太陽が沈み、見渡す限り眼下に見える家から漏れる人口の光しか見えない世界。
海鳴にある藤見台。海鳴と風芽丘を見下ろす小高い丘。多くの人が眠る墓地がそこにはあった。
段々と並ぶ墓地の一つ。その墓地の前に一人の中年の男性が立っている。
趣味の悪いスーツに、ふっくらとしたお腹。葉巻を口に咥えた男―――名を月村安次郎という。月村忍の叔父にあたる男性。
ふぅーと煙を吐き出すと、目の前の墓を見つめたままじっと立ち尽くしていた。
「……すまんなぁ。お前の大切な娘にワシは酷いことをしとるわ」
墓の下に眠る者に、懺悔をするかのように深い深い暗い声だった。
目にも生気がなく、肩には重責を背負っているかのごとく、猫背になっている。
「でも、仕方ない。仕方ないんや。ワシがやらなあかん。ワシしかこれはできんことや」
月村安次郎。彼は名家と名高い月村家の中でも指折りの階級にいる。
【血】自体は薄いが、経営者として辣腕を振るい、月村家を盛り立ててきた。その功績は血の薄さにも関わらず、一目置かれるほどになったのだ。
月村の財産は全てが兄である月村征二に相続されてしまったが、安次郎は与えられた僅かな資金を元に、会社を興し成長させ、日本有数の企業家となった。
今ではお金に困ったことなど無い。他の親戚でも忍の財産を狙っている者は数え切れないほどいる。それでも忍に手を出さないのは忍を保護する綺堂家を怖れているからだ。
安次郎とて綺堂家と真っ向からぶつかるのは危険。だからこそ、最低限の脅迫にとどめている。他の親戚は綺堂家のみならず安次郎の邪魔をして彼まで敵に回すわけにもいかず、今のところは手を出してきてはいない。
それでも安次郎には忍に相続された財産を手に入れなければならない理由があった。いや、正確には忍が所有しているある物を奪い取ってでも回収しなければならない。
「……ワシは鬼になる。そんでしまいや。忍には悪いが―――ノエルをこれ以上あいつの手元においておくわけにもいかん」
墓に背を向けると、墓地から離れていく安次郎。
墓地からのびるのは閑静な桜並木。光が無く、見えにくくはあるが、夜桜が非常に美しい。
もう暫く歩いたら待たせてある車があるはずだ。そこまでは夜桜を堪能しようと、歩みを遅くする。
普段忙しいだけに、偶にはこのようにゆったりと過ごすのも悪くは無い。
首を軽く上に向けて歩いていた安次郎だったが、スーツの内ポケットから携帯電話が着信を告げる音を鳴らす。
画面を確認して、相手の名前に気づいた安次郎が本当に嫌そうな顔で携帯電話にでた。
「もしもし―――ワシや」
『……ミスター安次郎。例の話はどうなりましたか?』
安次郎の耳に届くのは、薄気味悪い男の声だった。
自然と蛇のような生理的嫌悪感を感じさせる。直接脳髄に響き渡る不快さ。
「……もうちょっと待って欲しいんや。相手がなかなか頑固でなぁ」
『―――貴方はいつもそれですね。伸ばし伸ばしになっておりますが、いい加減私も我慢の限界ですよ?』
「確かに、あんたの言い分もわかる。でも、相手はあんたが欲しがるほどの―――最高傑作や。苦戦するのもわかってほしいんやが」
『……仕方ありませんね。ですが、もう期限は無いと思ってください。さもなくば直接我々が動きますよ?』
「……わかっとる。ワシも、本気でいくことにするから、それで勘弁してや」
『―――いいでしょう。朗報をお待ちしております』
ぷつりと相手から電話を切ってきた。
まだ、話をしているのではないかと勘違いしそうなほどの音が耳奥に残っている。
安次郎は携帯を折り畳むと、元のポケットに戻すと、再度夜桜を見上げた。散っていく。桜の花びらが。儚くも美しく。
一分近く見上げていたのだろうか、視線を戻し歩き始めた安次郎の瞳に宿るのは―――決意と覚悟であった。
薫風の季節が始まる少し前の時節、学生にとっては楽しみなゴールデンウィークが控えている。
恭也も美由希も学校では部活に入っているわけでもないので、連休は自由に使えるのだが、生憎と家業の翠屋が恐ろしく忙しくなるためにどこかへ出かけるというわけにもいかない。
海鳴で最も有名な洋菓子屋兼喫茶店。休日のお客の数は凄まじいものがある。
アルバイトを増員して対応はするが、それにも限界はある。それに、アルバイトの都合というものもある。
ゴールデンウィークはシフトに入れないという人もいるため、忙しい時は恭也や美由希に晶やレンまでもがかりだされるときがあった。
そのため恭也もどこか遠くへ泊りがけで鍛錬に出かけるというわけにもいかず、若者のくせに予定の一つもない。
連休もすでに目前に控えたある日、恭也と美由希が朝の鍛錬を終え、高町家に帰ってくると学校へいく準備を始める。
先に美由希はシャワーを浴びて汗を流しにいっている間、恭也は自分の部屋で椅子に座って机に向かう。
時間は六時を指しているが、まだまだ時間には余裕がある。
もうすぐ美由希も風呂からあがるだろうから、恭也も汗を流す時間は十分あるはずだ。
恭也が机の上に広げている書類。数枚に渡る月村忍の情報。情報といっても、プライベートな情報ではなく、忍を狙っている相手のことだ。
何時ぞやの入学祝パーティーの時にリスティに調べて貰い、まとめて貰った情報なのだが、確認の意味でもう一度恭也は目を通す。
月村安次郎。
月村忍の近しい親戚の一人なのだが、その人物が忍を脅迫しているらしい。
社会的にもそれなりの地位にいる人物らしいが、色々と黒い噂が流れている。
リスティの情報によると安次郎は別に忍の命まで狙っているわけでもないという。
安次郎は忍のことが憎くて脅しているというわけでもない。彼の本当の狙いは単純な話、金銭だ。
勿論、安次郎ほどの財産を所有している者が一千万、二千万程度で動くわけも無く、どうやら忍の両親は相当に資産家だったらしく、受け継いだ財産は桁が一つも二つも違う。
忍の両親が死んだ際に当然安次郎にも分配されたわけだが、それだけでは満足できずに、しつこく忍に言い寄っている。
今までは忍の別の親戚が、抑えていたらしいが、それもあまり効果が無く脅迫は続けられていた。
その情報を見て恭也は、忍へ対する直接的な被害がないのを納得する。
もし万が一にも忍を殺してしまったら、財産は再度親類縁者によって分配されてしまう。
それでは安次郎は満足できない。業突く張りな性格の彼は、忍を脅迫し、自分ひとりで忍の所有する財産を譲り受けようとしていた、ということだ。
しかし、よくぞ今まで脅迫に耐え切れたものだ、と恭也は忍の姿を思い浮かべる。
無口で冷たく見える月村忍。一年生の時から同じクラスだった彼女は恭也以外の誰かと話している姿を見たことは無い。
他人を寄せ付けないようにしているのは、脅迫されている自分の境遇に巻き込まないためなのかもしれない。
忍の笑顔を見たことなど―――たった一度しかない。
入学式のパーティーの後、駅で別れたあの時に見た月村忍の笑みは、美しかった。
恭也をして見惚れた。あの月村がこんな表情ができるのか、と思えたのだ。
もう一度だけ……あの笑みを見てみたい。心から笑って欲しい。
「恭ちゃーん。お風呂あいたよー」
「ん、ああ。わかった」
恭也は部屋の外からかかった美由希に軽く返事を返し、着替えを持って部屋を出る。部屋の外にいた美由希とすれ違った瞬間、ほのかなシャンプーの香りが恭也の鼻孔をくすぐった。
つい最近まで子供だった美由希もふとした仕草に大人を感じさせる。時の流れを感じ少しだけ感慨深い恭也だった。
美由希と入れ替わりに脱衣所に入ると服を脱ぐ。
露わになる恭也の裸だったが、鏡に映された自分の肉体を見て目を細める。
上半身は傷だらけで、両腕も見るだけで痛々しい。無傷のところを探す方が難しい。
それもこれも全ては未熟だった折に鍛錬や多くの実戦でつけられた傷だ。今では恭也に怪我をさせるほどの手練れと会うことなど滅多にない。むしろここ二年はそんな敵となった猛者は相変わらず巻島のみだ。
傷の中でも一際大きな痕を残す脇腹を手でさする。痛みはないが、あの時のことを思い出すと、よくぞ命があったものだと恭也は嘆息した。
三年前の永全不動八門会談。あるつての情報屋からその情報を聞き、御神は未だ健在だと証明するために乗り込んだあの時。
途中までは上手く事が運んでいたはずだった。御神宗家の血を引くものが一人でも生き延びている。それを伝えることができれば、永前不動八門の年寄りたちは勝手に畏れ、怖れる。
御神宗家の血筋にはそれだけの、【存在】があるのだ。
その恭也の予定をある一体の人外によってぶち壊されたのだ。
永全不動八門会談が行われた地域を地獄へと変貌させた、人外の中の人外。人智を逸した化け物。
あの時ほど死を身近に感じた時はなかっただろう。
幼き頃の水無月殺音との邂逅の時は、恭也にまだ戦う力がなかった故にある意味死を受けいれていた。
五年前に出会った天眼の時は、殺す気など微塵もないのがはっきりと感じられた。
だが、三年前のあの人外の時は違う。
人をゴミ屑のように喰らい、配下とし、命を凌辱する。最低最悪の魔人。
天眼の予言どおりに、三年前の恭也の力量では生きるか死ぬか……あの時何かが一つでも違えていれば、今ここに恭也はいなかっただろう。
その時につけられた傷をさするのを止め、風呂場に入るとシャワーの蛇口をひねる。
勢いよく熱湯が飛び出してくるが、それを頭からかぶり汗を流し落とす。
多少熱めのお湯ではあるが、恭也にとってはこれくらいが具合がいい。数分間も浴びていた恭也が、お湯を止め、シャワーの心地よさに息をつく。
掛けてあったタオルで体と髪を軽く拭くと、脱衣所に戻るべくドアを開け―――。
「……む?」
「…………」
なんというタイミングの悪さか、脱衣所には丁度ドアを開けて入ってきたレンが居て、ドアの取っ手を掴んだまま固まっていた。恐らく顔を洗いに来たのだろう。
もし、レンが寝起きではなく普段の状態だったら恭也が風呂に入っていたことに気づいただろう。もう少し美由希が長くシャワーを浴びていたら鉢合わせることは無かったはずだ。
様々な不運が重なるり、こんな状況が出来上がってしまったというわけだ。脱衣所に下りる沈黙の重圧。
数十秒も石像の如く固まっていたレンだったが、その視線は恭也の上半身から下がっていき―――下半身のある箇所で固定される。恭也はどんな反応をすればいいのか判断に迷い、レンと同じく固まった状態だ。
言葉もなくまじまじとそこを凝視していたレンだったが、現状を把握できたのか、顔……というか、体全体が真っ赤に染まる。今ならばりんご病と言われても納得できるほどの赤さだ。
「……きゅ、きゅぅ……」
脳が処理の限界を超えたのか、ぼんっと音をたててレンが脱衣所に倒れこむ。
だというのにどことなく幸せそうな笑みが浮かんでいたのは気のせいではないだろう。一生忘れることの無い光景をレンは気を失う瞬間に網膜に焼き付けていたのを恭也は知らない。。
逆の立場だったら泣き出したり起こったり慌てたり、様々な反応をしたのだろうが、恭也は結局―――レンを介抱する前にそそくさと着替えをするに終わった。
服装を整えた恭也は未だ気を失っているレンを抱きかかえると、リビングまで運びソファーに寝かせておく。
今日の朝食当番は晶で、キッチンで朝食を作っていたが、恭也に運ばれていたレンを見て驚いたように目を見開く。
「師匠。レンが、どうしたんです?」
「……ああ。ちょっと寝不足だったようだ」
「あー、そういえば昨日遅くまで漫画読んでた気がします」
まさか恭也の裸を見て倒れた、というわけにもいかず適当な理由をでっちあげる。
それを聞いた晶が心当たりがあったのか、何かを思い出すように答えてきた。まさか適当に述べた理由に賛同が得られると思っていなかった恭也のほうが逆に驚く。
晶もそれ以上突っ込んでくることはなく、自分の仕事の朝食作りに励む。
そうこうするうちに、美由希と桃子もリビングに現れ、最後になのはがふらふらと覚束ない足取りでやってきた。
狙ったかのようなタイミングで、レンも目を覚まし、焦点のあわない瞳で部屋中を見渡す。
十秒ほどぼぅーとした後に、気を失う前のことを思い出したのか、恭也の顔をみて耳まで顔を赤くした。
「おーい、レン。早く座れよ。御飯食べるぞー」
「わ、わかっとる」
どもりながらレンがそそくさと自分の椅子に座る様を、恭也を除く家族皆が不思議な視線を送るが―――朝は時間が少ないため、気にかける暇はなく朝食を食べ始めた。
