「今度は反対に岡野君が私に絡む生徒Bの役をやってみる?」
「……ぃゃ、それは遠慮しておくよ」
まひるの提案をやんわりと逸らした悠に、まひるが聞き返す。
「あら、何故?」
「……こう言うのもなんだけど、楠木さんに絡むのは、絡む方が対岸の火事にすら巻き込まれるような気がして…滅多に無いんじゃないかな、と」
悠はそう思った事を述べた。
(ちょっかい出した方が逆に焼き尽くされる光景が見える……)
一応は納得した様子でまひるが頷く。
「成る程。確かに、その可能性はありえるわね。……でも岡野君、岡野君には発想に無いのかもしれないけれど、ただ言葉を掛けてくる生徒Bだけではなく、かなり強引な輩もいるかもしれないことを考えてみて?」
「それはどういう……?」
まひるは握っていた手を広げて説明する。
「例えばこんなのはどうかしら。私が挙手による彼氏募集をしたと聞いて、なら『もし俺が同じクラスだったら絶対最初に手を挙げた自信がある。岡野じゃなくて俺と付き合わないか? な!』みたいにしきりにアプローチしてくるの」
「あぁ……」
悠は少し納得するが、少し疑問にも思う。
(実際、どうだろう……)
まひるが首を傾げる。
「やっぱりやってみましょう? 岡野君、今のセリフお願い」
「え? ぁー……ちょ」
促された悠は、セリフを言おうとして、止まる。、
「どうしたの?」
「ごめん、何か今のセリフ、口にするのに抵抗感があって」
「できない?」
悠は手で抑え、ぎこちなく始める。
「い、いや……大丈夫。『も……もし俺が同じクラスだったら……絶対最初に手を挙げた自信がある。岡野じゃなくて、お、俺と付き合って…くれませんか?』……てアホかぁ! 言えてないし!」
まひるがくすくす笑う。
「『俺と付き合ってくれないか? なぁ?』が言えないなんて。……岡野君、やっぱり繊細ね」
「ぁァァ……」
こめかみを抑える悠を、まひるは応援して言う。
「もう一回頑張って。岡野君は決して絡む生徒ではない、その振りをするだけよ」
それを聞いて、何とか思い込むように一つ間を置いて悠は口を開く。
「……『もし俺が同じクラスだったら絶対最初に手を挙げた自信がある。岡野じゃなくて俺と付き合わないか? なぁ?』」
完全に棒読みだったが、とりあえず言えた悠に、まひるは余裕の対応を見せる。
「多少の強引さなら許容できるのだけれど、いくら自信があろうとも、それは確かめようがないわ。悪いけど、あなたの提案は丁重にお断りするわ」
「『そ……それなら仕方ないか』」
「岡野君、それでは物わかり良すぎで終わってしまうわ」
まひるに突っ込みを入れられて、悠はしまったという表情をする。まひるが続ける。
「まあ、実は意外に引き際は心得ている人という設定ならありかもしれないけれど。お約束だったらこう。『何で岡野は良くて俺じゃ駄目なんだよ!』と納得いかず、私の手首を強引に掴む。そして私は嫌がるの」
まひるの一人芝居に悠はぽかんと目を奪われ、まひるは演技で本当に嫌がる素振りをする。
「『っぁ、やめてっ! 助けて岡野君ッ!』 そこに丁度岡野君が駆けつけます! はいっ!」
「『おい楠木さんから手を離せよ!』 ……うボぁー! 何言ってんの俺ヤバイ!! 死ぬ!」
まんまとまひるの振りに乗せられた悠は頭を抱えて盛大に畳に倒れた。轟沈した悠の背に、まひるはそっと声を掛ける。
「……岡野君、もし私が嫌な事されるようなことがあったら今みたいに怒って、そのまま私を助けてくれる?」
「は……はい。善処します」
悠はゆっくり頭を上げながら言ったが、まひるに怪訝な表情をされる。
