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No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
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[29805] 4-5 かつてだれかが見た夢
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:30a5855b 前を表示する
Date: 2014/11/27 20:33
 
 深夜、人里から遠く離れた深い森のなかに、夜影を歩く者がいた。鮮血を思わせる紅い髪。心の底から血を渇望する眼。端正な口元は三日月のように大きく裂け、抑えきれない愉悦が美貌を凶相に変えている。大気を震わせる凶悪な波動が、男の髪と衣服を揺らしていた。

 男のまえに立ちはだかるように、薄闇のなかに巨大な建造物が浮かび上がった。高い塀と広大な敷地。かつては多くの罪人を収容していた陸の孤島。それはとうの昔に廃棄された刑務所だった。

 暗闇のなかに夥しいほどの気配が潜んでいる。蟲のようにひしめきあって、うねうねと、かさかさと、無秩序のようでいて秩序を保ちながら一定の蠢動を繰り返している。それがほんとうに蟲であったのなら、いくらおぞましくてもまだ救いはあったかもしれない。しかし、その正体は、黒いローブをまとっただけの人間だった。

 “神を崇めよ。隣人を愛せよ。自然を慈しみ、動物に感謝の意を捧げよ。されど、決して《悪魔》だけは許すまじ”

 かつて、そんな純粋な教義を掲げた宗派があったことを覚えている者はもう、ここにはいない。

「もうマジで飽きちまったが、それでも何度でも言ってやる」

 人間の醜さを余すことなく体現したような群体に向けて、紅い男は告げる。遥かな昔、叶うはずのない願いを抱いていた馬鹿な少女を思い出しながら。

「オレの名はフォルネウス。あのクソガキが定めた序列は第三十位。おら、これでいいんだろうが」

 突如として現れた正真正銘の《悪魔》を前にして、黒い布に身を包んだ者たちは恐怖するどころか歓喜を爆発させた。おぞましく冷えた空気のなか、誰もが死ぬほど笑っていた。命ある間にカタキと巡り会えた奇跡に心から感謝していた。

 年老いた男が喜びに震える手で重火器を構えた。若い女は涙を流して感謝しながら、火薬の臭いに酔いしれている。小さな子供たちが化学兵器を喜々として抱きしめ、それを幸せそうに見守っていた夫婦は手にした刃物を狂気で濡らしていた。

「さあ、始めようじゃねぇか」

 フォルネウスが嗤うと同時に戦火が弾けた。高い塀のうえから、広い敷地の中から、朽ち果てた監獄の奥から、様々な狂気が、積年の執念を乗せて解き放たれる。それだけで射線に立っていた人間の数十人が巻き込まれて死んだ。血まみれになって倒れていく同志を思いやる者は一人もいない。まだ生暖かい死体でさえ、先立つ不幸を身内に嘆くことは一切せず、もう動くはずのない蝋細工のような目で《悪魔》だけを追っていた。

 大自然さえも跡形もなく焼き尽くすほどの膨大な火力を前にしても、フォルネウスは口元に刻んだ笑みを絶やさない。彼のみに与えられた異能を使う必要もなかった。もはやフォルネウスの運動能力は物理法則をも冒涜する。音速で飛来する弾丸を寸分の狂いもなく見切り、降りかかる火の粉を払いのけながら、すれ違いざまに人間たちの身体を壊していった。

 まもなく轟音。携帯式のロケット砲がまとめて数発、フォルネウスを目掛けて発射される。次いで石ころのような気軽さで放り投げられる手榴弾。空間そのものが破砕に揺れ、血と人体と臓物が吹き飛び、砂塵が大きく舞い上がって視界を塗りつぶした。

「まったく、それはあたしのセリフだ」

 新たな絶望が追加された。フォルネウスを超える強大な気配。蒼穹を思わせる澄み切った波動が風のように流出して、一気に視界を晴らした。

 フォルネウスと背中を合わせて少女は立っていた。肩口まで伸びた亜麻色の髪。気の強さを印象づけるツリ目。カモシカのようにしなやかな肢体をしているが、その身に宿す力だけを純粋に比べるなら彼女の主にさえ匹敵する。その証拠に、彼女はさきほどの集中砲火を、ただ全身から波動を発しただけで完全に防いでみせたのだ。

 ソロモン72柱が一柱にして、序列第十三位の大悪魔ベレト。それが少女の偉大なる真名である。

「この国では派手に暴れるなとあたしは何度も言ったはずだ。まさか忘れたとは言わせないよ、フォルネウス」
「忘れたもクソもねぇだろうよ。暴れてんのはオレじゃねぇ。奴らだ。文句があるなら、てめぇの足元に転がってる馬鹿どもに言ったらどうだい」