今日の朝御飯は日本の食卓らしく、白御飯に味噌汁。納豆に漬物、卵焼き。塩鮭に冷奴。
なのはには量が多いので全体的に少量となっているが、一般に比べて大食漢の恭也と美由希、晶は次々と胃袋におさめていく。
特に恭也と美由希は朝の鍛錬のせいでお腹も減っている。
茶碗に白御飯がなくなると、晶が絶妙なタイミングでおかわりを盛った。
男っぽく見られるが、こういった細かい所に気づくのも晶の長所といえる―――相手が恭也だからかもしれないが。
「あ、そういえばそろそろ連休はいるわよね?皆の予定はなにかある?」
「いや、俺は翠屋の手伝いをするつもりだったが……」
「うん。私も恭ちゃんと一緒かな」
「俺も……夜は道場行かないと駄目ですけど、昼間とかは翠屋手伝いますよ」
「うちも特にはありません」
「私も―――アリサちゃんと遊ぶ約束をしてるくらいかな」
桃子の質問に皆が各々の予定を答え、それを聞いた桃子が考え込む。
人差し指を顎にあて、視線を天井に向けていたが、良しと呟きながら笑顔を全員に向けた。
「連休忙しくなるから、その前に皆で花見いかない?」
「あ、花見かぁ。去年行ってないもんね。行きたいかな」
「昼間なら全然俺はおっけーです!!」
「腕によりをかけてお弁当つくりますわ」
桃子の提案に美由希と晶にレンは肯定の意見をあげる。
もう一週間もすれば五月に差し掛かるが、今年は寒かったせいか桜の花が咲くのも例年よりも大幅に遅れていた。
流石に満開というわけではないが、まだまだ十分に花見はできるだろうという予測をたてた恭也も頷く。
なのはも家族で出かけられるのが嬉しいのか、笑顔を絶やすことは無かった。
「えっと、じゃぁ……参加者はここにいるメンバーとフィアッセに、この前のパーティーに来てた人達も声をかけてみていいわよー」
「本当ですか?よーし、みずのにも声かけておきます」
「うちもひなちゃんと加代ちゃんにゆーときます」
「おかーさん……アリサちゃんよんでもいい?」
「勿論よー、なのは」
「有難う、おかーさん!!」
晶とレンが自分達の親友の名前をあげ、なのはもアリサを呼ぶ許可を得る。
今から花見を楽しみにしている様子が全員に見受けられた。それを微笑ましく見ている恭也だったが、誰に声をかけてみるか脳裏に思い浮かべるが、生憎と赤星勇吾と月村忍の二人しかいなかった。
忍の気分転換になればいいか、と考えた恭也はレンが淹れてくれた熱いお茶がはいった湯飲みをすする。
「あ、あのー」
その時、おずおずと黙っていた美由希が手を挙げた。
恐る恐るといった感じで、全員の視線が自分に集まったのに気づくと、びくっと身体を震わせた。
それでも引くことは無く、とんでもない爆弾発言を食卓に落とす。
「私も―――友達連れてきていいかな?」
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………」
静寂が世界を支配した。
美由希をのぞく五人が五人とも、今の美由希の発言の意味がわからなかった。
確かに日本語だったのに、まるで未知の言語で発言されたような違和感を全員が感じてしまった。
そして、たっぷりと十数秒後に―――。
「「「「ええーーーーーーー!?」」」」
晶とレン。桃子となのはの叫び声が高町家に木霊する。
寸分の狂いも無く、全員の声が見事にはもっていた。唯一恭也だけは、冷静を保って―――はいなかった。手に持っていた湯飲みをテーブルに落としていたのだ。幸いにも中身は全部飲んでいたので零れることはなかったが。
声をあげなかっただけで恭也も十二分に驚いていたのだ。恭也が日常においてここまで驚いたことは久しくなかった。
「み、美由希ちゃんに―――」
「―――友達が!?」
普段は犬猿の仲の癖してこういう時だけは見事なシンクロを見せるレンと晶。
仲が悪そうに見えて、実は仲が誰よりも良い。二人は認めないが、二人の間柄は親友という言葉以外当てはまらない。
「ぅぅ……美由希が立派になってかーさん嬉しいわ」
「お姉ちゃん凄ーい!!」
およよと泣きまねをする桃子に、きらきらと目を輝かせて心の底から本気で美由希を褒め称えるなのは。
桃子はともかくなのはには一片の悪意もなく、美由希の発言に驚いているのだから逆に切なくなってくる。
「そ、そんなに驚かなくても……」
ズーンと肩をがっくりと落とし、美由希は本当に泣きそうな表情だった。
そんな美由希の様子に流石に驚き過ぎたか、と慌てた四人だったが、彼女達の反応はある意味仕方ないといえば仕方ない。
高町美由希は外見は悪くない。野暮ったい眼鏡をかけて三つ編みにしているから目立たないが、素材自体は一級品だ。
フィアッセのようにあらゆる人間を魅了するというわけではないが、少なくとも彼氏の一人二人いても可笑しくは無いほどの容姿をしているといっても過言ではないのだが―――。
幼い頃のある出来事によって、友達を作ることができなくなってしまったのだ。彼氏など論外。高校一年になるまで、レンや晶を除いて美由希に友達と呼べる相手は一人もいなかった。恭也も実はそれをどうこういえるほど友達がいるわけでもないが……。
その美由希が、友達を連れてきたいと発言した。これを驚かずしてどうすればいいのか。
特に桃子と恭也はそのことをずっときにかけており、二人の内心は嬉しさで溢れんばかりであった。
「―――その、なんだ。お前の……友達の、名前は?」
「えっと……神咲那美さんっていう人。二年生なんだけど、凄く優しくて良い人だよ」
「―――そうか」
山田太郎とかいわれたらどうしようと少しだけ考えていた恭也だったが、そんなことはなかったようでほっと一息。
冷静沈着を体現している恭也だったが、感極まってしまったのか声が震えていた。
悟られたくなかったが、完全に隠すのは不可能であり、美由希には声の震えがばれてしまっている。というか、全員それに気づいていた。
「友達が一人できただけでこの対応……私って一体……」
喜べばいいのか悲しめばいいのか。
美由希はちょっとだけ泣きそうな表情で、そう呟いた。
時間は流れ四時間目が終了する鐘の音が校舎に響き渡る。
学生の多くが最も楽しみにしている昼休みの時間。風芽丘学園は少子化という時代の流れに反して多くの学生が通っている。所謂マンモス学校なだけあって、学食も普通の学校より随分と広い。
といっても、風芽丘学園と海鳴中央併せて千人を優に越える人数を収容するほどの広さは流石に無い。
それでも三、四百人は十分座れる広さとテーブルが置かれているが、早めに行かないとあっという間に席は埋まってしまう。
混むのが嫌いな学生は購買でパンや弁当を買って屋上や中庭、教室に戻って食事を取ることも多い。
恭也は忍を誘い、学食へと向かう。昼食を食べるためだが、本当の目的は教室では言い辛い、花見へのお誘いをするためだ。
三年は教室が二階にあるので、学食までの道のりは他の学園の生徒や海鳴中央にくらべて近い。
二人はそれほど急ぐことなく歩いていたが、他の学生……特に男子生徒が元気に走って学食へと突撃していっていたが、運が悪い生徒はそれを教師に見つかり、大目玉をくらっていたりもしていた。
先を争うように学食へと急ぐ生徒達の流れの中で、二人は学食へと辿り着いた。
風芽丘学園の学食は広さだけではなく、価格が安いにもかかわらず味と量が一般水準に比べて優れている。
そのため席は大方埋まってはいたが、二人は日替わり定食を注文して、それが乗ったトレーを持つとあいた席を探し始めた。
「あ、師匠ー。こっちあいてますよー!!」
喧騒のなか、自分を呼ぶ聞きなれた叫び声を耳にした恭也は、人が大勢いる中で目聡く彼を見つけた晶が、手をぶんぶんと振って呼んでいた。
忍と二人でそのテーブルに向かうと、見慣れた妹達とその友達が談笑していた所であった。自然と席をつめてくれ、恭也と忍が座る席を空けてくれる。
そこにいたのは、晶とその友達の西島瑞乃。レンの友人である、奥井加代子と雛村ひなこ。美由希と―――楽しそうに話しているおっとりとした雰囲気の少女。リボンの色を見るに二年生のようだが恭也は、はじめて見た顔だ。
そこで、今朝美由希が口に出していた友達の神咲那美ではないかというあたりをつける。
話している最中に割って入るのも迷惑かと思った恭也は、持ってきた定食に舌鼓をうっていたが、ふと那美の視線が恭也へと移動する。
そこでようやく、話に夢中になっていて恭也と忍が来たことに気づいていなかったのが分かったのだ。
「初めまして。そこにいる美由希の兄の高町恭也です」
「え?ああああ、すみません。すみません。自己紹介もしないで、私って。あ、あのー神咲那美といいます。美由希さんとは清いお付き合いをさせていただいています」
頭を下げて、恭也の先手を取った紹介に、慌てに慌てた那美は、椅子から立ち上がりペコペコと恭也に向かって深々と何度もお辞儀を繰り返す。
その様子はまるで選挙活動をしている政治家のようにも見え、台詞は彼女の父に初めて会った男性のようにも聞こえた。その姿に周囲の生徒達が何事かと注目し始めた。
「な、那美さん。こんな兄にそんなにまでしなくても」
「あああ、すみません。美由希さん……ご迷惑をかけて」
「いえー。迷惑なんかじゃありませんよ」
周囲の視線を感じつつ止めに入った美由希にまで頭を下げようとするが、そういわれて感動した那美が嬉しそうに椅子に座りなおす。
那美が椅子に座ったことで、周囲の視線も四散した。二人の様子を窺っていた恭也だったが、なんとなくこの二人は波長があうのだと直感が働いた。
どちらかというと美由希のほうが年上に見えてしまうが。友人となるために、時間は大切かもしれない。だが、時間を超越した友情というのもあるものだろう。
恭也と赤星勇吾がそうであったように―――。
「どうしたんですか、お師匠。難しい顔して?」
「いや……なんでもない。ああ、それと例の事はもう話したのか?」
可愛らしく首を傾げるレンに、首を横に振る。
そしてここに来た目的を思い出し、他の人間はもうすでに知っているのかどうかを確認の意味を含めてレンに問う。
「お師匠が来る前に皆に聞いてみたんですが、皆参加できそうな感じです」
「そうか。それなら良かった」
ゴールデンウィークの前とはいえ、もしかしたら何か予定を入れている者もいるのではないかと予想していただけに、全員参加は嬉しい誤算だ。
定食のメインである鯖の煮付けをおかずに御飯をすすめる恭也だったが、一般生徒ならともかく恭也にとっては定食の量は正直物足りない。
あっという間に定食をたいらげると、一息つくようにコップに入った水を飲む。
後から食堂に来たというのに、恭也は一番早く食事を終えた。忍はまだ半分も食べれていないし、美由希や那美は御喋りに花を咲かせ、あまり食事自体がすすんではいなかった。。
「月村。実は今度の土曜日に花見をやろうと思ってるんだが……予定がなかったら参加してくれないか?」
「え……予定はないけど。また参加させてもらってもいいの?」
「ああ。ここにいる参加メンバーは恐らく前の入学祝の時と一緒だとは思う」
「なんか何時も誘って貰って悪い気が……」
「かーさんからも是非にと、頼まれているしな。遠慮はいらない」
「ん……ありがとう、高町君」
二回目の誘いということもあったのか、今度は忍もそれほど遠慮することなく応じる。
すでに赤星には参加の返事を貰っているため、恭也が誘える知り合いは仕舞いとなった。
参加する人数を頭の中で数えてみたが、総勢十三名。アイリーンは参加はどうなるか不明だが含めたら十四名。
恭也とて人の子。物静かで大人びているため、大勢で騒ぐのはそれほど好きではないが……気心の知れた人間だけならば話は別だ。
なんとも賑やかな花見になりそうだ、と今から花見のことをイメージした恭也が笑みを抑え切れなかった
「あ、そういえば花見をする場所ってもう決まってる?」
「……いや、恐らくまだ決まっていない筈だ」
美由希が思い出したように恭也とレンと晶の三人に確認するように問いかけてくる。
それに三人の代表として恭也が答えた。レンと晶も特に異論はないので、黙って頷く。
「それなら那美さんの知り合いに頼めば花見する場所貸してもらえるかもって」
「ほほぅ。それは有難いです。本当に宜しいので?」
「は、はい。後片付けさえしっかりやれば大丈夫だと……」
「そこは徹底しますのでお聞きして貰ってもよろしいですか?」
