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No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
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[29805] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:30a5855b 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/11/06 20:52
 萩原小百合が帰ってきたことによって、夕貴を取り巻く環境は一変した。いや、ある意味ではいままでが異常であり、本来の家主が帰還したことで全てが元に戻っただけなのかもしれない。

 温かな空気に包まれた萩原邸が夕焼けに照らされる頃には、テーブルのうえにたくさんの料理が並んだ。ささやかながらも開かれた晩餐において、腕をふるったのは主賓である小百合だった。久方ぶりの母の手料理をもっとも楽しみにしていたのは言うまでもなく夕貴である。何かと理由をつけて、二階の自分の部屋から何度も何度もキッチンに降りてきては小百合の様子をうかがう落ち着きのなさを見て、驚いたのは菖蒲であり、呆れたのは美影だった。

「あんなに嬉しそうな夕貴様、初めて見たかもしれません」
「なんかムカつく。蹴ってくる」
「だ、だめですよ美影ちゃん。確かに夕貴様の様子は、その、正直ちょっと異常ですけれど、それも仕方のないことかもしれません。だって、久しぶりにお母様と……」

 お会いできたのですから、と菖蒲が言いかけた矢先、夕貴がまた喉が渇いただのと理由をつけてキッチンにやってくるのだ。

「あ、母さん。なんか手伝うことある?」
「とくにないから大丈夫よ。夕貴ちゃんはのんびりと昼寝でもしてて」

 ひらひらと小百合に手を振られて、何事もなかったかのように引き返していく夕貴だったが、その表情が微妙に釈然としていないことを二人は見抜いていた。まずなによりも夕貴ちゃんなどと彼の言葉を借りるならあまり男らしくない呼び方をされて、まったくの自然体であるという時点で、夕貴にとって小百合は特別な存在にほかならないことが分かる。

 そんなこんなもあって、萩原邸の住人たちはなんとも言えない衝撃を受けていた。そうこうしているうちに誰から聞いたのか、どこから聞きつけたのかは定かではないが、玖凪託哉、藤崎響子、内村竜太の三名が意気揚々と門扉を叩いた。小百合の無事の帰宅を祝う会が、ささやかとは程遠い盛大な催しになることは想像に難くなかった。



 午後九時過ぎ。すでに晩餐は佳境に入り、あれだけ忙しなく卓上を動き回っていた箸たちも一時の休暇に入っていた。満足した腹を労わるには椅子というスペースは手狭だったのだろう、各々は立ち上がり、ある者は庭に出て、ある者はソファに突っ伏していた。その光景はもはや立食パーティに近い。

「あたし、萩原のお母さん初めて見たけど、ほんとにそっくりだね」

 そう言って、呆れているのか感心しているのか分からない反応をするのは藤崎響子である。癖のないショートカットの黒髪と、意志の強さを反映した勝気な目。すらりと伸びた肢体にはほどよく筋肉がつき、スレンダーな体型でありながら、女性特有のしなやかな曲線も描いている。化粧や衣服で派手に着飾るよりは、スポーツで汗を流している姿のほうが似合う、健康的な美人だった。

「そうか? そんなに似てるか? 自分ではよく分からないんだけどな」

 無関心を装いつつ、夕貴は頬を緩めながら冷たい飲み物で喉を潤した。

「まぁ、男の子は母親に似るっていうし、あんたが小百合さんに似るのも自然の流れだったのかもね」
「そういう藤崎はお父さん似なのか?」
「うーん、どうだろ。あたしはどっちにもちょっとずつ似てるって感じかなぁ。弟はお母さん似なんだけどさ」

 テーブルに片肘をついた体勢のまましばらく夕貴を見つめていた響子は、彼の所作の節々から普段とは違う喜色を敏感に感じ取って、思わず破顔した。

「なんだよ、俺の顔になんかついてるか?」
「いやーべつにそんなことはないけどさ。ただよかったなって思って。久しぶりのお袋の味、ちゃんと味わって食べなきゃだめだからね」
「……そうか。そういえば母さんの料理を食べるのも」

 ずいぶんと久しぶりだということを、夕貴はいまさらになって思い出したようだった。日が暮れるまでは年甲斐もなく楽しみにしていたのに、いざ食事となったとき、彼は何も感じなかった。美味しいとも不味いとも思わず、ただそれを当たり前のものとして享受したのだ。

