――お母さん、いつもありがとう。
そう少女はお礼を言いました。
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「へい! そこの美しいお嬢さん! いまからオレと楽園を探しに行かないかい!?」
萩原家の門扉の前、つまり公共道路上で片膝をつき、託哉は大げさな身振り手振りを交えて、早速ナベリウスを口説きにかかっていた。
「ねえ。もしかしなくても美人って、わたしのこと?」
「当然だろう!? ここに美人は一人しかいないじゃないか! はっきり言って、オレはいままで君と出会わなかった自分を呪ったね! というわけで、これからオレとランデブーしよう!」
警察呼んだほうがいいかな……と俺が現実逃避のために空を仰ぐと、苛立ったナベリウスの声が聞こえてきた。
「待って、いまのは聞き捨てならないわ。ねえあなた」
「あなたじゃなくて、託哉と呼んでくれ! むしろ君の好きなように呼んでくれて構わないぜ!」
「そう。じゃあ……」
ナベリウスが一歩前に出る。
このとき、俺は猛烈に期待していた。もしかしたら彼女は、俺に代わって託哉を叱ってくれるつもりなのではないか、と。
思わず涙が出そうになる。
なんだかんだ言っても、ナベリウスは俺のことを考えてくれているんだ……。
「あのね、託哉。美人は一人しかいない、とか言ったらだめでしょうが。夕貴ちゃんを忘れるとか、あなた本当に引くんだけど」
「やっぱり期待した俺がバカだったよなぁ! おまえはそういう女だもんなー!」
「なるほど。それは確かに申し訳なかった。ごめんな、夕貴ちゃん」
「おまえも謝んな! 俺が本当に美人みたいになるだろ!」
まったく、こいつらときたら。
一度、精神科か眼科に連れて行ってやったほうがいいかもしれないな。俺のどこをどう見たら美人に見えるんだ。
「そういえば夕貴。この美の女神ヴィーナス様が顕現なさったような美少女は、いったいなんだよ? 明らかに親戚とかじゃないよな」
「あぁ、こいつは――」
そこまで言いかけて、口を噤んだ。
まずい。
俺のなかには、この自称悪魔を説明し、うまく紹介するだけのボキャブラリーはないぞ。
俺が言葉に詰まっていると、なぜだかナベリウスが腕を組んできた。
託哉の悲鳴が聞こえた。
「ねえ夕貴ぃ? なんで秘密にしちゃうのかなぁ?」
男の心を蕩けさせる、甘ったるい声。
「いや、べつに秘密にしてないだろ。ただ説明に困ってただけで」
「せ、説明に困るだと……? おい夕貴、おまえオレの女神に何をした!? まさか……く、口にするのも憚られるようなことをしてたんじゃないだろうな!?」
「鋭い!」
「鋭くねえよ! なに『惜しい!』みたいなニュアンスで言ってんだ、おまえは!」
「えー、だってわたしと夕貴はぁ……ねえ?」
豊満な胸を押し付けながら、上目遣いをかましてくる。
「まさか……あの萩原夕貴が……いくら女に言い寄られてもなびかなかった夕貴が……」
公共道路に両手をついて、託哉は四つん這いの体勢で打ちひしがれていた。
「へえ、夕貴って女の子に興味なかったんだ。じゃあ夕貴の初めては、わたしが貰ったってことになるのね」
「ならねえよ! 虚言も大概にしろアホ!」
「……え? もしかして、忘れたの? ……責任、取るって言ってくれたのに」
ナベリウスは鼻を鳴らしながら、涙を拭う仕草をした。明らかに嘘泣きである。
だが門扉の向こうにいる託哉、その隔たれた数メートルほどの距離が、どうやら真実を曇らせるフィルターとなったらしい。
「……くそったれめ。なあ夕貴、正直に話せよ。おまえ、この子に何をした?」
「何もしてねえよ」
「そうね。あんなアブノーマルな場所と体位で無理やりなんて――あっ、ごめん。いまのは忘れて」
「夕貴ぃぃぃぃっ! もはや勘弁ならねえー! 罰として、女装させて大学まで引っ張ってやらぁ……!」
口は災いの元とはよく言ったものだ。
まあ結局のところ、託哉には、ナベリウスは俺の母さんの古い知り合いなのだと、そう説明することで落ち着いた。
それからしばらくの間、自己紹介や世間話に興じていたが、あまりゆっくりもしていられなかった。
