恭也と翼が喫茶北斗で談笑している同時間―――少し離れた別のカフェの店内に、二人の少女達が居た。
その喫茶店の店名は【翠屋】。恭也の母親である桃子が経営している洋風喫茶だ。
夕方という時間帯が故に、学校帰りと一目でわかる客が店内を埋め尽くしていた。喫茶北斗とは異なり、客層は女性ばかりなのが対照的である。
二人の少女達―――永全不動八門一派の鬼頭水面と如月紅葉は、自分の前のテーブルに置かれたシュークリームに舌鼓を打つ。
水面も紅葉も幸せそうに、口に運ぶ様は、見ている方が思わず笑みを浮かべてしまいそうになるほどに、ほんわかな雰囲気を纏っていた。
「いやー相変わらずここのシュークリームって絶品だねぃ」
「本当ですよね。こんなに美味しい洋菓子食べたことがないです」
不満など一片もない、べた褒めの二人の声が聞こえたのか、近くのテーブルを拭いていた従業員が笑顔でお礼をのべて厨房へと新しい注文の品を取りに去って行った。
二人は今まで多くの洋菓子を食べてきたが、これほどまでに我を忘れそうになるほどのものは味わったことがない。
海鳴にきて噂を聞いてから、興味半分で初めて訪れたのが一か月と少し前。今では二人は翠屋の常連となっていた。
二人ともシュークリームを食べ終わった後、紅葉はミルクティーを、水面はホットコーヒーを飲みながら、幸せそうな吐息を両者とも漏らした。
周囲の客から聞こえるのも称賛ばかりで、満足していない客は一人もいないのは明らかである。
二人とも飲み物を飲み、一息ついたその時、水面が何かを思い出したのか、パチンと指を鳴らした。
「葛葉が言ってたけど、小金井も風的も秋草も―――御神と戦うのを辞退したんだってさ」
「あら、そうでしたか。気持ちはわからないでもないですけどね」
水面の発言に大して驚くでもなく、紅葉は当然のように受け取った。
元々あの三人もそれほど当主の座に拘っているわけではなかったからだ。
小金井も風的も秋草も―――実力第一主義というわけではなく、基本的に血筋に重きを置いている。
本家の血筋をもっとも色濃くひいているということを第一に考えられ、実力は二の次なのだ。
あまりに腕が無かったら流石にそれは問題とされるだろうが、あの三人の実力ならば、後継者としては十分過ぎるくらいだろう。
今回の【御神】と戦うという誘いを受けたのも、興味半分。噂に名高き御神宗家の血を継ぐ者と、永全不動八門にて触れてはならぬ禁忌の剣士として腫れ物の如き扱い受けている【不破】に会いたかったという理由がもう半分だったはずだ。
それぞれの一族の当主とそれに近き実力者達が不破を恐れる理由がわからず、その実力も話半分程度に聞いていた結果が―――何時ぞやの廃ビル地帯の夜の出来事。
四人がかりといっても過言ではない戦いで、十秒程度に全員がのされてしまった。
葛葉も小金井も風的も秋草も―――四人が四人とも、永全不動八門でそれなりに名が通っている腕の持ち主だったというのに、まざまざと【格】の違いを見せられた。
興味半分で御神に戦いを挑みに来た彼らにとって、これ以上【不破恭也】と関わりあいを持ちたくないと思うのも当然だろう。
「で、あの三人が辞退したら次はあんたの番だけどどーすんの?」
「勿論うちも辞退しますよー。だって、戦う意味とかないですし」
「ま、そーよね。あんたの目的は不破恭也と会う事みたいだったしねぇ?」
「―――っ」
かぁと紅葉の顔が音をたてたと勘違いするほどに真っ赤に染まった。
自分で自覚していることとはいえ、誰かに指摘されて無視できるほど紅葉は達観しているわけではない。
紅葉もまた、三年前の史上最悪の永全不動八門会談にて恭也と会っていた。その時に出会って以来、紅葉にとって恭也は憧れだ。この世界の誰よりも尊敬の対象で、純粋なその想いは崇拝の域に達していると言っても過言ではない。
家族から必要ない者という扱いを受けていた紅葉にとって、恭也という存在は太陽にも等しい。
「そ、その……わ、わたしは……えっと……」
「初々しいねぇ」
慌てる紅葉を見て、水面はにやにやとした厭らしい笑みでそうもらした。
己がとっくの昔に捨て去ったものを紅葉は持っている。それがたまらなく羨ましくもあり―――妬ましくもある。
「私も今回はパスさせてもらうとして―――じゃ、やる気があるのは結局天守と葛葉くらいかぁ。やっばい二人が残ったね」
「……そうですね。あの二人、冗談抜きで半端なく強いですからね」
