夜というには少し早い時間帯。空に浮かぶ太陽が沈みかけ、橙色の夕陽が海鳴の街へと注がれる。
部活動がない学生達が下校しているらしく、商店街は多くの人が見受けられた。学生達だけということはなく、今夜の夜御飯の材料を捜し求め、数多くの主婦も足早に各々の行き付けとしている店へと向かっていた。
そんな主婦達に紛れて、一人小柄な人物が人波を容易く潜り抜けて、自分の目的の商品がある店舗へと辿り着く。
その人物は鳳蓮飛。他の学生と同じく学校帰りのようで、海鳴中央の制服に身を包んでいた。
高町家のメイン料理人としてのプライドを持つ彼女は、少しでも安く少しでも質の良い食材を買うことに命を賭けている。多くの店舗を回り、自分の目で値段と質を確かめ、購入するのだから時間は当然かかってしまう。
中学一年生ともなれば友人と遊んだり、自分の趣味に時間を費やしたいと思うのが当然であろう。
だが、レンは違う。高町家に居候している身―――ということは関係ない。
お世話になっている桃子や、高町家の全員のためを思えば多少の苦労は全く気にもならない。
ましてや、尊敬し、敬愛する師匠に手料理を振舞えるということは、レンにとっては苦労どころか逆にご褒美でもあるのだから。
今朝ポストに届けられていた複数枚のチラシは既に学校でチェック済みだ。
どの店舗でどの商品が特売されているのか、頭の中に叩き込んでいる。商店街のどのルートでいけば無駄なく、はやく回れるのかは想定済みだ。
学校の休み時間にそんなことをチェックしているのだから、レンの友人達は微妙に呆れはしている。まるで主婦のようだと、もはや何度言われたことだろうか。
勿論レンは広告にだけ頼っているというわけではない。
各店舗の商品の相場は全て記憶してあり、それよりも安い商品があればそれを購買する。広告以外にも、それにのっていない特売商品というものは稀に存在する。
店舗のすべての商品を見回る時間は流石にないので、すれ違う主婦達が持っている袋を気がつかれないようにチェックしていたのだ。
広告にのっている商品以外で多くの主婦達が購買していれば、それは特売商品である可能性は高い。
頭のなかで今夜の晩御飯のメニューは決定しており、それに使用できる物であれば、購入を検討する。
まさに主婦の鑑。鳳蓮飛―――十三歳。現在中学一年生。
一時間以上も買い物に時間をかけたレンだったが、ようやく今夜の食材が揃ったようで、ほくほくの笑顔で商店街から高町家へと帰路につく。
考えていたよりも大分節約できたので、思わず鼻歌を歌ってしまう。
買い物する前は夕陽が眩しかったが、現在は既に陽が落ちかけて―――街路の電灯がつきはじめていた。
「はよう帰らなあかんなー」
一人ごちたレンは両手にもった買い物袋をきつく握り締め、少し早歩きとなった。
高町家まで十数分程度で帰る事ができる距離なのだが―――レンは、はぁっと項垂れて足を止める。
半眼で後ろに足音もたてずについてきていたストーカー、もとい葛葉弘之を睨みつけた。
「なんや。うち今から晩御飯の用意で忙しいやけど……」
「―――時間は取らせねえよ。ちょっとツラ貸してくれねえか?」
「……いやや、ってゆーても無駄やろうなぁ」
「よくわかってんじゃねーか」
獰猛に笑った葛葉とは対照的に、レンの顔色はすぐれない。
屋上で出会って以来、やけに視線を感じると思っていたが、特に接触はしてこなかったので放置してはいた相手だ。
それなのによりによって、自分が晩御飯担当の今日―――しかも、こんなギリギリの時間に声をかけてくるとは。
「十分ならええですよ」
