北海道のある都市に存在する巨大な道場。そこは学校の体育館レベルの巨大さだ。それもそのはず、彼女―――が今いる道場は天守宗家が所有している道場なのだから。
昔ながらの日本家屋と広大な敷地。その敷地の一画に巨大な道場まであるということで、天守家は地元でも相当に有名である。
最もさすがに暗殺業や護衛を仕事としていることは秘密となっている。そこら辺は、御神の一族と同じで上手く周辺住民には隠しているのだ。
そんな道場で、数多の剣士達が互いに鎬を削っている中―――道場の中央付近で壮年の男性と幼い少女が竹刀で打ち合っていた。
男性の流れる水を連想させるほどに美しい剣閃が、弧を描き少女へと振り落される。
瞬きした瞬間には打ち込まれるはずだった一撃を、少女はすんでのところで竹刀で防ぐ。
防がれるとは思っていなかったのか、男性が目を見開き―――。
「よし、いいぞ。翔!!上出来だ」
壮年の男性にそう褒められたのは随分と年若いが、天守翔だった。
男性は―――現天守家当主にして実の父である天守隆。間違いなく天守最強の男として永全不動八門に知れ渡っている剣士である。
隆の竹刀による一撃を完全とはいかないにしても、紙一重のところで防ぐことに成功した翔は、顔を嬉しそうに綻ばせた。
齢十になったばかりの幼い身ではあるが、翔の才覚の高さは天守家の万人に知れ渡っているほどである。
更には当主である隆が直々に指導をしていることもあって、翔の剣の腕前は十歳を迎えたばかりの少女にしては信じられらない高みに達していた。
隆が本気で翔に打ち込んでいたかというと、勿論そんな筈もなく手加減をしてはいたが、それでも己の一撃を防いだ娘の頭を愛情を込めて撫でる。
父に褒められることは多々あるが、これほどまでに喜ぶ父の姿は滅多に見られることでもないので、翔は心の底から嬉しそうに笑っていた。
「有難うございます、父上」
くしゃくしゃと撫でられる翔は、はにかむような笑顔だったが―――突如ピタリと隆の手がなでつけるのを辞めたのに不思議そうに見上げた。
すると今までの隆の歓喜の表情とは打って変わって、真剣な眼差しで道場の入口へと向けていた。
次の瞬間、ザワリと道場の空気がざわめく。驚愕―――いや、畏怖のほうが正しいのかもしれない。
隆や他の剣士達の視線の先に、一人の青年と少女が姿を現したのだ。その場にいる全員の恐れは青年にではなく、少女へと向けられていた。
二十に届くかどうかといった年の青年は男性にしては珍しく、肩まで伸ばした黒髪。とはいってもだらしないという印象はなく、好青年を思わせる雰囲気を纏っている。
少女は精々が十代半ば。青年よりも頭二つは低いが、見るものを魅了するほどに可愛らしい―――いや、どちらかというと美しいと言った方が正しいのかもしれない。研ぎ澄まされた刀をイメージさせるほどに、冷たい雰囲気を醸し出している。
二人の纏っている雰囲気は正反対で、だからこそ周囲の人間の注目を浴びることになった。
いや、雰囲気だけではない。放たれる気配も尋常ではなく、自然と一歩後退してしまいそうになる何かを二人は持っていた。
現在の天守宗家において、当主の血を引くものは五人。そのうちの一人が翔だ。
残りの四人のうちの二人が、目の前にいる。青年は天守翔太―――天守家長男であり最も当主に近き者として永全不動八門に知られている青年。剣の腕は当主に次ぐとまで噂されている。
そして少女は―――。
―――天守翼。
翔は、少女の名前を心の中で呟いた。
そう、彼女こそが天守翼。翔の姉にして、天守家長女。
天守宗家の一員でありながら道場に顔を見せるでもなく、自由奔放に日々を過ごしているため、ある意味天守で厄介者扱いされている節もある少女だった。少なくとも翔は、翼のいい噂を聞いたことは無かった。
「―――何をしに来た」
「私に聞かないでほしいわね。兄さんに無理矢理つれてこられたのだし」
隆の深い重みを込めた質問に、翼は肩をすくめてた答えた。