「全くだわさ。特に葛葉のここ最近の成長速度がかなり凄いね。今なら【葛葉千寿】と良い勝負できるんじゃないかな」
「最近葛葉さんを見かけませんが、それほどまでに?」
水面の発言に相当驚いたのか、先程までとは異なり紅葉は眼を見開いた。
その反応が嬉しかったのか、水面はにやにやと笑みを絶やさずカップを口に運び一口だけコーヒーを口に含む。
「不破恭也にやられてから相当に修行したっぽいよ。まー、あの時負けてからどこか吹っ切れたみたいだったけどね。それにあんたが葛葉を最近見かけないってのも当然。あいつ学校に来てないもん」
「……やっぱり来てなかったんですか。学校に来ないで何してるんです?」
「鍛錬鍛錬。また鍛錬さ。修行馬鹿の考えることはわからないよ。それこそ寝食の時間も惜しんで山篭り中。あいつも若いねぇ」
テーブルに突っ伏す水面は、ケケケと面白そうに笑った。
馬鹿にした笑いではない。逆だ。水面は水面なりに葛葉のことをそれなりに褒め称えているのだろう。
圧倒的な力の差で敗北を喫し、それに諦めるどころか更なる高みを目指して研鑽を積んでいる。
中々真似できることではない、と素直に水面は称賛した。少なくとも水面がまだ若き頃―――葛葉と同じ年齢だったならば同じ行動が出来ただろうか。恐らくは立ち直るまでに長い時間がかかったはずだ。
長い付き合いではあるが、葛葉の馬鹿正直なまでに真っ直ぐなところを水面は気に入っていた。
「―――黄金世代に数えられる千寿さんとも良い勝負ができる、ですか。凄いですね葛葉さん」
心底感心した紅葉が、水面と同じく、ここにはいない葛葉を称賛する。
噂に名高き葛葉千寿と渡り合える―――かもしれないというのはあくまで水面の予想でしかない。
それでも、水面がそういったのだ。この女性が全く見当違いのことを述べるはずも無い。
紅葉が語った【黄金世代】。現在の永全不動八門はそう呼ばれている。
本来ならば現れるはずも無い、尋常ではない才能を与えられた若者達がそれぞれの流派に存在しているのだ。
その誰も彼もがほぼ同じ年代。それ故に、何時しか誰かが今代のことをそう呼び始めた。
元々の始まりは天守翼だった。彼女はあまりにも強かった。強すぎた。あらゆる永全不動八門の戦士達を凌駕するほどに、桁が違いすぎたのだ。
翼だけだったら話は簡単だった。天守翼を有した天守一族が永全不動八門最強の存在として、君臨することが出来たはずだった。だが、他の一族にも翼には劣るが他者を圧倒する者達が頭角を現し始めたのだ。
各流派の当主や長老達は夢を見てしまった。己の流派に現れた人外の如き才覚を持つ異端を育て上げれば、天守翼をも凌駕し得るのではないかと。自分たちの流派こそが、永全不動八門の頂点に立てるのではないかという、随分と歪んだ望みを願ってしまった。
そして、天守翼は自由奔放だ。自分の望まぬことは決してしない。己のしたいことだけを実行する故に、天守家でも彼女を掌握することは出来ない。天守家の長老だから、家族だからといって命令は聞かない。相手が誰であろうと翼は己を貫く。だからこそ、翼は天守の姓を持ちながら天守家の戦力として数えられていないのだ。
故に、現在の永全不動八門は戦力的に拮抗しているといってもいい。翼を除いた黄金世代達は誰もが、実力的にはほぼ互角。
そのため、今現在―――永全不動八門は冷戦状態と言っても良い状況に陥っていた。
「―――天守翔。葛葉千寿。鬼頭湖面。如月枯葉。小金井纏武。秋草雅。風的彼方と此方。いずれは武神の名を戴くに恥じぬ領域に達する天才達。果てさてあいつは―――葛葉は、その世界に割って入れるかねぇ」
空を見上げれば星の綺麗な夜。闇の中で星々と月が輝いていた。
毎日の恒例となっている美由希との鍛錬も終わり、高町家の全員が寝静まった時間。
美由希も汗を流し、部屋に戻っている。時計を見れば既に日が変わり、一時に近い時となっていた。
恭也の朝は早く、今から寝ても精々三時間ほどしか睡眠の時間は取れないが、身体がそのサイクルに慣れてしまっているのだろう。
何時もの如く、庭へと続いている縁側に腰をおろし、何をするでもなく空を見上げていた。
周囲の家の人達も明日に備えて寝ているのか、物音一つしない。明かりも消えている。
虫の音だけが、恭也の耳に届いていた。
「―――俺は、酷い指導者なのかもしれん」
ぽつりと、恭也は独白する。
今日の夕方―――日付が変わっているので正確には昨日の夕方、翼と話したときに自分に対して黒い感情を持ってしまった。
