冷えた身体に熱いシャワーを浴びせ、身体を暖めたツヴァイが満足した様子でシャワー室から出てきた。。
バスタオルを上半身に巻き、それ以外は何も身に着けていない。一目でわかるほどの抜群のプロポーション。
ナンバーズの数字持ちの中でも一、二を争うと評判の出るところは出て、引っ込む所は引っ込んでいる、同じ女性でも見惚れてしまうほどだ。
身体の至るところに刻まれた、傷跡さえなかったらの話だが。HGSの能力者としてすでに十年以上も一線で動いているツヴァイは当然戦闘経験も多い。
その結果として、決して無傷とは言えない数多くの傷跡を負ってしまった。それを恥とは思わないが、これを見て自分を愛してくれる男は現れないだろうと心のどこかで思ってもいる。
「あー、なんか意外と楽な仕事ッスね?」
風呂上りのツヴァイに聞こえたのは完全に気の抜けたエルフの台詞であった。
見れば部屋の中央に置いてある椅子に座りながらテーブルに突っ伏してテレビをぼけぇとしているエルフの姿がある。
いや、エルフだけではない。ゼクスとツェーンも見るからに気の抜けた体勢で何をするでもなく天井を見上げていた。
駄目妹達にため息を漏らしつつ、近づいて行き隙だらけの頭をパシンと叩く。テレビの音しかしない部屋に叩いた音は三つ。
三人とも避けることもせずに、ツヴァイに叩かれるままだ。その姿に呆れつつ、ツヴァイは肩にかけてあったタオルで濡れた髪を拭く。
「貴女達。もうちょっとやる気をみせなさいよ。ズィーベンとフィーアを見習いなさい」
「えーだって。あたしって基本的にアレじゃないッスか?隠密行動むいてないッスよ」
「あたしも、かな」
「私もー。偵察はあの二人に任せておけばいいんじゃない?」
パシンと何かを叩く音がまた二つ。
叩かれたのはゼクスとツェーンだ。叩いたツヴァイは、ふぅーと深く疲れたため息をまたもや吐き、人差し指で額を押す。
頭が痛いというわけではないが、この三人の行動が悩みの種であることには違いない。
「エルフは兎も角……貴女達二人の能力は偵察に最適でしょうが」
「まぁ、聞いてよ―――ツヴァイ姉?私はね、一年間も百鬼夜行のストーキングしてたんだよ?で、ようやく終わったと思ったら今度は猫神だよ?これって幾らなんでも酷くない?私が労働局にチクったらどうなるかわかるよね?」
「はいはい。どうにもならないから」
「ええー?ツヴァイ姉もっとのっていこうよ」
「そういうのはツェーンにでも頼みなさい」
ゼクスの訴えをばっさりと斬って捨てたツヴァイが椅子に座る。
ちらりとゼクスが横目でツェーンを見るが、本人は一応話を聞いていたのか、考えるそぶりをする。
基本的に寡黙で、感情を表に出さないツェーンが珍しく、しっかりとした意思を視線に乗せ、口を開いた。
「なんでやねーん」
「……」
「……」
「うははは。それ面白いッスね、ツェーン」
うわーという表情をしたツヴァイとゼクスだったが、意外にもエルフはどこがツボに嵌ったのか爆笑している。
相変わらず笑いのツボがどうなっているのかよくわからない子ね、とツヴァイは本気でエルフの行く末を心配した。
既に夕方遅くなっているので窓から外を見れば、夕闇が支配する時間になってきている。
「そーいえば、フュンフ姉はどうしたんッスか?」
「フュンフなら私の代わりに、キョーヤ・タカマチの監視に行ってるわよ」
「えー?ツヴァイ姉こそ職務怠慢じゃないッスか」
「いーのよ、私は。フュンフが行きたがってたし。それに私の監視でもフュンフの監視でもどっちだろうが意味ないし」
「……意味がないってどういうことさ、ツヴァイ姉?」
「気づかれてるって事よ」
「「……っえ?」」
ゼクスとエルフの間の抜けた声があがった。
ただ一人ツェーンは心の中で、そりゃそーだろうね、と呟いていたのだが他の三人は知る由も無い。
あの人外の匂いを漂わせた人間が、気づいていないはずが無い。
「ええーと。フュンフ姉は置いといて、ツヴァイ姉の監視に気づいてるってことッスか?」
「そう言ってるでしょ?」
「いやいや、ツヴァイ姉の監視に気づくってどう考えても普通じゃないでしょ?」
「それじゃあ、普通じゃないんじゃない?」
ツヴァイはあくまで冷静に答えを返す。
二人は自分達の上司の答えに驚きを隠せなかった。たしかにHGS能力のことを考えれば、ゼクスやフィーアの方が上かもしれないが、基本的にツヴァイはHGS能力に頼らずとも全体的に基本能力が高い。
それは、戦闘技術であり、潜入技術であり、監視技術でもあり、隠形術であり―――少なくともこの場の三人は本気になったツヴァイの監視に気づくことができるとは思えない。
「なんなんッスかねぇ、その人間」
「アンチナンバーズには、キョーヤ・タカマチなんて人間いなかったけどねー」
「……そうだね」
エルフとゼクスは恭也の正体が本当に予測がつかず、頭を捻るがそれ以外の二人。つまりはツヴァイとツェーンの二人は逆に神妙な表情となる。
二人にはある程度の予測がついていた。まさか、という気持ちが大きいのは事実である。
かの伝説に人間が数えられるなど有り得ない事だということが二人の中では常識となっているのだから、それを覆すには二人の予測は弱かった。
その時、ツヴァイの持っていた携帯電話がブルブルと震え始める。誰かと思って着信画面を見ると相手はフィーア。
通話ボタンを押すと髪を拭いていた手は止めず、肩と頭ではさんだ。
「もしもし、どうしたの。フィーア?」
『―――ツヴァイ姉様。猫神が、動き出しましたわぁ』
ピタリと髪を拭くツヴァイの手が止まった。
汗を流したばかりだというのに、冷たい汗が一筋頬を流れる。
『北斗のメンバーも一緒ですわぁ。ただの外出というわけではありませんわぁ―――空気が張り詰めていますもの』
「了解。すぐ合流するわ」
言葉短く、ツヴァイは携帯を切ると濡れた髪を乾かす暇もなく自分の部屋に戻りスーツを取ってくる。
スーツは動きにくいと思われがちだが、ナンバーズの最高司令官が趣味で開発したもので、強靭な繊維で編まれたあらゆる銃撃、斬撃、打撃をある程度は吸収してくれるという優れもの。噂では魔術まで軽減してくれるという話だがその噂が本当かどうかは不明だ。
「―――貴女達。猫神が動いたわ」
「……平穏な一日も最後に終わりッスねぇ」
「なんでもないことを祈っちゃおう」
「……そうする」
やる気の見られない発言には聞こえるが、既に三人の意識は切り替えられていた。
例え何があったとしても三人はナンバーズの数字持ち。人間社会の防波堤。魔を滅する人類社会の最後の切り札。
ツヴァイを先頭に部屋から出るとエレベーターに乗る。ここはナンバーズの資金で購入したマンションであり、海鳴での活動拠点。
購入資金を平然と経費でおとすため、最高司令官からは、ほどほどにしてくれという有難いお言葉がかけられるのだが、気にしたことは無い・。
駐車場に止めてあった車に乗り込む。ツヴァイが運転席。ゼクスが助手席。他二人が後部座席だ。
ツヴァイなら運転していても違和感はないが、他三人だったら警察に見つかったら間違いなく止められるだろう。実際、免許はもっていないのだが。
携帯電話に表示されるフィーアとズィーベンの居場所―――それを追って道路を走っていく。どうやら海鳴の郊外に向かっているようだ。
車を走らせること十分程度。家や店が少なくなっていき、木々ばかりが存在する空間に変化していく。
フィーア達の場所まで少しの距離になったので、流行ってなさそうなコンビニに車を駐車して後は徒歩で、合流しようと夜の闇を駆け抜ける。
携帯電話を確認すると、不思議なことにフュンフとズィーベン、フィーアの三人が同じ場所にいることに気づいた。嫌な予感しかしてこない。
その時、前方に幾つもの黒塗りの車。トレーラー、十人近くの黒服の人間が居るのが遠目だが発見すると、ツヴァイは後ろの三人に無言で右側に広がる広大な森林を指差した。
それにコクリと三人が頷くと、音もたてずに森林に入り、ばれないようにフュンフ達の居場所まで疾走していく。
対してツヴァイは物陰に身を隠しながら黒服の男が一人、輪から離れツヴァイが隠れている茂みの方に歩いてきた幸運を天に感謝しつつ、声をださせる暇もなく鳩尾と顎を拳で打ち抜いて意識を奪った。
倒れる前に抱きかかえると森の奥へと引っ張り込み、ツヴァイは男の顔に手を当てた。
闇を切り裂く銀の閃光。ツヴァイの背に現れるのは二対の白銀の翼。ライアーズマスクと銘々されたツヴァイだけのリアーフィン。
能力は生憎と戦闘特化というわけではなく、手で触れたことがある人の顔へと自在に変化することができるというもの。
たった数秒足らずで、ツヴァイは黒服と同じ顔となると、男の衣服を剥ぎ取る。
さすがに衣服までは変化させることができないので、そこは不便だと感じつつも、男から奪ったサングラスと服を着ると、縛って見つからないように森のなかへと放置しておく。
あまり時間をかけると怪しまれるので、ツヴァイは森を出て黒服達の元へと戻る。
どうやら疑われてはいないようで自然と、輪の中に入り、待機していると―――目の前の巨大な屋敷から三人の人間が出てくる。それを見ていたツヴァイの口元がヒクヒクと痙攣し始める。
一人は真紅の瞳をした夜の一族の女性。一人はメイド服の女性。そして最後の一人が―――高町恭也。
一方その場所から幾分か離れた森の中には、フュンフとズィーベン、フィーアの三人が身を隠しながらその様子を窺っていた。
ガサリと木々を揺らしその場に、ゼクスとツェーン、エルフが到着する。
気配は読み取れていたのかこの場に最初からいた三人は驚く様子は見えない。
「状況はどうなってるんッスか?」
「……北斗はもっと遠くで様子を見ているみたいよぉ。ツヴァイ姉様の監視対象のキョーヤ・タカマチはあそこにいるわぁ」
「情報通り、あの二人は敵対してるってことでいいのかな?」
「ああ。それは間違いないはずだ」
矢継ぎ早に質問するエルフとツェーンに、フィーアとフュンフが的確に答える。
目をこらすが、夜の暗さと、距離があるために人影程度しか認識することができない。
だが、これ以上近づけば気づかれてしまう可能性も高い。故に、三人はこれ以上近づくことはできなかったのだ。
ツェーンがくるまでは―――。
「あたしを待ってたってことだね。ちょっと待ってて」
ツェーンが己に求められていることを理解して目を瞑って、両手を自然に広げる。
黄色に輝く翼がツェーンの背中に顕現する。眩い光が一瞬間周囲を照らす。ツェーンの両の瞳に五芒星が浮き上がる。