「はい。今日寮に帰ったら聞いてみますね」
思いがけず花見の場所を提供して貰えた幸運にガッツポーズを取るレンと晶。
毎年花見はやるが、特にどこでやるということは決まっていない。このことを桃子に話せば喜んで貰えるだろう。
「なーなー。お前知ってるか?風芽丘の三年C組に凄い美人が転校してきたって」
「いや、知らないけどそうなん?」
「ああ。結構な噂になってるみたいだぜ。俺も今日見たばっかなんだけど、マジやべぇ。ちょっと冷たそうな雰囲気だったけど、それがまた良い!!」
「へー。でも、この時期に転校って変な話じゃないか?」
「あー、そういえばそうなんだけどさ。まぁ、人には色んな事情があるんじゃねーの?」
丁度恭也と那美の会話が途切れた時だったため、後ろのテーブルに座っていた男子生徒達の多少大きめな声が聞こえてきた。
その後もその美人転校生の話で色々と盛り上がっていたようだが、昼食を食べ終わったのだろう。男子生徒達は席を立ち食堂から出て行った。
先程の男子生徒達の会話を思い出し―――恭也は、ふと思いついたことがあった。
凄い美人。冷たそうな雰囲気。この時期に転校。それらの条件が組み合わさり、一人の知り合いの姿が脳裏に描かれる。
まさか、と思った恭也は自分の想像を首を振って否定する。たったそれだけで特定してしまうのは早計だろう。
恭也達が座っているテーブルは沈黙という言葉を知らないのだろうか。
レンと晶は会話をしながら互いを貶しあってはいるが、その光景はどこか微笑ましい。
晶達の友人も苦笑いをしながら見守っている。対して先程と同じペースで美由希と那美はにこにこと笑顔を絶やさない。
相当に相性がいいのだろう。美由希の友達が那美のような人間で本当に良かったと恭也は心の中で感謝していた。
時間が経つのは早いもので、時計が予鈴を鳴らす。
周囲の生徒達はほとんど帰っており、残っていた生徒達も予鈴を聞き、慌てて教室に戻ろうとする。
恭也達も御多分にもれず、食器を返すと各々の教室へと戻っていった。
三年の教室がある階に戻った恭也と忍が自分達のクラスに入ろうとしたその時―――。
見覚えがありすぎる女性が恭也の視線の先にいた。
教室の位置的にはCクラスの扉を開けようとしているところで、恭也の視線に一瞬で気づいた女性は振り向き笑顔を浮かべた。
家族にさえも心を許すことの無かったその女性がそんな笑顔を向けるのは世界広しといえど恐らく恭也にだけだろう。
剣聖。天守翼―――風芽丘学園三年C組。
噂の転校生。それが誰なのか、恭也の想像は決して間違ってはいなかった。そのことで一悶着おきるのはまた別の話。
―――美しい。
己へと迫る白銀の刃。
疾駆する魂。木霊する命の咆哮。
決して避けることを許さぬ、不可避の絶刀。
初めて踏み入ることができた―――文字通り光だけの世界。
只の人間だった筈の【青年】が生み出した、瞬きも許さず、音も残さぬ無言(シジマ)の領域。
反応さえもすることができず、自分の腹部を斬り裂いた冷たい感覚は数千年経った今でも忘れられない。
まだまだ若かったあの頃に自分は囚われてしまったのだろう―――高町恭也という人間の在り方に。
「―――光の剣閃」
「あん?なんだよ、それ」
ヨーロッパのある田舎街。その一画にあるひんやりとしたコンクリートの階段に腰をおろした青年が片膝を立てて座っていた。
年の頃は二十半ばくらいだろう。仕立ての良いブランド物の黒いスーツを着こなし、赤みがかった短い茶髪が天を突く様にツンツンと尖っている。
スーツと同じ黒い皮手袋。黒いネクタイ。そして黒いサングラスをかけた、そんな青年の気軽な返事が夜の静寂にとける。
青年の横で、アンチナンバーズのⅡ。天眼が手すりに手をつけるようにして眼下に広がる、灯りが漏れる人々の家を見下ろしていた。
恐れ、敬われる伝承級の化け物の横にいるのだというのに青年には、一切のそういった感情は見受けられない。
「―――森羅万象を斬り裂く光の剣閃。この私でも到達できない、一種の究極」
「……あんたでも到達できないって、どんな魔術なんだよ」
「魔術ではありませんよ?ただの―――鉄の塊が生み出す破壊に特化した最凶の刃です」
「……魔術では、ない?」
「或いは貴方のジ・アースをも飲み込み断ち切るかもしれませんね」
「―――そりゃ半端ねぇ」
青年にとっての切り札。絶対の自信を持つ魔術を軽く見るとも言える天眼の挑発にプライドを刺激されたのか、ピクリと眉を動かし全く心のこもっていない台詞を返す。
二人の間に僅かな沈黙が訪れる。ピリピリとした緊張感がそこに生まれていたが、全く気にしていない天眼に毒気を抜かれた青年はふんと鼻で笑った。
「で、その光の剣閃って誰が使うんだ?聞いたこと無いぜ」
「当然ですよ。今はまだ青年は、舞台には上がっていませんから」
「青年?アンチナンバーズに若手のホープでもいたっけか」
「そうですね―――旧アンチナンバーズⅥ【人形遣い】を退けた……伝承墜とし。彼がそうですよ」
「……ああ、あの正体不明の化け物か。まぁ、やりあうことになったら証明してやるよ。俺のジ・アースの絶対防御を貫けるものなどいないってことをな」
「それはそれは。楽しみにしていますよ?」
天眼は青年に向かってポケットから取り出した宝石のような物体を投げて渡す。
後ろから投げられて見ていなかったにもかかわらず青年は当たり前のようにその宝石を受け取るとマジマジと凝視した。
「本当にこんな宝石みたいなもんに願いを叶えることができるんかよ?」
「ええ。誰が作ったかわかりませんが―――オーパーツと呼ばれる一種の秘宝。人の【記憶】を喰らってエネルギーへと変換する、ロストテクノロジーによって生み出された過去の遺物です」
「【種】、か。でもよ……記憶を奪って成長するってのに、俺がやってることはちょっとちがわねーか?」
「いえいえ。それには特殊な術式を施してましてね。記憶ではなく―――【魂】によってその種は成長します。人を殺せば殺すほど、その魂を吸収して進化していくのですよ」
「魂ねぇ……胡散臭い話だぜ」
「それでも、事実です。望むのならば不老不死に近い命を、大地を穿つ力を、あらゆる魔術を凌駕する魔導を得ることが出来ます。それこそ過去へと遡ることも。貴方の師である魔導王の……魔女によって施された解除不可能な封印をとくことさえも―――」
「……うるせぇよ」
ピシリと空気に亀裂が入った。
おぞましいほどの黒い殺意が周囲を支配していく。それとは対照的に、青年の体を覆うように、金色に輝く薄い膜のような―――オーラが立ち昇る。
夜の闇を侵食していく、金色の光。青年自体が太陽の光を発しているといっても納得できる程にまばゆい。
「あんたがあの人を語るな―――虫唾がはしるぜ。できればこの場で消滅させてやりたいくらいにな」
「あらあら。面白い冗談ですね。貴方【程度】がこの私に勝てるとでも?」
「……試して、みるか?」
黄金の覇気が一際明るく輝きを放つ。
あらゆる魔を滅する退魔の光。大地の祈りをその身に宿す、禁大魔術を習得したこの世界でただ一人の男は天眼に獰猛な視線を向けた。
だが、天眼の態度は変わらない。圧死しそうなほどの重圧をその身に浴びているというのに、まるでそれを脅威と見ていないかのような雰囲気だった。
「……ち」
先に折れたのは青年の方だった。視線を天眼からずらし、明後日の方へと。階段の手すりに足をかけると、中空へと身を躍らせる。
誰かが見ていたら飛び降り自殺をしたのだと勘違いをしたかもしれない。この場所は十階建てのマンションの屋上の手前の踊り場なのだから。
重力に従うように落下していく青年を見送った天眼は何時もの微笑を浮かべたまま、瞳だけは嘲笑う色を示していた。
「貴方には期待していますよ?アンチナンバーズⅩ【大魔導】。頑張ってその【種】を育ててくださいね?」
アンチナンバーズの伝承級。それはⅠからⅨまでの別格の存在。超絶的な力を持った人外の化け物達。
ナンバーズでも相当なことが無い限り戦うことを選択しない……できない者達。
だがⅩ以降はナンバーズの上層部によって決められている。どれだけの力を持っているのかもそうだが、思想・経歴・性格・経験などが考慮されて約半年ごとによって定められる。
三桁四桁のアンチナンバーズの入れ替わりは激しいが、二桁台は基本的に安定していた。そう、安定していたという過去形なのだ。
二桁のアンチナンバーズの上位は、そのほとんどが執行者によって育てられた存在が多かった。そのため執行者を慕っているものが多くいた。
故に数年前の魔導王との死闘の折に、執行者と魔女の二人に追従した二桁の上位ナンバーは、結果全てが死亡。生き残ったのは執行者と魔女の二人だけ。それだけの被害を被ってようやく封印に成功したのだ。
比較的……というか、伝承級の中では猫神と等しく人に理解を示していた執行者に育てられただけあって、人間に敵対心を持たず、純粋な力のみで二桁の上位ナンバーに数えられていた者達の変わりに指名された人外の化け物達。
それは当然といえば当然な、人類社会に対して最悪の被害を齎す化け物達だった。その化け物達以上の脅威と、執行者に育てられた化け物達よりも強い、化け物達の頂点に君臨する者。すでに百年以上アンチナンバーⅩから落ちることは無かった夜の一族の一人。
伝承級にも匹敵するとナンバーズに噂される人外の魔術師。人はそれを【大魔導】と呼ぶ。
一際強い風が突風が吹く。強風が大魔導の身体を守護するように落下速度を遅くしていく。
周囲一帯を覆った風は大魔導の身体を浮かびあがらせるだけではなく、マンションの遥か下の道路を歩いていた多くの人々をも驚かした。
人々は小さく悲鳴を上げ、女性はスカートや髪を必死に抑えている。
その小規模な竜巻といえる現象の中を、ふわりと重さを感じさせず、道路に大魔導が舞い降りた。
その不可思議な光景に、ある者は目を開き、ある者は拍手を送り、ある者は感嘆の声をあげた。
だが、気づくべきだった。大魔導が発するあまりにも無慈悲な視線に。絶対零度の殺気の奔流に。
「ああ、くだらねぇ。生きる価値もない有象無象がなんでこんなに居やがるのか」
先程天眼と向かい合った時とは同じ黒い殺意が巻き起こる。
「なんであの人が封印されて、お前達が何事もないように生きてやがるんだ?」
そこでようやく人々は気づく。自分達の前に立つモノが、不吉を孕んだ人間ではない何かだということに。
「とりあえず、お前らは、あの人のために、死んでくれ」
途切れ途切れに放たれた言葉が、己に対する念仏のようにしか聞こえず―――。
「さぁ、カーニバルの始まりだ」
大魔導の両手が光に満ち溢れる。中空に両手で直径三十センチほどの円を描く。
彼の使用する魔術は、極限にまで無駄が省かれたもの。複雑な工程を必要としない。
光が夜の闇を引き裂き、五芒星が圧倒的な重圧を放ち、その場に顕現する。
大魔導の周囲の空気が球体状に歪む。小さな野球ボール程度の雷球が三十を越え、パチパチと音をたてて揺れていた。
そして―――弾けた。
瞬く間に雷球は周囲にいた人間達に襲い掛かり、直撃。
たった一撃の雷球は、人の命を容易く奪う。人の身が、黒く焦げるほどの雷撃に生存する者などいなかった。
その光景は夢か幻にしか見えず、運がいいことに雷球の餌食にならなかった人々は呆然と何が起こったのか理解できないようで、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしている。
十数秒もたってようやく、これが現実のことだと認識し、悲鳴をあげながらその場から離れるものもいたが、腰が抜けたのかその場でペタンと尻餅をつく者もいた。
少なくとも目の前の悪夢に立ち向かおうという勇気ある者などいなかった。恐怖が一斉に伝染する。
大魔導は冷静だった。冷静に人を殺し始めた。その場から動けない者の頭を掴み力を入れる。
ぐしゃりと熟れたトマトを潰すように、人の頭が弾け飛ぶ。赤黒い脳髄が、血液が、道路にぶちまけられた。
四つん這いになって必死に逃げ出そうとする人間にの背中に手刀を落とす。背中に命中し、そのまま腹まで貫いた。
貫いた手を抜くと、開いた穴から腸がぼとりと地面に落ちる。赤ペンキが零れ落ちるように、大地を真っ赤に染めていく。
周囲の悲鳴が最大にまで響き渡る。もはや怒号にちかい、人々の叫びが耳を圧する。
