空を渡り、白銀が煌く。
最短の軌跡を持って、白銀の切っ先が美由希の防御をすり抜け、喉元を抉り貫いた。
ごぽりっと血が吹き出す。力が抜けていき、一体何度目になるのかわからない、漆黒の闇へと意識を奪われかける。
だが、駄目だと己を叱咤し、歯を食いしばり倒れかけた体を残された力を込めて立て直す。
貫かれた喉元は、雫の小太刀が引き抜かれたあと、あっさりと塞がっていた。
無傷の体。されど、もう何度殺されたのだろうか。
二度目は頭を叩き切られた。
三度目は心臓を貫かれた。
四度目は両足を斬りおとされた。
五度目は腹部を薙ぎ払われた。
六度目は両目を潰された。
それ以降は美由希の記憶にはない。
覚えていられないほどに、幾度も幾度もこの世界で殺されていたのだから。
或いは既に十回を超えているのかもしれない。いや、もしかしたら何十回も止めをさされているのかもしれない。
そんな絶望の戦いの中で、美由希の攻撃は一度として雫に届いてはいなかった。
正確でありながら、精密でありながら、流麗でありながら―――相手を問答無用で叩き伏せる狂暴な剣。
柔と剛。それらを併せ持った、御神の極限と思わせるに値する武。
反撃の糸口を全く掴めない。
恭也のように、美由希の全力をださせようとする相手ならば、もっと善戦できたかもしれないが、生憎と御神雫にはそんなつもりは毛頭ない。
淡々と小太刀を振るい、美由希を惨殺していく。解体していく。壊していく。
一体何時までこんなことが続くのかと。果てしない痛みと恐怖が美由希を支配していく。
ぼろりと美由希の心の壁が崩れていく。これまで築いてきた自信と御神の剣が音をたてて崩壊していく。
―――もう、いいや。
美由希はここで諦めた。
戦うことを、剣を振るうことを。痛みと恐怖に負けてしまった。
心が、御神雫に敗北を喫してしまった。
それを理解した雫の視線は、凍えている。
戦う前に見せていた僅かな温かみを帯びた視線はそこにはない。まるで虫けらを見下すかのように、冷たい視線だった。
―――所詮、ここまでか。
言葉に出さない声なき声が美由希に届く。
それでも、それでも、最早美由希に戦う気力は湧いてはこなかった。
これまでの努力を一笑にふす、完全無敵の存在を前にして、美由希の心は完璧に砕け散る寸前だったのだ。
「―――そうか。ならばこれで仕舞いよ、小娘」
鯉口をきって抜き放たれた小太刀が華麗に、流麗に、確実な死の匂いを漂わせ、美由希へと牙を剥いた。
その切り落としは最短距離にて、美由希の頭蓋を叩き割る軌道で振り落とされ―――。
「っ!?」
おぞましい殺気。いや、透明すぎる殺気を感じ、雫はその場から無理矢理に飛び退いた。その瞬間、美由希が反射的に抜き放った小太刀が雫が居た場所を蹂躙していったのだ。
もしも雫が小太刀を振り落としていたら、間違いなくあの一撃をかわすことは出来なかった筈だ。
まだ戦う気力があったのかと、半ば感心して美由希を窺ってみるが―――意識を失ったのか音をたてて地面に倒れる。
暫く待っても、起き上がることもなく、やがて美由希の姿は徐々にぼやけ消えていった。
残されたのは御神雫唯一人。小太刀を鞘に納め、右手に視線を這わせる。
鋭い痛みが右腕に響いている。良く見れば、ほんの僅かであれど、確かに小太刀の傷跡が残されていたのだ。
「―――心が負けを認めていても、体がそれを拒否しおったのか」
無意識にでも身体が戦いを継続するまで刷り込まれた技術。
一体どれほどの時間を鍛錬に費やせばそこまでの域に達せられるのか。未だ十五、六程度の小娘が到達して良い領域ではない。
それに決して心が弱いというわけではない。
いや―――。
「あやつ、化け物かよ」
雫の頬を冷たい汗が一筋流れた。
背中が戦慄で粟立つ。あの、高町美由希の眼光にぶるりと身体が震えた。
今回の戦いで雫が美由紀希を殺した回数は合計十八回。つまり十八度の死を美由希は体感していたのだ。
「十八度も殺されて、ようやく諦めおった」
