――どうして? ねえお母さん、どうして?
そう少女は泣きました。
****
俺がストーカー野郎に追い回された日から、一週間が経っていた。あれ以来、これといった問題もなく、拍子抜けするほど平穏な日々が続いている。
ただ、あの日から一つだけ決定的な変化が見られるようになった。ナベリウスのやつが、深夜になると家を空けるようになったのだ。
ちょっと前なら、俺のベッドに潜り込んできたり、裸にワイシャツという実にマニアックな格好で迫ってきたりと、それはもう小悪魔全開の様子だったのに、最近はどことなく態度が冷たい気がする。
もちろん表面上は、これっぽっちも変わっていない。
甲斐甲斐しく飯を作ってくれるし、風呂を沸かしてくれるし、洗濯もしてくれるし、花に水をやってくれる――
でも言葉では言い表せない微妙な差異が、最近のナベリウスからは感じられた。その変化が微妙すぎるものだから、問い詰めようにもどう言えばいいか分からず、結果としてわだかまりを解消できずにいた。
近頃の彼女は、街が寝静まった頃に家を出て、夜明け前になると何食わぬ顔で帰ってくる――というサイクルだった。
ここで最大の問題は、ナベリウスのやつが深夜、家を空けたときは決まって――殺人事件の新たな被害者が発見されること。
これは果たして偶然の一致なのか……?
考えてみれば、俺はナベリウスのことをほとんど知らない。
人種も、生まれも、思惑も、目的も――本当になにも。唯一知っているのは、名前ぐらいか。
謎は、やがて疑惑を生む。
でもいつまでも見てみぬフリはできない。
だから聞いてみようと思う。
今日、家に帰ったら。
今夜、彼女に会ったら。
ナベリウスに、俺の知らないあいつのことを、あいつの口から聞きたいと思うのだ。
殺人事件のほうは、すでに犠牲者は最初の一人から数えて、計三人にまで上っている。手口は一緒、遺体の死因や殺害状況も一緒。にも関わらず、事件解決の糸口は掴めていない。一部では警察の捜査能力を疑問視する声まで出ているぐらいだった。
付近の小学校では集団登下校が実施されており、中学・高校でもクラブ活動が一時的に禁止されている。
そんななか、大学には何の変化もなかった。まあ学生の半分ほどが成人であり、各々が責任能力を持っているということもあって、学校側から学生の行動に制限をかける必要もないと判断したのだろう。
それでもやっぱり、街全体がどこか浮ついているような感じは確実にあった。
しかしまあ、色々と偉そうなことを述べたものの、いま最も浮ついているのは俺とか託哉なのかもしれなかった。
繁華街の通りにある居酒屋の一つ。名を『九心伝』。東日本を中心にチェーン展開する店であり、安定したサービスと一風変わったメニューが売りの店舗である。
店内はやや薄暗く、どこか大人っぽい感じの音楽が談笑の邪魔にならない程度に流れており、雰囲気自体は悪くない。
カウンター席とテーブル席と座敷席があって、俺たちはテーブル席に腰掛けていた。
メンバーは、俺と託哉を含めて男子五人と、託哉が連れてきた大学の一回生――俺と同期かつ同学の――女の子たち五人の、計十人だった。
まあ。
簡単に言っちゃえば、合コンをしているわけである。
街を密かに賑わせる殺人事件も、週末の居酒屋には勝てないらしく、店内は祭りに似た喧騒で満ちていた。
女好きの託哉が連れてきた女の子たちは、揃いも揃って目を惹く美人ばかりだった。みんな愛らしい容姿だし、スタイルだって優れてるし、性格だって悪くなさそうだ。
聞くところによると――ここ最近覇気が見られなかった俺を元気付けようと、託哉のやつが多方面に声をかけて、とびっきりの女の子たちを呼んでくれたというのだ。
まあ託哉は、俺とは違って男らしい顔立ちをしているし、女性ウケがいいのかもしれない。だから人脈が広いというか、色んなところに顔が利くという一面も持っている。
――夕貴。おまえが元気になってくれるなら、オレは本望だよ。
一時間半ほど前に、俺の肩に手を置いて朗らかに笑いながら、託哉はそんな格好いい台詞を披露してくれた。しかし酒が入った今となっては一匹の野獣と化しているらしく、ほどよく顔を赤らめた託哉は、歯の浮くようなトークで女の子を口説いていた。
俺の方はというと、合コンが始まってから三十分ぐらいの間は、ひっきりなしに女性陣から話しかけられたり質問攻めに合っていたのだが、愛想のない返事を繰り返すうちに、いつしか見限られてしまった。