「そんなことはないです、お師匠」
誰もが寝ているはずのこの時間。
聞こえることの無い声が聞こえた。普段聞きなれている少女の声。
鳳蓮飛は、緑の亀が何匹も刺繍されたパジャマ姿で廊下の影から姿を現した。
そのままちょこちょこと近寄ってきて、恭也を倣う様に縁側に腰をおろす。
レンが現れたことに一切驚かず、恭也は夜空を見上げたまま、僅かに目を細めた。
隣にいるレンは、恭也に丁度触れるか触れないかの隙間を保ち、恭也と同じ様に空を見上げた。
それから数分間、沈黙が続いた。レンは先程の恭也の発言を言及するでもなく、ぷらぷらと足を揺らすだけだった。
「―――近いうち美由希に、試練が訪れる」
「はい」
唐突に恭也が口を開く。
美由希に試練が訪れると聞いても、レンは驚かず、淡々とした返事をするだけだった。
「相手は強敵だ。恐らく今の美由希では勝ちを拾うのは難しいだろう。己がしてきた努力を否定されるかの如き敗北を喫するだろう。言いようのない絶望に支配されるはずだ。そこから立ち直るのは―――難しい」
「はい」
「それをわかっていながら、俺はあいつをその試練に敢えて立ち向かわせようとしている。俺が出て行けば、その脅威を振り払うことは容易いと理解しているというのに―――」
ギリッと歯が軋む音が聞こえた。
何かを我慢している姿に、レンは胸が痛くなる思いを抱く。
無意識のうちに、きつく握り締めていた恭也の握り拳に手を重ねた。
大きい手だった。レンとは一回り以上違う。大きくて暖かくて、硬い拳だった。レンが敬愛する高町恭也という師の、大好きな手だった。
「お師匠は、信じているんですよね。美由希ちゃんのことを。どんな困難にも立ち向かい、最後には乗り越えてくれるって」
「……」
「どんな絶望も乗り越え、困難も打破して、お師匠の期待に応えてくれる。それが美由希ちゃんです。うちが知ってる、高町美由希という剣士です。うちや晶みたいなお師匠のことを【師】と慕っているだけの似非弟子とはちゃいます。美由希ちゃんは―――お師匠がたった一人だけ認めた、唯一のお弟子さんです」
重ねていた手をぎゅっ握り締めた。
手を重ねるだけでも随分と緊張していたのだろう。
レンの生暖かい夜の温度も相まって、僅かにだが掌が湿り気をおびている。
「信じてください。美由希ちゃんを―――お師匠が唯一認めた、お師匠が全てを賭けて育て上げた存在を。美由希ちゃんは、何があっても、必ず最後には試練を乗り越えてくれるはずです」
レンの言葉は重かった。
誰よりも恭也を心配しているが故に、レンの言葉は言霊とでもいうべき力がこもっていた。
揺れる瞳。恭也の今の様子を見ているだけで、レンの心は張り裂けんばかりに、酷く痛みを感じている。
沈黙が続く。
一分。二分。三分は経っただろうか。
未だ心配そうに見上げているレンに、恭也は苦笑を返す。
「―――すまんな。情けない姿を見せた」
「情けなくなんかありません。うちには何時も通りのお師匠にしか見えませんでしたよ?」
にっこりと笑顔を浮かべたレンが恭也から手を離し、立ち上がる。
顔が若干赤くなっているのを気づかれたくないのだろう。
咄嗟に恭也の手を握り締めてしまったが、冷静になってみれば、恥ずかしいことこの上ない。
幾ら武の腕前があろうと、未だ十三になったばかりの中学生。好きな相手の手を握って冷静でいられるはずも無い。
そそくさとこの場から立ち去ろうとしていくレンの後姿に向かって恭也は―――。
「―――礼を言う。有難う、レン」
「……は、はい」
頬が熱い。嬉しさと恥ずかしさで全身の血液が沸騰したかのように熱を持っている。
ただお礼を述べられただけだというのに、、何事にも換え難い幸福を感じた。
―――お師匠、大丈夫です。
部屋に戻っていくレンは心の中でそう恭也に告げる。
―――美由希ちゃんの試練に万が一が無いように、うちが見ておきます。
美由希の試練の邪魔にならない程度に。
レンは、美由希を守護するように心に決めた。決して揺るがぬ強き意思を秘め、拳を握り締めた。
一方、そんなレンの後姿を見送っていた恭也は―――深いため息をつき、月を見上げる。
「―――レンに九割九分九厘勝てるといったな、美由希。ああ、お前は正しい。【昨日】までのレンであったならば」
昨日の昼間までのレンであったならば美由希の勝利は揺るがなかった。それほどまでに戦力には差があったのだ。
だが、今のレンにはどうか?明日のレンにはどうか?
