夜空には星々が美しく煌き、綺麗な満月が優しい光を地上に落としている。
周囲は僅かな先も見えがたい大森林だったが、足を止め、暫しの間木々の枝の隙間から、その光景に魅入られていた着物を着崩した二メートルを超える大男。伸ばしただけの乱れ髪。片手に持った小さな子供ほどの大きさがある徳利がさらに異彩を放つ。
日本という国で伝説にまで語られる存在となった人外の頂点。最強最悪の鬼―――酒呑童子。それが男の名前であった。
彼の背後に付き従うのは二つの影である。
鬼の王と称されるにしては、僅か二人の付き人しかいないのは見る人が見れば驚いたかもしれない。
一人は大男である酒呑童子とは真逆の背丈の少女であった。身長にして百二十あるかどうかという大きさ。
一つの染みもない純白の神祇装束に似た羽織と、朱色の袴を身に着けた可愛らしい少女だ。
もう一人の影は、酒呑童子にも負けない大男だった。
若草色の和服を纏い、群青色の袴。酒呑童子に比べれば随分と若く見える。また、容姿も道行く人の視線を自然と集めるであろう男にしては変だが、美しいという言葉が似合っている美青年である。
少女はトコトコと、青年は音もたてずに酒呑童子の背後に付き従っていた。
だが、数分も言葉もなく夜空を見上げている酒呑童子に痺れを切らしたのか少女が苛立ったように、口を尖らせる。
「何をしているんですか、酒呑。急ぐといったのは、貴方じゃないです?」
「……ん、ああ、そうだな。わりぃ、茨城」
声をかけられて我を取り戻したのか、酒呑童子は自分の頭をワシワシと掻きながら応える。
茨城と呼ばれた神祇装束の少女は、随分と厳しい眼差しを酒呑童子へと向けるが、生憎と向けられた当の本人は全く気にしてないのか、あっさりと視線を無視するかのように歩みを再開させた。
彼の態度が気に食わなかった茨城は、詰問するために口を開こうとしたが、その口を塞いだのはもう一人の大男であった。
モゴモゴと言葉にならず、酒呑童子の足を止めることはできずに終わる。それに腹が立ったのか茨城は己の口を塞いでいる男の手におもいっきり噛み付いた。
痛みに眉を顰めた男は茨城の口から手を離すと、ひりひりと痛む手をプラプラと空中で振る。
「痛いですよ、茨城。指が食いちぎられるかと思いました」
「煩い、鬼童。邪魔をするんじゃないです」
鬼童は肩をすくめると、随分と遠ざかった己の主の背中を追う。
二人にスルーされる形となった茨城の心中にもやもやとした感情が沸き起こるが、それを振り払い鬼童の後に続いた。
その姿を横目に納めた鬼童は、ふっと口元を緩め、視線を酒呑童子の後姿から、その遥か前方にそびえる山へと移す。
「―――無駄な時間を取るわけにはいきませんよ。我等には、いや違いますか。【彼】にはもう時間がないのですから」
「……そのことですが、本当なのです?あの男が死の淵に立っているなど……信じられることではないのですよ」
寂しげに語った鬼童に対して、逆に茨城は胡散臭げに首を傾げる。
「我等が仇敵にして、我等が唯一認めた人間―――御神恭也。彼の寿命が尽きようとしている。少しの間会わなかっただけで、そんな噂が流れるとはとても思えないのですが」
茨城の疑問に、やれやれといった感じで鬼童は首を振った。
「茨城。我等の時間の流れと人間である恭也の時を一緒に考えてはいけませんよ?我等にはこの前のことであっても人間である彼には数年の時が流れているのですから」
「―――人間。そうですね、自分で言っておきながら不思議な感じがしますです。あいつは―――恭也は、人間なのですね」
二人の脳裏に描かれるのは一人の剣士。
人間でありながら、鬼という超越種を遥かに超えた最強のヒト。数多の同胞を斬り倒し、斬り殺し、屍山血河の頂点に立った男。
自分たちがこの世に生を受けてから四百と数十年。その長きに渡って唯一何が起きたとしても決して勝つことは出来ないと認識している最強の一角であった。
ただの人間であるはずの恭也に眼を奪われた。体が震えた。心を揺さぶられた。