それでも時折、露骨に身体を寄せてきながら「ねえ夕貴くぅ~ん、携帯のアドレス教えてよぉ~」と猫撫で声で迫ってくるのだから始末が悪い。
確かに託哉が集めた女の子たちは、類を見ない美人ばかりだ。
でも俺って、あまり派手な女の子は好きじゃないんだよな。もっと清楚な感じの子がいいっていうか。
託哉が連れてきた女の子たちは、どうも男慣れしすぎていて、俺には敷居が高すぎる。まあ、こんな女みたいな顔をしたやつに好意を持ってくれる女性なんて、滅多にいないだろうけど。
テーブル席の隅っこに陣取っている俺は、これでもかと盛り上がっている託哉たちを横目に、一人チビチビとお酒を飲んでいた。
ふと視線を感じたのは、そのときだった。
「ぁ――」
蚊の鳴くような声。
視線の主は、俺の対面に座っている女の子だった。
合コンに臨む女子にしては珍しい、わりと大人しめの服装。一度も染めたことのなさそうな黒髪は、肩の高さで切り揃えられている。滑らかな白い肌は、きっと意識的に日焼けを避けているからだろう。
清楚な容姿と、控えめな態度は、その整った顔立ちも相まって、どこか良家のお嬢様を連想させた。
「……えっと、なんか用?」
じぃーと見つめてくるので、不審に思って声をかけてみると、彼女の頬がほんのりと赤くなった。
「あの……ごめんね。もしかして迷惑だったかな……?」
「べつに謝らなくていいし、迷惑でもないけど――ただ気になったんだよ。どうして俺のこと見てんだろうって」
「うーん、どうしてかな? 自分でもよく分からないけど、夕貴くんのことが気になったの」
あれ、この子、なんで俺の名前を知ってるんだろう?
……って、そういえば始めに簡単な自己紹介をしたっけ。すっかり忘れてた。
自己紹介があったことを忘れていたのだから、当然俺はこの子の名前も覚えていない。
「……あっ、ごめんね夕貴くん。わたし、櫻井彩って言います」
俺の表情から察してくれたのだろう、彼女――櫻井彩は、ぺこりと頭を下げながら名乗ってくれた。どうやら、見た目どおりの礼儀正しい女の子らしい。
「丁寧にありがとう。俺のほうこそ、櫻井さんの名前を覚えてなくて悪かった。ごめんな」
「ううん、気にしてないから謝らないで。それと櫻井さんじゃなくて彩でいいよ。あんまり苗字で呼ばれたくないの」
「……じゃあ、彩さん、でいいのか?」
あんまり女性を名前で呼ぶの、慣れてないんだけどな。
しかし彼女は、さらなる難題を課してきた。
「彩、って呼んでくれると……嬉しいな」
ちょっぴり頬を染めて、俯き加減に、それこそ独り言のようにつぶやく。
まあ彼女の要望であるのだし、ここは素直に従うべきか。
「……彩」
やばい。
なんだか妙に気恥ずかしいぞ。というのも、彩が一世一代の告白を前にしたかのように照れているから、その羞恥さんが俺にも伝染してきやがったのだ。
なんとも言えないぎこちない空気が流れる。まるで付き合いたてのカップルみたいだ。
俺は沈黙に耐え切れず、
「そういえばさっき、俺のことが気になった、と言ってたよな。あれって何で?」
そんな無神経な質問をしていた。
彩は、お酒の入ったコップを両手で持ちながら、うーんと小首を傾げた。
「そうね、なんて言えばいいのかなぁ――私には、夕貴くんが楽しんでいるようには見えなかったのよね。むしろ……こんなことを言うと失礼に当たるかもしれないけど……どことなく、不機嫌そうに見えたの。それで気になっちゃって」
小さく舌を出して、ごめんね、と彩。
「いや、そんなつもりはなかったんだけどな。もしかして気分を悪くさせたか?」
「全然。むしろ安心しちゃった」
チビチビと酒を飲みながら、彼女は続けた。
「私もね、本当はあまり乗り気じゃなかったんだ。でも、いい機会だと思って参加することにしたの」
「いい機会?」
「そう。実は私、ちょっとだけ男の人が苦手なの。だから少しでも男性を好きになれるといいなぁ、と思って」
「なるほどな。それで、調子はどうなんだ?」
彩は、力なく首を横に振って苦笑した。
「今日こそはっ、って意気込んでたんだけど、やっぱりダメみたい。男の人に話しかけられると、頭の中が真っ白になって、なんだか不安になって、身体が震えちゃうの。……弱いよね、私って」
男に声をかけられると、頭が真っ白になり、不安になり、身体が震えてしまう――と彩は言うが、それは果たして”ちょっとだけ苦手”というレベルなのだろうか?