輝きが周囲にいた五人を包み、視界が広がっていく。暗視スコープをつけているように、夜の闇も気にならないほどの明瞭さがこの場にいた全員の視界を支配する。
ただ、闇を見通せるようになっただけではない。普段の数倍の距離も容易く見通せる視力。意識すれば数百メートル以上遠く離れた恭也達を目の前にいると錯覚するほどに。
ツェーンが有する能力の一つ。人の五感のうちの一つ視覚を驚異的なレベルにまで高めることが出来る。無論対象は本人と、傍にいる人間に限られるが。
『起きたか、イレイン?ワシがお前のご主人様や』
『―――ご主人、様?』
『だ、だめ!!叔父さん!!』
声が聞こえてくる。
黒服に化けているツヴァイを通して、遠くはなれた場所の音がこの場所にも響いてきた。
グッジョブ、ツヴァイ姉と心の中で喝采を送ったエルフとゼクス。
そして―――。
『―――ぎゃぁっ』
ツヴァイの断末魔が聞こえた。
いや、不規則な呼吸音は聞こえるため死んではいないだろうが、返事もできない状況に陥ってるのだろう。
その理由ははっきりしている。視界が広がっている六人は確かに見た。
イレインが電撃のロープ【静かなる蛇】で黒服達全員をなぎ倒したところを。それに巻き込まれて、黒服に変化していたツヴァイも感電させられてしまったのだ。
「……さらば、ツヴァイ姉」
「お前の死は無駄にはしないぞ」
「ツヴァイ姉、超うけるッス」
ゼクスは苦笑し、フュンフはツヴァイに黙祷をおくる。エルフは一人だけ爆笑していた。
残りの三人はどんな反応をすればいいのかわからず、微妙な表情で地面に倒れふしているツヴァイを見つめている。
気が抜けていたといわれても仕方あるまい。この場にいた六人は、常に完璧を体現していた姉のツヴァイの間抜けにも倒れている姿を見て、確かに気を抜いていた。
『どうした、喜べ。イレイン』
だが、そんなことが言い訳になどなる筈のない―――別次元の世界の住人を見た。
『―――お前が連れてこいと言ったアンチナンバーズの伝承級はここにいる』
恭也の名乗りは遠く離れているというのに、耳元で囁かれたような異質な圧迫感と恐怖感を植えつけてくる。
『初めまして、自動人形。俺の名は不破恭也。アンチナンバーズが【Ⅵ】。人形遣いを滅ぼした天蓋の化物。最凶を凌駕した刃。【伝承墜とし】だ』
そして―――伝説はかく語りき。
嘗て幾つもの大都市を壊滅せしめたアンチナンバーズ最悪の伝承級の一人。人形遣いを単騎にて打ち倒した伝説を墜とした者。
第参世界に住まう最強を誇る九人の内の一人。その話を肯定するだけの力を見せ付けた、伝承墜としはそこにいた。
「……伝承、墜とし?」
「人間ッスよね……?」
「……」
フィーアがずり落ちた眼鏡にも気づかず、自分の耳を疑っているようだった。
エルフは遠目に見える恭也が本当に人間なのか判断できず、他のナンバーズに確認するべく口を開いた。
ツェーンは沈黙していた。いや、沈黙するしかなかったのだ。己の視認できる速度を遥かに超えた出来事に、言葉をなくしていた。
「な、なにを、したの?」
「……見えなかった―――ドライ姉様よりも、速い」
ゼクスもまた恐怖していた。アンチナンバーズのⅦ百鬼夜行を一年間追跡してきたゼクスでさえ―――あの刃の前では膝の震えを隠し切れない。それほどの死を内包した斬閃だった。
ズィーベンは、自分が知る限り最速にして最強のドライの速度をも凌駕していると、確信した。
「は、はは……成る程。成る程。アレが旧アンチナンバーズⅥ【人形遣い】を滅ぼした、不可視の魔人、か」
ただ一人、フュンフだけは冷静だった。冷静に目の前で起こったことを理解した。
自分の直感は正しかったのだ。自分に死を感じさせた高町恭也は、人間でありながら、伝説にまでのぼりつめた剣士だった。
まさか、日本に来て初めて食事をした男性が、探し人だったとは笑える話だ。
「何度斬ったか、見えた?」
その時、ズィーベンが他の五人に確認するように問い掛ける。
ズィーベンは両手の斬撃あわせて―――三回までなら確認することができたが、それ以上は理解の外の剣閃だった。
「……抜刀さえもみえなかったわぁ」
「最初の抜刀までしか見えなかったッス」
「私もフィア姉と一緒かな」
フィーアは抜刀さえも見えなかったと答え、エルフは抜刀までしか見えなかった。
ゼクスもフィーアと同じく、刀を抜く瞬間さえも見えなかったと語る。
「六回までなら、確認できた」
「―――あたしは見えなかった」
おーすごい、フュンフ姉と普段ならばエルフが茶化しただろうが、今はそんな余裕もないようで、皆が呆然としている。
ツェーンは見えなかったと口に出したが……本心は違った。
―――右の刀で九度。左の刀で八度までは、見えた―――。
合計十七回。瞬きする間にやってのけた神速の斬撃の嵐。
完全にみえたわけではない、何故ならば、十七回以上の刃の嵐を振るっていたのだから。ツェーンをして、十七度の斬閃しか確実に追うことが出来なかったのだ。
本当は一体、何度イレインを切り刻んだのだろうか。
「―――二十五回ですよ?」
ぶぁっと冷や汗が流れた。
身動き一つ取ることを許さぬ、圧倒的な瘴気。
この場で許しを請いたい。それほどまでに格の違う人外が気づかせぬまに、背後にいた。
六人の背後。木にもたれかかるのは―――アンチナンバーズのⅡ。未来視の魔人がニコニコと不気味な笑顔をふりまいて、悠然と立っていた。
「素晴らしいと思いませんか?あまりに速く、あまりに美しい。命を奪うためだけに特化した最強の刃。【光の剣閃】―――なんて素晴らしい」
頬を赤くして、朗々と語る天眼。
未来視の天眼。伝承墜とし。猫神。アンチナンバーズの伝承級が、この地に三人も現れる。一体全体これは何の前触れなのか。
「……なんで、こんなところにお前がいる?」
六人の中で最強のHGSでもあるフュンフがやはり一番最初に我に返り、油断なく睨みつける。
睨まれているというのに、肝心の天眼は全く気にせず笑顔のまま変わらない。
ふらりと木から離れた天眼の動きはこの場にいた誰もが認識できなかった。特別に速かったというわけではない。だというのに、認識できない動きだった。
ポンと天眼がフュンフの頭に手を置く。ゾゾゾと背筋を這い登る怖気。頭に手を置かれただけだというのに、身体の動きを奪われてしまう。
「今はあの戦いに集中しませんか?伝承墜としと猫神の戦い。きっと貴方達が見たことない天上の戦いを見ることが出来ますよ?」
不吉な笑顔を浮かべたまま―――天眼はナンバーズに語りかけた。
静まり返った世界。
生き物がたてる音はなく、風がたてる音もなく、世界は静寂に包まれる。
その世界で、理解し難い、絶対零度の殺気が荒れ狂う。人間の原始的な恐怖を呼び起こす、真黒な領域。
互いの余力を残さぬ全力の気当たりはそれだけで人の精神に異常を起こさせるほどのもの。
近くにいた北斗の面々は皆、自分が殺された、という幻覚を幾度も感じた。足が震え、その場から逃げ出したいと思うも、逃げることを許さぬ恐怖の束縛。
凄まじいとか、桁が違うとか、言葉では言い表せぬ重圧。二人とも汗が額から頬を伝ってゆく。
恭也も殺音も、恐怖は感じない。あるのは、ただただ戦いたいという欲求。
二人の腕が、足が、肉体が、心が―――戦わせろと雄叫びをあげていた。
恭也の両手が柄を掴み、闇夜でも映える刀身を引き抜く。
外見は普通の小太刀だというのに、恭也が持つだけでその刃は何物をも凌駕する破壊の凶器となる。
殺音が喜びで打ち震える。ようやく、恭也の小太刀を、本領を引き出すことが出来たのだ。
自分は不破恭也と全力で戦うに値する相手だと、認められた。十余年前とは真逆だが、それがいい。
それだけ、あの少年が死地を越えて、種族も年月も才能も超えた絶対領域に辿り着いた。それが、たまらなく嬉しい。
この百年でこれほどまでに精神が研ぎ澄まされたことがあっただろうか。
時間がゆっくりと流れる錯覚。今ならば拳銃の弾丸も止まって見えそうなほどに全てを見極めることが出来そうだ。
二人が互いの鬼気をぶつけあっていたのは数秒だったのか。数十秒だったのか。或いは数分も経っていたのかもしれない。
時間を支配するというのはこういうことを言うのだろう。精神が、神経が、相手の一挙手一投足を見逃さぬように過敏になっていく。
殺音の呼吸が止まり―――。
突風が吹いた。
神速を超えた速度で瞬く間に殺音は間合いを詰める。
放たれるのは亜音速の域の右拳。当たったならば頭蓋は砕け、一撃死するほどの威力。
殺音と同じく己を解放した恭也にはその拳が手に取るように見えた。頭を下げてやりすごすと、一歩踏み出すと同時に右逆袈裟に斬り上げる。
闇を照らすは光の剣閃。煌く輝きを残し万物遍く切り裂く刃が殺音へと迫る。
殺音は八景の腹を手で叩き弾く。強い衝撃に恭也の身体が流されそうになるが、そんな恭也の頭へと右回し上段蹴りが閃光の如く襲い掛かった。
その蹴りに目を剥きながら、恭也は背後に数歩下がってやり過ごす。
恭也の斬撃は、【光の剣閃】と呼ばれる。愚直に剣を振り続け、人形遣いとの戦いで辿り着いた妙境。あらゆるものを瞬きする間もなく切り裂く、斬術を極めたただの剣閃だ。つまり、恭也の一閃一閃が必殺の域。
それをたやすくかわしたのは―――水無月殺音唯一人。かの人形遣いでさえも滅ぼした絶対殺撃だというのに、ああもたやすくかわせるものか、と。
しかし、殺音の攻撃もまた異常。傍から見ている者にとっては何をしたのかもわからぬ拳の蹴りの速度だったろう。恭也をして反撃をする隙も与えない。そして、見えた。殺音の攻撃は自分と同じ世界から繰り出されるモノなのだと。つまりそれは、恭也の斬撃と同種。
―――【光の拳閃】とでも、名付けようか。
そんな思考。
―――いいね。受け取ったよ、恭也。
刹那の世界で恭也と殺音は繋がっていた。
恭也は八景を真横に引き。突きの体勢を保つ。御神流最速技。向かい合った相手にもたらされるは絶対死。怖れ敬い、そして死ね。
御神流奥義之参―――射抜。
踏み足が大地を砕き割る。抉り、弾き飛ばされるはずの土が空中に舞い上がるよりも尚早く、全身のバネを使った刺突が放たれた。
その動きは人とは思えず―――人には見えず。一筋の雷光となって、獲物を穿つ。
殺音は恭也の刺突をあろうことか真正面から受け止める。刺突と同速度で爪先が小太刀の腹を叩き跳ね上げた。
狙いが逸れ、体勢がぐらりと揺れる。だが、体勢が崩れたというのに、恭也は逸らされた右小太刀とは逆の太刀で半ば無理矢理に殺音の首元を狙う
まさかその体勢から更なる一手をうってくるとは予想外だった殺音が驚きを残しつつ、半歩だけ動いてやり過ごす。