「……善処?」
「い、いえ、全力で助けてみせます!」
「その息よ岡野君」
頑張って、と声を掛けられた所で悠は我に返る。
「はァー!! ちょっと俺マジおかしい!」
「大丈夫よ。岡野君が私を大事にしたいっていう気持ちが何となく伝わってきて、私は嬉しいわ?」
にっこり、まひるは笑って語りかけた。悠は声に出せずコクコクと頷いて返し、乱れた息を整えようと吸ったり吐いたりを繰り返して、ようやく落ち着き、ふと尋ねる。
「はぁー……はぁ。あの……そもそも楠木さんは何で無理に深い所まで突っ込んだり、普通わざわざ言わないようなことまで自分から言うの……?」
「……秘密……と、言うのは冗談で、そうね。私は私の思っている事を人に知ってほしい時はきちんと知ってほしいし、相手の本音、とりわけプラスの感情に近づけるのならば、基本的に私は恥ずかしかろうと構わない。事実既に岡野君と私は、他の人には秘密にしておきたいようなことを幾つか二人だけで共有している状態にあるでしょう? ね、岡野君、これをどう思う?」
まひるは考えるようにして述べてから、悠に質問を振った。悠は軽く胸に触れて言う。
「……ど、ドキドキ……するというか、もう動悸がしすぎて」
「そう、私も同じよ。胸の高鳴り、ときめきであったり。ね、こういうのって何だか幸せが増える気がするでしょう?」
柔らかい笑みを浮かべて、まひるは言った。
「…うん」
「思い出してみて。ほんのついさっき、岡野君が家に上がってすぐの時、どうだったか」
「気まずくて、緊張した…ね」
まひるが頷き、独白する。
「そう。あのまま、緊張してきまずいままずーっと会話も無いままだったら、楽しくもないし、一緒にいるのが寧ろ辛いかもしれない。その原因である見えない心の壁を破壊するのに、互いの気まずさ、緊張してることを敢えて声に出して確認しあったり、そういうあれこれは効果抜群だったでしょう?」
「……それはもう凄く」
じっとまひるの言葉を聞いていた悠は深く頷いた。
「そういうことなのよ。だから岡野君、私に伝えたいことがあったら素直に言っていいの」
「ぁ……あぁ、何となく……分かった気がする」
目を見開いて手を握りしめた悠に、笑顔でまひるは言う。
「それは良かった。ただ、頭で分かっただけでは殆ど意味が無いから気をつけてね。実際に、例えばこうするの」
「へ」
「……岡野君はこうして私の話きちんと聞いてくれて、それに私の振りにも今の所素直にぜーんぶ付き合ってくれるし、凄く嬉しい。ありがとう?」
落ち着いた笑顔で、まひるは首を傾げた。
「ど、どういたしまして……」
「それじゃあ、今度は岡野君の番かしら?」
ふふ、とまひるが笑った。
「え」
まひるは少し身を乗り出して囁く。
「私、岡野君に何か言葉を掛けて貰いたい。どう?」
悠は身を引いて、声を絞りだす。
「ぐ。……く、楠木さんとこうして話せるのが……嬉しいです……」
「ふふ、まだまだこれから練習が必要そうね。自覚はある?」
「……精進します……」
まひるにくすりと笑われた悠は少し頭を下げて言った。
(む、難しい……)
まひるは頬に沿って右手を当てる。
「私夢見がちな女の子だから、今の岡野君の言葉みたいな、例えば『一緒にいれるだけで嬉しい』とか、そういう恒常的に使える言葉だと余り満足できないと思うわ」
「す、すいません……」
思わず悠は平謝りするが、まひるは首を振って言う。
「責めていないわ。私が我侭なだけ。私をドキドキさせるようなその時、その時の気持ちを素直に言ってくれれば良いのよ」
悠はなるほど、と納得した表情をし、まひるが続ける。
