それに気付いたのは、高臥菖蒲がたまたま近くを通りかかったというだけに過ぎなかった。
運命的なきっかけは何一つとしてない。平日の午前にも関わらず彼女が家にいるのは、単に学校が夏休みだったからだ。そして、とくに外出する予定もないのに玄関にいたのは、ただその近くに二階へと上がる階段があったからだ。
鍵穴に金属が差し込まれる気配。がちゃり、とロックが解除される音。あれ、だれか帰ってきたのかな、でも夕貴とナベリウスは家にいるし、美影はそもそも鍵なんて使わずにどこからでも入ってくるし、かといって他に鍵を持っている人なんていないし……と、そこまで菖蒲が考えたところで、何者かが萩原邸に侵入を果たした。
「ただいまー。只今ただいまー。なんちゃって」
まばゆい光が差し込む。逆光になって相手の姿はよく見えないが、声の調子やおぼろな影のシルエットから、自分よりも年上の女性だろうとは漠然と推測できた。かたわらには、大きな旅行カバン。
「あっちもあっちでよかったけど、やっぱり我が家には……って、あら、お客さん?」
肩口あたりまで伸びた黒髪に、小さな赤い髪紐が映えていた。片側だけ結われた髪の隙間から、可愛らしい耳がぴょこんと顔を覗かせている。身長は女性の平均ぐらいだろうか。年の頃は二十代後半から三十代前半だと思うが、菖蒲の個人的な観点から物申すならば、正直なところ十代と言っても通用しそうだった。もちろん見た目が若いということもあるが、それに加えて女性のまとう雰囲気が掴みどころのない光のように柔らかいのだ。まったく世間ずれしていないのだろう。人が成長するにつれて誰もが当然のように獲得する打算に満ちた賢しさが、彼女からは感じられなかった。
そしてなにより、その女性の顔が、菖蒲のよく知っている人に、あまりにもよく似ているような気がして。
「……夕貴、さま?」
訝しげに菖蒲がつぶやくと、なぜか女性は引きつった顔でだじろいだ。
「い、いやだなー。友達に、それも女の子に、あろうことか様付けさせてるなんて。あの子をそんなふうに育てた覚え、わたしにはないんだけど」
このとき、菖蒲は全てを理解した。それが早かったのか遅かったのかはわからない。ただ一つ言えることは、全てを理解してしまったがゆえに、膨大な情報が一気に流れ込んだ菖蒲の頭は驚くほど真っ白になった。
「それにしてもこんな可愛い女の子を家に連れ込むなんて。やっぱり夕貴も男の子なんだなぁ。ていうかあなた、どっかで見たような? 気のせいかな?」
まあいいか、と投げやりに漏らした女性は、呆然と立ちすくむ菖蒲に歩み寄り、可愛らしく微笑んだ。
「いつもありがとう。できればこれからも夕貴ちゃんと仲良くしてあげてね。あの子、ああ見えて寂しがり屋なところあるから」
****
そのときに起こったことをいつか思い出すなら、俺は家のなかに台風が入ってきたと述懐するに違いない。
「ゆ、ゆゆゆ、ゆ、夕貴様!」
「うおぉっ!?」
部屋で本を読んでいると、扉をぶち破りかねない勢いで菖蒲が入ってきた。それだけならまだいいが、勢い余ってカーペットの上にヘッドスライディングまでした挙句、ベッドの支柱に頭を打ってゴンという音まで奏でる始末である。
「お、おい、どうしたっ? いったいなにがあったんだっ?」
あの淑やかな菖蒲がここまで取り乱すなんてただ事ではない。それが分かっているからこそ、さきほどの異常な様子が逆にちょっと怖かった。これはなにかとんでもない事件でも起きてしまったのではないか。たとえば美影がナベリウスにこっぴどくいじめられたとか。
菖蒲は生まれたての小鹿のようにぷるぷるしながら、涙目で部屋の外を指さした。
「お、お母様、が……」
「まさか……なにかあったのか!」
見えない手に心臓を鷲掴みにされたような気分だった。瞬時に背筋が凍りつき、平穏にまどろんでいた頭が自分でも驚くほど冷たく染まっていく。
高臥瑞穂。それが菖蒲の母親の名だ。俺はまだ会ったことはないが、菖蒲からよく話は聞かされていた。きれいで、賢くて、つよくて、優しくて、わたしには真似できなくてって。
そんな菖蒲のお母さんが、まさか――
