己へと迫る剣の軌跡が見える。
恐ろしいほどに速く、鋭い、横薙ぎの一閃。
一切の容赦もなく、躊躇もなく自分へと迫りくる木刀を見ながら少年は、回避に転じようと体を捻らせる。
だが、遅い。
少年の動きが決して遅いわけではない。
むしろ見かけ小学生程度の年齢の少年が自分へと迫ってくる超速度の木刀をここまで冷静に凝視し、回避しようと動こうとすることが異常なのだ。
それでも、木刀をふるってきた相手の男性の手加減抜きの一撃は―――あまりにも速過ぎた。
普通の人間では、何かが動いたな、程度の認識しか抱けないであろう。それほどまでに速い、一瞬の斬撃。
それをあろうことか、少年は確かに木刀の切っ先までも視線のうちにおさめていた。
それでも―――身体がそれに追いつかない。
「っ……」
コツンと少年の額を木刀が叩いた。
少年が回避しきれないと分かった瞬間、木刀を薙いでいた男性は手を止めていた。
しかも、少年からミリ単位しか離れていない空間で正確に。
寸止めといえばいいのだろうか。しかし、ある種の神業ともいえるその技には、少年もため息しかできない。
例えそれが―――とてつもない生活破綻者である父であったとしても。
「まだまだだなぁ、恭也」
「……もう一度おねがいします」
ニヤリと面白そうに笑みを浮かべる男性。
中肉中背ではあるが、服の上からでも分かるほどに筋肉が引き締まっている。どこか肉食獣をおもわせる雰囲気と肉体だ。
鍛錬の途中だというのに私服で、全身真っ黒の服装で統一している。
動きやすいとはいえないであろう恰好なのにあれほどの速度でうごけるのだから信じられない。
顔は美形―――というより男臭いというのだろうか。
やや伸びた無精ひげがそれをより際立たせている。
その男臭さが良いと多くの女性たちが噂をしていたのを、恭也と呼ばれた少年は知っていた。
自分の父である目の前の男性―――名を不破士郎という―――が、女性に魅力的に映るのは何故だろうか。それが不思議でならない。それはやはり士郎のことを誰よりも知っているからであろう。
そこで恭也は自分の呼吸が酷く乱れていることに気付いた。
長い間全力疾走したかのようなだるさを体全体に感じる。どうやら士郎のお遊びのように出していた剣気に軽くあてられていたようだ。整えるように深く呼吸を繰り返す。
二人が今手合せしていた場所はある一族の道場。
最も古き時代から―――日本の裏に潜み、生きてきた殺戮一族。
二刀の小太刀を携え、あらゆる暗器を使いこなす最強の名を欲しい侭にする剣士達。
人はその一族を―――永全不動八門一派【御神】の一族と呼ぶ―――。
ここはその御神流を受け継ぐ一族の宗家の敷地の一画にある道場なのだ。
そして士郎は御神の分家である【不破】最強の剣士。いや、御神も含め最強の剣士として噂されるほどの男である。
学校の体育館ほどの大きさがあるだろうか……周りを見渡せば今の恭也では到底及ばぬ幾人もの剣士達が、しのぎを削りあっている。誰もが十分に達人と呼ぶにふさわしい腕前である。
そんな恭也の視界の端に美しい黒髪を腰までのばした女性が心配そうに士郎と恭也を見ていた。いや、正確には恭也を凝視している。
その女性は、美しい。ただそれだけだろう。身長はそう高くはないが、顔を形作る全てのパーツが男を惹きつける。唯一の悩みが胸が小さいということで、よく恭也にそのことをもらしていた。。
女性の名前は御神琴絵。御神宗家の長女であり―――女性でありながら士郎にも勝るとも劣らぬ剣士である。
心配そうに見やる琴絵。それに耐えきれず恭也は逃げるように足元に視線を落とす。
「いいや、今日はお終いだ。お前に付き合ってたらきりがないしな」
ポンと士郎は恭也の頭に手を置きグシャグシャと乱暴に撫でる。
それに不満そうに眉を顰める恭也。撫でる士郎の手をパチンと軽く叩き落とす。その行為に士郎はより笑みを深くした。本気で嫌がってなどいないのが士郎にはわかっているからだ。
他の子どものように公園で遊ぶでもなく、ただただ剣をふるう。子供らしかぬ恭也を心配したこともある。
まだ一桁の年齢のくせにどこか大人びた雰囲気をまとう恭也だったが、それは甘え方が分からないのだろう。
物心ついたころから父である士郎と日本中を旅してまわっていた恭也だったからこそ―――甘えるという選択肢を無意識のうちに排除してしまった。
恭也が年齢に見合わない物の考え方をするようになったのは間違いなく士郎の責任であり、それを申し訳ないと思っていた。
「それにそろそろ夕飯時だからな。美影のババアがもう少ししたら呼びに来るぞ」
士郎の言葉を確かめるように恭也は道場の入り口の方を見ると、確かに夕焼けが差し込んできていた。
幾度となく士郎と手合せをしていたが思っていたより時間がたっていたようだ。
―――たとえそれが、最初の一撃を防ぐこともできない一方的な結果の手合せだったとしても。
「……少し汗を流してくる」
募る悔しさを振り払い、恭也はそう言い残し道場を後にする。
悔しいが―――これはある意味当然の結果だと己に言い聞かせて。
まだ十年も生きていない自分程度が、その三倍以上の時間を生きた天才―――不破士郎に勝とうなど虫が良すぎる話だ。
いや、勝つかどうかの話ではない。今の恭也では最初の一撃さえも避けることができない。
恭也はまずは一太刀目をかわすことを目標にゆっくりと走り始めた、が……。
「きょーやちゃぁぁぁあああーーーーーん!!」
ドゴンと音が成る程の勢いで恭也に体当たりしてくる琴絵。
当然幼い恭也が耐え切れるはずも無く道場の床に倒れ付す。それにしがみつく琴絵に対して道場にいた全員が、またか……というように手を止め生暖かくその光景を見守る。
「恭也ちゃん、痛いところない!?遠慮なくいってね!!私が治療してあげるから!!」
「だい……じょうぶです」
倒れたときにうった顎をさすりながらやや涙目でこたえる恭也。
まさか貴方に抱きつかれて倒れたときに打った顎が一番被害が大きいですと言う訳にもいかない。
琴絵はゆっくりと身体を離すと、恭也と視線を合わせるように腰を曲げる。
その拍子に長い髪が琴絵の背中から零れ落ちる。その髪を自然な様子で背中へとおしやる。
甘い、琴絵の香りが恭也の鼻をくすぐり、反射的に顔を赤くする恭也。
「あれ?顔が赤いよ?本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です……。走ってきますので、失礼します」
自分の額を恭也の額にあてて熱をはかってきた琴絵から慌ててはなれ、背を向けて走り出す。
その背中を残念そうに見送る琴絵。
完全に恭也が見えなくなるまで見送った琴絵は温和な表情を一変させ、鋭い視線を士郎にむける。
「士郎ちゃん。もっと手加減してあげなさいよ。恭也ちゃんはまだ七歳なのよ?」
「……手加減してあいつが喜べば幾らでもするんですけどね」