美由希がこの世界に来たのは今回が初めて。そう、初めてだったのだ。
御神琴絵も、過去のそれ以外の雫の宿り主も―――二十を迎えてようやく【ここ】に来るに値する存在となった者ばかりだった。
そして【ここ】で雫と刀を交え、早い者ではたった一度の死で負けを認める者もいた。
根性を見せたものでも、精々数度。御神琴絵でさえも、八度の死を迎えた頃には限界を迎えていた筈だ。それなのに、美由希は十八度の死に耐え切ってみせた。
「―――成る程。不破の子倅が、己の武への探求を抑えてでも、育て上げようという気持ちが理解できるのぅ」
あれは果たして天才か。あれは果たして鬼才か。あれは果たして異才か。
「高町美由希。我が全身全霊を持って鍛え上げて見せようぞ。お前こそが御神の剣神を継ぐ者となれ―――」
―――それとも御神雫をも凌駕する、狂才なのか。
一人残された雫は、玩具を得た子供のように、楽しそうに歌を口ずさみながら日本家屋へと消えていった。
「っ―――」
深い闇の底から美由希の意識が浮上する。
パチリと開いた眼が捉えたのは、普段から見知った天井だった。窓からは太陽の光が差し込んできている。
高町家の、自分の部屋で―――慌てて布団から飛び起きる。バックンバックンと激しく胸を叩く心臓が痛い。
それを沈めようと、胸に手を当てて何度も呼吸を繰り返す。
落ち着いて今の自分の状況を考えようとする美由希は、先程までの出来事を思い出す。
御神雫との死闘。いや、相手からしてみれば死闘でもなんでもない。ただの戯れだったのかもしれない。それほどまでに差があった戦いだったのだから。
ぎりっと何かが軋む音がした。それは自然ときつく握り締めていた拳。敗北を認めてしまった不甲斐ない己に対しての、際限なく感じる怒り。
高町恭也を、師を汚してしまったのだ。それがとてつもなく許せない。
「―――ごめん、恭ちゃん。私は―――弱い」
呟いて気づいた。
何かを忘れていると。何かとても大切なことを忘れてしまっていると。
それが何なのか思い出せず首を捻るのだが、どうしても思い出せずに気持ちが悪い感覚が湧き上がってくる。
そして枕元に置いてある置き時計を見て―――朝七時を表示しているのを確認して固まった。
慌てて起きて時計を握り締める。
ガクガクと震えながら何度も時間を見返しているが、朝七時というのは変わらない。
いや、七時一分になったことだけは、変化したことであった。
「た、鍛錬―――寝過ごしたぁぁあああああああ!!」
昨日の夜の鍛錬は恭也は休みにしてくれたが、今朝の鍛錬までは休みにするとは言っていなかった。
普段だったならば朝五時よりもはやく眼を覚まし準備をしている。七時といえばもうすぐ御飯の時間ではないか。
夢の中で雫と殺しあっていたという良いわけなど通用するはずもない。
兎に角、パジャマのまま部屋を飛び出して―――。
「朝っぱらから奇声をあげるな。流石に近所迷惑だ」
「きょ、きょ、きょーちゃん!?」
―――飛び出した廊下で恭也に激突しそうになった。
丁度恭也も部屋から出てきたところだったのか、出会いがしらで激突する寸前に彼は美由希の額を手で掴んで止めていた。
抱きとめるのではなく、手で鷲掴みにして止められたことが美由希は少しだけ悲しかった。
「あ、あの恭ちゃん、今朝は―――」
「ああ、気にするな。理由はわかっている」
「―――へ?」
先手を打った恭也の返答に、美由希は間の抜けた表情となる。
普段だったならば徹込みのデコピンを叩き込まれていたはずなのに、恭也の視線は妙に優しい。
「―――あまり無理はするなよ」
ぽんっと肩に手が置かれる。じわっとした暖かさが掌を通じて身体全体に広がっていく。
不思議な熱が冷たくなっていた心を、中からゆっくりと暖めてくれる。
―――ああ、この人は。兄は、師範代は分かってくれてるんだ。
言葉少ない恭也ではあるが、心は伝わってくる。
普段は色々と悪戯を仕掛けてくる兄ではあるが、辛い時や苦しい時は助けてくれる。どんな時も見守っていてくれるのだ。