「ああ、それで充分だ。ついてこい。良い場所がある」
薄暗い横道にはいり先導する葛葉についていくレンの足取りは重い。
頭の中でどれだけの時間を割けれるのかを組み立てていく。先程自分が言ったように、十分。まさにその程度の時間しか今から使用することができない。
今日は買い物に少し時間をかけすぎたのもあるし、もし晶と共同作業の料理当番の日であったならば、多少は融通が利いた。しかし生憎と今日はさっきも考えたように、レン一人の当番の日だ。
桃子は翠屋で遅くなり、フィアッセは歌のレッスンがあって高町家にはこれない。晶は隣町にある明心館に稽古に行っている―――相変わらず巻島館長にぼっこぼこにされて帰ってくるのだろうけど。なのはには流石に料理を任せれないだろうし、恭也は論外だ。料理ができないということではなく、敬愛する師匠の手を煩わせるわけにはいかないと言う事だ。
そして―――レンは致命的な、あまりにも危険なあることに気づく。
桃子は駄目。フィアッセも駄目。晶も駄目。なのはと恭也も駄目ときて、自分がもしも、晩御飯を作るのが遅れたらどうなるのか―――。
消去法で残されるのは、高町美由希唯一人。
それはまずい。それは危険だ。それは、それだけは―――。
「あかん……下手したら死人がでるかもしれへん」
ぞっとする。もしも、帰るのが遅れたら自分の考えが現実になるであろうことは予想がついた。
十分ではぎりぎりすぎる。間に合わない可能性も出てくる。それでは師匠に合わせる顔がない。
「―――やっぱり五分や。悪いけど、手短にすませるで」
「お、おう……」
鬼気迫るレンの表情に、ちらりと見てきた葛葉の返事が上擦った。
妙なプレッシャーが背後のレンから噴き出し始め、前を歩く葛葉は気が気ではない。
自然と早歩きというか、競歩のレベルにまで達した葛葉は、すぐに自分の目的の場所へと到達することが出来た。
周囲は空き家に囲われた、雑草が生えている空き地。昔の空き地を思わせるように、隅っこには土管が三個ほど並べておいてある。
葛葉は土管まで歩いて行くと、穴の中から細長い袋を取り出す。しゅるっと縛っていた紐を外し、中にはいっていた槍を取り出す。槍といっても真剣というわけではない。穂先は丸い布で覆われ、槍というよりむしろ長い杖と言ってもいいかもしれない。
「細かい説明はいるか?」
「できればして欲しいんやけど……時間もないしええですわ」
「くっ……やっぱ面白い奴だな、お前」
突然武器を向けられたというのに、レンは慌てるでもなく脅えるでもなく、両手に持っていた買い物袋を邪魔にならない場所へと置いて肩を回す。
普通の人間ならば、葛葉の頭がおかしいのではないかと疑うかもしれないのだろうが、レンはなんとなく分かっていた。
この前屋上であった時に一目で気づいた。この男は―――武【に】狂っていると。
力を得るためならば。武の頂に立つためならば。強くなるためならば。
この男は全てを無視する。感情も、事情も、法律も―――葛葉弘之を止めることはできない。
止めることができるとするならばそれは、葛葉弘之の武を上回る、さらに凶悪な武のみ。
「―――うちが目をつけられたのは不幸中の幸いやったなぁ」
両足を開き、左手を前に出し、右手を胸の前当たりでピタリと止める。
葛葉の槍もまた、空中で僅かな揺れもなく静止し、レンを牽制するかのように向けられていた。
「晶やったら【今】は勝てへん手練れやったわ」
まるで自分だったならば勝てると聞こえる物言いにも葛葉は反応しない。
それもそのはず、槍を構えている葛葉は今―――。
―――なんだ、こいつは!?