最強の妖怪であり、鬼の王と謳われる酒呑童子とも互角に渡り合い―――結局勝敗はつかずに今に至る。
二人の言葉には全くといって言いほど負の感情はこもってはいなかった。
仮にも数多の同胞の命を奪った相手だというのに、二人はどこか親しみさえも己の言葉に乗せていたのだ。
それを不思議に感じる者も多いかもしれない、だが、鬼という種族である彼らにとっては例え己が同胞の斬り殺してきたといっても、相手が御神恭也ならば、恨みも憎悪もないのはあまりにも当たり前すぎることだ。
そもそも鬼という種族には人間でいう常識が通用しない。彼らにとってあるのは、強き者が正しいという弱肉強食のルールだけ。鬼にとっては強さこそが全てなのだ。
故にどれだけの同胞を斬った相手といえども、御神恭也には敬意を払う。そういった感情が少なからず全ての鬼には存在した。
特に酒呑童子はそれが顕著な例である。
幾度も幾度も拳を、刀を交え、共に死線の上で鎬を削りあっていた彼にとって御神恭也という人間は、この世界において紛れもなく最高の好敵手と認めていた。
人間など塵芥にしか考えていなかった鬼の王が、ただの人間を好敵手と認めたことに当初は驚いたものだった。
だが、実際に自分たちが会ってみて理解できた―――御神恭也は、この世界で唯一人、酒呑童子と同じ領域に住んでいるのだと。
物思いに耽っていた二人だったが、既に酒呑童子の姿が影も形も無いことに気づき、若干慌てて走り出す。
それほど離れていなかったのだろう。一分もしないうちに酒呑童子の姿が見え、胸を撫で下ろす。
完全に足を止めていた酒呑童子にいぶかしむも、その姿に追いつき……。
―――そして、唖然とした。
三人が歩いてきたのは魔境ともいえる樹海の奥地。見渡す限りが樹海林。十数メートルも伸びた木々によって太陽の光も届かぬ広大な世界だった。それこそ人はおろか、人外達でさえも近づくのは躊躇うような秘境である。
人からも人外からも恐れられ疎まれた世界最強の剣士は、人里はなれたこのような奥地でしか生活することはできなくなってしまったのだ。
皮肉な話だ。数多の悪を斬り、人外を斬り、多くの命を救ったはずの彼はその強さ故に怖れられ、こんな辺境で暮らすことしかできなくなってしまったのだから。
もはや野生の動植物しか存在しないはずのこの秘境にて―――眼の前に広がる光景は、【地獄】としか表現のしようがなかった。
もはや原型も留めていない死体の山。それは人然り、鬼然り、多くの妖怪然り。その死体の数は数百をはるかに超える。
頭が切り離されたモノ。四肢を斬りおとされたモノ。心臓を引き抜かれたモノ。トマトのようにひき潰されたモノ。
何トンもの赤い液体をぶちまけたように、広場となっているその空間は、周囲の木々も含めて鮮血が支配する領域となっていた。
鼻につく鉄の匂い。鬼にとっては好ましい筈の血の匂いを―――どこか不吉を孕んだ風が運んでくる。
知らず知らずのうちにゴクリと唾を飲み込んでいたのは鬼童だ。
茨城は冷たさを感じるほどに感情を消し、氷の如き無表情で、視線を遥か前方へと向ける。
唯一人酒呑童子だけは、くひっと面白そうな笑いを噛み殺していた。
三人の前方、そこには今にも朽ち果てそうな屋敷があった。ぼろぼろに見える屋敷を漆喰の白い壁が囲んでいる。
出入り口は現在酒呑童子達の前方にある門一つだけだ。
三人が注目したのはその屋敷の大きさや、外装ではなく―――門の前に立つ二人の女性がいたからだ。
二人ともが妙齢の美女。長く美しい黒髪を靡かせる、小太刀を二刀携える女性と両腕を鉄の籠手で覆った二人。
心を自然と鷲掴みにするような色気を二人ともが醸し出していた。
触れれば斬る。そんな威圧感を何の遠慮もなく発しているのは―――剣の頂に立つ者を守護する者達。
アンチナンバーズと呼ばれる人外の戦闘集団においてなお、名を知られている御神恭也の懐刀だ。
「よう、久しぶりだな。水無月風音。それに御神雫」
躊躇うことなく二人の美女の名前を呼んだのは酒呑童子だった。