荒れ狂う混乱。大人の怒鳴り声。子供の泣き声。我先にと逃げ出すものや、転倒する者など様々だ。
そばにいるものは女子供関係なく己が四肢を持って、砕き、壊す。
遠くに逃げ出すものは、己が魔術を持って、焼き焦がし、潰えさす。
何も知らず、家の中にいるものは、不可視の衝撃波を持って、建物ごと破壊する。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。大魔導は一切の慈悲も見せず、淡々と殺戮を繰り返す。
建物は破壊され、道路は荒れ果て、大魔導の歩く道に残されるのは、無残な死体だけ。生ある者は、一切残さず、絶望と死だけを告げる死神がそこにいた。
途中警官らしき服装の人間が拳銃を撃ってくるが、不可視の壁に遮られて、大魔導に届くことは無い。
ただの拳銃如きでは掠り傷一つつけることは出来ず、大魔導の手から発せられた衝撃波が警官の身体を吹き飛ばし壁に叩きつけ、圧死させた。
それはまさしく魔王の行進。如何なるものもその進撃を邪魔することはできず。ただ、破壊と破滅のみが存在する。
己を中心として広範囲に結界を張り巡らし、生体反応を確認した。
すでに軽く数百の人間を殺していたが、騒ぎに気づく者、気づかぬ者。様々で、遠くに離れていく気配も感じられる。
もったいない、と大魔導は呟き片手を天空へと向けた。
夜空に雨雲が広がり、雷雲となる。けたたましい音が高鳴り、光が奔る。
雷光が遠方へと落ち、遥か離れた場所の生命反応が一気に消失した。
周囲に生命反応は残り一つとなり、その反応に向けてゆっくりと歩みを進める。
歩いた直ぐ先、大魔導の視界に映るのはペタンと地面に座り込んでいる少女。十代半ばくらいの金髪の髪を肩くらいの長さで切りそろえたそばかすが印象的な少女だった。
大魔導の虐殺を見ていたのだろう。ガタガタと、青い顔で身体中を震えさせてその場から動こうとはしなかった。いや、動くことが出来なかった。
ぼろぼろと恐怖の涙を流す少女の元まで近づいていった大魔導は、他の人間にしたのと同じ様に手で顔を掴み、そして―――。
「―――虎切」
少女と大魔導の耳にその単語だけが聞こえた。
それが何を意味するのか理解する間もなく、少女は身体全体に熱い風を感じる。
ちぃ、という少女にとっての死神が焦りを滲ませた舌打ちが耳に響く。
赤黒い色をした液体が少女の顔にかかり、それが血だと気づくのに、暫しの時を要した。
少女を庇うように、大きな背中が己の死神と自分を分け隔てるように、何時の間にかそこにあった。少女に背を向けた男性は両手に剣を持ち―――小太刀と呼ばれる日本刀だが―――何の怖れもなく死神と相対している。
自分の顔にかかった血は、大魔導が少女の顔にあてていた右手の半ばから出血しているのだと、理解した時、凄まじい恐怖感が襲ってきた。もし、目の前の男性が後一歩遅かったら確実に死んでいたのだから。
「……おい、小娘。とっとと逃げろ」
「……」
事態があまりに変化しすぎて、そして恐怖が治まらなくて、男性の言葉に返答することができない。
それに多少苛立ったのか、男性は視線を一瞬だけ少女に向け、舌打ちをする。
その顔に少女は見覚えがあった。大の親日家である父親が、今夜酒場で一緒に呑んで意気投合した日本人だ。
泊まるところがないという話を聞き、自分の家に男性とその娘の二人を招き入れたのだ。
それはつい先ほどの出来事。日本の名前は覚えにくいが、少女は男性の名前を確りと憶えていた。
「―――ソーマ」
「人の名前を呼ぶ暇があったら親父達と一緒にこの街を離れろ」
「う、うん……」
ようやく収まってきた足の震え。それでも普段と同じようには到底一緒には走れないだろうが、少女は―――相馬の背を振り返りながらその場から離れていく。
男の名前は御神相馬。十年以上前に御神の一族を追放された御神宗家長男。美由希の父である静馬の兄。つまり美由希にとっては伯父の間柄の男性。そして、かつての御神一族最強の剣士。
数多の死体を作り上げた死神の前に相馬だけを残して去ることに抵抗感をもっているようだが、それを振り切るように姿を消していった。
残されたのは大魔導と相馬の二人のみ。残りは原型を辛うじて残している死体だけだ。
不意打ちだったとしても己に手傷を負わせた相馬を見る目には怒りと屈辱しかなかった。
それもそうだろう。アンチナンバーズのⅩ。数多の怪物の頂点の一角。大魔導とまで呼ばれるに至った自分に血を流させたのが人間だったのだから。
同族だったとしても自分に同等の怪我を負わすことができるのはごく一部だろう。ナンバーズの数字もちならば兎も角、ただの人間が大魔導に対して一歩も引かず、相対することでさえ信じられることではない。
「……屈辱とはこういうことをいうんだろうな」
「うるせぇ、化け物。人様が折角寝床に入ったところを邪魔しやがって」
大魔導の呟きに、隠すつもりもない怒気をこめて相馬は吐き捨てた。
相手がただの人外ではないことくらい相馬とてわかってはいる。久しく感じていなかった、死の予感を漂わせた怪物が目の前にいた。
だが、相馬は今ここで引く気はなかった。強き者と戦いたいという果てしない欲求。それを求めて相馬達は世界を放浪しているのだ。
そしてそれ以上に―――。
「気にくわねーな」
「……!」
鋭く、研ぎ澄まされた相馬の殺気。大魔導をも怯ませるほどに禍々しい。そこでようやく大魔導は相馬の尋常ではない気配に大きく目を見張る。
人間だというのにその気配はむしろ自分たちに近い。命を奪うことを何とも思わない、花を摘むかのように人を殺す。そんなことができる輩だ。
「弱い者をいたぶって楽しいか?反撃できない者を虐殺して満足か?教えてやるよ、お前みたいな奴を外道っていうんだぜ」
「……ふん。お前こそよくぞ言えるものだ。見えるぞ、お前の背後に馬鹿げた数の怨念が。呪いとでも言い換えてやろうか。お前こそ狂ってやがるな、殺人狂」
そんな濃厚な血の香りが体の芯にまで染みわたっている相馬の責めるような物言いが、あまりにも可笑しくて大魔導は口元に笑みを浮かべて吐き捨てる。
お前はそんな人間じゃないだろう、と大魔導の台詞の裏には悪意が込められていた。
「ああ、そうだ。俺は数えきれないほどの人を斬った。それはもはや変えられない過去だ」
少しだけ後悔の念を顔に浮かべた相馬だったが、それも一瞬の出来事で、見間違いかと疑う僅かな時であった。
次に浮かべたのは肉食獣のような形相で、片手の小太刀の切っ先を突きつける。
「だからこそ、お前も俺に殺されろ。お前が殺人狂と認める俺に、殺されろ!!数百の墓前の前に―――お前の首を捧げてやる!!」
放つは人外の域に達した重圧。尋常ならざる殺気。まるで昔の自分をみているような同族嫌悪。少女には一宿一飯の恩があった―――恩には恩を。恩ある者を手にかけようというのならば敵がだれであろうと蹴散らすのみ。
相馬の筋肉が膨張し、大地を蹴りつけ一つの弾丸となる。神速に達した相馬の最速。瞬く間に間合いを詰め、狙うは首元。
殺すというはっきりとした意識のもとにて小太刀は空気を貫いた。
「……っな!?」
対する大魔導から驚嘆の声があがる。
相馬の速さは、大魔導の想像の遥か上をいっていた。疾風となった黒い稲妻。瞬きをした一瞬で既に相馬の小太刀の先端は大魔導の喉元を食い破らんと迫っている。
必死の思いで、その場から横っ飛び。轟風音が耳元をつんざく。
己の横を通り過ぎていった実体を所有した剣風を、瞬時に振り返りその姿を視界におさめようとするが、すでにその姿は消え去っていた。
―――死ぬぞ?
そんな他人事にしか聞こえない自分の声が脳内に響き渡る。
地面を強く蹴りつけて、その場から大きく跳び下がった。それと時を同じくして元いた場所に振り下ろされる斬撃。
大魔導の顔が歪み、安堵の声が漏れる。次の瞬間、旋風となった一陣の二刀の嵐が、息もつかせず連続で叩き込まれた。
流石の大魔導も素手ではこれは捌けない。瞬時に発動させた不可視の障壁でその尽くを弾き返すが―――。
ピシリ。
そんな音が聞こえた。
大魔導の双眸に見られるのは、既に怒りと屈辱ではなかった。その瞳にあったのは焦燥。
彼の知っている人間を超越した圧倒的な速度。そして、破壊の斬刃。即座に発動させたが故に障壁の強度はそれほどでもないとはいえ、拳銃の弾丸程度なら幾らでも防ぎきる。
だというのに、その障壁をいとも簡単に破壊しようなど―――人の為せる技ではない。
「―――舐めるなぁあああああああ」
烈火の咆哮とともに大魔導の瞳が怪しく光る。
視界に映っていた相馬を焼き尽くさんと、頭の中でイメージした炎が現実に転写され荒れ狂う。
爆炎に包まれた視界。常人ならば一瞬で骨しか残らない、超高熱。
しかし、大魔導に何かを焼いた感覚はもたらされなかった。
背後に回った相馬の小太刀が大魔導の首筋を狙う。白銀の煌きを残し、二閃。
完全な虚をついた筈だったが、後ろを向きもせず宙を舞って、相馬の攻撃を避ける。
相馬は避けられたにもかかわらず無言で小太刀を月光にかざし、動揺も焦燥も見せず刃を向けた。
月の光を浴びた小太刀は見るものを魅了するように、怪しく輝く。
大魔導の血を吸った小太刀は。呪われた妖刀を想像させる。
跳躍により、間合いを取った大魔導が血が流れている右手を相馬に向けて振り降ろした。
空中に飛び散った血液が、鋭利な赤黒い物体へと変化して、四方から相馬を襲撃する。
ヒュッという短い呼吸音と共に、二刀の刃がそれら全てを弾き落とした。
その隙に大魔導は相馬から間合いを大幅に取る。
両手を組み、龍の顎を形作る。瞬間的に雷が纏いつき、稲妻の蛇が相馬を喰らいつくさんと一直線に踊り狂う。
それが遠く離れた相馬に直撃し弾けた。巻き起こる爆発。そして粉塵。
普通の人間ならば即死。それこそ跡形すら残さず。しかし、大魔導を襲う悪寒は消え去りはしない。
ざっという地面を擦る音が聞こえ、そちらを振り向けば相馬が身体を低く、疾走していた。
一呼吸で間合いを詰め、滑るように小太刀を高く高く斬り上げる。だが、紙一重でその一撃はかわされた。
だが、無傷というわけではなかった。避け切れなかった小太刀が胸部を僅かに斬りつけ、血が舞い散っていた。
信じられないほどに―――強い。
それが大魔導の下した結論であった。
はっきりいってこの【状態】の大魔導の近接戦闘の能力はそこまで高くは無い。アンチナンバーズでいうならば五十の相手にも後れを取る程度だろう。
名前の通り、大魔導の真骨頂は魔術による遠距離攻撃。大多数を一度に葬れる圧倒的な破壊力。
勿論それをつかうには高度な術式と時間を要する。だが、相馬との戦いはそれこそ一秒でも気を抜けば死んでいても可笑しくは無い。
相馬を人間と甘く見て、近接戦で始末しようと戦いの口火を切ってしまった大魔導の行為こそが、愚行であったのだ。
最も、ただの人間でここまで強き者などいるはずがないと思っても仕方ないだろう。百年以上の時を生きる大魔導でさえも、これまで出会ったことは無かったのだから。
だが―――完成した。
「……終わりだ」
ニィと口元を嗜虐で歪めた大魔導が己へと追撃を放たんと、さらに踏み込んできた相馬に狂える表情を向けた。
それを疑問に思わない相馬が小太刀を振り下ろそうとしたその時、大地に流された大魔導の血が描いていた―――五芒星が耳障りな音をたてる。
赤黒い血液が発光し、その中心にいるのは相馬。天まで届けと、赤柱を作り出していた。
普通ではない事態だというのに、相馬は一切顔色を変えない。いや、むしろ大魔導を馬鹿にしたかのような狂った三日月の笑み。
「―――ああ。お前がな」
大魔導の感知結界に突如現れた気配。それも出現した場所は己のすぐ後方だった。
放たれた猟犬が如く、黒い服を身に纏った少女が相馬に匹敵する速度で小太刀を煌めかせ、大魔導を強襲する。
相馬と同じ黒い髪。セミロングとでもいうべき長さだ。相馬とどことなく似ている面影で、十三か、四程度に見える幼顔の少女。
少女の口元には、楽しげな笑みを浮かべ―――スピードに乗った小太刀が大魔導の背中を抉り貫かんと放たれた。
その速度。その技の美しさ。その容赦の無さ。少女の動きは、それら全てが相馬の姿と重なり、大魔導をして思考の空白を作り出すほどであった。
コンマ一秒の時で我を取り戻した大魔導が、後方の少女に対応しようとしたが、そのためには相馬に対してかけている魔術を中断しなければならない。
