夫が空気だというご指摘を受けましたが、安心して下さい。これから状況によってはターニャ以上に重要になっていきます。
そして、石井参謀長の狙いは、ターニャよりもそっちにあるのです…!
とある大学での、歴史学の講義。
現在に至るも、南都大虐殺については多くの学説があり、実際の死傷者数を含め、それらが中華革命党の政治的な思惑もありまったく確定されない状況にある。
公式な皇国軍の記録をあさっても、明確に虐殺を命じた物がないのはほぼ確実となっている。すでに該当する公文書等の公開はなされ、研究もされつくしていると言ってもいいだろう。
だが、前線部隊が独断で虐殺を行った可能性は否定できない。特に、当時の皇国軍は急速な進軍で指揮系統の一部に混乱をきたしていた可能性があり、また、中華国民軍は陸戦法規に違反する便衣兵…つまりゲリラ部隊を市街地の難民区画に潜伏させていた可能性が高い。軍服を捨てて逃げた兵士も多数存在したと思われる。これらの掃討の過程で、言葉が通じない事もあり、不幸な間違いから民間人の虐殺が行われた可能性は高いだろう。
また、一部の研究者からは、皇国軍の正規ではない部隊が虐殺行動をとった可能性を指摘している。そのために、公文書に残っていないという主張だ。
まあ、この主張はないだろう。
なにしろ、証拠として提示した写真が、皇国軍の軍属の服を着た外国人の少女が、銃剣を死体に刺しているなんて物なのだから。
視界に入ったのは、紅い飛沫だった。
「え………」
ゆっくりとした時間の中で、紅い飛沫を撒き散らしながら愚息が仰向けに倒れて行く。
倒れた愚息のその先には、銃を隠しながら群衆の中に逃げ込んでいく一人の男。特に紅い何かをつけているわけでもないが、きっとアカだろうと直感的に思った。
ならばアカらしく、紅く染めてやらねば。
連中の掲げる赤旗は、敵の赤以上に、同胞の朱で染められているのだから。
部隊に与えられた任務は、南都の住民への認定証の配布だった。認定証は、どうも大量の便衣兵が入り込んでいるらしいので急遽発行する事になったものだ。
司令部としても、この部隊を扱いかねているように葉月は感じていた。当初の上都戦では、戦力が絶対的に不足していたから独強航空魔導戦隊ともども最前線に突っ込んでいたが、戦力に余裕が出て来るに従って正式な指揮系統に組み込まれていないために邪魔になり始めたようだった。
そこで、本来は後備兵師団などが行うべきである認定証の配布任務に駆り出されたのだ。
最初は危険な最前線から離れられる事に、内心ほっとした。
だが、
「並んで、並んで下さい!」
「押さないで、押さないで!」
…むしろ最前線の方が良かったかもしれない。
認定証をもらうと食料の配給が受けられるという噂を聞いて、配布を行っている広場に住民が殺到していた。
もちろん中隊の人員はもみくちゃにされ、応援に駆けつけていた歩兵部隊もいつの間にか人ごみの中に消えていた。唯一統制がとれているのは、歩兵部隊が司令部代わりに設置し、葉月が腰を据えている天幕の周辺だけだった。
こちらは中華の言葉が分からないため上手く指示が伝わらず、それ以前にこの喧騒の中では、どれほど声を張り上げてもまったく通じないのだった。
「???」
その時、葉月は妙に統制の取れている一角を見つける。
どうしてなのか気になり、天幕を出て調べに行く。
「………!」
そして絶句した。
そこでは母であるターニャが、小銃を抱えて無言で巡回しているだけだった。
だが、その小銃の先端の銃剣は赤黒い何かで汚れ、周囲に見せつけるように砲撃術式を臨界状態で住民に向けていた。
住民は何の術式か分からないものの、それが危険である事ははっきりと認識し、まるで閲兵を受ける兵士のようにびしっとした隊列を作って並んでいた。泣いてる子供も一発で泣きやむ(というか気絶する)恐怖だった。
「かあ…デグレチャフ教官、一体何をやっているんですか!?」
とっさに駆け寄り何をやっているのかと聞く。
それに教官は、いぶかしげな表情を浮かべながら答える。もちろん術式と小銃は油断なく住民の列に向けられている。
「群衆の統制だ、少尉殿」
さも当然の行為をしているという口調で答える教官。
「ですが、他に方法が何かあるでしょう!?」
だが、いくらなんでも砲撃術式を向けて従わせるというのはやり過ぎだ。
「…我々の任務は、住民と便衣兵を区別することだ。住民の支持を取り付ける事ではない」
だが、ターニャは平然としている。この状況をまったくおかしいとは思っていないようだった。
そして小声で付け加える。
「…それに、鞭たる我らが甘い所を見せては、この後の飴の効果が下がる」
それを聞き、唐突に家を思い出した。
ああ、そう言えば母さん(ターニャ)は怒ると猛烈に怖かったが、それが時折頭をなでたりしてくれると凄くうれしかったのを覚えている。もっとも、怒っている時の方がはるかに多く、結果として母親恐怖症とでも言うべき状態になってしまったが。
(そっか、我が家の教育方針って飴と鞭オンリーだったんだ…)
器用に飴ばかり多めに受け取っていた妹達を恨む。睦月と皐月は間違いなくそれを理解していたのだ。
そして、実体験のおかげで、ターニャの行動が理にかなっている事もわかった。
「…分かりました。ただ、絶対に撃たないでください」
母は圧倒的な恐怖を与える事はあったが、手だけは滅多に出さなかった。出すのは本当に許されない行為をしてしまったときだけだ(もっとも最近はそうでもないが)。
ターニャの方も鬱陶しげにあたりまえだという感じにうなずいている。
これなら大丈夫そ…
ダンッ!