 白々しいフォルネウスの言動に、もはやベレトは反駁する気も起きなかったらしい。本来であれば戦闘行為に発展する前に、この《悪魔祓い》の拠点を一撃のもとに滅ぼす段取りだったのだが。

 あれほどの火力を受けても傷一つ負っていない《悪魔》を目にして、狂信者は怯むどころか朗らかに笑った。よかった、生きている。まだ死んでいない。これでもっと殺せるぞと、思わず涙がにじむほどに悦に入っていた。

 ふたたび地獄絵図が再開された。だが二柱の《悪魔》が立っていた空間にありとあらゆる凶器が殺到したとき、そこにはもう彼らの姿はない。フォルネウスは血に濡れた大地を疾走し、ベレトは煙で濁った空に跳躍していた。

 異能を使わず、素手で人体を切り裂くフォルネウスに対して、ベレトは人差し指だけを使っていた。自身の膨大すぎるDマイクロウェーブを限定的に解放した、全力の一割にも満たない攻撃。しかし、それはこの場において、人類が発明した火器を遥かに上回る火力を誇っている。細い指先に収束された青い光は、一筋の光芒となって全てを飲み込んでいく。

 そんな紅と蒼の大悪魔が広げていく破壊の惨状に、一匹の獣が哀れにも迷い込んでしまった。濃い緑色の体毛が特徴的な、かなり大型の狼である。たしかに強靭な四肢をしていたが、それが通じるのは飽くまで野生の世界だけだろう。この泥沼の戦場にかぎって言うなら、その獣の存在はあまりにも儚すぎた。

 だが、しかし。

 なにかがおかしいと、その違和感に誰かが気付いた。

 ほんとうにこんな場所に動物が足を踏み入れるだろうか。野生の獣たちはだいぶ前に危険を察して、すでに遠くへ逃げ出している。だとすれば彼はよほど勇敢なのか、あるいは呆れるほどに鈍感なのか。いや、きっとこれはそれ以前の問題。

 まず、あんな姿をした狼なんて、この世界のどこにも存在しない。

 そのとき、大自然のごとき力強い波動が周囲に伝播した。三重に鳴り響くハウリングに人間たちは耳を抑えてうずくまる。

「かような騒ぎに加わるつもりなど、もとよりなかったが」

 鋭い牙の隙間から漏れ出たのは、低く重たい男性の声。濃い緑色に染め抜かれた体躯。狩猟に特化し、弱肉強食という絶対のルールを体現したような無駄のないフォルム。大きな身体に見合った立派な尻尾。目には長い年月を生きた人間のごとき深い意思と知性が宿っている。

「グシオンの命とあらば仕方あるまい。我が同胞に加勢するとしよう」

 運動性能を極限まで追求した四肢が軽く沈み、残像さえもかき消すほどの俊敏性をもって、彼はすべてを置き去りにした。戦闘の余波によって惨憺たる有様となった監獄のもっとも高い位置、朽ち果てた監視塔のてっぺんに着地する。大地に刻まれた深い爪痕をみれば、彼がフォルネウス以上の速力をもって疾駆したことが分かる。

 雲でかすんだ夜空と、おぼろに映る月を背にして彼は告げた。

「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第二十九位の大悪魔アスタロト。これは情けである。せめて苦しまずに逝くがよい、人間よ」

 穏やかな声で名乗りをあげてから、アスタロトは天に向かって吼えた。どこまでも残響する、獣の王とも言うべき偉大な咆哮だった。それは攻勢を狙ってのものではなく、飽くまで弔いのための声だった。たとえ近場にいる人間たちの鼓膜が破れてしまったとしても。

「チッ、うざってぇ。そのへんでドッグフードでも食ってろや犬っころ」
「むしろあたしはあんたに引っ込んでもらいたいところなんだけどね」
「まあそう言い争うこともあるまいよ。まずは彼奴らを安らかに送ってやることが先決だろう」

 この三柱の《悪魔》が集結した時点で、これはすでに戦闘ではなかった。そんな大掛かりなものではない。矮小な羽虫をつぶすとき、人はその行為にわざわざ仰々しい名をつけたりはしないから。

 それは《悪魔》にとっても同じこと。

 命が散っていく。だれもが死んでいく。守られるべき人間の尊厳は、この夜にかぎっていえば蹂躙されるだけのものでしかなかった。

 深紅の大悪魔がもっとも死をもたらした。血よりも紅い髪を揺らしながら。蒼穹の大悪魔は全てを無に帰す。空よりも大きな絶対のチカラで。濃緑の大悪魔は大地を駆けていた。生きとし生ける者を土に還すのがせめてもの情けだった。

