トントントンという何かを切る音がリズム良く、高町家のリビングで夕刊を広げていた恭也の耳に届いてくる。
そしてジャーっという油でなにかを炒める音と香ばしい匂い。食欲をかきたてる、音と匂い。
キッチンでは先程帰って来たレンが大急ぎで本日の晩御飯を作っているところだった。
テレビの前のソファーにはなのはと美由希の二人が座り、何やら最近話題になっている魔法少女のアニメを食い入るように見ている。
意外と美由希もこういったアニメは嫌いではない。自分から見るかといわれれば、首を捻ることになるが、末っ娘のなのはにつきあって幅広く見ているときも多い。
だが、楽しんでいるなのはとは打って変わって美由希は時折舟をこいでおり、大きな効果音が鳴るたびにはっとした様子で眼を覚ますのを繰り返していた。
良く見れば、美由希の目の下には隈ができており、寝不足なのは誰が見ても明らかだ。
それを心配したなのはが寝たほうが良いと何度も言っているのだが、笑って首を横に振るっという光景が恭也の前で繰り広げられていた。
夕刊に眼を通しながら、視界の端で美由希の後姿を捉える。
どうやら遥か昔に琴絵に聞いたとおり、御神雫の世界に毎夜訪れているのだろう。
あの時の琴絵も当時はただでさえ病弱の身でありながら、身体が弱っていくようで心配したものだ。
幾ら身体は酷使しないとはいえ、精神の負担は半端ないだろう。
精神世界の出来事とはいえ数え切れないほどに【殺される】のだ。経験したことがない身としては、想像し推し量ることしか今の恭也には出来やしない。
だが、今の美由希の後姿を見て―――口元が緩むのが抑え切れない。
数日前と比べれば別人のようだ。信じられないほどに、美由希の実力は上昇している。
美由希にとって唯一他足りなかった、自分を本気で殺しに来る相手との死合い。試合いではなく死合い。
それを普通では考えられない速度で経験していっている。現実ではこうはいかない。自分ではできなかったことを御神雫はしてくれているのだ。彼女には感謝の言葉を送るだけでは足りないほどに世話になっている。
「―――もうすぐ、成るか」
「んー?何か言った、きょーちゃん?」
「いや、ただの独り言だ」
うとうとと睡魔の世界に足を突っ込みながらも、小さく呟いた恭也の独り言に反応してくる美由希だったが、独り言という返答を聞き、再びテレビへと向き直った。
雫は言う。美由希に足りないものは力だと。速さだと。技術だと。経験だと。
だが、恭也はそうは思ってはいない。確かに御神雫に比べればそれらは拙いことだろう。それでも、恭也が知る限り美由希のそれらは他の達人と比べても遜色はない。
いや、既に達人の領域に達している。もっとも足りなかったのは経験―――それが埋まろうとしている。
力に、速度に、技術に―――経験が追いつこうとしているところだ。これまで積み上げてきた努力が、花開こうとしている。一体どれほどの爆発的な成長をとげるのか楽しみで仕方ない。
やはり笑みが抑えられず、夕刊を広げ他の人間にばれないように覆い隠す。
―――のぼれ、美由希。のぼっていけ、遥かな高みへ。辿り着け、俺達の領域へと。
そんな恭也の思考を遮るが如く、小さな気配が突然庭のほうに現れた。
今の美由希やレンでも感じ取れないほどの微細な気配。恭也にのみ感じ取れるように調整して発しているのだろう。
その目的は明らかで―――邪魔をされずに、話をしたいためなのか、声なき気配が恭也を呼んでいた。
ガサリと夕刊を折り畳むと椅子から立ち上がる。
「お師匠ー。どないしたんです?」
「―――少し、盆栽を見てくる」
「あ、わかりました。御飯できたらお呼びしますねー」