「お母さんがいない間、ずっと料理を作ってくれていたのはナベリウスさんだっけ?」
「……ああ」

 夕貴は知らない。人間が営む家事とは無縁だったナベリウスに料理という名のきっかけを与えたのは、かつての小百合だということを。

 感動はなくて当然だし、違和感を覚えることもなかっただろう。なぜならナベリウスが作る料理は、すなわち小百合のそれと同義だ。味付けも、盛りつけも、むろん愛情も。大切なものは失って初めて気付くという。ならば、夕貴があれほど長く小百合の不在に耐えられたのは、その代わりとなる誰かがいたということにほかならない。

 果たして、夕貴はそのことに気付いているだろうか。




 響子と夕貴が談笑を続けるなか、笑い声に包まれるリビングの片隅で、目立たないようにひっそりと高臥菖蒲は動いていた。空になった皿を集めて流しに持っていき、テーブルの汚れを拭いている。注意して観察しなければ、菖蒲がそうした動きをしていることに気付く者はいなかっただろう。なぜなら彼女は汚れ仕事を引き受けているつもりはなく、その自覚も一切ないからだ。ただ宴が終わったあと、みんなの負担を少しでも軽くするために、いまのうちから後始末を進めているだけ。他の者に声をかけないのは無闇に興を削がないためだ。

 それに菖蒲は常に微笑みを忘れないでいた。その綻んだかんばせは、彼女が心から今という時を楽しんでいることの証左である。小百合が帰ってきたことによって、夕貴が笑っていることが何よりも嬉しいのだろう。この日ばかりは決して目立つことなく、菖蒲は裏方に徹して彼のために尽くしていた。

 その淑やかで健気な姿を、一対の眼だけが見つめていた。

 黒縁の伊達メガネの、安っぽいレンズに菖蒲の姿が映っていた。内村竜太は呼吸を忘れるほどに彼女を視線で追ったあと、ふと我に返って、清潔感のある短髪を手でガシガシと掻きむしった。

 彼の胸中にどんな感情が去来しているのかは本人にしか分からない。それでも竜太の視線に、菖蒲は最後まで気付くことはなかった。そして逆に、菖蒲が見ているのはたった一人の少年だけだという事実は、きっと無意識に目で追ってしまっている彼女以外の者には周知のことだった。

 要するに、竜太は手持ち無沙汰だったのだろう。夕貴と響子はちょうど話が盛り上がっているし、託哉はさきほどリビングから出て行った。小百合とナベリウスと美影の姿はずいぶん前からない。いまこの場で暇を持て余しているのは竜太だけで、他の誰よりも負担を引き受けているのが菖蒲であった。

 つまりそれは、需要と供給のバランスが成り立っただけの、自然の成り行きだった。

「僕も、手伝うよ」

 小さな声で彼は言った。菖蒲の意思を尊重するために。

「あ、うっちー様」

 驚いたような顔で菖蒲は振り返る。色素の薄い鳶色の髪が揺れて、甘い女の匂いが舞った。距離が近い。世の女性が例外なく不平等を嘆きそうな、あまりにも恵まれた愛らしい顔立ち。少し前屈みになった菖蒲の姿勢。普段、慎みぶかい彼女が慎重に隠している豊かな胸元が少しだけ垣間見えて、竜太は慌てて顔を背けた。

「ひ、一人じゃ大変だろ? だから僕も手伝おうかと思って」
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけ頂いておきます。わたしにお構いなく、どうぞお寛ぎ下さい」

 淑女としては完璧な対応。家人として、もてなす側としても文句のつけようがない言葉。しかし、それは逆に言えば、立場を弁えて一線を引かれているということだ。

 菖蒲に悪意はなかった。純粋な好意のつもりだった。だが、優しさが人を傷つけることもあると、温室で育てられたお嬢様は知らなかった。そんな菖蒲の心の機微を理解できてしまうからこそ竜太は二の句を継ぐことができない。無理に手伝ってしまうこともできたのに実行に移せなかったのは、おそらくこれ以上、菖蒲の笑顔を直視出来なかったからだろう。