 それから数分が経過した頃、その場に立っているのは三人だけだった。至るところから火の手が上がり、もはや建物は原型を留めていない。地面は余すことなく血に濡れているが、意外なことに死体はそれほど多くなかった。ベレトの力によって大部分が消し飛ばされたからである。

「どうやらグシオンが言った通りだったみたいだね」

 周囲を見渡しながらベレトが言った。

「うむ。間違いあるまい」

 警戒するように尻尾をぴんと立ててアスタロトが同意する。

「はっ、この忌々しい波動もずいぶんと久しぶりだなぁ」

 ふところから取り出した紙巻たばこに火をつけながらフォルネウスが吐き捨てた。

 ドクン、と微かな脈動を感じる。人知を超えた強大なチカラを持つ彼らでさえも漠然とした不安を抱く、あまりにも邪悪な気配の残滓。いまはだいぶ薄れてしまっているが、それでも《悪魔》にとって好ましいものではない。とくにアレは。

「そんなに遠い過去のことでもないだろうね。むしろごく最近の話だ」

 数日か、数週間か、正確なところは分からないが、それでも。

「――この場所に、《悪魔の書(ゴエティア)》が、あった」

 整った顔を歪めて、ベレトはその名を口にした。《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》の一つにして、《悪魔》を律する五つの法典のなかでも最凶の力を持った書物。彼らにしてみれば、この極東の島国にゴエティアがあるというだけでも半信半疑だったのに、まさかこんな人里離れた山奥で実際に感じることになるとは。

「あいつは間違ってなんかいなかった。やっぱり《悪魔の書》はこの国のどこかにある」

 呆れたようにベレトはいう。フォルネウスは白けた顔で紫煙を吹かし、アスタロトは大きく頷いた。三者三様に反応は違えど、内心では同じ心境に至っていた。すなわち、グシオンの言葉はすべて正しい。彼が間違ったことなど一度としてあっただろうか。

 それはこれまでだけの話ではない。きっとこれからも、グシオンは正しい選択を繰り返していくだろう。たとえ、その先に待つのが栄光でも破滅でも、絶対的な天秤の計り手として在り続けるに違いない。《バアル》がいなくなってしまったいま、グシオンを止めようとする者はもういないのだから。

「いこう。アスタロト」

 ベレトに応えて、濃緑の魔獣は空高くに跳躍した。なにもない空中に一瞬の火炎が生まれる。次の瞬間には、月明かりが地面にうつす影は狼のシルエットから、大きな翼の生えたライオンに変わっていた。超大型犬ほどだったサイズも、いつの間にか普通自動車と同程度まで膨れ上がっている。

 その緑の体毛に覆われた背に、ベレトとフォルネウスは飛び乗った。二柱の《悪魔》を背負ってもアスタロトは揺らぎもせず、翼を力強く羽ばたかせて夜空を泳いでいく。

 その最中、ベレトは右手を伸ばして、人差し指と中指の二本を地上に向けた。目もくらむほどの蒼い極光が世界を塗りつぶす。光が止み、ふたたび夜が戻ったときにはもう、廃棄された監獄の影などどこにもなく、ただ大きなクレーターが存在しているだけだった。

 人の血も、肉も、骨も、執念も、憎悪も、そして生きていたという証さえもなく、闇は闇のままで終わったのだ。




 高級ホテルの一室で仮眠を取っていたリゼット・ファーレンハイトは、何度目かの携帯の着信によって現実に引き戻された。ぼんやりとした頭で暗い天井を見つめてから、ぎしぎしと軋む身体を無理やり起こして最低限の身だしなみを整える。

「お休みのところ申し訳ありません、室長」

 まもなく来室したのは戦隊長の肩書きを持つアルベルト・マールス・ライゼンシュタインだった。名目上はリズの直属の部下にあたる。どれほどの鍛錬を積んでも寄る年波には勝てないのか、灰色の髪には白いものが幾分か混じり始めている。片時もゆるむことのない険しい眼光は、彫りの深い顔立ちとよく合っていた。恰幅のいい身体を包むのは軍服ではなく、ホテルのドレスコードに見合った外連味のない黒のスーツである。

 軽く挨拶を交わした末、二人はホテルのソファに差し向かいで腰を据えていた。テーブルのうえには淹れたばかりのコーヒーが湯気を立てている。

「べつに構いません。何があったの」

 ストレートに下ろした髪を気だるげに払いながら、リズは疲れた声で言った。エメラルドグリーンの瞳には眠気と疲労が多分に滲んでいる。感情豊かに笑う普段の彼女との落差はあまりにも激しかった。せっかくの愛らしい顔も、生きることに疲れた落伍者のように生気が薄れている。