いま彩が挙げた症状は、男性恐怖症の例に当てはまる。
子供のころ、父親や兄からの虐待を受けた経験、または異性から性的暴行を受けたといった経験が、精神的な傷となり心理的なトラウマを生むのが男性恐怖症だ。
もしかして彩は、かつて異性との間に、何かよからぬ出来事があったのだろうか?
……いや、これは俺が興味本位で邪推していいことじゃないな。
「そっか。でも彩、一つだけ気になることがあるんだけど、聞いていいか?」
「うん、いいよ」
「……さっきから、俺とは普通に話せてねえか?」
実はこのとき、すでに嫌な予感がしていた。
だが俺の葛藤など知る由もない彩は、
「だって夕貴くんって、女の子みたいに可愛い顔してるんだもの。だからかな? 不思議と夕貴くんのこと、恐いって思わないのよね」
と、無邪気に言った。
「……そ、そうか。そうだよな。やっぱそういうことだよな……」
きっと俺の顔は、凄まじく引きつっていたと思う。
……でも、ここで怒っちゃだめだ。きっと彼女は”褒め言葉”のつもりで言ったんだ。だから彩の好意を”悪口”と誤解してはいけない。
天然なのか、あえて無視してるのか――俺が負ったダメージに気付かない彩は、内緒話をするように顔を寄せてきた。
「あのね、さっきお友達とお化粧直しに行ったとき聞いたんだけどね。みんな夕貴くんのこと狙ってるらしいよ。……ほら、いまだって、夕貴くんのこと気にしてるでしょう?」
確かに、他の女の子たちが、気付かれない程度のさりげなさを装って、ちらちらと俺に視線を送っているような。
そうこうしているうちに「ちょっと彩ー! さっき抜け駆けなしだって言ったじゃん!」とか「あぁー! あたしが話しかけても、まったく返事してくれなかったのにー!」とか、なんとも姦しい声が飛んできた。
託哉と談笑していた女の子たちが声の正体だった。
……あれ、もしかして俺、モテてる?
いや、勘違いするな萩原夕貴。彼女たちには俺の顔立ちが物珍しく映ったんだ。それだけなのだ。
幸いというべきか、託哉は完全に出来上がっており、女性陣の興味が俺に移っていることに気付いていない様子だった。
「……怒られちゃったね」
首を傾げて、小さく舌を出し、てへへ、と彩は笑った。
その笑顔を見て、一瞬だけドキっとしてしまった。
彩は大人しくて目立たない感じの女の子だが、顔立ちは整っているし、十分に愛らしい容姿をしている。絶対に料理とか得意なタイプの子だ。まあ偏見だけど。
それから俺たちは、酒が入って祭りのごとく盛り上がる居酒屋の隅っこで、他愛もない話に興じていた。
好きなテレビ番組の話とか、最近気になってる芸能人は誰かとか、この前聴いたあの曲がよかったとか。
実のある話も、実のない話もあった。
「俺は、どちらかと言えば犬が好きかな」
「そうかな? 絶対に猫のほうが可愛いよ。むしろ私、あんまり犬って好きじゃないんだよね」
とか。
「そういえば大学の二年上の先輩に、グラビアアイドルの人がいるらしいよ」
「マジで? 今度、託哉に教えてやろうかな……」
とか。
「ああ、俺の家って母子家庭なんだ。だから女手一つで俺を育ててくれた母さんを尊敬してるし、早く楽をさせてあげたいと思ってる」
「うん、私もお母さんのことが大好きだよ。いつか恩返ししたいと思ってるもん」
とか。
特に印象に残ったのが、母親の話だ。どうやら彩も母親のことが大好きらしく、この話題だけで三十分は消費したと思う。それでも物足りないと感じるのだから、やっぱり俺はマザコンなのだろうか?