「ちょっとうっちー! 聞いてよ萩原ってばさっきからお母さんのこと……」
「バカ! んなこと言ってねえからとにかく黙れ! ヘンな誤解を招くだろうが!」

 にしししと意地悪く笑って呼びかける響子を、夕貴が必要以上の剣幕で制止する。

「ふふふ」

 口元に手を当てて菖蒲は笑っていた。華奢な肩が小さく揺れている。

「……やれやれ、どうやら萩原は、噂通りのマザコンのようだね」

 場の空気に合わせて苦笑しながら口にした竜太の台詞は、状況だけを鑑みれば自然なものだっただろう。それでも、恐らくここに勘の鋭い者がいれば、たとえば藤崎響子がもう少しちゃんと竜太に傾聴していれば、彼の声音に僅かながらの険があったことに気付いたはずだ。

「そうですね。そうかもしれませんね」

 竜太のとなりで同意する菖蒲の口調には、しかし彼の溜飲を下げるだけの真実味もない。遠くで夕貴が「菖蒲までなに言ってんだ! おまえだけは俺の味方をしてくれると思ってたのに!」と子供みたいに文句を言っている。それすらも菖蒲にはとても愉快なことのようで、いつしか目尻にはうっすらと涙が滲んでいるほどだった。

 夕貴にとって、菖蒲を笑顔にすることは簡単を超えて当たり前だった。ナベリウスなら同じ女性であるのだから距離感が近く、それゆえに話も合う。響子とて同様だ。美影は友人であり、託哉も気の利いたジョークで笑いの一つも取ってみせる。

 であれば、果たして竜太にはいったい、何ができるのだろうか。少なくともこれまで彼が菖蒲にしてあげられたことはほとんどない。気を遣ってみても、それ以上に細やかで上品な配慮で返されてしまうだけ。

 夕貴と響子がなにやら楽しそうに揉めている間に、竜太は努めて明るく割って入った。そんな推移を経ても菖蒲は自分の立ち位置を過たず、一歩引いた視点から夕貴の様子を見守り、幸せそうに目を細めて、汚れた皿に手をつけるのだ。

 結果として竜太は、だれも見ていない菖蒲の気遣いと思いやりに、密かに気付いてあげられることぐらいしかできなかった。



 一階でそんなあれやこれやが繰り広げられていた頃、勝手知ったる萩原の家と歩き回っていた玖凪託哉は、二階に設けられたバルコニーで目当ての人物を見つけた。

「よお、こんなところにいたのかよ」

 女好きするような派手目の顔立ちをしているが、明るめに脱色した髪やピアスといった装飾品は、女性に好意よりも警戒心を与えそうだった。

「……なに?」

 事実、壱識美影の声には強い苛立ちがあった。どんな好色な色事師も、その冷ややかな一瞥を受ければ肝を冷やして尻尾を巻くに違いない。

 さりとて今夜の美影の様子は、そうした次元の話とはまた違った。目に正の感情がない。空気が張り詰めている。夕貴と出会うよりも以前の、孤独を知らずに孤独に生きていた頃の彼女を彷彿とさせた。

「なるほど。その様子だとやっぱりおまえか」

 一目見て事情を看破した託哉は、あらかじめ設えられていた木製のチェアーにどっかりと腰を下ろした。

「話は聞いてんだろ。たぶん近々、招集されるぜ。二年前の、あのシリアルキラーのときと同じだ」

 それは少しだけ古い話。まだ美影が御影石を持っておらず、託哉が夕貴と出会っていなかった頃の、語られることのないおとぎ話のような過去。

「いや、でもまあ規模だけで言えば、前とは比べもんにならないか。せいぜい気をつけることだな。あのとき、美影ちゃんは大怪我を負ったんだから。今回はそれで済むとは限らないぜ」
「うるさい。わたしに話しかけるな」
「おー怖い怖い。せっかく親切心で忠告してやってるのに」

 美影は無意識のうちに託哉から目を逸らした。単純に見たくなかったのだろう。美影にとって、夕貴が幸せに満ちた『日常』を思わせる存在なら、託哉は暴力に満ちた『非日常』を強く意識させる存在だから。

 それに美影にしてみれば、お互いに特殊な環境下にあるとはいえ、一切信用ができないこの玖凪託哉という男の声を素直に聞き入れることのほうが難しい。昔に比べれば流れる血が少なくなった時世ではあるが、そもそも彼と彼女は同じ釜の飯を食って和やかに談笑できるほど近しい距離にはないのだ。