「菖蒲! どこの病院だ!」
返事はない。菖蒲はすでにバタンキューといった塩梅で気絶している。俺に連絡を終えたことで力を使い果たしたのか、それとも打ち付けた頭があまりにも痛かったのか。たんこぶの大きさから見てきっと後者だろうな、なんてどうでもいいことを思いながら、俺は彼女の身体をベッドに横たえると、そのまま部屋を飛び出した。
****
それに見つかったのは、壱識美影がたまたま不運だったというだけに過ぎなかった。
「あーっ! ちどりんだー!」
一階の廊下を歩いていると突然、耳をつんざくような叫び声が聞こえてきた。しかも、その大音量の指向性はどうやら美影に向いているらしかった。振り返ると、まるで見たこともない女がこちらを指差している。
さきほどまで気持ちよく昼寝をしていた美影にとって、これは言うまでもなく面倒くさい部類の出来事である。起きがけに声をかけられることさえ苛立たしいのに、こんなよくわからない女に珍獣でも見つけたかのような反応をされるとは。
それにいったい、ちどりんとは何のことだろうか。どこか耳に馴染みのある語感ではあるが、少なくとも初対面の女から指を差して言われるようなことではない。
まあいい。相手をするだけ無駄だ。こいつは頭がおかしい。そう結論づけた美影は、あくびをしながら踵を返した。
「ちょっとっ! どうして無視するのよ千鳥ちゃーん!」
その名を聞いて、ぴたりと足が止まる。この珍獣ハンターはいま、なんといった?
だが時すでに遅しである。美影の動きが止まった一瞬を見逃さず、謎の女は美影を後ろから抱きしめていた。
「――っ!?」
このとき、美影は驚異よりも驚愕を覚えていた。気を抜いていたのは認めよう。身体は多少なまっているし、もしかしたら勘も鈍っているかもしれない。それでも、ただの女に間合いに入られるまで――否、身体に触れられ、あまつさえ拘束されるまでまるで気がつかないなどありえない。
とは言ったものの、ここに夕貴がいれば見事なツッコミが炸裂していただろう。ただおまえが寝惚けていただけだと。
「うわぁ久しぶりだね千鳥ちゃん! 元気にしてた!? というかちょっとちっちゃくなった!?」
わーいわーいと嬉しそうに頬ずりをされて、美影のなかの小動物じみた危機感が大きく警鐘を鳴らした。
「やめろ、このっ、はなせー!」
「あれ? でも千鳥ちゃん、なんだかほんとうにちっちゃくなった? ま、まさか……病気!?」
そんなわけあるか、と突っ込みたかったが、それよりもようやく美影はひとつの誤解に気がついた。
「……それ、わたしの母親」
じとーとした目で、だからとっととわたしを解放しろ、と訴えかける。しかし現実がそんなに甘いわけもなく。
「えっ? ていうことはもしかして……千鳥ちゃんと市ヶ谷くんの子供っ!?」
「ちょ――」
きゃーと黄色い声をあげて、さらに抱きついてくる珍獣ハンター。
「すごいすごーい! そっかぁもうあれからそんなに経つんだぁ! でもよかったね、お母さん似で! きっと男の子が放っておかないでしょ! まあそのちょっと無愛想なところとかはお父さんにそっくりだけど!」
「こ、のっ……!」
わたしに父親なんていない。その否定的な考えが美影の身体を突き動かした。隙を見て腕のなかから抜け出すと、這々の体で逃走を図る。自然と足は二階に向かっていた。なんとなくだが相性が悪い気がする。ここは夕貴に、あのわけのわからない女をなんとかさせるべきだろう。
「ちょっと待ってよー! あの二人は元気にしてるのー!?」
背後から迫ってきた声を意識して、身体がひどく強ばった。いやな予感。それを間もなく実感。階段から踏みはずす足。ふわりと宙に浮かぶ身体。が、考えるよりも先に反射した。そうだ、この程度の高さから落ちたところで美影にはなんの支障もない。猫よりも猫らしく、華麗に着地を決めてみせるだろう。
でも、その間際。あの女の顔がもういちど目に映る。
どうしてだろう。あんなにうっとうしいことをされたのに、なぜか嫌いになれない。それほどまでに誰かによく似た顔。バカみたいで、面倒くさくて、女々しくて、それなのに、まあ飽きるまではずっと見ていてやってもいいかなと思う程度には嫌いじゃない、そんな顔。