自然と涙が溢れそうになるが、兄の前でそんな無様は見せられない。
唇を噛み締めて、笑顔で頷いた。言葉には出せなかった―――もし、返事をしたら涙が止められなくなってしまうのがわかっているから。
恭也の顔を見上げて初めて気づくことがあった。
昨日は天守翔のことを考えていたがために気づかなかったのだろうか、恭也の頬に一筋の切り傷があったのだ。
既に塞がっているようで、深い傷ではないようだが、まさか恭也がどこかで引っ掛けるといったドジをやらかすはずがない。
じっと見つめてくる美由希に気づいたのか、恭也が自分の頬の傷を手でなぞり、ああっと声をあげる。
「これが気になるのか?たいした怪我ではないから心配するな」
「で、でも……」
「なに……猫に、いや違うか。熊に引っ掻かれただけだ」
「い、いや熊に引っ掻かれたら死んじゃうよ!?」
恭也の爆弾発言に美由希が思わず突っ込みを入れる。
本来ならば熊に引っ掻かれるとか嘘も良いとこだろうが、何せ相手が相手だ。熊を素手で殴り殺す男。熊殺しであり熊喰らいの御神流師範代。下手に嘘とは言い難い。
「熊―――いや、虎だったかもしれん」
「いやいやいや!!虎のほうがもっとないよ!!日本のどこに虎がいるの!?」
「動物園にいるぞ?」
「動物園とか!?そこは普通例外でしょ!!野生の虎のことだから!!」
「いや。日本に野生の虎なんかいるわけないだろう。何を言い出すんだ、美由希?」
「ぅ、ぅぅ―――何時もの兄になっちゃった。でもちょっとだけ安心しちゃうよぉ」
普段の意地悪な兄に戻った恭也に悲しくも、少しだけ嬉しい美由希は微妙な気持ちでほっとする。
何せ肝心な時は傍にいてくれるくせに、普段は悪戯を仕掛けてくる大人びていつつ子供っぽい兄に慣れ親しんでしまっているのだから。
そんなことを考えているうちに恭也は階段を下りていこうとして―――何かを思い出したかのように戻ってくる。
うっとなりながら身構える美由希の横を通り過ぎ、なのはの部屋に向かっていた。どうやらなのはを先に起こすことにしたようだ。
なのはの部屋を軽くノックして、入っていく恭也の後姿を見送ると、中から恭也の声が聞こえてくる。
「なのは。もう朝だぞ?早く起きるんだ」
「うにゅぅ。おにーちゃん―――おはよぅ」
「ああ、お早う。さぁ、顔を洗って御飯を食べるぞ」
「う~おにいちゃん……おんぶしてぇ」
「む。今日だけだぞ?」
先程とは別の意味でちょっと涙がでる美由希。
末っ娘のなのはに激甘な高町家長男―――高町恭也。
私ももうちょっと優しくされたいと、先程考えたことをあっさりと否定して美由希はとぼとぼと階段を下りていこうとして―――。
「―――美由希」
「え、うん?」
なのはの部屋から出てきた恭也に呼び止められて足を止めた。
「昼の間に十分でもいい。五分でもいい。睡眠を必ず取っておけ。今夜も―――地獄だぞ?」
「―――はい」
真剣な恭也の物言いに、美由希はしっかりと頷いた。
もっとも、格好良い発言をしてきた恭也は―――彼の背中を満喫している緩みきったなのはを背負ったなんとも締まらない姿をしていたのだけれども。
時計の針がカチリと音をたてて進む。それと時を同じくして、キーンコーンカーンコーンという授業を終了させる鐘の音が校内に響き渡った。
黒板にチョークで教科書を書き写していた先生が、今日は此処までと宣言した途端、昼御飯を買い求める餓鬼の如き勢いで教室を飛び出していく数名の男子生徒。
皆が成長盛りなのだから仕方ないとはいえ、その姿に周囲の女子生徒達の何人かは引いている。
女子生徒達は仲の良いグループで固まり、残っている男子生徒達もどこかへ出かけたり、机を突きあわせたりで様々だ。
「それじゃ、俺達も食堂にいくか、高町。月村さん」
「ふぁーい」
明らかに先程の授業を爆睡していたとわかるトロンとした目で、欠伸をしながら月村忍が赤星に返事をした。
一応は女性らしく、口を手で隠してはいるが、深窓の令嬢にしか見えない忍がやる仕草とは思えない。
