「っせい!!」
「……」
美由希の気合とともに両者の小太刀が激突し、甲高い音が木々の間で反響した。
花見の翌日、日曜日ということもあり朝から昼間にかけて八束神社の裏手の森で鍛錬に励む恭也と美由希。
二人の鍛錬を見ている者がいたら首を捻ったかもしれない。美由希は小太刀の真剣を二刀使っているが、恭也は木刀。しかも一本だけしか使っていない。
見ている者が不思議に思うかもしれないが、両者の間では当たり前のことだった。
いつ頃からだったろうか。そろそろ二年位になるはずだが、恭也は実戦を想定した試合にも関わらず真剣を使わなくなったのだ。それに対して美由希には小太刀を二本使用させている。
一度その理由を美由希は問いただしたことがあったが、恭也の返答としては―――抜かせてみせろ。それだけだった。
それ以来美由希の目標は、恭也に二刀を使わせることになったが、一度として目標には至っていない。
「っせぇあ!!」
美由希は小太刀を真っ向から振り下ろす。恭也はその一撃を半身に身体を開いてかわす。
それを追って、もう一方を水平に振るうと、短い呼吸音とともに木刀を一閃。小太刀を弾き返す。びりっとした痺れが美由希の腕にはしる。
恭也の徹は理想に近い。まだ未熟な美由希とは雲泥の差。だというのに、美由希の手には軽い痺れがはしるていどというのはどう見てもおかしい。
徹を叩き込まれておよそ二年。それはいつまでたってもかわらなかった。つまり、恭也は敢えて美由希と同じ位の完成度で徹をこめているということだ。その妙技にもはや舌を巻くしかない。
完全に美由希の実力を見切っているからこそできる芸当であり、己の師の実力の底知れなさを再確認できる瞬間でもある。
手に痺れを残しつつも、猛然と美由希は突撃し、渾身の片手突きを見舞った。
木刀で切っ先を払い落としながら避ける。美由希は恭也の横を潜り抜けてから身体を捻り、逆袈裟に斬り上げた。
その軌道を見切っているのか恭也は冷静に半歩だけ動き空振りにさせる。そして、美由希の間合いへと踏み込んでくる。
危険を感じつつも、後方へ跳びながら牽制のために、一振り。
踏み込んでくると思っていた恭也は、一旦足を止め、牽制の一撃をやり過ごし、それと同時に打ち下ろし。
威力が十二分にのった恭也の振り下ろしを一刀では防ぎきれないと判断して両手の小太刀で防御に回る。
巨大な鉄の塊を受け止めたかのような錯覚。両手の自由を奪うほどの攻撃に唇を噛みながら耐える。
だが、ズンという音と衝撃が鳩尾に叩き込まれる。
恭也の斬撃を受け止めることには成功したが、右足が容赦なく鳩尾を蹴り貫いていたらしい。
呼吸ができず、苦しみが支配する。全身から力が抜けていく。
木刀で小太刀を巻き込むように押さえつけ、上段の回し蹴りで美由希の側頭部を捉えた。美由希がごろごろと地面を転がっていき動かなくなる。
無論、恭也とて手加減をしている。もし、していなかったら今頃美由希は息をしていないだろう。美由希が気を失う程度の回し蹴りに抑えていた。
恭也は傍にあった大きめの石に腰を下ろし先程の戦いを反芻する。
美由希は自覚していないようだが、随分と腕を上げていた。それは毎回試合をしている恭也だからこそわかることだ。
少なくとも恭也の知る限りこの海鳴で美由希に勝てない敵は―――巻島十蔵。水無月殺音。水無月冥。天守翼くらいだろう。
それ以外に勝ちを拾うのに難しい相手といえば、如月紅葉。鬼頭水面。天守翔。その他の永全不動八門。ナンバーズの数字持ち。リスティ・槙原。
「……結構いる、な」
改めて考えると海鳴がどれだけ危険度が高い街なのかはっきりと認識できた。
これだけの人数が戦いを始めたら海鳴が滅びてしまうのではないかと馬鹿げた想像をしたが、それがありえそうで怖い。
「お、お前らいつもこんな鍛錬をしているのか?」
震える声で背後から現れたのは名無しだった。美由希と戦ってる最中に、居るのは気配でわかっていたので放置していたが今回は声をかけてきたようだ。
あまり人に見せるものではないが、既に何年前かに鍛錬している所は見られていたので今更どうこうということはない。
美由希との実戦を想定した試合を見られたのは初めてかもしれないが。
「ええ。何かおかしいところでも?」
「……い、いやなんでもねぇ」
自分達がおこなっている鍛錬、試合がどれだけ常軌を逸しているのか理解していない恭也が何の疑問もなく問い返す。
それに呑まれた名無しは言葉もなく、肯定するしかなかった。
恭也達はなんて貪欲なのか、と名無しは思う。恭也の美由希もたかが数十年しか生きれぬ人の子だ。やりたいこと、やらなければならないことなど幾らでもあるだろう。
時間は幾らあってもたりない。だというのに、誰かに誇るためでもなく修練にすべてを費やしている。
きっと二人にはそうしなければならない確固たる信念があるのだろう。曲がらず、折れず、朽ちずの鉄の意志。
「お前達みたいな意思があれば……俺も戦えたんだろうな」
名無しの皺だらけの顔に自嘲の笑みが浮かんだ。
友を殺され、我が子同然の者達を目の前で皆殺しにされ、己も半死半生にされたにも関わらず、復讐するでもなく日本のこんな辺境で隠れ過ごしている。
こんな自分をみたらきっと先に死んだ者達は笑うだろうか。いや、憎むかもしれない。
それでも―――あの時に刻み込まれた恐怖は今でも心と身体を支配している。
寝れば夢で思い出す。阿鼻叫喚の地獄絵図を。笑いながら虐殺を続ける狂気と狂喜を撒き散らした破壊と死の化身。
アンチナンバーズのⅦ。【不死身】の―――百鬼夜行。
「ところで、名無しさんはアンチナンバーズにお詳しいようですが……どちらの組織に属していたのですか?」
「……組織ってほどじゃねーよ。俺が居たのはアンチナンバーズだ。あそこにいた奴らは、群れるなんてことはなかった。ナンバーズとは違ってな」
「アンチナンバーズですか……」
「ああ。昔から人間、夜の一族。どちらもが理不尽に虐げられるのが許せなかった。偽善なんだろうがな。力にものをいわせてどちらとも戦っていたら何時の間にかアンチナンバーズ入りさ」
名無しは若い頃から無意味な殺しはしてこなかった。どうしても必要に迫られた時のみ命を奪い、世の中の理不尽と戦ってきたのだ。
確かに恭也から見て、名無しは意味なく人を殺せるようなタイプには見えなかった。そんな名無しの説明に少なからず納得できる。
「お聞きしたいのですが、伝承級。そう呼ばれる化け物達の情報を同じアンチナンバーズに属していた名無しさんならば詳しいことは知りませんか?」
「……俺はもう、数年も前に逃げ出したからな。最近のことはわからないが、それでもよかったら教えてやるよ」
「それでも構いません」
恭也が迷い無く頷くのを見た名無しは、精神を落ち着けるために煙草を取り出し火をつける。
煙を吐き出し、律儀にも携帯灰皿に灰を捨てる。意外にも礼儀正しかった。過去を思い出すように遠い目をする名無し。そして、ゆっくりと語り始めた。
「ナンバーⅠの剣の頂に立つ者。こいつは正直よくわからん。なんでも六百年前と三百年前に姿を現したって話だ。その後数十年も経たず姿を消したらしいが。ただし、剣を使わせたら右に出るものはいなかったらしいぜ。あの天眼が何十回も戦っても決着をつけれなかったとか。まぁ、よくわからん」
「六百年前と三百年前?」
「ああ。その二度しかナンバーⅠの座は埋まっていない。別人だったという噂もあったが、あの天眼が認めてしまったんだから仕方ないだろう。で、ナンバーⅡの天眼。こいつはまともそうに見えるが、一番いかれているのは間違いない。外見上は冷静沈着―――冷静にぶっ壊れてやがる。自分の望みのためなら世界を滅ぼしたってなんとも思わない、いかれにいかれた狂人。死神を体現した魔人だ」
天眼の名前が出た途端、恭也の眉がぴくりと動く。
五年前に恭也の膝を砕いた張本人。そして、予言を残して去っていった魔人。
「ナンバーⅢの執行者……こいつはまぁ、ろくでもない奴だ。人類の数少ない味方だとか言われてるが現在行方不明だってな。まともな奴ではない。卑怯者で臆病者だ。お前が気にする相手でもねーぞ。次は、ナンバーⅣの魔導王か……こいつもよくわからん奴だった。昔から街ごと人間を皆殺しにしていたことがよくあった。殺した人間は数万、或いは十万をこえるかもな。執行者と魔女とその他の奴らの手によって封印されたのが数年前だ」
伝承級の中ではまだまともと称される執行者に対して何故か厳しい名無しに、首を捻る。
何か恨みでもあるのだろうか。名無しの言葉には深い怨恨が乗せられていた。
「ナンバーⅤの鬼王。こいつは本当かどうか不明だが、夜の一族で最も古い時代から生きているらしい。本人曰く千年の時を生きた鬼だってよ。千年前は随分と派手にやらかしていたみたいだが、今はもう自分の領地からでてこないみたいだ。場所は……確かオーエヤマだかなんだか」
「―――大江山、ですか」
「ああ、そうだ。それだ。大江山。そこが自分の領地みたいだぞ」
オーエヤマという怪しい発音の単語を聞いて恭也が言い直すと、名無しが得心がいったと相槌を打つ。
大江山。鬼王。千年前から存在している。
ばらばらのパズルのピースがかみ合わさっていく。暑くも無いのに汗が頬を伝った。洒落にならないどころの相手ではない。
最悪を通り越した正真正銘の化け物。怪物。鬼を統べる王。その呼称は決して大袈裟なものではなく、文字通りの意味なのだ。外国人である名無しにとってはピンとこない相手なのかもしれないが、恭也にとっては心当たりがありすぎる。
「ナンバーⅥは【人形遣い】……いや、今は違うのか。二年だか三年だか前に別の奴に変わったらしいな。それじゃあ、俺にはわからん。とばすぞ……ナンバーⅦが百鬼夜行、だ」
その名前を出した途端、名無しの身体が目に見えてガクガクと震え始めた。
思い出すだけでも 辛い。そんな名無しの様子に恭也は首を横に振り、説明はいらないと付け加えた。
ほっとした様子の名無し。一体どれほどの恐怖を刻まれたというのか。いや、確かに目の前でわが子同然の者達をなぶり殺しにされたならば名無しのようになってもおかしくはないのかもしれない。
「で、次は【猫神】だ。今は水無月殺音に代替わりしたか。十年近く前から実質あいつが猫神みたいな扱いだったからな……。先日一目見て分かったぜ……あいつは尋常じゃねぇ。単純な戦闘能力ならば百鬼夜行を凌駕するかもしれん。流石は百年も生きずして、初代を超えたと噂されるだけはある。俺の全盛期でも、多分勝てん」
それはそうだろう。もしここに百人いたら百人がそう答えただろう。仮にも伝承級。しかも、六百年を生きた怪猫の猫神より強いと自分で述べたというのに、己の全盛期より強いと答えるとは一体どれだけ自分に自信を持っているのか。
今では恐怖に震えて戦うことすらできない名無しの言葉に、恭也は意外にも否定はせずに殺音のことを聞いている。もしかしたら単純に名無しの最後のほうの台詞は聞いていなかっただけかもしれない。
「最後がナンバーⅨの魔女。こいつは言っちまえば……引きこもりだな。魔術の研究に命をかけているような魔術馬鹿だ。研究所から出ること自体が珍しい。人間にも夜の一族にも興味はなく、自分の生涯は魔術を極めるためだけにあると本気で思っている、別の意味で基地外だ」
「話を聞く限り思ったより……変な輩が多いですね」
「……まぁ、そうだな。実際に直接人間世界に手を出しているのは封印された魔導王を除けば、百鬼夜行くらいか……猫神はここ十年暗殺業は控えてたみたいだしな」
「兎も角、お話を聞かせていただき有難うございました。色々と参考になります」
「へへ……一杯感謝してくれよ?」
私情たっぷりの話ではあったが、意外にも詳しかった名無しに感謝を忘れない。
この前無視してしまったため、次ぎ会ったら優しくしようと思っていた恭也は、とりあえず駄目元でふった話題が思いのほか聞ける話だったことに内心驚いていた。
もしかしたら、名無しはアンチナンバーズでもそれなりに高い数字を与えられていたのだろうか、といぶかしむ。
「ところで名無しさんはアンチナンバーズではどの位の数字を与えられていたのですか?」
「……まぁ、口に出すのも恥ずかしいナンバーさ。坊主が気にするほどでもない」
駄目元で聞いてみたが、どうやら名無しは話したがらないようで、結局教えてはもらえなかった。
隠されると余計にきになるのが人というものだが、今度は口を貝の如くつむって話そうとはしない心構えだ。
聞き出すことを諦めた恭也は未だ気を失っている美由希に向き直った。思ったより強く蹴りつけてしまったのか、目を覚ます様子が見受けられない。
先ほどの鬼王の時に流した汗とは別の意味で汗が流れた。
「ぅぅ……」
「!!」
焦った途端に、美由希が呻き声をあげる。ふぅ、と恭也からは安堵のため息が漏れた。
美由希の力量があがってきたため手加減もかなり難しくなってきている。
単純に美由希を倒すだけならば、恭也には容易い。だが、これはあくまで実践を想定した試合。美由希の力を最大限にまで引き出したうえで戦わねばその意味がない。
「あいたた……師範代、洒落にならないくらい痛かったんだけど」
「まぁ、すまん。少しだけ力を入れすぎた」
素直に謝る恭也に、美由希が変なものを見る目にかわる。素直すぎる恭也が気味が悪い。
普段だったら謝るどころか、避けない美由希が悪いと言い返してくるだろうに。
ふと隣を見ると、そこには先ほどまでいたはずの名無しの姿が無くなっていた。美由希が目を覚ましたから姿を消したのだろうが、見かけによらないフットワークの軽さに驚きを隠せない。
「今日はこれで鍛錬は終わりだ。昼過ぎから予定もあるしな」
「あ、そうだったね。月村さんの家にお呼ばれしてるんだっけ。なのは楽しみにしてたよ」
「ああ。俺も月村の家には行ったことがないから楽しみだ」
忍から昨日話を聞いたところによると基本的に家にいる時は悪戯電話程度のことしかないらしい。流石に家にまで押しかけて脅迫をすると色々と不味いことになるからだろう。
外にいるときには昨日のようなことは多い。今まではなんとか怪我もなく過ごせれていたが、これからもそうとは限らない。
そのため、外にいる時―――主に学校からノエルの車での迎えが来るまでが恭也が護衛する時間となるのだが、できればもしものことを考えて忍の家の様子も見ておきたいと思っていた。
渡りに船というべきか、それなら日曜日に皆で遊びに来ればいいとお誘いを受けれたので、本日高町家の面々、恭也となのはと晶とレンの四人がお邪魔することになった。
美由希が行かないのは決していじめられているわけではなく、神咲那美のお世話になっているさざなみ寮に呼ばれているためだからだ。
美由希は小太刀を鞘におさめ、袋に隠す。
恭也は木刀なのでごまかしはきくだろうが、もし仮に美由希が職務質問をされて、小太刀を所有しているのがばれたら銃刀法違反で間違いなく捕まるだろう。