身体を回転。見事に着地した恭也が殺音を振り向く間もなく、側頭部めがけて蹴り出された回し蹴り。
四肢の力を最大限に、蹴り足から逃れるように地面を叩きつけて回避した。
不思議なものだ。恭也が使うのは小太刀。一撃必殺を可能とする武器。対する殺音が使用するのは己の拳。
だというのに、どちらの武器も相手を一撃で絶命させるに足る。
僅か一撃で―――戦いの雌雄は決するのだ。
鋼鉄をも破壊する拳が、恭也の脇腹に吸い込まれていく。
拳が肋骨を圧し折り、砕き、水平に吹き飛ばされる―――そんな予感。未来視。
ハァッと激しい呼吸を残しつつ、横っ飛び。大気を打ち抜いた音が後からついてくる非常識さに笑みしか浮かばない。
逃げ行く恭也を逃すまいと、後を追う。人間離れした単純なまでの腕力と、人智を逸した速度で打ち下ろされる右腕。
拳が目の前を通過して大地を激しく叩き、周囲を揺らす。ぐらりと小規模な地震が引き起こされた。
当たっていないというのに、視界に赤い血が舞った。ズキリと額に痛みが走る。触れるか触れないかの差だったというのに風圧だけで浅く皮膚を切ったらしい。
視界がぐらりと揺れるも、精神を集中。意識を保ち、瞬きをせずに殺音の全身の動きを見逃さない。
痛みは恐怖を呼び起こさない。
逆だ。痛みが恭也に与えるのは、心地よい緊張感。戦いに対する喜び。
身体中が与えられた痛みに、叫んでいる。咆哮している。戦えと。負けるなと。
熱い液体が額から流れ落ちる。即座に右手で拭いとって、乱暴に散らす。
見かけは派手に見えるが、極限にまで高まった緊張感。集中力。脳内から発せられるアドレナリンが出血を自然と止める。
身体が熱を持っている。戦いたいという欲求。
食欲も睡眠欲も性欲も―――それら人間が必要とする三大欲求を遥かに凌駕する戦闘欲。
目の前にいる水無月殺音を求めている。女としてではなく、生涯最高の好敵手として、恭也は求める。
禍々しくも、抑えることを知らずさらに増大していく、人外達の大祝賀会。
殺音の身体がぶれた。恭也の想像を超えた速度を可能とした殺音の右掌底。
歯を食いしばりながら首を傾けてかわす。それと同時に膝蹴りが跳ね上がってきた。
恭也はその膝を足の裏でおさえ込むが、単純な力は殺音が遥かに上。抑えこむことなど出来るはずもなく、恭也は逆足で地面を蹴りつけ、蹴った力と膝に弾かれる衝撃を利用して後方に跳躍。
空中で一回転して着地するが、びりびりとした痺れが足に残っている。
普通ならば痺れが消えるまで距離を保つのが正解なのかもしれない。
だが、恭也の選択は、殺音を迎え撃つこと。
攻め込んでくる殺音が拳を放つよりも早く。逆に恭也は踏み込み、殺音をめがけて袈裟懸けに八景を振るう。
身を捻った殺音はその動作に繋げて、後ろ回し蹴りが恭也の背中に襲い掛かった。
恭也はそれを読んでいたのかステップを踏むかのように軽く跳躍。しなる鞭を連想させる蹴りが恭也の足元を通過して―――その蹴り足に恭也は乗った。
ピタリとその体勢で静止し、一枚の絵画のようであった。
二人して口元に狂笑を浮かべ、パァンと何かが弾ける音がして二人は数メートルの間合いを取る。
語る言葉もなく、休む暇もなく、二人は自分の視界に映る唯一人だけに身体を疾駆させ、魂をぶつけあう。
削りあうのは命。叩き込み合うのは想い。猫神と伝承墜としの戦いは美しくも凄惨な、最強同士の戦いだった。
固めた拳一つをもって、足を地に叩き付ける。
仕掛けたのは殺音。が、殺音が一歩踏み込み、二歩目を踏み込もうとした時には恭也は既に目の前にいた。
予備動作も何も無い、殺音の感覚の読みをも外す、無拍子。
ほとんど反射だけで放った左拳を、身をかがめてやり過ごす。
拳が伸びきる直前に右の太刀が腕を斬りおとそうと天に向けて半円を描いた。
怖気に襲われた殺音の即座に放った蹴りが、半円を描こうとした小太刀の腹を叩き、軌道を変えさせる。
その衝撃に恭也の体勢が後ろへと倒れそうになる。そんな恭也に蹴り足を踏み込みへと変え、流れるように続く打ち下ろされる左拳。
だが、上半身が崩れ落ちそうになる反動を利用して、恭也の爪先が跳ね上がった。目標の顎に叩き込まれる爪先。
そのまま反転し、大地に両手両足をつくも、おぞましい殺気が全身を襲った。
見上げる暇もなく後方へと跳び下がった。冗談にしか思えない踵落しが地面を抉る。衝撃で砂と埃が舞い散った。
視界が一瞬閉ざされたその時に、恭也が前傾姿勢を取る。視界が晴れた先、殺音の瞳に映った小太刀を二刀構える姿はあまりにも眩すぎて、一瞬見惚れた。
全ての力を両脚に込め、恭也は世界を凍らせる。心臓が胸を叩き、四肢が引き千切れそうになる錯覚。
文字通りの光の矢となって殺音の間合いを零として、二刀の小太刀が縦横無尽に殺音を切り裂く。
まさしくそれこそが、光の剣閃。如何なる者の生存も許さぬ絶望の領域。秒間十を超える斬撃の嵐。
恭也は確かに斬った。相手に確実に死を齎す斬撃乱舞。
御神流奥義之弐―――虎乱。
この奥義によって勝負があった―――もし、恭也が殺音を斬っていたならばの話ではあったが。
斬ったのは空気。恭也の光の剣閃よりなお速く、殺音は背後に回っていた。
いや、無傷ではない。恭也の手には僅かに斬った感覚があったのだから。殺音の左腕から出血している。
浅いというわけではない。ビチャリと一拍を置いて地面に撒き散らされる血液。
ニィと深く口角は吊り上げられ、真紅の瞳が不吉な喜びを伝えてきた。
殺音が深く踏み込み、右正拳突きを放ってくるが、途中で止める。フェイントだ。
それに続くように左拳が恭也の右脇腹を狙う。だが、遅い。先程までと比べたら雲泥の差。
出血がそうさせているのかと訝しむが、遠慮はしない。恭也の右手の小太刀が振り下ろされるが、殺音の笑みが深くなったのに気づく。
遅かった筈の左拳が加速。咄嗟に肘を下ろして防御しようとするが、間に合わず脇腹に感じる衝撃。
これまでの人生最高の一撃を受けて、数回転。激しく地面に叩きつけられ崩れ落ちる。視界がぐるぐると回っていた。
正常な状態に戻るまで暫しの時を要するだろう。殴りつけられた脇腹は骨の数本は折れている。砕けて内臓に突き刺さっていないだけ恩の字か。
視界が揺れているが、立ち上がる。吐き気が襲ってくるが、構っている暇は無い。
こんな状態だというのに殺音の追撃はない。その答えは簡単だ。恭也とてただ殴り飛ばされただけではなく、避ける事は不可能だと判断した恭也は躊躇いもなく小太刀を振り切っていた。
手応えはあった。揺れる視界の先、切り裂かれた右腕。骨まで達しているのか青白い何かが見えた。それに加えて凄まじい出血。大地を濡らしていく。
腕一本を貰っていくつもりだったが、斬りおとせれなかったようだ。果たして腕一本と肋骨数本。どちらが高い買い物になったのだろうか。
「……くくく」
「……あはは」
激痛が襲っているというのに、二人は笑った。狂笑ではなく、純粋な少年少女達のような邪気のない笑い声。
「はっはっはっはっはっはっは!!」
「あはははははははははははは!!」
恭也は笑った。
殺音は笑った。
全身を通う血流が、熱く沸騰していく。
愛おしい。二人とも心底互いのことをそう思った。【相死相愛】。
きっと二人の関係はそんな言葉が相応しい。
殺したくなるほどに―――思い思われ、惹かれあい、慕いあい、愛し愛され。
瞳も、鼻も、口も、眉毛も、髪も、腕も、腹も、腰も、脚も、足も、匂いも、気配も、技も、匂いも、心も。
―――お前のすべてが愛おしい。
互いの動きを読むために視覚を限界にまで研ぎ澄ませ、互いのどんな行動も察知するために聴覚を極限にまで高め、流れる空気を感じるために触覚を最大限まで集中させる。
感じるのはやけに響き渡る互いの呼吸音。そして、互いの心臓が胸を叩く音。
恭也は小太刀を鞘に納めた。戦いを諦めたわけではない。己が最も得意とする技で迎え撃とうと思ったからだ。
ここまで自分を曝け出し、戦えたのだ。最後までそれを貫き通したい。
そんな恭也の行為を殺音は見咎めなかった。きっと一目で判ったのだろう。恭也の行為は諦めたわけではなく、最強の一手を放つためなのだと。
ふーふーと獣のような呼吸。
誰かと思えば、二人ともがそんな激しい呼吸をしていた。
こんなギリギリの戦いをしたのはどれくらいぶりか。巻島とは違う。人形遣いとも違う。天眼とも違う。
水無月殺音とだけのぼれる遥かな高み。心地よい世界。二人でならどこまでもどこまでものぼっていける。
今まで以上に時間の流れがゆっくりとなる。
空気の流れが頬を撫でつけ、二人の重圧に恐れをなし、圧縮されていく。
そして、空気が爆発した。
「―――解放、【猫神】」
身体に刻まれた黒く輝く呪いの紋様が一際、闇色を深くする。禍々しく、両腕を、顔を、身体を、足を覆っている幾何学的な紋様が、薄い膜を造り上げた。
それは猫神の呪い。言霊の域にまで達した猫神という呪文は、六百年という年月の果てに築いてきた魂の鎧を発動させた。気を抜けば殺音でさえも意識を飲み込まれるほどの闇の高波。
殺音が大地を蹴りつけた。右腕と左腕から血液を飛び散らせ、血の道を作っていく。
放たれるは恭也の斬撃を超える速度の拳。秒間数十発に匹敵するほどの拳の弾幕。
如何なる者を殴り殺し、消滅させる乱撃乱舞。恭也の光の剣閃を飲み込み、破壊する。
最凶を凌駕する―――究極の破壊。
あらゆる者を圧倒する。あらゆる破壊を凌駕する。あらゆる速度を超越する。
水無月殺音の全身全霊を込めた、その打撃を前にして恭也は―――呆然としていた。
なんと美しい。そこに技はなく、我武者羅にしか見えないただの乱撃。恭也の―――御神流の対極に位置するだろう武。矛を止めると書いて武。
殺音の力は、生まれながらの身体能力に頼った暴力。だというのに、何故かくも美しいのか。
自身では決して辿り着けない、種の最高峰の身体能力で為しえた世界。
恭也とは交じり合わない暴力の領域にいる殺音は―――だからこそ美しかった。
対極だからこそ惹かれあう。それはまるで磁石のように。お互いを求め、欲しあう。
―――ああ、そうか。
恭也は笑う。
―――幼い頃の約束だとか。そんなことは関係ない。
ようやく自分の心と向かい合えた。
―――俺はお前に惹かれていた。
幼い頃に出会った殺音の在り方は、恭也には理解できなくて、それ故に心に強く刻まれた。
―――十一年。お前に会った時に失望されないためだけに剣を振るってきた。
その想いは変わらず。それこそが、不破恭也が剣を握る根幹となっているのだから。
―――殺したいほどに【愛死】ているぞ、水無月殺音!!