もし相馬が赤柱を恐れて、自分の命惜しさにその場から逃げていれば少女に十分対処できただろう。だが、相馬は自分の命が脅かされているというのに、逃げる行為よりも大魔導に斬りかかるということを優先した。
その捨て身ともいえる行動を平然と選択できる相馬に僅かな恐れを感じる。相馬を魔術で打ち倒したとしても、その後すぐに少女の刀によって貫かれる。かといって、少女に対処しようものなら相馬は何の躊躇いもなく大魔導を切り捨てるだろう。
攻撃を諦めて障壁で防ごうにも、この二人ならば即席の防御結界などあっさりと破壊してくるという予感もある。
大魔導の見える世界が全てスローモーションになった。走馬灯というやつだろうか。
相馬が血界魔術を潜り抜け、小太刀を振り下ろしてくる。少女が心臓をめがけて体ごと体当たりをしてくる勢いで突きを放つ。
逃れられない。二人の攻撃をよけることは不可能だ。避けることができたとしてもそれは片方のみ。もう片方の刃をくらい、後は二人の連続攻撃で沈められるのは火を見るよりも明らか。
このタイミングを相馬は狙っていたのだ。最初に現れた自分だけに大魔導の注意をひかせるため。
そして少女は気配を隠し、大魔導を確実に仕留めることができるこの時まで息を殺していた。
つまり単純な話―――大魔導は詰んでいた。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
ただの二人の人間に殺される。アンチナンバーズのⅩが。数多に存在する人外達の頂点に位置する怪物が。あの―――完全にして完璧の、全ての魔導を極めた王の唯一の弟子が。
魔術もろくに使えぬ、人間ごときに滅せられるのだ。そんな馬鹿な話があっていいものか。認められるものか。
下らぬプライドなど捨ててしまえ。己の持つ全力で捻りつぶせ。圧倒的という言葉を見せつけてやれ。
「―――ジ・アース」
夜の闇を塗りつぶす、光り輝く太陽の輝きが大魔導を塗りつぶす。
相馬と少女の目を焼き尽くすように、発光する。だが、二人は何の容赦もなく小太刀をふるった。対象を殺す、という点において二人は決してぶれることはない鋼の意思をもっているのだ。
たとえどんな魔術を使おうとも斬ることができる。そう判断していた二人だったが―――。
ギュィン。
大魔導の頭を叩き割ろうと相馬の小太刀が、心臓を貫こうとしていた少女の小太刀が、不気味な音をたてて、【弾かれた】。
冷静な二人の目が大きく見開かれる。不可視の障壁だったならばまだわかる。だが、二人の小太刀は大魔導が纏った金色のオーラともいうべきモノに阻まれて肉体に届くことなく弾かれたのだ。
驚いたのは一瞬で、二人は頭を、喉を、腕を、胸を、腹を、腰を、太腿を、脹脛を―――竜巻の如く続く乱斬で斬りつけ続ける。
しかし、十秒にも続く時間二人合わせて百を超える刃の嵐はその全てが、大魔導に届くことはなかった。
「―――いい夢が見れたか?」
光が浸食を開始した。
「―――ただの人間がアンチナンバーズのⅩ。大魔導を死の淵に立たせることができたんだ」
禍々しい。そうとしか言い様のない、不吉な光。
「―――それを土産として、魔道冥府に堕ちろ」
次の瞬間、大魔導の姿が消失した。すくなくとも少女の知覚できる速度ではなかった。神速をも凌駕する疾風迅雷。
気が付いたその時、少女の背後から大魔導が拳をやんわりと腰にあてて……。
「……っ宴(うたげ)!!」
ドンという横からの衝撃を受けて一回転、即座に体勢を立て直した宴が見たものは、自分のかわりに大魔導に腹部を殴り飛ばされた父の、相馬の姿であった
ポーンとボールを放るかのように数メートルは吹き飛ばされ、放物線を描き地面に叩きつけられる。
痛々しい音をたてて地面におちる、と思われたその時に、相馬は強引に足を地面に向けて着地するが、ごほっと咳をして道路を血で染め上げた。
一撃で殺せなかったことに大魔導は素直に驚いていた。相馬は宴を庇いつつも、拳が着弾する間際に後方へと身体を逃がし、威力を殺していたのだ。
「とーさま!?」
宴は自分の身代わりになった相馬に驚き、声をあげた。
だが、流石と言うべきか視線も意識も大魔導に向けたままだ。自分や相馬を遥かに超えた音の如き速さ。
何時の間に背後に回られたのか全く気づかなかった。先程までは自分達二人ならば打倒することは容易いと思っていた宴は、相手のあまりの変貌に驚愕を隠せない。
相馬と宴は知らぬことだが、大魔導が使用した魔術はジ・アースと銘々された禁術。
全ての魔術を極めたと称された、かのアンチナンバーズⅣの魔導王でさえも例外的に修得できなかった四術の一つ。
周囲一帯の大地の龍脈の力を吸収し、身体に纏い絶対防御を作り出す。その副次効果として身体強化と感覚強化を得られる―――しかも、驚異的といってもいいほどの。伝承級を除く全てのアンチナンバーズを凌駕することができるほどの。
ようするにジ・アースとは―――【最強】の時間を作り出す魔術。
集中力を切らさず、意識を目の前に向け、視線を大魔導から離さなかった宴だったが……それでも無理だった。
人間を、人外を超越した魔人が宴の間合いに音もなく、気配もなく踏み込み、掌を彼女の顔に向けていた。宴が気づいた時には既に視界が大魔導の手に覆われていた時だった。
死んだ。
宴は率直にそう思う。それほどの死の予感が頭の中で警鐘を鳴らし、響き渡った。
それでも、宴は身動き一つ取る事ができない。それにもはや、無駄なことだ。どんな動きをしようとも、間に合わず死ぬだけだ。
生を諦めたくはない。剣と相馬しかない短い人生だったが、これから楽しいことがきっとあるはずだ。
相馬が語った親戚―――不破恭也。話だけしか聞いたことがないが、彼に会いたい。あの相馬が認めた剣士に会ってみたい。
「―――死にたく、ない」
「―――ああ、嫌といっても、死なせん」
爆発音と錯覚するほどの音が宴の背後で聞こえた時には、眼前にいた筈の大魔導がビデオのリプレイを見るかの如く、先程の相馬と同じように吹き飛ばされていた。
大魔導の両手両脚に同時に斬撃を与えた。しかも、それはコンマ一秒の差もなく同時。
痛みはない。衝撃もほぼ無かった。大魔導は吹き飛ばされたのではなく、自分から後退したということだ。
それはまるで相馬の気迫に押されたということで―――大魔導は驚嘆を禁じ得ない。
良く見なくても相馬の身体は既に戦闘という行為を行う上で半分ほどの力しかだせない状態だろう。
だというのに、万全の状態以上の速度で間合いを詰め、宴を庇いながらも、大魔導をひかせるほどの斬撃と重圧を放っていたのだ。
口元を血で濡らしながらも、宴を庇い前に出る。勝ち目などないというのは分かっているのに、相馬の目には諦めの色など全く無かった。
「……お前みたいな奴は、厄介だな」
魔導王の経験上、相馬のような目をした敵は非常に戦いづらい。
大概がこちらの想像を超える結果を作り出す。どれだけの差を知っても諦観しない、不沈の意思。
どんな状態からでも逆転の一撃を考えてくる。不撓不屈の戦士。
「だからこそ、お前はここで死ね」
大魔導が発するは死刑宣告。
相馬を敵と認め、ここで殺さなくては将来において必ず自分を躓かせる路傍の石となる、という確信を得ていた。
対する相馬はゆっくりと確実に這いよってくる死に対して焦りを感じていた。それは自分への死が迫っているから感じているのではない。
戦いの果てに自分が死ぬのは構わない。これまでの人生を振り返るとろくでもない死に方をするのは分かっていた。
だが、娘の宴だけは何としても―――。
相馬が迷っているその時、神風が吹いた。
超圧縮された高熱の砲撃が奇妙な音をたてながら魔導王を飲み込んだ。そのままエネルギーの波は建物を破壊し、抉り、消滅させながら相馬と宴の視界から消えていった。
超圧縮砲が放たれた方向を見れば、そこにいたのは茶髪を短く切った少女。その背中には褐色に輝く対の翼が輝いていた。
並の人間ならば跡形なく消滅させれたであろう砲撃だったが、大魔導はまるで堪えていないように先ほどまでの場所から動いてはいない。
大魔導は興味のない瞳で少女を見ていたが、邪魔者は先に消そうと思ったのか、少女の方へ一歩踏み込もうとしたその時―――。
「【ツインブレイズ】!!」
建物の影から飛び出してきた双剣使い―――純白の翼を背に生やしたツヴェルフが両手に持った刃で大魔導を切り刻む。
相馬には劣るが、その速度は常人では視認も難しい。都合七回。それだけの斬撃を繰り出していたツヴェルフだったが手に伝わる感触は、分厚い鋼鉄に刃を振るったのと同じもの。
目障りな蠅を追い払おうと大魔導が舌打ちをして、ツヴェルフに拳を向けようとするが、それを邪魔するように、傍にあった建物の二階の窓ガラスを打ち破って、赤髪の少女が飛び降りてきた。
「ブレイクゥウウウウウウ・ライナァアアアアアアアアア!!」
街に響く甲高い声。だが、それには揺るぎない闘志が込められていた。
赤髪の少女の背に輝くのは緑色のリアーフィン。少女の両手には深緑に染まった籠手がはめられている。
間断なく叩き込まれる嵐の連打。凄まじい音をたてて大魔導を打ち据えるも、連打全てが黄金のオーラに弾かれて届かない。
また増えたのか、と大魔導が呟くのが聞こえたが、そこには三人を脅威と見ていない落胆の響きがあった。
「―――安心しろ、私で最後だ」
「……っ!?」
魔導王の体に纏いつく黄金と似た金色の煌めきが飛翔する。
一直線に、空間を走り抜けていくのはナンバーズ最強のHGS―――ドライ。
金色の翼を背に輝かせながら、三人とは比較にならない超音速で大魔導に突撃し、その場から遥か彼方へと弾き飛ばした。
吹き飛ばされた大魔導は体勢を整えるも、ダメージは一切無い。
「油断するなよ―――アハト。ノイン。ツヴェルフ」
「うん。わかってる」
「任せてくれよ、ドライ姉」
「了解しました。ドライ姉様」
茶髪の少女アハトは三人に守られるように大魔導から最も遠い間合いを保つ。赤髪の少女ノインは両手の手甲をガンとぶつけ合い、気合をいれる。ツヴェルフは双剣を構え感情の無い視線を向けていた。
最も前線に立つのはドライ。かつてアンチナンバーズのⅩⅩⅩ(30)を単騎で撃破した―――ナンバーズの最終兵器。
ナンバーズの数字持ちが四人。大魔導といえど、流石にこのような経験は無い。
大魔導は数字持ちの真意を探る視線で四人を窺うが―――それを好機を見た相馬が宴の手を引っ張りその場から即座に離脱した。
まさか逃亡するとは思っていなかった大魔導から遠ざかっていく相馬の背中。
ここで殺さなければならない。そう決めていた大魔導だったが、まずは四人の数字持ちを片付けなければ、追う事も出来ない。
「―――覚えたぞ、お前の顔を!!お前の魂の色を!!例えどれだけ離れても―――必ずお前は殺す!!」
遠ざかっていく相馬と宴に大魔導の咆哮が聞こえた。深い怨念。憎悪。決意。様々な負の感情が込められたそれは。相馬の背中に鳥肌をたたせるに十分なものであった。
街を駆け抜け、ひたすらに走り続ける。既に遠くなった街から大きな破壊音が聞こえた。まだあそこでは魔導王とナンバーズの数字持ちによる激戦が続けられているのだろう。
ぜぇぜぇと呼吸を乱す相馬を心配そうに見る宴だったが、感じた素朴な質問を父にぶつける。
「おとーさま。何であの人たちと協力して戦わなかったの?」
それが納得できなかった。
あの相馬が怪我をしているとはいえ、即座に逃げの一手を取るなど信じられない。
確かに強い敵だったが、あの四人と協力して戦えばまだ勝ちの目はあったかもしれない。
「……無理だ。例え六人がかりだろうが、アレには勝てん」
「それほどに、強いの?」
「……あの黄金のオーラに包まれている限り、勝ち目はない」
悔し気に表情を歪めた相馬が敗北を認めることに宴は驚いた。
だが、確かにそうだ。力も速度も桁が違ったがそれよりも厄介なのがあの黄金の闘気。如何なる斬撃、打撃、砲撃も無効化する絶対防御をどうにかしない限りは勝利は無い。
二人の間を沈黙が支配する。そして数分たった後相馬は―――。
「……日本へ、行くぞ」
転がるように運命は廻り続ける。
強き者達は高町恭也の運命に従うように集い始める。
全ての始まりにして終わりの地。運命の場所。それは海鳴―――。
四月の下旬に入りかかった週末の土曜日。隔週で土曜日は休みというゆとり教育も吃驚の方針を採っているのが風芽丘学園だ。