ただの質問ではなく、放たれる重圧は何時もの穏やかな隆のものではなく、傍にいるだけの翔でさえ膝を突きたくなるほどのものであった。
隆は、ジロリと息子に視線を向けると、罰が悪そうに翔太は頭をかく。
「まー、ほら。偶には妹と手合せ願おうかなーと」
「却下だ。相手にもならん」
翔太の答えをばっさりと切って捨てた隆は、到底娘に向ける視線とは思えぬほどに冷えた眼差しで、翼を射抜く。
「―――ここから出ていけ。この場でお前と戦おうという酔狂なやつなどいない」
「連れてこられただけなのに随分な言われようね」
確かに父親が娘にかける言葉とは思えなかったが、翼もまた父親に対する態度と言葉ではない。
だが、他の天守の人間も翼には腫物を触るような態度を取る人しかおらず、姉の境遇を理解できなかった。
「まぁまぁ。折角道場まできたんだから俺と一回でいいから試合っていってくれ。どこまで腕を上げたか自分で確認しときたいんだよ」
「……一回だけならいいわよ」
手を合わせて頼んできた翔太に渋々了承した翼。
そんな二人を見て違和感を覚えるのは、翔だった。他の人間を窺ってみると誰もが苦虫をつぶしたような表情だった。
おかしい。おかしすぎる。何故天守家において他を圧倒する翔太が数歳も年下の翼にあそこまで頼み込むのか。逆ならばまだ分かるというのに。
これではまるで、翔太よりも翼の方が格上という立場ではないのか。
そんな翔の思考を置き去りに、翔太と翼が向かい合い、竹刀を構えた。
ピリっと空気が重くなる。翔太の烈火の覇気が道場を満たす。
対して翼は試合が開始する前と変わらない。気だるげに、竹刀を床に向けたままの無形の位だ。緊張感など全くなく、対して翔太は妹の一挙一動を見逃すまいと集中力を高めていた。
向かい合う事一分。
重苦しい道場の空気を破るように、翔太が迅速の一歩を踏み出そうとして―――。
―――戦いの決着は、瞬きする間もない瞬戦。
道場の中には数十人もの剣士達がいたが、誰も彼もが声を出すことなく、自分たちが今見た光景を信じられないように、呆然としていた。
道場の中央に立つのは天守家が生み出した異端児―――天守翼。
何の感情も見せることなく片手に竹刀を持ちながら、道場の床に倒れふしている翔太を見下ろしていた。
いや、見下(みくだ)していたというほうが正しいのかもしれない。
「―――つまらないわね」
ふぅっと失望のため息を漏らした翼は翔太に対して背を向ける。
これ以上ここにいても仕方ない。翼の態度は言葉よりも雄弁にそのことを語っていた。
翼が道場を去って暫く誰も動けなかったが、数分たってようやく、道場内の空気が弛緩。
周囲で呆然としていた野次馬達が、慌てて倒れている翔太に近寄って介抱を始める。
そんな中でその場から動かない一人の少女がいた。それは、天守翔。
愕然と翔は、姿を消した天守翼を凝視していた。今先程自分の目の前で起こった出来事が信じられない。
姉が戦う姿は見たことが無かった。同性でありながら見惚れてしまう氷の美しさの女性だったため、戦いとは無縁と思っていたのだ。それがまさか―――次期当主と囁かれ、その実力は現当主に匹敵するという天守宗家の長男、天守翔太を苦もなく一蹴するとは夢にも思っていなかった。これは夢か幻かと、自問するも、現実にかわりはなかった。
一体どうやって翔太を倒したのか。竹刀を振るう姿はおろか、踏み込む瞬間―――いや、初動の影さえも見ることはできなかった。
強すぎる。桁が違いすぎた。同じ人間とは思えないほどの超領域に、姉はいたのだ。
ひたひたと黒い感情が這いよってくる。
その感情に飲まれそうになった翔は、床を全力で殴りつける。
激しい音をたてて、衝撃と痛みが拳に伝わってきた。皮が擦り剥け、血が滲む。
「―――ふざ、けるな」
どろりと、暗い呟きが翔の口から自然と漏れた。
許せなかった。誰を、と問われれば、己自身と答えるしかできない。
姉の力も見抜けず、天才と周囲の人間に褒め称えられ、良い気になっていた自分が愚かだった。