「でも……!!」
「琴絵さんにも分かってるんじゃないですか?あいつの今の目標は俺の初太刀をかわすことです。手加減してそれを壊すことはしたくないんですよ」
「むぅ……」
納得しきれない。
そんなふうに唇を尖らせて士郎を睨む。
本人としては不満を全身で表しているようだが、全くそうは思えない。可愛らしさ満点である。
しかし、普段の琴絵ならばこのようなことを言わない。誰よりも優しく、思量深い人間なのだから。その相手の考えていることを第一として、助言を行う。
だが、恭也のこととなると話は別だ。
琴絵は不破恭也のことを大切に思っている。実の弟以上に可愛がっているのだ。溺愛しているといってもいい。
恭也が自分に甘えてくれない、ということを不服に思う程に。
「でもでもでも―――士郎ちゃんの本気の一撃を避けることなんて難しいじゃない?この場にいる何人がそれをできると思ってるの!!」
「まぁ……そうなんですけどね」
初太刀をかわす。
言うだけなら簡単に聞こえるかもしれない―――不破士郎が相手でなければの話だが。
士郎は強い。強すぎる。
長い歴史を誇る御神と不破の一族で歴代最強の名を冠しても可笑しくはないほどに。
不破が生み出した異端の剣士。何者にも束縛されぬ……そしてそれが許されるほどの実力。
いや、士郎だけではない。
士郎が生きるこの時代は異才の集まりである。
不破家からは不破士郎。その弟である不破一臣。その妹である不破美沙斗―――今では御神当主の静馬と結婚しており御神美沙斗が正しいのだが。三人の母親である不破美影。
御神家からは御神静馬。ここにいる御神琴絵。
そして―――御神と不破の負の怨念が具現化したともいうべき暴虐の化身……御神相馬。
その誰もが、もし時代が違えば御神最強の名を欲しいままに出来たであろうほどの実力の持ち主ばかりだ。
それほどの剣腕を持つ士郎の一撃を避ける。幼い恭也にできるはずもない。
目標というにはあまりにも高すぎる壁だ。
「……私は心配なの。高すぎる壁は……何時か恭也ちゃんの心を折らないかって……」
「それは心配しなくてもいいと思いますよ?」
琴絵の心配をあっさりと切り捨てる。
士郎はすでに見えなくなっている恭也の方向へと視線をやり、暖かい目で見守る。
「あいつはその程度で折れるような剣士じゃないです」
「……なんでそう思うの?」
「だってあいつは俺の息子ですよ?あいつのことは俺が一番分かっています」
「……むー」
今度は膨れっ面になり、不満ありありという感じで琴絵は士郎を睨む。
それに気づいた士郎は愛想笑いで返し、頬を指でかく。
「それにあいつはちょっと特殊なんですよ」
「え?……恭也ちゃんが特殊って?」
「あいつは、何時も俺の小太刀の軌跡を目で追ってるんですよ……信じられますか?七歳の子供が、ですよ?」
「……知ってるよ。気づいてるよ。それがどれだけ異常なことなのかも分かってる」
「ははっ。琴絵さんには愚問でしたかね」
そう。士郎の言うとおり、恭也は確かに視線でおっていた。
御神最強の一角である不破士郎の一撃を―――幼き子供が。
「俺はアレはあいつの一種の才能だと思っています。俺の中で心眼と名付けてる恭也の才能です」
「そうだね。一度や二度なら偶然で済ませれると思うよ―――でも、あの見切りは私達のそれを遥かに超えている」
「初太刀は見えている。でも、かわすことはできない。それは―――」
「―――身体がそれに追いつかないから」
コクリと士郎が頷く。
不破恭也の最大の武器。それが見切りである。といっても普通の人間の感覚とは違う。
恭也には見えるのだ。空間をはしる人間の動きが。どう動くのか。静と動。筋肉の細部までがはっきりと。それが一瞬の見極めを可能とする。
それなのに士郎の一撃を避けることをできないのは、琴絵の言うとおり身体がその見切りに追いつかないからだ。
「当分は無理だと思いますけどね。あいつが成長していって、身体が出来上がってくれば―――」
肉体と感覚の一致。
そして、そこに恭也の見切りが加われば……。
「―――あいつこそが御神最強の名を継げるでしょう」
自信満々にそう士郎は断言する。
己の息子こそが御神最強の座を手に入れれると。
「うん。そうだね。恭也ちゃんには……その可能性が眠っている。私達を超える可能性が―――」
琴絵も士郎の台詞に同調する。
士郎の言うとおりだ。恭也には自分達を超えることができるほどの潜在性がある。
それを嬉しいと思う。それを素晴らしいと思う。恭也だからこそ自分のこと以上に嬉しい。
だが―――。
分かっていない。分かっていないの、士郎ちゃん。
そう琴絵は心の底で深くため息をつく。
士郎は恭也を信じている。誰よりも、自分の息子を信じている。
それが―――目を曇らせている。
恭也は【見えている】のに避けられない。
それはある意味見えていないのに避けられないということよりも苦しいのだ。自分の実力不足を痛感する日々。
毎日毎日―――気が狂うほどの鍛錬。
どれだけの努力をしても、その努力は実を結ばない。
何日も何十日も何百日も。そんな日々が続く。
士郎という名の壁は誰よりも高く……何よりも厚い。
何時かは越えないといけない壁なのかもしれない。だが、今の恭也が目標とするには絶望的なほどの壁なのだ。
まだ幼い恭也の心は……何が切欠で折れるか分からない。
琴絵はそれを懸念している。
誰よりも恭也のことを心配しているが故に―――。
「恭也ちゃん……」
琴絵の寂しさと心配をのせた呟きは―――周りの喧騒にまぎれて、消えていった。
御神の屋敷がある敷地から走り出た恭也は誰かに呼ばれた気がして振り返った。
巨大な山の中腹に大きな屋敷が見える。そこが御神宗家が暮らす屋敷であり―――先程まで恭也が鍛錬していた道場がある場所だ。
そこにいくには、長い山道を越えて、数百段もある石段を登らねばならない。
その屋敷を遠くから見ると、不思議な威圧感を醸し出している。
それは、巨大な屋敷に比例するかのように、規格外に高い塀が外敵を寄せ付けない一種の要塞のような錯覚を覚えさせる。
御神の一族は様々な暗殺業。護衛業を取り扱っているが、勿論それだけではない。
表の顔として様々な事業に手を出している。
この周辺の山々を所有しているため、近隣の住人には名家として知られていた。
しばらく経って、どうやら完全に空耳だったことを確認すると恭也は御神の屋敷に背を向け走り出す。
勿論無人の荒野が続いているわけではなく、御神の一族が所有する山の麓から多くの家が建っている。
御神の裏の顔を知らない普通の一般人たちである。小さな町ではあるが―――皆が笑顔で暮らしていた。
恭也は町の住人とも面識があり、走っている途中で何度も横を通り過ぎる人達に声をかけられた。
それに律儀に挨拶を返す恭也。まだまだ公園で遊んでいるのが似合う年頃の少年だというのに、そんな様子を一切見せない恭也はある意味有名であった。