二人の美女―――水無月風音と御神雫は突如現れた酒呑童子に対して驚くわけでもなく、油断なく己の武器を握り締める。
風音も雫も気配察知の範囲は恭也に及ばずとも、その広さは神懸っているといっても過言ではない。
酒呑童子が姿を現す前に、二人は人外の頂点の気配を既に感じとっていた故に、焦りや怯む様子は微塵も無く、覚悟を決めていた。
「久しぶりね、鬼王。まさか貴方が来るとは思ってなかったけど」
「父様が病に倒れたという噂が流れてから、多くの無法者が来ましたが―――まさか、貴方まで来るとは思わなかったのですけどね」
純血である人猫族の妖怪。妖怪という括りで見れば下等種に当たるであろう一族でありながら数多の強者を屠り、伝承の域にまで達した女性。恐らくはこの日本という地で最速を誇るであろう神風の人外。純粋な速度であれば、酒呑童子さえも凌駕するとも言われている。それがアンチナンバーズのⅧ【猫神】―――水無月風音。
そして、もう一人が人狼族と人間の間に産まれたハーフ。二つの血を受け継いでいるが故に、純血である妖怪ほどの身体能力や治癒能力を誇っているわけではないが、それでも人という種族を遥かに超越した肉体を持つ。ましてや、御神恭也を師と仰ぎ、彼の全ての技術を受け継いだとも言われる天才の中の天才。さらには、霊力と言われる魂や命の力を自在に引き出し、妖怪のみならず幽霊等の肉体を持たぬものも滅殺することを可能とした剣神。それがアンチナンバーズのⅢ【全殺者】―――御神雫。
伝説に語られる域に達した二人ではあるが、酒呑童子を前にして緊張を隠せずにいた。
初めて会ったときより既に三十年近くの時が流れてはいるが、未だ目の前の鬼に一騎打ちで勝つ自信を二人は持てずにいたのだ。
確かに二人は強くなった。いや、強くなりすぎたといっても過言ではないだろう。
もはや二人が勝てない相手を探すほうが難しい。だが―――酒呑童子の強さは、世界の領域が違っている。
アンチナンバーズという集団において伝承級と称される三人だが、そんな三人の強さには埋めがたい差が確かに存在していた。
「―――雫。私が酒呑童子の動きを止めるから僅かな隙でもいい。見つけたならば―――躊躇い無く私ごと斬りなさい」
「分かりました、姉様。お任せください」
茨城と鬼童の背筋に冷たいモノがはしった。
酒呑童子の動きを命を懸けて止めるという風音の覚悟と、それに何の躊躇も見せずに頷いた雫。
己の命に塵の価値さえも見出していないその様子。いや、ここで酒呑童子を必ず止めて見せるという絶対の覚悟。鬼よりも格下の種族である二人に、茨城も鬼童も僅かな戦慄を隠せずにいた。
茨城も鬼童も、二人に対して初対面というわけではない。
基本的に酒呑童子は、自分が拠点としている大江山から出ようとはしていなかった―――恭也と出会う前までの話ではあるが。
三十年ほど前に初めて御神恭也と戦ってから、積極的に動くようになったのだが、それに困ったのが配下の鬼達だ。
彼らとて人間と正面きって戦を起こそうという気はない。
人外の存在と一目でわかる巨大な鬼達が人里近くを徘徊するとなると流石にまずいと判断した幹部達が、酒呑童子が遠征するさいには供として付き従うことになった。
幹部ともなると人間の姿をとることも可能であり、そこまで騒ぎになることはないと判断したからだ。
元々が人の姿かたちに似ているのは十鬼もいない。そのため、鬼を束ねる副頭領である茨城童子と鬼童丸の二人のうちのどちらかが酒呑童子の供につき、もう一人が大江山に残る。
そういったことが多かったため、酒呑童子の供として、恭也や、風音と雫と顔合わせすることが多かった。
出会った当時を思い出せば、随分と変わったものだと茨城も鬼童も自嘲する。
三十年前は、二人の実力は確かに高かった。何せ幹部の一人でもある四鬼の一体―――星熊童子も一蹴するほどだったのだから。
だが、茨城や鬼童には全くといっていいほど及ばず、酒呑童子が恭也と死闘を演じている間に暇つぶし程度で相手をしたことも何度もあった。