 そんな彼女の様子に気付いていないふりをしながら、アルベルトは何枚かの書類を差し出した。

「これで都合、四度目ですな」

 報告書にさっと目を通したリズは、大きなため息とともにかぶりを振った。それは呆れているというよりも、諦観の素振りに近かった。

「やっぱり、こうなっちゃったね」 
「ええ。やはり間違いないでしょう」

 過去、来日したグシオンと思しき勢力が、各地に散っている《悪魔祓い》の集会や拠点を襲撃したのは事実確認が取れているケースだけでも三件あった。その間、二週間も経っていないことを考えれば、あまりにも異常なペースといえる。今回の新たな報告は、その性急すぎる行動には何らかの意味があるのでは、という疑惑にさらなる真実味を加えた。

 そしてなにより、自分たちの推測もあながち外れてはいないだろうと、確かな手応えを得るにはじゅうぶんな状況だった。

「とはいえ、これは手放しで歓迎できるようなことでは無論ありません。グシオンが引き起こす騒動の被害と規模は、もはや我々の情報統制によってカバーできる範囲を大きく超えています。日本政府による支援も確実にありますが、しかし彼らの手を借りるということは、それだけ我々の首を絞める結果に繋がることは自明の理。早々に対策を講じる必要があると判断します」
「違うわ。ほんとうの問題はそこじゃない」

 冷徹な目でリズは断じた。

「これまでグシオンは四度も《悪魔祓い》を襲撃した。襲撃することができた。わたしたちでさえ知る由もなかった情報を、あの無貌の大悪魔は手中に収めていた」

 いくら強力でも、三柱の使徒を従えているだけでは三大勢力の一角にまで数えられない。ゆえに裏世界最大の組織と目される《法王庁》が、現存する《悪魔》のなかでも、最強と謳われる叫喚の大悪魔バルバトスを差し置いて、グシオンをもっとも警戒していることには明確な理由が存在する。

「だから、日本政府がむやみに手を出すような事態だけはなるべく避けたいところなんだけど、そうもいかないのが現状なんだよね」
「彼らにも面子というものがあるでしょうからな」

 邪魔だから消す。混乱を巻き起こすから排除する。これはそんなに簡単な構図ではない。それどころかグシオンを討つことは、人類の進歩を停滞させることになるかもしれないのだ。果たしてそのことに日本政府は気付いているのか。

 いくつかの業務連絡と、今後の方針に関する打ち合わせを終えてから、アルベルトは部屋を後にした。一人きりになったリズは、物憂げな目で窓のそとを見つめる。人の栄華を象徴するような高層ビル。月を目指し、天を穿ち、久遠の空を冒涜する無機質な人工物。かつては想像もできなかった光景だ。

 万物の霊長が手にした繁栄を、それをもたらした人物を思い描きながら、リズは小さな声で呟いた。

「……やっぱり、あなたは最後までわたしのまえに立ちはだかるんだね」




 蝶番の軋む音に出迎えられて、壱識美影は指定された場所に足を踏み入れた。

 かなり広い空間だった。風営法の登録上はカクテルバーということになるのだろうか。明るい橙色の照明が降りそそぐ店内は、高級感のある黒のグランドピアノと専属のピアニストが奏でる旋律でそっと満たされていた。木製のバーカウンターと、その向こう側に陳列された色とりどりの酒。足元には毛足の長い絨毯。明らかに富裕層か、何らかの事情がある者たちのために設えられた店だった。呆れたことに二階にも同様のスペースがあるらしい。

 客と思しき連中の姿もちらほらと目に付く。革張りのスツールに腰掛ける男は丹念に拳銃の手入れをしていた。テーブル席では娼婦を脇に侍らせた男が、麻薬取引と人身売買に関する独自の美学を常連に語っている。奥まったスペースでは屈強な身体をした男たちが、よく研がれた本物のナイフを投擲してダーツを楽しんでいた。

 表社会と異なるのは客層だけではない。黒服に身を包んだバーテンダーや給仕人は、身のこなしが優雅に過ぎた。おそらく経営陣はヤクザやマフィアごときではなく、もっと上の、裏社会における食物連鎖の上位に君臨する者たちに違いなかった。

 そんな闇の社交場において、美影は奇異の対象だった。突き刺さる多くの視線。敵意や害意が多分に入り交じったそれの中に歓迎するような温かみは微塵もない。あえて好意的な目を探すとすれば、それは劣情になるのだろうか。

 さりとて単純な好奇の目もいくつか存在した。子供の殺し屋や花売りなど大して珍しくもないが、この場合は彼女の服装が大きく問題となっていた。夜の街に似つかわしくない、黒のセーラー服である。それも音に聞こえた愛華女学院の制服とくれば誰だって怪訝に思っても仕方あるまい。