体感的な話になるが、朝の一分は、夜の十分に相当すると思う。
もちろん例外はあるが、少なくとも学生である俺にとって、朝の一分は宝石のごとく貴重だった。どのみち今日は学校に行く予定なんだ。さすがに遊んでいるのも限界だろう。
そうと決まれば話は早い。俺は、通学する旨をナベリウスに伝えた。すると意外にも、彼女は「じゃあ留守番してるね」と物分りがよかった。……おかしい。普段の言動から察するに、一緒に大学へ行きたがるかと思ってたんだけど。
「ちょっと用が出来たのよね」
理由を尋ねてみると、ナベリウスはどこか憂鬱そうに銀髪をかき上げてみせた。
ここ数日、この自称悪魔に私用があったところは見たことがないけど、まあ人間生きてるかぎり周囲と摩擦を続けるものだし、ナベリウスにも用事の一つや二つがあってもおかしくはない。
「ねえ託哉」
通学の準備を済ませて、そろそろ学校に向かおうとした俺たちを、彼女は呼び止めた。
「そうそう、君の愛しい託哉くんだよ。ところで、オレになんか用かい?」
「あの、さ――夕貴って学校ではどうなの? 上手くやれてる?」
まるで俺の母親か姉みたいな言い草だった。
「そりゃあね。なにせ夕貴は、気持ち悪いぐらい頭がいいからな。高校のときも三年間ずっと主席だったし。こいつが学校に馴染めてなかったら、一体だれがって話になる」
「へえ、そうなんだ。夕貴ってば頭いいのね」
誇らしげな笑みを浮かべて、ナベリウスは自分のことのように喜んだ。
確かに俺は、優秀な学生であったとは思う。でもべつに自分の頭がいいなんて自惚れたことは一度もなかった。
ただ……ガキのころの俺は、テストで満点を取るたびに母さんが頭を撫でてくれるのが好きで、それを楽しみに努力していただけだった。
母さんに喜んで欲しかった。安心させてあげたかった。いつか母さんを護ってあげられる男になりたかった。
だから、愚直なまでに勉学に取り組んだ。その結果、なんとか学年首位の成績を三年間キープできたのだ。
いままで読んだ書物の数や、頭に叩き込んだ知識の量は、自分でも立派だと胸を張れる。母さんの息子として、堂々と前を向ける。
もちろん頭脳だけじゃなくて、体のほうも鍛えた。その一環として、小学校のころから隣町にある空手道場に通っていた。こう見えても、俺って有段者だったりするのだ。
子供のころ、母さんに「どうして、うちにはお父さんがいないの?」と無神経な質問をして泣かせたこともあったけど。
いまは父さんがいなくても、俺が母さんを護ってあげられる。それだけの能力は何とか身に着けたつもりだから。
「じゃあ行ってくるけど。留守番しっかり頼むな」
さすがに時間が圧迫していた。
振り返り様に「留守番」と釘を刺しておく。間違ってもナベリウスを大学に入れてはならない。きっと騒ぎどころじゃ済まないだろうし。
「はいはい、大人しく家にいるから。だから、しっかり勉強して来るのよ?」
「……分かってるよ」
ナベリウスは腰に手を当ててお姉ちゃん風を吹かしつつ、釘を刺し返してきた。
なんだか照れくさい。
母さんとは違うけれど、それでも家族に見送られるのと同等の安心感があった。
「あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
何事を想起したのかは分からないが、パタパタと小気味よい音を立てながら、ナベリウスは家の中に引っ込んだ。
正直、本当に一限目の講義に遅れそうなんだけど。
それから時間にして、たぶん二分ぐらいだろうか。玄関が開いたかと思うと、なにやら小包を抱えたナベリウスが姿を見せた。
よほど急いでいたのか、豪奢な銀色の髪は乱れて、額や首筋には薄っすらと汗が滲んでいる。
「はい、これ。ナベリウスちゃんからのプレゼント」
「プレゼント?」
怪訝に思いながらも、小包を受け取った。すると意外にも重量があることに気付く。青色の風呂敷で包まれたそれは、長方形型をしている。
まさか、これって――
「学校行くんでしょ? 昨日、キッチンで弁当箱を見つけたのを思い出したの。だから、どうせならと朝食の残りを詰めてみたんだけど――どうかしら?」
朝食の残りとは言っても、今朝ナベリウスが作ったのは普通に夕食でも通用する贅沢なメニューだった。
