「―――天才、か」
「唐突にどうしたの、きょーちゃん?」
北斗との激戦から二ヶ月近くがたった六月の後半。
太陽がじりじりと光を照らしてくるお昼頃、海鳴の一画にある高町家の縁側に座りお茶を啜っていた恭也の独り言に、隣に座っていた美由希が几帳面に返事をする。
二人の視線の先の庭では、何時もの如くレンと晶が拳を交えているところだった。
今回の騒動の発端は小さなことといえば小さなことで、今夜の晩御飯のメインをどちらが作るかということであった。
普段ならばローテーション通りなのだが、今日の当番の桃子が翠屋が忙しく間に合いそうにないため急遽、二人にお鉢がまわってきたからだ。
二人して、自分の料理の腕にそこそこの自信を持つ身である。どちらとも自分が晩御飯を作るとガンとして譲らず、結局何時ものように勝った方が料理を作るということに落ち着いてしまった。
レンも晶も代わりに作る相手がフィアッセだったならば遠慮しただろう。だが、相手が相手だけに、どちらも相手に譲るという選択肢は最初から頭にはなかった。
敬愛する師匠である恭也に料理を振るまえる機会が増えるのだから、今回の戦いは二人して気合が入っていたのだが―――。
「ほっほっほー。どないしたんや、お猿さん。さっきまでの勢いはどこへいったんや?」
「く……ち、ちくしょう……」
地面に仰向けに倒れ伏しながら、晶は悔しそうに無い胸を反らして勝ち誇っているレンを睨み付ける。
そんな視線を全く意に介していないレンは漫画やアニメにでてきそうな悪女の高笑いを真似るように、右手の甲で口を隠しつつ、動けない晶を見下ろす。
二人の勝負は一瞬だった。
見物していた恭也の口から反射的に感嘆の声が漏れそうになるくらいの速度で晶はレンへと踏み込み、右拳を放ったが―――レンは余裕の表情を崩さないまま、迫ってきた拳を紙一重で避けきり、腕を掴んで投げ飛ばし地面へと叩きつけた。
あまりの早業だったが故に、晶は己が投げられたのだと気付いたのは、地面に背中を強かに打った後だった。
陸に打ち上げられた魚のように、口をパクパクと動かすこと十数秒。
ようやく呼吸を取り戻した晶が先ほどの、悔しさ溢れる言葉を発したというわけだ。
庭の片隅にある道場で鍛錬をしていた恭也と美由希は、休憩がてら二人の戦いを見ていたのだが、休憩にもならない一瞬の勝負の結果に二人は異なった表情を浮かべた。
美由希は苦笑。
普段と変わらない戦いの結果。レンの圧勝ともいえる結果はある意味、美由希の予想通りだった。
対して恭也が浮かべたのは―――驚愕。戦慄。羨望。
そういった様々なモノが交じり合った表情だった。
生憎と、それは一瞬であり、それに気づいた人間はこの場にはいなかったのだが。
そんな恭也が漏らした【天才】という言葉。
レンを見ていたならば確かに、それしか思い浮かばないと美由希もまた頷く。
「凄いよね、レン。あの晶を相手にあそこまで圧勝できる同年代の人間なんてそうはいないよ」
「……ああ。全くだ」
レンに軽々とのされる晶は、知らない人が見たら弱く見えることだろう。
だが、それは間違いだ。晶は強い。性別と年齢を考慮しなかったとしても、十分に強いのだ。
空手界の重鎮であり、虎殺しとも呼ばれる巻島十蔵の秘蔵っ子。それが城島晶。
猛者ばかりが集う明心館主催の大会で、男女混合の中学生の部において、唯一女性でありながらベスト四に残った少女。
空手界の若きホープ。次代の空手道を担うもの。それが城島晶だ。
そんな晶を、手心を加えつつ苦も無く一蹴するのは鳳蓮飛。
趣味は料理。好きなことは日向ぼっこ。中学一年生ということを考慮しても、小さい背丈。
どう見ても、見かけからは武の気配を一欠けらも滲ませることのない少女だ。
祖父から習った中国拳法も、あくまで毎日の運動がてらに嗜む程度でしか鍛錬をしていないというのに―――城島晶を軽々と凌駕する。ある意味理不尽なほどの強さ。
【天才】という言葉では済まないほどの才覚。