唐突に肩を叩かれた。いや、そう感じた。
母さんが見た事もない表情をしていた。
それに驚きつつ、なにをされたのか背後を振り返ろうとする。
だが、急に足から力が抜けてそのまま仰向けに倒れてしまう。
急速に遠のく意識の中、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
少女の悲鳴が、広場に木霊した。
何事かとそちらに駆け付ける中隊の面々。人々は恐怖に駆られ、そちらから逃げだしている。
そして、彼らは見た。
元の色が分からないほど血で染め上げられた服を身にまとい、複数の死体に囲まれながら、意識のない隊長の葉月に治療術式を施している教官の姿を。
表情を見なくとも、その鬼気迫る何かが中隊の面々には伝わってきた。おそらく住民も、この光景とあまりの威圧感に逃げだしたのだろう。
「…諸君…」
その時、教官が集まってきた中隊と歩兵部隊に語りかけた。この声に、中隊はもちろん、教官の事を知らない歩兵部隊まで、気をつけの姿勢で傾聴している。
「狩りの時間だ」
そう言って振り向いた教官殿の顔には細かな血飛沫が点々と着き、それでいて無表情は普段と変わらず、それが逆に恐怖を感じさせた。
そして、葉月隊長を地面に下ろすと、足元に転がっていた血みどろの死体―――いや、いま微かに呻いたから生きているのだろう―――を掴みあげた。小柄な少女が右手一本で血みどろの男の頭を掴んで吊るし上げる。なんとも非現実的で、狂気を感じる光景がそこにはあった。
「さあ、君にはお友達のお家を教えてほしいのだが?」
ターニャがいっそ朗らかな調子で問いかける。
だが、相手の男は微かに首を横に振る。
「ふむ、これでもかね?」
そして突き刺される銃剣。相手の男は声もなく喉をそりかえらせる。
それを見ていた歩兵部隊のベテラン軍曹は、今ターニャが刺した個所は、人間にとって最も苦痛が激しい場所だと気がつく。よく見ると男の傷は全て焼かれており、簡単に失血死する事がないようになっていた。
結局、男は口を割る事なく気絶した。
「…こいつも知らない…鉄砲玉か…」
男を投げ捨てて、ターニャは宣言した。
「アカ狩りだ。この周辺で紛れ込んでいる便衣兵、全て狩り尽くせ。これは軍令に含まれる『治安維持行動』だと愚考するが、大尉殿、いかがですか?」
「あ、ああ。確かにその通りだと思う」
一瞬反発しようとした歩兵部隊の指揮官は、突き付けられた光学術式を前に屈した。
「でしたら、ご命令を」
正気と狂気という、戦場において並立しうる天秤が、明らかに狂気に傾いているその眼を前に、逆らえる者はいなかった。
その頃、皇国本土。
「ほら癒月、背伸び」
「は~い!」
家に残された皐月と睦月が、まだ小さい癒月の世話をしていた。パジャマを着替えさせている。
「お母さんがいないと、なんだか開放感があるよね」
「そうね」
皐月と睦月にとってターニャは、怒ると怖いが、ダメな事さえしなければ大抵の事は許してくれる(むしろ無関心?)放任主義な母親だった。
兄である葉月を、一種の観測気球として利用する事で、何がダメで何がいいのか早くに学ぶ事が出来たのが大きかった。癒月が生まれてからは大分やさしくなってきた感じ(あくまでも感じ)もする。
ただ、失敗した時のペナルティーが半端ではないので、いくら上手くやっていてもうっすらとした緊張感を感じているのだ。
だから、今回のようにターニャがいない時はたまの開放感を楽しんでいるのである。癒月の世話くらい余裕だった。
その時、玄関の扉をたたく音が聞こえた。
「はーい!」
癒月の世話を皐月に任せ、玄関に走る睦月。
「どちら様ですか?」
「お母様の部下をやっているものなのですが、緊急の用事がありまして」
扉の向こうから聞こえてくるのは、野太い男性の声。
「はぁ…」
これまでターニャの仕事など何も聞いていない睦月は、不思議そうな声を出して、チェーンをかけたままの扉を薄く開ける。
「!」
次の瞬間、薄く開けられた扉に太い指が差し込まれ、伸びきったチェーンがガッと大きな音を立てる。
さらに、即座にペンチがねじ込まれ、あっという間にチェーンを切断する。
「あ…あ…」
あまりの事に、腰を抜かす睦月。
「どうしたの睦月!」
「だっこだっこ!」
そこに、癒月を抱えた皐月が駆け付け、切断されたチェーンに絶句する。
三人の目の前で、扉がゆっくりと開けられる。
そして、逆光の中にたたずむ黒い人影が静かに口を開く。
「突然の事で申し訳ないのですが、三人にご同行願いたいのですが?」
さきほどの行動とは、打って変わって落ち着いた、丁寧な口調。
だが、睦月と皐月の目は、男の右手にシルエットとなって浮かび上がる、ある物に向いていた。
漆黒の艶消し塗料で塗られたそれは、下を向いた先端から、紅い雫を垂らしていた。