 人目を引く整った容姿に、兼ね備えられた知性。一見すると良家の子女にも思えるが、しかしそれにしては夜に馴染みすぎている。結果として美影は、多くの興味を集めながらも、その出自の不明さから遠巻きに見つめられる観察対象として距離を置かれていた。

「よお。いくらだい」

 そんな声がかけられたのは、店に入って五分が過ぎた頃だった。剃髪のたくましい男が片手でナイフを弄びながら、余裕に満ちた目で美影を見下ろしている。どうやらダーツで遊んでいた連中の一人らしい。向こうのほうで似たような雰囲気の男たちがはやし立てるように彼と彼女を見つめている。

 男は美影を抱きたいと言った。金ならいくらでもあると。それが偽りない本心というわけではないのだろう。ただ美影に興味を持ったから、彼女という人間を探るための口実として、男が女にかけるもっとも適当な一言を選んだだけだった。

「死ね。バカ」

 そっけなく応えて、美影は進路を変える。あいつフラレやがったな、と楽しそうに騒ぐ声。いくらかアルコールも入っているのだろう。それらの言動は、しらふの美影にとって非常に煩わしいものだった。

「待てよ、つれねぇな」

 踵を返した美影のほそい肩を、男が乱暴につかんだ。強引に振り向かされる。このままでは面子が潰れてしまうと思ったのか、あるいは事前にかなりの酒を胃の腑に入れていたのか、男の顔は熱と興奮にうかされていた。

「気の強い女は好きだが、生意気なガキはイラつくんだ」

 目にも止まらぬ速度でナイフを弄ぶ男の技術は、美影の基準から見てもかなりのものだった。刃物を凶器ではなく、身体の一部として扱っている。どうやら見掛け倒しではないらしい。この男は対人戦闘のプロフェッショナルだ。肌を切り裂く感触も、噴き出す血潮の温かさも知っている。

 だが、そんなことは美影にはどうでもよかった。

 一瞬の油断が死を招くということを知っていても、男は、小柄な美影などいつでも組み敷けると心のどこかで気を緩めていたのだろう。その僅かな心理の間隙は、男にとって美影の初動を見逃してしまう要因となった。

 脚をまっすぐ垂直に振り抜いて、美影は男の手を蹴り上げた。くるくると回転しながら落ちてきたナイフを静かにキャッチして、嘆息混じりに男を見つめる。痛みが驚愕に、そして殺気に変わるのは時間の問題だった。

「おい。それを渡せ」
「嫌」
「忠告はしたぜ」

 この世界を暴力で生きる者にとって得物は大切な商売道具であり、かけがえのない相棒だった。使い込んで手に馴染んだ武器を奪われるのは、女を寝取られることによく似ている。それがわかっているからこそ美影はあえてナイフを掠め取ったのだ。表面上は平静に見えるが、その実、彼女ほど負けず嫌いな人間もそうはいない。つまりは、面倒くさいことに巻き込まれた腹いせというか、ちょっとした嫌がらせのつもりだった。

 客観的にみれば、体格差で圧倒的に勝る男なら、激情のままに襲いかかっても労することなく美影を制することができる。しかし、その容易な選択が首を絞めることになると男には理解できたようだった。それぐらいは修羅場を潜っているし、相手の力量を計るだけの慧眼もあったのだろう。ゆえに彼は言葉による平和的解決ではなく、もう一本の別のナイフを引き抜くことを選んだのだ。

 このガキは、ただものではない。だからこそ確かめてみたい。純粋に力と力を衝突させて、どちらが上かハッキリさせたい――そんな思いが伝わってくる。それは身一つで戦場を生きてきた男の矜持だったのかもしれない。

 男は挑戦的な笑みを浮かべて姿勢を低くした。美影も感じるものがあったのか、男に比べるとぎこちない所作でナイフを構えてみせた。二人は数メートルほどの距離を置いて対峙する。空気が質量を持ったように重たくなり、加速する緊張感がピリピリと肌を焼いた。




 いくら裏社会の酒場といってもルール無用というわけではない。当然のことながら戦闘行為は御法度である。すでに他の客は、少女と男の決闘という、酒の肴にするには絶好のイベントに強い興味を示していたが、しかし経営陣にとって騒ぎが起きることは喜ばしい事態ではない。それが流血沙汰に繋がる可能性があるとすればなおさらだ。ホールにいたウェイターから状況を知らされた壮年の支配人は、重い腰を上げて仲裁に入ろうとした。