その答えは誰にもわからない。たった一日で何が変わるというのか、と誰もが思うかもしれない。
それが変わるのだ。
たった一日であらゆる戦力を覆す。圧倒的な力の差を追いつき、追い越す。
それこそが鳳蓮飛に与えられた絶対的な才。 成長ではなく、【進化】。
恭也をも震撼させる―――天から与えられた才を超える、【神】から与えられた才。
天才を超えた―――【神才】。
「美由希。レン。お前達を―――信じているぞ」
どこか不安が混じりながらも、先程までより遥かに強くなった眼の光が月を貫いたまま、恭也の独り言は夜の闇にとけて消えた。
「「いってきまーす」」
高町家の玄関から響いてきたのは美由希とレンの声だった。
晶はああ見えてクラス委員のため、今日は早めに学校へ向かい、ついでになのはもバス停まで送っていったため美由希とレンの二人で家を出ているところだった。
珍しく恭也も、用事があるということで、二人よりも早く登校している。洗い物を桃子に任せて、二人は高町家を後にした。
太陽はすでにジリジリと地上に光を送っている。その熱射線に参りながらも、遅刻しないように美由希達は足を速めた。
「今年は、熱くなりそうだね」
「せやね。まだ七月に入ってないのに、三十度近いらしいで。八月になったらどないなるんやろうか」
「うわー。考えたくもないよ」
考えただけで汗をかきそうな想像を膨らませ、美由希は眉を顰めた。
レンも空の太陽を見上げ、ハァと疲れたため息をつく。
体力に自信がないレンにとって、夏場は苦手とする季節なのだ。
「そういえばレン。期末試験の勉強ちゃんとしてる?」
「あー、まぁ……ぼちぼち?」
「しっかりやらないと中間試験の時みたいに晶に勝ち誇られちゃうよ」
「う……それは嫌やなぁ」
レンが苦虫を潰したかのように表情をゆがめる。
晶は運動しかできないと思われがちだが、クラス委員も務め、テストもかなりの好順位をキープしているのだ。
対してレンはというと、相当に優秀なのは間違いないのだが、海鳴中央に進学してから初のテストで勝手がわからなかったということもあったのだろう。
学年の総合順位で惜しくも晶には及ばず、普段負け越している晶はここぞとばかりにレンに勝ち誇っていたという出来事があった。
その時のことを思い出したレンは、ハァと重いため息を吐きながら、どんよりとした空気を背中に纏った。
「あ、あはは。つ、次勝てばいいんじゃないかな」
忘れかけていた敗北を思い出させてしまった美由希は、影を背負ったレンを慰める為に言葉をかける。
慰めるくらいなら最初から言わなければいいだけだと思わなくもないが、話の流れで口に出してしまったのだから仕方がない。
レンの小さな肩に手を置こうとした瞬間―――。
―――末恐ろしき小娘よのぅ。
全身が粟立った。
あらゆる強さというモノを極限にまで凝縮したかのような、超越的な強者の声が脳に響き渡る。
ガチガチと歯がかちあった。真冬に水泳をやったときのように、歯がかみ合わない。
暗い。とてつもない闇の深淵から、這い出る漆黒。恭也とはまた違った重圧を漂わせる、そんな女性の声。
反射的に後ろを振り向いた美由希。だが、視線の先には登校する学生達の姿しかない。
そこにいる誰もがただの一般人でしかなく、声の持ち主であろうはずがなかった。慌てて振り返った美由希に奇異の視線を向けてくる者が殆どだ。
そんな視線を全身に感じながらも、美由希は油断なく周囲を探るために精神を集中させる。
目立つことを避けてきた美由希ではあったが、先ほどのような尋常ではない気配を感じてまで一般人の振りをし続けることができるほどの境地には至っていない。
これ以上ないほどに精神を研ぎ澄ました美由希であったが、彼女の広げた結界ともいうべき感覚の領域に怪しい存在は見当たらなかった。
「―――美由希ちゃん?」
数歩先へ歩いていたレンが、後を追ってこない美由希を訝しみ声をかける。
それに返事する余裕もなく、美由希は一分近くも周囲への警戒を怠ることはなかったが―――結局それは無駄に終わることとなった。
緊張を解くように深く深呼吸を繰り返す美由希だったが、首を傾げるレンに気づき慌てて首を横に振る。
「ごめん、レン。なんでもないから」
「んー。美由希ちゃんがそない言うなら、ええけど……」