「すまんな。助かる」
不自然にならないように気をつけながら、リビングから出ると廊下を進み―――目的地、中庭に面したガラス戸を開ける。
そこから見えるのは何時も通りで、庭の隅っこには小さな道場。その少し横には数匹の魚影が見える池。壁際には恭也が愛する盆栽たち。何時も通りで―――唯一何時も通りではない二つの人影。
周囲の家の明かり、高町家から漏れる光。月光が降り注ぐ中庭にて、彼女達はいた。
一人は腰のやや曲がった老婆。片手に持った杖を地面につけて立っている。顔には長い歴史を生きてきた証である幾つもの皺が刻まれていた。
一人は女性―――いや、少女だ。歳は美由希と同程度。肩口ほどまでの黒髪で、おかっぱ頭。背中側の腰で、十字に交差する形で二刀を差している。
恭也は縁側に置いてあったサンダルに足を通し、中庭へと降りた。
沈黙が続く。気まずい思いをしているのは若い少女だけのようで、恭也と老婆は互いに見詰め合って―――老婆はくしゃりと可愛らしい笑顔を浮かべた。
「―――お久しぶりですね、恭也様」
「はい。どれくらい振りでしょうか。本当に久しぶりです、咲さん」
咲と呼ばれた老婆は目元に浮かぶ涙を手の甲で拭う。
遠い昔。未だ御神と不破の一族が健在だった頃―――恭也の世話役として供にいた女性。それが【不破】咲。
世話役ではあったが、れっきとした不破の一族。しかも、本家直系という縁深き女性だった。幼い恭也が物心ついたころから世話になっていた、頭のあがらない人物でもある。
「このような夜分のご挨拶となり誠に申し訳ございません。先程この地に辿り着いたばかりでして。明日へとご挨拶は回そうと思いましたが、辛抱できずにやってまいりました」
「いえ。態々来ていただいて、俺も嬉しいですよ」
「―――その言葉だけで、報われる想いです」
ついに涙腺が決壊したのか、止まることのない涙がぽたぽたと音をたてて地面に吸い込まれていく。
咲のそんな姿に慌てたのは隣にいる少女だった。背中をさすりながら、なんとか咲を落ち着かせようとする。
やがて涙も止まり、普段通りの表情となった咲は若干顔を赤らめながらコホンっと咳払いをした。
さて、ここに美由希がいたならば疑問で一杯になったかもしれない。何せ御神と不破の一族は十数年も前に滅び去った。
【龍】の手によって、一族が集まる披露宴にて爆弾を仕掛けられ、壊滅してしまった―――というのが裏の世界に流れる話である。
だが、例外があった。それは当日風邪を引いた美由希と、彼女を病院へとつれていった実の母である御神美沙斗。
さらにはその付き添いで病院へと向かっていた不破士郎。そして、爆弾が仕掛けられた現場にいながら生きながらえていた不破恭也。
その四人だけ―――と、思われていた。
例外が四人だけとは限らなく、確かに当日一族に愛されている御神琴絵の披露宴ということもあり、ほぼ全ての御神と不破の一族が参加していた。そう―――【ほぼ】全ての一族、が。
美由希と同じ様に体調を崩し参加できなかった者。
どうしても外せない仕事が入って出席できなかった者。
たまたま買い物に出かけていた者。
まだ幼く、披露宴に参加出来ずに、咲によって面倒を見られていた者。
多くはなかったが、そういった例外がそれなりの人数が存在していたのだ。
勿論、その幾人かは【龍】の手によって爆破事件後に命を落とすことになった。
最早御神と不破の一族の庇護はなくなり、逆に命を狙われることになった者達は集まり、必死になって自分達の存在を消すのに全力を尽くす。戸籍をけし、全くの別人となって生きながらえてきたのだ。