「……玖凪の。おまえの目的はなに?」
「下手に勘繰るなよ。こうしておまえと話してることにも深い意味はねえ。まあ強いていうなら、美学だな」
「は?」

 何を言っているんだこいつは、と目を眇める美影をよそに、託哉はかぶりを振った。

「分かんねえならいいんだよ。それでもスッキリしたいなら、女を大切にする、ただの優しいイケメンっつーことで納得しとけ」
「え、ドン引き」
「なに引いてんだバカが。食べんぞおまえ」
「本気でキモイからとっとと死ね」

 そう、美影が結ぶのと、まったくの同時。ウッドチェアーが無人になり、微かな音を立てた。

 僅かな予感もなく動いた託哉は、美影の背後を取った。反射的に跳ね上がった蹴りを躱し、次いで振るわれた腕を受け止めると、そのまま力任せに引き寄せて丸テーブルのうえに押し倒した。痛みに顔をしかめる美影の首に手を当てて、託哉は酷薄とした表情を浮かべる。

「滑稽だな。可愛い可愛い美影ちゃん」

 鼻と鼻が触れあう、吐息と吐息が交じり合う距離で、彼は囁いた。

「オレがその気なら、おまえはもうここで死んでる。それがどういう意味か、わかるか?」

 ぞわり、と空気に異物が走る錯覚。顔を背けようとした美影は、しかし託哉の手によってもういちど正面を余儀なくされる。それは逃げようとしたわけではなく、ただ単に男に触れられて気持ちが悪かったからだろう。事実、美影は怯えることなく強い敵意のこもった瞳で、託哉を睨めつけた。

「死ぬのはいったいどっちだろうな。えぇ?」

 愉しそうに嗤う託哉。当然、こんな扱いを受けて大人しくしていられるほど美影は大人ではない。

 あと数秒もすれば殺し合いの一つでも始まっていたのかもしれないが、しかし、終幕は意外なかたちで訪れた。

「なにしてんのかな、あんたは」

 満面に咲かせた笑みのなかに御しきれない憤怒を湛えて、藤崎響子は第三者が見れば明らかに犯罪の第一歩としか思えない現場を阻止した。

「さっきから見ないと思ったらこんなところでなに盛ってんのよ。ふざけんのもいい加減にしなさいよ、バカ凪」

 純粋な怒りとはまた違った。なぜか響子の声音にはいくらかの戸惑いのようなものがある。

 託哉は白けた顔でため息をついたあと、組み敷いていた美影を解放した。

「やーめた。ガキはオレの趣味じゃねえや」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!」

 身勝手な言い草で、面倒から逃げるように踵を返す託哉を、響子は慌てながら引き止める。

「あんた自分がしたことわかってんの!? 言っとくけどあたしが警官ならあんたは今頃、確実に……」
「じゃあな美影ちゃん。オレが言ったこと忘れんなよ」

 響子のことなんてどこ吹く風といった様子でそう締めくくると、託哉はバルコニーを辞した。

 そのあまりの自然体な一連の言動は、これまでの経緯を想像でしか理解していない響子を困惑させた。それでも彼女は、思いつめたような顔で身なりを整える美影のそばにいることと、年下の少女にそんな顔をさせた託哉を追うのとでは後者を優先するべきだと判断したらしい。一言、二言ほど気遣いの声をかけてから、響子は弾かれたようにバルコニーから駆け出した。静かになったあと、美影は、託哉に掴まれた首のあたりをそっと抑えて唇を噛み締めていた。

「待てっつってんでしょ、玖凪!」

 ポケットに両手を突っ込んで肩で風を切るように歩く託哉の腕を、響子は半ば力任せに掴んだ。

「あんたにとってはちょっとした悪ふざけだったかもしれないけど、今度ばかりはやりすぎよ! 女の子はね、あんたが考えてるよりも弱い生き物なの! 分かる!? これで美影ちゃんが男性恐怖症にでもなったら責任とれんの!?」
「抱いてもない女の責任なんて取れるわけねえだろ。じゃあオレ、ちょっとトイレいくわ」
「ふざけんなっ!」

 萩原邸に響き渡るほどの大音量。響子は顔を赤くして、荒い息をつきながら、自分よりも十センチ以上は高い男の顔を見上げた。一般的な少女なら気後れしてしまうような状況や力関係でも、自分が決して間違っていないと思ったことなら臆せずに突き進むのが藤崎響子だ。そのことは託哉もよく知っている。が、だからこそ、彼には腑に落ちない点があったらしい。