――こんな話をしてると、お母さんに会いたくなっちゃうね。ううん、会いに行っちゃおうかな。
気恥ずかしそうに苦笑しながら、相も変わらず酒をチビチビと舐めながら、彩はそんな粋な台詞を言った。
なるほど、やっぱりいい子である。母親を大事にする人間に、悪いやつはいない。by萩原夕貴。
当初は楽しめないと思っていた合コンだったが、彩と話すようになってからは満更でもなかった。異性として好きになったわけじゃないけれど、友達としては是非付き合っていきたいなぁ、と思えるぐらいには彼女に好感を抱いていた。
これで大学での友人が一人出来たことになる。そう考えると、今日の合コンにも大きな意味があるように思えた。
賑々しい空気に満ちた居酒屋は、むしろこれからが最高潮だと言わんばかりの様相を見せている。午前五時まで営業している店だから、この時間から入店する客も少なくないのだ。
でも俺たちはもうすぐお開きだろう。みんな泥酔と言っていいぐらいに酔っ払ってるわけだし、二次会の予定もないし。
「ねえ夕貴くん。さっきから思ってたんだけどね――」
なんだか酒を飲むペースが早くなったような気がしないでもない彩は、ほっぺたを赤く上気させたまま、楽しげな笑顔を浮かべていた。
俺は、この合コンが終わりを迎えるそのときまで、彼女の声に耳を傾け続けていた。
合コンが終わったのは、それから三十分後。
俺たちは割り勘で支払いを済ませたあと、居酒屋の前で解散することになった。
すでに時刻は午後十一時を回っており、夜もたけなわといったところである。しかし週末の繁華街は、煌びやかなネオンの光も相まって、不夜城のごとき賑わいを見せていた。
さて、じゃあ後は何事もなく帰宅するだけ――とは問屋が卸さなかった。泥酔した人間が多すぎたので、家が近いもの同士で帰ることになったのだ。
駅の改札に消える子や、タクシーに乗り込む子たちに手を振って別れを告げていくうちに、その場に残されたのは俺と、びっくりするぐらい泥酔した彩の、二人だけになってしまった。
「……ごめん、ね……夕貴くん」
酔っ払った女の子を一人残して帰ってしまうほど、俺は恥知らずじゃない。
ふらふらと頼りなく揺れる彩の身体を支えながら、ほとんど二人三脚に近い状態で、俺たちは夜の静かな住宅街を歩いていた。
「別にいいって。それよりおまえ大丈夫なのかよ」
あまり酒を飲んでいなかった俺の意識は、透き通るぐらいクリアだった。酒の影響と言えば、やや体が火照っている程度。
「……うん、たぶん……大丈夫……のような、気がする……」
「絶対大丈夫じゃないだろ……」
壊れたテープレコーダー寸前の彩は、俺に重心の多くを預けていた。
おかげで柔らかな身体が密着してしまう。触れ合った部分は、燃えるように熱かった。さりげなく鼻腔をくすぐるのは、量産品である香水の類とは対照的な、ほのかな石鹸の香り。
彩は小さな鞄を持っていた。
邪魔になるだろうから、俺が代わりに持ってやろうか、と提案してみたが、きっぱりと断られてしまった。
――女の子の鞄には、男の子には言えない秘密が詰まってるんだよ。
とは彼女の談である。
まあ化粧品やブラシを初めとした女の子にとっての必需品が、あの鞄には入っているんだろうな。男に触れられたくないって気持ちも分からないでもない。
泥酔して立つこともままならない彩は、しかし鞄だけは絶対に手放そうとしなかった。だから俺も、その意思を尊重することにしたのだ。
「……ぅっ、ごめ……夕貴くん、ちょっと、休ませて……」
口元を手で押さえたと思った瞬間、彩の身体が弛緩した。
「おい、大丈夫かっ?」
「そこ……」
彩が指差した先には、かなり大きな公園があった。あの仔犬を埋葬した公園とは場所も、規模も違っている。
やや逡巡したが、このまま彩を歩かせるのは無理があると判断し、すこしのあいだ公園内で休むことにした。
適当なベンチを見つけると、そこに彩を座らせた。だが彼女の身体はずるずると斜めに傾いていき、やがて仰向けに寝転んでしまった。
「……ん」
悩ましげに吐息を漏らす彩は、すっかりと両目を閉じていた。……まさか寝ちまうつもりじゃないだろうな。
手持ち無沙汰となった俺は、とりあえずミネラルウォーターでも買ってこようと思った。幸い、公園のすぐ近くで自動販売機を見た覚えがあった。
「彩。一分ほど外すけど、大丈夫か?」
「……うん、だいじょ、ぶ……」
全然大丈夫じゃなさそうな声だったが、まあ俺が急げば済む話だし、それまで彩にはすこし眠らせてやってもいいだろう。
「じゃあ、すぐ戻るから」
言ってから、競歩に近いスピードで歩き出す。なるべくはやく彩のもとに帰らないと。
……まったく、妙なことになっちゃったな。
頭の隅っこで愚痴を零しながら、たまにはこんなハプニングも悪くはないかな、と考える自分もいた。
「……いや」
思わず、違うだろう、と苦笑してしまう。
たまには、だって?