「いーじゃん、やらせておけば」

 バーカウンターに一人で腰掛けている若い女がそれを制した。フルーツカッティング用の果物ナイフを手でくるくると回す仕草が妙に合っている。長い髪をアップにした色気のある美人だった。かたわらに立てかけられている一振りの長物がなければ、今頃は男が群がっていたに違いない。

「せっかくの夜に水を差すのも無粋ってもんでしょ。どうせすぐに終わるんだしさ」
「……あなたは」

 支配人は彼女をよく知らなかったが、そのとなりで眠っている刀には見覚えがあった。そして、その業物を所有している家の名も。

「ちょっとした呼び出しがあってね。お邪魔させてもらってるよ」
「まさか、このようなところでお目にかかるとは……」
「あっはー、それ自分で言っちゃう? 元はといえばここは【哘(さそざき)】の管轄でしょ。マナーがいいとまでは言わないけど、治安のよさだけでいえばダントツだからね」

 ゆえに訪れる客は心のどこかでは退屈しているのだと、彼女は言った。たまにはこういう催しがあっても罰は当たらないと。

 その諫言を、支配人は素直に受け入れた。この国の裏社会に深く通ずれば通ずるほど、彼女たちの言葉を否定することはできなくなる。なにより彼女の生家とは、この年を取った支配人もいくらか関係があった。

「……その一振りを所有していた男のことを知っています。仲間を殺されました」

 恨みはないし、責めるつもりも毛頭なかった。ただ過去を懐かしむようにありのままの事実を語っただけ。女は微笑を浮かべて、かたわらの刀を見つめた。

「あなたの目は、あのときの彼によく似ている。暗い感慨がないと言えば嘘になります。しかし私は、そんなあなたとこうして語り合える今という時間を感じずにはいられない。あの戦いは、もう終わったのだと」

 治安大国と呼ばれたのも過去の話だ。現在の日本はあらゆる問題を抱えているし、治安も悪化の一途をたどっている。

 それでも、ずっと昔に彼らは夢を見たのだ。

 相克する殺し合いの螺旋に身を置いていた者たちで、あの頃は大変だったなと笑い話のように酒を飲みながら語り合えるときがくれば、それはどんなに幸せなことだろうかと。


 

 そんな一幕をよそに、美影と男は向かい合ったまま動かなかった。いたずらに時だけが流れる。互いに一歩でも踏み込めば、そこは必死の間合い。うかつに動けるはずもなかった。視線が交錯し、銀色の切っ先がゆらゆらと揺れる。

 ふっと男が笑った。先に仕掛けたのは彼だった。それもまた面白いと、いつ訪れるかも分からない後の先を取るのではなく、自ら生みだす先の先に光明があると判断したのだ。

 男は地を這うように距離を詰め、横薙ぎにナイフを振るった。文字通り、ただ振るっただけである。それが正解だった。基本というものを極めた先にこそ奥義は存在する。そこに余計な技術が介在する余地はない。

 いったい、いままでどれほどの血に濡れてきたのか。どれほど同じ動作を反復してきたのか。人殺しの技と貶める気すら起きない、億千の賞賛に値する芸術的な一閃。それは死屍累々の果てにたどり着いた、一人の男の人生だった。

 交差は一瞬。ナイフが切り裂いたのは柔らかい肌ではなく、逃げ遅れた数本の黒髪だけ。

 男は会心の初撃がかわされたことに衝撃を受け、美影は目の先数センチを通り過ぎる刃を眉一つ動かさずに見送った。二度目の振り下ろしも、三度目の刺突も、繰り出される刃物のことごとくを紙一重の差で回避する。己の最小限を以て、相手の最大限を制す。美影が幼少の頃から身体に叩き込まれた理念の一つだった。

 美影の見惚れるほど美しい体捌きは、名うての踊り子と比べても決して遜色はなかった。男の洗練されたナイフ術も相まって、それは決闘というよりも演舞のようだった。伴奏ではなく金属によって舞い、歓声のかわりに熱くたぎる鼓動がリズムを刻む。

 ところで美影にとってナイフは、あまり馴染みのない代物だった。なぜなら彼女の一門に伝わる秘技は、およそ対人戦における凶器の全てを遥かに凌駕するほどの利便性を誇るからだ。

 それでも、と美影はおぼろげな記憶を頼りに再現する。さきほど男がナイフで戯れていた光景を脳裏に描きながら、ペンを回すような気軽さで、右手を中心に刃物を遊ばせてみせる。わずかに散漫となった動きを見逃さず、男は最速の突きを放った。彼の口元に浮かんだ笑みは、それが紛れもない渾身であることの証左にほかならない。