周囲の人間も気づいていたのだろう。翔では翼に遠く及ばないということに。それでも、翔を飼いならすために、称賛の声をかけ続けられた。
思い返せば、翔が鍛錬をする時に翼を見かけたことは無い。
天守家の人間達が一緒にならないように苦心していたのだろう。
そのことに気づかず、自分の才に自信を持っていた。父に褒められ良い気になっていた。
これでは、まるで自分は―――ピエロではないか。
敗北感と無力感。
自嘲の笑みを浮かべようとするが、それは笑みにもならなかった。
その変わりに、目も眩むような、憤怒となって身体を支配してくる。
己の胸へと手を当て、激しく爪をつきたてた。痛みが襲ってくるが、この程度で怒りは消すことは出来ない。
思い出すのは、自分へと向ける姉の視線。何の感情も秘めてはいない、氷の視線。
―――いいでしょう。天守翼。貴女はそのままで在り続けなさい。その才が有るが故の驕りと慢心の果てに在り続けなさい。何時か必ず、わたくしが貴女を、超えて見せましょう。
天守翔は歯を食いしばり、もはや見えぬ姉の後姿を睨みつけていた。
これがもはや遠い過去となる、五年近くも昔の翔の記憶。
脈絡もなく、突然に過去の思い出が翔の脳裏を駆け抜けていった。
何故、と一瞬思うが、一拍置いた後これがなんなのか理解できてしまった。
これはつまり―――走馬灯というやつなのだろう。
晴天を突き破るほどに高め上げられた純白の戦気。
空に真っ直ぐと立ち昇る眼に見えんほどに高めあげられた闘気が巨大な白き刃となって振り下ろされた。
避ける間もなく、その白刃が翔の肩から腹部にかけて、音もなく切り裂いた。
「―――ッハ」
いや、違うと翔は切り裂かれた感覚を感じながらも後方へと逃げ出した。
これは身に覚えがある。故に、即座に逃げの一手を打つことが出来たのだ。
圧倒的な戦闘力から発する、幻視。相手に斬られたと錯覚するほどに、濃密な死の気配。
天守翼や不破恭也といった、超越した剣士達と相対した時に似たようなことを経験したことがある。
身体から滲み出ていた戦意で翔を退かせるまでに至った目の前の剣士―――御神美由希は、どこか焦点の合わない瞳で、後退した翔を窺っている。
先程までの美由希とは思えぬ底知れぬ気配を漂わせ、別人としか言いようのない剣士がそこにいた。
翔は何よりも敗北を恐れる。
それ故に、相手と己との力量差を誰よりも鋭敏に感じ取ることができる。
その翔が出した結論。それは―――どうやってこの場から離れるか、であった。
想像の遥か上。全力をだしたとしても、恐らくは勝ちを拾うことは難しい。
冷静にそう判断した瞬間、ぶわっと冷たい汗が背筋を流れる。
先ほどまでの余裕は一切なりを潜め、近い未来に訪れる確実な敗北がすり寄ってきていることに歯噛みをした。
そもそも翔が美由希に戦いを挑んだのも、確実に勝てると踏んだからだ。
今回はあくまで顔見世程度のつもりだったとはいえ、まさかこのような圧倒的な力を隠し持っていたとは夢にも思っていなかった。
無感情なままの美由希が、焦る翔を気にもかけず地面をけった。
何かを蹴った音が翔の耳に聞こえた瞬間、既に美由希の姿は目の前に迫っている。
一瞬あがりそうになった悲鳴を噛み殺し、顔面へと放たれた拳を払いのけ―――逆にその手を掴まれ、気が付いた時には投げ飛ばされていた。
視界が逆転し、感じるのは浮遊感。
体を捻り、地面に激突することなく着地するも、それと同時に美由希の右回し蹴りが放たれる。
両腕でその蹴りを受け止めるが、衝撃が突き抜けてくる。
良く見知った技術。天守では【透】と、御神では【徹】と呼ばれる技術。
防御を無視する、打撃の極み。誰もが理想とし、生涯をかけて追及する浸透撃。流派によっては秘伝とされる技術。
己を凌駕するほどに磨き上げられた、美しさをも感じる蹴撃であった。
ピキリと両腕が悲鳴をあげるのに耐え、美由希から間合いを取る。