八束神社の裏手の森から表へと回ると、昼間ということもあり那美が巫女服姿で境内を掃き掃除をしている所だった。
恭也と美由希の姿に気づいた那美は、笑顔で二人にかけよってこようとして―――足を引っ掛けてすっ転んだ。
べちゃという嫌な音をたてて顔をおもいっきり地面に打つ那美。あまりに突然すぎてさしものの恭也といえど助けることは不可能だった。まさか何もないところで転ぶとは予想もしていない。
「大丈夫ですか、那美さん?」
「だ、大丈夫です。慣れてますので……」
慣れてるのか!?と内心驚愕しつつ、恭也も那美の手をとって立ち上がらせる。美由希は土埃で汚れた巫女服を手で払い、綺麗にしていた。
そんな二人に申し訳なさそうに何度も頭を下げる。その時妙な視線を感じた恭也は、横手に広がる森の方へと注意を払うと、視線の送り主が何なのか気づいた。
森の手前。木々や雑草が生い茂る場所に、緑とは違った色合いの動物がこちらを覗っていた。
金色にも見える、黄色の毛に全身を覆われた子狐。つぶらな瞳。本能的に守りたくなる可愛らしさ。
「あ、珍しいですね。久遠が私以外の人がいる時に姿を現すなんて」
「久遠、ですか」
「はい。私の友達なんです」
恭也の視線に気づいたのか、那美が子狐を見て名前を呼ぶ。
久遠と聞こえていたのだろう。ぴくりと子狐は反応をするも、じっと警戒心を露わにして三人を見つめたまま近寄ってこようとしない。
美由希もようやく久遠の存在に気づき、うわぁと目を輝かせる。こう見えても小動物が大好きだったりするのだ。
「おいでーおいでー怖くないよー」
美由希が久遠に呼びかけるも、反応なし。子狐の視線は―――不思議と恭也に固定されていた。
どうしても触りたい欲求に耐えかねた美由希が一歩久遠に向かって踏み込んだのが、失敗だったのだろうか。
びくっと大袈裟に反応すると、そのまま森の中へと逃げ去っていく。
「うう……触りたかった……もふもふ」
「あはは。久遠は警戒心が強いですから……慣れるまで暫くかかるかもしれません」
逃げられたことに肩を落とす美由希だったが、那美のフォローによって立ち直り、次こそはと意気込む。
確かに恭也としてもあのもふもふとした子狐には触ってみたいと思ったが、あの不思議な視線に首をひねる。
ただの動物にしては異質な、奇妙な気配を纏っていたからだが、気のせいだろうと考えることにした。
美由希はこのまま那美と一緒にさざなみ寮に行くというので、恭也だけ先に帰ることになったが、鍛錬に熱中するあまり時間がおしている。
時計を見ると約束の時間までそれほど時は残されていない。普段よりも家路に急ぐように、途中何人か知り合いに会ったが、あいさつ程度にとどめておく。
高町家に着いたのは約束の時間ぎりぎりだった。もう少し早く訓練を切り上げればよかったと後悔するが、時すでに遅し。
なのはと晶にレンの三人が門の前で恭也を待っているのが見えた。三人の前に出て行くのはバツが悪いが、これも自業自得かとあきらめる恭也。
散々三人に注意されてしまったが、そんなことで時間をくうわけにもいかず、教えてもらった忍の住所に向かう。
恭也一人ならば走った方が速いかもしれないが、今回はほかに三人……しかも運動に関しては全くの才能のないなのはもいるためバスで移動することになった。
高町家の傍にあるバス停から揺られること十数分。どちらかといえば海鳴の郊外に位置する月村忍の家にやってきたのだが……。
忍の渡してきた住所と目の前にある家の住所があっているか確認するが、間違ってはいない。
「これは……」
「家というよりも……」
「屋敷ちゅーほうが正しいですわ」
「月村さんの家……凄く大きい!!」
呆然とするのは恭也と晶とレン。素直に驚いているのはなのは。
だが、驚くのも無理はない。高町家も決して狭くはない、というか一般人にしてみたら信じられないくらい広い。何せ小さいとはいえ、道場に庭に池まであるのだから。
そんな高町家ですら?比べ物にもならないのが月村邸だ。まずは、入口からすでに違っている。ヨーロッパの方でなら見かける巨大な門。そして屋敷を囲うように広がる鉄の柵。高さも十分にあり、誰かがのぼって侵入できなくなっている。
門を潜り抜けたらさらに広大な庭だ。普通の家が二十軒は問題なく入るだろう。サッカーだってできそうな大きさだ。
家の前には綺麗な花壇が見受けられ、剪定された幾つかの木が植えられていた。
門から真っ直ぐと行った所には玄関があったが、これまた大きな扉が荘厳と恭也達を待ち受けている。
建物の高さこそ三階建てだが、横幅と奥行きは尋常ではない。はっきりいって観光名所になっても可笑しくはないほどの屋敷だった。
ぽかんとしている晶とレンを放置して、恭也は門の横についていたインターホンらしきボタンを押す。
『はい。月村ですが』
「遅くなりました。高町です」
『―――お待ちしておりました。只今、開けますのでそのまま真っ直ぐ来られれば玄関に着きます』
インターホン越しにノエルの抑揚のない声が聞こえ、それと同時に門が音をたててゆっくりと開いていく。
遠距離操作で開閉可能なのだろう。高町家と比較するまでもない立派さに思わずため息が漏れる。
呆けている二人の肩を叩き正気に戻すと開かれた門を通り、遠くに見えた玄関へと歩いて行く。広すぎる庭にレンと晶は居心地悪そうに周囲を見渡しているが、なのはだけは嬉しそうな雰囲気を発している。
恭也もある事情で大きな家―――屋敷には何度か招かれているため慣れたつもりだったが、ここまで拾いと流石に緊張を隠せない。
四人が玄関に到着すると、まるでタイミングを合わせたかのように扉が開く。そこに居たのは―――メイドさんだった。
すらりとした長身。スカートの裾から見える足首、エプロンを締めた腰も細く、スレンダーではあるが、服の上からでもはっきりとわかるほど胸のふくよかさ。
氷をイメージする美貌。忍の世話役係ノエル・綺堂・エーアリヒカイトが頭をさげて皆を迎え入れた。
「メイド、さん?」
「はい。私は忍お嬢様のメイドを勤めさせていただいております」
「うおー。俺初めて見たかも」
「阿呆やなぁ、晶。あまりじろじろみたら失礼やろう?」
三人とも生まれて初めてのメイドを見て多少なりとも興奮しているようだった。
ノエルもまたその美しさ故に、三人の目を惹きつける。服装と容姿があいまって、普通に見るよりもさらに魅力的に映ったのだろう。
恭也も流石にメイドを見るのは初めて―――ではなかった。良く思い出せば、幼い頃に士郎に連れられて海外へ行った時に何回か見た記憶があったが、その記憶にあるどのメイドよりもノエルは美しかった。
屋敷の中は外観に負けず劣らず、有名人が居たとしてもおかしくない艶やかさだ。
玄関のホールからして高町家並に広く、吹き抜けがあり、レッドカーペットが玄関から階段にまで敷かれており、上を見上げればシャンデリア、横を見れば鎧の置物や、高そうな絵画がかけられている。
西洋の映画にでもでてきそうな、古風な様式。車で出迎えをしているためお金持ちということは予想がついたが――ー桁が違った。
リスティに調べて貰った財産目的の脅し。これも心の中で多少ばかし大袈裟なと思っていたが、大袈裟も何も、これだけの財産を所有しているなら、忍の親戚が脅迫してくるのもわかる気がした。
ノエルに案内されて二階へと上がり、幾つものドアがある長い廊下が続いていた。
その一つのドアが開き、中から忍がでてきた。桁外れに豪勢な屋敷とは正反対で、そこらの服屋で千円でうってそうな長袖の白い服とジーパンのラフな姿だ。
ドレスを着ててもおかしくない雰囲気だったため、拍子抜けをするが、忍にはそんな服の方がらしい、と思ってしまった。
「今日は態々来てくれて有難う。さ、入って」
「お邪魔します!!」
「お誘い有難うです」
「失礼します」
三人が忍の部屋に入って再度唖然とする。ある程度は予想していただろうが、忍の部屋もまた広かった。一般家庭の家としては狭くはない、というか広い高町家の一階半分近くの広さだ。
それだけ広いというのに置かれている物と言えば、巨大なテレビ。山積みにされたゲームソフトと音楽CD、ゲーム機。隅っこのほうに大量に詰め込まれた漫画の本棚。そして、立派なベッドくらいだ。
話には聞いていたが本当にゲーム好きだったことに多少の驚きを抱く。忍の外見的にはお嬢様趣味といわれたほうが納得できる。
早速忍は噂に名高い高町家最強のゲーム女王なのはと一騎打ちを始めた。ゲームセンターでも大人気の格闘ゲーム【パワードスーツ】。
レンも晶もなのはには一蹴されてしまうが、忍も相当強いらしく、入学祝のパーティーの時に戦う約束をしていたのだ。
忍は何やらゴツイ体格の格闘家を選んだが、なのははコントローラーでボタンをぽちぽちと押す。すると妙な効果音が鳴り、黒尽くめの剣士が画面に現れる。二刀の日本刀を持つ姿は、恭也を連想させる。
なのはが黒衣の剣士を選択しようとして、恭也の視線に気づく。
「お、おにーちゃん!?見ちゃ駄目ー!!」
「な、何故だ……?」
顔を真っ赤にしてなのはが恭也の視線を遮ろうと両手を振ってテレビを隠そうとするが―――生憎とテレビが大きすぎる。
そんななのはの様子に苦笑いの晶。なんとなくなのはの気持ちがわかったからだ。
「あー、師匠。ちょっとこの漫画見てくださいよ。凄く面白いんですよ」
「む……」
半ば強引に晶は恭也の腕を引っ張り本棚の方へ連れて行く。
離れていった恭也に、ほっと胸を撫で下ろすなのは。そして、改めて黒衣の剣士―――ダークナイトを選択すると戦いは始まった。
「これこれ。この漫画お勧めなんです。【山田太郎物語】ってやつなんですけどね。少女漫画っぽいタッチですけど、男にも人気あるらしいですよ」
「……すまん。それはパスだ」
「ええー!?なんでですかー!?」
「……すまんとしかいえん」
晶がそこまで勧めてくる漫画なのだから面白いのだろうが、まさか山田太郎という名前にこんなに早く巡りあうとは思ってもいなかった。
あまり感情移入できなさそうだ、と読む前からわかってしまうからだ。
むむ、と納得していない様子の晶が本棚にある本のタイトルを隅から隅まで調べる。次にお勧めする本を探しているのだろう。
「あ、じゃあ。これなんかどうです?草薙まゆこの【風のように火のように】!!少女漫画ですけど―――」
「―――俺が少女漫画を読むところを想像してくれ」
遠まわしに遠慮している返事に、晶の言葉も途切れ、少女漫画を読んでいる恭也を想像してみる晶。
真面目な顔をして緑茶をすすりながら、椅子に座り少女漫画を読んでいる恭也は―――。
「か、可愛いと思います」
頬を染めてそういってくる晶に深いため息をもって返答とした。
恭也には晶の可愛いという美的感覚が全く持ってよくわからない。
『―――闇夜に、消えろ』
戦いが終わったのか、なのはの使用していた黒衣の剣士がそんな決め台詞を告げていた。
画面を見るに、互いに一勝ずつしており、今の戦いで決着がついたようだった。二勝目をあげたのはなのはだったが、体力ゲージを見る限り余裕は無くぎりぎりの勝利だったは明らかである。
相当に集中していたのだろう。なのはがふぅーと深呼吸をする。忍は自分が負けたのが信じられないのか、パチクリと目を瞬かせた。
「凄いなぁ、なのはちゃん。私が負けるって本当に久しぶりかも」
「い、いえ。私も負けるかと思っちゃいました。忍さん凄く強いです……」
「ほぇ~。なのちゃんとここまで良い勝負するってほんまに凄いですわ」
「あ、じゃー次は俺やりたいです!!忍さん、一戦お願いします」
晶が手をあげて忍との戦いを希望すると、忍もいいよとにこやかに答えた。
なのはが晶にコントローラーを渡すと、晶も先程のなのはと同じ様にボタンを押し、ダークナイトを出現させると選択する。
晶もなのはも持ちキャラはどうやら黒衣の剣士のようだ……何故だろうと首を捻る恭也だったが、他の人間からしてみれば一目瞭然。
黒衣の剣士を晶が選んだのを見ると忍も先程まで使っていた格闘家をキャンセルし、ボタンを入力。すると黒衣の剣士とはまた別のキャラが画面に出現する。黒衣の剣士の女性バージョンといった出で立ちだ。
画面にでたキャラの名前は―――ナハト。それが本来の忍の持ちキャラだったのだろう。
忍と晶の戦いが始まり―――十秒かからずに晶は一戦目を取られていた。
驚く暇も無く、二戦目。うおー、と叫んで気合を入れた晶だったが呆気なく二戦目も敗北。恭也ではよくわからないが、晶が弱いのではなく、忍が強すぎるようだ。
二戦あわせて三十秒もたなかった晶はがくりと床に 両手両膝をつき黄昏る。恭也の耳に、師匠すみません……そんな呟きが聞こえた。城島晶、儚く死す。
力尽きた晶を放置してレンが忍に戦いを挑むが、善戦するも敗北を喫した。ちなみにレンの使用したキャラも黒衣の剣士だったのを追記しておく。
その後は忍となのはの一騎打ち。忍が勝つこともあれば、なのはが勝つ事もあり、実に良い勝負だった。
何度目かの戦いが終わった後に、次は落ち物ゲームをやり始める。四人でできるタイプだったのか、復活した晶とレンも参加して、新たな戦いは始まった。
ゲームに熱中している四人を置いて、恭也は部屋から音をたてずに退出する。
部屋を出たところで、飲み物を用意したノエルと丁度出くわし、あぶなくぶつかりそうになった恭也が慌てて身をよじり、衝突だけは回避することが出来た。
「あっと、申し訳ない」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました」
「申し訳ないが、ノエルさん。屋敷の中を見回ってもいいですか?」
「はい。忍お嬢様からお話は聞いております。ご自由にご覧ください」
トレイにカップをのせているため、軽く頭を下げて答えたノエル。
恭也もお礼を述べて屋敷を見て回るために歩き出したのだが―――違和感を感じた。今のノエルに何か違和感を。
足を止め、部屋に入っていったノエルの後姿を見送る。部屋を出て、ノエルにぶつかりそうになったときのことを思い出して―――。
「……ぶつかりそうに、なった?」
はたと気づく。自分が、ノエルにぶつかりそうになったという事実。それはあまりにも可笑しい。おかしすぎる。
例え忍の家にいるからと言って気を抜いているわけではない。周囲の気配に気づけるように、結界ともいうべき感覚の感知を常に広げている。
どんな相手でも、それこそ野生の獣だろうが、恭也の感知を潜り抜けることは不可能だ。
だというのに、一介のメイドであるノエルの気配に気づかなかった。そんなことなど在り得ない。
気配を消していたとか、そんなレベルではない。消していたのだとしたら、恭也ならば間違いなく気づくことは可能だ。
ノエルは気配を消していたわけではなく―――気配自体が、無い。
薄ら寒い気分になりながらも、恭也は屋敷の見回りを開始した。
自由に見て回ってもいいと言われてはいるが、初めてきた知人の家。
心情的に探りにくいが、そうも言っていられないのが事実。最悪の事態を考えて動かねばならない。