二十年前には油断できる相手ではなくなり―――十五年前には【敵】となった。
そして十年前には、勝てるかどうか分からぬほどの高みに達し―――今では完全な脅威となっていた。
だが、それでも自分達の主である酒呑童子に対して危害を加えると名言した二人を放置しておくわけにはいかない。
背後に控えていた茨城と鬼童は、主の前に踏みでて二人の前に立ち塞がる。
茨城は水無月風音と―――鬼童は御神雫と相対した。
風音と雫の動きが止まり、用心深く自分達の前に立ち塞がった敵を窺っていた。
幾ら伝承の域に達した二人と云えど、茨城も鬼童も楽に勝てる相手ではない。
基本的に酒呑童子の影に控え、主のためにしか動かない副頭領の二人は、名前は知れ渡ってはいるのだが、酒呑童子の強さがあまりにも桁外れのために軽く見られがちなのだが―――単純な強さは伝承級の化け物達に匹敵するといっても過言ではない。
仮にも酒呑童子とともに長きに渡って生きながらえてきた鬼の最高種。
その二人が一切の慢心も油断もせずに、立ち塞がっているのだ。
空気が緊張していく。
音をたてて、確実に、急速に凍えていく。
虫達の音もやみ、無音の世界となっていた。
互いの微かな呼吸音だけが耳に届き、四人の呼吸がとまり―――。
先手を仕掛けたのは風音だった。
地面が爆発。それは風音が大地を蹴りつけた反動。
一秒を数十に刻んだ刹那の時をもって、風音は疾走する。
風音が向かう先は―――茨城童子。
神風となって迫り来る仇敵を確かに視線で捕らえていた茨城は、迎え撃つべくために拳を握る。
体の頑強さでいえば茨城童子の方が遥かに勝る。また、腕力という点でも。
弾丸の如き風音の拳をあえて受け、カウンターで切って落とす。
無論茨城とて無事では済まないだろうが、最初から無傷で勝とうと思ってはいない。勝てるとは思ってはいない。瞬時にそう判断しての行動だった。
二人がぶつかり合うまでにかかった時間は一秒もなかっただろう。
己に叩き込まれる鉄拳を、歯を食いしばって耐え切ろうとした茨城だったが―――。
「―――全く。少し落ち着け」
その場にいた四人の覚悟と戦意が霧散した。
万物を恐怖させる、完全な闇を纏った男の声が聞こえた。
唯一人、酒呑童子だけは嬉しさを我慢できずに、真紅の瞳を輝かせている。
風音と茨城の間合いはあと一メートルと少し程度だっただろうか。
二人の間に何時の間にか現れていた初老の男性が両手を広げ、右手で風音の頭に手を置き―――左手で茨城の頭に手を置いている。
不思議と超速度で迫っていた筈の風音を、頭に手を置くだけで完璧に彼女の動きを殺していた。
一体何時の間に二人の眼前に現れたのだろう。幾ら二人の意識が互いに集中していたからとはいえ、気がつかないはずがない。
この男性以外の相手だったならばの話だが。
年の頃五十程度なのだろうか。
短く切られた黒髪に白髪が混じっているのがわかる。
身長はこの場にいる酒呑童子と鬼童の次に高く、百八十と少し。
ゆったりとした着物を纏い、その隙間から見える体は恐ろしいほどに鍛えこまれているのが一目で理解できた。
「―――御神、恭也」
尊敬と畏れが混濁した呟きが鬼童の口から零れた。
見かけは五十を迎えるかどうかにしか見えないが、実年齢は鬼童が聞いた限り六十を超えるはずだ。
それほどの高齢だというのに、あっさりと二人の間に割って入り、行動を無効化する。
鬼の頂点たる酒呑童子のような天地をも破壊する力ではない。御神恭也が歩んできた数十年。修羅の道において辿り着いた果ての果て、人の技も化け物の力も超越した―――神技。
既に寿命が近いというのに、あっさりとそれをやってのける御神恭也に震えが走った。
その時ごほっと、恭也が咳き込む。一度だけではない。二度三度と続き、周囲に激しい咳の音が響き渡る。
「―――ちょ、恭也!?寝てないと駄目じゃない!?」
我に返ったのは風音の方が早かった。