鞘から小太刀が走った。
水無月殺音の乱撃を押し返し、押し潰す。究極も、最凶も超えた―――【最強】。
美しき秋水。果ての無い無限の剣閃。速すぎる故に音はなく。速すぎるが故に剣閃は見えず。
絵描きがキャンパスに赤の色合いを塗りつけるように、血しぶきだけが舞っていく。
抜刀からの四連撃。
御神流奥義之陸―――薙旋。
四連の刃が弾幕乱雨の拳の最も要となっている四撃を叩き斬る。
ガキィンと硬い何かを斬りつけた衝撃が腕に伝わってくる。恭也の斬を持ってしても殺音の呪いの紋様による膜を切り裂くことは出来なかった。
間断なく、その状態から殺音の乱撃を押し返す恭也の無限斬撃が始まった。
腕が千切れても構うものかと、先程を遥かに超える斬撃を打ち据える。その数は秒間二十どころか、三十にも届く。
御神流奥義之弐―――虎乱。
僅か一メートルの間合いにて生死を刻みあう二人の間で、拳と剣が弾きあう。
腕の、身体の芯にまで響き渡る衝撃。いや、魂の脈動。命をかけた無言の咆哮。
その場で恭也と拳を交えることに喜んでいる殺音。対して恭也は死地でさらなる一歩の踏み込み。
それが、運命を別つ一歩。恭也が見出した更なる高みへの道。
八景が交差し、十文字に殺音の渾身の一撃を弾き飛ばす。一撃の重さにおいては比類なき最高の技。
御神流奥義之肆―――雷徹。
拮抗する小太刀と拳。
しかし、それも一瞬。殺音の拳をついに完全に弾き飛ばす。
その衝撃でぐらりと後ろにたたらを踏む。
その一瞬が決着をつけるための、唯一の瞬間。恭也には見えた。次元を切り裂く歪が。
さらに踏み込む。恭也の足が止まることはない。
剣閃は止むことを知らず。二刀の斬閃が、体勢を崩した殺音の四肢を斬り付けた。
未だ黒き紋様の幕は破れない。だが、構わない。破れないのならば破れるまで続ければいいだけだ。
御神流奥義之伍―――花菱。
紋様による薄い黒膜が、奇妙な音をたてる。
それは苦しみが混じった亡者の怨嗟にも聞こえ、恭也の背筋を冷たくさせた。
それでも、恭也は止まらない。
隙が生じるのにも気にせず、小太刀が空中に半円を描き重力を乗せた上段の一撃が殺音の肩口を捉える。
それと同時に死角となった真下から半円を描き殺音の脇に、斬り挟む。黒膜がピキィと音をたてた。
御神流奥義之壱―――虎切。
亡者が苦しむ叫び声が激しくなっていく。
だが殺音自身は苦しむ様子など一切見せない、身体中は切られることなく無事ではあるが、実は衝撃だけは殺しきれず立つのもやっとな状況だった。
しかし、殺音は動きが鈍ることはなく、一歩踏み込み残された最後の力を込めた拳を放つ。
その一撃は殺音の生涯で最も速く、最も美しく、最も威力を秘めた拳。
恭也の口元に笑みが浮かぶ。殺音の口元にも笑みが浮かぶ。
殺音の予感は外れることなく、恭也はそれを超えた速度の動きを可能とする。
一切の前触れもなく肉薄した恭也が身体を叩き付ける勢いで、殺音の胸元へ撥ね上げるような紫電の一刺しを叩き付けた。
御神流奥義之参―――射抜。
刺突を胸元に受けながら、その衝撃で両足が地面を抉りながら殺音の身体が、数メートルも背後に押された。
恭也の小太刀は、殺音の紋様の膜を突き破ることは出来なかった。
「―――終わり、かい?」
「―――これから、だ」
恭也の暖かな視線が殺音の動きを奪った。強力な結界を張られたかのように、身体を貫き、全身を幸福で痺れさせた。
殺音の本能が逃げ出させようとするが、拒絶する。何故ならば、今から恭也が最高の攻勢にでるのだ。逃げるわけにはいかない。そして、受け止めれば自分の勝ちだ。
脳髄が痛む。精神が異常をきたすほどの集中力。神速を超えた神速。御神流において極限の神速と呼ばれる―――【神域】と呼ぶ。
人形遣いを滅ぼしたのは光の剣閃。そして―――この神域。
神速では通用しなかった人外の化け物を打倒するために無理矢理に踏み入れた領域。如何なる者も墜とすことができると考えていた世界。
しかし、まだ足りない。この程度で水無月殺音を打倒できるものか。
震える足が限界を超える。痛む脚が限界を超える。早鐘のように胸を打つ心臓が限界を超える。何も考えず―――水無月殺音のことのみを考えた脳が限界を超える。
これまで一度として踏み込めなかった世界の扉が今開かれた。五体が到達し得なかった神域を超えた絶対領域を、今発現させる。
殺音の真紅の瞳が歓喜で大きく見開かれる。自分の理解の外側へと到達した恭也を褒め称えるように、頬を染めた。
恭也の八景が踊り狂った。一瞬間で恭也は既に殺音の眼前にいて、雪崩のように剣閃が舞った。
殺音の目でも追いきれぬ超速度の剣撃。大気を断ち切り、網目状に闇を切り裂く。
腕を、肩を、胸を、足を、脚を、首を切り裂く様は―――疾風迅雷。
殺音の生涯でこれほどまでに死を感じさせた刃の群れは存在しなかった。殺音の防御や回避、抵抗など一切意味をもたない。その光景はまさしく無尽にして無限。尽きることなく永遠と続く刃の回廊。
己の命を一方的に蹂躙していく、陵辱していく。削り取っていく。だが、見惚れた。己が認め、盟約を交わした人の技。神技とも魔技ともいえるその技に心底魅了された。
紋様の膜の耐久が静かに限界を迎える。闇が根負けしたかのように、断末魔をあげた。
パキィンと激しい音をたてて、黒膜が消失する。だが、恭也の小太刀は止まることを知らず。
伝わってくる肉を斬り、骨を断つ感触。無尽の刃は尽きることなく、水無月殺音を―――凌駕する。
御神流正統奥義―――鳴神。
反撃を許さぬ超多重斬撃。それに繋げるために己の自信を持つ奥義を一つ使用して相手を後退させ、鳴神によって相手を絶命させる。
もっとも全ての奥義を使ってまで鳴神に繋げる過程とした御神の剣士など、恭也以外に存在しないだろうが。
神殺しをも可能とする森羅万象遍く斬滅せしめる最強の刃の嵐が終わりを告げた。恭也がここでようやく一呼吸をつく。
つまり今の攻防は、僅か一瞬間の出来事。恭也と殺音しか理解できなかった戦いの全て。
誰一人として、今何が起こったのかわからなかった―――否、【彼女】を除いて。
残されたのは、身体中の至るところを切り刻まれ、足元に血の池を作っている殺音。
だが、立っていた。確りと己の両足で、その場に倒れることを許さずそこにいた。恭也の前で意識を失うなど、地面に倒れるなど認められない。
それだけのために、それだけの意地のために殺音は無事な箇所などない身体で仁王立ちをしていた。
「―――ああ。楽しかったなぁ」
「―――そうだな」
口を開くことさえも侭ならぬであろうに、殺音は笑顔を絶やさず楽しかったと恭也にはっきりと告げた。
対する恭也も同感だった。これ以上ないくらいの高みにのぼれた。今までの自分など赤子に等しいほどの刹那の攻防に命を賭けることができた。
「お前だったからこそ、俺はこの域にまで達せれた。ここまでくるのに十一年もかかったが」
「あはは……十一年か。短いようで長かったよ。少なくとも私の生きた百年の中で一番長かった時間だった」
「―――待たせて、すまなかった」
「良いよ、許す。こんな戦いが出来たんだ。私は幸せ者さ」
出血は止まることなく血の池は時間が経つにつれて広がっていく。
それは明らかに致死量を超えている。身体中に受けた刃の傷跡もあいまって、間違いなく致命傷だ。
がくがくと震えている膝が遂に限界を迎え殺音の身体が崩れ落ちた―――が、その瞬間恭也が倒れそうになった殺音を抱きとめる。
恭也もまた、肋骨が折れ、限界を超えた動きをした影響でぼろぼろだというのに。
想い人の胸に抱きしめられ、年甲斐もなく頬を羞恥で染める。
百年生きてきたが、愛した相手など存在せず、好いた相手もいない。一見恋愛において奔放そうに見えるが、実際は初心な小娘といっても過言ではない。
「―――死ぬな、生きろ。俺はお前と供に剣の道を歩みたい」
愛を囁くように、恭也は殺音の耳元で告げる。
吐息が耳をくすぐり、ぞくりとした快感が殺音の全身を駆け巡る。
全身を襲っている痛みも気にならないほどに、身体中が限界まで火照ってゆく。
「え?いや、えっと、その……うん」
どこか焦点の合っていない視線で抱きしめている恭也に向けて頷いた。
恭也の台詞の【剣の】の部分が聞き取れていなかったのかもしれない。確かにそれを除けば愛の告白ととれても仕方の無い言葉であろう。
その抱擁を見ていた北斗の面々の反応は様々だ。
廉貞はヒューヒューと口に指を突っ込んで口笛を送っている。
文曲は両手で目を隠していたが―――肝心の指はあいており、隙間から顔を赤くして見ていた。
巨門は何故かいいものをみたなーという感じで両腕を組んでウンウンと頷いている。
貪狼は乙女チックな長の姿に目元をピクピクと引き攣らせていた。
禄存は殺音命のため、ぎりぎりと歯軋りをして射殺さんばかりの殺意の視線を恭也に向けている。
そして、水無月冥はため息を吐きつつ、二人の所まで歩いていき恭也と抱擁している実姉を引き剥がした。
「やぁん」
「気色の悪い声を出すな」
恭也から無理矢理離された殺音は何故か色っぽい声をあげ、その原因である冥を睨みつけるが、血とは別に真っ赤に染まっている顔で睨まれても全く怖くは無い。
足を払いガクンと倒れそうになった殺音を背負う。百七十オーバーの殺音と百四十未満の冥。身長差が尋常ではないくらいにあるが、気合で背負うことに成功した。
冥は器用に殺音を背負いながらも、眼前にいる恭也に頭を下げた。
「御神の裏。不破が末裔。伝説を怖れぬ者にして伝承に到達した剣士。偉大なる陸。伝承墜とし。我が姉の百年の飢えを満たしてくれたことに最大限の感謝を送る」
頭をあげることなく訥々と語る。だが、その言葉の裏には決して隠しようの無い喜びが見え隠れしていた。
あの、殺音が。戦いを求め、戦いに生き、戦いに死ぬと思っていた姉が。
盟約をかわした青年と戦い、死闘の果てに信じがたいが敗れ去った。ただの人間に負けるなど信じられないが、目の前で起こった事実だけに否定は出来ない。
横目で見れば、殺音の顔は憑き物が落ちたような―――というか恍惚としている表情だが―――間の抜けた顔をしている。
「この礼は必ず。貴方より得た恩は何よりも深く、何よりも重い。我が姉の魂を解放していただき―――」
頭を上げた冥が、普段の気難しい表情ではなく、心の底からの笑顔を向けて。
「―――有難うございました」
太陽の笑顔だった。
一転の曇りなき笑顔を向けて水無月冥はその場から遠ざかっていく。
冥の背中から降りる力も無い殺音だったが、首を捻って顔だけを恭也に向けてきた。
「―――また、戦ろう」
「―――待っているぞ、殺音」
たったそれだけを告げて殺音は去っていく。冥におぶられてという姿で締まらないが、その背中を見送る。北斗のメンバーもその背中を追って姿を消していく。
嵐のような時間だった。十一年ぶりに再会し、拳を交え、そしてようやく今日になって交わした約束を果たすことが出来たのだ。
ギリギリの戦いだった。全てが紙一重。複雑に絡み合った戦いの螺旋。一手でも間違えていたならば、勝敗は逆になっていただろう。天秤がどちらに傾くか、わからない戦いだった。