「私は気難しいから頑張って。一つ例を出すと、その時その時だからといって『今日も綺麗だね』みたいな安易な言葉を言われると、私寧ろ幸せが減ってしまうタイプだから。もちろん時と場合によるけれどね。ただ何か適当に言えば良い訳ではない、その言葉が相手が言われた時、幸せが増えるかどうかを少し考えると良いわ」
「べ…勉強になります」
恐縮した様子の悠にまひるはくすりと笑い、両手を合わせる。
「フフ。……さ、今日はこれぐらいにしておきましょうか。岡野君の精進とやらには相応の時間が必要でしょうし」
「……違いないです」
「言っておいて何だけど、帰る前に一つ提案があるの」
悠が何だろうと声を上げる。
「提案?」
「次の日曜日、予定は空いてる?」
「あぁ、空いてるよ?」
軽く返答した悠に、まひるは話を吹かっける。
「ならばデートをしましょう」
「で、で、デート?」
全然馴染みの無い単語に悠は疑問符を浮かべた。
「どう?」
「も、もちろん」
「なら決まりね。因みに明日部活はある?」
「いや、美術部は明後日から」
「では明日デートの計画を一緒に立てましょう」
唐突な提案に悠は聞き返す。
「あ、明日?」
まひるが頷く。
「ええ、また家で。どんなデート、何をしたいか、そういうのを一緒に決めるの」
「……り、了解」
「ふふ、今から明日が待ち遠しいわ。岡野君が私とどんなデートをしたいのか、少しは考えてきてくると思うから、楽しみ。ね?」
含むようなまひるの表情に、悠は空笑いした。
「は……はは……」
そして、玄関に移動し、まひるが声を掛ける。
「それでは、また明日学校で会いましょう」
「うん、また明日。お邪魔しました」
靴を吐いた悠はそう言って、頭を下げ、まひるに見送られて楠木家を後にした。
歩いて駅に向かう途中、悠は急に動悸が再発する。
(……やばい。一気に色々ありすぎて楠木の事が頭から全然離れない。興奮してくる……)
翌日、健康診断の日。
全校一斉に一日掛けて行う健康診断は、各検査を行うのに各クラス性別単位で基本的に行動し、移動中や待ち時間など、生徒は殆ど会話しながら適当に過ごすのが普通である。
悠は、朝、またもや超ギリギリで登校して来た。
(尿検査の存在を完全に忘れてたせいで……まーた遅刻しかけた)
廊下を早足で歩いていると、丁度ジャージ姿の相澤が職員室から出てきて声を掛ける。
「ほら急げ岡野! 遅刻にするぞー」
「はぃー! おはようございます!」
悠は相澤に先んじて前のドアから教室に入り、尿検査キットを教卓に置かれた袋に入れてから席に向かった。席の隣に着くと、まひるが声を掛ける。
「おはよう、岡野君」
「お、おはよう」
既に体育用ジャージ姿のまひるに悠は挨拶を交わすと、
「きりーつ! 礼!」
すぐにHRが始まり、相澤が話し始める。
「……はい。高1はまず一番最初は身体測定なので各自体育館に移動するように。じゃあ保健係、今日は頼んだ」
そしてHRが終わり、わらわらとクラスメイトが動き始める中、悠は早めに来ていなかったため、女子が教室から出ていくまで待ってから、同じようにまだ着替えていなかった男子と一緒に急いで着替えて体育館に向かった。
体育館につけば、視力検査、体重、座高、身長……と計測している所の混雑状況を見ながら適当に並び、健康診断のシートを埋めていく。
男子の保健係に従って、その後も歯科、眼下、内科、……などなど毎回それぞれにある程度人数を回すのに待ち時間が発生するもので、
(あー! うぜぇぇぇぇ! 既に他のクラスにも広がってたぁぁぁ!)