参加メンバーの都合が意外にもあっさりとつき、花見をしようと提案した週の土曜日に開催となった。
幸いなことに天気も快晴。高町家の庭に面した縁側に座りながら、高町恭也は雲ひとつ無い空を見上げている。
湯飲みに入ったお茶を啜りながら、恭也は珍しく日向ぼっこを楽しんでいた。
他の高町の住人はというと、桃子とフィアッセは花見に持っていく物を準備中。晶とレンは腕によりをかけて和中のお弁当作り。
なのはは高町家で最も機械に強いためデジカメ等を用意している。そして美由希はというと―――料理を手伝おうとしたため抜け出せないように縛って空き部屋に放り込んでおいたところだ。
それが今さっきの出来事。酷いと思うかもしれないが、これはある意味打倒な対処方法である。
まるで時の流れがゆっくりとなった錯覚。
平和なひと時を恭也は縁側で過ごしていたのだが―――。
……ゾク。
恭也の背中に、畏怖という名の冷たい塊を入れられ、這いずり回る。
煌々と照らす太陽が翳った気がした。世界がまるで日食で暗闇に包まれたかのような幻覚。
原始的で生物が必ず持っている根源的な恐怖。初めて子供が夜の闇へと足を踏みだす、絶望感。
普通の人間ならばこの気配にあてられて気を失うだろう。それなりに腕が立つものであっても、身動きが縛られるだろう。それが例えレンや晶クラスであったとしても―――それほどに桁外れの深き闇の重圧。
深い闇色に蠢く気配を漂わせている【何か】が、恭也の直ぐ後ろの襖を一枚隔てた部屋にいる。
そして、恭也をじっと見つめている。恭也を押し潰してこようとするほど重い視線だった。
この気配にレンも晶も気づいているだろう。それでも、その場から動くことは出来ない。
超圧的な気配で、二人をこの場所に近づけないようにしているのだ。恐らくは―――恭也と話をするために。
それを為している人物。まさかとは思ったが、まさかこんな真昼間に、しかもこんな人気のある場所で【彼女】がでてくるとは、恭也とて想像だにしていない。
何故ならば【彼女】に会うのは実に十年ぶりになるのだから。
「―――お久しぶりです」
「……久しいのう。不破の小倅」
女性の短い言葉には様々な感情が付随していた。
歓喜。安堵。幸福。そして、抑え切れない懐古。随分と懐かしい。滅多に【表】にでることはなかった【人】だったが、恭也に会った時は何故か気にかけてくれていた。
冷静沈着に見える女性ではあったが、実は熱く燃えている魂を宿しているのだと、恭也は知っていた。
「貴女が【表】に出てこれるということは―――既に美由希はそれほどに?」
「そうよのう……信じられんことじゃが、齢十五で可能とする者は長きに渡る御神宗家とて、初めてよ」
「―――そうですか」
ふぅとため息をついた恭也だったが、その吐息には隠しようの無い喜びが混じっていた。
自分が手塩にかけて育ててきた美由希が、【彼女】に賞賛される。これほど嬉しいことも久しくない。
襖の向こうで【彼女】が、コロコロと鈴の鳴るような声で笑っていた。勿論恭也を馬鹿にする笑いではない。含みのある笑い声でもない。
「―――妾が出てきたのはもう一つお主に伝えたいことがあったからよ」
「伝えたいこと、ですか?」
「うむ。お主の身体から古い知り合いの匂いがしたからのう。それが気になって半ば無理矢理にでてきてしもうた」
「……匂いですか」
クンと自分の腕の匂いを嗅いでみるが、そんな香りは全くしない。
基本的に恭也は無臭にちかい。何か他の匂いや他人の匂いが染み付いていたら自分で気づきそうなものだが、首を捻る。
「普通では気づかぬよ。妾とて気づいたのはほんの一瞬。奇跡といっても良い。まさか再び我が姉の匂いをかぐことになるとは」
「……姉?」
これは流石に疑問に思わざるを得ない。
【彼女】が生きていたのは数百年前と聞く。御神流の開祖。御神宗家に宿る者。御神流を体現した者。永全不動八門の頂点。
数多の名で呼ばれ、永全不動八門でも当主かそれに近しい者にしか知られていない【彼女】。
その彼女の【姉】の匂いを感じたという。つまりそれは、数百歳を超えるということだ。そんな相手に会ったかと記憶を辿るが、思い当たる節は無い。
「―――水無月殺音。彼奴は二代目猫神という話は聞いておろう?あ奴の残り香がお主から匂ったわ。そしてそれに伴って我が姉―――初代猫神の香りがしおった」
「初代猫神が……?」
きょとんとした恭也は相変わらず振り返らず、空を見上げながら問い返す。
水無月殺音が十数年前に二代目猫神となったのは知っていたが、初代猫神が【彼女】の姉だという。
一説によれば、確かに初代猫神は天眼と同じく最古参の魔人。六百年近くを生きた怪猫だという。確かにそれならば年月の説明はつくが……。
「疑問がありありとでておるぞ?まぁ、妾と姉は実際には血は繋がっておらぬよ。血の繋がらぬ―――姉。随分と世話になった相手よ」
「それは初耳でした」
「特に語ることでもなかったからのう。だが―――その匂いで姉を思い出して良かった。随分と昔の約束を忘れかけておった」
ふふっと懐かしそうに【彼女】は笑っていた。
昔を思い出していたのだろう。数百年を生きる【彼女】らしい、どことなく疲れたような、嬉しいような何かを滲ませている。
「『天眼にだけは、気をつけろ。決して心を許すな。全力を持って殺しきれ。奴の無限に続く輪廻を【お前】こそが断ち切れ』―――。それこそが【あの人】の残した遺言だったよ」
「遺言ですか?それとあの人?」
【彼女】がいう、遺言。そしてあの人。
それが一体何なのか。何を意味しているのか。全くわけがわからない。
唯一わかることは―――天眼にだけは気をつけろ。こればかりは、言われなくても分かっていることだ。
「我が義理の父にして、我が師。その人の遺言だったのだよ。いつか遠い未来。忘れる頃の年月の果てに、自分と同じ名前を持つ者が現れ、この遺言を語るに相応しい剣士ならば、そう伝えてくれという約束」
「……師!?」
恭也が普段とは異なる素っ頓狂な声をあげてしまった。今日だけで何度驚かされることだろうか。
それもそうだろう。御神宗家に言い伝えられる【彼女】の伝説は、御神流の開祖。歴代最強の御神の剣士。
伝説も、御神宗家の人間達も【彼女】こそがそうだと伝えていた。だというのに、その本人の口から御神流の創始者は自分ではないと言い切ってしまったのだから。
「お主も不思議と思わなかったのかのう?御神流は凡そ六百年も昔に創始されたが―――それほどの昔だというのに【完成】されすぎておる、と」
「……」
それは恭也も何度も考えたことではあった。
御神真刀流小太刀二刀術―――その中の基本である斬、徹、貫。奥義の数々。そして、神速。
それらは数百年に渡る年月で付け加えられたものではなく、その全ては創始された時から存在していた。
御神流はあまりにも完璧すぎたのだ。付け加えることが無いほどに、完全な剣術として六百年前から伝えられてきた。
信じられないことに、【彼女】が一代で考え、御神の一族に継承させたのだ。そんなことが可能なのか、と怪しむこともあったが、【彼女】ならば可能かもしれないと無理矢理納得していたところもあったのだ。
「妾も所詮受け継いだに過ぎぬよ―――我が師【剣の頂に立つ者】から。妾が足したところなどない、完成された御神流。最も我が師は自分のことをくれぐれも内密にするよう妾に何度も言っておったから、仕方なく妾が創始したということにしておったのだよ」
「……アンチナバーズのⅠ……剣の頂に立つ者ですか?」
「ふむ。その通りだよ。お主には隠す必要もあるまいて。絶対最強。絶対無敵。絶対不敗。妾でさえも足元に及ばぬ剣士。神速を超えた神速―――【神域】の世界を認識し、そしてさらに―――」
途中で口をつぐみ、いや、と【彼女】は首を横にふった。
そこから先は語ることを躊躇っているかのように、沈黙を保つ。
「……まぁ、よい。我が父の遺言とは別に妾からも忠告を送ろう。天眼……彼奴にだけは気をつけるのだよ。六百年前から彼奴は何を考えているのかわからん。それに彼奴は―――」
語ることは語り終え、【彼女】の気配が薄れてゆく。
再び眠りにつき、来るべき日に備えて深淵で目覚めの時をまつのだろう。
「―――妾が必ず殺す」
恭也でさえ心胆寒からしめるほどの怖気。
そこに込められた感情は―――六百年という年月の間ひたすらに磨いてきた、完全な殺意。
一切揺らぐことの無い、ぶれることのない、それだけを目的としていき続ける、御神の亡霊。
【彼女】の気配が完璧に消えてなくなる。
十年以上あっていなかった【彼女】に会えて嬉しかったのか―――心が軽い。
既に冷えてしまったが、湯のみに残っているお茶を一気にあおるように飲み干した。
ドタドタと高町家の廊下を走る音が聞こえ、現れたのは晶とレンの二人。
心底驚いた表情で、恭也の前で止まると身振り手振りで伝えようとするが、無駄に終わる。落ち着こうと二人が深呼吸を繰り返す。
「い、今なんか凄い気配してませんでしたか!?」
「お、お師匠―――だ、だ、誰がきとったんですか!?」
「……古い知り合いだ。気にするな」
適当な嘘をつこうかと恭也も思ったが、気分ではなかったので潔く真実を述べておく。
下手に嘘をついて色々と突っ込まれたほうが逆に困る。当然その返答で納得する筈も無い晶とレンだったが、それ以上語ることはないと二人に顔を向けない恭也の背中が語っていた。
それでも晶はさらに恭也にくってかかろうとするが、それをレンが止める。無論ただ止めるだけではなく、自然に鳩尾に一撃を入れている、
本気には程遠い軽い拳底。だが、綺麗に、流れるような一撃は鳩尾に決まり、腹を押さえて床に蹲った。
そんな晶の右足を持ちズリズリとリビングに引っ張っていく。
引き摺られていく晶に少しだけ憐憫を抱きつつも、あっさりと引き下がってくれたレンに感謝する。
「あれ、恭ちゃん。レンと晶が騒いでたけど何かあったの?」
「―――いや、何もない」
襖を開けて縁側に出てきたのは美由希だったが、きっちりと縛っていた縄を見事に解いてきている。
いや、【彼女】が縄抜けをしたのだろう。今の美由希では解けないような縛り方だった筈なのだから。
「……美由希。どうやって縄抜けできたか覚えているか?」
「え?部屋で縄抜けしてたんだけど解けなくて―――気がついたら縄が解けてたからまたやれって言われても厳しいかも」
「―――そうか」
どうやら記憶までは【彼女】と共有していないようだ。
かつての【彼女】の宿主である御神琴絵は、自由自在に【彼女】を呼び出すことを可能とし、【表】【裏】のときの記憶までも共有していた。
つまりはまだまだ美由希は琴絵の域にまで達していないということだろう。恭也の見立てでも、美由希は琴絵に及んではない。
「―――お師匠。お茶どうぞ」
「ああ、すまんな」
気配もなく、レンが湯飲みに湯気が立つほど温かいお茶を淹れて持ってきて、恭也に渡す。
先程縁側に来た時に、恭也の湯飲みが空になっているのを目ざとく見つけていたのだろう。
渡された湯飲みを一啜り。口の中に広がる緑茶の味わいと香り―――うまい、と呟く。それに嬉しそうな笑顔をするレン。ほのぼのとした空間がそこにはあった。
「あ、レン。お弁当の準備もう終わったの?」
「殆どは終わっとるから、もうちょっとで準備完了やで」
「あれ、そうなの?じゃあ、私も残り少しだけど手伝ってく―――」
美由希がそんな不吉な言葉を残し背を向けた瞬間に、レンの横で座っていた筈の恭也の姿が消えうせた。
速いとか、遅いとか、言い表せるような速度ではなく、レンをして恭也の動きに反応することはおろか、視認さえもできなかった。
美由希でも無理だっただろう。レンを置き去りにした恭也は、一呼吸する前に美由希の背後に移動していて、背中に手刀を打ち込んでいた。
声もなくバタリと床に倒れふす美由希だったが、倒れた時に初めてレンは恭也の姿を認識することができ、恭也の体勢から美由希を気絶させたのは誰か理解する。
「お師匠、ナイスです」
「……これで食卓の平和は守られた」
「ほなら、うちは最後に一仕事してきますね」
「ああ。弁当を楽しみにしているぞ」
「任せといてください。今日は腕によりをかけてますから」
レンが縁側から立ち上がり、リビングへと戻っていく。残されたのは恭也と床に倒れている美由希のみ。
恭也は、美由希を抱き上げると、隣の部屋に連れて行き―――念のため落ちていた縄で美由希をもう一度縛りなおして転がしておく。