屋敷は広く、兎に角全体の構造だけを確認しておくように歩き回る。部屋数も多く、日本に、いや、海鳴にこんな大きな個人の家があるとは思ってもいなかった。
ビルやマンションなら数多くあるが、そういうものとはまた趣が違う。
屋敷の中を大体は調べまわった恭也は、玄関のホールを抜けて外にでる。サァっと心地よい風が吹き、頬を撫でる。
太陽の光が眩しく、空を見上げれば雲が流れているのが見えた。
外の庭をぶらぶらと歩きながら確認してみるが、信じられないほど大きい。遠くに見える門がまるで玩具にも見えてしまうほどだ。
屋敷の左右後方は、庭が広がっているが、柵で隔てられた向こう側は、木々で覆われている。
月村邸にも負けず劣らずの広大な森林地帯といっても過言ではないだろう。まさかその森まで忍の私有地なのかと、月村忍の受け継いだ財産の大きさを理解することとなる。
屋敷に戻ろうとした恭也だったが、ふと足を止める。
視線を右手前方に広がる森に向け、暫くじっとその森林を見つめていた。
時間にして数十秒くらいだっただろうか。恭也は視線を戻すと屋敷の中へと姿を消していく。
恭也が見ていた方向の森の中、そこには一人の女性がいた。ナンバーズの数字持ちが一人。【這い寄る者】ツヴァイ。
呼吸も荒く、地面に座りながらも一際大きな木の幹にもたれるようにして、月村邸を窺っていた。
屋敷の中に恭也が完全に戻ったのを確認して、一分。プレッシャーがなくなり乱れていた呼吸が、急速に治まっていく。
胸の上から心臓に手をあてて、激しい動悸を抑えるかのようなツヴァイの姿は、他の数字持ちが見たら驚いたに違いない。
ナンバーズの数字持ちの中でも【本当】の感情を最も表に出さないと思われているツヴァイがこのように取り乱している所など誰一人としてみたことなど無いからだ。
「気づいて、いた?」
口から漏れるのは愕然とした震える言葉。
恭也がいた月村邸の庭からツヴァイが隠れていた森まで距離にして軽く三百メートル以上はあっただろう。
双眼鏡で覗いていたツヴァイがここまで取り乱す理由。それは簡単な話だった。双眼鏡で覗いていたツヴァイと恭也は態々視線を合わせたのだ。
お前に気づいているぞ、とアピールするためだろう。信じられないことだが、ただの人間が、気配を消していたはずのツヴァイに気づいていた。
フュンフが怖れた理由が今ようやくわかった。明らかに尋常ではない。人間であるはずが、人間には見えやしない。
監視だけが目的で、敵意を持っていなかったから助かったのだろう。もし仮に、敵意を持っていたならば―――果たして自分は生きていただろうか。
そんな疑問が頭の中を支配する。人類最後の砦。ナンバーズの数字持ちの一人が、日本の片隅にいた人間一人に恐怖した。ありえないことだが―――ありえてしまった。
ツヴァイは未だ治まらない激しい動悸。それは恐怖だけではない気がするとツヴァイは恭也の姿を思い浮かべる。
「―――危険な男に、女って弱いのねぇ」
乾いた唇を舐め、妖艶に笑うツヴァイの発した言葉を聴いていたのは―――木々を揺らす風だけだった。
忍の家に遊びに行ってから幾許かの時は流れ、ついにゴールデンウイークを間近に控え、四月も終わりに近づいてきたある日。
相手にも学校の中で仕掛けてくるという分別はあるらしく、学校にいる間は不穏な気配はかんじることはなかった。脅迫を仕掛けるという時点で分別もなにもないのかもしれないが。
授業も終わり、ノエルの出迎えの車まで送り、そこで別れる。時々、そのまま車で忍の屋敷にまでいって遊んで帰る、ということもあったが、相手からの脅迫もなく至って平和なひと時を過ごしていた。
なのはも自分と互角以上にゲームができる忍という年上の優しいお姉さんは貴重な知り合いとなったのだろう。恭也にねだって、時々一緒に遊びに行ったりもしていた。
そんな生活が続いたこともあるのか、忍の恭也へ対する態度も少しずつ砕けてきてはいる。
だが、未だ何か最後の一線を越えられないような壁を感じることもあった。まるで、これ以上仲良くなってはいけない。そんな悲壮ともいえる雰囲気を感じることが最近は多い。
今日も忍を車まで送り届けると、ノエルが一礼して出迎える。
「いつも有難う、高町君」
「いや、構わないさ」
去っていく車が視界から消えるまでその場に立っていた恭也だったが、踵を返すと校門から離れていく。
周囲には下校する多くの生徒達がいるが、その中で一人見知った顔を見つけた。周りの生徒達より頭一つ低い緑髪の少女―――レンだ。
普段なら友達二人と帰宅しているが、どうやら今日は一人っきりのようだ。どことなくさびしそうに見えるのは気のせいだろうか。
「……レン、珍しいな、一人なのか?」
「あ、お師匠ー。そうなんです。今日は二人とも用事があるゆーて一人で帰ることになってもーたんです」
「そうか。一緒に帰るか?」
「ええんですか?今日は最後の最後で運がええですわ」
恭也とレンが並んで歩くと身長差が凄まじいことになっており、まさに凸凹コンビという言葉が似合っている。
一緒に帰れるのが嬉しいのかレンの笑顔がやけに眩しい。いつもの五割増しといっても過言ではない。
「お師匠。ついでに晩御飯の買い物もしていきたいんですけど、ええですか?」
「ああ。何時もすまないな。荷物持ちくらいならするから遠慮せず言ってくれ」
「勿体無いお言葉ですわ。それなら時々お願いしても……」
「喜んでいこう。レンには美味しいご飯を作ってもらってるしな」
「―――はぅっ」
恭也と一緒に帰れて喜びに溢れている状態で、さらにこれからも買い物に付き合ってくれるということを聞いてすでに嬉しさマックス。
そこで、恭也の美味しいご飯を作ってもらっているという台詞で限界突破。
「―――うち、生きてて良かったです!!」
「……」
大袈裟なとは言えなかった。
涙目になりながらも拳を握りしめて力説するレンに対して恭也は、ああ……と頷くことしかできない。
時々だが、レンも晶も美由希も―――逆らえない怖さを感じるときがある。
今にもスキップしそうなレンと一緒にそのまま海鳴商店街へと向かう。
ちなみに海鳴商店街といってもここ一か所だけしかないわけではなく、北と南に存在するという。
両方とも今時珍しく元気がある商店街だが、ライバル心があるのか商店街同士の仲はいまいちよくないと噂が流れているがよく聞く話である。
レンは商店街につくと、夕方のタイムバーゲンがやっているスーパーに恭也の手を引いて飛び込む。
相当安いのか客の人数がすごい。人波をかきわけるように小柄なレンは強引に突き進み、見事セール品の一山百円の野菜をかごに入れることに成功した。
「お師匠も!!はよう!!」
人が変わったのではないかという疑いたくなるほどの激しい口調でレンが恭也を叱咤する。
そんなレンに呑まれそうになりながらも恭也もセール品の元まで辿り着こうとするが、何せ人が凄い。誰がどう動くか予想できないほどの混雑ぶりに驚きながらも気配察知を駆使して人波を潜り抜ける恭也。
だが、現実はそんなに甘くはない。恭也の気配察知を嘲笑うかのごとく、主婦のおばちゃんが恭也にぶつかって人だかりから押し返す。
「なん、だと!?」
驚愕しかない。まさか、ただのおばちゃんに御神流の足捌きを邪魔されるとは思ってもいなかった。
若干の焦燥を抱きつつも、再度ひとだかりに突入。周囲の気配の流れを察知しつつ、ついにセール品がおかれているワゴンに辿り着いた恭也が見た物は―――すでに何一つとして残っていない空のワゴンだけであった。
人だかりは潮が引いていくように、スーパーのあちらこちらへと散っていく。
残されたのは呆然とワゴンを見つめる恭也とそそくさと片づけを始める店員だけであった。
「……お師匠」
「……次だ。次のチャンスをくれ」
「次はないです、よ?」
凄まじい圧迫感。小さなレンの体が巨人の如く見える。
久方ぶりの敗北感に包まれながら高町恭也は次の戦場へと向かっていく。
「お師匠、あそこです!!」
「―――任せろ!!」
レンの指差した先には雲霞のように群がっていく主婦達がいた。
すでにセール品をおいているであろうワゴンは人によって埋め尽くされる。その様子は地獄の餓鬼を連想させた。
しかし、恭也に二度の敗北は有り得ない。精神を極限にまで集中させていた恭也が、意識して脳内のスイッチを切り替える。
ズンと体に重力が加わり重くなった違和感とともに、視界全体がモノクロに染まる。
ほかの主婦たちの動きが、スローモーションに―――ならなかった。
「―――っぐ」
濁流に流された小枝。主婦達の完全なブロックによって恭也は先ほどと同じで人の輪から弾かれる。
だが、今度こそレンの期待に応えねばならない。それが師匠としての務め。
気合を入れなおした恭也が咆哮しながら主婦たちの壁をかきわけて突き進む。その強固な意志と鋼の肉体を利用した突撃が完全防御と思われたブロックを破壊していく。
それでも、そんな恭也に物怖じしない主婦たちが恭也を押し出そうと横からぶつかってくるが、腰を落として耐えきる。
一歩一歩確実に邁進する恭也は遂に、ワゴンに辿り着き、置いてあったレタスを手でつかむ。
恭也は戦利品を誇るかのように、手でつかんだレタスを高く空にむかってつきあげた。
―――ぐしゃ。
「―――あ」
ゆうに百キロをはるかに超える握力を誇る恭也が、喜びで力いっぱいレタスを握りしめた結果、見るも無残な残骸となった。
勿論周囲のおばちゃんたちは自分のことだけで精一杯なのできづいていなかったが―――気づいていた者もいたが―――背中に突き刺さるのは絶対零度の視線。
「……お師匠」
「……いっそ殺してくれ」
久しぶりに死にたくなった恭也だった。
当然、弁償という形なのだが、ぐしゃぐしゃになったレタスをレンは捨てようとしない。
なんでも別に形が悪くなっただけで料理には問題なく使用できるとの事。それを聞いて少しだけほっと胸をなでおろす。
買い物はその後随分と長くかかった。
レンは少しでも品質が良く、安い商品を探すために、恭也が考えていた以上に買い物に時間をかけていたのだ。
精算を終え、スーパーの外に出た二人は高町家へと家路につく。見れば既に夕日が差し込む時間帯になっていた。
「お師匠、長い時間つきあって頂いてほんますみません」
「いや、俺こそレンがここまで真剣に買い物をしていたとは知らなかった。感謝しかない」
「え?いやですわー。うちは当たり前のことをしてるだけです」
「謙遜はするな。今まで気づかなくてすまなかった。本当に有難う」
かぁっとレンの頬が赤く染まる。
今日は良いことがありすぎる。本気でそう思うレンであった。
恭也と一緒に帰れて、買い物に行けて、感謝までされる。盆と正月が一緒にきたかのような喜色が、レンの表情に見え隠れする。
卑怯だ、とレンは思う。こんなことを言われてしまってはレンはもう何もいえない。
鳳蓮飛は高町恭也を誰よりも尊敬し、敬愛しているのだから。
急に黙りこくってしまったレンを不思議に思う恭也だったが、二人の間に漂うのは居心地の悪い空気ではない。
穏やかな空気を感じながらも、二人は高町家へと到着する。
頬を朱に染めたまま、レンはそそくさと晩御飯の準備をするためにキッチンへと向かった。
リビングには美由希となのはがソファーに座ってテレビを見ていたが、晶の姿は見えない。
「晶は、実家のほうか?」
「あー、今日は明心館の方に寄って帰ってくるって。遅くなるみたいだよ」
「あ、おにーちゃん。おかえりなさーい」
「ただいま帰った、なのは」
「あれ?私の話無視?」
「いや、聞いていたが返事をしなかっただけだ」
「余計酷いよ!?」
美由希の恨みがましい突っ込みを無視して、恭也もまたソファーに腰をおろす。
テレビで流れるのは時間帯的にニュースしかない。夕刊を広げながら、レンが持ってきてくれた熱いお茶をすする。
その姿が貫禄がありすぎて、恭也には似合いすぎていた。高町家のお父さんと紹介されても納得してしまいそうなほどの姿だ。
キッチンではレンが料理をする音が聞こえる。
包丁がリズムよく食材を刻む音。フライパンで何かを炒める音。鼻歌を歌っているレンは相当に機嫌が良さそうだ。
その原因は間違いなく先程の恭也の言葉なのだが、本人がそれにきづくことは決して無いだろう。
時計の針が動く音。ニュースを読む男の声。そして―――。
ピリリ―――という携帯電話が着信を告げる音を鳴らした。
なのはと美由希が咄嗟に恭也を見る。自分達の着信音とは違うため、恭也のだとすぐにわかったのだろう。
机に置いてあった携帯電話を取ると相手を確認する。
電話の相手は―――月村忍。
この時間に連絡がくるのは珍しいと思った、恭也だったが何か嫌な予感がする。
いつもとは異なるこの時間に電話がかかってくるなど、本来あり得ないことだ。
自分の深読みに対して、首を振る。もしかしたらなんでもないことかもしれない。次の遊びの誘いかもしれない。
落ち着けと自分で言い聞かせながら、通話のボタンを押す。
「もしもし―――」
『―――高町、様ですか?』
「……ノエルさん?」
聞こえたのは予想外の声。忍の声ではない。
この声は、ノエルだと即座に気づいた恭也が聞き返すと、はいという肯定が返ってきた。
気のせいか、その声には若干の焦りを滲ませている。
『失礼ではありますが―――恭也様にお願いしたいことがございます』
「俺に出来ることならば」
『不躾ではございますが、今すぐにこちらに来ていただけますでしょうか?』
「……月村に何かありましたか?」
『―――お願いいたします』
ノエルは詳しい説明をしようとはしない。
だが、深い懇願だった。お願いします、という言葉にノエルなりの精一杯の感情が込められている。
そこまで言われて動かない恭也ではない。理由は後から幾らでも聞ける。それならば今はノエルの頼みに答えるべきだ。
「わかりました。直ぐに行きます。月村の家でいいんですか?」
『はい。お願いいたします―――お待ちしております』
恭也はソファーから立ち上がると、真剣な兄の様子に重大なことがおきたのかと、心配そうに窺うなのはと美由希の肩をぽんと軽く叩く。
「少し、出かけてくる」
「あの、でも……」
「……何かあった?」
「―――心配するな。少しだけ出かけてくるだけだ」
有無を言わさぬ恭也に、不安を隠しきれない二人だったが、恭也の邪魔をしてはいけないとそれ以上は追求してこなかった。
話を聞いていたのか、キッチンからレンが出てきたが何も言わない。
濡れた手を亀の刺繍がしてあるエプロンで拭きながら、他の二人のように心配の言葉を送ることはしない。
「―――御飯、置いておきます」
「助かる。すまんな、レン」
「いってらっしゃいです。おししょー」
笑顔で見送ってくれるレンと不安を滲ませるなのはと美由希を背に、すぐに用意できる武器だけ持つと、高町家から飛び出していく。
じわじわと嫌な予感が恭也を押しつぶすように広がっていく。