移動する途中、他クラスの男子集団に会えば妙な視線を向けられたり、「岡野! 後で転校生紹介しろよー!」だとか適当な言葉をすれ違い様にちょいちょい掛けられ、そういう事に耐性の無い悠には、健康診断回りがさながら苦行だった。
聴力検査のために長い行列が数クラスに渡り、壁際にたむろしていた所、悠の隣に座る男子が声を掛ける。
「……ホントお前、すげー目立ってんな。ウケル」
「受けなくていいから」
江崎という悠の前の席の男子は続けて話す。
「まぁ、楠木さんも大概だからしゃーないね。今日の朝、他クラスの野次馬がクラスに見に来てたの……知らないか、ギリギリだったし」
「野次馬が出るのは予想できるんだが……何かあった?」
悠は薄々勘付きながらも尋ねた。
「あった。……教室の外から見てた奴らまでは流石にどうもなかったけど、野球部連中が教室の中に入って見にきた時は、楠木さん自分から近づいてったからマジ面白かった」
うける、と江崎は思い出すように笑う。
「あー何か嫌な予感が……」
「イチコロだったぞ。『何か用があるの? 私、これでもじろじろ人に見られるのは余り良い気分がしないのだけど、あなた達はそういうの平気?』って言って、野球部黙ってほぼ終わり。切れ味パネェ。話し方もそうだけど、普通の神経してないだろアレは」
しみじみと悠は頷く。
「あぁ……違いない」
ぽん、と江崎は悠の肩を叩く。
「ま、お前良かったじゃん。楠木さん可愛いし?」
「ああ、一番最初に挙げて良かったわ」
面倒なので悠は普通に答えると、意外そうな顔をして江崎が確認する。
「え、あれ一番最初だったからお前選ばれたの?」
「そう言ってた。でもぶっちゃけイケメンならイケメンの方がいいらしい」
「うわ正直。おい、増田! 岡野が選ばれたのって一番最初に手挙げたかららしいぞー!」
聞いた途端、江崎は膝立ちになって後ろを向き、大きめの声を上げた。
「ちょ江崎おま」
おまえ、と悠が小さく声を出すと、遠くから増田の嘆き声が上がる。
「ぅあー! マジかよー!」
「増田あわれ!」
「うっせ! 佐藤と西山もだろ!」
「んだよ!」 「ほっとけ!」
「とりあえず岡野はもげろ!」
次々とクラスの男子の声が上がり、どさくさに紛れた発言に悠は言い返した。
「とりあえずもげるか!」
しかし更に江崎が聞こえるように言う。
「あと楠木さんぶっちゃけイケメンならイケメンの方が良いって言ったらしいぞ! ウケル!」
「マジかよ!」
「ええ!? まさか俺の事ぉ?」
「鏡見ろ田中ァ!」
「お前もな!」
「はははは!」
わいわいと騒がしく声が上がり、そこへ駆け足でジャージ姿の教員がやってきて注意する。
「おい、そこうるさい! 近くで聴力検査やってること考えろ!」
「すいませーん!」
そこまでで、騒ぎは一旦収まり、前のクラスが進んだのに合わせ少し移動しながら、江崎が話かけてくる。
「……で、昨日一緒に帰ってどうだった?」
「どうだったって……まあ、何度も心折られた……」
一瞬悠は迷って、そう答えた。
「ぇえ? 何があった?」
「楠木さん、基本ドSなんだ」
ふーん、と江崎が唸る。
「ドSね……いや、でも分かるな。まさかそれで何か調教でもされたか?」
悠は反射的に額を抑えた。
「ヤバイ思い出すと死ねる」
「岡野……お前何をされたんだ……?」
江崎の質問には返答せず、そこへ丁度1-B男子の保健係が声を上げる。
「はい! 次1-B進むよ!」
一方、まひるの方も、同じクラスの女子達に色々聞かれていた。
「楠木さん、昨日岡野と一緒に帰って、どうだった?」
「色々話をして、日曜日にデートすることに決めたわ」
ふ、と笑ってまひるは答えた。
「えー!」「ホントに!?」「えすごーい!」
「どこでデートするの?」