その時眩暈がした。肋骨が砕けているというのに激しく動きすぎたのだからある意味仕方ない。
それだけならば恭也とて自分の足で歩けただろうが、やはりアレがまずかったらしい。
神速を超えた神域。神域を超えた―――【何か】。神速でさえ身体に負担をかける。神域を使用したら身体中の体力を根こそぎ奪われていくほど。
ならば、それをさらに超えた世界ならばどうか。答えは簡単だ―――動くことすらままならなくなる。
「恭也ーーー!?」
「恭也様!!」
忍とノエルの叫び声を遠くに聞きながら、恭也は地面に倒れこみ、意識を手放した。
「素晴らしい!!素晴らしい!!まさか、まさか、まさか、この日この時この場所で―――【無言】(シジマ)の世界に、突入しますか、貴方は!!」
嗤っていた。
天眼は高らかに嗤っていた。
禍々しく、闇色に染まった、狂笑が周囲に響き渡る。
その嗤い声を聞いているだけで、頭がおかしくなる。頭の中を穿り回されるような、不快な感覚が支配してくる。
喜びを隠し切れず、先程までより頬を紅潮させ、気を失った恭也を嘗め回す視線で貫いていた。
狂気をふりまく天眼の姿は、数多の人外を見てきた数字持ちでさえも、恐ろしく感じて声もかけれない。
気を失った恭也が月村邸に運び込まれて、ようやく天眼は高笑いを止め、ハァハァと未だ冷めぬ興奮を抑えようとしていた。
「―――お前は、何を望んでいるんだ?」
フュンフは眼帯で覆われていない片目で天眼を睨みつけている。
天眼はそれに答えず、ナンバーズに向けていた背を翻し、正面から向き直った。
「それより、アレを逃していいんですか?」
嗤った。
「今ならばナンバーズ設立史上誰も倒したことが無い伝承級の化け物を―――その一角である猫神を倒すことは貴方達でも容易いですよ?」
それは悪魔の囁きだった。
六人の心に闇が這いよってくる。
確かに天眼の言うとおりだ。人では撃破できぬ伝説の怪物。天変地異と同じ扱いをされる、人外の頂点達の一人をこの手で倒せれる。
それができたら自分達は間違いなくナンバーズで永久に語り継がれる存在になるだろう。名誉も地位も望むがまま。
あれだけの死闘の後なのだ。身動きを取る事さえも難しい筈だ。それにこちらは六人がかり。北斗を押さえつつ、猫神を屠ることは―――可能だ。
全員の心が支配されていく。天眼の囁きに、闇の支配に。
だが―――。
「―――私は、反対ですわぁ」
フィーアは唯一人はっきりと告げた。
普段の他人を小馬鹿にするような、笑みを口元に浮かべて、天眼と向かい合う。
フィーアの反対の言葉で、他の五人の心を支配しようとしていた闇が霧散する。
「あらあら。ナンバーズでも最も人外を憎む四番さんが、見逃すなんてどんな心境?」
「別に確りとした理由がありますわぁ。今此処で猫神を倒す―――成る程可能ですし、伝承級のうちの一体を滅ぼせる。それは素晴らしいことだと思いますわぁ」
でも、とフィーアはずれおちそうな眼鏡を人差し指で押し上げる。
「でも、それだけです。話の内容から猫神と伝承墜としには深い繋がりを感じさせますもの。もし、私達が猫神を殺したならば―――間違いなく伝承墜としは私達を敵とみなしますわぁ。人間である筈の伝承墜としならば、此方に引き込める可能性は高い。それならば伝承墜としと手を組み、他の伝承級と戦う。単騎で伝承級を凌駕する彼と協力すれば、他の伝承級を屠るのも―――可能」
一息で己の考えを言ってのけたフィーアに、天眼は珍しく笑顔を凍らせた。
容易く操れると思っていた小娘達の一人が、天眼の考えを上回ったのだ。凍った笑顔には僅かに賞賛が見え隠れしている。
「―――以上のことを持って、今此処で猫神を滅ぼすのは悪手だと判断しますわぁ。私達の役目はあくまで、人に仇為す人外の抹殺。目先のことに囚われませんわよぉ?」
フィーアの挑戦するような目つきに、天眼は両手をあげた。
降参のポーズを取る天眼は、ナンバーズに背を向けて闇の空間へ消えてゆく。
「四番さんに免じて今回は帰りますよ。いやはや、意外と面白い子がいるじゃないですか、数字持ちには」
―――今回は猫神を殺すのはナンバーズではなく、彼女ですか。
そんな天眼の独り言が六人の耳に聞こえたが、その意味を理解できるものはこの場にはいなかった。
いや、この世界には誰も存在しなかった。
天眼が去っていっても暫くはその場から誰も動けなかったが、戻ってこないのがわかると、張り詰めていた空気が元に戻るのがはっきりと感じられた。
六人ともが地面に尻をつき、はぁと深いため息を吐いた。
こちらの意識を飲み込むような深い闇。人外の頂点が放つ狂気に当てられて、精神力を根こそぎ奪い取られていったのか、呼吸をするのも辛い。
「フィア姉、まじすごいッス……」
「……よく、あの天眼相手にそこまで、言えた」
「初めて尊敬したよーフィア姉」
エルフが疲れた顔でフィーアを褒め称える。
ズィーベンも、自分が一歩も動けなかった相手を言い負かせたことに素直に驚いていた。
ゼクスは少し問題発言かもしれないが、一応褒めているのかもしれない。
「……なんか、凄く疲れた」
「まぁ、そうだな。今日は帰って寝るとするか……構わないな、フィーア?」
眼力が下手に優れているが故に、天眼の闇を最も奥底まで覗き見たツェーンは青い顔をしている。
それを心配したわけではないがフュンフも、これ以上ここにいてもすることもないと判断してフィーアに賛同を得ようと問い掛けた。
「……そうねぇ。今日はもう帰りましょうかぁ」
フィーアもフュンフの意見に賛成して自分達の拠点としているマンションに帰還しようと歩き出した。
全員が精神的に疲れているのか、足取りには力は無い。
そんな中で、ふとエルフは何かを忘れている気がしたが―――疲れがそれを忘れさせる。
ナンバーズが帰還していく中で、痺れて動けないツヴァイは、次の日風邪をひいたという余談があったとかなかったというか。
サァと忍の髪が舞い上がる。
心地よい風が吹き、草花を揺らす。
忍がいる場所は藤見台。海鳴と風芽丘を見下ろす小高い丘。多くの人が眠る墓地がそこにはあった。
安次郎がかつて墓参りをしていた―――月村忍の両親が眠る墓地がここにあるのだ。
多くの墓石があるが、その中でも一際大きい墓石。
月村の一族が眠る場所だ。そこに安次郎も今は眠っている。
「叔父さんが本当に、ありがとう。私のことを守ってくれてたんだね」
誰にも聞かれることの無い礼を忍は、墓石の下に眠っている叔父に告げる。
もう少し考えていればわかったかもしれない。何故、あの優しかった叔父が豹変したかのような態度と行為を行ってきたのか。
両親の死を切欠に、忍は自分の中に閉じこもるようになってしまった。
全てを拒絶した。全てを切り離した。
ノエルが傍にいてくれるようになってマシになったとはいえ、忍の生活に変化は無かった。
叔父さえも受け入れてなかった自分だったのに―――安次郎はそんな忍を八年近くも見守っていたのだ。
「大切なものはなくして初めて気づくっていうけど……悔しいなぁ。本当にその通りだよ」
ぽたりと眼から一滴の涙が滴り落ちる。
思い出せば、爆発から身を挺してかばってくれた叔父の姿。
凄まじい痛みだったろう。衝撃だったろう。なのに、声一つあげずに、忍の盾となったのだ。
持っていた花束を墓石の前に置く。
眼をつぶり両手をつけて、墓石を拝む。
その時、風に乗って忍のことを呼ぶ声が聞こえた。
きっと恭也達だろう。今日は高町家の全員と出かける約束をしていたのだ。
前だったならば断っていたかもしれないが、今は違う。叔父から助けられた命。それを精一杯使いたい。
夜の一族だと知って受け入れてくれた恭也とともに歩みたい。
ライバルは多いみたいだが―――それだけ魅力のある人間なのだから仕方ないと思ってはいる。
眼を開けて立ち上がる。墓石に背を向けて、声が聞こえる方角へと歩いて行く。
「―――有難う、叔父さん。私は―――生きるよ」
--------------えぴろーぐ------------------
恭也と殺音の死闘が終わった深夜に近いこの時間。
人目につく道を歩いていたら警察に尋問されることは間違いなく、そのため北斗の面々は鬱蒼としげる森の中を歩いてホテルまで帰ろうとしていた。
恭也との戦いで全力を使い果たした殺音は身動き一つとることも辛い。むしろ夜という条件と、猫神から受け継いだ力がなければ間違いなく死んでいただろう。
「本当に楽しかったなぁ……」
「……あんな戦いをしておいてそんな感想を言えるのはお前だけだよ」
冥は心底呆れた。スピードに自信を持つ自分でも結局太刀筋の一つも見極めれなかった戦いをしておいて、楽しかったとはどんな了見だろう。
己の姉の化け物ぶりに呆れてものも言えない。アンチナンバーズの伝承級として恐れられているが、そんな枠をすでに飛び越えてしまっている。
半獣半人の解放状態―――しかも、猫神の紋様を宿した殺音を一対一で倒した恭也にも、驚きしかない。
自分では一生辿り着けない世界を垣間見ている二人を―――少しだけ羨ましく思う。
きっと水無月冥ではその世界を垣間見ることは不可能なのだから。
ザッザと土を踏みしめる音がやけに大きく響き渡る。
薄暗い森の中を歩き続けるが、突如冥の歩みが止まった。それを不思議に思うも、送れること数秒他の者たちも気づいた。
彼らの前方におびただしい異端の姿の化け物たちが視界を埋め尽くすように存在した。
二メートルを超える巨大な体躯。人間では考えられない筋肉の塊。頭には二本の角が生えていて、顔は異形そのもの。夜の一族と同じく赤く不吉な色を持つ瞳が北斗の面々を捉えている。
日本で【鬼】と呼ばれる人外の頂点に立つ化け物たち。その数は百近い。鬼の群れの前に立つのは三人の人間。
一人は白衣を纏った優男。研究者をイメージさせ、媚びへつらう笑顔が張り付いている。
一人は煙草を口にくわえた黒スーツ姿の男。男ではあるが女性のように長く美しい黒髪を両肩まで伸ばし、人生を舐めたような腐った眼をしている。
一人は着物をきこなした女性。日本古来の女性を想像させる。無駄に高そうな―――西陣織を着ている。
「……ば、かな。何故お前が、ここにいる?」
冥が震える声で問いかける。
その質問の相手は着物の女性。美しい黒髪を夜風に靡かせ、女性は見下すような笑みを浮かべた。
「うふふ。未来視の魔眼を持つものが教えてくれた。この日この時に、猫神を殺す絶好の機会があるとね」
「……天、眼か……」
「話半分で聞いてたから私の手勢しか連れて来れなかったけど……十分なようね」
見下した笑みをそのままに、重傷の殺音を嘲笑う。
一対一では勝率など皆無に等しいが、動くのもままならぬ今の殺音ならば殺すのは容易い、そう確信している顔だった。
そして、それは事実だ。普段だったならば殺音の勝利は揺るがない。千回戦っても千回勝つことができるだろう。
だが、今ならどうか。答えは―――戦いの結果は真逆になる。