いまいち納得がいかないレンだったが、ここで押し問答をしていては遅刻をしてしまう可能性もある。
それほど時間に余裕があるというわけではないので、二人は学校へと登校を再開する。
歩道を歩いていく最中、美由希はどうしても先ほどの声がきになって仕方がなかった。
どこかで聞いたことがあるような、声だったからだ。桁が違う、真の強者の声。なんともなしの言葉だったにせよ。それは既に言霊の域。発するだけで問答無用で相手の心を砕き折る。
本気の―――未だ本気の恭也の姿は見たことが無いにせよ―――恭也に匹敵しかねないほどの強者の気配を漂わせていた。
知らず知らず美由希は口の中にたまった唾液を嚥下し、背中を流れる冷たい汗を止めることができなかった。
微妙な雰囲気のまま学校へ到着し、美由希はレンと別れると教室へと向かう。
下駄箱には多くの学生がおり、友達を見かけると朝の挨拶をかわし、連れだっていく。
生憎と美由希には同学年の―――というより同じクラスの友達はいないため一人さびしく階段を上がっていった。
教室の自分の椅子に腰を下ろすと、時間割をチェックしつつ、準備を前もってしておく。
周囲のクラスメイトは友達と談笑をしているが、それが羨ましいことは―――少ししかなかった。
やがて朝のホームルームが始まり、一限目、二限目と時は過ぎていく。
ポカポカとした陽の日差しが大層心地よい。授業を行っている教師の声が子守唄に聞こえる。気を抜けば意識が微睡んでしまう。
恭也であったならば、何の躊躇いもなくそのまま意識がフェードアウトしていっただろうが、生憎と美由希は根が真面目のため、意識がとびそうになる瞬間顔を軽く左右に振って眠気を吹き飛ばす。
ゴシゴシと目を擦り、他のクラスメイトに気づかれないように欠伸をする。
授業に集中しようとする美由希だったが、目をこすった程度で無くなる眠気ではなく、自然と瞼が重くなっていったが、夢の世界へ旅立とうとする美由希を目覚めさせたのは、授業終了のチャイムであった。
時計を見れば既にお昼近く。四限までの授業がいつの間にか終わっていた。
全く授業が頭の中に入っていないことを反省しつつ、鞄の中から晶お手製の弁当を取り出すと、授業から解放され昼ご飯を食べようと和気藹々としているクラスメイトを背に教室から廊下へと出て行く。
足を向けるのは、屋上だ。高町家を除いた唯一無二の友達である神咲那美と普段ならば途中で合流するのだが、今日は一緒に食べれないというメールが朝からすでにきていて、今回は一人でご飯を食べることになってしまったのだ。
なんでも那美はどうしても外せない用事があるとのことで、学校を休んでいた。
頻繁というほどでもないが、稀にだが那美は同じような理由で休むことがあるので、美由希としても気にならないと言えば嘘になるが、何時か理由を話してくれるだろうと思っていた。
階段を上がっていき、屋上へと続く扉を開く。ぶわっという生暖かい風を美由希は感じた。
屋上へと足を踏み出せば、照りつける太陽が教室にいる時よりも激しく光を落としてくる。
ふぅ、とため息を吐き―――異変に気付いた。
普段ならば屋上は、美由希達以外にも多くの学生が昼食を取りに来る。
美由希が那美とご飯を屋上で食べるようになってから、少なくとも常に十数人の学生がいたことを覚えている。
それなのに、今日は誰一人として屋上にいないのだ。見渡しても、屋上にいるのは美由希ただ一人。
暑いはずの周囲の温度が急激に下がっていく。
脳内に響き渡る不吉な警鐘。知らず知らずのうちに鳥肌が立っていた。
その瞬間、背後から冷たい空気が激流となって激しく美由希の背中を打ち据える。
刀で一刀両断されたと勘違いをしてしまいそうになるほどの明確で、冷たいリアルな殺気。
その黒風を感じると同時に地面を蹴りつけ、真正面へと飛び出し、地面を転がる。
一瞬で体勢を整え、今しがたまで自分がいた空間に視線を向けると、そこに一人の少女がいた。
屋上と校舎を分け隔てる扉の向こうから、少女の形をした【何か】がゆっくりと歩み寄ってくる。
ドクンと一際高く心臓の鼓動が高鳴った。
美由希の瞳に映ったのは美しい少女だった。日本人形と言われても納得してしまうような、日本人としての可愛らしさ。美しさ。
