――止めて! お願いだから止めてよぉ!
そう少女は叫びました。
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「あはっ、いい顔してる。やっぱり夕貴くんって、可愛いよね。きっと女の子にモテモテなんだろうね」
全身に返り血を浴び、血に塗れた包丁を持ち、足元に死体を放置し、それでも彩は、とても可愛らしい笑顔で場違いな言葉を口にした。
「……そこの人を殺したのは、おまえか?」
これだけは、どうしても聞いておきたかった。
例え、分かりきった答えだとしても――残された希望に縋るために、唯一残った期待を捨てるために、この問いは必要だったんだ。
現実は、残酷だった。
「そうだよ。私が殺したの。それが、どうかした?」
きょとん、と首を傾げて、そんなの見れば分かるでしょう、と彩は続けた。
その落ち着いた口調と、小鳥みたいな仕草が、居酒屋で初めて話したときの彩と重なって見える。
「なんでだよ……なにしてんだよ、てめえは!」
「あれ、どうして怒るの? だって悪いのは、その人のほうなんだよ?」
まるで汚らわしいものを見る目で、彩は成人男性の死体を指差した。
「たしか――夕貴くんがどこかに行って、ちょっとしてからかな。公園の隅っこにいたその人が、ふらふらーって歩いてきたかと思うと、ベンチで寝てた私に襲い掛かってきたの」
恐かったよー、と。
まったく恐くなさそうに――むしろ冷笑さえ湛えて、彩は自分の身体をかき抱いた。
「私ってね、男の人が苦手だから、思わず悲鳴を上げちゃったの。当然だよね。だって乱暴されそうになったんだし。うん、そうそう。女の子なら、誰だって悲鳴を上げるよね。だって――犯されるのって、とっても痛くて恐いもんね」
まるで男性から性的暴行を受けたことがあるような口ぶりだった。
だが彩の話を聞く限りでは、彼女は完全なる被害者に思える。普通の女子大生が泥酔しているところを襲われて、助けを呼ぼうと声を張り上げただけなのだから。
「うん、本当に恐かったからぁ」
彩は楽しげに微笑み、
「そこの人には、死んでもらうことにしたの。女の子に乱暴しようとしたんだから、それぐらいの報いはあって当然よね」
俺の抱いた希望的観測を粉々に砕いたのだった。
つまり。
櫻井彩こそが殺人事件の犯人である、という実に簡単な話。
「……殺すことは、ないだろ」
「うん? どうして?」
「バカが! てめえ分かってんのか!? 誰かを殺しちまったら、おまえだって罪を問われんだぞ! これは明らかに正当防衛じゃない。おまえがやったことは、ただの過剰防衛なんだよ!」
「なるほど。夕貴くんって、頭いいんだね」
「ふざけんなっ! 寝言も大概にしろ、この大馬鹿野郎ぉ――!」
深夜の公園に、焦った男のみっともない声が残響した。
身構えたまま警戒している俺とは対照的に、彩は包丁を両手で弄んでいた。
「……分かんない。夕貴くん、どうして怒ってるの? ……あぁ、もしかして私が人を殺しちゃったから、警察に捕まるんじゃないって、心配してくれてるの?」
「心配してねえ。俺は怒ってんだよ……!」
拳を握り締めながら、歯の隙間から搾り出すみたいに言葉を吐き出す。
脳裏に去来するのは――居酒屋で楽しそうに酒を飲んでいた彩の姿。
お母さんのことが大好きだと、今すぐにでも会いに行きたいと、はにかみながら彩は言ったんだ。
本当に頭に来る。怒りのあまり脳が沸騰しそうだ。
だって。
「おまえが人を殺して、誰よりも悲しむのは――――彩のお母さんだろうがっ!」
「…………」
その言葉と同時、彩の顔に浮かんでいた冷笑が消えた。
「いつか恩返ししたいって――お母さんのことが大好きだって、そう言ってたじゃねえか! あんときのおまえ、めちゃくちゃ綺麗に笑ってたじゃねえか! なのに、どうしてだよ……! なんでお母さんを悲しませるようなことすんだよ……!」
もう涙さえ出そうだった。
色々と考えることはあるし、重大な違和感を見落としている気もするけど、それよりも涙を我慢するので精一杯だった。
子供が母親を慕うのは当たり前だけど、母親が子供を愛するのも当然なんだ。
だから何があっても、お母さんを悲しませることだけは絶対にやっちゃいけない。これは義務じゃなくて、もはや使命だ。俺たち子供が、産みの親である母親に見せていいのは、幸せに笑う未来だけなのだから。
もちろん、それが理想論なのは分かってる。
でも理想と分かっていても――いや、理想と分かっているからこそ俺は、そのマザコン染みた夢が好きだ。
俺が伝えたいことは、もうすべて言葉にした。あとは彩に期待するしかない。彼女に、ほんの少しでも良心が残っているのなら――
「……つまんないなぁ」
彩は肩をすくめる。
「なにそれ、命乞い? あんまり私を怒らせないでよ夕貴くん」
冷たい視線。
空気そのものが質量を持ったかのように重たく感じて、それが体の動きを縛ってくる。
……もしかして、これが殺気ってやつか?