こうして悲劇は事前に回避されることとなった。
「きょーやー。ちょっと良い?」
「ん。どうした、かーさん?」
縛られている美由希とその横に立っている恭也という奇妙な現場に現れた桃子は一瞬だけ怯むが、何事も無かったかのようにスルーする。
縄を使うなんてマニアックねぇ~という呟きもあったが、恭也は聞かないことにしておいた。
「んー。花見に使う敷物なんだけど……ちょっと小さいかもしれないから買ってきてくれる?」
「ああ、それくらいなら行って来るが。できるだけ早いほうが良いか?」
「そうね……お昼前には着きたいし、申し訳ないんだけどお願いね」
「急いで行って来よう」
恭也は桃子からお金を預かると、高町家から出て商店街を目指す。
太陽の光を浴びながら、恭也は遊歩道を半ば急ぎ足で歩いて行く。
高町家があるここら一帯は住宅街なので、買い物をする場合は商店街にまででていかなければならない。
それほど離れてもいないため、歩いて十分もかからず商店街に到着し、目的の敷物を購買し、店から出た。土曜ということもあり、商店街には多くの通行人が行き交いをしている。
この海鳴は相当に大きい街ではあるが、ショッピングセンターやデパート等が展開していないため、買い物がしたい人は電車で都会にでるか、商店街で買い物をするか二択を迫られる。
海鳴商店街は、寂れているということもなく、今時珍しく繁盛している商店街といえるだろう。大抵の物ならば十分揃えることが可能だ。
それでも若者はお洒落なショッピングセンターといった方がいいのだろう。電車で遠くへ買い物に行く者も少なくは無い。恭也がこの海鳴に来た当時に比べれば、随分と買い物客が少なくなった印象はうける。
少なくなったとはいえ相変わらず通行人は多く、商店街の通路は人によって埋まっているといっても良い。
そんな人混みを器用にすり抜けていく恭也は、あっさりと商店街の出口へと辿り着く。
高町家へと戻ろうと、その場から離れようとしたその時―――。
「あ、そこのおにーさん。ちょっと道聞きたいんだけどいいかな?」
「はい。構いませんが」
声をかけられ返事をした恭也が振り返ってみればそこに居たのは三人の少女。
ナンバーズの数字持ちが一角、ゼクスにズィーベン、ツェーン。年端もいかない少女達全員がスーツ姿をいうのには少しだけ気になるが、それ以外は気にかけることもない―――三人とも一般人とはかけ離れた気配を纏っているを除けば。
尋常ではない気配を持つ三人に、気づかれない程度の注意を放つ。無論恭也はこの三人がナンバーズの数字持ちということに気づいてはいない。
そして、三人とも恭也がフュンフの気にかけている相手ということも知らない。三人の任務はあくまで猫神である水無月殺音の監視であり、恭也の情報までは伝えられていないからだ。最も、フュンフ達と合流すれば、恭也の情報も話にあがるのだろうが。
「いやー良かった良かった。この街にきて待ち合わせ場所が全くわかんなくてねー。凄い困ってたところでさ。あ、この場所に行きたいんだけど」
ゼクスは手に持っていた地図を恭也に近づいていって見せてくる。ほんのりとした香水の匂いが香ってきた。
恭也に対して何の警戒心も示していないゼクスのことが多少心配になってくるが―――兎に角今は道を教えるべきだろうと判断して地図を見てみるが、成る程場所は遠くないが随分とややこしい道順であった。というか、態と判り辛く裏道を通るように書かれているのではないかと疑ってしまった。
できるだけわかりやすく道を教えようと頭の中で道順を整理し始める。
「まずこの商店街を真っ直ぐと突き抜けまして、途中左右に別れますがそこを右へ。暫く真っ直ぐ行きますと右手に喫茶店がありますので、そちらで大丈夫かと思います」
「えっと、ここを真っ直ぐ行って右へ。そこを進んで右手に注意しておけばいいのかな?」
「はい。それで大丈夫です。わからなくなったらまた誰かに聞いていただけたら」
「有難うね、おにーさん。いやーこの街に来て最初に会えたのがおにーさんみたいに良い人でよかった」
「―――感謝する」
にこにこと笑顔を振りまき、恭也の手を握りぶんぶんと激しく振ってくる。
悪意はないようなのでとりあえず抵抗らしい抵抗をせずになすがままだ。ズィーベンも素直に感謝の礼を述べたが、ツェーンだけは何も発さず頭を軽く下げただけだ。どことなく緊張しているところが見受けられた。
ゼクスは、有難うと最後にもう一度残してからズィーベンとツェーンを引き連れて商店街の人混みへと姿を消していった。
商店街の人波に辟易しつつも、歩いて行く三人。はぐれないようにできるだけゆっくりと歩いている三人だったが―――ふとツェーンが呟いた。
「……今の、ナニ?」
「へ?今のってナニって、それこそ何?」
「……主語をしっかりと入れろ、ツェーン」
ゼクスとズィーベンがツェーンの質問に不可思議な顔をして答えた。
その様子に、違和感を感じ取っていたのは自分だけだと気づき、なんでもないとだけ残して沈黙する。
そんなツェーンの様子に疑問が残るが、それよりも今は待ち合わせ場所を探すほうが大切だ。たいして深く追求するでもなく、二人は前を向き歩き始めた。
ゼクスとズィーベンにおくれを取らないように付いていくツェーンだったが、心ここにあらず。そんな気持ちに陥っていた。
―――何故、おかしいと思わないの?
ツェーンは反射的にそういいたかった。
あの男を前に何故そんな平然としていられるのか、ツェーンには理解ができなかった。
心臓が波打ち、膝が笑い出し、立っているのも苦労したほどだ。
頭をさげるのさえも嫌だった。恭也から目を離した瞬間死んでいるのではないか、という恐れが消せれなかったからだ。
結局のところ、ツェーンが名も知らぬ恭也に対して抱いたのは―――恐怖。それ以外には無かった。
少し前に戦ったアンチナンバーズのLXXX(80)等子供にしか見えなかった。戦っていたときは恐ろしい相手だとは思ったが、比べ物にならない脅威。
気配を抑えていた恭也の一端とはいえ、ツェーンはそれを読み取っていた。
水無月殺音の監視に来てみれば、街を歩いていたただの若者が尋常ではない化け物。ツェーンが今回の任務で海鳴にきたことを心底後悔し始めた瞬間だった。
一方三人の背を見送った恭也はまた見知らぬ強者が海鳴に来たことにため息をつく。
強い者と戦うことは嫌いではない。むしろ、敵を恭也は求めているが―――生憎あの三人では恭也の敵には成り得ない。
美由希とならば良い戦いができるだろうが、恭也から見れば全く怖さを感じない。
ただ一人、茶髪の少女―――ツェーンにはどことなく不思議な感じがしたが、まだ恭也に対する脅威とまではいえない相手ではあった。
行きよりも早足で高町家へと帰った恭也を待っていたのは既に準備万端な高町家の面々だ。
集合場所は高町家ではなく、現地集合のため他のメンバーは直接向かっている。といっても、花見をする場所の少し手前で皆集まることにしている。
ワゴンタイプなので高町家の人数でも割と余裕がある。フィアッセが運転席に乗り込み、助手席に桃子。後部座席には恭也と美由希となのは。その後ろに晶とレンという配置だ。
なのはは久しぶりの家族全員での外出ということもあり、終始にこにこと笑顔を振りまいていた。
晶とレンもいつも通りで、手がでる喧嘩には発展しなかったが、口喧嘩を行うのはもはや日常茶飯事。そして、それをなのはに止められるのもまた、高町家の日常だ。口喧嘩では晶とレンはほぼ互角というのもまた、晶にとっては切なくなる事実であるが。
花見をする場所として神崎那美に紹介されたのは、以外にもそれほど離れてはいない場所であった。
国守山という場所の中腹。私有地のため一般人は立ち入り禁止となっている地帯ではあるが、絶好の花見場所として海鳴では知られている。
車で十数分も移動すると、国守山に到着。途中まで道路も整備されているため、そのまま車で登っていく。
すると大きな駐車場に辿り着き、車を止める。
「おーい、高町ー。こっちだ」
車から降りて、荷物を出していると恭也を呼ぶ声が聞こえた。
声がした方向を見てみれば、赤星勇吾が手を振って近づいてきている。振っていない手の方には風呂敷に包まれた大きな寿司桶を持っている。
差し入れなのだろう。赤星の両親に感謝しつつ、恭也も軽く手を挙げて答えた。
「お、晶ー。待たせた?」
「レンちゃん、お待たせー」
続々と集まってくる参加メンバー。
その時、一台の高級自動車が駐車場に滑り込むようにして停車してきた。
降りてきたのは月村忍とスーツ姿の女性ノエル。恭也に向かって一礼し、皆に忍のことを頼むと再度車に乗り込み去っていく。
全員が揃った所で、那美に教えられた場所へと緩やかな坂を上っていき―――多くの桜が花を咲かせる美しい空間に辿り着いた。
数十を超える桜の木々が、周囲を埋め尽くす。風が吹き、花びらが舞う光景が幻想的で、全員の時を止めるほどであった。
「ええっと……ここらで花見をしましょうか」
那美の発言で、あまりの美しさに息を呑んでいた皆が動き出す。
敷物を敷き、レンと晶は自分達が作った弁当を広げる。桃子とフィアッセはデザートを、赤星は持ってきた寿司桶を置く。
他のメンバーも各々が持ち寄ってきた食べ物飲み物を用意して―――桃子の音頭で花見は始まった。
「無礼講だし、桃子さん一番に歌っちゃうわよー!!」
「おぉ!?桃子ー頑張ってー!!」
「最近美由希ちゃん、剣のほうはどうだい?今度良かったら手合わせ願いたいな」
「あ、こちらこそ是非お願いします。勇吾さん」
「この出し巻きちょっと味付け濃いんとちゃう?」
「なんだよー緑亀。お前の作ったエビチリだって辛すぎじゃねーか」
「あーもう、レンちゃん。ほどほどにしてね」
「晶も、あんまり喧嘩するとなのはちゃんに怒られるよ」
「相変わらずあの二人の御飯美味しいわね……なかなかの強敵ね。私も料理の腕を磨かないと……」
「あ、あはは。アリサちゃんも本気モード入っちゃってるのね」
色々と混沌とした花見が始まる一方、被害を受けぬ様にと、隅っこでちびちびとやっているのは三人。
恭也と忍、そして那美だ。ちびちびといっても一応は三人とも未成年なのでお酒を飲でいるわけではない。三人の紙コップに入っているのはちゃんとした烏龍茶である。
「今日は誘ってくれて有難うね、高町君」
「いや、こちらこそ来てくれて嬉しい。人数は多いほうが楽しいしな」
二人とも落ち着いた雰囲気で、とても高校三年生には見えない。
というか、実際に恭也は一年留年しているため、高校三年生ではないのだが。
それでも、二人とも随分と大人びている。特に恭也は老成した雰囲気。大人びた容姿。二十代後半でも恐らく通るだろう。
忍はそこまで大人に見られないにしても、深窓の令嬢といった雰囲気と容姿。二人並べば誰もが羨むカップルで見られても可笑しくは無い。
淡々と、だがどこか楽しそうな二人の様子に、那美がおずおずと口を挟む。
「あははー。何か高町先輩と月村先輩って似てますね」
「そう、か?」
「そう、かな?」
似たような反応をする二人は、互いの返事を聞いて顔を見合わせる。
意図していないというのに、返事がかぶっている。言われてみれば、と恭也は忍のプライベートのことはわからないので取り合えず教室での姿を思い浮かべる。
授業中は寝ている。友達が居ない。無口。大人っぽい雰囲気。その他色々。
「……確かに、そうだった」
思い返せば恭也と忍の二人は共通点が多い。
だからだろうか、恭也が忍のことを放っておけなかったのは。忍も那美に改めて指摘されて納得したのか、一人頷いている。
「二人とも知り合ってからどれくらいのお付き合いなんですか?」
「えーと……私と高町君は―――」
「知り合ってから二十年ほどでしょうか」
「に、にじゅうねんですかー!?」
行き成りとんでも発言をかます恭也に驚いた那美が叫び声をあげる。
勿論忍も驚いたように恭也へと視線を送るが、恭也は那美に見えないように軽く片目をつぶって合図をする。
それだけで忍ははっと何かに気づき、恭也の意図を読み取ることに成功した。口元に気づかぬくらいの笑みを僅かに浮かべ、恭也に続く。
「実は私たち訳有りで留年しててね。本当は歳は二十を超えているの」
「ええ、そうなんですか?」
「はい。昔からの幼馴染でして。二人で色々と海外や日本を放浪していたことがあって、おかげで未だ二十を超えても高校生をやっています」