添えられていた恭也の手から抜け出し、慌てて崩れ落ちそうになった恭也に肩を貸す。
それと同時に、茨城も自分の頭に添えられてた手から慌てて離れ、距離を取る。
「気、気安くあたしの髪に触れるんじゃないですよ!!」
顔を僅かに朱に染め茨城はそう言ってのけた。
風音の目が細まり、足を踏み出すよりなお早く―――。
「止めろ、雫」
腰の小太刀を抜き去り瞬時に間合いを詰め、茨城に斬りかかる寸前の雫を止めたのは恭也の一言であった。
御神雫は恭也の出現に気を取られていた鬼童の一瞬の隙をつき、茨城を斬ろうとしていたのだ。
止められた雫は、あっさりと小太刀を収め風音とは逆側で恭也を支えた。
隙だらけの姿ではあるが、茨城も鬼童も攻撃をしようとは全く思えなかった。
今までとは全く違った―――気配の質の変化。
風音も雫も、禍々しいほどに研ぎ澄まされた黒い殺気を周囲に放っていたのだ。それが結界となって二人の足を自然と止めていた。
だが、当然―――酒呑童子がそれを気にするはずもなく、三人へと近づいてくる。いや、恭也にといったほうが正しいかもしれない。
「よぅ、恭也。久しぶりだなぁ。暫く会わないうちに、老け込んだか?」
「―――言い難いことをあっさり言ってのけるお前にはある種尊敬を感じるな。老けたということは否定できないのが辛いところだ。お前はかわらないのが少しばかり羨ましい」
「くひっひっひ。そりゃ当たり前だ。鬼である俺様が数年程度で変わるわけもないだろう?」
「それも当然、か」
幾十、幾百も命のやり取りをしてきた仇敵同士にしてはあまりにも気安い会話であった。
二人の間には憎しみも怒りも何もない。ただ、互いを認め合っている不思議な感情だけがそこにはある。
「ところで、酒呑。世間話をするためだけに態々きたわけではあるまい?」
「ん―――ああ、まぁな」
ガシガシと髪を掻き乱す酒呑童子に、恭也の眼が少しだけ大きく見開く。
常に真正面から語り合ってくる酒呑童子にしては、このようにはっきりとしない発言は珍しい。
あーやら、うーやら、虚空に向けて発していた酒呑童子ではあったが、心を決めたのか頭を掻き乱すのを辞め恭也と視線を合わせた。
「―――お前が、身体がよくないって聞いてな。見舞いに来た」
若干照れているのか、僅かに頬を赤くして語った酒呑童子に対して―――恭也と風音、雫はぽかんと口を開き呆然とする。
まさか、生涯の宿敵たる酒呑童子からこのような言葉が聞けるとは想像もしていなかったからだ。
三人の視線に恥ずかしかったのか、戦いにおいて退がることはなかった鬼の王が、後方へと一歩後退していた。
「な、なんだよ。そんな眼でこっち見んなよ」
「―――いや、なんだ。それは失礼した」
一番速く我を取り戻した恭也が、苦笑気味に酒呑童子に謝罪を述べる。
この地は彼が拠点としている大江山から随分と離れているというのに、態々見舞いに来てくれるとは夢にも思っていなかった。
「―――折角来てくれたんだ。茶くらいはだそう」
雫と風音に支えられていた恭也は、二人から離れて屋敷へと繋がる入り口へと足を進める。
僅かに迷った酒呑童子ではあったが、恭也の背中に続く。雫と風音の横を通り過ぎる瞬間、二人の殺気が突風となってその身を打ち据えてきたが、今更その程度で怯むことなどあるはずもない。
二人が屋敷への中へと消えるその時、酒呑童子は何かを思い出したかのように、茨城と鬼童丸のほうへと振り向いた。
「遊ぶのなら死なない程度に遊んどけよ、お前ら」
不気味に笑った酒呑童子は二人にそう告げて、四人の視界から消えていった。
残された四人の反応は様々である。
よりによって宿敵である酒呑童子をもてなすことなど、雫と風音からしてみれば考えたくもないことではあるが、恭也が決めたことなのだから是非もない。
置いていかれる形となった茨城は、リスのように頬を膨らませ、不満がありありと見て取れた。
逆に鬼童丸は、ふぅっと安堵のため息を吐く。
残された四人の関係は、恭也と酒呑童子の間柄に比べると随分と悪い。というか、最悪なのだ。
