、たぶん出会うこともなかったんだろうね』
「……リズ」
そんなこと言うなよ。俺とおまえは敵同士なんだから。情報を交換しても、仮初めの共同戦線を張っても、こうして眠れない夜に声を聞いていても――絶対に相容れないんだから。
でも、確かに夢を見てしまう。もし俺たちが俺たちじゃなくて、もっと別の出会い方をしていたら、きっといい友達になれたんだろうって。
しかし、それが可能性すらもない、ただの妄想に過ぎないことは俺と彼女が一番よく分かっていた。
「……リズは、辛くないのか?」
言ってから、自分でも出過ぎた質問だったと後悔する。彼女が「辛い」と認めたところで、俺にできることなんてありはしないのに。
『どうだろうね。分かんないや』
彼女は肯定も否定もしなかった。俺に甘えることも、弱味を見せることもしなかった。だから俺は、もう一度だけ口を滑らせることにした。
「……リズが何をしたいのかは分からないけど、さ」
力にはなれない。そばにもいてあげられない。電話越しに優しい言葉をかけることさえできない。そんなことは許されない。だから、せめて。
「もし辛いなら……いっそのこと、抱えてるものを投げ出して、誰かに甘えてもいいんじゃないか?」
リズに逃げ道を作ってあげることぐらいはしてあげたかった。たとえそれが偽善だとしても。かぎりなく無責任だとしても。彼女が拒絶することが初めから分かっていたとしても。リズの事情を知らない俺には、そんなことしかできない。そんなことしかするつもりはなかった。
会話が途切れて、居心地の悪い沈黙が訪れる。俺はこれ以上、何も言えなかった。しばらくの間、リズは押し黙ったままか細い吐息だけを漏らしていた。耳元に相手の息遣いを感じるのに、お互いの在り方は悲しいほどに遠く隔てている。それがやるせなかった。
『……できないよ、そんなの』
雨を知らせる最初の一粒のように、その声は注意しなければ聞き落としてしまいそうなほどに小さく、儚かった。
「できないって、どうして」
俺はひどい男だ。リズの答えが変わらないと知っているのに、また意味のない問答を繰り返そうとしている。そうすることで『自分は彼女に何かをしてあげた』という自己満足を得たいのかもしれない。小賢しく立ち回ろうとする自分が、たまらなく嫌だった。
『どうしてって言われてもね。夕貴くんに譲れないものがあるように、わたしにもやらなくちゃいけないことがあるだけだよ』
「やらなくちゃいけないこと、か……」
わざわざ聞かずとも大体の想像はつく。例えば、《悪魔の書(ゴエティア)》と呼ばれる書物の回収や、《グシオン》がもたらすと予想される闘争を未然に防ぐこと。もっと広義で言えば、現存する《悪魔》の殲滅。リズたち特務分室の目的は、まあ、そんなところだろう。
しかし、だとすれば一つだけ疑問が残る。《悪魔》を倒すことが目的なら、どうしてリズは俺を助けたのだろうか。父さんの血を引く俺は、現状の能力や思想はともかく、長い目で見れば特務分室にとってもっとも面倒な障害になりかねないはずだ。殺す価値はあっても、生かすメリットはほとんど思いつかない。
――夕貴くん、わたしね……約束したの。
荘圏風致公園の広場で、俺をフォルネウスの凶手から間一髪で救った彼女はそんな台詞を口にした。そのためにリズは俺を生かしたというのか。でも特務分室の任務を放ってまで優先するほどの大切な約束なんて想像もできないけど。
俺が黙っていると、くすくすと屈託のない笑い声が聞こえてきた。
「いきなりどうしたんだよ。べつに可笑しなことを言った覚えはないぞ」
『いや、やっぱり夕貴くんは似てるなって思って』
「似てる……? だれにだ?」
『かつてのわたしが、愛した人に』
湖のように澄んだ声で告げられて、俺はとっさに何も言い返すことができなかった。言葉に詰まった俺が可笑しかったのか、リズはまた明るく笑った。
『ねえ、夕貴くん。参考までにきみの意見を聞かせてよ。人と《悪魔》は手を取り合えるか、それとも絶対に分かり合えないか。どっちだと思う?』
「それは……」
質問の意図を考えるよりも早く、俺は反射的に答えていた。銀髪の悪魔と出会ってから今日に至るまでの騒がしい日々を思い出しながら。
「できる。できないわけがないだろ。俺とナベリウスがその証だ」
迷うことなく断言できた自分が誇らしかった。
『……あはは。夕貴くんならそう言うと思った』
いままでになく楽しそうに彼女は笑う。楽しそうなはずなのに、聞いている側が悲しくなるような不思議な笑い声だった。
『でも甘いよ。夕貴くんは甘すぎるよ。そんな考えじゃ、いつか絶対に後悔する。分かっちゃうんだよ。夕貴くんを見てると、どうしても思い出しちゃうんだもん』
「後悔なんてしねえよ。人と《悪魔》が分かり合えないはずがないんだ」
『信じれば信じるほど、頑張れば頑張るほど――裏切られたときは辛いし、挫折したときは悲しいよ』
「じゃあどうして俺は生まれたんだ? 父さんと母さんがいたからだろ」
返答はなかった。一秒、二秒と時間がこぼれて、そのまま時計の秒針が一周した頃、ぽつりと彼女は言った。
『……でも、バアルはいなくなってしまった』
沈黙を破ったのは、抑揚のない声。
『けっきょく、あのバアルでも無理だったんだよ。それは”人”が誕生した瞬間から定められていた、《天元の法(アルス・ノヴァ)》をもってしても書き換えられなかった不変の摂理なんだから』