 刃物と刃物が衝突し、ひときわ甲高い音がした。美影が、男の冷たい切っ先を真正面から弾いたのだ。舌打ちをする間も男にはなかった。今度は美影がナイフを振るってみせたからである。

 愚直なまでにそれだけで生きてきた男の腕に比べれば、美影の手さばきは子供のように拙い。近接格闘術の心得はあるし、ナイフ一本でも食っていけるだけの実力はすでにある。だが、それだけだ。さすがに相手が悪すぎた。少なくともナイフという観点だけでみれば、美影が男に勝てる道理はない。

 はず、だった。

 稚拙なはずの一振りが、美影のえがく銀色の軌跡が、少しずつ男の求めてやまなかった理想と重なっていく。無機質な金属に命と感情がやどる瞬間を、男は確かに見た。

 こう動きたいと、こう動かしてくれと訴えるナイフの声が聞こえているとしか思えない変幻にして緩急自在の動き。一歩、また一歩と美影が前に出るたびに、男は一歩、また一歩と下がっていく。目では追えても、身体が反射しても、心のまぶたは閉じることを拒否していた。秒刻みで加速していく美影の攻撃を受けるでも避けるでもなく、男はただ、見つめていたかった。

 刃物に愛された人間がいるということを、男は初めて知った。

 凡百の努力や経験だけではどうにもならない、天性の素質によってもたらされた刹那の神業。誰もが憧れて、手を伸ばし、そして現実を知るにつれて諦めていく殺人技術の最果て。

 その夢がいまここにある。一人の少女の手によって、挫折の果てに忘れられていた理想が息を吹き返す。長い年月と、鋼の努力と、数多の経験によって形作られるはずの奇跡を、美影は才能という不条理を使って再現したのだ。




 バーの二階には特別に設けられたVIPルームがある。壁一面に張られた窓から店の全体を見渡せる仕組みだ。クッションのきいたソファに腰を沈めて、ワイングラスでも片手に階下を見下ろせば、さぞ上等な優越感に浸れるだろう。

「……似ている」

 窓ガラスに寄り添うように立ち、繰り広げられる少女と男の決闘を見ていた一人の老人が、万感の想いを込めて呟いた。

「興味深いな。それは母親のほうにか?」

 老人の独語にそう返したのは、ソファにふんぞり返ってワインをたしなむ女だった。【如月】の名を持つ彼女の問いに、かつて《凶犬》と呼ばれた男は、昔に比べるとひからびた声で同意する。

「たしかに、あれは壱識の小娘によく似ております。そうか、あのときの世間知らずが、いまではもう母親になりおったか……」
「でもおまえが言っているのは、そういうことじゃないんだろ?」
「ええ、父親のほうです」

 老人は過去に想いを馳せる。もう二十年近くまえの古い話だ。二人の男がいた。互いに絶対的な殺人技術を持ちながらも、根底に同じものを抱えながらも、その生き方の違いから決して相容れなかった稀代の殺し屋が、二人いたのだ。

「あの娘は、あの男に――」

 三度も殺し合うほどに分かり合えなかった、あの音の無い男に。

「――市ヶ谷宏一に、よく似ている。……ほんとうに、よく」

 きっと少女を見た者の多くは、母親のほうに瓜二つだと答えるだろう。しかし、この老人はそうは思わない。そう見えなかった。耄碌しただけだと言われれば、もう容易に否定できるような年齢ではなくなっていたが、それでも彼は思うのだ。

 時は流れ、世代は変わり、記憶も風化してしまった。しかし、いまこうして彼の目の前には、あの二人の血を継ぐ娘が現れた。

 ――宿敵(とも)よ、あのとき聞けなかった、それが貴様の答えなのだな。

 それは十数年の時を超えた、ある一匹の殺し屋の想いだった。 




 決着まで時間はかからなかった。男の首元にナイフをぴたりと当てて、美影は静止している。自分よりも遥かに小さな女を数秒ほど見つめてから、男は観念したように両手を挙げた。

 数瞬の静寂のあと、二人を熱狂が飲み込んだ。感嘆する者、呆れる者、静かに拍手を送る者とさまざまだったが、それらの関心の焦点であるはずの美影は、さも興味なさそうに手に持っていたナイフを男に投げ渡した。

「……大したもんだな、あんた」

 心から感心したような声で男は言った。あまりにも短い時間のことで周囲にいた者たちには伝わらなかったが、それでも相対していた男だけは、美影の小さな身体に宿った底知れない才能を正しく認識していた。

「さっきは悪かったな。侘びもかねて、一杯どうだい。なんでも好きなもんを奢らせてもらうよ」
「じゃあポン酢」
「お、おう。別に構わねぇが、せめてもっと他のにしようぜ。ここには上等なやつが多いんだ」