明心館で努力する天才と称されている晶をも歯牙にもかけない圧倒的なほどの武才。
あらゆる格闘家の鍛錬と才能を超越した遥かなる高みに座する、武の天稟。
頂点を目指す者達を絶望へと叩き落すほどに、格が違いすぎる才。大人と子供。そんな例えさえも相応しくない、決して埋めようの無い彼岸と此岸。その気になれば、武の頂点を軽々と手中に収められるであろう幼き武神。
「一つ聞く、美由希。お前はレンに勝てる自信があるか?」
「んー」
恭也の問いに美由希は少しばかり考え込むかのように、赤く輝きながら沈み込む太陽を見上げる。
人差し指を顎にあて、未だ高笑いを続けているレンの現在の戦闘能力を計算しつつ、頭の中でイメージを作り上げた。
想像の中で己と戦う鳳蓮飛。恐ろしいほどに強い相手ではあるが―――。
「今の段階なら九割九分九厘―――勝てるかな」
「そうだな。今のレンと戦えばお前の言うとおりの結果になるだろうな」
美由希の返答に恭也は特に否定するわけでもなく、頷いた。
確かにレンは強い。それでも美由希は更に強いのだ。特に美由希の本領は小太刀や暗器を使用した古流剣術。
素手を得意とするレンとは土俵が違いすぎる。故に美由希が全力をだせば、レンを打倒することは、容易い。
しかし、武器を使わなかったとしたら結果はどうなるだろうか。
美由希は敢えてそこには触れなかった。少しばかりの意地があったのかもしれない。
日々の気が狂わんばかりの鍛錬の果ての果て―――手に入れた今の自分をも、素手の戦いならば凌駕するであろう。
それこそが鳳蓮飛。本当の意味で天才という言葉が相応しい者。
「だからこそ、惜しい。もう少しだけ強さに貪欲であったならば―――いや、違うか。レンだからこそ、天もこれほどの才を与えたのだろうな」
己の口から漏れ出た言葉を否定したのは恭也自身だった。
レンは驚くほどに【強さ】というものに興味がない。いや、それは言い過ぎだろう。興味が薄いというほうが正しい。
恭也や美由希のようにどこまでも貪欲に強さを欲しているというわけではないのだ。
そんなレンだからこそ、他者とは隔絶するほどの絶対才を与えられたのだろう。
物思いにふけっていた恭也の眼前にて、驚異的な速度で回復した晶が飛び起き、叩きつけるような正拳突きを放った。
虚をついた一撃であり、並の相手ならば間違いなく決まるはずの攻撃だった―――レンが相手でなければ。
全てが予想通りといわんばかりに、拳を避けると同時に遠慮なく関節を決めた。
「い、いててててて!?」
「あまいでーお猿。その程度じゃうちに一発入れるなんて夢のまた夢の話や」
関節を決められ動くだけで激痛がはしる状態に追いやられた晶が悲鳴をあげる。
にししと笑顔を向けると、そのまま地面に押し倒す。関節をきめられた晶はレンのなすがままにされ、地面に転がされた。
地面に転がった状態で脱出不可能なほど、完膚なきまでに完全に腕ひしぎを決められ、もはや出せるのは口だけとなった。
「ぎゃああぁあああああああ」
いや、すでに口を出す以前の問題で悲鳴しかあがってこない。
その光景を見ていた美由希は感嘆のため息を漏らす。
そもそもレンの得意とするのは祖父から教えられた中国拳法だ。最も、指導された拳法を独自にアレンジを加え、今ではレン独特の拳法になったと言っても過言ではない。
今先ほど晶にかけた寝技は誰かに教えを乞うたものではないのだ。
買い集めていた漫画本の中で登場人物が使用していた技を見ただけ。それだけでありながら実戦で使用可能としたのだ。
それがレンの異常なる才の一つ。見ただけで即座に使用を可能とする、完全見取り。
どう身体を動かせばいいのか。どう力を入れればいいのか。それを僅か一瞬で理解してしまう。
恭也の見切りとはまた別の超越技。レンにのみ与えられた神業ともいえる究極の世界。
「う、うぐぅぅう」
パンパンとレンの身体をタップして敗北を認める晶。
壊さないように注意をしてはいるレンだったが、逆に言えば壊さないギリギリ一歩手前を理解しているということでもあり、その容赦ない攻めに晶は遂に敗北を認めた。