どれくらい走ったであろうか。
家が段々と少なくなり、ついには道しかなくなった。その道の両側は土手となっており、大きな川が流れていた。
その河川敷では週末には町の住人達がバーベキューをしているのを見かけたことがある。
そういう恭也も何度も御神や不破の者達としたことがあるのだが。
足をとめ、深呼吸を何度か繰り返す。
額を流れていた汗を拭い、再度深い息をつく。
そろそろ帰らねばならない。
走りこんでいたのはせいぜい三十分程度ではあるが、夕飯が何時も通りならば今から帰っても間に合うかぎりぎりなのだから。
万が一夕飯に遅れたら祖母である不破美影の雷がおちることは間違いない。
恭也にはだだ甘なところがある彼女だが、そういうところには厳しく躾をしているからだ。
帰らなければならない恭也だったが―――それに反するように土手に腰を下ろす。
夕焼けが辺りを照らす。誰が手入れを行っているかわからないが綺麗に刈られた土手の草。青臭い草の香り。
沈みつつある太陽を見ながら先程の士郎との戦いを思い出す。
もうどれほど士郎に戦いを挑んだろう。
士郎の太刀筋は見える。見えているが、何度ためしても避けることすらできない。
勿論、士郎と己の力量差、修練の差が天と地ほど違うのははっきりわかっている。
まして、勝とうとは考えていない。ただ一太刀でいいのだ。たったの一太刀を回避することができればいいのだ。
自分の見切り。異能に気づいてそれだけを目標にやってきた。
その異能に気づいてからたった一年と少しの話ではあるが。幼い恭也があらゆることを捨て、それだけを目標にやってきたのだ。
だというのに僅かな進歩さえみられない。
果たして自分はこのまま努力を続けて―――士郎に追いつくことができるのだろうか。
そう自問自答するほどの厚き壁。
それが父―――不破士郎。
恭也は傍に落ちていた小石を拾うと川に向かって投げる。
ぽちゃんと音をたてて着水する。
それを暫く見ていた恭也だったが、沈む気分を無理に奮い立たせ、腰をあげようとして―――。
「そこの少年にちょっと聞きたいことあるんだけど、いいかな?」
―――絶望を知った。
「……っぁ!?」
口から言葉にならない悲鳴があがった。
立ち上がろうとして、膝が笑っているのに気づいた。
頬が引き攣る。今にもこの場から逃げ出したい。そんな気持ちが心を支配する。
心臓が跳ねる。知っている。これがなんなのか。だが、知らない。これほどの感覚を恭也は知らない。
意識ごと持って行かれそうになるほどの、圧迫感。
別に身体を押さえつけられたわけではない。だが、力以上の何かで身体を押さえつけられる。
―――恐怖。
きっとこれはそう呼ぶのだろう。
士郎よりも、美影よりも、静馬よりも―――相馬よりも禍々しい。
圧倒的という言葉でも足りないほどの、一種の究極。
逃げ出そうとする四肢を、意思の力でねじ伏せ……身体を反転させる。
声の発した主に向けるように。
「お、良いねぇ。私の声を聞いて意識を手放さないかー。見込みあるよ、キミ」
そして―――恐怖を忘れた。
恭也の視界に映ったのは現実離れした美貌の持ち主。恭也からすれば見上げる形となるが身長も高い。士郎ほどではないがそれに近いほどには。
琴絵や美沙斗などの人並み外れた容姿の持ち主を良く見ているが、目の前に映った女性は―――。
神話の中の女神。
きっとそう表現するしかなかっただろう。
造形美を追求したかのような―――完璧なバランス。文句のつけようがないほどの美。
眉毛も目も漆黒の瞳も、鼻も口も―――その全てが。腰まで伸びた黒髪。一切の淀みもない。
「いやいや、ごめんねー。私って威圧感を無意識に結構だしてるっぽくてさー。怯えちゃう人多いのよねー」
ニカリと女神様に相応しくない笑みを浮かべ、ポンと恭也の肩を叩く。
恐怖を忘れていた恭也だったが、それで我に返った。
そんな恭也を再度襲う圧倒的な圧迫感。
怖い。逃げ出したい。今すぐにでも意識を手放したい。
そんな思いが心を占領してもなお、恭也は唇を噛み締め女性を見上げる。
おおっ、と本当に感心した声をあげ、恭也から離れた。
「あな、たは……?」
声がかすれはしたが震えなかったことに僅かな満足感を抱き、恭也は訊ねる。
その恭也の返答にむふーと何故か嬉しそうに鼻息荒く胸を張る。
「私は殺音(アヤネ)。水無月殺音。通称世界で八番目に強い生物かなー」
殺音と名乗った女性は胸を張りながらそう答えた。
ちなみに随分と胸が大きい。琴絵では相手にもならないが、大きすぎるというわけでもない。
「八番目……ですか。やけに具体的な数字ですけど……」
「うん。まぁ、でも分かっていない奴らがわりと適当に決めた数字だから気にしないでいいよー」
太陽のような笑みでそう答える殺音だったが―――恭也の感じる悪寒は未だ治まっていない。
間違いなくこの女性は……笑いながら人を殺せる化け物だ。
そんな予感にも似た確信を恭也は得ていた。
「ねね。ところでさっきの質問に戻るんだけど、ちょっといい?」
「……俺にわかる、ことであれば」
「お、助かるわー。んとさ、御神って名前の人達を知らない?」
息が詰まった。
この女性は、水無月殺音は一体何をしにいこうというのか。
御神の一族の誰かの知り合いなのか?遊びに来たとでも言うのか……。
いや、違う。そんなわけがない。
彼女は明らかに―――。
「探して、何をする気ですか……?」
「んー。まぁ、どうせすぐわかることだしいいかな。ちょっと皆殺しにするためにいくだけだよ」
あっさりとそう殺音は告げた。
恭也にとっては衝撃の発言。それを殺音はあっさりと言い放った。息を吸うかのように自然な様子で。
何を馬鹿なと笑い飛ばすことなど出来なかった。
この女性は―――水無月殺音は次元が違う。
人間という枠組みではどうしようもないレベルの化け物だ。
どれだけの努力をしようと辿りつけない。そんな世界に住んでいる住人だ。
士郎でも勝てない。美沙斗でも勝てない。一臣でも美影でも琴絵でも―――相馬でも勝てない。
この女性に勝てる可能性があるとすれば……【あの人】だけだ。
そう恭也は瞬時に理解した。
「知らないのかな?それならそれでいいけどね。他の人たちに聞けばいいだけだし」
黙ってしまった恭也を見て、知らないと判断したのだろうか。
恭也に背を向け町のほうへと足を向けた。
「引き止めて悪かったわねー。子供はもうお家に帰りなさい」
ヒラヒラと手を振りながら去っていく殺音を見て、恭也は内心で安堵のため息をついた。
殺音の威圧感からも解放されてバクバクと高鳴っていた心臓を押さえつけるように手を胸にやる。
―――助かった。
それが恭也の本音であった。
これ以上あの女性を前にしていたら本当に気を失っていたかもしれない。
幼い恭也では限界ぎりぎりのところであったのだが……。
―――ま、て?