驚愕。戦慄。驚嘆。
槍を揺れずに構えるだけで精一杯であったのだ。先日屋上で見たときに確かに凄まじい才だと一目でわかった。
レン以上の才能あるものなど、天守翼や黄金世代と謳われる永全不動八門の天才達くらいだろうと。
だからこそ戦いと思った。不破恭也に破れて以来鍛え続けてきた己の武がどこまでの高みに達したのか。それを鳳蓮飛という小さな天才にぶつけて確かめたかった。
寝食する時間さえも惜しんで練り上げられた努力が、才能を覆すということを証明するために、葛葉弘之という男は修行に明け暮れたのだ。
この前の屋上で向かい合った時、強いとは分かっていた。だがそれでも、戦えば勝てると思っていた。葛葉の知覚できる限り、僅かに自分の方が勝っていると、確信できたはずだった。
それなのに、今此処でこうして対面している時に感じ取れるのは―――葛葉弘之を遥かに凌駕する実力の高み。
実力を隠していたのか、と疑う葛葉だったが、自嘲気味な笑みを浮かべた。
そんなわけはない。その程度を感じ取れないはずがない。ならば答えは一つしかない。
鳳蓮飛は、僅か数日で―――己の力量を跳ね上げた。葛葉弘之との実力を逆転させた。その小さな身体に眠る際限なき、武の才で。
「くっ……ははは。黄金世代なんてレベルじゃねぇ。器じゃねぇ。あらゆる凡人も、秀才も、天才も置き去りにしちまう―――【次元】が違う孤高の神才かよ」
もはや呆れることしかできはしまい。己が実力を確かめるなどとはおこがましいにもほどがあった。
手合わせ願おうとした相手はなんということもない。将来的には不破恭也にも比肩する頂に立つであろう、怪物であった。
だからといって戦いを諦めることはしない。己が手に届かぬ所に行ってしまったのならば、届けて見せよう我が槍で。
ズズっと音をたてて地面を踏みしめていた足がめり込んでいく。
大地にめり込むほどに力強く、葛葉弘之は集中力を高めていった。全力。全開。この戦いの後に僅かな余力も残さなくて良い。
そんな力を残すくらいなら、今全てをかける。噛み締めていた奥歯がバキっと小さな音をたてる。
対するレンもまた葛葉に驚嘆する。
レンの小柄な体を見て、武に優れていると考える相手はそうはいない。それに付け加えて、細い腕と足。外見だけを見て侮られることは数多い。
だが葛葉は違った。初見に会ったときにその力を見抜かれ、現在も決死の覚悟を向けてくる。
自分が上だと思っていたら、ここまでの気配は放てまい。相手を格上と認め、己の全盛をかけて向かい合ってきている。
たかが中学一年生を相手に、しかも無手の少女を前にして、葛葉弘之は全てをかけようとしていた。
―――これは【無傷】ではすまへんかもなぁ。
緊張で口の中が乾いていく。唾液もでてこないほどに戦いで緊張したのは初めてかもしれない。
師の高町恭也は別格として、良きライバルである城島晶でもここまでの緊張感は望めないだろう。
【戦う】ということを楽しいと思ったことは一度もない。有り余り、溢れ続ける武才を持ちながら、鳳蓮飛は平穏を望んでいる。高町家で過ごす日常生活が永遠に続けば良いと、心からそう思っている。
だが、しかし―――。
―――なんや。ちょっとうちワクワクしとるかもしれへん。
自然と口角が釣りあがる。これから起こるであろう戦いを脳裏に描いて。
葛葉の目に見えるほどに高まりきった、レンの戦意に彼もまた息を呑む。
広範囲に渡って膨れ上がるのでもなく、立ち昇るのでもなく、鳳蓮飛という小さな身体に凝縮され、濃縮された闘気ともいうべき不可視の重圧が葛葉をその場に縛り付けた。
「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
己を鼓舞するように葛葉が吼えた。
レンが放っていた重圧を撥ね退け、雷光が地面を駆け抜ける。
晶とは全く違った音速の域。超疾走から突き出された槍は、これ以上ないほどに美しく、見惚れる軌跡で、レンの腹部を貫いた。
勝ったとは思わない。貫いたとは思わない。自分の一撃が鳳蓮飛を上回ったとは思わない。
何故ならば、自分の手に残っているのは何の感触もない―――空気をからぶったモノだけだったのだから。