しかし、今はそんな予感に構っている暇はない。一分でも一秒でも早く月村忍の屋敷に向かわなければならない。こんな時に車の免許を取っていればよかったと後悔することになるとは。
常人離れしたスピードで海鳴の街を駆けていく。普段の恭也など比ではない。美由希でさえも置き去りにしていくであろう速度だ。
驚くことはその尋常ではないスピードだけではない。その速度を保ちつつ、延々と走り続けれる無尽蔵のスタミナ。
人目を憚ることなく、恭也は忍の元へと急ぐ。
疾走すること、二十分程度。予想よりも随分と早く、着くことができ、僅かに安堵しつつ、インターホンを押す。
夜の静寂が耳に痛い。普段なら押せと同時に返ってくる返事がない。
暫く待ってみるが、やはり返答がないので念のためもう一度押してみる。それでも、反応がない。それが恭也の不安をさらにかきたてる。
『―――高町様でしょうか?』
「はい。遅くなりました」
『いえ。今すぐにお開け致します』
恭也ならば屋敷を囲っている柵くらい乗り越えられるがそういうわけにもいかないので、大人しく門があくのを待ってから月村邸の扉を叩く。
今度はインターホンの時とは異なり、扉が開きノエルが出迎えてくれたが、心なしかその表情は暗い。
「月村は、どうしたんですか?」
「……話すよりも実際に見ていただいた方が早いかと思います。どうぞこちらへ」
「―――わかりました」
冷静でありながら、どこか焦った感情らしきものをない交ぜにしてノエルが屋敷の中を案内し始める。
こんな場所で問い詰めるわけにもいかず、ノエルの背を追った。
ノエルが案内する場所は恐らく忍の部屋へと至る道順であった。先日屋敷の構造を把握したのでそれは間違いない。
二人の足音は豪勢なカーペットが打消し、屋敷の中は不気味な静けさが支配している。
「―――こちらです」
案内されたのはやはりというべきか忍の部屋であった。
ノエルは扉をノックするも、忍の了承を得ることなく扉をゆっくりと開け放つ。
電気は消しているのか、薄暗い部屋のベッドに忍が横たわっていた。別にベッドに横たわっていることくらいおかしいことではない。
常人であったならば、部屋の薄暗さでわからなかっただろうが、夜目が聞く恭也は確かに見た。ベッドに横たわっている月村忍は白いシャツ一枚の艶かしい姿だ―――右肩から左脇腹にかけて包帯が巻かれており、白い包帯を赤く染め上げているのを除けばだが。
唖然とする。
夕方別れる前までは、何時も通りだったというのに。
それが今では大怪我どころの話ではない。下手をしたら死にかねないレベルの怪我だ。遠目ながら、理解する。いや、理解してしまった。
今すぐにでも病院に行かなければ間違いなく―――死ぬ。
「病院へ連れて行きましょう。いや、救急車を―――」
「必要ありません」
「何を、言っているんですか!?早く連れて行かないと、手遅れになります!!」
病院へ連れて行く恭也の提案を、否定するノエル。
それに反射的に怒鳴り返してしまった恭也だったが、無理もない。
感情を見せないノエルだが、忍に対しては忠義を尽くしていた。それがわかっているだけに、病院へ連れて行こうとしないノエルの判断が納得いかない。
「忍お嬢様は、普通の病院へ行かれても意味はありません。お嬢様は―――少し特殊なのです」
「いや、そんな話よりも早く―――」
「聞いてください、高町様」
割り込むように、強い口調でノエルは恭也に語りかけてくる。
本来なら有り得ないことだ。常に相手をたてるメイドのノエルが、恭也の言葉を遮ることなど一度も無かった。
ノエルは有無を言わさぬ雰囲気と態度で恭也の手を包み込むように握り、視線を合わせ懇願する。
納得はできないがこのまま話をしていても暖簾に腕押し。ノエルの言い分を聞こうと、恭也は口をつむぐ。
「有難うございます。高町様にお願いしたいことは―――血を頂きたいのです」
「血、ですか?」
「はい。お嬢様に血を輸血して頂く……それだけで大丈夫なのです」
「確かに輸血は必要だと思いますが。それで助かる傷だとは……」
「いえ、大丈夫なのです。お嬢様は―――」
「―――ノエ、ル!!」
ビシリと空気が震えた。
部屋の中の、静かな大気が、ピリピリと逆立ち始める。
はっとして二人がベッドに横たわっていた忍に視線を向ければ、そこには傷口に手をあてながらも上半身だけを起こし、双眸を怒りに炎やしながらも睨みつけている彼女の姿があった。
瞳が真紅に爛々と輝き、気配が噴き出す。半死半生ながらも、気配にあてられた恭也が息を呑む。
「―――申し訳ございません、お嬢様。私の判断で高町様をお呼びしました」
「……勝手な、こと、しないで。高町君、私は大丈夫、だから……」
「大丈夫にはどう見ても見えない。すまない―――俺がついていれば」
「ううん……私が油断、しただけ……」
忍は力なく首を横に振った。
恭也責める気持ちなど一切なく、気を使っているわけでもないのは一目見てわかる。
呼吸は乱れ、話すだけでも辛そうな忍の姿は痛々しい。
「私は、本当に大丈夫なの……高町君は、帰って?」
「何を言っている?このまま月村を放置して帰れると思うのか?」
「―――ああ、もう。優しいなぁ、高町君は―――」
普通の人間ならばこの光景を見たらどう思うだろうか。当然心配くらいはするだろう。
だが、この尋常ではない怪我をしている自分を見て、きっと面倒ごとに関わりたくないと思う人間も多いはずだ。
忍は人の心の機微を読むのは得意だ。少しでもそういった感情を抱いていたら一瞬でわかる。だが、恭也は心のそこから忍のことを心配している。今の恭也にはそれだけしか感じられない。
きっと恭也はひかないだろう。忍がどれだけの言葉を並べても、自分の前から立ち去らない。
それどころか、病院へ無理矢理にでもつれていこうとするかもしれない。
とてつもなく、優しい。だからこそ、その優しさが忍には痛い。身体の怪我よりもよっぽど、忍に痛みをもたらしている。
話すしかないかぁ、と恭也にもノエルにも聞こえない、心の声が己の中に響き渡った。
本能的な恐怖が沸き起こる。無駄だと諦めているとはいえ―――それでも大切な恭也という人間の友を失うことは、何よりも怖い。
しかし、忍はそれを受け入れた。その選択を選んだ自分を誇りに思えた。
「―――高町君、私が人間じゃない、っていったら信じる?」
「人間じゃない?」
「うん……宇宙人ではないよ?私はね、夜の一族と呼ばれる化け物の、純血。人の生き血を啜る、邪悪な吸血鬼。私の正体が―――それ」
言った。言ってしまった。
月村忍の正体は、夜の一族。しかも、人の血が混じっていない、正真正銘の怪物。真祖の血を受け継ぐ吸血鬼の一族。
現在存在する吸血鬼の一族において、最も色濃く純血を残す一人。
人間の血をすする、夜の一族の中でも最も有名で、最も人に忌み嫌われる種族。
「冗談じゃ、ないよ?これだけの怪我を負っていても、普通に話せれるのだけでも……普通じゃないのは、わかるよね?それに、この瞳―――私は、日中何色だったか、覚えてるよね?」
「―――黒」
「……うん。夜の一族の、本来の瞳の色は真紅。これが、化け物の、証だよ……」
夜の闇のなかにおいて、爛々と輝く真紅の瞳が、同じ忍とは思えない桁外れの威圧感を放っている。
ただの人間ならば、この威圧感だけで身動き一つ取れなくなる。
「私はね、高町君。貴方の血が、欲しかった……だから、仲良くしてたの。私が欲しいのは、貴方の血だけ―――だって私は吸血鬼だもの」
今まで見せたことが無いような、冷笑を浮かべ忍は恭也へ対して言い切った。
聞いているだけで背筋が震えそうなほどの感情のこもっていない声だった。機械的で、抑揚の無い、本当に恭也のことをなんとも思っていない口ぶりだった。
―――うまく、言えたかなぁ。
それが忍の本心だ。恭也に決して聞かれることは無い心の声。
できるだけ冷たく、感情をのせずに言えたか、恭也に感づかれなかったか、それだけが忍の本心であった。
言葉に出したことなど決してない。恭也と一緒にいるだけで、心が暖かくなった。恭也と話をするだけで、凍えていた心が溶けていった。
どんどんと恭也に惹かれていき―――血が欲しいという欲求は確かに存在したが、それは恭也のことを大切に思っているが故にの感情。
血だけが欲しいなどと思ったことなど一度もありはしなかった。
忍は誰よりも恭也が大切になってしまった。それこそ忍の中でノエルと同等以上の存在になってしまったのだ。
だからこそ、忍は恭也をこれ以上自分の私事に巻き込めれないと思ったのだ。ただの脅迫だけだったから忍は恭也へ対して護衛を頼むことが出来たが、それが今夜はこれほどの強硬手段にでるようになった。
これからはきっともっと酷いこともおきるだろう。ただの人間である恭也を―――巻き込んでいいはずが無い。
故に、忍は心を鬼にした。わざと恭也を突き放した。自分を見放すように。自分との関わりあいを捨ててもらうために。嫌な女だと、打算目的で近づいた女だと。
恭也への想いの深さのために、忍は―――自分の心を殺したのだ。
「―――そうか」
忍の塗り固めた嘘に対する返答はあっさりしたものだった。
恭也はあまりにもあっさりと返事をし―――不敵に笑った。
「首筋が一番吸いやすいのか?」
恭也は実に自然に着ていた服を脱ぎ、黒いシャツ一枚になり、自分の首筋をさらけだす。
世界は凍った。恭也の行為と言葉を、忍とノエルは理解できなかった。何をいったのか、耳からはいっても、その意味が何を指すのか脳が理解するに暫しの時を要した。
一切の迷いの無い、恭也の行動に、忍は怪我の痛みとはまた別に震えた。嘘で塗り固めた心の壁が音をたてて砕けていく。
「わかって、いるの?私は……貴方の血を―――」
「嘘は下手だな。もう少し上手くつくことだ」
苦笑を隠しきれない恭也は、ばっさりと忍の嘘をきって捨てる。
忍は―――様々な感情が心の内に荒れ狂った。いや、戦慄。それが最も相応しいのかもしれない。
恭也は信じている。忍が吸血鬼だということを理解している。血を吸うことを疑っていないだろう。
化け物に血を吸われるというのに、あろうことか自分から首筋を差し出し、吸わせようとしている。脅かして、ここから立ち去らせようとしていた忍の考えの遥か上をいっていた。
呆然としている忍とノエルを放置して、ベッドまで近寄っていく。
「―――座ってもいいか?」
「……う、うん」
断りを入れて恭也はベッドへ座る。ふかふかとして、見かけどおり高級なベッドなのだと場違いな感想をもつ。
困惑する忍と、確固たる意思を持った恭也。二人の視線は交錯し、弾けあう。
忍の口からでるのは―――既に疑問だけとなった。
「―――なん、で?私は、化け物……だよ?人の血を吸う、吸血鬼……だよ?なのに、なんで……なんで……」
「【友達】がたまたま吸血鬼だった。ただそれだけの話だろう?」
恭也の本当に何気の無い一言。
化け物と罵られると思っていた。騙したなと罵倒されると思っていた。人と理解しあえるなんて一生ないと思っていた。
夜の一族曰く―――理解しあえる人とめぐり合うことは一生に一度あるかないか。
その一生に一度が―――今あった。
忍の奥底で、何かが吹っ切れた。自分を縛っていた鎖を引きちぎる。それは心を縛る鎖。
手を伸ばし、恭也の首へと回す。力いっぱい抱きしめると、伸びた牙を恭也の首元へと突き刺した。
急所への噛み付く行為に、反射的に逃げ出しそうになる恭也は、それを意志の力で押さえつける。ぶるりと身体が痙攣する。
忍の口の中に広がるマグマのようのに熱い血。口の中を満たす鮮血に恍惚とする。ごくりと喉を滑り、体内を満たす。
身体全体が叫び声をあげる。もっともっとと、身体が、心が、魂が恭也の血を欲する。
目が覚めるような極上の血。血から伝わってくる恭也の鋼鉄の意志。揺ぎ無い信念。あらゆるものを打倒する強さ。優しい心。気高き魂。
忍は高町恭也の血に酔いしれる。今まで飲んで来た血液パックなどこの血の前では泥水にも等しい。
ごくりごくりと喉を延々と滑り込む。血への渇望。それは未だ衰えない。
恭也の身体が一際激しく痙攣する。それでも恭也は忍から逃げようとはしなかった。
忍はさらに深く牙を突き刺す。果てしない吸血衝動は、止むことなく忍を支配する。
どれだけその行為を続けていただろうか。まだ吸っていたいという衝動を無理矢理に押さえ込み、牙を抜く。
「―――ッ」
息を吸った。肺に取り入れた酸素が全身を巡る。
細胞が活性化され、傷ついた肉体を修復していく。だが、流れ出た血液と体力を回復させようと、強烈な睡魔が忍を襲ってきた。
揺らぐ視界の中、上半身がベッドに倒れこみそうになる。その忍の身体を恭也は大量の血を吸血されたというのに、その後遺症を一切見せない様子で抱きとめる。
優しくベッドに寝かせる恭也の姿を見ながら、忍は生涯最高の幸福を感じながら気を失った。
「―――ありが、とう」
部屋に響き渡るのは、忍の感謝の言葉。
流石に血を吸われすぎたのか、ふらりと眩暈がする。倒れないように、注意しながらベッドから立ち上がる。
忍に布団をかぶせ、起こさないように部屋の外にノエルを伴って出た。バタンと小さな音をたててドアが閉める。出た瞬間、ノエルは深々と頭を下げた。
「ノエルさん、何を―――」
「有難うございました。やはり高町様は私の思っていた通りの方でした。これまで忍お嬢様の迷い、恐れを知りながら私は何もできませんでした。ですが、貴方様ならば忍お嬢様を受け入れていただけると信じて、今回お呼びだてさせていただいたのです」
「俺が言うのもなんですが、失敗したらどうする気だったのですか?」
「その時は、私の首をかけて」
「―――冗談ですよね?」
「はい」
冷静にいってのけるノエルは、本気なのか冗談なのか判別つけにくい。
その時、再び眩暈が襲ってくる。一体どれだけの血を吸われたのだろうか。献血をしたことはあるが、牛乳瓶二本とっても、ここまで眩暈に襲われることはなかったはずだが。
調子がよくない恭也に気づいたノエルが傍にあった扉を開けて、恭也をその中へと案内する。
中の部屋は、忍の部屋ほどではないが十分に大きい。恭也の部屋の三倍はあるだろう。豪勢な家具にベッド。一流のホテルといっても過言ではない。
「こちらの部屋をお使いください。もしお望みならばお食事も用意いたしますが?」
「―――いえ。今日はもう休みます」
「わかりました。御用がございましたら、いつでお呼びください」
扉の前で礼をして、部屋から出て行くノエルを見送るとベッドに腰掛けて天井を見上げる。
家具と同じく、綺麗な照明が恭也の視界にはいり、ようやく落ち着いた恭也は深々とため息をついた。
正直な話、今夜は冷静に見られていたかもしれないが、内心は驚愕で一杯だったのだ。
リスティからの情報はあくまで脅迫者に関連した情報だけであり、月村忍が夜の一族だということには全く触れていなかった。
だからこそ、忍が夜の一族だと知ったとき驚きはしたが、彼女に語った言葉は本心なのは間違いなかった。人だから、化け物だから。そんな括りで友を決めたくはない。