そして彼らは長年に渡って牙を研ぐ。ただの人間だったならば逃げながらえるだけの鼠と成り果てただろう。
しかし、生き残った彼らは違う。大なり小なり、彼らは受け継いでいた―――殺戮一族の技と意思を。
生き残った人間には、幼い子供も多かった。だからこそ、彼らは機を待った。
幼い子供達が成長し、それなりに戦える力を持てるその時まで。
彼らは【龍】を許さない。彼らは裏切り者を許さない。彼らは敵対する者を許さない。
十数年前に比べれば、圧倒的に戦力となる者達は少ない。
御神の天才と謳われた御神静馬はいない。御神琴絵はいない。不破の天才と謳われた不破美影はいない。不破士郎はいない。不破一臣はいない。不破美沙斗はいない。
だが―――彼らは十数年前の、御神と不破の黄金期を凌駕する。
十数年に渡って泥水を啜り、血肉を喰らい、復讐だけに全てを費やしてきた。
【守る】言葉など知らずに、意味も求めず。殺戮一族としての純度だけを磨き続けてきたのだ。
ただ、殺すことだけを求めた。ただ、奪うことだけを求めた。ただ、滅ぼすことだけを求めた。
守る物も失う物もない彼らは―――復讐することだけを生き甲斐に、地獄より産まれ出でた正真正銘の殺戮集団だった。
「―――紹介が遅れました。この娘、私の孫にあたるものです」
「は、はい!!あ、あの―――不破、四花と申します!!」
緊張しているのだろうか、声が上擦っている。さらには恭也や咲のように相手に聞こえる程度の小声で喋らず、周囲に響き渡る大声での自己紹介。
目元を吊り上げ、叱責しようと口を開こうとした咲より早く、恭也が気を使って言葉を発した。
「ああ、宜しく頼む。俺は―――不破恭也だ」
「は、はい!!存じております!!」
緊張は解けず、ガチガチになって固まっている四花。その理由が何故かわからない恭也は首を捻る。
「孫の四花のご無礼をお許しください。長居してはご迷惑をお掛け致しますので、本題に入らせていただきますが―――」
「……美由希の件、か?」
「―――はい」
苦々しげな表情となった恭也の返答に、咲は真っ直ぐに頷いた。
「我ら御神と不破の怨念―――その当主となる方は、御神美由希様にこそ相応しいと。この世で最早唯一人、御神当主の娘様であられる、美由希様に我らを率いて頂きたいのでございます」
「―――」
涙ながらの訴えに、恭也が返すのは沈黙だ。
突発的な出来事のため理解が追いつかず、返答に窮している―――と、咲と四花は考えていた。
だがその実、恭也の思考していたことは―――。
―――まだ、早すぎる。
今の美由希の力量では。今の美由希の覚悟では。今の美由希の想いでは。
全てが中途半端な結果に終わるだろう。何度考えても最悪な結果にしかならない。
「―――美由希は、まだ本当のことを知りません。俺が教えていないんです」
「そうでございましたか。いえ、それも当然でございますね。まだ美由希様の御歳は十五。真実をお伝えするにはまだ、早いと確かに私も思います」
「―――ッ」
笑顔で恭也の返答に頷いた咲と、その返答に視線を鋭くした四花。
ぎりっと歯を噛み締める音が、静かな中庭に鳴り響く。
「すみません、咲さん。今夜はこのままお引取り願えますか?あいつには―――時が来たら俺から話します」
「わかりました、恭也様。お気になさらずとも大丈夫です。十年以上の年月を待ってきたのです。これから一年や二年程度待つことなど容易いことです」
にこりと笑っている咲は深々と恭也に向かってお辞儀をする。
だが―――。
「―――どうして」
どろっとした黒い汚泥に包まれた、怨嗟があがる。
必死に抑えていた負の感情が、心の防波堤を粉砕した。