最初は赤星も吃驚していたようだが、今ではもう驚きもしない。慣れとは恐ろしいものである。まぁ、赤星としても深窓の令嬢よりは今の月村忍とのほうが友人として付き合いやすいため気にしてはいない。
恭也も軽く身体を捻り、固まっていた身体をほぐしながら立ち上がる。見事なまでに四限目は忍と同じく爆睡してしまっていたためだ。自然と発生した欠伸を噛み殺しながら赤星と忍の後に続こうとして―――。
「どーん!!」
なにやら奇妙な声をあげて廊下から教室へと走って入ってきた小柄な人影が一つ。非常にちっこいスーツ姿の女性―――鬼頭水面だ。
床を蹴りつけながら勢い良く恭也に身体ごとぶつかってくる。その速度はたいしたもので、この教室で狙われたのが恭也以外だったならば誰一人反応できなかっただろう。
恭也も相手からの殺気は特に感じはしなかったので、自分に向かってくる小柄な影を受け止めようとして―――。
ひょいっと身体を横に開き、闘牛士のように水面のタックルをあっさりとかわした。
「にゃ、にゃにゃにゃ―――!?」
先程まで受け止める気だった筈の恭也の突然の気まぐれに驚いたのは当の本人だろう。
スピードを殺しきれずに床に躓きごろごろと音をたてて転がっていき、ガンと鈍い音をたてて壁に激突。それでようやく動きが止まった。
真昼間に起きた意味不明な出来事に、教室に残された生徒達は一瞬固まる。だが、一瞬だけだった。一秒もたてば生徒達は何事もなかったように、各々の食事を、談笑を再開させる。まるで今の凶行がなかったのように。
「さて、行くか二人とも」
「ええ、そうねー」
「……い、良いのか?」
赤星勇吾戦慄。恭也とそれにあっさりと追従する忍に―――そして全てをなかったことにするクラスメイト達に。
この教室で唯一の常識人。いや、恐らくは風芽丘学園で最もまともな青年は、床に転がっている水面を心配そうに窺っていた。
その時廊下からもう一人の少女が頭をひたすらに下げながら入ってくる。
「ぁぁぁぁ。も、もう―――鬼頭先生ぃ。何やってるんですかぁ……」
恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、涙声になっている如月紅葉が、生徒全員に頭を下げながら転がっている水面の襟を掴む。
そしてあろうことか、片手で襟を掴みそのまま床を引き摺りながら教室の外へと連れて行く。床を擦る音と、服で首が絞まり呼吸ができなくなった水面が瀕死の形相になっているが、そんなことは紅葉は気にしない。
扉の外に出ると再度深々とお辞儀をして、ドアを閉める。
「……な、なんだったんだ?」
「恭也―――お腹すいたぁ」
「そうだな。食堂に急ぐか。席がなくなってしまうかもしれん」
「え。なに!?俺の疑問は気にも留められてない!?」
赤星勇吾再度戦慄。
しかし、このまま考えていても仕方ないのは確かで、食堂の席がなくなることの方が大問題なのも明白だ。
結局の所そう判断した赤星も、いまいち納得できていないが食堂にいこうとしたところ―――。
ガラッと扉が開く音が再度聞こえ、床に寝転がっている水面と、頬を赤くしている紅葉が再び扉の向こうに現れた。
「あ、あの―――高町先輩。その、少しだけお時間宜しいでしょうか?お話したいことが―――」
「はい、忍ちゃんバリアー!!」
紅葉の言葉を遮って忍が恭也の前に立つ。両手を広げ、紅葉の視界から恭也の姿を覆い隠す。
先程の水面の凶行と同じく、忍の突飛な行動に、紅葉が固まってしまった。
「え?あ、あの……えっと……」
後ろに隠れる形となった恭也の様子を窺おうと、紅葉が右へ移動するとそれにあわせて忍も移動する。
左に動けば、忍も鏡を見ているように動き、視界を塞ぐ。
そんな行動が数回続き、ちょっと涙目になる紅葉に対して、ふふんっと勝ち誇った顔で立派な胸の双丘を見せ付ける。
それに紅葉は、うっと気圧されたのか二歩後退し、己の胸に両手を当ててみるが悲しいかな、そこには忍を遥かに下回るモノしか存在しなかった。