「ほな、今日はうちがメインつくるから、他はまかせたでーお猿」
「ちくしょう……亀のくせして……」
無駄に高レベルな戦いが終わり、レンは朗らかな笑顔で高町家へと戻っていった。
晶も毒づきながらも、間接をきめられていた腕をさすりながらレンの後を追う。
晶の尋常ではない回復力に、恭也と美由希は言葉もなく二人の後姿を見送ったが、一分近くもたち互いに顔を見合わせると―――。
「さて、鍛錬を再開するか」
「そ、そうだねーあはは」
自分達の妹分でありながら常人離れしたレンと晶に対して呆れつつ、道場に戻っていった。
最も、恭也と美由希が二人に対して抱いたものと、晶とレンが恭也と美由希に対して普段から思っていることは殆ど一緒のことではあるのだが―――知らぬは本人達ばかりなり。
レンと晶の作った昼食を食べた後、日曜恒例といってもいい道場での模擬戦―――時間にして合計四時間にも及ぶ正気の沙汰ではない鍛錬が終了し、美由希は那美の住んでいるさざなみ寮へと出かけていった。
なのはは友人であるアリサ・ローウェルの家に遊びに行っているので、高町家には現在恭也とレンと晶の三人だけである。
フィアッセと桃子は終末は翠屋が忙しくなるので一日中家を空けていることが多い。
キッチンの方では晶とレンが言い合いをしつつも食器を洗う手を止めることなく後片付けに勤しんでいる。
一方恭也はというと、予定があるわけでもないのでソファーに腰をおろしテレビを眺めていたが、ふと何かを思い出したのか立ち上がった。
「すまんが二人とも少しでてくる。それほど遅くはならない筈だ」
「あ、はーい。お気をつけてです。お師匠ー」
「いってらっしゃい。師匠!!」
キッチンに向かって声をかけるとレンと晶は言い合いを止め、満面の笑顔で挨拶を返した。
二人に後片付けを任せ、恭也は財布と携帯電話だけを持つと、高町家を後にする。
時計を見れば夕方の四時を回っていたが、外に出てみると、太陽は地平線の彼方におちると言う事もなく、まだまだ日中のような明るさを保っている。
常に長袖を着ている恭也にとって辛い時期が来ようとしていた。
ふぅとため息をつきながら足を動かし、目的地へと歩みを進める。
恭也の行こうとしている場所は刀剣専門店の井関だ。以前注文していた木刀が今日あたりに入ってくるということを言われていたのを思い出したからだ。
道端で会う知り合いに挨拶をしつつ、歩くこと数分で商店街に辿り着いた。
時間も時間なので、今夜の晩御飯の食材を買い求める女性達が、恭也の視界一杯に広がっている。
以前にレンと一緒に買い物に行ったときのことを思い出し―――手痛い敗北を刻まれた過去が頭の中に広がり、苦虫を潰したかのような表情を一瞬作る。
「―――あら、恭也じゃない?こんな時間に珍しいわね」
「ああ、翼か。少し井関に用事があってな」
背後から声をかけられ、声をかけられる前から気づいていた恭也は驚くでもなく返事をした。
恭也の言うとおり、背後から声をかけてきたのは天守翼。恭也の私服と同じように、黒一色で統一されている。
もっとお洒落に気を使えば男が放ってはいないだろうにと、恭也は自分のことを棚にあげた感想を抱く。
そんなことを考えているとは露知らず、翼は普段の無表情などなんのその、月のように冷たくも美しい笑顔を恭也に向けて近寄ってきた。
「少しでいいから時間あるかしら?もしよかったらお茶でもしていかない?」
「―――そう、だな」
緊張しているのか、心なし翼の声は若干震えていた。頬も僅かに赤みをおびている。
それには気づかない恭也が、時計をちらりと見てみると時間は先程と然程かわらず。夕飯までもう暫くの時間がある筈だ。
時間を確認した恭也は頷いて、翼の誘いを受け入れた。
「ああ。一時間程度なら大丈夫だ」
「そ、そう……良かった」
ぱぁと喜色を浮かべ、ほっと安堵のため息をつく。