「つーか、委員長、なんでそんなに怒ってんの?」
「なんでって、そりゃ、だってあんたが……」
「そもそも委員長にそんなこと言われる筋合いなんてあったっけ? オレがどこでどの女とどんなことをしてようが、おまえには関係ないじゃん」
「か、関係あるわよっ! あんたが悪さすんのをみすみす見逃せるわけないじゃない!」

 響子の歯切れは明らかに悪かった。無理もない。託哉の誠実さの有無はどうであれ、それに関する争点に真正面から首を突っ込めるほど響子は、彼と具体的な立場にないのだから。

 かつての高校の同級生。クラスの友人。大学の同胞。もっとも近しい関係の言葉をあえて求めるなら、腐れ縁。基本的に響子と託哉をつなぐのは、そんなありきたりでどこにでもある相関だ。

 その気になればいつだって他人になってしまえるような薄い繋がり。そんな間柄の響子が、託哉の女性関係を宥めるだけならまだしも、こうして口角泡を飛ばす勢いでまくし立てるのはやや異常と言える。

 実際、託哉も煩わしく思ったのだろう。響子の身体を軽く押す。

「悪さか。たとえば――」
「きゃっ……!」

 突然のことにバランスを崩した響子は、壁に背中からもたれかかった。黒い髪が乱雑になびいて、シャンプーの香りが広がる。

「――こんな感じか、響子」

 ドン、という乱暴な衝撃とともに、託哉の手が、響子の顔の真横に叩きつけられた。さきほどの喧騒が嘘のように静まり返った空間で、その耳朶を打つ静けさと、眼前に迫った玖凪託哉という”男”に怯えるように響子は身を竦ませた。

「怖いか? 震えてんぞ」
「べつに、怖くなんて……」
「男って生き物はな、おまえが考えてるよりも悪いんだよ。もっと教えてやろうか?」
「……なによ、話にならない。もうあたし、いくから」

 そう簡単に逃がしはしないと託哉はもう一歩詰め寄って無言のプレッシャーをかける。顔がさらに近くなったことで緊張したのか、ほとんど抱き合うような距離になったことを意識したのか、響子の顔はうっすらと赤く染まっていた。託哉から目をそらし、唇をぎゅっと噛み締めている。

 そのまま時間が過ぎる。刻一刻と響子の身体は体温を上げていく。おそらく彼女の速くなった心臓の鼓動は託哉にも伝わっていただろう。明らかに男慣れしていない、初心な少女の姿がそこにはあった。

「なーんてな」

 委員長にも可愛いとこあんじゃん、と言って、託哉はあっさりと身を引いた。響子はぽかんとしたあと、ようやく自分がバカにされていたのだと理解が追いついたらしい。それでも何事もなかったかのように去っていく託哉の背が、なぜか響子には遠いものにでも思えたのだろうか。

「く、玖凪」

 呼び止める声は、どこか遠慮しがちなものだった。ぴたりと足を止めた託哉は肩ごしに振り返って、冷たい横顔だけで響子を遇する。

「あんたさ、もっと、その……学校とか、ちゃんと来なさいよ」

 どうしてそんなことを言ってしまったのかは響子にしか分からない。

「出席とか取らないと単位もらえないし。講義中の小レポートもあるし。期末試験の範囲の確認とかもしなきゃだめだし」

 託哉は何も言わない。沈黙という空白の間を嫌って響子は矢継ぎ早に喉を震わせる。

「もしよかったら、ノートとかプリントとかコピーさせてあげるし。一人で講義に出るのが嫌なら、連絡くれたらあたしも一緒に受けてあげるし」
「そうだな。そうできたら、面白いかもな」
「でしょ。だったら……」
「幸せなやつだな、おまえって」

 それだけ言い残して、託哉は立ち去った。階段を下りていく音。あとには響子だけが残された。

「……なによ、あいつ」

 とても悲しそうな顔で、彼女は呟いた。

「そんな冷たいこと……言わなくていいじゃん」



 鮮烈な真紅に染め抜かれた地平線がおぼろとなって消えた頃、あまねく世界は深い闇によって夜と閉じられていた。

 星が一つ、また一つと輝くたびに街からは明かりが消えて、夢が一つ、また一つと増えていった。温かな喧騒の名残に包まれて、誰もが幸せそうに眠っている。それは萩原邸も例外ではなく、あれだけ盛り上がった晩餐が嘘のように、優しい静寂が満ちていた。