それらを兼ねそろえた、美由希でも思わず見惚れてしまいそうな容姿。全く日に焼けたことが無いであろう白い肌。
フィアッセ達とは違うが、不思議な色気が少女から発せられている。
リボンの色から美由希と同じ風芽丘学園の一年生ということがわかるのだが―――。
「―――か、たな?」
そんな呟きが美由希の口から洩れた。
確かに美しい少女だったが、美由希は少女を一振りの刀と認識してしまった。
それは一瞬だった。すぐに刀の幻覚は消え、少女の姿になっていたのだが、美由希は呆然と少女を見つめている。
「お初にお目にかかります。わたくしの名は天守翔。以後宜しくお願いいたします―――御神美由希殿」
「……っ!?」
驚きを隠せない美由希が目を大きく見開く。
美由希の幼き頃の旧姓―――それが御神。かつて最強最悪の名を欲しいままにした御神の一族。
十年以上も前に滅びを迎え、既にその名は過去の伝説と化している。その名前を言い当てられたのだ。驚くな、というほうが無理であろう。
「……貴女は、何者ですか?」
美由希の返答に、翔はキョトンとした表情で見返している。
まるで予想外のことを聞いたかのような様子だ。
「いえ、わたくしは言いましたよね。天守翔―――と。天守本家の者ですが」
「……あまの、かみ?」
翔の台詞に首を傾げることしかできない。
まるで当然の如く翔は語ってきているが、美由希としては天守家とは何なのか心当たりがないからだ。
噛み合わない二人の言葉。油断なく翔を窺っている美由希とは裏腹に、翔は右手の人差し指を口にあて考え込む。
考え込むこと数秒の時間。何かに閃いたのか、まさかという驚きの表情になった。
「不破殿からお聞きになられていませんか、他の永全不動八門の存在のことは」
「……」
沈黙を答えとして受け取った翔は口元に当てていた指を離し、自然体の体勢へと戻る。
翔のそんな行動でさえ、美由希は見逃すまいと意識を集中させた。
それほどまでに、美由希の目の前にいる少女は得体の知れない怖さがあったのだ。
「御神の一族も永全不動八門に数えられていたのはご存知でしょう?無手の如月。針の鬼頭。棍の小金井に槍の葛葉。糸の秋草に弓の風的。そして、小太刀の御神と―――刀の天守。それらを合わせて永全不動八門と呼びます。言ってしまえばわたくしは貴女と同類。裏の世界に潜む武の頂を目指す者の一人です」
「永全不動八門……?貴女が、その一員ですか?」
「はい。先程も言いましたが、宜しくお願い致します―――短い間ですが」
「―――え?」
聞き返す美由希だったが、それと同時に、翔は消えた。
集中していた美由希の意識を潜り抜け、翔はその場から消え失せていた。
陽炎。蜃気楼。そういったモノを見ていたかのように天守翔は美由希の眼前から姿をかき消していた。
おぞましい黒い戦意。鋭く、冷たいどす黒く濁った、槍のように押し寄せる気配。
それが美由希の側面から叩きつけられ―――何を考えるでもなく、美由希は腕をあげ、反射的に自分の身体を守る動きを取っていた。
腕があがるのと、何時の間にか踏み込んできていた翔の体重の乗った回し蹴りが、叩き込まれるのは刹那の間を持って同時であった。
蹴りが美由希の腕に着弾する。尋常ではなく、重い。それに重いだけでなく己と同じくらいの体重とは思えぬほどの衝撃が全身に伝わってくる。
ただの蹴りではない。美由希の良く知った技術が含まれていた蹴り。【徹】と呼ばれる内部破壊の浸透撃。
腕が痺れる。眩暈が一瞬した。
再度反射的に身体が動く。自分の足で地面を蹴りつけ衝撃を逃しつつ、その場から退避しようとした美由希を嘲笑うかのように、翔が動く。
美由希が地面を蹴りつけた瞬間を見切った翔は、受け止められた蹴り足に力を込め、美由希の身体を巻き込むように地面へと叩きつけた。
衝撃を逃そうとした美由希の行動は悪くは無かった。ただ、それを見切った翔の方が上手かった。それだけの話だった。
自分と翔という、二人分の力で地面へと叩きつけられた美由希の視界が真っ暗に染まる。
意識を一瞬失ったことに気づいた美由希は、痛みを無視して四肢のバネを利用して飛び上がり、翔から距離を取る。
ピタリと空中に蹴り足を縫いつけたように止めていた翔は、ゆっくりと足を下ろす。