人間は両目を瞑っていても、なにか鋭いものを顔に向けられれば、なんともいえない嫌な気分になる。その感じを何百倍にも濃くしたものが、きっと殺気なんだろう。
「それにね、夕貴くんは勘違いしてるよ? だって私、警察になんて捕まらないもん」
彩はゆっくりと歩き出した。俺を中心点として、その円周を描くような軌跡を辿りながら。
「考えてみれば簡単な話だと思わない? いくら悪いことをしても、それに気付く人がいないと、犯人の特定は難しくなるよね」
「そうだな。でも、おまえの悪事は俺が見た。だから……」
「ううん、誰にも見られてないよ。だってさ――」
瞬間。
視界から彩の姿が消えた。
きちんと警戒していたのに、絶対に見逃すもんかと注意していたのに――あっさりと彩は消えたのだ。
いったい何が起こってんだ? と、俺が考えるよりも早く。
「ここで夕貴くん、死ぬんだもの」
一切の感情を排除した抑揚のない声が、背後から聞こえてきた。
「――っ!?」
振り向く余裕はない。
ただ勘と反射に任せて、その場にしゃがみこんだ。
ヒュッ、と鋭い音がして、頭上を刃物が通過していく。逃げ遅れた毛髪だけが、数本だけ切られて宙を舞った。
「へえ、夕貴くんって運動神経もいいんだね――!」
高揚した彩の声。
俺を殺そうとしてるのに――テンションが上がってるんだ、こいつは。
そんなの、ただの殺人狂じゃないか。
地面を転がって彩から距離を取った俺は、即座に立ち上がると、衣服についた汚れを落とすこともなく身構えた。
「……本気かよ、おまえ」
マジで俺を殺そうとしてんのかよ。
「もちろん本気よ。第一、このあいだも殺そうとしてあげたでしょう? もう忘れたの?」
「このあいだ?」
「そうそう。ほら、楽しく追いかけっこしたじゃない。まあ途中で犬がうるさく吼えてきたものだからムカついちゃって、あのときは夕貴くんのこと、見逃してあげたけど」
思わず息を呑んだ。
楽しく追いかけっこだと?
途中で犬がうるさく吼えてきた?
もしかして――あのときのストーカー野郎は、彩だったのか?
ふと居酒屋での台詞が脳裏をよぎった。
――むしろ私、あんまり犬って好きじゃないんだよね。
偶然にしては、少々出来すぎている気がする。
つまり彩は、一週間以上も前から俺のことを知っていて、そして俺に殺意を抱いていた――ということだろうか。
……いや、待てよ?
いままで見逃していたが、彩が手にしている包丁はどこから出てきたんだ?
視線だけを動かして周囲を確認してみる。するとベンチの側には、見慣れた鞄が落ちていた。それは間違いなく彩のものだった。鞄は開いていたが、中身が散乱するどころか、そもそも何も入っていない。
そういえば。
――女の子の鞄には、男の子には言えない秘密が詰まってるんだよ。
とか言ってたっけ。
いま思うと悪夢みたいな話だ。
男の子には言えない秘密って、その血に濡れた包丁のことだったのかよ。
初めから凶器を持ち歩いていたということは、誰かを殺す予定があったってことだよな。人殺しを――いや、第四の殺人事件を起こすつもりだったってことだよな。
しかし理解出来ても、納得は出来そうになかった。
疑問は二つ。
どうして彩は、人殺しに手を染めた?
どうして彩は、俺を殺すことに執着している?