「―――どうして!!貴方は!!そんな、そんな、そんな平然としていられるのですか!?」
黙っていた四花の感情が爆発する。
「あいつらは!!私達を裏切った!!私達のすべてを奪った!!地位も名誉も、友も家族も愛する人たちも!!」
豹変した四花の止まることのない叫び声だったが、恭也も咲も全く怯む様子は見られなかった。
「ようやく、ようやく復讐するだけの力を手に入れて!!これからだっていう時に!!時が来たら―――話す!?そんな甘い考えで!!【私達】の当主を務める!?ふざけないで!!」
「―――四花。黙りなさい」
恭也を糾弾する四花に、隣にいる咲の静止の声がかかる。
だが、それでは彼女は止まらない。十年以上も積み上げてきた憎しみが、怒りが、安穏と暮らしていたであろう不破家の同胞へとぶつけられていく。
「貴方だって知っているんでしょう!?それとも知らないんですか!?私達御神と不破を滅ぼしたのは確かに【龍】!!でも、それを依頼したのは―――!!」
「―――四花」
【それ】はなんだったのか。
周囲一帯が闇に塗りつぶされる。空に輝く星々も月も、何かに怖れるように姿を消した。
パチリっと、高町家の電球が音をたてて点滅を繰り返す。我を忘れて叫んでいた四花の糾弾が止まる。自分の意思で止まったわけではなく、真横から噴きあがってきた、あまりに黒い闇に喉を押さえ込まれた。
四花が次に感じたのは、全身に受けた強い衝撃。気がついたときには地面に叩きつけられていた。
足を払われ、片手で頭を地面に叩きつけていたのは、般若の形相の不破咲―――その人である。
「一度の無礼は許そう。だが、この御方への二度目の無礼は―――」
チャキっと金属音が鳴っていた。四花が背中腰に十字差しをしていた小太刀を一つ抜く。
ゆらりと刀身が身動き取れない四花に迫っていき―――。
「―――貴様の死で贖え」
「咲さん。幾らなんでも人の家の庭先での刃傷沙汰はさすがに困ります」
躊躇いなく小太刀を喉元へと振り落としていた咲を止めたのは、流石にまずいと判断した恭也だった。
咄嗟に飛び込み、咲の腕を掴み、振り下ろされるのを間一髪のところで止めることができたのはギリギリも良いところであった。もしも後一歩でも踏み出すのが遅かったならば、高町家の中庭に赤い花が咲いてたことだろう。
己の孫を躊躇いなく殺そうとした老婆は、恭也の台詞を聞き奪っていた孫の小太刀を背の鞘に元通りに納める。
「恭也様へのご無礼、誠に―――誠に申し訳ございません」
地面に頭を擦りつけ、土下座をする形で謝罪をする相手に、恭也は若干慌て、手を取って立たせる。
相変わらずこの人は―――と内心でため息を吐いた。
恭也が赤ん坊の頃からの世話役としてついてくれていた女性ではあったが、彼女の恭也への世話の焼き方は見れば分かるが尋常ではない。何でも昔、祖母でもある美影に命を救ってもらった恩があるらしく、自分から彼女の孫でもある恭也の世話役に立候補したのだとか。
自分の子供や孫よりも、恭也の世話をすることに命をかけ、甲斐甲斐しく働いていた姿は今でも思い出せる。
彼女が生存していたと知ったのはおおよそ数年も昔。日本全国武者修行の旅に出たとき、運命の悪戯か、奇跡か―――ある街で再会した。成長した恭也の姿を一目見て気づいた彼女は、街中で泣き出してしまい、その時は非常に困ったのも今では良い思い出となっている。
恭也としても、まさか自分と美由希―――そして美沙斗以外に生きていた一族の者がいるとは思ってもいなかった。
あの時ほど嬉しかったことも数少ない、予想外な出来事でもあった。