色々と取りとめもないことが頭に浮かんでは消えて行く。頭が回らないことを実感した恭也はベッドに潜り込むが、そういえばレンが食事を準備してくれていた、ということを思い出す。
どうやら完璧に帰宅できないようで、メールに謝罪をのせておくっておく。
今は食欲よりも、睡眠欲のほうが遥かに上だ。恭也はベッドに横になり目をつぶると―――静かに眠りについた。
チュンチュンという雀の鳴き声が恭也の耳に届く。
太陽の光が部屋の中に差し、それで恭也っも目を覚ました。
普段だったらもっと早く目が覚めるはずだが、どうやら昨日の貧血は相当なレベルだったのだろう。
時計を見てみれば既に朝八時を回っていた。朝の鍛錬を怠ってしまったと反省をするが、ある意味今日は仕方ない。
あれだけ大量に血を失ったのだから、それで平然としているほうがどうかしている。
「―――昨日に比べたらだいぶマシか」
ベッドから起き上がると軽く身体を捻り、ほぐす。
寝る前のように眩暈が起きるということもなく、体調はほぼ万全にまで回復していた。
枕元に置いておいた―――二振りの小太刀、【八景】。古くから不破に伝えられる名刀で、二対一刀。
士郎なりに御神流をまとめたノートと一緒に恭也に残された数少ない遺産。
自分の危機を幾度も救ってきた、文字通りの相棒だ。
コンコンと扉を叩く音が聞こえ、返事を返すと入ってきたのは―――忍だ。
てっきりノエルかと思っていただけに予想外の来客で驚く。それも当然だ。昨日見た忍の怪我は一晩で治るような深さではなかった。
幾ら人より優れた治癒力があるといっても、これでは優れたどころではない。
「あ、あの……お早う」
「ああ、お早う。もう怪我は大丈夫なのか?」
「うん―――二週間くらいかかるかと思ったけど、【恭也】の血を飲んで一晩寝たら寝たら治ってたよ」
「……あれが一晩か。驚くしかないな」
忍との会話に妙な違和感を抱いたが、それに気づかずに話を続ける。
元気な振りをしているわけでもなく、本当に一晩で完治したことに改めて夜の一族の能力の高さを思い知った。
最も忍は戦闘に特化していないだけで、真祖に近い純血の夜の一族なのだから、他の人外とは格が違っているのだが。それをまだ知らない恭也は、三年前の化け物と天眼。水無月殺音、月村忍と、桁外れな相手しか夜の一族にはいないのではないかと疑いを持っていた。
「あ、恭也。お腹すいてない?それともお風呂から先に行く?」
「ああ、そういえば昨日は風呂にはいらなかったな……。シャワーだけでも貸してもらえるか?」
「おっけー。こっちだよ。着いてきて」
忍はやや強引に恭也の手を取ると、引っ張りながら屋敷の中を進んで行く。
なにやらふっきれたのか、いつも感じていた壁を感じなくなった雰囲気の忍と一緒に二階の別の部屋へと辿り着き、ドアをあけたら中はこれまた大きな脱衣所となっていた。
高町家とは比べるまでも無く、屋敷の大きさに比例している。
「ここを自由に使っていいよ。あ、着替えも持ってくるね」
「いや、流石にそこまでは……」
「いいのいいの。どうせ使ってない服だしね。遠慮しないで。恭也のあがる時間に合わせて御飯も作っておくね」
断る暇もなく、忍は脱衣所から飛び出していった。
深窓の令嬢からうってかわって随分と感じが変化したなと思った恭也だったが―――以前より今のほうが好ましいとも感じる。
籠に脱いだ服をいれると、曇りガラスのドアを横にスライドさせ開けると、中に広がっていたのは相変わらず恭也の想像を超えた浴室であった。
床を埋め尽くすのは大理石。高町家のリビング並に広い。浴槽もまるで銭湯のようで、獅子の顔の彫り物が口からお湯を流しだしている。
あまりに広いため落ち着かないが、シャワーで軽く身体を洗い流し、髪を洗っている最中に脱衣所の方から忍の大きな声が聞こえた。
「恭也ー着替えここに置いとくからね。ついでにこっち洗濯してもいいー?」
「―――ああ、助かる」
止めても無駄だとはっきりわかる、断られても洗濯をする気満々な忍に断ることを諦めて、感謝だけを伝えておく。
鼻歌が聞こえるほどご機嫌な忍が、了解とだけ残してドアを閉める音が聞こえ、後はシャワーの音と獅子がお湯を流しだす音しか聞こえなくなった。
泡を流しきり、浴槽に身体をつける。思わず、心地よいため息が漏れた。
恭也は基本的に風呂に入るのが嫌いではない。温泉や銭湯などは身体の傷が邪魔していけないため、大きな風呂に入る機会は皆無に等しい。
それがこの月村邸では誰にも気を使うことなく、風呂につかることができるのは恭也としてはまたとない幸運である。
高町家では人数も多く、ゆっくりと浸かることはできないが―――久しぶりに恭也は風呂を堪能させてもらった。
浴槽からあがり、身体を拭いて脱衣所に戻るとそこに置いてあったのは、洋風の月村邸には似合わない甚平。
忍のチョイスに首を捻りつつ着るしか道はないため、仕方なしに袖を通してみる。恭也は鏡に映った自分の姿を見てみるがイマイチ似合っていないと思ったが……第三者から見ればこれ以上ないくらいにマッチしている姿であった。
脱衣所からでてみれば、部屋の前には忍が待っていた。タイミングよく来たわけではないはずだ。忍は恭也が風呂場からあがるまで待っていたのだろう。
「すまん。もう少し早くあがればよかったか」
「ううん。ゆっくり入ってくれたら嬉しいよ。食事の準備もできたから、一緒に行こう」
恭也の手を取ると長い廊下を歩いて行く。
二階のホールに到着し、階段をおりる。右手にまがり、大きめの扉を開けると、その部屋にはノエルが静かに待っていた。
こちらです、と恭也を案内してテーブルの一つに案内をすると、厨房へと姿を消す。恭也の隣正面にはちゃっかりと忍が座っている。
儚そうな笑みなどなんのその。にこにこと太陽のような笑顔を浮かべる忍は、テーブルに両肘をつき手を組んで、そこに顎をのせて恭也をみつめていた。忍ほどの美人に顔をみられるというのもどうも具合が悪い。
「俺の顔に何かついてるか?」
「ううん。見てるだけかな。それにその服もやっぱり恭也にはよく似合うなーと自分のセンスを褒めてるところ」
「そう、か?俺にはよくわからんが……」
「百点!!ううん、百二十点あげちゃうくらい格好いいよー恭也。私が女だったら惚れちゃうくらい」
「―――女だろう?」
「あ、そうだね。えへへ」
機嫌の良さはマックスのようで、忍は笑顔を崩そうとはしない。
忍の笑顔を見たいと思っていたが、まさかこれほど笑顔のバーゲンセールになるとは考えてもいなかった恭也であった。
「お待たせいたしました」
「有難う、ノエル」
「有難うございます、ノエルさん」
二人の前に置かれる食事。まだ朝九時なので、軽いものばかりではあるが、できたてらしく湯気を放っている。
パン。サラダ。コーンスープ。スクランブルエッグ。できれば御飯物がよかった恭也だが、贅沢はいってられない。
昨日の夕飯を抜いているため、胃袋がぎゅうぎゅうと悲鳴をあげている。兎に角なんでもいいから胃に入れて、失った体力を取り戻さなければならない。
頂きます。、と合掌をして恭也は黙々と出された食事を食べ始める。
料理は想像以上に、美味しかった。簡単なもので手を加えるところなどないように思えたが、口で噛み締めると旨みが溢れる。
「ふふーどうよ、恭也。ノエルの料理の腕は?」
「……驚いた。予想より遥かに美味しい」
「だってー。褒められたよ、ノエル」
「勿体無いお言葉です」
忍の背後に控えていたノエルの顔をまじまじと凝視した恭也。
そんな恭也の視線に気づいたのか、何か?、と問い掛けてきたノエルに、首を横に振って何でもないですと答えた恭也だったが、先程の一瞬、勘違いかとおもったが確かに見た。
あのノエルの口元が嬉しそうにほころんだのを―――もっとも幻だったかのように一瞬で消えてしまったので、気のせいだったかもしれないが。
食事も終わり、後片付けを手伝おうとした恭也だったが、ノエルに断固拒否をされた。
ノエル曰く、メイドの仕事はメイドにお任せください、とのこと。自分がメイドであることに誇りを持っているノエルに気圧されてそれ以上は手伝うと言えない恭也は、仕方無しに椅子に座ったまま待つ。
対して忍は先程までの笑顔を消し、どこか緊張していた。身体が硬くなっている。ノエルが片付けから戻ってくると、口に出すことを躊躇うかのように、言葉が詰まる。本当に話すべきか、苦悩している様子の忍に、ああ―――と恭也は推測がたった。
「月村が夜の一族だったことには驚いたが。それよりも聞きたいことがあるんだが」
「あ、あれ私の悩みは置いておかれるの!?」
「いや、実際にたいした問題ではないだろう?ただ血を吸うだけの人間なだけだ―――月村は」
「ううん……そう言って貰えると嬉しいんだか、私の一生の悩みが軽く聞こえて悲しんだか……」
「月村は月村、ということだ」
複雑な心境の忍が受け入れてもらえた恭也のなんでもない言葉にぼやきつつ、はぁとため息をつく。
これでは真剣に考えていた自分が馬鹿みたいで―――でも、これ以上ないくらい嬉しくて。
「―――ノエルさんは、一体何者だ?」
気になっていたことを率直に聞いてみる。
以前だったら答えてもらえないことだったかもしれないが、忍と秘密を共有した今ならば答えてもらえそうな問いだからだ。
しかし、ノエルと忍がもしも答え渋るようならば引くことを決めてはいたが。
「んー恭也になら教えてもいいかな。いいよね、ノエル?」
「はい。お嬢様がそう判断されるのであれば。私も恭也様は信頼に値するお方だと思います」
「―――そう。んとね、恭也。ノエルは―――自動人形なの」
自動人形。その存在を恭也は脳をフル回転させ探す。
出会ったことも、見たこともないが、噂程度でなら聞いたことはある。
「超古代文明が残したロストテクノロジー。現代の科学技術でも判明しない多くの技術が使用されている、オートマタ。夜の一族の王族を護衛するために存在したという百体の内の一体。それがノエルなの」
「……初めて見るが、ノエルさんは本当に自動人形なのか?どこから見ても―――人間にしか見えないが」
「うん、そうだよ。それこそが自動人形の由縁。でもね、ノエルは私の家族。私の大切な人。だから―――できれば恭也にもそう見て欲しいの」
「無論だ。今更、見方をかえることなどできんさ」
ノエルの気配の無さ。これに納得がいった。確かに自動人形ならば生体反応自体がなくてもおかしくはない。
動作自体には動きがあるので、そこから気配を掴み取るしかない。良い勉強になりそうだと少しだけ喜ぶ恭也だった。
「ああ、それともう一つ。月村を狙っている相手のことなんだが……」
「さっきから言おうと思ってたんだけど―――月村って少し余所余所しくないかなーとか忍ちゃんは思ってたりするわけなんですけどー」
「……余所余所しいか?赤星のことも赤星と俺は呼んでいるが……」
「そういえばそうだったっけ……で、でも、私としては恭也のことを恭也と呼んでいるわけで、恭也に対しても忍って呼んで欲しいかなーとか!!」
昨日までとは正反対で強引な忍に面食らいつつも、反論をする恭也。
赤星のことを例に挙げてみたが、一瞬怯むも勢いを取り戻し忍は粘ってくる。
自分で言ってみてなんだが、赤星と知り合ってからはや五年。だというのに、恭也は赤星と呼び、赤星は高町と呼ぶ。
親友だと互いに認め、家にまで遊びに行く仲だというのに―――何故苗字同士で読むのだろうと今更ながらにも不思議だった。
「まぁ、名前の件はおいおい、な。それで脅迫している相手のことを聞きたいが」
「……残念。で、私を脅迫している相手?うーん……月村安次郎。私の父の弟だよ。つまり叔父さん。昔は凄く優しかったんだ。お父さんとも仲が良くてね。私も可愛がって貰ってたかな」
「実際に脅迫をされ始めたのは何時くらいからなんだ?」
「ん―――叔父さんが脅迫してきたと知ったのは一年位前かな」
「意外と最近なんだな。それからどれほどの頻度で?」
「……正直たいしたことのない脅迫ばかりで、あまり覚えてないんだよね。でも、月一くらいかな」
「―――安次郎の要求は?」
「財産の一部とノエルの所有の放棄、かな。お金だけなら別によかったんだけど、ノエルを渡せって言われて私も意固地になっちゃった」
違和感を感じる。
忍の話が本当と仮定して、何かがおかしい。
どこがおかしいかわからないが、安次郎の行動は納得いかないところがある。
「昨日の怪我も安次郎の手によるものだったのか?」
「……多分。実はね、叔父さんが私を脅迫するようになる前は、他の親類から嫌がらせが結構あったの。でも、一年前からそれがぴったりとなくなったから、今脅迫してきてるのは叔父さんだけだと思うの」
「そうか」
一年前から安次郎以外の親類縁者からの嫌がらせは無くなった。
今更それが復活したというのは考えにくい。しかし、一年前から脅迫をしていたとはいえ、先日突然あれほど酷い怪我を負わせるような直接的な脅迫になったというのもいまいち納得がいかない。
これまでは、あくまで脅しを目的とした行動だけだった。それが、下手をしたら死んでも可笑しくはない怪我を負わせるとは……。
「用心に越したことは無いか。月村……今夜も泊まってもいいか?」
「え!?うん、いいよ!!是非泊まっていって!!」
頬を赤く染め、両手を広げて歓迎の意を示す忍。
迷惑など全く感じていない様子で、二日連続で泊まることに感じていた心苦しさが薄らいだ。
その後、身体を休めようと思っていた恭也だったが、忍の遊びに付き合わされ、昼から夜まで気がついたら時間が経っていた。一応忍の所に泊まることを家族に伝えておき―――もう一人にも念のためメールをいれておく。
身体を休めるどころではなかったが、忍の笑顔が見れただけで十分だと思ったが……内容はゲームばかりで一勝も出来なかったのが非常に悔しい。
夕飯を食べてから、再び忍の部屋に連れ込まれまた別のゲームをすることになった。
途中片付けを終えたノエルが食後の紅茶とお菓子を部屋まで持ってきて―――ノエルも交えて今度はカードゲームが始めた。
結果は勿論、恭也とノエルの二人の圧勝。勝率はほぼ同数で、対して忍は一勝もできず。テレビゲームとは正反対の結果にへこみはじめる忍。
ある意味仕方ないことだ。恭也やノエルは表情を消すのが上手すぎる。対して今の忍は努力はしていても、僅かな感情の機微がでてしまう。ここには恭也とノエルという心を許した相手しかここにはいないのだから。
三人でゲームをして、テレビを見て、世間話をして―――穏やかな時間が流れる。いつまでもこんな時間が続けばいいと恭也は思うが、世の中はいつもそんなに上手くいくことは無い。
「……お客さん、だな」
「え?」
恭也は詳しい説明をせずに、部屋から出て屋敷の中を通り抜け、玄関を潜り、月村邸と外界を隔てている門の前まで歩いて行く。
その後から慌ててついてきたのは、ノエルと忍。カァッと闇夜を切り裂く車のヘッドライトが三人を照らし、その光のために影となっている、一人の中年男性がそこにいた。