最後の良かったという言葉はあまりにも小さかったため、恭也に聞かれることなく、消えていった。
周囲を見渡せば翼の容姿に見惚れてか、人目を集めてるようで、恭也は人の視線から逃れるように翼の右手を掴むと人混みのなかへと逃げるように歩き去っていく。
「―――あっ」
蕩けたかのような妙に色っぽい声を小さくあげて、翼は恭也に引っ張られるがままに、連れて行かれる。
歩くこと数分、注目されていた視線がなくなったのを確認した恭也は立ち止まり翼の手を離す。
離された翼は残念そうに自分の手と恭也の手を見比べていたが、その様子を恭也に見られているのに気づくと慌てて、自分の手を背中に隠しながら首をふった。
「と、ところで、どこでお茶をしようかしら?」
「そうだな……翠屋も此処から少し離れているからな」
ふむ、と考え込みながら両手を組み空を見上げた。
別に海鳴には翠屋だけしか有名な喫茶店がないというわけでもなく、幾つかの人気がある喫茶店は存在する。
それらの候補を頭の中でピックアップしていた恭也だったが、突如何かを思いついたのか翼が、そういえばと小さく声を漏らした。
「二週間ほど前にこの商店街に新しい喫茶店が開店したらしいわよ。噂でしか聞いてないけど評判は上々らしいわ」
「……何時もの所もいいが、偶には新規開拓をしてみるか」
「ええ、そうね。聞いた話だけど、ここのすぐ近くらしいから行ってみましょう」
翼と恭也は連れ立って商店街を突き進み、翼の記憶にある場所へと数分もかかることなく到着した。
なるほど、と恭也は目の前の店を見て納得する。
夕方という人が多い時間帯ということもあるだろうが、目の前のお洒落なオープンテラスとなっているカフェは、席をうめつくすように客が入っていたのだから。
その大部分が男性ということが少しばかり違和感を覚える恭也だった。
大抵このようなカフェは、女性の方が入りやすいし、好むのではないかという一般的な考えを恭也は持っていたからだ。
それも当然だろう。桃子がやっている翠屋だって、男性の客は多い。だが、それは一部であり、翠屋の客層の大部分が女性だからだ。
それなのに、このカフェは翠屋とは真逆の客層。どこか納得いかないものを感じながら翼と入り口へと足を向けた。
看板を見てみれば、書いてあった店名は【喫茶北斗】。
首を捻りつつ、店内へと続くドアに手をかける。
「らっしゃいませー」
カランと音をたてて開いたドアの先に居たのは、スーツ姿の長身の男性だった。
細身で、どこか野性味を感じさせる顔つきの、普通に見れば中々女性に人気が出そうなタイプだったが、やる気が見られない雰囲気と挨拶である。
恭也はその男性をどこかで見たような既視感を持った。つい最近、顔を見たような覚えがあるのだ。
思い出そうと記憶を辿っている恭也とは裏腹に―――スーツ姿の男性、【北斗】と名乗る暗殺集団の一員である貪狼が一目で判るほどに頬を引き攣らせた。
「お、おま、お前―――な、なんでこんなとこに!?」
悲鳴にも似た叫び声が貪狼の口からあがった。
腰が抜けたかのように、床に尻餅をついて必死になって後ずさる。
「……なんでこんなところも何も、俺は海鳴在住なんだが」
至極当然の返答をする恭也だったが、貪狼がそんなことを聞く余裕もないようで、ゴキブリにも似た動きで厨房へと逃げ去っていった。一体何事かと店内に居た客達は恭也を見てくるのだが、ここでもまたもや注目を浴びるのかとため息を吐くしかなかった。
「おい、貪狼。この時間はお前が店内の担当だろうが。なにやってるんだ?」
「全くです。こっちはこっちで忙しいんですから新しいお客さんの案内くらいしっかりやってください」
「いやいやいやいやいや、無理無理無理無理無理!!絶対、無理!!」
厨房から聞こえてくる必死の貪狼の訴えが、厨房内に響き渡る。
その後も何度か言い合いをしていたようだったが、流石にまずいとおもったのか、新たな人物が恭也達を案内するために厨房から出てきた。
着ているスーツがピチピチになっている巨漢。二メートルは超えていそうな大男、巨門だった。