それを言うなら、ナベリウスが萩原家に居候するようになってから毎日がハプニングなのだから、まったく”たまには”じゃないよなぁ。
ナベリウスのやつ、ちゃんと留守番してくれているんだろうか?
疑いたくはないけど、前例があるだけに楽観も出来ない。
夜桜の下を歩きながら、もう一度だけ決意を固める。今夜家に帰ったら、ナベリウスに詳しく話を聞こう、と。
悪魔の話も(これは嘘だろうけど)、母さんとの関係も、どうして俺の元に現れたのかも、全部聞いてやる。その上で、あいつを真正面から受け止めるんだ。
「……ん?」
視界の端に、見慣れた銀髪が映ったような気がした。
立ち止まって周囲を見渡してみる。だがナベリウスらしき人影は、草の根を分けて探しても見つかりそうになかった。
気のせい……か?
まあ俺も多少アルコールが入ってるし、見間違いの一つや二つがあってもおかしくないか。つまり見間違いだ。あんな悪魔みたいな女は、この世に一人しか要らない。
しばらく歩いた先、見つけた自販機でミネラルウォーターを二つ買い求める。俺も喉が渇いていることに気付いたのだ。
さて、あとは彩の元に帰るだけ。
ミネラルウォーターを手に入れたからか、行きよりも若干遅いスピードで歩いていた俺は、それが最大のミスであったことを直後に知る。
耳を劈くような、甲高い女性の悲鳴が、聞こえた。
「――っ!?」
戸惑いは一瞬。
考えるよりも先に体が反応していた。せっかく買ったミネラルウォーターもその場に投げ捨てて。
だって聞こえてきた女性の声は、間違いなく彩のものだったから。お母さんのことが大好きなの、と嬉しそうに話した声を、俺が聞き間違えるわけがない。
全速力で走った。もしも鞭があったのなら、俺は自分の尻を叩いていただろう。それほど遮二無二な走りだった。
「……彩っ!」
悲鳴を聞いてから、きっと二十秒も経っていない。いや、二十秒もかかってしまったと恥じるべきなのかもしれない。
彼女を寝かせたベンチを見つけた。でもそこには泥酔している女子大生の姿はなかった。彩の姿は、煙のように消えていた。
「――え」
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
よくよく観察してみれば。
ベンチから数メートル離れた場所に、何かが転がっている。かなり大きな物体だった。ちょうど人間大ほどだろうか。
「……マジかよ」
果たして。
それは、人間の死体だった。
性別は男。服装や身なりからして、恐らく浮浪者だろう。顔がよく見えないので年齢は分からないが、少なくとも三十は超えていそうだ。彼は、体中を刃物のようなもので傷つけられており、夥しいまでの出血だった。俺が一目で死体だと看破したのも、その出血量のためだ。
これはあれか。もしかして、第四の殺人事件ってことか?
……くそっ、落ち着け。ここで焦ってどうすんだ。
パニック寸前の頭を何とか押さえつける。平凡な大学生の俺にとって、成人男性の死体を発見する、という出来事は明らかなキャパシティオーバーだが、それでも冷静になろうと努めた。
ここで取り乱しても始まらない。
まずは警察を……いや、それよりも先に彩を探さないと。
「どうかな、夕貴くん。楽しんでもらえた? 夜桜よりも、よっぽど綺麗でしょう?」
俺が誰よりも探していた女の子の声が、背後から聞こえた。
「彩っ!」
振り向く。
そして同時に、息を呑んだ。
俺の背後にいたのは、櫻井彩。
でも残念ながら、素直に喜べそうにない。
だってさ。
彩の身体は、嘘みたいに返り血を浴びて真っ赤になってるし。
その顔には、まるで悪魔みたいに狂気的な笑顔が浮かんでるんだぞ?
これがテレビ番組のドッキリなら、俺は仕組んだプロデューサーを非難するどころか、むしろ天才的だなと絶賛しただろう。
……あぁ、そっか。
これってもしかして彩なりのジョークなんじゃないか?
だって、あんな可愛い女の子が、お母さんが大好きと言っていた女の子が――人殺しなんてするはずがないじゃねえか。
「あはは、夕貴くんってさ。本当に可愛いよね」
彩の手には、べっとりと血の付着した包丁が握られていた。
そして、その刃についた血をペロリと舌で舐めとって、彩はゾッとするほど美しい声で、言った。
「本当に、殺しちゃいたいぐらい可愛いよ――夕貴くん」