勿論それを見逃す美由希ではなく、勝負を決めんと猟犬の如く勢いで屋上を駆け抜けた。
迫りくる美由希に敗北の予感を感じた翔だったが、何故か途中で足を止め、逆に翔との間合いを広げた。疑問に思うも、次の瞬間にはその謎が解ける。
美由希が間合いを外したと同時に、どこからか一本のナイフが空を裂き屋上に突き刺さったからだ。
誰が投げたのか、とナイフが飛んできた方角を見る。
翔と美由希達からすれば上空。壁に掛けられたはしごの先―――貯水のタンクがある場所。
そこに何時からいたのかわからないが、葛葉弘之があぐらをかいて座っていた。
「よう」
ようやく気付いたのかとでんも言いたいのか、軽く手をあげ実に気安く挨拶をしてくる葛葉に、どんな返事をすればいいのか迷う。
二人の視線を受けつつも、全く気にしない葛葉は立ち上がると、飛び降りて翔のすぐ傍へと着地した。
「何時からいたのですか、葛葉?」
「最初からいたっつーの。この学校で仕掛ける場所ってったら、屋上くらいしか思いつかなかったしな」
「……何をしにきたのですか」
「最初はお前と御神の戦闘を見学するだけの筈だったんだけどな。どうしても我慢できねーことがあったんでな。割りこまさせてもらったぜ」
ふんっと不満気に鼻を鳴らし、葛葉は制服のズボンのポケットに両手を突っ込みながら翔の一歩前に出た。
今の御神美由希の力は想像の遥か上。それがわからない葛葉ではないだろうに、一切の気負いは見られなかった。
待ちなさい、と声をかけようとした翔の声は途中でつまり、言葉にならなかった。葛葉が背負う不気味な気配に少しばかり気圧されたためだろう。普段とは異なる葛葉の様子に、知らず知らずのうちに口内が乾いていた。
「別によ、お前と天守の一騎打ちを邪魔するつもりはなかったんだぜ?タイマンに茶々を入れられるのは俺も嫌いだしな。どっちが勝とうが負けようが、それを見届けるつもりだったんだわ、俺はな」
ポケットに入れていた拳が、ミシリと音をたてた。
余程力を入れていたのだろう。握り締めた本人にも、握り締めた痛みが伝わってくる。
それでも、それが気にならないほどに葛葉は一つの感情に支配されていた。
「なぁ、御神美由希。お前は強いぜ?三ヶ月近く観察してたけどな。お前の才は尋常じゃねえ。しかも、信じられない努力もしてやがる。決して驕らず、慢心せず、剣の道を究めようとしているお前を俺は尊敬する」
感情の見えない美由希の視線を受けつつも、葛葉の邁進は止むことはない。
絶大なプレッシャーを感じながら、圧倒的な殺気の結界を身体全体で受けながら、葛葉は何の躊躇いもなく突き進む。
「でもな、今のお前は違うだろう?力を隠していた?そうじゃないだろう―――見れば分かる。今のお前の力は、借り物の力だ」
忌々しげに唾を吐き捨てる。
本当に腹を立てているのか、葛葉の瞳が怒りに燃えていた。
「果てしない努力と才能で辿り着いたのがお前の力のはずだろうが。得体の知れない、そんな力で得意げに暴れてるんじゃねーよ」
葛葉と美由希の間合いは一足一刀の距離となり―――尋常ならざる二人の気当たりに、知らず知らずのうちに翔は息を呑んだ。
「借り物の力で何が出来る?何を誇ることがある?他人の力に逃げ出したお前は怖くねぇ。尊敬できるところもねぇ。悪いが、今のお前に負ける気はしねーぜ!!」
ドンっと激しい音をたてて葛葉が疾走した。
かつて廃ビル地帯で見た、恭也に向かっていった時と同等の速度で葛葉が走る。
翔が知っている数多の猛者の中でも、上から数えたほうが早いほどに。超絶的な雷の如き疾走だった。
地面を叩く一際高い音が鳴り響き、弾かれるように繰り出される葛葉の前蹴り。
何の工夫もないが、それ故に速い。大気を打ち抜き放たれる槍を連想させる蹴撃。
美由希の腹部に襲撃する筈だった蹴り足は、あっさりとかわされ逆に掌底を腹部にカウンターとして叩き込まれた。
そのまま勢い良く弾き飛ばされ地面に激突。気がついたときには翔の足元に転がる結果となっていた。
「……」