いや、それよりも問題は――あの生意気で、小悪魔染みていて、お姉さん風を吹かして、いつも俺から主導権を持って行きやがるナベリウスが――不安そうに身体を丸めながら、上目遣いで俺の様子を伺っていることだ。
余計なことしちゃったかな、怒られないかな――とでも言いたげに揺れる瞳は、なんだか普通の女の子みたいだった。
「……ありがとう」
おかしい。
どうして俺まで恥ずかしがらなくちゃいけないんだ。どうして俺は、弁当一つでここまで喜んでるんだ。
「……これ、ちゃんと残さず食うから」
「うんっ! 残したりしたら承知しないからね」
白磁の肌を紅潮させて、彼女は頷いた。
いつもは学食で済ませているんだけど――まあたまには弁当も悪くないというか、むしろ望むところだろう。食堂のおばちゃんが作った定食を頬張る託哉のとなりで、俺はナベリウスが作った弁当を平らげてやるのだ。
こうして俺と託哉は、大学に向かったのだった。
その通学途中のこと。
桜並木を歩いているところで、となりにいる託哉が言った。
「なあ夕貴。おまえ合コンの話、覚えてるか?」
「……あぁ、それか」
もちろん覚えていた。
最初に誘われたのは一週間ほど前だった。俺たちの通う大学の一回生から、男五人、女五人を集めて飲み会を開くという話。
同校のよしみで酒を飲む――というと、厳密な意味では合コンじゃない気もするが、まあ細かいところは気にしちゃいけない。
どうせ俺たちは大学に入ったばかりで、ほとんど知り合いがいないんだ。だからこそ今回の企画が立ち上がったのだし、だからこそ俺も交友の輪を広げるために、仕方なく参加をオッケーしたのだった。
「気のなさそうな返事だな。もしかしてアレか? ナベリウスさんがいるから、おまえには他の女が目に入らないっていうのか? あの極上のボディを堪能しちまったら、もう普通の女は食えないっていうのか!? ああ!?」
「落ち着けよ……俺は元から乗り気じゃなかっただろ」
「そういえば、夕貴は昔から女が苦手だったよな」
苦手――とは厳密には違う。
ただ俺は、あまり自分の顔に自信が持てなかったんだ。女の子は、もっと男らしい顔立ちのやつがタイプだろうから、と。
まあ今となっては、さすがに慣れたというか考え方が変わったというか、それほどコンプレックスだと思っていないけど。
「でもよ。もうオレたちも子供じゃ通じない年頃だぜ。だから今のうちに、ちょっとぐらい女遊びを嗜んでおいたほうがいいと思うんだよ」
「本音は?」
「次の合コンに、前からオレが狙っていた可愛い女の子が来るんだよぉー!」
託哉は子供みたいにスキップを始めた。その人懐っこい振る舞いに、思わず苦笑が漏れる。
「……まあいいや。とにかく俺も今回だけは参加するよ」
本当はナベリウスを放って合コンに行きたくはなかったけど――まあ約束だったから仕方ないか。
俺の参加意思を確認した託哉は、満足そうに頷いた。
それからは何事もなく、ただ早足気味に徒歩三十分ほどの距離にある大学へと向かった。
「なあ夕貴」
ふと。
最後に託哉は、無感情な冷たい声で言った。
「ナベリウスさんが来てから、なにか変わったことはなかったか?」
脱色した前髪の隙間から覗く目は、背筋が震えそうになるほど鋭かった。
「いや、特になにもないけど」
「……そうか。じゃあ今朝、ニュースで殺人事件があったって言ってたよな。知ってるか?」
「ああ。俺たちも見た。朝食の途中だったから、最悪な気分になったけど」
「そのニュースを見たナベリウスさんは、どんな反応してた?」
「どんなって。べつに普通だよ」
質問の意図がまったく分からなかった。
訝しげに眉を潜める俺に気付いた託哉は、次の瞬間、破顔した。
「くっそぉー! まじかよぉ! 恐いニュースに震える美少女の様子を聞きたかったのによぉー!」
それは、むかつくぐらい無邪気な笑みだった。
「……はぁ。まあそんなことだろうと思ったけどな」
相変わらず女絡みの話だけは怖いぐらい真面目になるやつだ。いつか警察に捕まるんじゃなかろうか。
それから俺たちは、いつものように雑談を交わしながら大学に急いだのだった。