「うちの―――負けです」
敗北を認めた紅葉はそのまま床に転がっている水面を片手で引き摺りながらその場から去っていく。
それをどや顔で見送っている忍に呆れつつ、恭也はドナドナの音楽を背負って去っていく紅葉の後を追うことにした。
「二人ともまた後でな」
「うん。いってらっしゃい、恭也」
「おう。レンと晶には俺から言っとくから心配しなくていいぞ」
紅葉を邪魔していながら至極あっさりと恭也を見送る忍と晶とレン達にどういう言い訳をするか考える赤星を置いて、恭也は廊下の曲がり角を曲がった紅葉と引き摺られている水面に追いついた。
「すまない。忍が失礼なことをして」
「へ?い、いえそんな!!こちらこそ、鬼頭先生が変なことして申し訳ないです!!」
追いかけてくるとは思っていなかった紅葉が、どもりながら恭也の謝罪を受け入れ、必死になって首を振る。
引き摺っていた水面の襟から手を離しわたわたと慌てた紅葉が―――あっと思う間もなく、重力に逆らえず廊下に頭を叩きつけられた水面が沈黙する。
昼休みで騒がしいはずの廊下が一瞬静まり返った気がしたが、紅葉はどこか遠い目をして似合わないニヒルな笑みを浮かべた。
「あ、あの―――先程もお伝えしたのですが、お話があります。申し訳ありませんが、ついてきて頂けたら……」
「―――あ、ああ。わかった」
水面のことは見なかったことにして、紅葉が先導するように廊下を進んでいった。恭也も敢えて触れずに紅葉の後に続く。
喧騒が徐々にだがおさまっていく。部活動の部室がある棟へと紅葉は向かっていっているようだ。流石に昼休みまで部室に来ている生徒は少ないのか、圧倒的に人の気配が少ない。
多くの部室が連なる一つ。そこの扉を開けて紅葉が恭也を招き入れた。
中はそこまで広くなく、あるのは机と数個の椅子。机の上には幾つかのお菓子が放置してある。部屋の隅には小さい冷蔵庫が置かれていた。
そのうちの一つの椅子を恭也にすすめ、座ったのを確認した紅葉が対面に腰を下ろそうとしたその時―――。
「―――もぉぉぉぉぉぉおおおおみぃぃぃぃぃぃぃいいいいいじぃぃいいいいいいいいいい!!」
小さかった叫び声が少しずつ大きくなってくる。
遠くからその声の主が廊下を駆け、こちらに向かってくるのが嫌でも分かった。
数秒後には部室の扉がガンっと激しく音をたてて開かれ、廊下に放置されていた水面が飛び込んでくる。
「あ、復活したんですね、鬼頭先生。何か飲みます?」
悪気が一欠けらもない笑顔で冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしていた紅葉に、毒気を抜かれた水面は怒りを霧散させるしかなく、恭也の隣の椅子に音をたてて胡坐をかいて座った。
「はい、鬼頭先生はオレンジジュースでしたよね。高町さんは―――緑茶でいいですか?」
「ああ、有難う」
暖かいのはないのですみませんと謝りながらお茶を入れたコップを差し出してくる紅葉は、自分の分とあわせて三人分用意して改めて椅子に腰をおろし、コップに入ったお茶を一口して、ふぅっと幸せそうな息を吐く。
「それで、一体どんな話が?」
「あ、はい。ええっと……鬼頭先生からお話があるようです」
ゴキュゴキュと一気にオレンジジュースを飲み干していた水面が、ぷふぁっと酒を飲んだ後のような反応で空になったコップを机に音をたてて置く。
「ちょっと高町恭也としてではなく―――【不破】恭也さんにお聞きしたいことがあるんですけど」
「―――話せる事なら」
一応は全部は話すことはできないかもしれないということを釘を刺してから、恭也は水面に素直に答えた。
「んーっとですね。実はお聞きしたいことはずばり―――【御神と不破の怨念】って知ってたりしません?」
「御神と不破の、怨念ですか?」
聞き返す恭也の反応を窺いなら水面が続ける。
「はい。実はつい先日のことなんですが、永全不動八門の一つ。風的の分家が一つ潰されました。その分家全員が皆殺しです」