普段の美由希だったならば、その隙に攻め込んでいただろう。だが、翔との間合いを詰めることは出来なかった。
まるで地面から根が生えたかのように、美由希の動きを奪っていたのだから。たった一撃の蹴りが、翔の底知れぬ実力を美由希へと嫌というほどに叩き込んできたのだ。
未だ痺れが取れない、片腕。地面に叩きつけられた時に打ったのか、頭痛が襲ってくる。
翔の視線には温度というモノがなかった。
美由希に対して何の感情も持っていない。虫けらを観察するような、瞳だった。
「―――貴女は不思議な人ですね」
「な、にを―――」
言っているのかと問い返そうとして、言葉が詰まった。この場に蹲りたくなる衝撃が未だ全身に残っている。
己よりも遥かに上手の徹の技術に舌を巻くしかない。
そんな相手からの言葉。不思議な人とは一体どういうことなのか。
「先ほどの一撃。確実に不意を突いたはずの一撃を貴女は―――無意識のうちに防いでいました。頭で考えた行動ではないでしょう。その後もそうです。意識を失いながらも即座に体勢を立て直す。並大抵のことではありません。そう―――」
冷たい瞳に僅かに、温度が灯った気がした。
錯覚だったのかもしれない。それでも、確かに美由希はそう感じた。
「無意識レベルまで刷り込まれた技術。頭で考えるよりも速く体が動くほどに研磨された肉体。貴女はそれほどまでの高みにまで鍛え上げられています。げに恐ろしきは―――」
翔はゆるりと右腕を前にだし、左手を僅かに引いた位置で止める。
空手家などがよく行うオーソドックスな構え。美由希は、自分よりも小さな翔の身体から発せられる重圧に気おされていた。
「貴女をそこまで鍛え上げた―――不破恭也」
ピキリと空気が振動した。
恭也の名前が出た瞬間、美由希の気配が明らかに変化した。
翔を恐れていた気配はなりを潜め、逆に禍々しいともいえるほどに黒く染まった美由希らしからぬ鬼気を漂わせ立ち上がる。
その気配に若干驚いたのか、僅かに目を細める翔。
言葉もなく、ダンと地面を蹴りつけ美由希が疾走する。
今度は美由希が相手の不意をつく形となったが、今更正々堂々などという言葉は互いの頭の中になかった。
一際速く踏み込み、との距離を翔縮めていく。山田太郎と戦った時とは比較にならない弾丸の如き超速度。
放たれる右拳。
鋭く、重い一撃なのは見ればわかるほどに、見事な打撃。
翔は慌てることなく、華麗に背後へとバックステップ。それを追撃するべく、美由希が更なる加速を見せる。
だが―――。
美由希が踏み出そうとした瞬間、後ろへと逃げたはずの翔は瞬間移動をしたかのように美由希の懐へと入り込んでいた。
立ち昇る邪悪な戦意。吐き気を催す死の香り。美由希の胸元に左手の掌底を当て、口元をかすかに歪める。
―――死ぬ。
頭の中で妙に冷静な己の声が響く。
両脚の力を最大限に引き出し、強制的に体を停止。そのまま先ほどの翔と同じように背後へと地面を蹴りつけ退避する。
物騒な音をたてて大気を打ち破る掌底。必死の思いで身体をねじり、回避することに成功した美由希だったが、完全に避ける事は出来なかった。
微かに掌底が肩を掠める。それだけでズシンという重い衝撃が肩に残された。
注意を払う余裕もなく、美由希はその場から大きく逃げ出した。それを追おうとする様子はない翔を確認して、僅かに安堵の息ため息を吐く。
「―――その程度、ですか?」
翔は、美由希と同じくため息をつきゆっくりと間合いをつめてきた。
そのため息は美由希の安堵とは別の意味が込められていた。即ち、失望。
「―――その程度が、御神流の次期当主候補の実力なのですか?」
カツカツと音を立てながら抑揚のない声で語りかけつつ、美由希へと近づいていく。
気圧された美由希は、翔を怖れてか近づいてくる距離だけ、後ずさっていった。
本来、翔と美由希の実力的にはここまでの差があるわけではなかった。
力で言えば、どちらかといえば美由希の方に若干の分がある。スピードで言えば、翔に分があり、剣技で言えば僅かに翔の方が上程度に過ぎない。
ならば何故このような事態に陥っているのか。それは簡単な話だった。
命をかけた―――死合い。負ければ死ぬ。生きるか死ぬか、わからぬ戦い。限界ぎりぎりの死闘。その経験の差がここまでの差を生み出していたのだ。