全くといっていいほど似合っていない巨門が愛想笑いをしながら恭也達のほうへ向かってきて―――恭也を見た瞬間、脱兎の勢いでそのまま厨房へと逃げ去っていった。
「貪狼の言うとおり、無理だ。死ぬ、殺される、斬殺される!!勘弁してくれ!!」
「ちょっ……君まで何言ってるのさ。いいからさっさと仕事しなよ!!」
「あー、あー聞こえない。俺は何も聞こえないからなー」
「……貪狼が武曲の命令を聞かないとは……一体なにがあったんですか」
またもや厨房内で響き渡る幾人かの話し声。
それを聞いていた翼がようやく我に返ったのか、首を傾げて恭也に問い掛ける。
「……知り合い、かしら?」
「知り合いといえば知り合いか。ほんの少し前まで敵対していた相手だ」
ゾクリと店内のエアコンの空気よりも遥かに冷たい空気が周囲を支配した。
蠢くような暗い殺気。触れただけで斬られると錯覚するほどに、鋭利で研ぎ澄まされた殺気が静かに、だが明確な意思を持って翼から発せられていた。
恭也と敵対していた、それを聞いただけで翼の精神は先程の相手をどう斬り刻むかを想像の中でイメージし始めたのだ。
「……今はそんなことはないから気にするな」
「そう。恭也がそういうのなら……」
人目があるにもかかわらず、何の遠慮もなく殺気をばら撒く翼の肩に手を置いて宥めつつ、何故北斗のメンバーがこんな所にいるのだろうと不可思議に思う恭也だったが、厨房内に見知った気配があるのに気づく。
間違えるはずもなく、勘違いのはずも無い。
二ヶ月も前に命の、魂の、想いの削りあいをおこなった―――生涯にて得難いであろう、運命ともいえる好敵手。
恭也が知る限り、世界最強に最も近き人外の中の人外。世界に仇名す化け物集団の頂点の一人。
「―――きょぉぉぉおおおおおやぁあああああああああああ!!」
ズガンと爆発音と勘違いしそうな音をたてて厨房から飛び出してきたのは、恭也の予想通り、水無月殺音だった。
これ以上ないほどに喜びの感情を浮かべている。満面の笑顔。誰もが見惚れてしまいそうなほどに美しかった。
ただ―――。
「……何故、メイド服?」
「―――にゃ、にゃ!?」
思わず恭也が突っ込んでしまった通り、水無月殺音は―――メイド服だったのだ。
どっからどうみてもメイド服だった。誰がどう見てもメイド服だった。
似合っていないということではない。逆に似合いすぎていた。エプロンも長身の殺音に見事にフィットしていて、猫耳にも似たカチューシャが頭の上でふりふりと動いてた。
自分がメイド服だったということに気づいた殺音が、あわあわとパニックになった子猫のように自分の服と恭也を交互に見やる。
場が膠着状態に陥ってしまい、何が切欠で爆発するのかわからない。そんな状態だったが、恭也は店内に満ちる空気を無視して―――。
「まぁ、その、なんだ。良く似合っている」
「―――っ!?」
美由希相手ならば馬子にも衣装と言っただろうが、何故か殺音には素直に賞賛の言葉が出てきた。
恭也の若干照れが入った褒め言葉を、一瞬理解できなかったのだろう。ぽかんと口を開けて呆けた殺音だったが、数秒たって確りと理解した殺音は瞬間湯沸し器の如く、顔が真っ赤に染まった。
いや、見えないだけで全身が赤く染まっているのかもしれない。というか、実は染まっていた。
「―――ぅ」
ついに目の前の事態が己の脳が理解できる限界を超えたのか、殺音は火照った頬を両手で押さえて、恭也に背を向けた。
「―――め、めぇぇええええええええええい!!」
己の妹の名前を叫びながら、結局殺音も他の北斗メンバーと同じく、厨房に逃げ帰っていった。
もっとも、逃げ帰った理由が全く真逆の理由なのだが、恭也にわかるはずもない。
「……朴念仁」
ぼそりと怨念がこもった、暗い呟きが翼から漏れたのだが、それにも恭也は気づくことはない。
ますます注目の視線を集める恭也達。どこか嫉妬も混じった鋭い負の視線も恭也に突き刺さっていた。