 ナベリウスは一人、何をするわけでもなく外にいた。屋内からも庭からも死角になる物陰で、無機質な壁に背を預け、親とはぐれた迷子のように佇んでいる。庭には人の気配。きちんと話をしなければいけない親友がそこにいる。それでもナベリウスの足は動かず、たったひと握りの勇気が持てない自分への言い訳として彼女は、ただ夜空を見上げていた。

 今日は、きれいな満月だ。

 こうして月を眺めてから、いったいどれだけ無為に時間が過ぎていっただろう。それを苦痛に感じないことが嫌だった。もはや自分は、こんな逃げるような時の刻み方に慣れてしまっているのだと思い知らされるから。

「……はぁ」

 小さなためいき。俯くと、さらさらと白い光がこぼれる。月明かりを受けて輝く銀色の髪が、彼女の物憂げな顔を覆い隠した。

 こんなはずじゃなかったのに、とナベリウスは思う。ほんとうならもっと言いたいことがあったのに。言わなければならないことがあったのに。そのためにわたしは、彼と彼女のまえに姿を見せたのに。

 いつからだろう。これほど弱くなってしまったのは。いや、考えるまでもなく答えは分かりきっている。

 あの日、あの時、あの場所で、まだ母親ではなかったひとりの少女と出会ったときから。

 ナベリウスは氷を溶かす温もりと引き換えに、人並みの弱さを知ってしまったのだ。

 だってそうだろう。緊張に震える指先も、止めどない動悸も、在りし日の思い出を映し出す白銀の瞳も、いまの彼女を形成する全てが、ただ、弱く、儚い。

 それはまるで、一人では立ち続けることのできない、ヒトという生き物のよう。

「きれいな月だね」

 迷い続ける彼女の背中を、そっと押す声があった。

「そんなところにいないでこっちにきたら? 久しぶりにお喋りしようよ、ナベリウスちゃん」

 昔の頼りなかった彼女とは違う、どことなく萩原駿貴を彷彿とさせる強く穏やかな口調。

「……そうね。お互いに、積もる話もあるでしょうし」

 長い髪をかきあげて背中に流す。覚悟を決めるとあとは早いものだった。庭先のテーブルに腰掛けて月見をしている萩原小百合のもとに、ナベリウスは一歩、また一歩と近づいた。

 小百合がゆっくりと振り向く。夕貴によく似た、とてもきれいな顔立ち。年をとっても、その悪という概念の一切を知らないような透明色の笑顔はなにも変わっていない。幼かった無垢な瞳には、しかし母性という名の慈愛が滲んでいて、あのときの泣きながら笑っていた少女が立派な母親になったことを思い知らされた。

「……髪、切ったのね」
「え? ああ、うん」

 小百合は少し気恥ずかしそうに、肩口あたりの髪を一房、指でつまんで見せた。

「なんていうか、たまにはわたしもイメチェンしてみよっかなーなんて。それでほら、一回短くしてみるとこっちのほうが楽っていうか、意外と性にあってたっていうか」
「そう。確かに小百合には、そっちのほうが似合ってるかもね」

 ぎこちなく笑って、ナベリウスは首肯した。小百合が長い髪を自慢にしていたことも、萩原駿貴にそれを褒められたことも、ただ首を縦に動かすことによって無理やり忘れようとした。

「だよねだよね! 自分でも短いほうがいいかなって思ってたんだよ。いろいろと邪魔になることも多かったし。それに、ね」

 夕貴ちゃんが生まれてくれたから、と。

 ここにはいない誰かに捧げるように、小百合は柔らかな夜風に言葉を流した。

 ずきん、と鈍い痛みがナベリウスの胸を襲った。どうしてわたしはわざわざ聞いてしまったんだろう。小百合が髪を切ったほんとうの理由なんて、初めから全部分かっていたことだったのに。

 ナベリウスが彼と彼女のまえに現れてしまったことで、止まったままだった時計の針が動き出してしまった。夕貴と二人で生きていくことに精一杯で、いつからか考えることも忘れてしまった過去をいま、小百合はゆっくりとなぞっている。もしこのままナベリウスと出会うことがなかったのなら、きっと小百合は思い出すこともなかったはずだ。そうすることで、最愛の人を喪った悲しみを忘れて、生きてきたはずなのだ。