月村安次郎―――忍を脅迫している諸悪の根源が葉巻を口に咥えて悠然とそこに立っている。安次郎の後ろには黒服にサングラスをかけたいかにもな外見をした男達が十人以上も控えていた。
とりたてて腕のたつもの恭也の見る限りいなかった。ある程度はできる者達だが、それは一般人から見たときの話。恭也からしてみれば誤差の範囲だが―――その中で一人だけ異質な存在がいた。
外見は他の者と変わらない様子だが、明らかに他のものとは違っている。尋常ではない力量を感じさせた。どこかで感じた気配だったが、はっきりとは思い出せない。
悩んでいた恭也がわかったのか、一番後ろにいたその黒服はニヤリと口元を歪め他の人間にばれないように手を振ってきた。
「久しぶりやなぁ、忍。元気にしとったか?」
「……お蔭様で」
「そうか。それなら用件はもうわかっとるやろう?忍―――ノエルを渡せ」
「……その答えはわかってるんじゃない?」
「ああ。お前は父親に似て―――頑固なところがあるからなぁ」
懐かしむように、忍を見る安次郎の視線には、不思議な暖かさがあった。
それを忍もわかっているのだろう。だからこそ、忍も完全な敵意をむけられずにいた。それに、過去に優しくして貰った思い出もそれを邪魔している原因なのかもしれない。
「―――失礼ですが、貴方は何を考えているのですか?」
「なんや、お前?お前みたいな人間が、ワシ達の話に首をつっこんでくるんやない」
「俺は月村の友達です。友達に危機が迫っているのであれば―――俺は黙って見過ごせない」
「とも、だち?お前は忍が【何】なのか知っとるいうんかい?」
「無論です。夜の一族……月村の口から聞きました」
「……そうか!?お前はそれでも、忍の横にたてるんか?」
「何か問題でも?」
「……くっく。いや、忍。良い男を捕まえたやないか」
何がおかしいのか我慢しきれなくなった安次郎は抑え切れない笑みを浮かべ、目尻に浮いた涙を袖でふき取る。
敵意もなく、三人の前に立っている安次郎。恭也は感じた違和感を拭い去ろうと一歩足を進めた。
「一つ聞かせてください。月村に直接危害を加えようとしなかった貴方が何故、昨日のような手段を取ったのか?」
「―――昨日?」
恭也の質問に、何を言っているんだという表情を作った安次郎だったが、何かに思い至ったのかこちらを馬鹿にする笑みを浮かべた。
葉巻を吸って、煙を吐き出す。寒さ故に白く見える吐息にもそれは似ていた。
「ああ、そうや。忍がこちらの言うことを聞かんから、ついつい手をだしてしもーた。すまんかったな」
「―――死んでもおかしくはない、あれほどの怪我を貴方が指示したのですか?」
「そないな大怪我をおったんか!?」
びくりと背後にいる黒服達や、忍も驚くほどの大声。
周囲が静寂に包まれている分、その声は大音となって響き渡る。
自分の出した声に慌てたのは他でもない安次郎だ。馬鹿にする笑みは消え、忍を心配する表情を一瞬滲ませるも、すぐにそれを消し去った。
「……そうや。それはワシの指示や。いい加減にワシも痺れを切らした。忍、財産はもういらん。ノエルだけでもワシにわたすんや」
「いや、よ。絶対に嫌。ノエルは私の家族だもの」
「―――さよか。そんなら力づくしかあらへんなぁ」
はぁと我侭な子供を見る大人の目をして、ため息を吐く安次郎。
おい、と後ろに声をかけると、黒服達が後方に駐車してあったトラックから数人がかりでなにやら人を運んでくる。
夜の暗闇に映える金色の髪。黒服達が運んでくる動きでさらさらと流れるように長い髪が舞い落ちる。美しすぎるその女性は、他の人が見たら人間に見えただろう。
「―――気配が、薄い?いや―――無い」
恭也はちらりと後ろに居るノエルに視線を送る。
運ばれてきた女性の気配はまるでノエルと瓜二つ。全く感じられない生体反応。
対して驚いたのは忍だ。安次郎の配下に運ばれてきたのは書物でみたことがある存在。決して機動してはならないと何度も注意されてあった、禁断の一体。
「イレ、イン!?」
「流石忍やな。知っとったか。ノエルに対抗するために態々譲り受けてきたんやで」
「駄目!?叔父さん!!イレインを機動させちゃ―――絶対に駄目!!」
「それはできん。ノエルに対抗するにはこいつに頼るしかあらへん。忍―――今日こそは、こいつで言うことを聞かせたる。子供の我侭はもうしまいや」
イレイン。
それはノエルと同じく、今は失われた技術で作られた自動人形である。その最終生産型。
ロストテクノロジーの粋を集めて創り上げられた、王族を守護するための百体の自動人形。その【百一体】目。
忍が知る限りあらゆる書物からも抹消され、唯一忍が持っている書物にのみ記されていた、異質。存在ごと消されたと思っていたその機体が目の前にある。
「目覚めろ―――【イレイン】」
安次郎の言霊がイレインに刻まれた機動コードと一致して、身体のあらゆる箇所に電流が走る。
数十年。いや、百年以上も眠りについていた最終生産型自動人形はついに眠りから目覚めた。目を開けていれば空に浮かぶのは星空がさんざめいている。
美しい星々。人類の繁栄が進むにつれだって見えにくくなっていった輝き。肌に触れる空気。
それを懐かしく感じながら、イレインは身体を起こした。身体を動かすのも久方ぶりだが、錆びていることはないようだ。
何度も手を軽く握り、調子を確認するが、問題は特にない。
「起きたか、イレイン?ワシがお前のご主人様や」
「―――ご主人、様?」
「だ、だめ!!叔父さん!!」
二人の会話に割ってはいる忍。
悲壮染みた叫び声を上げ、安次郎に注意を飛ばす。
だが、止まらない。
「そうや。お前に命令を与える。忍に危害を加えぬように―――」
「……有難うご主人様。そして、さようなら!!」
ドシュという生々しい音が響き渡った。
「―――なん、やと?」
あろうことか自分の言うことしか聞かないはずの自動人形イレインが、手首から三日月型にはえた刃物で安次郎を右肩から左脇腹を切り裂いていた。
あふれ出る鮮血。地面を真っ赤に染め上げて行く。ガクリと両膝を血の池になった大地につく。
皮肉にも安次郎の斬られた箇所は―――昨夜に忍が刻まれた傷跡と一緒だった。
イレインとは自動人形の中でも最後期に作られた。百体で終了するはずだった自動人形の生産。その例外として創り上げられたのがイレインだ。
ロストテクノロジーによって自動人形に自我を持たせる研究の成果の粋を集めた最終機体。己の意思を持って王族を守る。それを目的として作られたはずのイレインだったが、生まれ出でた自我が強すぎたために、廃棄処分となっていたのだ。
皮肉な話だ。王族を守るために自我を持たせて作られたというのに、肝心の自我が強すぎたが故に、イレインは【自由】を求めてしまったのだ。
「安次郎様!?」
突如のできごとに反応が遅れた黒服達だったが、慌てて拳銃を取り出すが、イレインは虫を払い落とすかのように手に現れた鞭で黒服達を叩き払う。
バチリという激しい電撃の音と衝撃が走り、一瞬で気を失い倒れふす。
「長かったなぁ……再び自由を手に入れるまでどれだけ眠っていたのかしら」
凄惨な笑みを浮かべて、イレインは忍たちの方へと身体を向けた。
パチンと指を鳴らすと背後のトラックから人影が降りてくる。近づくにつれ月明かりでその人影が何なのかわかった。
イレインと同じ自動人形。だが瞳には意思の光は見えない。それが五体。イレインの前に守るように立ち尽くす。
「気をつけて。イレインは五体まで自分のコピーを操作できるから!!」
忍が記憶を辿り注意を飛ばした。
つまりは単純に一人で六倍の戦闘力を誇る。非常に厄介な指示能力だ。
「私が自由がほしい。誰にも邪魔されることの無い自由が。青空を歩きたい。誰にも邪魔されることの無く青空を歩きたいの」
朗々とイレインは語る。
造られたと思ったら失敗作扱い。どの自動人形よりも優れていたというのに、廃棄処分にされた。
ただ自我を持っていたが故に。自我を持たせる研究の果てに生まれただけだというのに。多くの姉妹が処分され、既に残っているのは自分だけだろうという薄々気づいてはいる。
だからこそ、自由を得たい。他の姉妹達のためにも自分は自由にならなくてはいけないのだ。
「だから私のことを知る人間がいてはならない。私が自由を得るために―――死んで?」
安次郎の返り血で濡れた顔を拭きながら、イレインは死刑宣告をつきつける。
忍はイレインの凍えた笑みに言葉を返せなかった。イレインには言葉は通じない。イレインには確固たる気骨があった。
【自由】を得るという信念。どれだけの屍を築いてでも手に入れるもの。数多に散っていった姉妹達の想いに答えるために。
間違いなく殺す。躊躇いもなく殺す。イレインは必ず、有限実行。必ずそれを実行する。
身動き取れなくなった黒服は後回しに、残された恭也達にイレインはどす黒く燃えた視線を向けた。それに反応して、イレインコピーの一体が疾走する。
戦闘に特化していないとはいえ、仮にも忍は夜の一族。忍にさえも視認が難しい速度でイレインコピーが手首からはえるブレードで恭也の首元へ容赦なく振るった。
恭也は小太刀を抜くことなく―――不快な金属音が響き渡る。恭也が反応するよりも早く、ノエルが同じ様なブレードでイレインコピーの一撃を受け止めていたのだから。
ギリギリと拮抗する音がした。自我がなくとも、イレインコピーは最終生産型自動人形。単純な能力だけならば自動人形のなかでも高い。
「あれ、貴女って……まさか自動人形?私の姉さんだったのね。それじゃあ、コピー一体じゃ厳しいかしら」
一体では分が悪いと判断したイレインは残りの四体とともに忍達を殺そうと決断した。
油断などせずに、己の全力を持って殺しきる。そして、自分は自由を得るのだ。
もっとも一人は自動人形。一人は夜の一族。一人は人間。そんな三人でどうやって自分達六人を打倒するというのか。その可能性など存在しない。
「姉さんが一人で頑張っても仕方ないわよ?私たち六人を一人で倒したいなら―――アンチナンバーズの伝承級でもつれてくることね」
ふんと鼻で笑ったイレインは、決して有り得ない忠告ともいえぬ忠告を告げた。
そんなイレインの動きを止める何かがあった。ガクンと足首を何かに掴まれたのだ。訝しげに地面を見下ろすとそこには――ー。
「……まちぃや……忍には、手をだすな……いうた、やろ?」
息も絶え絶えに安次郎はイレインを忍のもとへいかすまいと地面に這い蹲りながら、足首を掴んでいた。
イレインをして驚愕させる、圧倒する意思を持って、安次郎は、力いっぱい握り締める。
別に痛いというわけでもない。それでも、その手からは決して離すまいという不屈の闘志が伝わってくる。
「叔父、さん?」
意味が分からず忍は安次郎の名前を呼ぶ。
自分をあれだけ脅迫していた叔父だったのに、何故イレインを止めているのだろうか。
夜の一族は基本的に子供が出来にくい。それ故に兄弟というものは比較的珍しい。そして何故か分からないが長男に血は色濃く受け継がれる。
人外の血を薄くしかひくことができなかった安次郎ではあの傷では致命傷。おそらく―――長くは持つまい。
だというのに、激痛に襲われながらも、死を目前にしてなお、イレインを忍から守ろうとしている。今までの行いとは全てが矛盾している。
ギラギラと、眼を光らせ、蝋燭が消える最後の力を振り絞っているのは誰の目からみても明らかで。
それでも、安次郎の瞳は―――忍にだけは優しく見えた。まるで昔の優しかった頃の安次郎のままで―――。
「……うざいわね。もういいわ。その傷じゃあ、長くないけど先に死んじゃいな!!」
イレインコピーが安次郎に近づいて行く。
その時、身動きをとらなかった恭也が忍にだけ聞こえるように―――囁いた。
「―――月村。お前はどうしたい?」
「え?」
「―――俺から見ればあの男はお前を苦しめた張本人だ。どんな【理由】があろうと。俺は守ろうとは思えない」
「……」
イレインコピーがブレードを振り上げる。
「だから、俺は聞きたい。お前がどうしたいのか。あのままでもいいのか。それとも―――救いたいのか」
「……」
わからない。安次郎はこの一年の間忍を脅し続けた。
恨んでないといったら嘘になる。直接怪我をさせるようなことだけはしてこなかったが、それでも辛かった。
でも、過去が想いだされる。楽しかった過去。両親が健在だた遠き思い出。父よりも母よりも、優しくしてくれた叔父。
両親が死んだ後も色々と手を尽くしてくれた安次郎。彼がいなかったら忍に残されるものなどなにもなかっただろう。月村一族の財産は莫大だ。ハイエナのごとく寄ってたかって食い尽くされて終わっていたはずだ。
それなのに今の忍の手元には両親の遺産がほとんど残っている。それは何故か。答えは簡単だ。安次郎が身体を張っていた。忍を守るために。忍が受け継ぐ財産を必死で守っていた。
あらゆる親類縁者を敵に回してでも―――安次郎は忍のために全てを投げ打っている。
唯一仲の良い親類である、【綺堂さくら】からそれを教えられたのはつい先日だった。さくらもそれに気づいたのは最近だったという。
そんな安次郎が豹変したかかのようなここ一年。きっと人が変わってしまったのだと思っていた。
だが、違う。安次郎は変わってなどいない。あの頃の、過去の優しい叔父のままだ。きっと何か理由があったのだ。安次郎なりの重大な理由が。
「バイバイ、ご主人様」
イレインコピーがブレードを振り下ろす。
瀕死の安次郎にそれをかわす術は無く―――。
「―――助けて、お願い。救って、恭也!!」
「承知。任せろ―――【忍】」
その瞬間、光が奔った。
それは例えるなら白銀の稲妻。
如何なるものも両断し、切り裂く、光の剣閃。
その場にいる誰もが、理解できなかった。
目の前で起こったその瞬間の出来事を―――。
恭也の姿が消えうせていたから。
いや、違う。その程度で驚くはずが無い。
その場にいる皆が驚いた理由は……。
上半身と下半身を両断されたであろうと予測される―――安次郎にブレードを落とそうとしていた筈のイレインコピーの下半身【のみ】がその場に残っていただけなのだから。
「……え?」
イレインが動揺する声を隠せずに、イレインコピーの上半身であろう粉微塵に切り刻まれた【何か】を凝視した。さぁと夜風がそれを彼方へと運んでいく。
そして、ゆっくりと二振りの小太刀を抜いている恭也へと視線をずらす。何時の間に移動したのだろう。今さっきまでは、目の前の男は、遠く離れていたというのに。
気がついたときにはすでに目の前にいた。理解の域を超えた、光の速さ。視認さえも許さぬ絶対速度。しかし、問題はそれではない。細切れにされたイレインコピー。
ただの日本刀で、超合金であるイレインコピーを斬ったことにも驚いたがそれ以上に―――。
一体何度刀を振るえばあのような粉微塵に変えることができるのか。
一度や二度でできるはずもない。ならば、あの一瞬で何十もの斬撃を繰り返したというのか?