「ゆう、き……?」
ゴン、と大きな音。そして衝撃。次の瞬間にはぐるぐると目を回して気絶する美影の姿がそこにはあった。
****
ついさっきも耳にしたような、とてつもなく痛そうな音が聞こえてきたと思ったら、俺の眼下には無残な屍が横たわっていた。
「……美影、か?」
俺の部屋を出てから階段を下りた先、玄関前のスペースに美影の肢体が転がっていた。
「べ、べつの意味の肢体じゃねえだろうな、これ……」
ごく、と生唾を飲み込む。よくよく観察してみると、控えめな胸のふくらみがゆっくりと上下していた。いちおう、生きてはいるようである。
「おい! しっかりしろ!」
小柄な身体を慎重に抱き起こし、何度か揺さぶってみる。それでも反応がなかったので、白い頬をペチペチと叩いた。長い睫毛がかすかに震えたかと思うと、きれいな二重まぶたがゆっくりと開く。
「……ゆう、き?」
いつもの抑揚のない声とはまた違う、気の抜けた夢見心地な声だった。
「そうだ、俺がわかるか!」
「ん……」
こくりと頷いて、ぼんやりとした目で見つめられる。艶やかな濡羽色の髪に、夏にも関わらず抜けるような白い肌。人間は美しいものを見ると本能的に恐怖を覚えるという。それと同様に、美影は生来の排他的な性格も相まって、どこか触れがたい鋭利な雰囲気をまとっている。そんな美影だからこそ、このように無防備な姿を改めて見ると、普段が憎たらしい分、なんだこいつちょっと可愛いじゃねえかと思ってしまう自分がいないこともない。
「よかった、無事ならいいんだ。安心しろ。なにがあったかは知らないが、すぐに俺が病院に連れてってやるからな」
なにせいまは緊急事態である。菖蒲のお母さんがたぶんどこかの病院に搬送されているのだから、そのついでと言っては失礼だが、美影を担いで外来するのも手間ではない。いや待て、そういえば俺はマジでこのまま病院に向かってもいいんだろうな。
「くそっ、悩んでるひまはないか」
事態は一刻を争う。俺は美影の身体を抱き抱えて立ち上がった。
「はは、おや……」
「え? なんだって?」
美影が俺になにかを伝えようとしている。それも恐らく、かなり大切なことを。
「母親、が……」
「まさか千鳥さんにもなんかあったってのか!」
なんという偶然だろうか。同い年の、それも同じ家で暮らしている二人の少女が、あろうことかまったく同じ日に母親の不幸を聞くことになるとは。
すでに美影は意識を失っていた。力を使い果たしたのか、それとも俺に介抱されて安心したのか。こいつのことだからきっと前者だろうな、なんてどうでもいいことを思う。むしろあとで勝手に身体に触ったことを持ち出されて“ヘンタイ”とか不名誉な罵倒を受けそうだ。
とにかくじっとしてはいられない。まずは美影をリビングのソファにでも寝かせよう。なるべく衝撃が伝わらぬようにゆっくりと歩き出す。弛緩した身体は、十代の少女であるということを踏まえても、壊れてしまいそうなほどに軽かった。
リビングに到着すると、どこからか自然の風が入ってくるのを感じた。
カーテンが優しく揺れている。窓が少し開いているのだろう。こぼれる光のむこう、草花が咲き乱れる庭先にだれかが立っているのが見えた。俺は美影をそっとソファに寝かせると窓辺に近づいた。
「おーい、ナベリウス。そんなことしてたら冷房がもったいないだろうが」
まったく家計に優しくないやつである。この時期、八月の真っ只中といえば、連日で猛暑を記録し続けるような有様なのだ。現代人にとって冷房は欠かせないし、もちろんそれによって光熱費が圧迫されることも想像に難くない。まあ人ではなく悪魔で、おまけに氷まで出せるあいつにそんなことを言うのもナンセンスなのかもしれないが。
庭先に出ると、思いのほか強い光に目がくらんだ。ずっと家にいたせいだろう。肌を焼き付けるほどの強力な紫外線に、満足に目を開けることもできない。俺は自然と手をかざした。
その指の隙間から見えるおぼろな風景に、小さな百合の花が揺れていた。