考えても答えは分からない。
唯一分かるのは、このままだと俺の命が危ないということだけだ。
だが不幸中の幸いにも、俺には空手の経験があった。それも有段者である。だから刃物を持った素人相手ならば、いくらか対抗は出来るし、その気になれば彩を無力化することもできるかもしれない。
そうだ、俺がこの子の目を覚ましてやるんだ。事情を聞くのは、それからでも遅くない。
「……分かったぜ、彩。俺を殺せるもんなら、殺してみろよ」
構える。
この狂気に侵された娘には、もう何を言っても無駄だろうから。
「格好いいね、夕貴くん。女の子に人気があるのも分かるような気がするよ」
彩は包丁を握ったまま、無防備に立っているだけ。彼女の言葉は、無視する。そんな暇があるなら、一瞬の隙でもいいから見つけて包丁を奪ってやる。
「実はね、夕貴くんって結構有名なんだよ。とっても素敵な男の子がいるって、私の耳にも入ってきたぐらい」
彩の動きを観察する。
足の運び、利き腕、呼吸の間隔、間合いの管理、そして軸足なども一切考慮せずに歩いている。
たぶん、彼女には武道の経験はない。
「私も初めて夕貴くんを見たときは、運命を感じちゃったなぁ。よく分からないけど、心の奥底が疼く感じがしたの」
俺は丸腰で、武器になりそうなものは持っていない。
対して彩は、殺傷性のある刃物を持っている。その差は大きいが、しかし絶望的でもない。確かに包丁は脅威だが、武器を持った素人は、その多くが『武器を使う』のではなく『武器に使われる』ことになる。
だから彩の凶器にのみ注意すればいい。言うは易し、行うは難しだとしても。
「あれれ? もしかして夕貴くん、女の子と喧嘩するつもりなの?」
口元を薄っすらと歪ませて、彩は前髪をかき上げる。
その一瞬を、俺は隙だと判断した。
迎え撃つのではなく、攻め入る。脚に溜めていた力を解放して、一気に駆け出した。
前傾姿勢を保ちつつ、包丁にだけ警戒して彩に接近する。恐らく一撃あれば、彼女から意識を奪うことができる。女の子を殴るのは気が引けるが、いまはフェミニストを気取ってる場合じゃない。
縮まる距離。加速する緊張感。背中をイヤな汗が伝う。俺は腰だめに構えていた拳を突き出した。
「あーあ、見損なったよ夕貴くん」
そう呟いた彩は、退屈そうな顔をあらわにしたまま、とんと軽やかなステップを踏み、こともなげに俺の拳を避けた。
「――くそっ!」
完全に見切られてる。あまりにも手ごたえがなさすぎた。
俺は奥歯を噛み締めたまま、彩に畳み掛けようとして――その姿が視界から消えていることに、ようやく気がついた。
「危ないなぁ。これでも女の子なんだからね」
耳元に吐息が吹きかけられる。
慌てて距離を取ろうとするが、それよりも早く、彩のかたちのいい脚が跳ね上がっていた。わき腹のあたりに強烈な衝撃。俺の体は地面を何度もバウンドしてから、ようやく止まった。
彼女の身体能力は、人間に許された領分を明らかに超えていた。俺の視界から一瞬で消失する脚力も、重量にして数十キロを越える男の肉体を蹴り飛ばす膂力も。
肉というよりは骨に響く痛みが、全身の神経を稲妻のように駆け巡る。
「がっ、はっ……!」
肺に溜まっていた空気が漏れる。
仰向けに倒れたまま、じんじんと痺れるような痛みから逃れようと、無様にのたうちまわる。
「痛くしてごめんね、夕貴くん。でも、こうでもしないとお話できないから、しょうがないよね」
慈しむような視線。
そのまま彩は、俺に馬乗りのかたちで跨ってきた。艶かしい女の子の感触。ちょうど腹の部分に、彼女の柔らかな臀部が乗っかる。
頬に土をつけ、荒く息を吐く俺を見て、彩は熱っぽい吐息を漏らした。
「……本当に、夕貴くんって可愛いね」
頬を薄っすらと赤くする彩は、扇情的でさえあった。
「ど、う――して」
「うん? ごめん、もう少し大きい声で言ってもらっていいかな?」
「……っ、……どうし、て……こ、んな」
「あぁ、やっぱり気になるよね。じゃあ、夕貴くんにだけ教えちゃおっかな。特別だよ?」
てへへ、と気恥ずかしそうに彩は笑った。
右手に握った包丁をチラつかせたまま、彼女は続ける。