 たじろいだ男は、気を取り直して質した。

「もしよければ、名前を聞いてもいいか?」
「美影。い――」

 そのとき、美影を目掛けて小さなペティナイフが飛んできた。さっきまで二人が握っていた本物に比べれば、なんのことはない、果物ナイフのようなおもちゃである。それは美影にとって警戒にも相対しない。あくびをしながらでも躱せるし、羽虫を落とすように迎撃できるだろう――少なくとも男はそう思っていたはずだ。

 ここにきて初めて美影の顔色が変わった。それは驚きであり、焦りだった。切れ長の目を見開き、黒髪をなびかせながら大きく飛び退る。

 そして、右腕を素早く振るった。

 空中に幾筋もの光が走り、大気が甲高い悲鳴をあげる。美影の手から迸った”糸”は、投げナイフを過たず叩き落とすどころか金属そのものをいくつにも細かく分断し、さらに地面にも鋭い切り傷のような爪痕を遺した。

 数秒前まであれほど騒がしかった空間は水を打ったように静まり返っていた。店の経営陣も、客も、なにかありえないものを見てしまったかのように固まっている。呼吸すら忘れていた。彼らの目に映るのは純然たる畏怖と、憧憬にも似た畏敬。

 なぜならそれは、かの一門にのみ許された門外不出の操糸術なのだから。

「……壱識」

 だれかが震える声で言った。ささやくような声量だったにも関わらず、広い空間の隅にいた者の耳にまで浸透してしまうほどに、その名は各々の知識に恐怖として深く刻み込まれていた。

 それは古来より日本の裏社会で暗躍し、裏稼業を生業としてきた十の一門。何代にも渡って一つの血統を受け継ぎ、気が遠くなるまで世代の交代を繰り返し、人としての血を極限まで高めた霊長の極致。

 各々が独自の戦闘術を継承することで知られるかれらを、人は《武門十家》と呼称した。

「さっすが。相変わらずいい動きするじゃん」

 バーカウンターからゆっくりと腰を上げたのは若い女だった。年の頃は二十代半ばだろうか。文句なしの美人だったが、軽薄そうな笑みがせっかくの色気をだらしのないものに変えている。しかし、男を惑わせる妖艶な身体つきも相まって、それがまた蠱惑的ないやらしさを生んでいるのも事実だった。

「二年ぶりかな? 久しぶりだねぇ、《壱識》のおチビちゃん。あのときの怪我はもう治ったのね」
「……肆条、緋咲」

 身の丈に合わない長さの一振りを肩に引っ掛けて、彼女はのんきに微笑んでいる。その気の抜けた笑顔に絆されてはならない。こと殺人という面においては、かの一門は、美影の生家である《壱識》をも上回る。

 ――美影は刃物に愛されている。なるほど、男の認識は大方のところ間違っていない。確かに美影には天賦の才がある。たとえ一切の興味がなかったとしても、彼女がナイフをあつかう素質において他の追随を許さないことに違いはあるまい。しかし当の美影はそうは思わない。そんな可愛らしい自惚れなど抱けるはずもない。

 ここに断言しよう。この場においてもっとも刃物に愛されているのは、他でもない肆条緋咲という女なのだと。一人の男が生涯をかけて磨き上げた技を、なんの変哲もない果物ナイフによって凌駕してみせるのは、世界広しといえども彼女、いや《肆条》を置いて他にはいるまい。

「やっぱり腑抜けちまったんじゃねぇか、おまえ」

 いつの間にいたのか、革張りのソファに玖凪託哉が座っていた。皮肉げに唇をゆがめて美影を睥睨している。

「粋がって絡んできた奴を見逃してやるなんざ優しさを超えてただのバカだ。オレならそいつの指を落として二度と刃物を握れないようにしてるぜ」

 大気を何かが駆け抜けた。託哉の目の前にあった木製のテーブルが真っ二つに割れてくずおれる。美影が左腕を振るった体勢のまま、苛立ちをあらわにした目で睨んでいた。

「いい目だな。おまえにはそっちのほうが似合ってるよ、《壱識》の」

 何事もなかったかのように語る託哉が、美影にはひどく不快のようだった。

 始まりの家が終わりの家によって絶滅したいま、現存する家系は九つ。そのうち、ここに三つが集った。かれらが召集された時点で、これから行われるのは普通の作戦ではありえない。きっと戦火が上がるだろう。民衆の間には恐怖が蔓延するだろう。かつての抗争を彷彿とさせるような混乱が起きるだろう。

 これより先、人の命が雨粒のように流れる夜が来ることを、かれらはまだ知らなかった。



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