槍が貫いているレンの姿が消え失せる。これは残像だったのだと葛葉は消える前から気づいていた。
葛葉の視界には彼女の姿は見られない。一体どこに行ったのか、と考えることはなかった。極限の集中力がレンの居場所を伝えてきたのだ。丁度葛葉の左背後となる空中に軽く跳躍して、レンはいた。
右足がしなる鞭となって振り下ろされる。葛葉に避ける事さえもさせずに、足の甲が彼の後頭部に叩きつけられた。
視界に火花が散った。後頭部の衝撃は凄まじく、意識が飛ぶ寸前で必死になって堪える。
耐えろ、耐えろ、耐えろと己に言い聞かす葛葉を嘲るように、振り下ろした右足の力を利用し、回転。
空中での後ろ回し蹴りへと変化させ、今度は左踵が叩き込まれる。後頭部への二連撃。下手をしたら死ぬこともあるだろう攻撃を受けてなお、葛葉は意識をとばさなかった。
地面に倒れるかと思われた瞬間、片足を前に出し、両足を使って踏みとどまる。
「っぅぁあああああああああああああああ!!」
未だ空中にいるレンに向かって最後の力を振り絞り、槍を振り回す。
円を描いて自分へと牙を剥く槍を冷静に見ていたレンは、槍の半ばを片手で掴む。そのまま振り落とされるかと思いきや、恐るべきことにレンは片手で、しかも空中で倒立の姿で静止した。
目を疑い、一瞬動きが止まった葛葉の隙をつき、レンが槍から手を離す。槍を踏み台として倒立状態で跳躍した彼女が前方へと回転し、右踵落しが襲い掛かる。
葛葉は槍から手を離し、それを片手で防ぐ。そして反撃を試みようとしたその時―――。
脳天に響き渡る衝撃。時間差で振り落とされた左踵が、攻撃に移ろうとした葛葉の頭に直撃したのだった。
三度に渡る連撃を喰らい、流石の葛葉も耐え切ることは出来ず、その場に腰が砕けたかのように倒れ、仰向けになって倒れふした。
空中での武の舞いを終えたレンが音もたてずに着地する。痙攣している葛葉を見て、彼女は―――。
「あー。やっぱり【無傷】では終わらせれへんかったかぁ」
そう呟いた。
戦いの前に考えていたこと。無傷では済まない。それは自分のことではなく、今から戦う相手の心配だったのだ。
相手を侮っていたというわけではない。レンは自分の武で誰かを傷つけることは好まない。だからこそ、全力を持って戦い相手を無傷で掌握する。それを基本的には心がけていたのだが―――。
「あかん。おにーさん強すぎやん。無傷で勝とうなんて甘い考えで戦えへんかった。許してなー」
「は、はははは―――かい、ぶつめ」
「お、ぉぉ?意識あったん?」
意識がないと思っての謝罪に、返事が返ってきたことに一瞬驚く。
先程の三連撃をまともに受けて意識が飛んでいないとは夢にも思っていなかった。
直撃を避けて、衝撃を逃すように身体を動かしていたのかもしれないと、最後の踵落しに感じた違和感に気がつく。
意識があろうがなかろうが、もはや戦うことは出来ないのは明白であったが。
「救急車よんどきましょうかー?」
「いや、いらねーよ……ちょっと、休んだら、多分大丈夫、だ」
「それじゃあ、うちは行かさせてもらいますー」
隅に置いておいた買い物袋を持ち上げると、倒れている葛葉に向かってお辞儀をする。
葛葉を背に空き地から歩み去っていったレンは携帯電話の時間を確認してみると、費やした時間は―――。
「ん―――ジャスト五分やな」
そう言い残して鳳蓮飛は消えて行く。圧倒的な才能を見せつけ、人智を超えた才能を見せつけ。葛葉を凌駕した。
確かに葛葉は武【に】狂っていた。全てを捨ててでも、辿り着こうとしていた世界があった。
一方、レンはというと―――。
―――武【が】狂っていた。
武に狂おうとしていた葛葉弘之と武が狂っていた鳳蓮飛。
二人の戦いは、この一時はレンへと傾き、戦いは決着となったのだ。
残されたのは地面に倒れている葛葉唯一人。
あたりはすでに真っ暗で、遠くから見たら誰かが倒れているということは気づかれないだろう。
下手に救急車など呼ばれたらたまったものではない。この時間で逆に助かったと葛葉は傷む後頭部に吐き気を催しながら、夜空を見上げた状態で寝転がり続けていた。
数分もの時間が流れ、ようやく頭痛が治まってきた。上半身を起こし、蹴られた後頭部を片手でさする。
「あー、いてぇ。くっそ……禿げちまったら、恨むぜ」