「なんだ、なに、をしたの!?」
半狂乱に声をあげるイレイン。
一番問題にはしていなかった人間にこれほどの恐怖を抱くとは。理解できないものほど恐ろしいことは無い。
「どうした、喜べ。イレイン」
「……何を喜べ、というの?」
恐怖で戦き、後ずさるイレイン。
それにたいして恭也はふぅと深く息をつき―――。
「―――お前が連れてこいと言ったアンチナンバーズの伝承級はここにいる」
「え……?」
イレイン等問題にならないほど冷たい何かが溢れ始めた。
殺気なのだということに、ガチガチと全身が震え始めてから気づいた。
「初めまして、自動人形。俺の名は不破恭也。アンチナンバーズが【Ⅵ】。人形遣いを滅ぼした天蓋の化物。最凶を凌駕した刃。【伝承墜とし】だ」
無表情ながらも、イレインに語りかける恭也がかすかに笑った。
皮肉気に口元を歪ませる恭也の姿は、イレインには化け物しか見えず。
適当に言った人外の頂点。化け物の化け物がいるなど―――どんな笑い話なのか。
「伝承、墜とし!?知らないわよ、なによ、それ!?アンチナンバーズのⅥは、人形遣いの筈よ!?」
「―――いえ、確かに三年前に人形遣いは滅ぼされています。後を継いだのが――ー伝承墜とし」
冷静ながらも、驚き目を見開いているノエルがイレインの叫びを否定する。
あああ、と言葉にならない何かしか口から出てこない。
確かに伝承級を連れてこいとは言った。だが、本当に遭遇することになるなんて有り得ない。
勝てるわけが無い。領地を広げ続ける、死者の女王を打倒するなどと、誰が想像するのか。
驚き、恐怖するイレインを尻目に安次郎を片手に持ち、忍の所まで運んでいく。
ぼたぼたと地面を血で濡らしていく。恭也の目から見ても確実に致命傷。あとは早いか遅いかだけの違いだ。
「叔父さん……」
忍の悲痛な呼びかけにも答えはない。
意識を失う手前。すでに朦朧としている。それでも、安次郎の忍を見る目だけは変わってはいない。
「ああ、ノエルさん。もうソレの相手はしなくても大丈夫です」
「……え?」
「通りざまに斬っておきました」
それを合図に、ノエルと切り結んでいたイレインコピーがぐらりと体勢を崩す。
いや、崩したわけではなく―――四肢を斬りおとされ、上半身と下半身を切り別たれていた。
何時の間に斬ったのか。ノエルでさえも初動作さえも見切ることは出来ない。もはや、それは桁が違う超速技。
二人に背を向け恭也はイレインとの間合いを詰める。今度は誰にでも見えるようにゆっくりと。
「恭也……?」
「恭也、様?」
忍とノエルの声を背中で聞きながら、恭也は心配するなと手を挙げて答える。
そして―――伝承墜としは刃を向けた。
「お、お前は―――」
「言葉はもういらん。お前は俺に刀を抜かせた―――お前の死は絶対だ」
「く、そぉぉぉぉぉう!!」
残されたイレインコピー三体が恭也を止めんと後方、前方、右手から襲い掛かる。
その三体は確かに見た。闇夜を切り裂く、一条の閃光を。白銀の刃。煌く剣閃。
音もなく、抵抗もなく、たった一度の交差でイレインコピーは、ある者は首を飛ばされ、ある者は心臓を貫かれ、ある者は上半身と下半身を分断され、短い機動時間を終えた。
「あっ……あっ……あっ……」
目の前で起きた光景に押されたイレインは腰が砕けたように後ろに転がりそうになった、その瞬間。
イレインにとって幸運だった。もし転ばなかったら確実に巻き込まれていた。目の前を通った光の剣閃を。
夜を照らす輝き。恭也はこの斬閃をこう呼んでいる。いや、正確には違う。この剣閃の名付け親は自分ではない。
―――天眼。
かの化け物に名付けられた。
今から三年前に戦った人形遣い。その化け物と戦い、見出した妙境。
あらゆるものを断ち切る不可視の斬撃。天眼は恭也のこの斬撃を見てそう名付けた。
痛みは無く、斬られたという感覚もなく、イレインは己の両腕が半ばから斬りおとされているのをようやく気づいた。
見れば少し離れた地面に自分の両腕が転がっている。笑うしかない。あまりに次元が違いすぎた戦闘力。
これが―――かの伝説。伝承に語られる人外の頂点達の一角。
―――勝てるわけは無かった。
「あはっははははははははははははは―――!!」
壊れた機械のように笑い続けるイレインを、用心して見下ろす恭也だったが、もはや雌雄は決している。
勝負の天秤は恭也に傾き、これ以上何かあるのかと集中力を高めたが―――。
ざっと音をたてて心臓を貫かれたはずのイレインコピーが忍達の方へと駆け抜けていく。
反射的に振り返った恭也だったが、忍へと到達する前にノエルが割って入り足を止めに成功した。
安堵した恭也だったが、イレインの狂った笑い声は止まらない。
もしも、イレインコピーが忍に向かっていったのならば恭也は全速で止めに入っただろう。そしてそれを可能とした。
だが―――イレインの目的は違った。恭也に四肢を切り裂かれ、忍の近くに倒れていたイレインコピーが奇妙な音を立て始める。
まさか、と思う暇も無くイレインコピーのたてる音が高くなっていき、光を発した。
響き渡る轟音。爆炎が、衝撃が離れた恭也にさえも伝わってくる。黒い煙が立ち昇る。
月村邸の脇の森から、爆発に驚いた鳥達の群れが、ばさばさと飛び立った。
離れた恭也にもこれだけの熱気を伝えてくるということは、それよりも近い位置にいた忍はどうなっているのか。
背筋に冷たいものが走るなか、爆心地に近づく。それと同時に無事ではあったが、泣きそうな表情のノエルもまた忍のいた位置へと走り寄った。
二人がそこで見たものは―――。
月村安次郎。
彼は名家と名高い月村一族の次男として生まれた。
夜の一族は子供が出来にくい。それ故に未だ理由がわかってはいないが、最初の一子に夜の一族としての血は凝縮されることになる。
月村征二。忍の父である彼に全ての愛情は注がれた。忍の祖父達の莫大な財産も全てが征二に継承されたのだ。
安次郎はそれを不満におもったことなど一度としてなかった。両親や親戚からはぞんざいに扱われたが兄の征二は心のそこから安次郎を大切にしてくれたからだ。
血の薄さから夜の一族としては大成できない。それが判った安次郎は僅かな資金を元手に表の世界で企業を経営し始めた。
幸いにも優れた経営手腕を持っていた安次郎は、日本でも有数の経営者として知られることになる。
そんな折に、兄が結婚したことを知る。忙しかった安次郎は中々兄のもとを訪問する機会がなかったが、それから数年。ようやくまとまった時間が取れるようになった安次郎は征二の家を訪ねてみれば―――可愛らしい子供がいた。
月村忍。兄の子にして自分の姪。元気な娘であった。そして、夜の一族としては落ち零れな自分にも笑顔を向けてくれた。
兄の子と言うこともあり安次郎は忍をこれ以上ないくらいに可愛がった。
自分に子供がいなかったこともそれに拍車をかけただろう。
事態が急変したのは忍が十歳の頃。忍の両親が海外へ仕事で出かけた際に―――飛行機が墜落。帰らぬ人となった。
悲しみを受け止められず元気だった忍は引きこもるようになったが、問題は遺産の相続だった。
月村一族の遺産は莫大。特に征二の継承した財産は天文学的な数字。
それを狙って様々な連中がやってきた。それを相手にするには忍では不可能。それ故に安次郎は必死になって忍を守った。
かなりの財産を奪い取られはしたが、それでも忍が過ごしていく上で問題なさすぎる財産と月村邸を死守することに成功したのだ。
安次郎は後悔した。夜の一族としての力がない自分。表の世界でも優れた経営者ではあったが、ただそれだけだ。
だからこそ、安次郎は権力が必要だと思った。表の力でも、月村の一族を黙らせるだけの力が。
そうして安次郎は寝る間も惜しんで表の世界で様々な経営に乗り出す。あらゆる相手を黙らせるだけの財力を、権力を手に入れるために。
忍のことを気にかけつつも、数年の時が流れた。
ノエルという自動人形を自分の手で直したことを知ったときは我が姪っ子ながら天才かとも思ったが―――それが全ての歯車を破壊することになる。
つい一年前にある筋からノエルを狙っている相手がいることを知る。
しかも、最悪なことに裏のある組織の一員。安次郎の力も届かない深い闇に根ざす相手。目的のためならば手段を選ばぬ外道達。下手をしたら、忍を殺してノエルを奪い取ることも辞さない。
安次郎は彼らに交渉をはかり、自分が忍からノエルを奪い取って渡すことを約束し、彼らを傍観者に留めることに成功した。彼らの組織と親しくなりたいからそれを持って手土産としたいという嘘まで吐いて。
後は忍からノエルを受け取れば、忍はこれまでと同様に暮らしていけるはず―――だった。
安次郎の誤算。それは忍とノエルの絆の強さ。
両親の喪失から立ち直らせてくれたノエルを、忍は家族とまで認めていたのだ。家族と引き離されることを良しとする者はいないだろう。
忍にはできるだけ表で生きて貰いたいと思っていた安次郎はノエルを必要とする理由を説明するわけにもいかず、手詰まりとなる。
安次郎は忍のことが大切だ。
そのため強引に忍とノエルを引き離す手段を取る事はできなかった。
そこから安次郎の苦悩の日々が始まる、できるだけ、二人には残された月日を過ごして貰いたいと願いつつ、忍への脅迫を始める。
ノエルを奪い取るという、組織への体裁のために、できるだけ直接的な手はくわえないようにしてだが。
幸いというか、組織は中国を本拠地としていたために、この地まで中々目が行き届かないのも手助けとなっただろう。それにあくまで組織の目的ではなく、組織のある一部の者達の狙いだったために長い間ごまかすことに成功した。
親類縁者にも忍へ対する脅迫の牽制をしつつ、日々を過ごす毎日。愛しい姪に悪態を、心にも無いことを言わなければならない苦痛。心が音をたてて壊れていく。
必死だった。安次郎は凡人だった。経営者として優れていたとしても、力は無い。誰かを止める力など無い。あるのは忍を、姪を守りたいという気持ち一つ。
それもやがて限界を迎える。
いや、一年もよく持ったほうだろうと安次郎は自嘲した。
仮にも血も涙も無い闇の組織が一年も猶予をくれたのだ。それがつい先日の話。ノエルは強すぎるために普通の人間ではどうしようもないため、北斗という暗殺集団まで雇ったというのに一向に仕事をしてくれなかった。
そして組織の者達は安次郎に秘密裏に最近は動いていたらしい。暴走車で忍を狙い、歩道橋の上から突き落とし、あろうことか死んでもおかしくは無い重傷も負わせた。
許せない気持ちが膨れ上がった。それ以上に危機感も。
組織の最後通告なのだろう。時間をこれ以上かけるならば―――もはや容赦はしない、という。
脳裏に思い浮かぶのは―――兄の征二。夜の一族としては無能な自分に誰よりも優しくしてくれた。
脳裏に思い浮かぶのは―――姪の忍。夜の一族としては無能な自分を誰よりも慕ってくれた。
二人に捧げるのは沢山の感謝。下らない自分の人生は二人によって救われた。
忍が平穏に生きていけるためならば、どんな手段でも使おう。
ワシは―――悪になろう。
煙が薄れていく爆心地の近く。
忍がいた場所には、ぼろぼろの【何か】が残っていた。煤で汚れた何か。
それが何なのかすぐにわかった。その何かの下から無事な忍が這い出してきたのだから。
ごろりと地面に転がる何か。いや―――月村安次郎。
爆発と爆炎から忍を庇ったのだろう。皮膚は裂け、焼けただれ、無事な箇所などなにもない。
「―――叔父、さん?」
茫然自失の忍。
イレインコピーが爆発する瞬間、安次郎は忍を地面に押し倒し、自分が盾となって守ったのだ。
自分も瀕死の重傷を負いながら。それでも、忍を守るために身体を張った。
「叔父さん!?叔父さん!?」
忍が安次郎にすがりつき、身体を揺さぶる。
全く反応をしなかった安次郎だったが、忍の声に意識を引き戻されたのか薄っすらと目をあけた。
「……ああ、なんや……無事やったか……」
「叔父さん、なんで、なんでかばったの?なんで―――」
泣いていた。この世界で誰よりも泣かせたくない姪を泣かせてしまった。
いや、違う。この一年きっと何度も泣いていただろう。不幸にしたくないと願いつつも、不幸にしたのは自分のせいだ。いいわけなどしない。
ぼやける視界の端に恭也が映る。
はっきりとは聞こえていなかったが、この男は忍が夜の一族であることを知っていてもなお、一緒に居るのだ。
まさかそんな相手が見つかるとも思っていなかったが、これ以上うれしいことは無い。
そして、強い。自分では成し得なかったができるだろう。この男になら忍を任せられる。あらゆる障害から忍を守ってくれる。
後は静かに自分の人生に幕をおろすだけだ。
「……あほぅ……お前がしんでもーたら……財産がワシに、はいらんやろう……」
心にもおもってもいないことを告げる。
これでいい。忍には最後まで悪人を徹さなければならない。自分のような男のために気を病むこと等必要ないのだ。
「……私ね、恭也に言われたんだ。嘘が下手だなって……」
涙声で忍は語る。
安次郎の焼け爛れた手を握り締めて、ぽろりと涙を流す。
「血筋かなぁ……叔父さんも、嘘が下手だね……」
「……うそ、やない……」
「……ううん。叔父さん、有難う―――沢山、沢山、沢山―――有難う」
ぽたぽたと涙が流れ落ちてくる。
結局ばれてしまったようで、自分の演技の下手さを呪いたくなる。
だが、駄目だ。認めるわけにはいかない。
自分は―――誰にも認められずとも、悪になると決めたのだから。
「……ほんと、けったいな……やっちゃ……」
だが、悪くは無い最後だった。
姪に見取られて最後を迎えるなんて、きっと今日は人生最後にして―――最大の幸運なのだろう。
目をつぶる。忍の声も聞こえなくなっていく。
そして、悪を貫いた月村安次郎は満足そうに、一生を終えた。
忍が安次郎の遺体に縋りつき、静かに涙を流す一方、イレインは既に遠く離れていた。
恭也の視界でもかすかに映る程度の距離。
そのイレインの後姿を追おうとした恭也の足が止まった。
「はぁ……はぁ……はぁ……生きる。生き延びる。私は生き延び―――」
「―――ああ、無理だ。僕はどうもお前は気に食わない」
疾風がはしった。
イレインの身体を撫でつけ―――ぐらりと身体が揺れる。
疑問に思う間もなく、足が動かないようになっていた。バランとなにかが崩れる音がしてイレインは己の両脚が斬りおとされたのを知った。
イレインの背後には刀を抜いた水無月冥の姿。ふんと鼻を鳴らし、刀を鞘に納める。
足がなくなり、地面に落ちそうになったイレインの顔を掴んでとめた人物がいた。
少しばかり機嫌の悪い水無月殺音だ。手に力をこめるとミシミシという音が響き渡る。
「わた、しは―――自由が―――」
「残念。来世に期待しときなさい」
グシャリと何かを砕き割る音が聞こえ、最終生産型自動人形の今生は潰えた。
二人の背後には北斗の面々がついてきてはいたが、やる気は全く見られない。
殺音と冥の姿を遠目で見た恭也が―――決着の時がきたのだと、深く息を吐いた。
「ノエルさん。忍のことを―――頼みます。アレは俺の客です」
「……ご武運を」
ノエルに見送られ、恭也は殺音に近づいていく。
恭也が近づくにつれ、殺音の顔が笑顔に変化していった。
互いの距離は数メートル。冥は邪魔にならぬように、後ろに下がり他の北斗のメンバーと同じ位置に控える。
沈黙だ。互いに言葉はない。だが、二人の間の空気は、ピシリピシリと凍えていく。
そんな空気を見た冥は、嘆息する。
僕が相手じゃなくてよかった、と。
「―――すまんな、殺音。お前に世界最強になると約束したが、此処までしかまだ歩めてはいない」
「あっははは。人間でアンチナンバーズの伝承級に選ばれていながらの台詞かい、それが。私の想像を遥かに超えてるよ。伝承墜とし」
「出会った敵を斬り続けたら、結果としてなっただけだ」
「ふふん。やっぱり、キミは最高さ。十年まったかいは―――あったよ!!」
ぐにゃりと周りの景色が揺らぎ、空気の流れが変わった。
二人の殺気に方向性をもたし、互いにぶつけあう。包み込みあう殺気の波動。
お互いに叩き潰そうとする重圧を撥ね退け、感覚の歪みを取り戻す。
殺音の目がきらきらと輝き、歓喜が迸り、恭也を受け入れるために両腕を広げる。
爆発させるように、感覚を発し、二人はその場から傾いた。
二人の姿勢は蹴躓いたかの体勢で、その姿勢のまま、地面を踏み割る。身体が吹っ飛んだかのように、前方へと押しやる。
殺人的な殺音の拳が空気の壁をぶちやぶって放たれた。恭也はかがみこんでかわす。一瞬遅かったのか風圧で髪がたなびく。
恭也の足が大地を踏みしめ、カウンターとなる右拳が殺音の腹部に決まった。
十分な威力をのせた一撃だというのに、拳には異様な感覚が伝わる。鳥肌がたつが、恭也はひきはしなかった。
カウンターの拳をくらってなお平然とする殺音の蹴り足が跳ね上がった。
咄嗟に横にとんでかわす。恭也のいた地面が殺音の蹴り足でこそぎとられる。土が宙に舞い、落下していく。
恭也の後を間断なく詰め、容赦なく拳を向ける。
早い、というレベルを超えていた。なんとか寸前で見切る。
追の連撃。これもかわすが、反撃の隙はなし。
殺音の背負う圧倒的な殺気を先程は跳ね返したとはいえ、気を抜けば押し潰されそうになる。
―――刀を抜かないの?