「―――今の気配では恐らく美由希様や他のご家族の方に気づかれてしまったと想像に難しくありません。これにて、私達は失礼させていただきます」
悲痛な表情で、小柄な体を縮こめるように老婆は暇を告げた。
先程まで死の淵にいた少女も、立ち上がり咲の後ろに控えている。その表情に恐れはない。死への恐怖を微塵も見せない。
少女もまた、確実に人としての大切なナニかが壊れた、殺戮一族の一員だった。
「はい。宜しければまた何時でも来て下さい。歓迎します」
「そのお言葉だけで―――」
何度目になるわからない、キラリと目元が光る光景が再度起きる。
歳を取ってから涙脆くなって駄目ですね、と咲が呟くのが聞こえた。
「ところで、海鳴に来たのはお二人だけですか?」
「いいえ。私と四花を除いて他にも四人来ております。皆なかなかの腕前の御神と不破の遺児でございますよ」
「―――誰が、来ているんですか?」
「まだまだ未熟ものの二人ではありますが不破腕と不破撥。そして―――不破和人、不破【一姫】の四人です」
「―――っ、あいつが来ているんですか!?」
「はい。恭也様にご挨拶をしたいと申しておりましたよ」
ほっほっほと笑う咲に、珍しく恭也が冷や汗を流す。
何せ不破一姫とは面識があるのだが、少し苦手な相手なのだ。
黙りこんだ恭也に一礼して、二人は地面から跳躍。塀の上へと着地する。その時、キラリと咲の首元で何かが光り輝く。
良く見てみれば、なにやら奇妙な色の宝石だった。恭也が知っている限りのどの宝石とも異なる不吉な色合いをしていた。
恭也の視線に気づいたのだろうか、己が首にかけていたペンダントの宝石を一撫で。
「これが気になりますかな?どれくらい前になるでしょうか―――美しい外国の方から頂いたのです。持っていれば、願いを叶えてくれる宝石だと」
「そう、ですか……」
答えが詰まる。理由はない。理屈でもない。
ただ、彼女の首元で光るその宝石が―――とてつもなく、気に入らない。
「ええ。それでは、恭也様。美由希様の件を宜しくお願いします。もし、もしも美由希様が我らの長になっていただけなかったならその時は―――」
「【分かって】います。その時は―――」
「お願いいたします。それでは、我らは今一度闇にもぐりましょう。いずれ来るその時をお待ちしておりますぞ」
タンっと塀を蹴る音が聞こえ二人の影が高町家から消えていく。
残された恭也は、屋根伝いに走っていく二人の人影を見送り、重いため息をついた。
最近の自分の身に起きる出来事に呆れることしかできない。永全不動八門の者達がでてきたり、北斗との再会。自動人形と初めて戦闘。水無月殺音との死闘。そして、四鬼の一体虎熊童子。今夜に至っては、御神と不破の怨念と来たものだ。
全く退屈しない数ヶ月だったと、自嘲気味に口元を歪めた。
それにしても、と恭也は先程の咲の気配を思い出す。
流石は不破美影の懐刀と呼ばれた女性。その気配は暗く―――【重い】。
御神と不破の怨念を創り上げた、憎悪の原動。恨み、憎み、悔やみ―――彼女が、生き残った者達を殺戮集団へと育て上げた。まだ物心ついていなかった遺児達を、殺すことだけに特化した最凶最悪の剣士達へと成長させた。
「―――美由希の完成を、急がなければならないか」
どこか覚悟を決めた様子の恭也の呟きは静かに、夜の空気へと消えていく。
彼の視線は寂しげに―――何時までも見えなくなった咲の後ろ姿を見つめていた。
高町家で恭也と咲が邂逅していたほぼ同時間―――そこから少し離れた空き地にて、三つの人影が向かい合っていた。
地面に座り込んでいる葛葉弘之。その前に刀も抜かずに立っている少女―――天守翼。