冷水を浴びせられたように背筋に寒気が走る。
ガチガチと歯が恐怖で鳴る。
―――今何を、考えた?
己の感じた感情に吐き気がする。
なんという愚か者なのだろうか―――不破恭也という人間は。
先ほど前に理解したはずだ。わかっていたはずだ。
水無月殺音には、御神と不破の誰であろうと勝てない、と。
その死神が御神の屋敷に向かおうとしているというのに―――安堵したのだ。
自分の前からいなくなることに対して。屋敷の者達よりも、最愛の家族よりも己の保身を優先した。
そんなことを一瞬でも考えた己を―――許せるものか。
「……まって、ください」
「うん?」
必死の思いで恭也は死神の歩みを止めるために、引き留めの言葉を発した。
まさか呼び止められるとは思っていなかったのだろう。本当に驚いたように恭也へと振り返る。
「えーと。うーんと。何か用でもあった?」
「一つ、聞きたいことがあります。何故、御神の人達を、その……皆殺しにいかれるんですか?」
「……んー」
機嫌を害するかと一瞬思った恭也だったが、その心配は杞憂だったようで殺音は言うか言うまいか悩んでいる様子で空を見上げながら口をとがらせる。
両腕を組んでリズムを取るようにトントンと地面を足で叩く。
暫く迷っていた殺音だったが決心がついたのか、見上げていた視線を恭也へと戻す。
「実はねー、私って暗殺業やってるのよ。それで依頼主から御神の一族の壊滅させろって依頼を受けちゃってさー」
「……」
実に気楽に言ってくれる。
御神の一族は裏の世界では有名どころの話ではない。日本最強に挙げる猛者も少なくはない。遥か昔からそれは変わらない。
永全不動八門でも頂点に立つ殺戮一族だというのに……。
「お金の、ためですか?」
金のために御神の一族と真正面からぶつかる。
それはあまりにもリスクが高く―――馬鹿げている話だ。
まともな人間ならば決して受け入れることがない仕事だろう。だというのに、この死神は平然と依頼だからと言い捨てた。
「いやいやー、私自身も結構御神の一族には興味があってねー。個人的に一度殺しあってみたいと思ってたところだったから今回の依頼は渡りに舟だったわけなのよね」
―――恭也が考えていた以上のいかれた理由だった。
お金のためでもなく、復讐というわけでもなく―――ただ、殺しあいたい。
理解できない。理解したくない。理解などできるわけもない、殺音の言葉。
ただ、殺しあいたいだけというだけで、御神の一族は殺されることになるのだ。
「なん、で……そんな理由で……」
「なんで、かー。まぁ、理解できないよねー普通は。理解してもらおうとは思ってないしね」
にへらっとその美しい表情を崩し、恭也の目の前まで歩いてきて、顔を近づけてくる。
息が吹きかかるほどの近くで見つめあう二人。
普段ならば羞恥ですぐに逃げただろう。この女性ならば恐怖で逃げたかもしれない。
だが、この時は恭也は逃げれなかった。ふと、醸し出した殺音の寂しげな雰囲気にのまれていた。
「私の無意味な人生で―――生と死をかけたその瞬間だけは―――意味があると思える時だから」
ポンと恭也の頭に手を置くと優しくなでる。
「私と【同族】じゃ意味がない。私と人間の戦いだからこそ―――血が沸き肉が踊る。ただの人間が私(化け物)と戦えるという事実だけが私の渇きを潤してくれるから」
一分も撫でていただろうか。
殺音は撫でるのをやめ、恭也から顔を離す。
夕日が差す。殺音の体を真っ赤に染めた。そのせいだろうか。
先ほどまでは黒かった殺音の瞳が……真紅に輝いて見えるのは―――。
「いつの日かキミは私の渇きを―――潤してくれるかな?」
「……」
はい、とはいえなかった。
完全に恭也はこの女性に……水無月殺音にのまれていた。
絶対的という言葉でもおさまりきれない。今まで見たどの剣士達をも凌駕する究極の生命体をそこに見る。
彼方と此方。その差は超絶的なまでの遠さ。
自分が彼女の渇きを潤せるのだろうか……答えは出ない。出せれない。
安易な返答は返せれず、殺音もまた、そのような返答は望まないだろう。
ただ、呆然と殺音をみつめるこしかできない恭也。
殺音はそんな恭也を責めはしなかった。少しだけ寂しそうに笑っただけだった。
そっか……そう呟いた殺音の言葉が風に消える。
あらゆる人間に、何度聞いてもその答えは決まり切っていた。
殺音を前にして首を縦にふれた者はいない。
あまりにも異質な存在がゆえに、相手を理解できない。そして理解して貰えない。
―――水無月殺音は孤独だったのだ。
「何をしてるんだ、【破軍】?」
「およ?」
破軍と呼ばれた殺音は声のしたほうへと顔を向ける。それにつられるように恭也もその視線を追う。
何時の間にか二人のすぐ傍に一人の少女が佇んでいた。
殺音と同じような黒く長い髪。サイドで結んでツインテールにしている。
やや吊り上った眉が勝気そうな印象を与えてくる少女だ。身長は低く、良いところ百四十あるかどうか程度だろう。
美人というより可愛らしいというほうがしっくりくる。
「ああ、ごめんねー冥。ちょっと話し込んでたの」
「……仕事の間は【武曲】とよべ」
「あーそうだった。そうだった。ごめんごめん、冥」
「……もう、いい」
ハァと疲れたようにため息をつく冥と呼ばれた少女。