独り言が空気に溶けて消える。
ここ数ヶ月の鍛錬は、これまでの人生のなかで最も厳しく、最も辛いものであったと自負できよう。
それをあっさりと一蹴された。お前の努力など無駄だと。才能は超えられないのだと。鳳蓮飛の才能は、考えていたとおり次元が違っていた。
「―――無駄か。無駄だったのか、俺の時間は。俺の人生は―――」
夜空が霞む。波打つように、視界がぼやけてくる。
これまで一度として流したことはない涙が零れおちそうになり―――。
「はっ……知ったことかよ!!」
零れる前に唇を噛み締める。
確かにこれまでの鍛錬ではレンには届かなかった。それは決して【無駄】ではない。ただ―――まだ足りなかっただけの話だ。
まだ届かぬのならば、さらに多くの時間を費やそう。
それでも届かぬのならば、それ以上の鍛錬を己に課そう。
「―――努力で、超えて見せてやろうじゃねぇ、か。鳳、蓮飛!!」
「あ、無理ですよ。そういうのを無駄な努力っていうんです」
トスっと静かな音が耳に届いた。
それとともに胸に走る激痛。呆然と見下ろせば、胸から突き出される銀色の切っ先。
血に濡れ、銀の日本刀は真っ赤に染まっていた。
「―――あ?」
つうっと口から赤い血が流れ出る。
何かを話そうとした瞬間、ごぽりっと血塊があふれ飛び散った。
がくがくと身体が寒さで震え、痙攣をはじめる。ぎぎっと壊れた機械のように己を刺し貫いた相手を確認するべく首を捻る。
星々の光が地上に落ち、その光に照らされそこに居たのは若い女性だった。
若いといっても葛葉よりは遥かに年上だ。二十五か六。その程度の推察がつく。長い黒髪だ。天守翼くらいの長さだろうか。少し目尻の下がった切れ長の瞳に、すっきりとした鼻筋。薄桜色の唇が艶かしい。顔立ちから受ける印象は知的で、柔らかい。
己に背後から突き刺しているのは―――日本刀というには少し短い。これは脇差、いや違う。これは【小太刀】だ。
音も残さず小太刀を引き抜くと女性は、小太刀を宙で振るう。刀身についていた血糊が地面にピチャリと飛び散っていく。
小太刀を抜かれた葛葉の腹部からは血が溢れ、足元に血だまりが出来上がっていった。
「な……ん、だ……よ、お前」
途切れ途切れに、必死になって言葉を紡ぐ。
黒髪の女性はそれに驚いたのか、眉尻が少しだけあがった。
「あら。まだ話せられるのですか。凄いですね。流石は葛葉流槍術にその人ありと謳われる槍使い殿」
台詞だけ見れば褒めてはいるのだろうが、女性は明らかに蔑んでいた。目の前の葛葉弘之という男を。
「ぁ、く……そ……」
足に力が入らない。それでも必死になって葛葉は立ち上がった。
眼光鋭く、女性を睨みつける。常人ならば逃げ出すであろうほどに凄惨な視線ではあったが、女性は肩をすくめただけでで終る。
「いやいや、全く。手間が省けました。誰を狙おうかと考えていたところ、まさかこんなラッキーがあるなんて。棚から牡丹餅っていうんですかね。こういう状況のこと」
人を斬ったというのに、女性は笑っていた。まるで人を殺すことに慣れているかのようだった。
故に恐ろしい。人を斬ることに何の躊躇いもない、怪物だった。
「折角だから名乗っておきましょうか。私は―――私達は【御神と不破の怨念】。永全不動八門を滅ぼすために残された絶望の一滴」
女性の表情は笑顔だ。
だが、そこには笑顔で隠している、煮えたぎった溶岩の如き憤怒が見え隠れしていた。
「貴方達は私達を裏切りました。だからこれは復讐です。完膚なきまでに、完全に―――永全不動八門の末族に至るまで、一人残さず皆殺しにして差し上げます」
小太刀を空にかざした。光を反射して不気味に輝く。
凄惨な笑顔で、女性は哂っている。狂っている。凶がっている。葛葉の知る限り、誰よりもいかれた剣鬼だった。
―――ああ、死ぬ、な。
輝く白銀の刃を見据えた葛葉はそう理解した。
こんな絶望の状況から逃げ出す方法はありはしない。死は平等だ。誰にでも訪れて、等しくそれを与え続ける。
それが今日この時に、自分に訪れただけのことだった。
―――くっそ。もう一度、お前と戦いたかった。
脳裏に鳳蓮飛の姿が思い描かれた。彼女の武を、才をもう一度見たかった。何度でも手合わせを願いたかった。