その二人とは幾分かの距離を取って二人を、いや、翼を睨みつけている女性。
「は、ははははは。まさか、貴女みたいな大物に会えるなんて幸運ですよ。永全不動八門最強―――天守の凶つ刃よ」
女性は震える声を押し殺し、不敵な笑みで翼に語りかける。
葛葉をいたぶっていた時の余裕はなりを潜め、急激に漂い始めた死の香りに、口内が乾燥していく。
永全不動八門を滅ぼすために、彼らへの情報収集は怠っていない。
現在の八門は黄金世代と呼ばれる怪物たちが存在するのは調べがついている。各々の流派において歴代最強の名を冠す猛者たちだ。
負けるとは思っていなかったがどれほどの力量の持ち主なのか気になる存在ではあったが、その中でも噂に名高いのが―――天守翼という人間だった。
永全不動八門の誰もが認める最強。黄金世代と呼ばれる怪物達を赤子を捻るが如く、歯牙にもかけない超戦闘力。
女性とて話半分程度には聞いていたのだが、いざ目の前にして感じ取れるのは―――。
―――私じゃ、勝てませんねぇ。
翼の力量を観察し、解読し、己の力と比較する。その結果は、圧倒的な敗北。どう戦っても勝ち目のない戦い。
噂に聞いていた実力を遥かに上回る存在だったのだ。
そんな翼だったが、女性の発言にきょとんっとした様子で、蔑んだ邪悪な笑みを浮かべる。
「私が、【最強】?面白い冗談ね。私程度が最強を名乗るなんて、恥ずかしいにも程があるわ」
「……それは、どういう意味かしら」
どくんっと女性の鼓動が強まっていく。
翼の予想外の発言に、さらに緊張感が増していった。
今まで仕入れた情報により、天守翼が間違いなく永全不動八門最強の剣士だということは明らかになっている。
実際会ってみてそれを確信。更には、予想していたよりも遥かに強いことも理解した。
翼を最強と考えて、御神と不破の怨念達は行動を起こしているのだから、もし翼よりも強いものがいるならば、計画を大幅に変更しなくてはならない。
「あら、御神と不破の怨念と名乗っておきながら知らないのかしら?永全不動八門御神流当主代理―――不破恭也のことを。彼に比べれば、私もまだまだ未熟ものよ」
その瞬間、女性の奥底でナニかがブチリと音をたてて引き千切られた。
頭が沸騰する。全身を巡る血液が、音をたてて沸き立ちはじめる。胸を叩く鼓動が、爆発せんばかりに激しく脈動した。
女性の気配の質が変化する。今の今まで、翼に気圧されていた様子は一瞬で消えた。変わりに現れたのは、鬼子母神の様相で、小太刀を向けてくる女性の姿だった。
「―――ふざけるな。ふざけるなっ!!ふざけるなっ!!貴様らがどの口でその名を語る!?貴様らが裏切った不破の後継者の名を、何故語る!!あの方は、永全不動八門なんかじゃない!!あの方は我らが御神と不破の一族の―――最も色濃き血を受け継ぐものだ!!」
短い呼吸を夜の空気に紛れさせ、左の小太刀で翼を牽制し、右の小太刀を深く引く。
腰を落とし、獲物に飛び掛る獣を連想させるその姿。憎悪に塗れた形相に、一瞬とはいえ葛葉の意識が飲み込まれるほどであった。
激昂した女性の気配を見ながらも、その烈火の殺気を、ふーんと冷たく一蹴し、翼は刀を抜くことすらしていない。
「―――御神流奥義之参【射抜】。これで貴様を殺せるとは思っていない。でも―――」
女性の口から発せられるのは言霊だった。
重く、深く、聞く者を怖れさせる―――憎悪だけを凝縮させた、負の感情。
「―――私の命と引き換えに、貴様の片腕は貰っていく」
命と引き換えに、翼の片手を貰っていくと宣言した女性には覚悟があった。
彼女は宣言どおりに、何の躊躇いもなく、自分の命と引き換えに翼の片腕を貰っていこうとしていた。