それを一瞬疑問に思ったが、何故この喫茶店に男性客が多かったのか、ようやく理解できた。
恐らくは殺音目当ての客がいるのだろう。確かに見た目だけは超一級の美女。綺麗どころを良く見かける海鳴でも、殺音の容姿は十分に目を引くものだ。
「……ああ、キミか。それなら皆の反応にも納得がいくよ」
次に厨房からでてきたのは、身長にして百四十に届かない程度の少女。
レンといい勝負の背丈の、水無月冥だった。服装は言わずもがな―――メイド服を着ている。
中学生がコスプレしていると見られそうで大変可愛らしい、実年齢は果たして幾つなのだろう、と恭也はふと疑問に思った
十一年前の恭也が幼い時に見たときも今とかわらない背丈だったのだから。
「おかげで殆どが使い物にならなくなってるよ。キミに言っても仕方ないけどね」
若干不機嫌とも見て取れる雰囲気を纏わせ、冥がふんっと鼻を鳴らす。
恭也の隣にいる翼を見た瞬間、驚いた表情になるも、他の北斗のメンバーとは違ってポーカーフェイスを心がけているのかすぐに表情をを元に戻す。
「兎に角、店に来てくれた以上、客にはちがいないよ。案内するからついてきて」
冥が二人を空いている席へと案内して、颯爽と厨房へと戻ってった。
恭也はテーブルに置いてあったメニューを手に取り、翼へと渡す。ざっと眼を通す翼は何を注文するのかすぐに決めたようで、恭也に見えるようにメニューを開いた。
「いや。今食べたら晩御飯がきつくなりそうだ。飲み物だけにしておこう」
「そう?わかったわ」
テーブルの隅に置いてあったベルを押すと、程なくして冥がやってきた。
他の従業員はどうしたのだろうと疑問に思わないでもないが、恐らく彼女くらいしかい恭也に近づきたがらないのだろう。
無論、殺音は除くことになるが。
「注文は決まったかい?」
「ああ。俺はアイスコーヒーを頼む。ブラックでいい」
「私も同じものでいいわ」
「ん、了解。アイスコーヒー二つだね」
伝票にささっと注文を書くとその場から立ち去る冥の後姿に、恭也はふと思いついたように問い掛けた。
「そういえば、あいつはどうしたんだ?」
「……ああ、馬鹿姉かい?あいつなら、さっき厨房の壁を破壊してどっかに逃げてったよ」
「―――そ、そうか」
予想外の答えが返ってきて、恭也がどもる。
てっきり厨房にいると思っていたが、まさか厨房の壁を破壊してどこかへ行ってしまっていたとは右斜め上すぎる。
頭が痛い。言葉に出さずとも態度から伝わる、苦労性の少女はどんよりとした暗い空気を背負ったまま去っていった。
程なくして、一人の女性が二人の前にアイスコーヒーをコトンと小さい音をたてて並べる。
若干無表情な、殺音には及ばないが長身の美女だ。勿論、殺音と冥と同じようにメイド服を着ていた。
話したことは無いが、見た事だけはある相手だ。口元をマフラーで隠していないので気づくのに僅かに遅れたが、北斗の一員である文曲という女性だ。
注文はコーヒーだけだったのに、文曲は二人にそれぞれ皿に乗ったケーキをコーヒーと一緒に並べた。
「……頼んだのはコーヒーだけだったと思うが?」
「気にしなくていい。それはサービス」
言葉短くそういい切って、文曲は二人に背を向けた。
そのまま立ち去るかと思われたが、一歩足を踏み出して―――足を止めた。
「……偉大なる陸。貴方には我らが長の飢えを満たして頂いた。冥の言ったとおりその恩は何よりも大きい。そして―――」
ちらりと翼を背中越しに見る。
文曲を見ていた翼と視線があい、慌てて前に向き直った。
「貴女には命を救って貰った。あの時、貴女がいなかったならば私達はここにはいなかった。だから、そのお礼」
それだけを言い切ると、文曲は今度こそ足を止めることなく姿を消した。
どうするかと二人で顔を見合わせたが、折角のお礼なのだから頂くことにしようと同時に頷いた瞬間――ー。
「ああ、あのケーキはあんたの給料からさっぴいとくからね」
「がーん」
そんな話し声が聞こえてしまい、非常に食べるのが気まずくなってしまった二人だった。