「……」
恭也は特に驚いた様子もみせず、水面の話を聞いていた。
「誰がやったかは今のところ分かっていません。証拠も手がかりも何一つ残されていなかったのですから。でも、手がかり一つないっていうのは可笑しいにも程があると思いませんか?仮にも八門の分家。それなりに腕の立つ者はそこそこはいましたが―――それなのに、彼らは外部と連絡することもできずに皆殺しにされたんです」
空になったコップを両手で弄びながら水面は淡々と続ける。
「あ、訂正です。何一つ証拠はないといいましたが、たった一つだけ現場に残されていました。風的の分家の血で描かれた文字。それが―――」
「御神と不破の怨念、ということですか」
「はい。既に御神と不破の一族は滅びています。残されたのは不破恭也さんと御神美由希さん。私達が把握しているのはたった二人だけです。この犯行声明は、永全不動八門の上層部は、恭也さんの手によってだと考えているものが大多数です」
「……」
恭也は沈黙を保つ。自分とは関係ないと、弁解もしない。
それは例え弁解したところで意味はないからだ。言葉だけで信用させることは出来はしないだろう。
さらには永全不動八門の上層部―――特に当主のさらに上である長老達とは良い関係を保っているとは言い難い。
彼らが恭也の犯行だと考えて、決め付けたとしても仕方ないことだ―――例え恭也が関係なかったとしても。
「弁解、しないんですか?」
「仮に俺がやってないと言ったら貴女達は信じてくれるんですか?」
「え?信じますよ?」
「はい。高町さんがやってないと言ったらやってないでしょうし」
「……え?」
恭也にしては珍しく間の抜けた声が口から漏れた。
水面も紅葉も、何を言ってるんだこの人は―――といった表情で恭也を見ている。
二人の発言は揺らぎもなく、嘘もない。二人は真実だけえを告げているのが恭也は嫌でも理解できた。
「ええ、まぁ、俺はそれには関わっていませんが……」
「ですよねー。幾らなんでも自分達の名前をでかでかと現場に残していく犯人なんて普通いないですし」
けらけらと笑いながら水面は背筋を伸ばした。
恭也の犯行ではないとわかった紅葉も張り詰めていた緊張の糸がとけたのか、安堵のため息をつく。
「色々考えてみたんですけどねぇ、犯人については。とりあえず御神と不破の名前を知っているということは間違いなく【こちら】側の人間です。パターンAとしてはそれは外部からの敵。私達永全不動八門と恭也さんを戦わせて戦力の消耗を狙う。そして後に漁夫の利を得る。パターンBとしては―――」
「―――永全不動八門内部の犯行」
「はい、その通りです」
恭也の可能性の発言に、一瞬吃驚する紅葉と、あっさりとそれを認める水面。
「紅葉は気づいてなかったの?可能性としてはこっちの方が高いと私は踏んでるんだけどねぇ。何せ今代の永全不動八門の戦力は拮抗している。そこで、御神と不破と戦争を起こし―――その均衡を破壊する。戦いが起こると分かっていれば戦力を疲弊せずに後の時のために温存することもできるしさー」
ギラリと不穏な目つきとなった水面が、天井を見上げ口元をゆがめた。
「はっきり言って恭也さんの存在を知っている人間は限られています。戸籍上は【死んで】いますしね。御神と不破の生き残りがいるなんて情報は裏の世界にも回ってません。外部の犯行というのは限りなく低い。恭也さんの身近な人物が裏切ったなんてことはありえないでしょうし。となれば、パターンAの可能性は潰れちゃうんですよねぇ」
「ぅぅ。身内の犯行に高町さんを巻き込んでしまったようで本当に申し訳ありません」
水面の推理に、紅葉がへこへこと頭を下げてくる。
頭を下げる紅葉を尻目に、コップを持ち上げくるくると人差し指の先で器用に回す。
ですが―――と、水面は続ける。
「気になることがあるんですよ。上層部の連中はやけに恐れているんです。脅えているんです。永全不動八門の長老達ともあろう方々が、御神と不破の怨念という言葉を耳にしてから。恭也さんに対して異常なまでの恐怖を抱いているんです」