「いままでありがとうね。わたしのかわりに夕貴ちゃんを支えてくれて」

 その声には、積年の想いが込められているように思えた。

「……べつに、改まって感謝されるようなことでもないわ。ただわたしは、自分がしたいことをしただけだから」
「それでも、だよ。あの子ね、実はとっても寂しがり屋なの。子供の頃なんて、わたしがとなりにいないと不安がって眠ることもできなかったんだから。ほんと、似なくていいとこばっかりわたしに似てて嫌になっちゃう」
「そう? むしろ小百合に似たからあんなに可愛い子に育ったんじゃない? これで駿貴のほうに似てたかと思うと、考えるだけでも寒気がするんだけど」
「いやぁなんか照れちゃうなぁ。まるでわたしまで可愛いって言われてるような気がしちゃって。自分ではそろそろ妖艶な色香の漂う美人さんのつもりなんだけどねー」
「はいはい、身体をくねくねしない」
「じゃあこれならどうだっ」
「流し目が絶望的に似合ってないわよ」
「ひどい! わたしだってちょっとぐらいナベリウスちゃんに近づきたいのに!」

 ほっぺたを膨らませて、子供みたいに駄々を捏ねる。これで大学生の息子がいるなんて、おそらく世界中の誰もが信じないだろう。それだけ小百合は若い。年齢的なものもあるが、身体的なこともそうだ。《悪魔》と深く交わったことで、萩原小百合という人間の生態にも歪みがもたらされている。

「……うん、でも、そうだね。もし夕貴ちゃんが、わたしじゃなくて、あの人に似ていたら、それはそれでよかったかも」
「勘弁してよ。あんなやつが二人もいたらたまらないっての。いったい、わたしがどれだけあいつに振り回されてきたか小百合なら知ってるでしょ?」
「それでも……」

 それでも、と小百合は繰り返した。

「もしあの人に似ていたら、きっと困っている女の子を助けてあげられるような素敵な男の子になっていたと思うから」

 夜空を見上げる小百合の目には、果たして何が映っているのだろうか。

「ほんとうは……月なんて嫌い。とてもいやなことを思い出すから」

 小百合に似合わないその小さく無感情な声は、ナベリウスの耳にだけ届いたあと、まるで吐息のように薄闇へと散っていった。

「大丈夫よ。それなら」

 ナベリウスは頷いた。銀の髪が幾筋もの光芒となって夜の帳を照らした。

「夕貴はね、あなただけじゃなくて、ちゃんと駿貴の強さと優しさも受け継いでる。困っている女の子に、あの子はちゃんと手を差し伸べてきたわ」

 名もなき悪魔に取り憑かれた少女。未来という己の幸福を信じられない少女。父と母の想いを知らず孤独に生きていた少女。その全てを夕貴は傷つきながら、何度も倒れながら、しかし不器用なほどのまっすぐさで救ってきたのだ。

「……そっか。そうだね。ナベリウスちゃんがそう言ってくれるなら、きっとそうなんだろうね」

 誇らしいことのはずなのに、なぜか小百合は寂しそうだった。その表情が意味するところを、小百合の母親としての心情を、この世界でナベリウスだけが分かっていた。大きな力は、それだけ多くの人を救えるかわりに、ほんとうに大切な人を悲しませてしまうかもしれないのだから。あの萩原駿貴がそうだったように。

 一人ならいい、二人でもいい、三人までなら許そう。しかし、もしもそれ以上の誰かを救おうというのなら、そのときはきっと――

「心配しないで。確かに夕貴は、あなたにも駿貴にもよく似てる。でも、似てるだけで、決して同じじゃないんだから」

 だから同じ結果にはならないと、ナベリウスは自分に言い聞かせるように宣言した。小百合はきょとんとした顔で目をぱちくりさせたあと、今夜一番の微笑みを咲かせた。

 それから二人はいろんな話をした。空白の時間を埋めるように、空と星と月に見守られながら、《悪魔》と人は寄り添って言葉を交わし続けた。家のこと、身の回りのこと、これからのこと、もっと細かく言えば夕貴の学校の成績のことまでなんでも話した。