その覚悟に葛葉は息を呑む。これほどまで痛めつけられた相手ではあるが、その相手が見せる決死の想いに気圧された。
「無理よ。貴女の命を賭けたとしても―――私の世界には届かない」
「―――この刹那の後に、後悔せよ」
二人の気配が収縮。そして弾ける瞬間―――。
「はぃはぃ。それで終わりにしよぅやー」
パチンと手が鳴る音が響き、二人の集中力が霧散する。
女性は慌てて、翼は分かっていたのかゆっくりと、音が鳴った方角へと顔を向ける。
光が逆光となっているためか、容姿がわかりにくい三つの人影が塀の上に立っていた。
そのうちの一つ。恐らくは手を鳴らした人物が、塀から飛び降りると音をたてずに歩いてくる。
背の低い少女だ。天守翼よりも頭一つ小さい。歳も同じくらいだろうか。
千早に緋の色の袴。真一文字に引き結ばれた唇―――だが、口元は緩んでいた。全身から感じ取れるのは、やる気のなさだった。ゆったりとした雰囲気と、ややたれ眼となった双眸が二人を捉えている。
「まったく、【撥】ってばなにしとん。咲さんがおこっとったとよー」
撥と呼ばれた、翼と今先程まで向かい合っていた女性がビクリと反応する。
まるで何かを怖れているかの様子に翼が内心で疑問に思う。何せ、死ぬことさえも厭わぬ相手だったはずだ。それが、何故こんな様子を見せるのか。
「咲さんが早く帰れと言うとったから、うちたちはこのまま帰るけん―――迷惑をかけて申し訳なかね、天守翼さん」
「別に構わないけど、貴女は?」
呆然としている撥に向かってチョイチョイと手招きをして、自分の元に呼び寄せた少女は、自分よりも年上の女性であるはずの撥の額にデコピンを入れる。
避ける様子がいられないというより、避ける暇もなかったというほうが正しいデコピンであった。
額を両手で押さえて涙目になる撥に満足したのか、翼に背を向けて去っていこうとする。
「うちは不破一姫。一応は御神と不破の怨念の当主補佐をやっとるよー」
そこで、一姫と名乗った少女は、んーと唇に指をあてて何かしらを考え込む仕草をする。
「前から考えとったけど、御神と不破の怨念とゆう名前は長すぎるとよ。やけん、御神流【裏】とこれからは名乗らせて貰うけど、よかー?」
翼に確認してくるが良いも悪いも、彼女にとってはどちらでも大差ないことだ。
反論がないことに満足したのか、うんうんと力強く頷いて痛がっている撥の耳を引っ張って塀の人影の方へと向かっていく。
「―――当主補佐、ということは貴女より強い人がいるっていうことかしら?」
翼のやや緊張した声色に、歩みを少しだけ止めた一姫はどこか遠くを見る眼で、ある方角を見つめた。
その方角にあるものに、翼は気づいた。まさか、とある推測が成り立っていく。
「うーん。どうしようかいなー」
「―――御神美由希を狙っている、ということはあるのかしらね」
「あんた頭よかね。頭も顔も剣の腕もたってうらやましかー」
本当に驚いたのか、一姫は眼を見開き翼を真っ直ぐと【初めて】見たかもしれない。
先程まではまるでモノを見るかのような、奇妙な視線だったのだから。
「御神流を名乗る以上、その血縁を当主に戴くのは当然。ならば、御神流の前当主の血を受け継ぐ御神美由希を説得―――当主の座についてもらうと考えるのが妥当かしら。そのためにこの海鳴にきたと考えたほうが自然ね」
成功するかどうかなんて分の悪い賭けにしかならないけど、と翼が皮肉気に笑う。
「あっはっは。そん通りだと思うよー。うちも御神美由希が当主の座を受け継いでくれるとは実は考えてなか」
ざわっと空気が揺らめいた。
撥も、それ以外の三人も、信じられない眼で一姫を見つめていた。