「きれいだね」
懐かしい声が、聞こえた。
「うん、それにいい香り」
子供のころからずっと俺のとなりにいてくれた声。
「よかった。わたしのかわりにちゃんとお世話してくれてたんだね」
嬉しいときも、悲しいときも、どんなときだって俺を包み込んでくれた声。
「ごめんね、遅くなっちゃって。ちょっといろんな人に挨拶してたものだから」
「か……」
どうしてだろう。なぜか妙に気恥ずかしい。自分でも顔が赤くなっているのがわかる。こんな姿、他のやつらに見られたら俺は二秒で自殺する自信がある。
とはいえ、ぶっちゃけて告白させて頂くと俺は怒っているのだ。まず大体、帰ってくるのが遅すぎる。いったいいつまで俺をほったらかしにするつもりなんだ。それに帰ってくるなら、せめて前もって連絡ぐらいしてくれてもいいだろう。こっちにも心の準備とかあったりするのだ。
それでも、そんな文句が一瞬で消えてしまうぐらいには、やっぱり嬉しくて。
こればっかりはしょうがない。そう自分を納得させるしかない。だって、この世でたった一人の、俺と血の繋がった人なんだから。
「すこし背が伸びた? ちょっと見ない間になんだか逞しくなったんじゃない? うんうん、夕貴ちゃんが立派に育ってくれてわたしは嬉しいよ。できれば」
あの人にも見せてあげたかったなぁ、と。
その笑顔が、なんだか泣いているようにも見えて。
「……母さん」
いままで俺は、この顔を一度だけ見たことがある。ガキの頃、何気なく問いかけた一言が原因だった。あのとき、子供ながらに俺は思ったものだ。もう二度と、母さんにこんな顔はさせたくないって。
だから抱きしめた。それは親愛の情によるものではない。母さんを慰めようと考えたわけでもない。ただ俺はこれ以上、泣きそうに笑う母さんの顔を見てられなかった。そんな弱い、逃げるような抱擁だった。花の芳香に混じって、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りがした。
「……おかえり、母さん」
「うん。ただいま、夕貴ちゃん」
そんな俺の心情を見透かしてか、母さんは子供をあやすように優しく頭を撫でてくれた。汗でかすかにべたつく肌の感触も、いまは心地よかった。
「……あれが夕貴の母親」
「み、美影ちゃんっ。わたしたちはいったい、どうすればいいのでしょうかっ。え、えーと、まずは挨拶して、それからそれから……」
「あやめ。ちょっとうるさい。静かにして」
どこからか、怪しげな会話が聞こえてきた。
「で、でも、夕貴様のお母様ですよっ? それはつまりわたしにとってのお母様ということでもありますし、粗相のないように今のうちからですねっ」
「大丈夫。いまは隙だらけ。いつでもやれる」
「そうですよねっ、いつでもやれますよねっ」
「あやめは陽動。実行はわたしがやる」
「……あの、ちなみに美影ちゃん、ひとつお尋ねしたいのですけれど、いったい美影ちゃんは何をするつもりなのでしょうか?」
開けた窓の向こう、家の中でこそこそとした密談が交わされていた。あいつら、気付かれていないとでも思っているのだろうか。
「……おい、何してんだおまえら」
「ひゃうっ!」
見方によっては可愛らしくも聞こえる奇声とともに、バタバタと崩れ落ちるようにしてカーテンの影から二人の少女が現れた。仰向けに倒れた美影のうえに、菖蒲が目を回しながらうつぶせに覆いかぶさっている。服のうえからでも分かる豊満な胸のふくらみが、控えめなそれとぶつかって、男が見れば扇情的な、それでいて女が見れば目を覆いたくなるような悲惨な光景が生まれていた。
「あれれ、だれかと思えば高臥菖蒲ちゃんにそっくりの美人さんに、千鳥ちゃんの子供だ」
母さんは相変わらずの鷹揚な笑みで二人を受け入れた。子供っぽくて、それなのに包容力があって。こんな風に笑うから母さんは年齢よりも幼く見られがちなんだよなぁ。
「あ、あの、は、はは、初めましてっ。わたしは不肖、高臥菖蒲と申す者でして、非常に僭越ながら夕貴様とは浅からぬ仲と申しますかっ、ご挨拶が遅れて大変申し訳ありませんと言いますかっ」