格好良く飛び出した割には僅か数秒で帰還する結果となった葛葉にどんな反応をすればいいのかわからず、呆然としている翔。
対して葛葉は右手で掌底を叩き込まれた腹部をさすりながら上体を起こす。
生半可ではない一撃をまともに受けつつも、気を失わない葛葉を少しばかり見直す翔だった。
「……負けないんじゃなかったのですか?」
「ばーか。良く聞いとけよ。負ける気はしねぇって言ったんだ、俺は。【気】はしねぇってな」
「―――子供の言い訳ですか」
「自分でも格好悪いとは思ってるがよ。アレにタイマンで勝てると思ってるのかよ、お前」
くいっと親指で美由希を指差した葛葉が、呆れたようにため息を吐いた。
葛葉の指を追って、再度改めて美由希を見やるが、相変わらず桁外れの気配を発している。正直な所勝ちの目を拾えるヴィジョンが全く湧かない状況だ。
一人―――では、だが。
葛葉と同じくため息を吐いて翔は、一歩前に出て並ぶ。
「あまり歓迎できない状況ですが、この際仕方ありませんね」
「俺も二対一ってのは、嫌なんだからお前も我慢しろよ。一発ぶん殴れば、正気を取り戻すだろ」
互いに憎まれ口を叩きながら、二人は口元を皮肉気に歪ませ美由希と相対する。
一対一では勝ち目は無いに等しいが、二人でなら零ではなくなる。
もはや最初の目的からかけ離れてはいるが、敗北という文字を刻まれるくらいならば、葛葉と手を組むのも仕方ないと心の底で自らを納得させたが、それと同時に不思議な高揚感が身体の奥底から沸々と高まってくるのを感じていた。
敗北するかもしれない相手。葛葉と手を組み二対一という状況。だというのに、翔は久しく感じていない熱が全身を満たす心地よさを確かに感じていたのだ。
ぴりぴりとした空気が屋上を満たす。
流石の美由希も二対一という戦いは分が悪いと判断したのか、自ら仕掛けようとはしてこない。
同じく葛葉と翔も、美由希の戦気の結界を前にして、そう易々と踏み込めないでいた。
次第に膨れ上がっていく三人の気配。高まる緊張。
何かが切欠で今にでも爆発しかねない空間。互いの呼吸が止まり―――。
「二対一っちゅーのは、流石にうちも見過ごすわけにはいかへんなぁ」
新たな気配がその空間に割って入った。
頭を金槌で殴られたかのような衝撃。軽い言葉とは異なり、ズシリと重力が加わった気がした。
ズンっという深い音が木霊し、屋上と階下を繋げる鍵が閉まった扉がへこみ、二度目の音で弾けとんだ。
勢い良く飛んできた扉に、慌てて葛葉と翔が左右に散ってかわす。
ガンと金属音が激しく鳴り、扉はその場でぐらぐらと揺れ続け、暫くたって振動を止めた。
扉を隔てていたとはいえ、二人に全く気配を感じさせることなく、鳳蓮飛が屋上へとゆっくりと足を進めてくる。
レンの姿を見て二人の目が驚いたように大きく見開く。美由希を監視していた時に何度か見た少女なのはすぐさまに理解したが、別人としか考えられないほどの気配を漂わせていたのだから。
「―――レ、ン?」
レンの登場で驚いたのは二人だけではなかった。
今まで無感情だった美由希の口からそんな呟きが漏れ出て、焦点の合わなかった瞳が徐々に戻っていく。
「ごめん、美由希ちゃん。ちょっと遅れてもうた」
翔と葛葉の視線などなんのその。レンは普段と変わらぬ自然体で美由希に笑顔を向けた。
この場で最も幼く、最も小柄な少女の放つ威圧感は、この場にいた全員の足を止めるほどのものであった。
「―――あ、ううん。ごめん、来てくれて、助かったよ」
はっきりとしない意識を覚醒させるために首を軽く振って、そうレンに答えた。
意識を取り戻したのを切欠として、先程までの凶悪な戦気はまるで幻だったと勘違いしそうなほど綺麗さっぱり消え失せていて、今の美由希は翔に押されていたときの彼女そのままだ。
罠かもしれないという懸念を拭い去ることも出来ず、翔はまだ油断なく美由希とレンに注意を払う。
そして葛葉は新たに表れた乱入者であるレンを一目見て固まった。阿呆のように、呆然とポカンと口を開いたまま、凝視する。