「あれは、私がまだ小学校に入ったばかりのころだったかな。両親がね、離婚したの。理由は、性格の不一致っていうありきたりなもの。それでも一つの家庭を壊すには十分なものだよね、それって。
紆余曲折はあったみたいだけど、私はお母さんに引き取られることになったわ。当時の私に小難しい話は理解できなかったけど、お父さんと離れ離れになるのは寂しかったけど、まあお母さんと一緒ならいいかなって思えたんだ。
それから数年間、お母さんは女手一つで私を育ててくれたんだけど、やっぱり限界はあるのよね。お父さんから養育費は貰っていたみたいだけど、思春期の子供を育てるのは精神的に負担がかかるし、やっぱりお母さん一人で仕事と家事をこなすのは無理があったのよ。
あっ、誤解しないように言っておくと、私はちゃんと家事を手伝う偉い子だったよ? おかげで料理も得意になったんだから」
俺に嫌われないようにと言い訳する彩が、ひどく場違いに思えた。
「あれは私が中学生になったばかりのときかな。お母さんがね、再婚したの。もちろん私も喜んだよ? それでお母さんの負担は減るし、なにより愛する人と一緒になりたいって思うのは、女として当然だもんね。
相手の人には息子さんがいて、私にもお兄ちゃんが出来ることになったの。一人っ子だった私は、それはもう喜んだよ。初めてお兄ちゃんって呼ぶときは緊張したけど、嬉しいっていう気持ちが大きすぎて気にならなかった。とまあ――ここまでなら、ただの身の上話だよね」
「俺、は……そんな話が聞きたいんじゃ、ねえ!」
「お母さんがね、死んじゃったの」
その言葉を聞いた瞬間、エンジンを切られたモーターのように思考が停止してしまった。
口を閉ざす俺を満足そうに見下ろし、彩は微笑んだ。
「再婚して一年ぐらい経ったころかなぁ? 買物して家に帰る途中、自動車に轢かれちゃったの。相手は十代後半ぐらいの男の人で、原因は飲酒運転だった。
もちろん泣いたよ? いっぱい、いっぱい泣いたよ? 涙が枯れても、目が腫れても、ずっと泣いたもん。大好きだったお母さんが死んじゃったんだから、当然だよね。一時期は自殺して、お母さんのあとを追おうかなって考えてたぐらいだし。夕貴くんもお母さんが大好きって言ってたから、この悲しみは分かってくれるでしょう?」
「……ああ」
小さく頷く。
あらゆる問題や葛藤を抜きにして、純粋に『母親が死んだら悲しいか?』と聞かれれば、質問者が聖人君子だろうが悪党だろうが、俺は頷いてみせるだろう。
「だよねっ! ……あぁ、よかったぁ。夕貴くんに分かってもらえなかったら、私、泣いちゃうところだった」
瞳を潤ませて鼻を鳴らす彩は、真実喜んでいるようだった。
「お母さんと離れ離れになったことは寂しかったけど――やっぱり人間は慣れる生き物らしくって、半年もすれば前を向けるようになった。新しいお父さんも、三つ年上のお兄ちゃんも、本当に優しい人たちだったし。
でも幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。あれは……私が中学三年生のときかな? あるときね、お兄ちゃんに犯されたの」
悲観せず、むしろ穏やかな笑みを浮かべたまま、彩は続ける。
「あのころの私って、同年代の子と比べても発育がよかったから、きっとお兄ちゃんにとっては目の毒だったんだろうね。初めて犯されたときは痛くて、涙が出て、止めてって言っても辞めてくれなくて、本当に辛かった。
でも、こんなこと誰にも言えないよね。私はお母さんの娘で、新しいお父さんとお兄ちゃんとは血が繋がってないんだから。お父さんは優しかったけど、もし告げ口しちゃったら、義理の娘である私は捨てられるんじゃないかって、そんな気がしてたの」
それが。
櫻井彩という少女が心に負った傷。
――実は私、ちょっとだけ男の人が苦手なの。
男性恐怖症とも言える症状を挙げた彩だが、やはり異性から暴行を受けた経験があったようだ。
「それからね、数週間に一回ぐらいの割合で乱暴されたかなぁ? 抵抗しちゃうと、唯一血が繋がっていない私は捨てられるんじゃないかと思って、ずっとされるがままだった。でも、嘘でもいいから行為を受け入れちゃうと、気持ちよくなってくるんだから人間って不思議だよね。そうは思わない、夕貴くん?」
微笑んで。