「流石に成人しても高校通うのは恥ずかしくて、クラスの人にも話しかけにくくて友達もいないの」
「大変なんですね……」
恭也と忍の連携攻撃をあっさりと信用する那美。
最近高町家の人間というか、なのはがしっかりとしてきたためからかえなくなってしまった恭也にとって、ここまで話を頭から信じてくれる那美は貴重な知り合いとなった。
「ちょっと、恭ちゃん……那美さんの人が良いからってあんまり嘘は教えないでよ?」
「……ちぃ」
「え?え?え?お二人の話って嘘だったんですかー!?」
美由希の突っ込みに恭也は舌打ち。那美は恭也と忍の話が作り話だったと知ると、大声をあげて本気で驚いていた。
二人の話を全く疑っていなかった那美にとっては青天の霹靂。
「あはは。ばれちゃったかー。でも、神咲さんから見たら私も二十過ぎに見えちゃったってことだよね。なかなか複雑な気持ちだね」
「あ、あのあの……月村先輩はとっても大人っぽく見えて……でも、まだ高校生でも全然通ります!!」
演技で寂しそうな表情をする那美が慌てて、忍をフォローする。
といっても、高校三年生なので、高校生で通ると言われても全くフォローになっていないのにパニックになっている那美は気づいていない。
「ふふ。冗談だよ、神崎さん。慌ててる神崎さんは―――可愛いね」
「ええええー!?」
先ほどの翳りのある笑みとは百八十度異なる妖艶ともいえる笑みを浮かべて、忍が怪しく笑う。
可愛いと言われて、頬を染めながら何度目になる驚きの声を上げた。
「で、でしたら二十を超えているのは高町先輩だけなんですよね?」
「……」
少しだけショックを受ける恭也であった。
確かに大人びて見えるとはいわれるが、恭也とてまだ十八歳。どうやら那美にとっては恭也は余裕の二十越えに見られるようだ。
誤解を解きつつ、四人で会話を楽しんでいると恭也の視界の端に見慣れた人物が映る。といっても、何時もとは異なる服装なので、一瞬誰かわからなかった。
普段の薄汚れたジャージ姿とは別で、そこまで汚れていない服装。といっても、ジャージなのだが。
家なき子名無しが、桜の木の後ろからじっと花見をしているこちらを覗っていたのだ。いや、正確には恭也を凝視している。
気づかないふりをすることに決めた恭也だったが、視線は逸れることなく突き刺さったままだ。
数分も無視を続けていたが、まだ名無しは恭也を見続けている。さすがに少し怖くなってきた恭也だったが、その視線に那美がようやく気付く。
「あれ、名無しさんですね」
「知り合いですか!?」
本気で驚く恭也に、那美は朗らかに頷く。
家なき子である名無しと那美に一体どんな接点があるのか、本気で推測できない恭也が珍しく考え込む。
だが結局思い当たる節はなく、考えることを放棄する恭也だった。
「実は私、八束神社で巫女のアルバイトをしてまして……それで何度か名無しさんに会ったことがありまして」
「八束神社、ですか」
「はい。大分前から働かせてもらってるんですけど。良かったら今度来てくださいね」
向日葵のような笑顔の那美に、何時もいってますとは即座にいえず、素直に頷いておく。
恭也達が鍛錬で八束神社を使用するのは夜が多いため、これまでは那美に会えなかったのだろう。確かに昼間にあの神社を利用したことはなかった。
そういえば、八束神社には可愛い巫女さんがいるという噂を最近きいていたが、それは那美のことだったのかと恭也は納得した。
那美の見かけは、それこそ綺麗どころが集まる高町ファミリーの中でも負けず劣らず可愛らしい。美人というよりは、可愛いというほうがしっくりくるタイプだ。
そんな話をしているといつの間にか名無しからの視線がなくなっているのに気づき、顔を向けてみれば桜の影に隠れていたはずの名無しの姿が消えている。
ふと遠くを見ると、とぼとぼと歩き去っていく後姿。どことなく哀愁が漂っている。次会った時には少しだけ優しくしようと恭也は決めた。
そんなこんなでいつの間にかお弁当やデザートも無くなり、宴もたけなわ。
ゴミだけは気を付けないといけないので、皆で片付けをしっかりして、車が停めてある駐車場にまで戻っていく。
レンと晶の友達は自転車できていたようで、そのまま帰宅していった。ここから其々の家までそんなにかからないという。荷物があるから高町家も車で来たが、たしかに恭也や美由希ならば走ってでも来れる距離である。
赤星は原付できていたので、挨拶をして実家の方に戻ると言い残して去って行った。実家が寿司屋なので、今日はこれから家業を手伝うとか。
那美はさざなみ寮というお世話になっている寮に帰り、高町家の面々も車で帰宅していき、残ったのは迎えの車待ちである忍と―――それに付き合っている恭也の二人だけであった。
このままここで待つのも手持無沙汰ということもあり、恭也と忍はぶらぶらと歩き始める。
坂を下り、国守山から降りると、ゆっくりと海鳴駅を目指す。忍がそこで迎えの車と待ち合わせることにしたらしい。
「今日は無理に誘ってすまなかった」
「ううん。楽しかったよ―――こんなに楽しくていいのかな、って思うくらいに」
「―――そうか」
心の底からそう思っているのだろう。
少なくとも恭也は忍の言葉に嘘を感じることはできなかった。
二人の間にしばしの静寂が満ちる。しかし、それは居心地が悪い静寂ではない。
一年二年のと一緒のクラスだったものの、喋ることはそれほど多くなく、今年になってから随分と話すようにはなった二人。
付き合いの長さだけを見れば、短いのかもしれない。だけど、他人を寄せ付けない二人は不思議とうまが合った。友達とはきっとこういうものなのだろう。恭也と忍は言葉には出さないが、自然とそんな思いが浮かび上がってきていた。
道と街路樹しかなかなかった歩道も次第に家が増えていき、家から店々。海鳴駅に近づくに従って人の流れも多くなり段々と都会になってくる。
実際に歩いた時間は三十分もなかっただろう。意外にも駅まで早くつくことができた。それも随分とゆっくり歩いたにもかかわらず。
土曜の夕方近くということもあいまって、人通りは多い。それに車も普段より遥かに多く行き交いしていた。恭也と忍がロータリーに到着して待っている車のなかで、ノエルが迎えに来た車を探していたが、どうやら早めに到着したようでロータリーで停めてある車の中でも前方に停車していたようだ。
そちらに行くには遠くまで迂回をするか、直ぐ近くにある歩道橋を渡るかの二択である。道路を渡ろうにも車の交通が多く、渡ることは危険だ。
仕方なく傍にある歩道橋を利用することにした二人は歩道橋を上り、渡っていく。その途中で忍の携帯電話が音を鳴らす。
「あ、さくらからか。久しぶりかも」
当然知り合いからだったようで、着信画面を見て忍が微笑む。
どうやら仲の良い相手なのだろう。かすかに見せる笑顔もどことなく柔らかい。
「ごめんね、高町君。少しでてもいいかな?」
「ああ。別に構わないさ」
申し訳なさそうに謝って来る忍に首を振って答える。
電話の邪魔をしないために、先に歩道橋をおりる恭也。傍にいては込み入った話も出来ないだろうと判断したからだ。
階段の下で忍を待つ恭也の耳に大きく話しているわけではないが忍の電話の声も僅かに入ってくる。意識的にその声を遮断する恭也だったが、少しだけ妙な気配を感じた。
敵意というべきだろうか。負の感情の塊のような嫌な気配。しかし、気配はあまりにも薄い。気づくのが一瞬だが遅れた。その標的は恭也ではなく―――忍なのもそれに拍車をかけただろう。
「―――あっ」
歩道橋の階段の上。そこで電話が終わったのか通話を切ったばかりの忍が驚きの声をあげ、足を滑らせ、そこから墜落する姿が見える。その忍の姿がスローモーションにも見えた。
このまま落ちれば怪我をするのは間違いなく、下手をすれば大怪我を負うのは間違いない状況だ。
普通の人間ならばあまりに突然のことのため反応できず身動きとれなかっただろうが、恭也の反応は素早かった。
足を滑らせる前にダンッと激しい音をたてて地面を蹴りつける。
恭也自身も歩道橋の階段のすぐそばにいたこともあっただろう。忍が転がり落ちるよりなおはやく、階段の中腹までかけあがり、落ちる前の忍を受け止めた。
女性とはいえ人間一人の衝撃は軽いものではなく、仰け反りそうにはなったがその場から一歩も動かずに耐える恭也。
「大丈夫、か?」
「あ、あれ……?」
激しい痛みを予想して目をつぶっていた忍はいつまでたっても痛みが来ないのを不思議におもったところ、あけてみれば視界一杯に広がるのは厚い胸板。
少し視線を上げてみると、恭也と視線があった。これまでで一番近い恭也の顔に、固まってしまう忍だったが、心配する恭也の言葉に我を取り戻し、慌てて階段に足をつけて離れた。珍しいことに忍の顔がさぁっと朱に染まる。
また足を踏み筈さないように、二人は階段からおりていく。幸いに歩道橋を利用している人間はおらず、騒ぎになることもなかった。
「あの―――有難う」
「いや、気にするな」
おずおずと礼を述べる忍にたいしたことでもないというように答えた恭也だったが、先程の足を滑らせた光景を思い出す。
恭也の位置からでは忍が足を滑らせたとしかみえなかった。だが、違う。あの時、確かに誰かが忍の背を押したのだ。恐らくは、月村安次郎の手の者だろうか。
油断していなかったら嘘になるが、まさか人の多いこんな駅前で強引な手段にでるとは思ってもいなかった。切羽詰ってきているのか、嫌な予感が恭也を支配してくる。
もしかしたら、これからはこれ以上のことも行ってくるかもしれない。大怪我程度で済まない事態に陥ってくるかもしれない。
身内の出来事だからといって恭也とて黙ってみているのにも―――限界がある。
「一度目は、四月五日の夜の海鳴駅。二度目は始業式の日の夜の暴走車。三度目は―――今。一度や二度ならば偶然で済ませれるかもしれないが、三度目はもはや必然だ」
「……え?」
「月村。誰かに狙われているな?」
「……っ!!」
確信を持った恭也の問いに、忍が驚きを隠せず目を大きく見開いた。
真剣な表情と声色で、嘘を許さない強さが恭也の言葉には込められている。
「なんの……こと?」
「とぼけなくてもいい。俺が知る限りだけで、月村が危害を加えられそうになったことが三度ある。実際にはもっと多いんじゃないか?」
「……」
「それで、だ。一つ提案がある。俺を雇わないか?」
「高町君を雇う?」
恭也の意外すぎる発言に忍がその言葉を繰り返す。
それに力強く頷き、真剣な表情で続ける。
「俺の父は護衛の仕事をしていたんだが、その時のツテで俺も時々護衛の仕事をまわされているんだ。自分で言うのもなんだがそれなりに、できると自負はしている。もし良かったら月村の手助けをさせて欲しい」
「でも……」
「不安なのもわかる。だけど―――月村が良かったら俺を頼ってくれたら嬉しい」
「本当に、いいの?」
「俺から言い出したことだ。遠慮はしないでくれ」
忍は恭也の提案に対して返事に窮していた。
恭也の推測どおり、忍は度々身を狙われている。去年までは正直な話それほど多くはなかったが、四月に入ってからその数は右肩上がりで増えていっている。
犯人は分かっている。犯人の狙いも分かってはいる。それでも相手は確たる証拠も残していないため法的手段に訴えることも出来ない。
命を奪うことが目的ではなく、あくまで脅し目的。だとしても、仮に恭也に護衛を頼んだとしても、危険なことに変わりはない。
恭也が嘘をつくことはないだろう。しかもこんな真面目な雰囲気の時に。本人の言うとおり、それなりに強いのかもしれないが、相手が悪いのではと忍は考える。
すぐに拒否できなかったのは簡単な話だ。月村忍は幼い頃に両親と死に別れ、一人で過ごしてきた。ノエルという侍従ができてかわったとはいえ、それでも友に、人の温もりに飢えていた。
ここで恭也の申し出を断ることは、忍には出来なかった。恭也とともにいられることが―――忍にとって何よりも嬉しかったのだ。
「でも、雇うのならお金払わないとね。幾ら位必要かな?」
「そうだな。昼御飯を一回奢ってくれればいいさ」
「……安くない?」
「【友達】のためだ。高いくらいさ」
「―――っありが、とう」
喉が詰まった。目頭が熱い。涙がでそうになるのを必死に抑える。
どれくらいぶりになるだろう。月村忍は―――静かに、深く、神と恭也に感謝した。