リズの言っている意味が、いまいち分からなかった。そう、分からなかったはずなのに、知っているはずがないのに、なぜか彼女が口にした言葉のなかに、とても懐かしいものがあったような気がして――
『夕貴くんも、いつか絶望する日がくる』
彼女は言った。
『かつてソロモンが、《悪魔》を捨てて”人”を選ばざるを得なかったようにね』
どうしてここでソロモン王の名が出てくるのか。いったいリズは何を知っているのか。父さんでも無理だったというのはどういう意味か。謎は余計に深まるばかりだった。頭がおかしくなりそうだ。
『それでも、わたしは……』
「え?」
電話越しの不安定な声量のせいで、うまく聞き取ることはできなかった。でも、俺の勘違いじゃなければ、リズはいま――
『じゃあ、そろそろ切るね。夜分遅くに失礼しました、なんて言ってみたり』
「ま、待てって! 俺はまだ……!」
『おやすみ、夕貴くん。わざわざ付き合ってくれてありがと』
ばいばい、と明るい調子で言って、リズは通話を終えた。ツーツーという単調な電子音に、なぜか無性に泣きたくなった。いまさらになって、俺とリズを繋いでいたのはただの電子的な回線だったと思い知らされた。
俺は自室のベッドに腰掛けて携帯の液晶をじっと見つめた。冷静に考えれば、リズの連絡先を残したままにしておくのは褒められたことじゃない。気軽に連絡を取り合えるほど俺たちを取り巻く状況は優しくないからだ。
しかし俺は、どうしてもリズの名を電話帳から抹消することができなかった。自分から連絡するつもりなど毛頭ないし、決して頭のいい選択じゃないことは分かっていた、けれど。
――夕貴くんにはないかな。
俺には無理だった。
――眠れない夜に誰かの声が聞きたくなることって。
とてもではないが冷徹にはなりきれなかった。
「……ちくしょう」
顔を上げると、薄っすらと白い光が見えた。窓のそとは明るくなり、いつの間にか朝が始まっている。夜はもう終わったんだ。
また新しい一日が始まる。さあ、前を向こう。大切な日常を守るために。
****
誰もいない静かな庭先に立ち、ナベリウスは空を見上げた。もう夜明けが近い。まだ辺りは暗いが、街が目覚めるまでそう時間はかからないだろうと思われた。
しゅるしゅると音を立てて白い包帯が外されていく。あらわになった素肌は、降り積もったばかりの雪原のように白く滑らかだった。昨夜、荘圏風致公園での戦闘で負った傷は魔法のように消えている。表立った外傷だけでなく、折られた肋骨のほうも完全に治っていた。
「……思ったよりも時間がかかっちゃったな」
楽しい日々が続いていたからか、感覚が鈍っている。あまりいい傾向とは言えなかった。そろそろ意識を切り替えたほうがいいだろう。
傷ついている暇などない。ナベリウスは夕貴にとって最強のジョーカーでなくてはならないからだ。主従の誓いを立てた以上、いや、たとえそんなものがなくても夕貴の信頼を裏切るような真似はできない。
昨夜の出来事で分かった。やはり夕貴は《バアル》の力を受け継いでいる。自身の異能について、夕貴は『鉄分に作用する能力』だと勘違いしているようだし、ナベリウスも初めは違和感を覚えたものだが、それは恐らく彼が《悪魔》として覚醒するきっかけが『ナイフによる致命傷』だったことから、金属の類に過剰に反応しているだけと思われる。本来の力は、もっと別のものだ。
とは言え、ナベリウスとしてはそのほうが都合がよかった。夕貴に大きな力は必要ない。なまじ多くの人を救えるだけの力があるから、ほんとうに大切な人を悲しませてしまうのだ。彼の父親のように、彼の母親のように。
もう二度と、あんな悲劇を許したりはしない。禍根は例外なく断ち切る。とりわけ大きな障害は三つ。
フォルネウス、ベレト、アスタロトの三柱を従える《グシオン》の勢力。
強大な戦力を保有する法王庁特務分室と、《精霊の書(テウルギア)》を持つ少女。
そして――
「……《悪魔の書(ゴエティア)》、か」
その響きを口にした途端、ずきんと鈍い痛みが胸の奥に走った。あの忌まわしき書物がまだ日本のどこかにあるということは、”彼ら”は諦めていないのだろう。自らの命を道具のように使ってでも、何もかもを犠牲にしてでも《悪魔》を祓うつもりなのだ。
だから、今度こそ役目を果たす。どんなことがあっても夕貴だけは守り抜いてみせよう。ほんとうならあのとき、萩原駿貴の代わりに捨てるはずだった命だ。いまさら何も惜しくはない。それに駿貴から言付かった、小百合にも伝えなければならないことがある。
見れば、空の向こうには瑠璃色の黎明が広がっていた。地平線の彼方からのぼる太陽が、夜に冷えていた街をゆっくりと暖めながら、まどろみに浸る住人たちに朝の訪れを告げている。もう夜は終わったのだ。
「駿貴、小百合……」
ここにはいない二人の姿を思い出すように、ナベリウスはゆっくりとまぶたを閉じた。そのまま胸に手を当てて真摯に祈る。《悪魔》が願いを捧げるなど滑稽かもしれないが、それでも、あの優しい少年になら気まぐれな神も微笑んでくれるはずだと信じよう。
――どうか夕貴の未来が幸多きものでありますように。
朝焼けの中、祈りを心に刻みながら、もう一度だけ決意を新たにする。わたしと夕貴ならきっと大丈夫だと、ナベリウスは目を閉じたまま自分に言い聞かせた。
まぶたの裏に広がる暗闇は、まるで夜のようにも錯覚した。
[参の章【それは大切な約束だから】 完]