いつものことなのか、諦めが早い。心なし、若干疲れているようにも見て取れる。
「目的の場所はわかった。他の連中を先に向かわせておいたが……お前を探すのに時間をかけすぎたからな。念のため私達も急ぐぞ。何せ噂に名高き御神の一族だ。そう簡単には墜とせまい」
「おおー了解了解。さっさといくとしますかねー」
「……お前はもうちょっと緊張感を持つべきだな」
「こんくらいが私には丁度いいのよー」
恭也を置き去りにして二人が歩いて行く。
御神の一族が住む屋敷を目指して。殺戮の宴をはじめるために―――。
二人の歩みを止めるための方法を頭のなかで幾つも思考するが……足りない。
どんな方法でも、手段でも二人をとめることは不可能だ。
だが―――。
「あ、姐さーーーーん!!」
「ん?あっちから走ってくんの廉貞じゃない?」
「先に御神一族の元へ行ったはずなんだが……随分と慌てているようだが」
廉貞と呼ばれた細目の青年が二人のもとへと走ってくる。
冥の言うとおり誰が見ても分かるほどに焦っているようだ。
「やばいヨ!!あそこの、一族!!初っ端からとんでもない奴がいたネ!!貪狼と巨門、文曲の三人でなんとか抑えているけどあいつはやばいヨ!!」
「ほほー。あの三人を相手どるってたいしたもんねー。で、御神は何人?」
「一人だ、ヨ!!」
「一人だと!?」
かたことの日本語で叫びながら二人に注意を促し、衝撃の事実をのべる廉貞。反射的に冥が叫び声をあげる
自分達の部下である三人を同時に相手して圧倒する。そんな人間など聞いたことがない。そしてこれまでもそれほどの腕前の人間など存在していなかった。
ナンバーズと呼ばれる対化け物専門の戦闘集団を除いてだが―――だが、その戦闘集団も純粋な人間の集まりではない。
つまり、殺音を頂点とする暗殺集団【北斗】とまともに渡り合った人間はこれまでいたことなどなかった。今までは―――。
「あっはっはー。三対一で押されてるの?そりゃ、噂以上の猛者揃いみたいねー」
「……笑ってる場合か……」
「ま、そうねー。ぶっ殺されたら流石に寝覚めが悪いし……さっさと助けにいってあげようかしらね」
「……その必要はねーぞ」
第三者の声がその場に響き渡った。
士郎に似た―――しかし、異なる声。尋常ならざる殺気がこもった、聞く者を平伏させるような響き。
廉貞を追ってきたのだろうか、一人の男性がそこにいた。
手入れをしていないのだろう。綺麗な髪だというのにぼさぼさだ。
顔自体は美形だというのにそれら全てを覆すような、深い闇色の瞳。そして、禍々しい暗さがあった。
首をコキコキと鳴らしながら鞘におさめていた二振りの小太刀を抜く。
ギラリと夕陽を反射させて、白銀に輝く。
「お前らの言ってる三人ならとっとと逃げ出したぜ。あの逃げ足の速さはたいしたもんだ……ああ、褒め言葉だぞ?俺から逃げられる実力があるんだからな」
ニィと不気味な笑みを浮かべ小太刀を殺音に向ける。
一切の手加減もない殺気を叩きつけてきた。それに廉貞は、反射的に一歩下がり、冥は油断なく身構える。
対して殺音は―――少しだけ興味をもったような瞳で男性を見返していた。
―――御神、相馬。
恭也が心の中でその男性の名を呟いた。
御神宗家の長男でありながら、御神当主の座を受け継げなかった剣士。
あまりに強く……あまりに残虐であったために誰からも危険視された御神の鬼子。
まさかいきなり御神最強の剣士がでてきているとは……。
偶然とは考えにくい。恐らく御神の屋敷に近づいてくる敵意にいちはやく気づき、待ち伏せていたのだろう。
戦うことを何よりも好む、生粋のバトルジャンキー。血と戦いに飢えた餓狼。
そんな相馬が恭也に気づいたのか、僅かに目を細くする。
だが、呼びかけるようなことはしない。下手に知り合いだとばれたら人質にとられるかもしれないからだ。
もっとも相馬ならば恭也が人質にとられてもそのまま斬りかかりそうではあるが……。
「ん……凄いね、貴方。七十点をあげるよー」
「なんだと?」
殺音の何気ない台詞に訝しげに殺音を見る。
そして、瞬きをした瞬間―――視界から殺音の姿は消えていた。
相馬は背中に氷柱をぶちこまれたかのような悪寒を感じ、即座に前方に転がる。
転がり、体勢を立て直すとともに後方に小太刀をふった。
手ごたえはない。
あったのは空を斬っただけの感触。
追撃は無く、何時の間に背後に回ったのか先程まで相馬が立っていた場所で拳を突き出していた殺音の姿があった。
「うおー!?今のを避けるかー。ちょっと興奮してきたよ」
クフフと不気味に笑って拳を握り、パキパキと指を鳴らす。
その余裕の様子に相馬が不服そうに唾を地面に吐き捨てた。
「そうか。それはよかった―――ならばそのまま、死ね」
地面が爆発した。
相馬の凄まじい脚力が生み出した超加速。
一拍もおかずに、殺音の懐へと入り込み、小太刀を振り上げた。左脇腹から切り裂くように、斜め上へと。
―――殺った!!
相馬の確信にも似た予感。
間違いなくこの一撃は、この女を斬る。
「―――だめ、だ!!」
反射的にあげた恭也の声にビクリと相馬の身体が震えた。
何が駄目なのか、と思う間もなく、本能がそれに気づく。殺音の視線が相馬の小太刀を追っていたのだから。
それに合わせる様に殺音の右手がぶれる。
―――まずいまずいまずいまずいまずい!!