そんな視線に晒されているレンだったが、少し気持ち悪そうに一歩後ろに下がっていた。
「―――天才。いや、異才」
ぼそりと葛葉はそうんな言葉を呟いた。
その呟きはあまりにも小さく、この場にいた三人の誰の耳にも届かず、消えていく。
「―――だが、おもしれぇ」
葛葉の瞳にぎらりと炎が宿った。
嬉しさを抑えきれないのか、口元を歪ませて、レンに向かって一歩を踏み出す。
それを見た翔が慌てて葛葉を止めようとして―――。
「仕切り直しにせぇへん?」
レンの発言で二人の動きが止まった。
葛葉も翔も、突然の相手からの提案に、虚を突かれる形となり反応が遅れる。
「幾らなんでも昼間の学校でドンパチするのは非常識やと思うで?それに、何時邪魔が入っても可笑しくはない筈やし。また後日改め他方が互いの為にもいいと思うんやけど」
―――確かに。
言葉には出さずとも翔は内心で同意する。
最初に仕掛けたのは確かに翔だったが、彼女とてあくまで挨拶程度で留めようと思っていたのだ。
翔も美由希も本来の得物である小太刀と刀を持っているわけでもなく、全力とはほど遠い状態ということもある。そしてなにより、美由希の底に眠っている得体のしれない力にも、できれば対策を考えておきたい。ただでさえ、蹴りを防御した両腕は未だ痺れているのだ。
今は通常の美由希ではあるが、このまま戦いを続ければ何時あの時の鬼神の如き強さの状態へと変化するかもわからず、不確定要素が多すぎる。
レンの提案を受け入れることを既に決めた翔は、どうやって葛葉を説得するか頭の中で考えながら横目で様子を窺うと―――。
「ああ、わかった。ここらでお開きにしとこうぜ」
「―――あれ?」
反射的に声が出てしまった翔は、訝しげにこっちを見返してくる葛葉に、何でもないと手を振った。
あっさりとレンの提案を呑んだ葛葉が、あまりにも【らしく】なさ過ぎて逆に不気味さを感じる。
翔の知っている葛葉ならば、周囲の状況などお構いなしに、戦いに興じる。それが、戦いの申し子―――葛葉が生んだ黄金世代に匹敵する槍使い。葛葉弘之という男だというのに。
「帰ろうぜ、天守。んじゃ、邪魔したな、御神美由希。それと―――」
葛葉がレンの名前を呼ぼうとしたのだろうが、言葉に詰まる。
自分の名前を知らないため、葛葉が言葉を濁したことに気づいたレンは、真っ直ぐに彼の顔を見返し―――。
「姓は鳳。名は蓮飛。高町恭也を師と仰ぐ―――ただの中学生や」
「―――はっ。覚えたぜ、鳳蓮飛」
攻撃されることを全く想定していない足取りで葛葉はレンの前を横切り、校舎へと続く階段へと消えていった。
一方翔は、美由希とレンに相変わらず注意を払いつつ、背を向けることなく葛葉の後を追って美由希達の前から姿を消す。
残されたのは、美由希とレンの二人だけ。
互いに言葉はなく、緊張した雰囲気が屋上を支配し―――。
ガンッと激しく何かを叩く音が響き渡った。
その音の発生源は美由希だ。屋上の地面に敷き詰めてあるタイルを思いっきり叩きつけていたのだ。
ギリギリと歯が軋む音がする。レンがこれまで見たことがないほどに、美由希の表情には悔しさの色が見て取れた。
先程の戦いの結果は結果だけを見れば痛み分けに終わりはした。
だが、もし【彼女】に力を貸して貰わなかったら。もし仮にレンがこなかったら。
きっと高町美由希は敗北を喫していた。実力でも、何より心でも。
葛葉と名乗った男の言うとおりだ。悔しいが、借り物の力で敵を打倒したとしても誇れることなどあるものか。
そしてなにより、そんな勝利を果たして師である恭也は喜んでくれるだろうか。
石畳を叩き割った拳の皮が擦り剥け、血が滲む。
その拳を目の前まで持っていき―――。
―――次こそは、【私自身】の力で勝利を掴んでみせる。
まるで意識を奪い取られていた時のように無表情になりながらも、どこか凄惨な笑みを浮かべて、美由希は去っていった二人の後姿を何時までも見つめていた。