「鬼王が配下―――四鬼の一体。星熊童子……」
愕然と語るは文曲。他の者たちも似たようなものだ。
相手はアンチナンバーズのⅤ。鬼王の擁する四体の鬼の一。数多の伝説を残す鬼女。
その力は鬼王―――副頭領の茨木童子と鬼童丸には及ばぬものの、他の鬼を寄せ付けぬ力を持つという。
最悪なことに鬼王と猫神の仲は限りなく悪い。古くから初代猫神は鬼王と意見が対立することが多く、常に敵対してきた。
それが、殺音の代になっても続いている。同じ日本という地に古くから生きるのも理由だっただろう―――実際には鬼王ではなく、その配下達と敵対しているのだが、この状況ではたいした違いは無い。
「ずっと機会を窺ってたの。たかが百年も生きていないあんたが伝承級に選ばれるなんて、許せないもの」
ちろりと舌が唇をなめる。艶かしいと思う前に感じるのは、不気味さ。不快さ。
心を許したら喰われる。そんな錯覚を呼び起こさせる、人外だった。
「なぁ、星熊童子さんよ。無駄な話はいらねーよな?さっさとやろうぜ。俺はとっとと帰って世○樹の迷宮3をやりたいんだけどよ」
ぴりぴりとした空気に割って入ったのはスーツ姿の男だった。
くわぁと欠伸を噛み殺し、目尻に浮かんだ涙をふく。その恐れを知らぬ姿に、星熊童子と呼ばれた女性の形をしただけの鬼は一瞬視線を鋭くするも、消し去る。
「ミスター劉!?仮にも協力者のミス星熊童子にそのような無礼な口は止めていただきたいのですが……」
「へいへい。わかりましたよ、王。失礼しましたね、星熊童子殿」
明らかに馬鹿にした口調の劉と呼ばれたスーツ姿の男は、ふぅーと煙草の煙を焦っている白衣を纏った優男―――王に吹きかける。
実際にこの場には王と劉以外の【組織】の武力はない。先程協力者である星熊童子に合流してこの場所に来たが、流石に巨大な鬼達が背後にいるというのは心臓に悪い。
劉の横柄とも見える態度だったが、星熊童子は猛る気持ちを抑え、心を鎮める。
今の相手は協力者であるこの人間ではない。長年にわたる因縁の好敵手―――猫神に属する者たちだ。
―――それに、猫神を殺した後にこの二人の人間も喰らってしまえば問題はない。
心の中で決断した星熊童子は、劉と王に見えないように舌なめずりをする。
傲慢で強気の態度を取る人間が泣き叫び助けを求める姿を予想するだけで、言いようのない快感に襲われた。
一方星熊童子が内心でそんなことを考えているとは露知らず、劉は二本目の煙草に火をつけて吸い始める。
「うふふ。うふふ。さて、確かに貴方の言うとおり。さっさと長年の縁に決着をつけよう」
「……っく」
焦燥を隠し切れない冥は、殺音を抱えたまま一歩後退する。
星熊童子の力量は己が身で体験したことがあった。過去に手痛い敗北を喫した相手。
鬼王が信頼する、千年の時を生きた最古の配下の一。アンチナンバーズのⅩⅩⅣ(24)に数えられる殺戮狂。人を喰らう凶鬼。
少なくとも冥にとって一騎打ちでは厳しい相手だ。いや、まず勝ちは拾えない強敵だろう。
それに星熊童子の背後、百体の鬼。下鬼とは到底思えぬ迫力。恐らくは子飼いの高鬼。北斗のメンバーなら一対一ならば屠るのは容易い。しかし、それが百体。
正直な話、今の状態で勝利をもぎ取るのは―――不可能だ。
「でも、逃げるだけなら、可能だネ」
「時間を稼ぐだけならば、私たちでも十分です」
廉貞が肩を回しながら前に出る。
文曲が手に持った槍で威嚇しつつ、冥と殺音を庇いたった。
「はん。俺たちに歯向かったんだ……全員ぶっ殺してやるぜ」
「―――お前の性格は理解しがたいが、今回ばかりは賛成だ」
「武曲。破軍を―――お願いします」
貪狼が歯を剥き出しにして、獰猛に笑った。
巨門も、そんな貪狼の意見に同意して拳を握る。
禄存は冥に、殺音を頼みつつ、己の得物である小剣を取り出した。
五人の願いはただ一つ。
自分たちの長である殺音を連れてこの場から離脱しろという望みだけだった。
そのためならば命さえも投げ出そう。完全な死が目の前に迫っているというのに、五人は不敵に笑ってその場から一歩もひこうとはしない。
何があったとしても決して逃げ出さない、不退転の意志。
冥は反論しようとして、口を閉じた。
ここでこのまま言い合いをしたとしても状況は変わらない。五人の決死の覚悟を邪魔するのか。
唇を噛みしめ、殺音を背負ったまま全力で逃げ出そうとしたその時―――。
「うふふ。逃げ出そうとしてもそうはいかない」
冥の後方。何時の間に移動したのかわからない。そこに狂った笑みを浮かべる女は回り込んでいた。
星熊童子はネズミを逃がさぬように両手を広げて、弱者を甚振るかの如く、ゆっくりと歩み寄ってくる。
それと同時に前方にいた鬼達も地響きをたてて迫ってきた。
―――なんとかして、逃げ出さないと。不破恭也の元まで辿り着ければ、まだ生き残る機会がある。
そう考えた冥を嘲笑うのは、星熊童子。
相も変わらず不快な笑みを口元に浮かべたまま、両手に力を入れると、両爪が数十センチもの長さに巨大化する。
「貴女の考えてることはわかるよ?あの剣士の元まで辿り着く。そうすればなんとかなると思ってるのか?甘いねぇ。大甘だよ」
「―――なにを、した」
ぞわりと膨れ上がる殺意。
黒く、暗い、純粋な狂気が巻き起こる。
あらゆるものをなぎ倒す嵐のように、その地帯に立ち上る。
発生源は―――水無月殺音。
「あらぁ。半死半生でそんな気配をおこせるのか?見事だよ。でも、その程度では怖くはない。褒美に質問には答えてあげましょうかね。私の子飼いの高鬼五十を―――あの剣士の元へむかわせておいたの」
「―――お、ま、えぇえええええええええ!!」
あらん限りの絶叫を上げる。憎悪と憤怒とが混ざり合った咆哮
喉がつぶれてもおかしくはない。生涯最大の怒声。これほど誰かを憎く思ったことなどない。恭也と戦った身だからこそわかる。自分と同様に恭也も限界を迎えていた。
どうしようもないほどに体力を削り取られていたはずだ。少なくとも、五十もの高鬼と戦えるかどうか―――難しい状態だろう。
殺音の全身に冷たい衝動がはしる。心臓が破裂しんばかりに高鳴り冷たかった衝動が一瞬で沸騰、血液が熱く燃える。
その眼を!その顔を!その手を!その胴を!その足を!斬り裂き、裁断し、踏み潰し、粉々にしても足りない!灰すら残さず、細胞までも滅ぼしつくしてやる!!!
殺音の心がこれ以上ないほどに燃え上がる。漆黒の炎が轟轟と音をたてる。だが―――冥の背から無理矢理降りた殺音は膝をついた。
幾ら心が猛っても、怒りを抱いても、肉体は限界を迎えている。この場にいる誰よりも強い筈の殺音は―――今はこの場にいるだれよりも弱かった。
「ああ!!良い!!その憎しみ!!その怒り!!ざまぁないね、水無月殺音!!」
腹を押さえて高笑う星熊童子は、膝をついた殺音を見下していた。
なんと心地いいことか。なんと気分がいいことか。あの猫神の血筋にして、散々鬼王に敵対してきた水無月殺音をここまで 馬鹿に出来る日が来るとは思っても居なかった。
千年の時を生きてきた星熊童子、至福のとき。
どさっ。
その時、星熊童子の高笑いを中断させる音が響いた。
なにやら水無月殺音と星熊童子の中間に何か丸い物が飛んできたのだ。
その場に居る全員の足がとまる。そして、投げ飛ばされてきた【物】を見た途端、視線をそれから外せれなくなった。
丸い物とは―――鬼の頭。
驚きで目を見開き、断末魔をあげる間もなく死したであろう……星熊童子、子飼いの高鬼の一体だった。
「―――え?」
それを認識した星熊童子が素っ頓狂な声を上げた。
何故、自分の部下がここにいるのか。いや、頭だけがここに転がっているのか。水無月殺音と死闘を行った剣士をしとめに行ったはずの部下が。
「―――別に貴女が何をしようと構わないわ。この街の全ての人間を殺しても私は干渉しなかった。でも、貴女は恭也に牙を剥いた―――」
この場にいた全ての生物が反射的に一歩下がった。
あたりに響いた女性の美しい声に、恐怖するかの如く。一歩下がったのは本能が警鐘を上げていたからだ。
全員が声の響いた方角へと視線を向けた。その視線の先にいたのは―――美しき漆黒の刃を片手にさげる、天女の姿。闇を纏い、闇を従える、剣聖―――天守翼。
「……おいおい、こいつはなんだ。悪い夢か、この街は万国ビックリショーかよ」
泰然と佇むは、劉ただ一人。
翼の姿を見て、一瞬目を奪われるも、何故か一人拍手を送る。
パチパチと響き渡る音が、この場にいる全員の目を覚まさせた。
鬼達も、星熊童子も、北斗の面々も何故人間の女一人に目を奪われたのかわからなかったが、殺音一人だけ理解できた。
目の前にいる人間が、自分に匹敵しかねないほどの人外の域に達している人の子だということに。
「恭也と敵対するのならば、それは私の敵と同じこと。我が刃の露と散りなさい」
日本刀を目線の位置まで一太刀掲げ、氷の表情のまま鬼達に告げた。
恭也にもらったメールを見て、今夜身を隠しながら見守っていたが、恭也の勝利を確認後に声をかけずに帰ろうとした。
その途中で人外たちの気配を感じ、その方向へいってみれば、月村邸に向かっていたのは数十の鬼達。
化け物を見るのは久々だったが、彼らの放つ殺気は明らかにまともではなく、嫌な予感を感じた翼はその鬼の群れを引き止めた。
結果、恭也を殺しにいくのだということを知り、ついつい我を忘れて交戦したのだ。およそ五十の鬼を倒すのに、【二分】近くもかかってしまった己に反省しながら、ここまできた。
「馬鹿、な。私の、子飼いの高鬼を、屠ってきたというのか?ただの―――人間、が」
「ああ、アレが高鬼だったの?ごめんなさい。ただの雑魚かと思ってたわ」
「……っ!?」
さらりと言ってのけた翼に星熊童子はぎらぎらとした殺意の視線を乗せて睨みつけた。
全く気にしない翼は、肩にかかっていた黒髪を背中へとパシリと叩いて戻す。
現在の状況を把握するように視線を、星熊童子へ向け、鬼達へ向け、王に向け―――劉に向けたところで止まった。
余裕を見せ付けていた翼の目つきが突如鋭くなり、氷の視線のまま劉を射殺さんばかりに見つめている。
それに気づいた劉。翼の漆黒の殺意に押し潰されんばかりに襲われているというのに、平然としていた。
他の存在など眼に入らぬその姿に、星熊童子の目元が引き攣る。鬼王に仕える四鬼の一体であるはずの自分を放置してまで、何故たかが人間と視線を交差させているのか。
「舐めすぎだ、【鬼】という存在を……私を侮ったことを死して後悔しろ。いや、簡単には死なせない。気が狂うまで、鬼に犯され続けるがいい!!そして最後に、喰らってやる!!」
星熊童子が片手を翼に向ける。
それを合図に百体の鬼は北斗を無視して、大地を揺るがす轟音をたてて翼へと襲い掛かった。
翼へと迫る鬼達は、星熊童子の言葉通り、高鬼と呼ばれる鬼の一種。古くから日本へと救う魑魅魍魎。その中でも最悪の人外と考えられている異端。
夜の一族ではなく、鬼の一族と呼ばれるほどに日本では有名な化け物達だ。その力は当然人間では及ぶはずもない。人をさらい、人を犯し、人を喰らう。