「ぅぉおおおおおおお!!」
無理矢理に地面を蹴りつけ後方へ飛ぶ。
無様な格好となってしまったが、死ぬよりはマシだと思いつつ、殺音から距離を取る。
牽制するように、小太刀を殺音に向けたまま、深く呼吸をつく。
「ナイス判断!!もし刀を振り切っていたら―――死んでたよ?」
相馬の行動を褒めるように殺音はパチパチと手を叩く。
その余裕の様子に相馬が舌打ちをするが、それで形勢が変わるわけではない。
改めて冷静になって、殺音の全身を油断なく見渡す。
―――なんだ、こいつは?
ゴクリと唾を嚥下する。
これほどまでに底が見えない相手を相馬とて会ったことは数少ない。
一人は―――御神の亡霊。
一人は―――破壊と死の化身。
一人は―――魔導を極めた王。
一人は―――未来を見通す魔眼を持つ者。
脳裏に思い描いていた化け物達を確認した相馬だったが……。
「……なんだ、結構いるじゃねーか……」
反射的にそう呟いてしまった。
てっきり誰も考え付かないと思っただけに、四人もいることに逆に驚く。
だが、逆に言えば……その四人に匹敵する化け物だということだ。
かつて手痛い敗北をこの身に刻んだ闇なる一族の頂点どもと同格ということを認めねばならない。
手加減など一切できない。必要ない。
全力を持って、殺しきる。
「……」
無言のままの相馬から立ち昇る剣気。
深く息をつき、深く息を吸う。
見ている恭也でさえも、凄まじい圧迫感を感じる。
恐らく相馬が出そうとしているのは―――御神流の奥義の歩法【神速】。
―――時を止める。
そうとも伝承される、人間の限界を超えた動きを可能とする奥の手だ。
文字通り必殺を可能とする、御神の究極。
何をするのかと興味深げに相馬を窺っている殺音。
相馬の雰囲気で、何か大技を狙っていることくらいわかっているはずだが、邪魔をしようとしない。逆に相馬が何を出すのか愉しみにしている様子さえある。
「―――馬鹿が」
それをスイッチとして世界が切り替わる。
たっぷりと溜め込んだ感情と力の解放。世界がモノクロに変化した。
相馬の五感が一切余分なものを排除した結果だ。
全身が重くなったような違和感を感じ、ゼリ―状になった空気をかきわけるように走る。
御神を最強たらしめている神速を使った相馬だったが―――。
「―――ああ、なんだ。その程度……か」
声が聞こえた。
聞こえるはずの無い声が。
相馬の目が驚愕で開かれた。
有り得ないものを見たかのように、信じられないものを見たかのように。
心底がっかりした表情の殺音は自分に迫ってきた小太刀を、それ以上の速度で横から殴りつけ軌道を逸らし―――カウンターで相馬の腹部を叩きつけるように殴り飛ばした。
「……っぁ!?」
ごろごろと地面を転がり、恭也のもとにまで殴り飛ばされた相馬を見て、愕然とする。
この化け物に対して神速ならば……という淡い期待があった。
その希望を一瞬で叩き壊したのだ。あっさりと。事も無げに。当たり前のように。
やはり恭也の予感は正しかったのだ―――水無月殺音は次元が違う。
「ぐぅ……くそっ……がっ」
意識までは奪われなかったのか、相馬は震える身体をおして立とうとするが、殺音の一撃は相当に重かったようで立ち上がることにすら苦労している。
ゴホっと咳をした瞬間、赤黒い血が地面を彩る。
負けた。
あの相馬が。御神相馬が―――これほどまでにあっさりと。
完全完璧な敗北を目の前で見せられた。
「むぃー。まぁ、七十五点をあげようかしらねー」
相馬には興味をなくしたようにゆっくりと殺音は近づいてくる。
ざっざっと地面を踏む音が死神が這い寄る音に聞こえて鳥肌が立つ。
死ぬ。殺される。
あの相馬でさえも歯牙にもかけぬ圧倒的な力。
しかも全くといっていいほどに本気を出さずに。
これでは恐らく、他の誰もが勝てないだろう。複数でかかっても一緒だ。そういったレベルではないのだから。
すでに戦っている土俵が違っている。
【あの人】がでれば或いは勝てるかもしれない。
だが、それまでに確実に何人かは―――死ぬ。何人かで済むかはわからない。もしかしたら数十人、百人以上にのぼるかもしれない。
御神の屋敷に住むのは何も全員が武を嗜んでいるわけではない。ただの一般人と変わらない使用人も多い。そういった人たちも巻き込まれるだろう。
誰よりも尊敬する父の士郎が殺される。
誰よりも暖かかった静馬が殺される。
誰よりも優しかった美沙斗が殺される。
誰よりも厳しくも可愛がってくれた美影が殺される。
そして―――誰よりも愛情をそそいでくれた琴絵が殺される。
ミンナ死ぬシヌしぬ死ぬシヌしぬ死ぬシヌシヌシヌ―――コロサレル。
ブチリと恭也は自分の奥底で何かが千切れるのを感じた。
人として大切な何か。それを捨ててでも皆を護りたい。どれだけの罪にまみれようとも……。
誰よりも大切な皆が殺される……
そんなことは―――。
―――認めない。認めるものか。認めてやるものか。
折れそうだった心は蘇った。不破恭也としての心は決して折れなかった。
恭也の心は―――琴絵の心配を不要とするほどの不屈の魂が宿っていた。
―――覚悟を決めろ。不破恭也。相手を恐れるな。失敗したところで、ただ死ぬだけだ。愛する者達を失って無様に行き続けるだけの人生を送るより遥かにましじゃないか。
「水無月殺音、さん―――提案があります」
自然と言葉が口からでていた。
殺音が放つ威圧感は衰えるどころか増しているというのに、震えも無く、怯えもない……普段通りの不破恭也がそこにいた。
「……ほ、ほぇ?」
あまりに自然に問い掛けられた殺音が、おもわずどもりながら返事を返す。
それに少しだけ満足して言葉を続ける。
「御神の一族から……手を引いてください」
「……うーん。いやーちょっと無理かなー。一応依頼受けちゃってるし。それにそこにいる剣士さんよりも強い人いるかもしれないしねー。おねーさんは燃えちゃってるよ」
「ここにいる相馬さんが、御神最強の剣士といっても過言ではありません。この人以上に強い剣士は、御神にはいませんよ」
「にゃ、にゃにぃいー!?」