 やがて夜が深くなり、動物たちの息吹さえも聞こえなくなった頃、どちらからともなく立ち上がった。初めの緊張が嘘のように楽しい時間だった。できることならもっと、時間の続くかぎり話していたいとナベリウスは思った。しかし焦ることはないのだ。その機会なら、これからもたっぷりとあると。

 このときはまだ、そう思っていた。

「……あっ、そうだ。ナベリウスちゃん」

 ふいに背後から声をかけられた。どうしたの、と問い返すよりも先に、小百合は語を継いだ。

「あの人は……駿貴くんは、なにか言ってた?」

 途端、目の前がまっくらになった。浮き足立っていた心が昏く沈んでいく。脳裏に蘇る色あせた記憶。遠くに消えていく主の背中。地べたに這いつくばり、必死に手を伸ばす彼女に託された言葉があった。

 それは、遺言だ。

 萩原駿貴が、ソロモン72柱が一柱にして序列第一位の大悪魔バアルが、最期に口にした台詞。本来であればそれを伝えることが、ナベリウスにとって何よりも優先すべき使命だった。でも、ずっと逃げてきたのだ。彼女と向き合うことが怖かったのだ。

 しかし、もう逃げることはできない。

「……ああ、うん」

 ナベリウスは飽くまで背を向けた体勢で、訥々と言った。

「駿貴は――」

 彼が遺した言葉を、妻は静かに受け止めた。口にした瞬間に嘘になってしまう、とても優しくて残酷な言の葉だった。小百合は怒りに震えることも、泣き喚くこともなかった。どう足掻いたとしても過去が変わることはない。それをよく理解しているのだろう。時の流れは残酷だな、とナベリウスは思った。少女は母親になるのと同時に、大人にもなってしまったのだ。

 ありがとう、と小百合は言った。ナベリウスがもっとも聞きたくない一言だった。これは果たして罰なのか、それとも罪なのか。冷え切った頭で思考して、きっとその両方だろうとナベリウスは断じた。

 最後まで背を向けたまま歩き出し、やがてナベリウスの姿が消えた頃、その場にはまだ小百合がいた。チェアーに深く腰掛けた体勢のまま、足を抱えて、まるで子供のように膝のあいだに顔を埋めていた。

「……バカ」

 その罵倒も、もう届かない。遠いところに行ってしまった人には、聞こえない。

「駿貴くんの、バカ」

 庭から少し離れた物陰で、ナベリウスはふたたび建物に背を預けていた。誰にも聞かれたくないであろう、小百合の独り言を聞いていた。汗ばむ真夏の熱気も関係ない。なにもかもが冷え切っていた。頭を、身体を、心を絶対零度に凍らせなければ、きっともう彼女は立っていることさえできなかった。

「一緒にいるっていったもん」

 悲しみに暮れた声が聞こえてくる。

「ずっと一緒にいてくれるって、約束したもん」

 鈍い痛みを訴え続ける心とは別に、ナベリウスの頭は冷静だった。ひたすらに安堵していた。目を合わせなければ、彼女の姿を見なければ、たとえ小百合が泣いていたとしても、それに気付かなくて済むから。

「……ごめんなさい」

 嗚咽に混じって、涙が溢れる。視界はかすみ、膝が震える。小百合は声を押し殺して泣いていた。泣いているのは小百合だけだと、そう、思いたかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 ほんとうに泣きたいのは小百合で。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 ほんとうに泣いていたのは、ナベリウスだった。

 どうして、と自問した内なる声は、おまえのせいだ、という自答によって完結する。それでも涙が止まらない理由だけがどうしても分からなかった。わたしが泣いていいはずがない。だって、わたしよりも小百合と夕貴のほうが辛いに決まっているのだから。きっとこうして涙を流すことで悲哀に浸り、自分も被害者の一人だと無意識のうちに思い込みたいのだろう。泣けばぜんぶ、許されると心のどこかで思っているのだろう。 

 なんて、ひどい女。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 両手で顔を覆って、ひたすらに懺悔を続ける。流れ続ける涙は、皮肉なほどに美しかった。

「夕貴……」

 その名を呼ぶだけで、不思議と胸が安らぐ気がした。いますぐ会いたい。抱きしめてほしい。頭を撫でて、大丈夫だよと囁いてほしい。泣き疲れて眠るまで、ずっとそばに寄り添っていて欲しい。しかし、それでも。

「……寒いよ」

 彼女の涙を拭う者は、だれもいなかった。



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