傍から見れば翼に勝ち目など一片たりともない。その場にいた誰もが鬼の濁流に呑まれ、一瞬で敗北する翼の姿を思い浮かべていた―――殺音以外を除いて。
百体の鬼を迎え撃つは、天守翼。
天守史上最高にして史上最強。剣聖。神風。神殺し。百人殺し。天才を超えた天才。千年に一人の逸材。【御神】を超える才を持つ剣士。
数多の字で呼ばれる天守翼。その天才は何故に天才と呼ばれるのだろうか。
力が強い―――否。天守翼の腕力はそれほど高くない。所詮女の細腕。美由希と同レベルだろう。
剣技が優れている―――否。天守翼の剣術の技は美由希とそこまでかわりはしない。
経験が豊富―――否。天守翼は圧倒的だった。自分と対等の者など存在しなかった。死闘など経験したこともない。
ならば何が優れているのか。答えは実に単純なことだ。あまりに簡単すぎることなのだ。天守翼の天性の才能それは―――何人たりとも寄せ付けない絶対的で、圧倒的で、超絶的な、スピード。神速の世界を自在に操る、申し子。
大地を粉砕する力を持った相手の攻撃は一切当たらず、天才的な技術を持った相手の如何なる技も潜り抜け、百戦錬磨の経験をも穿ち貫く。
天守翼のスピードは単純な話―――高町恭也に比肩する。
眼前を埋め尽くす人外の形をした、人の恐怖を具現化した鬼達。
この世のものならぬ異形が、牙を、爪を、赤い瞳を輝かせて翼に群がっていく。
恐怖に震え、その場から動くこともできず、許しを請うのが普通だろう。誰だってそうしてもおかしくはない。
だというのに、その場に顕現したのは黒き稲妻。黒き刃が縦横無尽に駆け巡る。翼から発せられる漆黒の乱刃。
断斬し、切り裂き、切り刻む。神域の世界に入った高町恭也をして、捌くのが難しいと評価した、最強ではなく、究極ではなく、【最速】の破壊。
「なっ……」
「っ……」
「……え?」
「くっひっひ。化け物めぇ。十年も昔にぶっ潰したあの化け物一族に匹敵、いや超えてやがるぜ」
一瞬。まさにその一言。それ以外言葉に出来ない。辛うじて目で追えたのは僅かこの場に四人。
水無月冥。水無月殺音。星熊童子。そして―――劉。
驚く四人を置き去りに、翼の体がさらに加速していく。もはやそれは別世界の領域。
音もなく、スゥと振動が伝わってくる。何の派手さもない。何の余分もない。斬るということだけに特化した、恭也の光の剣閃と似た斬剣。
恭也が呼んだ、【黒の剣閃】。全てが斬るということに収斂された、超速からの斬撃嵐。選ばれた者のみが放たれる一閃。一閃。一閃。一閃。
飛んでいく。飛んでいく。飛んでいく。己が斬られたと理解する暇もなく、人に怖れられた高鬼達は長きに渡る生涯を終えていく。
人間を遥かに超えた鬼の感覚を要しても、反応も許さず首を落とされていく。最速の剣の乱舞は、何の躊躇いもなく、屍山血河を築いていく。
人を喰らう鬼達が、戦いに喜びを見出す鬼達が、瞬く間に、知覚できぬままに殺されていく様に、雄叫びをあげる。それは、相手を脅えさせる咆哮ではなく―――心から恐怖しての、追い詰められた者が放つ許しを請う咆哮であった。
だが、天守翼は止まらない。
人間とは比べ物にならない鋼体を持つ鬼達だが、それはあくまで筋肉を鋼化させたときの話。
いつ、どこから、どうやって襲い掛かってくるかもわからぬ不可視の剣閃は、鬼達にその隙も与えず命を奪っていく。
超絶速度の世界からふるわれる斬撃は、容易く鬼達の首を斬りおとす。
戦いが始まっておよそ、三分。
恭也を狙った張本人を前にして、精神を最高まで冷静に高めあげた翼は―――百の鬼の屍が晒された大地の上に立っていた。
翼の持つ黒刀には、一切の血がついていない。百の鬼を斬ったと言うのに、速すぎて血がつかなかったのか。それとも、速さゆえに空中でついた血が振り払われたのか。
信じられない戦いの結果。星熊童子は己の目で見たことを信じられないようで、ぱちくりと無残に散らされている部下達の末路の前で唖然としていた。
残されたのは星熊童子と、王と劉。たった一体の鬼と二人の人間。
「うけけけ。あれだけいた高鬼を、たった三分足らずかよ。尋常じゃねぇな。狂いに狂った殺戮劇だ。嬢ちゃんみたいな、本物の化け物がこの国にいるなんざ思ってもいなかったぜ」
「ミ、ミスター劉!?そんな余裕で、話している場合ですか!?わ、私は自動人形が、手に入ると聞いたから一緒にきただけなんですよ!?」
「あー、うるせぇな。折角良い気分なのに、邪魔すんじゃねーの。わかってのか、ワーン?」
「っひ……わ、わかってますよ。ミ、ミ、ミスター劉」
劉の何を考えているかわからない瞳に睨まれて、可哀相なほどに脅える王。
同じ組織に属しているが、王はこの男が苦手であった。組織一番の実力者でありながら、たいした地位も与えられず、自由気ままに放浪している男。
組織から命令が下れば、それこそ宿敵であり、人間世界の法の守護者と知られる香港国際警防部隊とさえも渡り合う。
血と臓物の匂いをこよなく愛する、狂人。偶々日本に滞在していたので協力を頼んだら二つ返事できてくれたのだが、それはもしかしたら間違いだったのかもしれない。
目の前で起こった殺戮の宴を、眉を顰めるどころか、嬉しそうに、冷静に評価するなど……人間ができる対応ではない。
「次は貴方かしら?」
翼が劉に黒刀を突き付けた。
瞬きをした次の瞬間には殺される。そばにいた王は、ガクガクと足を震わせ、地面に尻餅をつく。
対して劉は腹を抑えて耳障りな声をあげていたが、片手を顔の前でぶんぶんとふった。
「きひひ。俺がやってもいいんだけどよ、次はそいつがやる気満々みたいだ、ぜ?」
「気をつけ、ろ!!
劉が翼の後方を指差すのと、冥が声をあげるのはほぼ同時だった。
破壊の殺意を隠すこともせず、星熊童子が間合いをつめ、鋭く伸びた爪を振り下ろしてくる。
その速度に驚きつつも、翼は咄嗟に黒刀で爪を弾き返した。
耳障りな音をたてて、黒刀と爪が一瞬拮抗するも、こちらの黒刀は一本に対して星熊童子は両手の爪がある。
連続して叩き込まれる凶器に、目を細めつつも、翼は優雅に後方へ飛び退いた。
「驚いた―――あの剣士といい貴女といい、少し見ない間に人間とは、ここまで強くなっていた、のか?」
「私と恭也は別次元と考えてもらって構わないわ。蟻の中に龍がいた……それだけの話よ」
ただの爪かと思ったがそうではないらしい。
翼の黒刀と切り結べるほどに、硬く鋭い。大地を五本の爪痕が深く刻んでいる。
そして、翼は、はてと首を捻る。普段の翼ならば相手に認識させるよりも早く斬り殺すことが可能だ。今さっき皆殺しにした鬼達のように。
それなのに星熊童子の一撃を弾いた後、反撃にでることができなかった。それに、星熊童子の攻撃の速度に―――驚きを隠せなかったのも事実。
「油断するな!!そいつの最大の武器は―――鬼の一族でも群を抜いた、スピードだ!!」
冥の再三の注意がとび、それで翼も納得がいった。
人間とは根本的に異なる人外の身体能力。しかも相手は鬼の中でも有数の存在。鬼王の配下―――四鬼の一体。
どれだけ強いか少しだけ気になっていた翼は、苦笑する。皮肉にも翼も星熊童子も最大の武器が、スピードだという。
「貴女、凄い。誇っても良いよ。私の部下を単騎で皆殺しにしたんだもの。でも―――代償は払って貰う」
星熊童子の姿がぶれた。空気をぶち抜いて、四鬼に数えられる童子は疾走する。
反射的に頭を下げると、真上を蠢く呪いの爪が通り過ぎた。低い体勢のまま、黒刀を真横に振るう。
「―――遅い」
背後に回りこんでいた星熊童子が、低い体勢の翼目掛けて爪を振り下ろした。
焦る様子も見せずに、翼は横に移動し、その爪をやり過ごす。振り下ろされた爪は大地を切り刻んだ。
首筋に僅かな悪寒を感じ、全身を捻りながら黒刀を首元に持ってくる。一拍も置く間もなく、黒刀と爪が衝突した。
ミシリと星熊童子の腕に力が入り、爆発的な力が爪を通して翼の体ごと吹き飛ばす。しかし、翼は空中であっさりと体勢を整えると大地に着地した。
速度で押されているというのに、翼は余裕を崩そうとはしない。それが癇に障ったのか、星熊童子が宙を舞う。
「―――ええ、遅いわ。貴女がね」
星熊童子の人間離れした動きを、さらに超えた速度。
黒の剣閃がはしった。星熊童子が咄嗟に上半身を捻り、両腕を交差させた。爪の隙間をぬって黒刀が星熊童子に腕を切りつけたが、斬れたのは薄皮一枚。
どこまでも冷静に、命を刈り取りにきている翼に、内心の驚愕を隠しきれず若干慌てて間合いを取る。
仕切りなおすように、二人は少し遠い距離を取って向かい合う。
驚いているのは両者同様であった。翼は自分の必殺の斬撃が薄皮一枚しか断ち切れなかったことに。星熊童子は自分よりも僅かに速い人間であるはずの翼の速度に。
観客となってしまった北斗。そして、王と劉。この場にいる全員が人間の剣士と鬼の戦いに見惚れていた。
恭也と殺音の戦いには到底及ばぬが、それでも二人の尋常ならざる速度の戦いは美しい。見るものを魅了させる何かがあった。
もっともこの場で二人の動きを完全に捉えることができているのは殺音と劉。それに冥くらいだろう。他は微かに動きが見えるくらいだ。
「くっひっひ。流石は鬼の中でも才ある者と名高い星熊童子。鬼の天才と人の天才の殺し合いか。金を取れるカードだぜ、こいつは」
一人マイペースなのは劉。翼と星熊童子の戦いを面白そうに眺めている。
星熊童子は自分の斬られた腕を視線鋭くみつめ、その様子に激昂するかと誰もが思っていたが、何故か小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、翼に向き直った。
「速いね。人間のスピードじゃない。でも、軽い。皮は斬れても骨までは断てない。それが貴女の限界」
翼のスピードは桁が違っている。高鬼達では瞬殺される理由もわかる。
だが、ほとんどスピードでは拮抗している星熊童子ならば斬られる直前に筋肉の硬質化が可能だ。
斬られる一瞬にのみ筋力を集中させれば、翼の黒刀では星熊童子のいう通り皮は斬れても骨までは断つことができない。
星熊童子の嘲笑交じりの指摘が、プライドに傷をつけたのか、翼の雰囲気が刃のように鋭くなった。
「そう。それなら骨を断つ一撃を貴女にあげるわ」
翼の宣言に、星熊童子は心の中で喝采をあげた。
認めたくないことだが鬼の中でも随一の速度の星熊童子よりも、人間の筈の翼の方が僅かに速い。
このまま戦いを続ければ負けないにしても、翼を捉えきるには暫しの時間がかかるだろう。
故に星熊童子は翼を挑発する言葉を口に出したのだ。
翼の異常なまでのスピードは、それに特化したがための超速度。そのため、一撃一撃は鋭くとも、軽い。
実力差が大きく離れている高鬼にならば無双の力を発揮したが、実力が伯仲している星熊童子には一撃必殺が通用しなかった。
挑発により翼は星熊童子を仕留めようと一撃必殺を狙って向かってくるだろう。となれば犠牲になるのは、特化したスピード。
スピードが少しでも落ちれば、星熊童子ならば逆転の一手を狙える。二人の間の動きの速さは、ほんの僅かなのだから。