失望感たっぷりの殺音ががくりと肩を落とす。
恭也はあえて相馬を御神最強と言った。人によっては静馬や士郎、琴絵をあげるだろうが、あえて相馬を最強と推して、殺音のやるきを削がすためだ。そして―――【あの人】のことは黙っておく。
「でも、貴女は戦いたいのでしょう……だからこその提案です」
「む、むぅ?」
恭也の先へと繋がる言葉が予想できずに首を捻る。
一体何を提案とするのだろうか……その場にいる人間はみなそう思った。
恭也はそんな人達の考えの遥か上をいく。
「……俺が貴女と戦います。貴女の渇きを、餓えを潤させましょう」
「……ええっと。笑うところ?」
「冗談じゃありません。もちろん今の俺が貴女を満足させることはできません。だけど―――」
口の中が乾く。
緊張で舌がうまく回らない。
それでも必死となって言葉を紡ぐ。
「何時か必ず貴女の餓えを、渇きを満足させることを―――誓います。この俺が、必ず」
「……」
恭也の告白に、両目を隠すように手を当て、深いため息をついた。
沈黙が訪れる。肺を直接握りしめられたかのような息苦しさ。
周囲に響くのは相馬の荒い呼吸音。いつの間にか虫の音も聞こえなくなっていた。
「―――ほざくなよ、少年」
あいた指の間から真紅に染まった瞳が―――獣のように縦に裂けた凶気に彩られた眼光が恭也を貫いた。
それとともに世界が闇に染まった。そう錯覚するほどに強大で巨大な殺気が迸る。言葉にならない。言葉では語りつくせぬ、異様なまでの瘴気。
今までの殺音とはまるで別人。お遊びだったと言われても納得するほどに、凶悪な気配を醸し出す。
「……桁が、違う!?あの、化け物ども、さえも―――比べるまでもない!!」
相馬の声が震えた。
今まで見てきたどの化け物達よりも、明らかに―――超越していた。
ただの気配が物理的な重圧をもってその場にいた全員にのしかかる。
傷ついた相馬は膝をつき、冥と廉貞も同じようにその場に両膝をつき、殺音を呆然と眺めるだけだった。
だが、恭也だけは違った。
顔を青白くさせ、全身を震えさせながらも、真っ直ぐと殺音を睨み返している。
それを見た殺音は軽く拳をふるった。
その拳は神速の域をもって恭也の顔に迫り―――そのまま打ち抜いた。
殺音の拳は力を入れたように見えないというのに恭也の頭蓋を叩き割り、脳髄が飛び散る。
膝から力をなくし、他の人間を見習うかのように地面につき、身体が大地へと倒れ付した。
それを何故か冷静に見ている自分が居た。すでに頭は元の形を一片たりとも残していないというのに―――。
「っ……」
ぺたりと反射的に片手で顔を触る。
ぺたぺたとした触感。砕かれたはずの顔は普段通りそのままに存在した。そして恭也の目の前には寸止めされていた殺音の拳。当たっていなかったのだ。
だというのにあのあまりにリアルな死の光景は一体何だったというのか……。
―――さっ、き?
唾を飲み込もうとして……唾液もでないほどに乾ききった口内。
覚悟を決めていたとしても緊張は隠せなかった。
恐ろしいほどに凝縮され、恭也に向かって放たれた殺気は、寸止めされたにも関わらず恭也に死のビジョンを伝えてきた。
呼吸が荒くなる。恐ろしい。本当に恐ろしい。この女性は、息を吐くかのように自分を殺せる。
それを再認識した途端とてつもない恐怖が押し寄せてきた。
―――死ぬことを恐れているわけではない。このまま何も残せず、何も成さず、殺されることが―――何よりも怖い。
「俺を、侮るな!!水無月殺音!!」
ビリっと空気が引き締まった。殺音の殺気に怯えていた世界が、恭也を注目してきたような錯覚を覚えた。
一歩殺音に向かって足を進ませる。眼前にあった拳が額に近づく。
「今更命など惜しむはずがないだろう!!貴女の先程の問いにこう答えよう―――他の誰でもない、俺こそが貴女の望みを叶えよう!!」
さらに一歩進む。
ゴツンと殺音の拳が額に当たった。だが、視線だけは殺音と交差したままだ、
「誰よりも、何よりも強くなってやる!!俺は、俺の命を、魂を、全てを犠牲にしてでも―――世界最強の剣士になるっ!!それこそが、俺が掲げる確固たる信念!!揺ぎ無い意思!!」
さらに一歩進む。
気圧されたように殺音が一歩下がった。
爛々と輝く真紅の瞳が揺れている。その瞳に映すは―――不破恭也。
「それが俺の答えだ!!返答は如何に!?」
静寂。
恭也の宣誓に誰も彼もがのまれていた。
たかが一桁の少年に。この場で誰よりも弱い少年に。
風が吹く。夕日が落ちる。
一分。二分と時が過ぎさる。緊張だけが世界を満たし―――そして。
水無月殺音は何の言葉もなく、説明もなく、恭也を抱きしめた。強く強く抱きしめた。
本当に嬉しそうに、幸せそうに、笑いながら恭也を抱きしめながら、くるくると回り始める。
「すごいな、キミは!!私にここまで啖呵をきったのは―――キミが初めてだよ。私の殺気に晒されて、私の狂気にのまれて、そこまで言えたキミは本当に凄い!!」
「む、むぐぅ……」
顔が丁度胸の位置に埋もれてしまっているせいか息苦しい恭也。
ある意味幸せな苦しさなのだが。
「あはははー!!あははははは!!」
壊れたロボットのように笑い続ける殺音。
どれほど笑い続けただろうか。他の人間が呆気に取られている間は随分と長かった。
我に返っても狂笑ともいえる状態の殺音に声をかけることはできなかった。
ようやく満足したのか……恭也を引き離し地面にゆっくりとおろす。
そして、恭也から離れ不気味な笑みを浮かべたまま語りかける。
「御神の一族からは手を引くよー。キミが約束を守ってくれるその日を愉しみにして。世界最強【程度】にはなってくれるよね?」
「無論。貴女の渇きを癒すんだ―――世界最強くらいにはなってみせよう」
「うん。最高の答えだ。ああ、ごめんね。キミの名前を教えてくれるかな?」
「恭也。不破恭也」
「うん―――良い名前だ」
先程とは異なる天使のような―――女神のような笑顔。
それを残し背を向ける。町から離れる方角へ向かって歩み始める。
慌てたのがそれをみていた冥だろう。依頼を放置していきなり帰ろうとしているのだから。