なんだか菖蒲がびっくりするぐらい緊張していた。というかテンパっていた。
「あー、やっぱり高臥の。それも本物の菖蒲ちゃんなんだ。うちの夕貴がね、昔からあなたのこと大好きなんだよ」
「あ、ありがたき幸せですっ、お義母様!」
「……とりあえず落ち着け。それで一回、水でも飲んで来い」
あと母さん。なんかそういうこと言うの恥ずかしいからマジでやめてくれ。
「むー」
菖蒲のかげに隠れながら、美影は警戒心に満ち溢れた目で母さんを見ていた。ポニーテールの房がしっぽのように揺れている。
「あはは。なんだか猫みたいで可愛いー。ほらほら、こっちおいでー」
「……おまえ、嫌い」
「あー、そんなこと言っちゃうんだー。そんな悪い子は、こうだっ!」
イタズラっ子のような笑みを浮かべた母さんは、美影に飛びかかると、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。突然の出来事に、美影が総毛立つのが目に見えてわかった。
「だから、やめろっ! はなせっ!」
「じゃあわたしのこと好き? もう嫌いとか言ったりしない?」
「好き。大好き」
「わーい、やっとわたしの思いが通じたー」
「…………の反対」
「はい、ほっぺたすりすりの刑!」
「むー!」
なんだかよく分からないやりとりが繰り広げられていた。美影も災難だなぁと思う。ナベリウスに引き続き、母さんにまで可愛がられるなんて。まあ愛されている証拠だと考えることにしよう。
「母さん。そのへんにしといてやれって。美影もそろそろ死にそうだし」
「ふーん。そっか。美影ちゃんって言うんだ」
母さんの動きが止まる。そのまなざしは、ぐったりとした美影の胸元に注がれている。一つの石が、二人の想いが、そこにはある。
「……いい名前だね。うん、やっぱり嘘じゃなかったんだね。よかった」
独り言のように呟く母さんの声には、俺や美影には分からない、万感の想いが込められているように思えた。
「ねえ美影ちゃん。こういうことされるの、ほんとに嫌かな?」
さきほどまでとは違う、穏やかなトーンで語りかける。
「……嫌」
美影はぷいっと顔を逸らした。その態度を見て、そういうところもそっくりだなぁ、と母さんは言った。
「そっか。じゃあしょうがないね。でも、わたしも嫌だからね!」
「……?」
「だーかーらー! わたしは美影ちゃんが嫌っていうのが嫌なのー!」
子供のように駄々を捏ねる母さん。もうなんかみんな放っておいて部屋で本の続きでも読もうかとか思ってしまった俺はきっと悪くない。ここ暑いし。
じたばたと暴れる美影に、喜々として抱きつく母さん。じつは美影にとってこの家は非常に住みにくい場所なのではないだろうか。
「いままで寂しかったね。でもね、これだけは覚えておいて。あなたのお父さんとお母さんは、きっとあなたのことを愛しているよ。それだけは間違いない。ねえ、”みかげ”ちゃん」
「…………」
美影の抵抗が弱まった。母さんのされるがままになっている。時々、チラっと母さんの顔を見たかと思うと、目が合った途端にそそくさと視線をそらす。その繰り返しだった。
しばらくして満足した母さんは、あ、そうだ、と何かを思い出したかのように手を叩いた。
「そういえば自己紹介がまだだったね。わたしは――」
母さんが笑顔でそう言ったときだった。
「――小百合」
だれかがその名を呼んだ。氷のごとく無感情で、雪のように弱々しい、寒さに震える少女を思わせる声で。
腰まで伸びた白銀の髪が、白い光のなかにたゆたっている。未開の雪原を連想させる銀色の瞳は大きく見開かれて、どこか悲しげに揺れていた。美しいという言葉ではまるで足りない、人を超越した絶世の美貌。それでいて女性特有の丸みを帯びた体つきは、もはや俗物的といっていいまでに扇情的なラインを描いている。まさに悪魔のごとく男を惑わせる、そんな女。
いや、その比喩は正しくない。だって真実、彼女は悪魔なのだから。
「久しぶりだね。元気にしてた、ナベリウスちゃん?」
たとえ、その母さんの何気ない一言に、まるで人間のように顔を歪めてしまったとしても。