とはいっても今更このお礼を辞退するわけにもいかず、遠慮なく食べ始めるが、先程の文曲の言葉を思い出した恭也が翼に尋ねる。
「そういえば、お前は北斗のメンバーと知り合いなのか?」
「いえ、全然。全くといっていいほど記憶にないわ」
「そうなの、か?しかし、命を救われたと言っていたが……」
「結果としてそうなっただけなの。助ける気なんてこれっぽっちもなかったもの」
翼の返答は至極あっさりとしたものだった。
ある意味冷たい発言だったが、そうかとだけ恭也は答えコーヒーを啜りながら昔に比べれば翼の態度は随分と軟化したものだと、遠き過去に思いを馳せた。
初めて会ったのは三年程前。史上最悪の永全不動八門会談。永全不動八門の者達からはそう呼ばれる事件があった。
血で血を洗う、破滅と絶望が入り混じった、殺戮の宴。
幾度も死を覚悟した最悪の夜。恐怖を体現した、伝説に名を残す狂人―――人形遣いとの死闘。
その時に出会った翼は、まるで機械だった。己以外に一切の価値を見出さない、氷の少女。
他人を自分と同じ人間だと認識できない、どこかが壊れた少女だったのだ。
目の前の少女は、天守翼は今では随分と変わったものだと思う。勿論良い方向に変わってくれたと、恭也はどこか父親のような気分で、カップに口をつける翼を眺めていた。
「……その、そんなにまじまじと見つめられたら、少しは恥ずかしいのだけど」
恭也に見られていると認識した途端、自分の感情を制御できずカァっと頬が熱くなるのが自分自身でわかった。
「ああ、すまん。少し不躾だったな」
「ううん、別に嫌じゃなかったから気にしないで」
そうだ。その通りだ。自分で口にだしているが嫌なはずがない。
何故なら、天守翼は不破恭也をどうしようもないほどに愛しているのだから。
未だ二十にもならない小娘の戯言だと、馬鹿にされるかもしれないが、それが翼の本心だった。
己に世界の色を取り戻してくれた男。己に世界の広さを教えてくれた男。己の命を、魂を救ってくれた男。
それが不破恭也。森羅万象を断ち切る、最強にして最凶にして最狂の剣士。生涯に渡って追い続ける果てしなく遠い背中を示してくれた男。
物心ついてから世界の全てが色褪せていた。それを取り戻してくれた恭也を愛していると、胸を張って己に答えることが出来る。
故に、天守翼にとって―――恭也と共にいられる時間は何事にも変えられない、至福の一時だ。
「そういえば、お前の妹―――天守翔だった、か」
「え、ええ。翔がどうかしたかしら?」
突然出てきた自分の妹の名前に訝しがりながら翼は首を傾げる。
「いや、確か随分と前に美由希と戦いたいと願っていたが……あれから音沙汰がないんだが。お前は何か知ってるか?」
「ん……何となく、わかるわよ。でも、あの娘のことだから多分そろそろ動き出すと思うけど」
翼の答えに、ほぅと若干喜色を漂わせ、恭也は口元に浮かんだ笑みを隠すようにコーヒーを啜った。
対して翼は若干心配そうに、恭也に対して問い掛ける。
「恭也のことだから無用の心配だとは思うけど……今の御神美由希と翔はあまり戦わせないほうが良いと思うわ」
「……」
ある種の忠告ともいえる翼に対して、恭也は無言だった。意外そうに眼を少しだけ大きく見開いた。
それでも翼は続きを、躊躇うようにだが口に出す。
「……翔は、力もスピードも確かに御神美由希と互角といっても差し支えは無いわ。良い勝負が出来ると思う。でも、今のあの二人には決定的に違うものがあるわ」
記憶の片隅に眠っている思い出。
ただひたすらに、狂ったように毎日の鍛錬を続ける翔。
姉である翼を超えるために、尋常ではない狂気を漂わせ、地獄の修練に身を落とし続ける者。
才能を覆す者。努力の狂鬼。天守翼を唯一打倒できる可能性を秘めた剣士。
「……今戦えば、間違いなく【戦闘】という行為にもならずに、翔が勝つわ。それほどに、力の差があの二人には、ある」
暗い。暗い世界だった。