「ちょ、ちょっと待て、殺音!?お前、依頼はどうする気だ……!?」
「ん?仕事中は破軍ってよぶんじゃなかったの?」
「う……そ、それはおいといてだな……破格の報酬なんだぞ、今回は」
「まーいいんじゃない?お金には困ってないでしょ」
「……馬鹿か!!そうではなくてだな―――」
「私がやらない、って言ってるのよー?理解してる、マイシスター?」
「……」
しつこく食い下がってくる冥の頭を手で押さえて少しだけ冷たい視線を送る。
向けられた本人にしか分からないほどの威圧。それに口をつむるしかできない。
廉貞は最初から殺音に大人しく従っている。というか、すでに姿を消していた。相馬とあまり関わりあいたいになりたくないからだろう。
相馬は去っていく殺音をひきとめようとはしない。互いの力量差は圧倒的であり、無理をして挑んでも確実に殺される。
そのことがわかっているのに態々戦いを挑むほど現実を見ていないわけではないからだ。むしろこのまま去ってくれるのならそれにこしたことはない。
そんな相馬の心情に気づいたのか殺音が突然振り返る。焦る相馬だったが、その視線は恭也に向けられていた。
「にしっしー。愛してるぜーきょーや」
「……」
なんと返事をしていいのか分からず取りあえず頷いておく。
両手をぶんぶんと振りながら殺音は冥を伴って姿を消していった。
完全に姿を消して、一気に疲労が押し寄せてくる。がくりと、地面に両膝をつくが―――あまりの精神的疲労で結局地面に横になった。
冷たくて気持ちいい。このまま眠ったらどれだけ幸せだろうか。
昨日までの恭也だったらこのまま眠っていたかもしれない。
だが、今は違う。約束がある。
殺音との―――決して違えてはならぬ盟約がある。
一分一秒さえも今は惜しい。
四肢に力を入れて、立ち上がる。その時、ぽんと頭に手が置かれた。誰だろうと思ったが、ここにいるのは恭也をのぞけば相馬以外。彼しかいないのだが、まさか相馬がそのようなことをするわけがないはずなのだが―――。
「……本気か、お前?」
―――相馬でした。
あの残虐非道。傍若無人が服を着て歩いているなどと噂される相馬が若干だがこちらを心配しているかのような視線をよせている。
「本気で、あの化け物と戦う気か」
「勿論です」
「……頑固なガキだしな、お前。俺が何を言ったとしても無駄だろうが……一応言っとく」
ガリガリと頭をかく相馬。
「無駄だ。お前では―――届かん」
「―――届かせます」
「……死ぬよりも辛いことになるかもしれん。お前は―――どこまでやるきだ?」
「―――無論、死ぬまで」
そうか、と呟きを残し、恭也の頭から手をはなす。
御神の屋敷がある方向へと帰っていく。その途中で足を止め、空を見上げた。
「……俺の仕事がないときにくれば稽古の一つくらいつけてやる」
「え?」
「……勘違いするなよ。今回の礼だ」
「ええっと……有難うございます」
「……ふん」
照れているのだろうか。それだけ言うとさっさと恭也から離れていく。
殺音に殴られた傷は大丈夫なのだろうか心配になるが、普通にあるいているのである意味相馬もとんでもない男だ。
そんな相馬に続くように恭也も歩み始める。
―――強くなろう。誰よりも何よりも。ただ、強く―――
そう決意を新たにした恭也は拳を握り締めた。
その恭也を見つめる一つの視線。
誰もが気づかなかった。
恭也はもちろん、相馬も―――殺音でさえもその気配に。
恭也から随分と遠く離れた場所。そこに彼女がいた。
女性自身が光を放っているのではないかと思うほどの美貌。殺音を女神とするならばこちらは天使だろう。
輝き渡るプラチナブロンドが背にまで伸びている。顔には若干のあどけなさが残っていた。
女性と少女。どちらで表現すればいいのか悩む容姿だが、少女とよばれるようなか弱さなど微塵もない。
片目を瞑り、あいている片目だけで恭也を見つめていた。
「廻る廻る。世界は廻る」
朗々と言葉を紡ぐ。美しいソプラノの美声。
「巡る。巡る。世界は巡る」
遠く離れた恭也に語りかけるように。
「今生の貴方に会えて私は幸せです―――貴方と再び会えるときを愉しみにしてますよ……少年」
これより二ヵ月後。相馬は御神宗家を追放されることとなる。
そして、さらに三ヵ月後―――御神の屋敷は爆破され一族は潰えることになった。生き残ったのは僅か四人。
不破士郎。御神美沙斗。御神美由希。そして―――不破恭也。
「……殺音。悪い知らせがある」
「んにー?」
【北斗】が拠点としている人里はなれた山奥にある館。
その一室の自分の部屋の椅子に座り、テレビを見ていた殺音が冥に気の抜けた返事を返す。
「どうしたのさ?生活費がなくなったとか?」
「……お前にとってはそっちのほうがいいだろうね。僕としてはごめんだが」
深刻そうな様子の冥に殺音がちゃかす。
それにたいして律儀に真面目に返答する冥。
「……お前が御執心だった、不破恭也……あの少年だが、死んだぞ」
「……え?」
「先日御神の屋敷が爆破されたらしくてね。生存者は―――いない」
「……あ、そう」
冥の発言に興味をなくしたようにテレビを見直す殺音。
あれだけ執心していた恭也がしんだというのにあまりにあっさりとした殺音に、逆に冥が驚きを隠せない。
「意外だな……てっきり怒り狂うかとおもったんだけど……」
「んー。だって生きてるって分かってるしね」
「え?いや、でも御神不破両家の生き残りは誰もいないらしい……が」
「だって私と約束したんだし。そんな簡単に死ぬわけないじゃない?」
「……なんだその根拠のない自信は」
はぁ……とため息をついて冥は部屋から去っていく。
そんな冥を無視してテレビに熱中する。だが、冥は気づかなかった。殺音の手が震えていたことに。
震える片手を力いっぱい目の前にあったテーブルに叩きつける。
何かが砕き折れる音が部屋に響き渡り、粉々になったテーブルが部屋に転がっている。
「生きてる……生きてるって信じなきゃ、やってられないでしょう……」
物悲しい殺音の声が、虚しく消えていった。
それから十余年の月日が流れ―――物語の幕があく。