彩は俺の手を優しく掴み、それを自身のふくよかな乳房へと誘導した。
「な、に……を」
てのひらに伝わってくるのは、どこまでも男を魅了する柔らかな感触だった。弾力のあるふくらみが、衣服越しに感じられる。
「……んっ、あっ、いいよ、夕貴く、ん……」
透き通った肌は、いまやすっかりと紅潮している。腰を繰り返し前後させる彩は、自身の性器を俺の腹にこすり付けているようだった。彼女は快感に震え、薄く瞳を閉じながら、妖艶な喘ぎ声をもらす。それはあまりにも倒錯的で、ぞっとするほど美しかった。
「はあぁ……やっぱり、夕貴くんってたまらないね。もうわたし、とろとろだよ……」
彩の全身が弛緩し、倒れるように覆い被さってきた。艶やかな黒髪が顔にかかり、ほのかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
「なんかね、夕貴を見てると、お腹の下のところが熱くなるのよね。その感覚が、頭の奥が痺れるぐらい、気持ちいいの」
熱っぽい吐息。
耳元で囁かれるものだから、なんとも言えないむずがゆさがあった。
「……夕貴くん」
耳に生暖かい感触。たっぷりと唾液の乗った彩の舌が、ぴちゃぴちゃと音を立てる。それは”舐める”というよりも”しゃぶる”に近い。ぬめった粘膜が、俺の耳をねぶっていく。
「……くっ」
声が出そうになるのを寸前で我慢する。耳たぶを甘噛みしたり、穴の中に舌を入れたりしてくる。肌が粟立ち、淡い快楽が全身の神経を駆け巡る。
「……もっと夕貴くんの可愛い声、聞かせてよ」
発情した女の吐息が耳にかかる。
「夕貴くんって……女の子みたいな甘い匂いがするんだね」
ぴちゃぴちゃ。卑猥な水音を立てながら、彩の愛撫は止まらなかった。耳を唾液まみれにしたあとは、首筋に吸い付かれる。何度も鼻を鳴らし、俺の匂いを胸いっぱいに吸い込む。こんなときなのに素直に反応してしまう自分の肉体が心の底から恨めしかった。
ゆっくりと上半身を起こした彩は、口元のよだれを拭った。それは女というよりは、牝と表現したほうが近しい淫らな姿だった。
「ごめんね、私だけ盛り上がっちゃって。でも、夕貴くんも気持ちよかったでしょう? ……さて、そろそろ時間切れかな。夕貴くんを殺さないと、怒られちゃうもんね」
汗ばみ、火照った顔に笑みが浮かぶ。
「うん。本当は夕貴くんを殺したくないけど、殺さなくちゃいけないんだもの。そうじゃないと、そうじゃないと……そうじゃないと……っ?」
大きく目を見開く彩。
「あれ……? 私、どうして? ……どうして、夕貴くんを殺そうとして――ううん、だって私は夕貴くんのことが――いや、好きだからこそ……ううん、違うもん。普通は好きな人を殺そうとしないはず……私は――――ぐっ、あ、あぁ……!」
その刹那。
彩の身体がふらりと傾いだ。彼女は心臓のあたりを押さえたまま、発作に耐えるみたいに顔を歪めている。
……ここしかない!
これまで回復に努めていた体を運動させて、よろめきながらも立ち上がって見せた。
理由は分からないが、彩は胸を押さえて蹲っている。
躊躇はあったが、俺は彼女に背を向けて走り出した。
数十メートルほど距離を開けて振り返ってみると、立ち上がった彩がこちらを睨んでいるところだった。確実に追いかけてくる気だろう。さっき彩が見せた身体能力があれば、追跡することは容易だろうから。
このまま繁華街や駅前あたりに逃げ延びれば、俺は助かるだろう。さすがの彩も、人目のあるところでは襲ってこないはずだ。
「……違うよな」
一人呟いて、苦笑する。
自分でも馬鹿だとは思うが、俺の足は人気のある繁華街ではなく、人気のない河川敷へと向いていた。
だってさ。
――うん、私も――
しょうがないだろ。
――お母さんのことが大好きだよ――
こんなの反則じゃねえか。
――いつか恩返ししたいと思ってるもん――
あんな粋な台詞を吐くやつを見捨てるなんて、男のすることじゃねえよな。
母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。
だから俺が、彩の目を覚ましてやる。死んでもあいつを助けてやる。せっかくできた友達を、このまま見放すわけにはいかないから。