「まだデートの内容は何も決めてないわ」
今日これから決める、とはまひるは言わない。
「そうなんだぁ。で……岡野ってどう?」
とりあえず興味だけがある小林が小声で尋ねるが、まひるは即答する。
「岡野君はへたれだわ」
「へたれ?」
「ぇ、へたれって」
「ま……ぶっちゃけだよね」
一度悠の評価を落としつつも、まひるは今後の期待を込めて首を一度振って述べる。
「でも別に今はへたれでもいいの。私が話しかけるとすぐ逃げてく男子よりは私に対してへたれてはいないし、これから岡野君が成長していけばいいのよ」
「な、何か楠木さんって凄いね……」
まひるの言葉に何か感心し、小林が指摘して聞く。
「えっと、楠木さんに対してってどういうこと?」
まひるは落ち着いて瞼を閉じて言う。
「少なくとも岡野君は私の質問にはへたれてはいるけど逃げずに全部答えてくれた、ということよ」
「ど……どんなこと聞いたの?」
ふむ、と思い出してまひるが例を上げる。
「そうね。例えば、岡野君は挙手する瞬間どういう気持ちだったのかと尋ねたら『できたら付き合いたい』という想いで挙げたと答えたくれたわ。岡野君はきっと玉砕も覚悟していたのね」
「う、うわぁ……」
「できたら、って何かリアル」
「そ、それ普通聞く……?」
まひるは自分の意見を述べる。
「勿論。あの手を挙げたら絶対恥ずかしい中、挙手を求めた私としては一番最初に手を挙げる時の気持ちは聞くかざるを得ない、いえ、聞くべきだと思う」
「そもそも転入してきていきなり彼氏募集したのは何で?」
「お付き合いする相手が欲しかったから、それだけよ」
言った通りの単純な理由をそのまままひるは言った。
「えぇえ……」
「それだけ……?」
「無理無理無理……。だからってあんなことできないって……」
「確かにクラス全員の前で募集したのはそれなりに堪えたわね」
そ、そうだったけ、と小林が言う。
「そんな風には見えなかったけど……」
まひるは髪を手で抑えて答える。
「ポーカーフェイスには自信があるのよ。それと、ああいう状況を自ら仕立て上げて退路を絶つのって中々スリルがあって興味深いわ」
「ぜ、絶対、無理……」「それは無いよ……」「スリルなんていいよ……」
質問をしている側の女子達のヒットポイントを逆にゴリゴリまひるは削っていく。
「絶対無理ということはないわ。私にできるのだから誰にでもできるわ。ね、小林さんは付き合っている人はいる?」
「わ、わたし!? い、いないいない!」
「好きな人は?」
「い……いる……けど……」
「告白はしないの?」
「そ、それは……」
「恥ずかしい? それともその人は誰か既に付き合っている人がいる?」
「か、勘弁して……!」
怒涛の勢いで畳み掛けられる質問に小林はそう言葉を漏らし、まひるはそこで追求を止めた。
「それなら無理には聞かないけれど、私で力になれることがあったら協力するわ」
「あ、ありがとう……」
そして、その後もまひると会話すればするほど、女子達は、悠がどんな質問を投げつけられているのかと、妙な想像を膨らませるのだった。
それから健康診断も問題なく終了し、HRも終わった放課後。わらわらとクラスが動き出す中、相澤が聞こえる声で教壇から悠に呼びかける。
「そうだった岡野、ちょっと美術の備品運ぶの手伝えるか?」
「あ、え、はい!」
「じゃぁ、先一応美術室行って待ってろ。私もすぐいくから」
「分かりました」
すると、相澤は教室から出ていった。そこで、悠は右側を見る。
「あー、楠木さん」
「私も手伝うわ」
「え」
悠がまともに口を開くよりも先に、まひるは簡潔に言い、更に続ける。
「一人より二人の方が良いでしょう? 重い物の場合は私傍で応援してあげるから」
「そ、それはどうも……」