そう考えて―――葛葉は血の味に支配された口の中で、再び歯を食いしばる。
最後に残された力を振り絞り、地面を蹴りつけた。逃げるためではない―――戦うために。
普段の葛葉の全速には程遠いスピードで迫ってくる姿を、きょとんっとした表情で眺める女性。
もはや技もなにもない、ただの体当たり。肩からぶつかっていく葛葉にため息一つ。当たるはずもなく、その体当たりを避ける。
避けられた葛葉は、足元に転がっていた石に躓き転がった。
何度も咳を繰り返し、吐血が地面をさらに濡らす。そんな姿を見ていた女性だったが、一切の哀れみを見せることはなく―――。
「っぎぃいぃぃぃいいいぁああああああああ!!」
葛葉の痛みを抑え切れない声が、迸る。地面に置かれていた手の甲を小太刀で突き刺し、縫い付ける状態と化した。
小太刀を引き抜き、痛みに悶える葛葉を確認して―――微笑んでいる。
恍惚とした表情で、これ以上ないほどに幸福そうに。
「勝ち目も助かる目もないというのに、よく頑張りますね。それほどの意思を風的の一族も見せて欲しかったです」
地面に蹲っている葛葉が、必死になって立ち上がろうとする。
それを忌々しい視線で貫くと、鋭い呼気とともに打ち出された前蹴りが、葛葉の頬を捉え吹き飛ばす。
「そうすれば―――もっと!!もっともっと!!もっともっともっと!!楽しめたというのに!!」
女性は狂っている。狂いすぎている。人には理解できないほどに、狂いきっていた。
「さあぁ!!さぁぁあ!!もっと、もっと苦痛の声をあげてください!!もっと、絶望の表情を見せてください!!それが、それだけが―――私達の怒りを、憎しみを、やわらげてくれるのですから!!」
小太刀を振るう。鋭利な痛みが葛葉の全身を襲う。
致命傷とは言えない小さな傷を幾つも、幾十も作っていく。薄皮一枚を斬る程度に抑えた斬撃を繰り返す。
「―――く、そ。ふ、ざ、けんな」
何十もの斬撃を受けながら、葛葉は立ち上がった。
ふらふらと揺らぎながらも、決死の覚悟で、大地に立ち尽くす。
「気に喰わないですね。その眼―――なぜそんな眼ができるのですか?」
感じる狂気はそのままに、女性は訝しげに首を捻る。
ここまで瀕死の状況にされてなお、命乞いの一つもしない相手を彼女は知らなかった。
先日仲間とともに潰した風的の分家の連中も結局は皆が最後には命乞いをしたというのに。助かるために同胞の命をも捧げようとした救いがたい人間達だったというのに。
「―――俺が、負けたのは、てめぇ、じゃねえ。俺が負けたのは、負けを認めたのは!!鳳、蓮飛だっ!!ここで、てめぇに殺されるって、ことは!!あいつとの、勝負を汚すって、ことだ!!」
ごくりと、喉が何かを飲み干した。
口の中にたまっていた血液を、女性から隠すように、嚥下した。
「腕が、貫かれようが!!足が、動かなかろうが!!例え、武器がなかろうが!!歯一本でも、残っているのなら!!それで、てめぇを、ぶち殺す!!」
「―――興ざめです。つまらない。本当につまらない。もっと脅え、もっと怖れてくれないと意味がないじゃないですか。もういいです。貴方は用済みです」
しゃらんっと金属音が鳴り、遂に二振りの小太刀を引き抜いた。
御神流の本領。全力を持って殺しに来るのだろう。葛葉は立っているので精一杯。どれだけ叫ぼうともはやどうしようもない。
身動き一つ取れない葛葉へと、女性は駆け込んでいく。そして、二振りの小太刀が煌きを残し―――。
「―――いいわ。よく吼えたわね、葛葉。少しだけ、格好よかったわよ」
夜を超越した、漆黒が舞い降りる。
葛葉に止めをさそうとした女性が、慌てて後方へと跳躍した。
ぶるぶると両手の震えがおさまらない。首元に刃を置かれたかのような、死の気配を感じ呼吸が詰まった。
立っている力をなくし、崩れ落ちそうになった葛葉を支えたのは―――彼がかつて目指した最強。
いや、今も目標としている、憧れの女性だった。
「くっ、へ……おせぇんだよ、天守ぃ」
「それは悪かったわね。でも―――それだけの口がきけるなら大丈夫そうね」
永全不動八門一派の天守家の一人。
黄金世代と呼ばれるこの時代において誰からも【最強】と認められる―――剣聖。
神速の領域に住まう者―――天守翼。