美由希は確かに実戦形式の試合をほぼ毎日のように恭也と行っている。
実戦形式の試合の回数でいえば、天守翔をも上回るだろう。だが、それはあくまでも実戦【形式】。
負けたら死ぬ。そんな命がけの戦いではなかった。
恭也としても、美由希相手に殺す気になるほどの正真正銘の本気を出せるはずもない。
美由希の生涯において、己に匹敵する相手と戦ったことは―――事実無く、格上の相手はたった二人だけ。
一人は師である恭也であり、常に遥か前を歩いている師には心の奥底で、決して勝てないと思い込んでいる気持ちもあった。
もう一人は巻島十蔵。未だ勝利したことが無い、空手の鬼。幼い時に父である高町士郎と互角に渡り合う姿を見てしまったが故に、父と互角以上に渡り合う巻島に負けても仕方ない。そう思う気持ちが確かに存在した。
それ以外の相手は美由希にとって格下でしかなかった。落ち着いて戦えば勝てる相手。好敵手と認めるような、強き者は美由希の生涯において存在しなかった。
一方、翔は違った。
未だ十五という若さでありながら、天守家の者として、多くの実戦に自分の意思で参加していたのだ。
御神の一族が壊滅して、困ったのが今まで御神を頼ってきた者達だ。己の命を守護してくれた存在の喪失。重火器を必要とせず、圧倒的な戦力で身を守ってくれる御神の一族は重宝されてきた。
彼らが次に頼ったのは御神と双璧をなした天守家。単純な話、仕事の依頼も倍増したわけだ。
人手がたりなくなった天守家にとって、翔のような年端も行かぬ少女でも重要な戦力として数えられるようになっていた。
そんなわけで、天守翔は信じれない数の任務をこなしてきていた。多くの敵と戦い、命の奪い合いを行い、実際に幾つもの人間を斬り殺してきた。
勿論、毎回危険なことがあるわけではない。何か危険が迫ってきたことのほうが少ない。
それでも、いつ、どこから、どうやって襲ってくるか判らぬ依頼を遂行するうちに、それは天守翔にとって得難い経験となって蓄積されていった。
圧倒的なまでの実戦の差。死闘の経験の有無。
それがここまでの差を、自然と生み出してしまっていたのだ。
「……っ」
ガシャンと、背中が何かに当たった。
チラリと確認してみれば、編み上げられたフェンス。どうやら、何時の間にか限界ぎりぎりまで後ずさってしまっていたようだ。
逃げる場所を失った美由希を前にしても、翔は淡々と間合いをゆっくりと詰めてくるだけだ。
焦る様子など見せず。確実に、仕留めるために。
負ける。負けてしまう。
高町恭也の弟子が。最強不敗の剣士の弟子が、無様にも、何の抵抗もできずに敗北する。
最強の頂に立つ剣士が、己を鍛え上げる時間を裂いてまで、自分を育て上げたというのに。
なんて無様な。なんて無様な。なんて無様な。
このまま敗北しては、師に合わせる顔が無い。いや、価値さえない。
―――くっふっふ。悩んでおるのぅ。
そんな時に、幻聴が聞こえた。朝に聞こえた圧倒者の声だ。
何故よりによってこんな時なのか。いや、こんな時だからこそ聞こえるのだろうか。
―――死するのが恐ろしいのかのぅ?
違う。それは的を外している。
美由希が怖れているのは、敗北することだ。高町恭也を汚してしまうことだけが、恐ろしいのだ。
死ぬことなど、それに比べれば塵芥にも等しい。
―――くっふっふ。死ぬことよりも、不破の小倅の名を傷つけることの方が怖いか。お主もまた、壊れておるのぅ。
息が荒い。ハァハァという激しい呼吸音が響き渡る。
それが美由希自身の呼吸音だということに、ようやく気づく。
―――よかろう。少しばかりの力をお主にくれてやろう。世界最強を欲しいが侭にした我が師から受け継いだ、森羅万象遍く切り裂く光の剣閃。あらゆる猛者を凌駕する、一騎当千の力をお主に。
視界が染まっていく。
白く。ただ白く。純白に染め上げられていく。
それと比例して身体が軽くなっていく。自分ではない【誰か】の記憶が流れ込んでくる。
腕が、足が、頭が、自分ではない【誰か】の技術が、染み渡っていく。
―――さぁ、受け取れ。これこそが、御神の極限。【御神恭也】より受け継ぎし、我が力也。
記憶が蘇って来る。数百年の間生き続けてきた女性の記憶が。
純白に染まる視界の中で、御神の剣神―――御神雫が狂ったような三日月の笑顔を浮かべて嗤っていた。