「―――見せてあげる。不破恭也に認めてもらった私と彼だけの世界を―――」
背筋を抜かれて、かわりに鉄の塊を入れられたのような違和感。異質さ。恐怖感。
全身を這う、黒に塗れた殺気。絶対なる自信に裏付けされた、翼の放つ漆黒の気配は広がっていく。
「―――貴女にも教えてあげる。戦いの恐怖というものを」
翼の姿が消えうせる。瞬く黒の流星。一直線には星熊童子には向かわず、彼女を取り囲む結界のように翼が周囲を駆け翔る。
あまりの速さに風が巻き起こり、土煙も立ち昇らせそうなほどの動き。
先ほどよりさらに速くなっていた。星熊童子の背筋は未だ冷たいまま。絶対に失敗できない賭けともいえる行動。
必至になって、翼の動きを視認する。鬼の視力をもってしても、置き去りにされそうな速度。
大地を踏みしめる音がやけに大きく響く。そして、紙一重の瞬間。もしも後一つでも何かしらの行動を翼が取っていたならば、確実に星熊童子は姿を見失っていただろう。
それはつまり、天運が星熊童子に傾いたという証でもあった。
「終わったぜ、あいつ。天才ゆえに窮地に陥ったことがない典型的な馬鹿野郎の失敗だ」
くけけと、その交差を凝視していた劉の呟きは傍にいた王にしか聞こえなかった。
真正面から星熊童子に一直線に疾走してくる翼。
その動きは速かったが、軽いという星熊童子の挑発を意識してか、明らかに翼の最速よりも鈍っていた。
星熊童子には確かに見えた。翼の黒刀を握りしめる両手に力がこもっているのが―――。
真正面から上段の一太刀が振り下ろされる。
それを星熊童子は全身全力全速の一撃を持って、弾き返す。
激しい突風に吹かれたかのような、分厚い風壁に爪が喰らいこむ手応え。
体ごと持っていかれる衝撃に耐えきり、連続して両手の爪を翼の姿に叩き込んだ。恐らくは星熊童子の長い生涯における最高の連撃。
両手にかかる負荷は凄まじい。嵐の激風の中で手を動かすかのような重圧を感じながらも星熊童子は爪を振り続けることを辞めなかった。
十数度の攻撃によって、星熊童子は遂に体全体に感じていた突風を突き破り―――鋭利で強固な爪を翼へと抉り貫いた。
合計十本の爪が翼に突き刺さり、血が噴き出る―――ということはなく、星熊童子の手に伝わってきたのは肉を抉る感覚ではない。一切の手応えが感じられない、空を切る感触。
爪が翼の肉体を貫いているというのに、何故何も起きないのか。何故、苦しみ叫ばないのか。目の前の人間が。
「お前には無理だぜぇ?星熊童子―――格ってやつがちがいすぎる。お前如きのちっぽけな器じゃはかりきれない。理解の及ばない相手が、そいつだぜ。同じ天才っても、そもそも桁が違いすぎる」
ヒュゥという風が吹く。
貫いたはずの翼の姿が―――ぶれて、消えた
「―――ここよ」
どこに行ったと問う暇も、探す間もなく、背後から声は聞こえた。
本当にいつの間にだろうか。気がついたときには星熊童子の背後に、黒刀を振り切った状態の翼は優雅に立っている。そして、パチンと刀を鞘に仕舞った。
戦いは終わりだと言わんばかりの態度の翼に、慌てて振り向いた星熊童子。
「―――貴女が競り合っていたのは私が巻き起こした風圧。貫いたのは―――残像よ」
「……な、に」
口を開いている途中で星熊童子が血を吐き出す。尋常ではない量の吐血。
無論、口からだけではない。身体中の至るところが切り裂かれ、足元に血の池を作り上げた。
振り向いた振動で、右手は半ばから斬りおとされていたのを思い出したかのように、地面の血の池にぽちゃりと落ちる。胴体は八つ裂きという単語に相応しい状態。
心臓は貫かれ、首も半分近く斬りおとされていた。鬼の強靭な生命力だからこそまだ息があるが、いつ息絶えてもおかしくは無い。虚ろな視線だけを翼に向けている。
「……貴女が私の残像を貫こうとした時には、既に私の攻撃は終わっていたわ」
星熊童子に気づかせることなく、翼は数十にも及ぶ黒の剣閃を放っていた。
気づかなかった理由。それは―――ただ、あまりにも速すぎただけ。星熊童子の誇るスピードなど、歯牙にもかけぬ圧倒的な速度の差。
劉が語ったように、そもそもの次元が違っている。天守翼の速度は、鬼の領域を遥かに超越していた。
現在の状況を理解できない、したくない。
星熊童子は人の形をしただけの、剣の化身の背を呆然と見つめたまま、口の中に広がっている鉄の味を噛み締めながら―――。
「……私の……千年……こんなところで……」
「あら。貴女って千年も生きていたの?」
星熊童子のかすれた呟きに、本当に驚いたのか翼が聞き返す。
高名な鬼だろうということは想像がついた。少なくとも翼とここまで戦えた相手は、恭也以外に数えるほどしかいない。
ましてや、一太刀で決めれなかった敵など本当に久しぶりだった。
だが―――。
「―――軽いのね、貴女の千年」
漆黒の髪を靡かせて、翼は星熊童子から遠ざかっていく。
翼の言葉は、必死に生へとしがみついていた星熊童子の意思と誇りを砕き折るには十分すぎる一言であった。
ガクリと両膝をつき、星熊童子は自らの血で作り上げた池に身体を沈め、命の灯火は静かに消えていく。
百五十もの高鬼と四鬼に数えられる一体を、たった一人で殲滅せしめた剣士。息一つ乱さず、それをやってのけた翼。
永全不動八門の誰一人としてこれと同じことは出来ないだろう。人間では為し得ぬであろうことを容易く可能とする。
故に天守翼は呼ばれるのだ―――剣聖と。
あまりに格の違いすぎる戦い。
誰もが我を忘れて息を呑む。水無月殺音をして、強いと断言する以外に判断を下せなかった。
残された二人。劉と王に躊躇いもなく近寄っていく翼は随分と遠い間合いを保つ。
星熊童子を相手にしたときはそんなことを気にもしていなかったというのに、翼は明らかに劉を危険視していた。
「貴方はどうするのかしら?」
「くっへっへ。なんだ、見逃してくれるのか?」
翼の質問に劉は、恐れも何もなく、逆に馬鹿にした雰囲気を隠そうともしない。
そんな劉の態度を全く気にも留めず、黒刀の柄に手で握る。
「おおっと。冗談だ冗談。今はやる時じゃねーんだよ、多分な」
くひひと笑う劉は座り込んでいる王に蹴りを入れる。
悲鳴もあげれずに、蹴り飛ばされた王は地面を転がっていき、茂みに突っ込んでいった。
劉は煙草を口にくわえると火をつけて、煙を吹き出す。煙が消えていくのを確認したあと、躊躇いもなく背中を向けてその場から去っていく。
翼がその気になれば瞬殺可能であるというのに、己の命を一切重要視していない態度に、珍しく薄ら寒いモノを感じる。
「ああ、お前はつえぇぜ?でもな、まだ若けぇ。俺と本気で殺りあってたら―――」
その後は告げず、劉は茂みに叩き込まれた王の襟を掴んで地面に引き摺りながら姿を消していった。
不気味な気配を残したまま―――不吉な笑い声を響かせたまま。
中国最大最強の闇組織【龍】が最強戦力―――劉雷考。彼の力は計り知れず。十年以上も昔に御神の一族を滅ぼした張本人。
アンチナンバーズがXⅤ(15)。【虐殺鬼】。人でありながら、アンチナンバーズの上位に座する最凶最悪の、鬼人。
―――お前は死んでいたぜ?
劉の背中を見送っていた翼は、恐らくそう続けたかったであろう彼の台詞を鼻で笑う。
確かに底が知れない男だった。だが、怖いと思いはしなかった。
「―――貴方では恭也に及ばないもの。貴方程度では脅威に思う必要はないわ」
次に翼は北斗の面々へと―――いや、殺音に視線は固定されていた。
そこには様々な感情が織り交ざっている。良からぬものを感じた五人が翼の前に立ち塞がるが、油断したわけでもないのに姿を見失う。
星熊童子と同じで、気がついたときには既に背後にまわられていた。冥が刀を抜こうとするが、それを殺音が手で止める。
相対する二人。天守翼と水無月殺音。言葉もなく二人は視線を絡み合わせたままだ。
「礼を言うべき、かな?」
「―――いらないわ」
礼を述べる殺音に対して、全く友好に接するつもりは無いのか翼の態度は冷徹にも見えた。
沈黙すること数十秒は経ったろうか。翼は何度も何かを言おうとする素振りをみせつつも、決心がつかないのか結果として沈黙は続く。
殺音は翼が言おうとしていることを急かすことなく待っていた。
「……礼を言うのは、こっちの方よ」
「え?」
そして、翼の口から飛び出したのは殺音の予想外の台詞だった。
まさか命を助けて貰った相手から逆に礼を言われるとは、予想しろというほうが無理な話だ。
「……あんなに楽しそうに戦っている恭也は初めて見たもの。なんとなくわかったわ―――貴女が恭也の言っていた約束の人だって」
寂しそうに語る翼のその姿はまるで幼い子供のようにも見える。先程まで超然としていた、剣士の姿はそこにはなかった。
恭也と殺音の戦いを見ていた翼は心が震えた。身体も震えた。全てが震えた。
己が知っている不破恭也を遥かに凌いだ恭也が、翼の前にいて―――その恭也と互角以上に戦う戦士がいた。
あまりに桁が違う天上の戦い。一瞬たりとも見逃すまいと、不覚にも見惚れてしまった。
恭也の力を完全に引き出した相手。それが今目の前にいる女性だ。嫉妬。羨望。そういった妬みの感情が無いかといわれれば嘘になる。
だが、今の自分では恭也のあんな顔を引き出すのは無理だろう。自分の全力を見せたとしても、【よくやった】。そう褒められるのが関の山だ。
それはつまり、天守翼は、不破恭也にとって敵と見なされてはいないということだ。正確には敵と見られるのにも値しない。
天守翼の今の力量は―――今の不破恭也の足元にも及ばない。
悔しいとは思わない。それだけ目指す山の頂は遠いと実感できるからだ。
己の手を見る。三年前は白魚のように美しい手だったが、今では剣ダコでボロボロになっている。
後悔したことなど無い。むしろこの手を誇りに思っている。きっと恭也も前の手よりこの手のほうを好いてくれるだろう。
何時か自分も、目の前の女性のように、恭也にあんな顔をさせれるだろうか。もしさせることが出来たならば、きっとその時は至福の一時となる筈だ。
遠き未来を夢見て翼は氷の微笑を浮かべる。
老若男女等しく魅了する、危険な、魅力的な微笑を残して、翼は踵を返した。
「―――私は天守翼。また、会いましょう」
生涯の好敵手となる天守翼と水無月殺音。
二人の初めての邂逅は、こうして幕を下ろすことになった。
猫神生還。それは、天眼の未来視を上回る結果。本来とは異なる歴史の歪み。
未来を見通す魔人の計画が―――僅かな綻びを見せた瞬間だった。
--------atogaki-----------
御神流の奥義は適当につけました。
陸の薙旋くらいしか覚えてないんですよねー
虎切とかは奥義じゃなかったきもしますが。それと、この話では御神流裏とかは、本来の御神流から外れた美沙斗が勝手に裏と呼んでいた的な説になっております
もうちょっと盛り上げた戦いをかきたかったですが、これくらいで限界でした。
次回は―――誰の章かはアップしてからのお楽しみ!ということで