それが分からないんですよねーと水面は締めくくろうとして、ふと何を思いついた表情でぽんっと手を叩く。
「―――三年前、何があったんですか?」
そして直球に疑問をぶつけてきた。
その答えに蒼白になった紅葉だったが、対して表情をかえない恭也は席を立ち上がる。
「なに。ただの化け物退治をしただけさ」
「ほほーう。まー、紅葉の様子から見て相当やっばいことがあったみたいですしねぇ。深入りは辞めて置きます」
「―――懸命な判断だ」
席を立った恭也は部室から出ようとして立ち止まり―――。
「ああ。御神と不破の怨念は確かに存在するかもしれない、な」
「―――っえ!?」
「御神と不破の一族を滅ぼしたのは中国の闇組織【龍】。確かに、何度か対立はしたが元々の活動域が異なっている。それなのにある日突然爆弾を仕掛けてくるとは―――これは可笑しいと思わないか?」
「……え、でも。いや、確かに……」
突然の恭也の発言に場が凍っていく。
そして、それに妙に納得してしまう。水面が調べた限り十数年前に起きた御神と不破崩壊の事件には確かに不審な点はいくつもあった。恭也の言ったとおり、中国を本拠地としている組織が態々日本の一族を滅ぼしにかかるだろうか、と。
成功したのならまだいい。だが、失敗した時のリスクが高すぎやしないか、と。
御神と不破の一族は異常だ。異様で異質な殺戮一族だ。敵に回したならば、存在の全てを抹消される。
圧倒的な武力で。不可視の如き隠密性で。一騎当千の力を持つ剣士達の戦力で。
飛び抜けすぎたヒトという名の化け物達。それが御神と不破の一族だった。永全不動八門で最強の名を欲しいままにした。
自分だったならばどうするだろうか。もし仮に自分が【龍】の立場だったら―――。
「あ、ああ……ああ―――ま、さか……」
これ以上ないほどに高めた集中力が、ある一つの答えを導き出す。
今まで考えないようにしていたある事実。あるわけがないと、敢えて考えないようにしていたある事実。
「【龍】、はただでは動かない。でも、どこかの【誰】かに依頼されたならば―――」
冷たい恭也の言葉が鋭利な刃となって心の蔵を抉る。言われなくても気づいてしまっていた。優れた水面の思考力が恐ろしい結果に辿り着く。
それが真実とは限らない。それでも、これは、この考えは―――今まで考えていたどの可能性よりも、高い。
ガクガクと水面の身体が震える。とんでもない可能性に気づいてしまったがために。
恐怖に染まった視線で扉から出て行こうとする恭也の反応を窺っていた。
「―――【御神と不破の怨念】は、【ある】かもしれないな」
その一言だけを残し―――高町恭也はその場から立ち去っていった。
-----atogaki-------
時を遡ること数百年以上前。
茨木童子>酒呑。そろそろ私達以外にも幹部を指定したらどうです?
鬼童丸>あ、それはいいですね。現場で他の鬼を指揮する人材が欲しいと思ってたんです。
酒呑童子>あー?めんどくせーなぁ。
茨木童子>そんなこと言わずに決めてくださいです。
酒呑童子>しゃーねぇなぁ。とりあえずつえー順番でいいだろ。
鬼童丸>でしたら、虎熊童子と金熊童子は確定ですね。もうちょっと欲しいんですけど……。
茨木童子>それなら熊童子もいれたらいいですよ。あの子最近力をつけてきてますです。
酒呑童子>んじゃ、その三人でいいよな。
鬼童丸>三人って何か語呂が悪いんですよね。もう一人加えませんか?
茨木童子>むぅ。他は結構などんぐりの背比べです。
酒呑童子>あー、ほら。あいつ。長いこと生きてる奴いただろ?確か星熊童子とかいったな。もうそいつでいいわ。
鬼童丸>そんな適当に決めていいんですか?
酒呑童子>はい決定。もう確定だからな。とりあえずそいつらのこと四鬼とよぶようにしとけ。
茨木童子>どうなっても知らないですよ。
といった取り決めがあったとかなかったとか。