「成る程。もしも、御神流裏の当主を御神美由希が断れば―――その座は自然と貴女のモノになるという考えね。ねぇ、当主【補佐】である不破一姫さん?」
翼の返答に、一姫はきょとんっとした表情で―――にんまりと笑った。
それはまるでそんな考えもあったのかと、予想外の答えを聞けたのが嬉しい様子であった。
「それはなかぁ。うちはあくまでも当主補佐―――御神美由希が断ったとしてもそれはかわらず。もっとも、うちはそんほうがよかんですけどねぇ」
「まぁ、お前からしてみれば確かに【そっち】の方が良さそうだよなぁ。お前は御神美由希のことを認めてねーし……あの人の方が当主に相応しいって考えしか頭にねーもん」
黙っていた人影の一つが、はぁーと深いため息を吐く。
低い男の声だった。男性―――不破和人は、相変わらずな考えの一姫に、呆れたように夜空を見上げた。
「まぁ、そろそろ帰ろうぜ。咲様から呼び出しコールがまじですげーんだよ。お前らのせいで俺がまたとんでもねー目に合わされるんで本当に勘弁してください」
四人の中で一番年上である和人が両手を合わせてお願いのポーズを取って頼み込んでくる。
それに頷いた一姫と撥は塀の上へと跳躍し、着地した。
「あら、そのまま帰れると思っているのかしら?」
「うーん。そん人ば、病院へ連れて行ってあげた方がよかとおもうけどー」
地面に座り込み、血の海を作り上げている葛葉を思い出し、あっと声をあげる。
なにせ、身体中の切り傷だけならまだしも、腹部を刺された傷跡は結構な致命傷だ。これ以上放置してたら間違いなく死ぬ可能性が高い。
「それに、俺達が退くほうがあんたとしても助かるんじゃないのか?生憎と俺達は武士道も騎士道も糞くらえだ。四対一で遠慮なく潰させて貰うけど?」
和人がはっと鼻で笑う。
言葉では退くといっているが、意味が違う。見逃してやると、退いてやるのだと、そういった皮肉が込められていた。
「まー実際、あんたとはまだやりあいたくないね。流石は永全不動八門最強。四対一でも―――俺達三人は殺されちまう。生き残れるのは一姫だけだ。その代わり―――あんたも殺せるけどな」
「―――戯言を」
「戯言かどうかは、あんたが一番わかってるだろ?俺達は兎も角、一姫の実力がわからないはずがない。こいつはあんたと同じ同種だ。同族だ。剣に生き、剣に死ぬ。敵対するものは塵も残さない戦闘狂だ。不破恭也様には及ばずとも、それ以外とは一線を画す生まれついての怪物さ」
「……」
そこで初めて翼の視線が鋭く、冷たく変化した。
和人の指摘が正しかっただけに。目の前の、一姫となのる少女の底が見えなかっただけに。
恭也と殺音以外に見た―――己に匹敵しえる怪物がまた一人。
そして、黙りこんだ翼を置き去りにして―――。
「そしたら、また何時か―――」
にんまりと笑った一姫は三人を伴って翼の視界から姿を消した。
残されたのは翼と葛葉の二人だけ。翼は消えて行った四人―――いや、一姫を睨みつけたまま暫く佇んでいた。
その横で早く病院へ連れて行ってくれと、既に言葉にも出せない状態の葛葉がいたのだが―――。
気づいた翼が救急車を呼んで、病院へと運ばれた彼は、全治四ヶ月という重体ではあったが、なんとか命を拾うことができたという。
永全不動八門と御神流裏の、最初の出会い。最初の戦い。
後の世にて、最凶最悪の永全不動八門戦争を引き起こす―――不破一姫が表舞台にでてきた瞬間であった。
-----atogaki--------
誰のルートに入りますか?
→不破咲(75歳
そして、皆様今年もお世話になりました。
よいお年をお過ごしください