思わず悠は礼を言うが、
(いや、応援って……)
すぐにまひるが行動に移る。
「さ、美術室に行きましょう」
「あ、ああ」
そして、美術室の前に着き、相澤を待っていると、まひるが不意に尋ねる。
「岡野君、ちゃんと昨日の、考えてきた?」
「う、うん。それなりには」
「ふふ、期待しておくわ」
目を閉じてまひるが楽しそうに笑うが、悠がへたれる。
「あんまりハードル上げないで貰えると助かるんだけど」
ジロ、とまひるは悠を見つめて言う。
「ある程度ハードルは高く設定しないと成長できないわよ?」
「え、えぇ……」
まひるが更に尋ねる。
「昨日認めていた通り、へたれの自覚はあるのよね?」
「は…はい」
軽く自己確認を無理矢理させられた悠は情けなく言い、まひるが導くように纏めの質問を投げかける。
「なら、へたれを脱却するためにはどうしたらいいかしら?」
「……努力します」
「その息よ。頑張って」
「…はい」
そこに相澤が現れ、悠に話しかけようとして、
「よし岡野、っと……あれ楠木さんもいたの?」
まひるにも気がついた。まひるが返事をする。
「ええ、先生、私もお手伝いすることがあればと思いまして」
「んー、そうか。しかし、これから下の職員玄関に行って運ぶ物は結構重い」
「その時はその時で考えがあります」
「考え?」
まひるの無駄に謎めかした返答に相澤は疑問符を浮かべる。悠はとりあえず作業を進めようと提案する。
「あの、相澤先生、とにかく、早速取りに行きましょう」
「……ま、そうだな。よし行くぞ」
やや適当な相澤の言葉に従い、三人は下の階下の職員玄関に向かった。
「で、運ぶのはこれだ」
相澤が言って示した所には、床に複数個のダンボール箱が纏まって積まれていた。
「岡野、まずいつもの所から台車」
「は、はい」
言われて、悠は運搬用エレベーターのスペースに台車を取りに向かった。戻ってくるまでの間、相澤はダンボールの重さを持とうとして軽く確認しつつ、不意にまひるに話しかける。
「ところで、今日も岡野と帰るの?」
「そのつもりです」
相澤が思い出すように言う。
「そうか、確か楠木さんの家は通学路を外れたすぐ近所だったような……」
「そうです」
「それで一緒に帰れる?」
「帰れます」
「……そうか」
それで相澤が納得してしまうと、そこへ悠が戻ってくる。
「先生、持って来ました」
「良くやった。次乗せる」
「はい」
続けて手押しの台車にダンボール箱を乗せることになる。細長のタンボールを最初に相澤が指示して悠に反対側を持つように言う。
「そっち持て」
「はい」
相澤が悠と一緒に持とうとする所、まひるが声を掛ける。
「相澤先生、できれば私にやらせて下さい」
「ん、なら頼んだ」
「はい。……さ、岡野君、これが私達初めての共同作業になるわ。息を合わせて持ちましょう?」
まひるは悠と反対側のダンボール箱の端に立って言った。聞いていた相澤はぎょっとした目をして、しゃがんでダンボールの端に既に手を付けていた悠も驚く。
「へ! ぁ、うん」
するとまひるがしゃがみ、悠の目線がスカートの中に吸い寄せられる。まひるが声を掛ける。
「……良い? 1、2の」
さん、で慌てて悠は力を入れて持ち上げ、まひると一緒に、横に歩き、ゆっくり台車に移す。
「よ」「と」
そのままもう一つの細長いダンボールに向かうと、まひるが尋ねる。
「次は岡野君が声を掛けてくれるのかしら?」
「も、勿論? い、1、2の」
さん、でしゃがんだ状態から再び持ち上げて、同じように台車に移した。
(スパッツだった……思いっきり黒のスパッツだった……)
二回見て、悠は心の中で妙な残念感を抱いた。
「よし、後普通のを順に積んでいけ」
「…はい」
相澤に指示されて、悠は一人で持てるサイズのダンボールに取り掛かる。