そう殺音の目が語っていた。
―――抜かせて見せろ。
恭也は物言わぬ目にそう返す。
侮っているわけではなく、恭也が刀を抜くということは―――文字通り必殺。
そこまでの力を見せろと、視線で語る。
一秒を数十に分割した一瞬の時。そこに隙を見つけた恭也の手足が動く。
殺音の腕に、足に流れる動きで拳と蹴りをみまう。徹こみの攻撃だというのに、殺音はきいたそぶりさえも見せない。
鉄槌に匹敵する重たい打撃だ。常人ならば一撃で骨を粉砕され、意識を失うほどの衝撃。
恭也の攻撃に殺音が喜びを隠し切れぬ様子を見せる。
本人のテンションがどこまでも高くあがっていくのは明らかで、興奮を隠さずに逆に見せ付けてくる。
斜め冗談から打ち下ろす右拳。それを身体を半身にして避ける。
殺音は流された拳の力を利用して回転。ふりむきざまの裏拳へと変化させた。
受け止めようとして、殺音の拳に秘められた凶悪さを本能が感じ取り、転がりかわす。
体勢を整えれば、回り込むように殺音は恭也を追い詰める。
蹴り足が跳ね上がり、それを後ろに半歩動いて避け、踏み込もうとするも悪寒におそわれ足を止める。
空中でピタリと止まった蹴り足はそのまま踵落しとなる。
すんでのところで危機を感じ取った恭也はなんとかその攻撃を凌ぐ。
足が地面につく前に、恭也の蹴りが稲妻の速度で殺音の首元に決まった。
骨が折れてもおかしくは無い手加減ぬきの蹴り。だが、分厚い鉄板を蹴った感触しか、足には残らず。
即座に身体を飛び退かせ、離脱する。
首に感じた衝撃なぞなんのその。殺音は全く通用していないようで、笑みを深くしたまま恭也へと迫る。
殺音の右フックが顔の眼前を通過する。
風圧が顔を叩き潰すように感じられるが、怯んでいる暇は無い。
ダンと一際高い地面を叩く音が周囲に響いた。
加速した殺音の姿が急迫する。反射的に後退しそうになった身体を叱咤する。
このまま後ろにさがったら相手の思う壺だ。後ろに逃げてはすぐに追いつかれる。
殺音を引きつけ、拳が恭也に届く前に極限まで無駄を省いた動きで宙に舞う。
頭上を飛び越え、手足を使用し反動をつけ、殺音の背後に着地した。
それ同時に拳を殺音の背中につけて、震脚。拳に嫌な感触を残し、解放された衝撃が殺音を吹き飛ばす。
背骨を圧し折るつもりで放った寸頸だったが―――吹き飛ばされながらもなお、体勢を整え、殺音は笑みを絶やさず恭也へと向かってくる。
これも効果なしかと確認をした恭也に、殺音は流星の如き速度で走りよった。
その動きは恭也が知る限り、誰よりも早く、何よりも、怖い。
一撃一撃に恐怖が纏いつく。息を呑む戦意。
十年の重みが、凄まじい圧迫感を伴って恭也をして、怯ませる。
だが―――これでもまだ本気ではない。
恭也の直感。殺音はほんの一部の力しか使っていない。
それがはっきりと理解できる。この状態でも人形遣いと呼ばれる化け物と同等以上だというのに。
強大で巨大な怪物が、戯れるように拳を振るっている。そんな感想を恭也は抱いた。
そんな余計なことを考えていたせいだろうか。
殺音が雄叫びをあげて、間合いを詰めてきた。今までが霞む速度。急激に増した速度に反応しきれず、殺音の拳が喰らいついてきた。
咄嗟に腕を交差して殺音の拳を受け止める。両腕に伝わるのは徹とかそんな技術を超えた、破壊の衝撃。
両腕が痺れ、握力が失われる。全身の感覚が消え失せるなか、恭也の身体が吹き飛ばされた。
面白いように転がっていき、背後にあった森を形作る太い幹の木々にぶつかりようやく止った。
がはっと恭也が咳き込むと、地面を赤黒い血が染める。
戦いの喜びに打ち震えて、殴り飛ばされ地面に転がった恭也を追撃しようとする。
だが、殺音は次の一歩を踏み込めなかった。冷たい空気にあてられて、自然と身体が動きを止める。
もし、殺音がただ勝ちたいだけならばそこが勝負の分かれ目であった。この瞬間こそが踏みとどまり、恭也へと攻撃をせねばならぬ勝負の明暗をわける一瞬。
だからこそ、恭也の全力をみたい殺音はあえてそこで足を止めた。己の直感に従うように。
不思議な気分だった。殺音は自分の拳をまじまじと見つめる。
一切の手加減もない一撃だったというのに、それがまともに恭也の両腕を殴りつけたというのに。人を余裕で殴り殺せる。それほどの力をこめた一撃だったはずなのに―――。
恭也は立ち上がった。血と唾液が交じり合った唾を地面に吐き捨てる。
無傷であるはずがない。例え恭也といえど今の一撃を受けて平気なわけがないのだ。
だというのに―――恭也は口元を歪めていた。
殴られたというのに。激痛が全身を襲っているのだというのに。
嬉しくてたまらない。そんな表情を今の恭也は誰にでもわかるかのように浮かべていた。
否、それはすでに狂笑といっても過言ではない。どこまでも禍々しく、狂喜が入り混じった、人がしてはいけない狂った感情のなにかだった。
「く、はは……すまんな。笑いが、抑えられない……笑みが自然と浮かぶ」
全力で戦ってきたことは数多い。全力を出さねば生き残れなかった戦いは指の数ですまないほど経験してきた。
絶望を覚えるようなバケモノどもと命の削りあいをおこなってきたことは数知れない。
だが結局は恭也は生き延びてきた。例えどのような化け物と戦ってきても―――恭也は勝ち残ってきたのだ。
殺す気になるほどの、全力で挑んで勝利の光を一筋も掴めないような化け物。それこそが水無月殺音。かつて感じた恐怖と実力は間違いではなかった。
それが、ようやく目の前に現れたのだ。しかもそれは、かつて盟約をかわした、運命の相手。それを喜ばずしてなんとするか。
全力。全盛。おのがすべてをかけて戦うに値するバケモノが。
知略も、策略も、一切の余分を省いた、魂をかけての闘争!!
俺はついに―――その場に立てたんだ。
「ようやく、ようやくだ―――【俺】が【俺】として、不破恭也として戦える瞬間がやっときた!!」
―――十数年にもおよぶ地獄の修練。
「く、はははは!」
―――十数年にもおよぶ死地での鍛錬。
「受け止めてくれ、水無月殺音!!」
気づけば十余年もの昔、殺音の殺気を前にして何もできなかった少年は―――。
「俺の剣を!俺の命を!!俺の魂を!俺の、全てを!!」
何者をも逸した―――最強の剣鬼になり果てていた。
「己を研磨し続けた。刀の化身と成り果てた我が身……救いなど有る訳が無いと思っていた。必要ないと思っていた」
それが不破恭也の生き方。
遠き昔に邂逅した人外の中の人外。水無月殺音と戦えるだけの力を得るために、感情を殺し、想いを殺し、刀の化身に成り果てた。
【人形遣い】と呼ばれる凶人とも殺し殺されの戦いを経験し―――自分が既に人間とは言い難い化身になったのだということを理解させられた。
それでも良かったのだ。全てを捨てなければあの時に、命を落としていたのだから。
だというのに。それだというのに。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。こんな幸福を認めてもらえるのだろうか。刀の化身でもなく、高町恭也でもなく、不破恭也としてのかつてない幸福。
「だが―――報われた。お前(殺音)と再び会えて―――良かった」
圧倒的な殺気が弾ける。絶対的な闘気がたちのぼる。絶望的な殺意が周囲を満たす。
殺音の生きてきた百年の年月において間違いなく最強の名を冠する剣士がそこにいる。
ぶるりと殺音の身体が震えた。
恐怖でも畏怖でもなく―――ただ、喜びで。
あの少年が、たった十数年足らずで自分と同じ、否、自分以上の世界へと足を踏み入れたことに身体中が歓喜で震えた。
凄まじい重圧で身体が押された。圧された。
恭也の全てを見せられた。魅せられた。
ズクンと身体の底の底で蠢く闇が囁く。
そのままでいいのか、と。その程度で恭也と戦うのか、と。恭也の想いに答えなくていいのか、と。
―――良い訳が無い!!
殺音の心の雄叫びに闇が嗤う。
それでいい。後先など考える必要などない。
【今】に全てをかけろ―――それが恭也にたいする最大限の敬意だ。
恭也と同じように自然と浮かんだ笑みを隠すように手で覆う。
「キミは―――バケモノさ!ヒトという名の正真正銘のバケモノだ!!」
「ああ、そうだ。その通りだ。認めよう。俺は刀を求め―――刀となった。ただそれだけのヒトだ」
「そんなキミにだからこそ見せよう!!魅せよう!!私の生涯全ての尊敬と敬愛と畏怖と喜びと―――愛情を捧げて!!」
夜空を見上げる殺音。
そして、一言。
「―――覚醒、【猫神】」
瞬間。それは起きた。
恭也の重圧を押し返すような、驚異的なほどの力の解放。
物理的な威力がこもったかのような突風が巻き起こる。
変容していく。
―――殺音の肉体が。
変質していく。
―――殺音の本質が。
ドクンドクンドクンと深奥から闇が這い出てくる。激しい体の痛み。頭痛が響く。苦痛に耐えるように歯で唇を噛み締める。
【闇】と【自分】の魂が同調し、変化を遂げようとしているのだ。その痛みは常人ならば絶命してもおかしくはない。
まるで魂と魂が見えない糸で絡まっていくような不思議な感覚。
激痛はさらに酷くなっていく。脂汗が、全身から滴り落ちる。痛みはすでに絶頂に達している。それでも殺音は耐え切り、悲鳴一つあげようとしない。
身体中の至るところを内側から爆弾で爆砕させられたような痛み。
それほどの激痛でありながら、殺音は耐え切った。僅か一分にも満たないが―――永遠にも等しく感じた時間を。
そしてようやく殺音は全身を蝕んでいた激痛が消えていることに気づいた。
荒く乱れた呼吸を繰り返し、徐々に呼吸を整える。
体内を満たす果てしなき、破壊の鼓動。流れ込んでくる、熱い空気。
ギラギラと真紅に輝く瞳が、よりいっそう禍々しさをます。
一睨みするだけで普通の人間ならば心臓をとめてしまいそうになるほどの重圧を撒き散らす。
空間が恐怖したかのように、軋みをあげはじめる。
何時の間に生えたのか―――殺音の頭には猫のような耳が二つ。
そして、尻尾がゆらりゆらりと左右に揺れていた。
半人半獣。その言葉が相応しい異形の姿。
さらに殺音の白い肌だからこそ映える―――黒く輝く異常なる紋様。
両頬から首筋を伝って両肩。両腕。下半身へと。
幾何学的な漆黒の何かが浮かび上がっていた。
恭也が先ほどまでは別人だとすれば、殺音もまた別人。
人の頂点と化け物の頂点。
ここにおいて―――二人は全ての奥の手を出し切った。
「―――アンチナンバーズが【Ⅷ】。【猫神】―――水無月殺音―――全力全盛全開全生を持って、キミを受け止めよう」
世界最強の化け物集団―――そのⅧを名乗った殺音は獰猛な笑みを浮かべ、首を捻る。
迸る、次元のことなる殺気の奔流。その濁流にのまれながら、恭也もまた嗤った。
「永全不動八門―――御神が闇。【不破】の最終血統。アンチナンバーズが【Ⅵ】―――伝承墜とし―――不破恭也。我が命と魂と誇りを持って、感謝とする」
二人の最高と最強に高められた殺気がぶつかりあい、世界を恐怖させる。
美由希でさえも置き去りにされる、いや、何人たりとも二人の間には割って入れない。そんな空間が形成されていた。
それはまさに―――二人に許された、二人のためだけの、二人による究極の世界であった。
恭也が構える。殺音も構える。
バチリと互いの視線が交差し、決戦が始まるのだと認識した。
力がこもる。全てを今この一瞬に込めて―――。
「「お前(キミ)の全てを―――」」
殺音の生涯で、間違いなく最強の剣士が呟く。
恭也の生涯で、間違いなく最強の化け物が呟く。
「「―――俺(私)にくれ」」
--------atogaki-----------
とりあえず長くなったので二話にわけました。
もうちょっと丁寧にかけばよかったかなーと反省です。
それと次章ですが、仕事のほうで新しい店舗を担当になってしまい、慣れるまでしばらく更新は滞ります。
申し訳ありませんが、ご了承ください。
次回で忍編及び、殺音編終了できたらいいなーと願いつつ、次も宜しくお願いします。