日の光も届かない、巨大な木々の枝によって頭上を多い尽くされた山の深奥。
霊木と勘違いしそうになるほどの巨大な木の前にて刀を地面に置き、正座をして黙想をしている少女が居た。
巫女服に朱の帯。美しい黒髪。永全不動八門において、御神と立ち並んだとされる天守の次期当主候補の一人。天守翔その人であった。
「何か用ですか、葛葉」
眼を瞑ったまま眼前に広がる鬱蒼とした森へと語りかける翔。
他の人間がいたら勘違いかと判断しそうなものではあったが、ガサリと音をたてて頭をかきながら永全不動八門が一。槍使いの葛葉弘之が姿を現した。
「……気配は消していたつもりだったんだが」
「僅かにですが気配が漏れていましたよ。それに気づかないとでも思いましたか?」
「……お前くらいだよ、んなもんに気づけれるのは」
やれやれとそばにあった大きめの石に腰をおろし、胡坐をかく。
脚に肘をつきながら頬に拳をあて、ふぅっとため息を吐いた。
「で、まだお前は御神に喧嘩はうらねーのかよ」
「……他の方々は?」
「あん?他の永全不動八門の奴らか?元々、鬼頭と如月はやる気なかったみたいだしなー。風的と小金井、秋草は不破にやられて以来御神と戦う気は無くなったようだぜ」
無理も無い、と葛葉心の中で一人ごちた。
御神と戦う前の前座。強いとは聞いていたが、想像を遥かに超越した、同じ人間とは思えぬ男と戦い―――自分達が持っていた常識を完膚なきまでに破壊されてしまった。
自分達が拘っていた当主の座。それがどれだけちっぽけなものなのか、理解してしまったのだろう。
そんな状態で今更、当主の座のために御神と争うなどという気力が湧かないのも当然といえた。
「―――ライバルがいなくなってわたくしとしては有難い話です」
だが、天守翔は諦めていなかった。
当主の座を受け継ぐために、姉である翼を超えるために、翔は御神打倒の目標からぶれてはいなかったのだ。
対して、葛葉もそんな翔に対してニヤリと野性味溢れる笑みを返した。
「ま、そうだな。前までの順番だったら、俺は御神と戦うのは最後になってたし。他の奴らが辞退してくれて助かったぜ」
「……貴方が戦うのはわたくしの後です。貴方が御神と戦える機会があるとは思えませんが。それともわたくしが、負けるとでも?」
眼を開けて威圧するかのごとく、研ぎ澄まされた殺気が威圧となって葛葉を襲う。
それをあっさりと受け流しながら葛葉は首を横にふった。
「いや、お前が勝つだろうさ。間違いなくな。御神美由希は強い。そんくらい見ただけで分かるが―――お前は更につえぇ」
胡坐をかいていた石から立ち上がり、ポンポンと尻についた誇りを払うと翔に背中を向けた。
「御神美由希はお前にくれてやるよ―――俺も当主の座になんて興味はねーしな。【万が一】に備えて待っててやるよ」
「そうですか。万が一なんてことは決してありえませんけどね」
「だろーな。だからこそ【万が一】ってんだろ?」
そう言って、葛葉は来たときと同じ様に鬱蒼とした森へと消えていった。
残された翔は、葛葉の台詞に僅かに不快を感じつつも、正座をやめ立ち上がる。
地面に置いてあった刀を拾うと、葛葉の後に続く。ゆっくりと、歩いていた翔だったが、短い呼吸音とともに、右手が霞む。
澄んだ音をたてて抜刀された刀が鞘へと収まり、そのまま歩み去っていった。
翔がその場から姿を消して一分近くがたった時―――ずるりと、左右にあった巨大な木がずれた。
ずるずると、少しずつ斜めに斬られた木は、ずり落ちていく。
ズズズっと音をたてて、やがて地面に激しい音をたて落ちて転がった。
恭也が見ていたならば驚いただろうか。それとも賞賛しただろうか。
恐ろしいほどに完成された―――【斬】。
当然、恭也には及ばずとも、美由希とは―――比べるまでもなく。
剣の才能。天守当主からの直接の指導。強さへの果てしない執着。血反吐を吐くほどの鍛錬。
それら全てによって形作られた、天守家の武への想いの集大成。
つまり、それこそが―――【狂剣】天守翔。