「岡野君頑張って」「うん」
「ん。楠木さんは?」
相澤は動かないまひるに声を掛けると、まひるは澄まし顔で平然と答える。
「私は今から岡野君の側で岡野君を応援する係です」
「……なるほど。よし、岡野、私も応援してやる。頑張れ」
ポンと手を叩いて相澤は悠に声を掛ける。
「せ、先生?」
「それ重い。彼女に良いところみせるチャンスだと思えばいけるだろ」
「先生の言うとおりよ。さ、岡野君、私に良いところみせて?」
順に相澤とまひるに言葉を掛けられ、悠は素直に答える。
「…は、はい。任せて下さい!」
ただ、内心悠は二人を見て、
(楠木と先生、妙に息あってるような……)
思った。相澤が小声でまひるに言う。
「……岡野の扱い上手いな」
「扱いが上手いなんて心外です。私は岡野君はきっとこの方が喜ぶだろうと思って応援する係やっているのですから。……岡野君その調子よ。私に応援されて嬉しい?」
悠に聞こえるようにまひるが言うと、悠は返事をする。
「う、嬉しいです」
相澤はかなり適当に好き勝手なことを呟く。
「……ぉぉ単純。んー。とりあえず岡野が喜んでるなら良いか。もともと岡野にやらせるつもりだったし」
結局、悠が他のダンボールを全部積み、三人で荷物運搬用のエレベーターを使って上に上がり、美術室の備品置き場に降ろして行く。これもまた、ほぼ悠の仕事。一つ一つ降ろしていく途中、唐突にまひるが悠に尋ねる。
「ところで岡野君、私のスパッツは何色かしら?」
「黒…です。……あ」
簡単にアホが釣れた。まひるが深刻そうに相澤に言う。
「先生、大変です。岡野君が私のスカートの中を覗きました」
「おい岡野、ちょっとこの後職員室来る?」
相澤が真顔で指をクイクイと動かして見せ、慌てて悠は取り繕い持っていたダンボールを降ろし、、
「い、いや、遠慮したいんですが…というか。楠木さんごめんなさい! 申し訳ありませんでした!」
思いっきり頭を下げて謝った。悠の後頭部を見下ろす形で、まひるは呟き始める。
「……下着を見られて私、心が傷ついたわ。こういうの結構根に持つタイプなのだけど、時には寛容さを見せることも彼女としては重要よね。初犯だし今回は大目に見るとして、許す条件があるわ」
恐る恐る悠は頭を上げながら尋ねる。
「……な、何でしょうか?」
「私の彼氏として、私のスパッツを見た感想を言って欲しいの」
「な」
悠は頬を引き攣らせた。まひるがさとすように言う。
「岡野君……私の彼氏として、彼女の下着に感想の一つや二つ言えないようでは私ちょっとがっかりしてしまうわ。ねえ、先生、先生もそう思いませんか?」
「んーまあ。そうだな。よし岡野、言ってみろ」
相澤は超適当に振った。
「は、はい……」
悠はかぼそく言いながら、己の過ちを後悔する。
(何かこう……もう言うしか、無いんですね……)
まひるが凄い澄まし顔で促す。
「さあ、言ってみて?」
「ぐ。……ふ、太腿のラインがスパッツで強調されていて、魅力的でした…ぅぁぁ……」
悠は必死に堪えるように、言い切って、目を覆った。
「岡野、お前、面白いな」
相澤が勝手な感想を言い、まひるが首を傾げて通告する。
「……何か少しいやらしい気がするけれど、いやらしいと感じるのはきっといやらしいと感じてしまう私にも原因があるのでしょうから、許してあげるわ」
心からの感謝の念で悠は自然と頭が下がる。
「楠木さん……本当にありがとうございます」
その後、荷物の運搬を終え、台車も戻して作業を終えると、まひるが悠に声をかける。
「岡野君、さ、一緒に帰りましょう?」
「は、はい」
そして、悠はまひるに連れられてまたこの日も楠木家に向かう。
まひるの親切心、それは心の折れる心折の音がするのか。