そうともなれば自然と周囲の空気がピリピリと緊張していく。常人がいたならば気絶したほうが幸せと思えるかもしれないほどに、不吉な空間がそこにはあった。
数分近くも四人の間に沈黙が舞い降りる。
特に言葉を発しているわけではないが、互いに視線だけで相手を牽制しているかのようだった。
風音と茨城。二人の視線がバチバチと音をたてて弾けあっている幻を、鬼童は確かに見た。
「―――それにしても相変わらずちっこいのね、あんた」
「……なんです?それはあたしに喧嘩を売ってるってことです?」
口火を切ったのは風音だった。
半ば挑発するような発言に、敏感に反応するのは茨城童子。
自分の身長が小さいことを気にしているのを、長い付き合いともいえる風音はしっている故の挑発だった。
「べっつにー。私はあんたとはいったけど名前までは言ってなかったんだけど―――自覚してるんだ?」
「……貴方達全員でかすぎるんです。態度も身体も、もうちょっと慎みを持って生きていって欲しいものですよ」
「私は別にそんなに大きくないけど?あー、胸の話?確かに貴女に比べたらもうちょっと慎んであげたほうがよかったかしらねん?」
「―――ッ」
風音は、茨城の超幼児体型を見て鼻で笑う。
これみよがしに、胸を少し突き出すようにな姿勢となり、さらに挑発した。
ピクピクと茨城の目元が引き攣り始めた。顔が笑っているが、もはや作り笑いの意味を為してはいないレベルである。
茨城の右拳がギシリと軋みをあげた。ミシミシと奇妙な音をたてながら力がこもっていくのが一目で理解できた。
それを確認した風音の目も細まる。
何せ茨城童子は風音にとっての怨敵の中の怨敵。
もう数十年も前にはなるが、恭也と出会う前の故郷を滅ぼした鬼を率いていた相手だ。
あの時の恨みは深く、重い。できることならば今すぐにでも細胞一つ残らず消し去りたいほどに。
だが、恭也に先程止められたばかりということもあり、こちらからは手が出しにくい。
勿論、相手から手を出してきたならば話は別だ。そういう狙いもあり挑発したのだが―――恐ろしいほどに沸点が低いらしい。
息を深く吐く茨城と、息を深く吸う風音。対照的な二人の胎動が少しずつ重なっていく。
完全に一致した瞬間先程とは真逆で、茨城が地面を蹴りつけた。たった一蹴り。それで人外の身体能力を持つ茨城には十分だった。
拳銃からうちだされた弾丸。獲物に喰らいつく猟犬。的に放たれた一矢。
神祇装束を羽ばたかせ、小さな拳が風音に向かっていく。
その一撃は外見とあわさって子供の遊び程度の威力しか持ってはいないのではないかと勘違いするかもしれない。
だが、それは違うと風音はしっている。
あの小さな拳に宿るのは巨岩をも砕き、破壊する鉄槌の如き鬼の力が宿っていることを。
単純な破壊力だけならば風音はおろか、酒呑童子を除く全ての人外の頂点に立っているといっていい。
真正面から戦うのは流石に分が悪い。この一撃を避け、茨城を凌ぐスピードで撹乱し戦うのが賢い戦術であるはずだ。
それでも、風音は引かなかった。引くものかと、ギリッ歯を噛み締めながら、茨城を迎え撃つ。
弱かった頃の己はもういない。
ここにいるのは御神の極限。御神の深淵。御神の魔刃―――御神恭也を支える一柱。
ならばどんな敵であろうと正面から、叩き潰す。
禍々しいオーラが迸る。
それは暗い、漆黒。御神恭也の為ならば如何なる相手も粉砕してきた、猫神の放つ異常で、異様な殺意。
伝説に至った、最強の一角の重圧だった。
風音の顔に向かって振り上げられる茨城の拳。
それと同時に、振り下ろされる風音の拳。
二人の拳が激突。
言葉では表現できない、奇妙な音をたてて二人の拳は弾きあった。
無論それだけですむはずもなく、二人の身体は跳ね飛ばされたかのように、後方へと衝撃で吹き飛ばされる。
同時に地面を片手で叩き体勢を整えた。頬についた土の汚れたを気にせず、二人は互いに互いだけに敵意をぶつけ合い始める。
そんな光景を傍から見ているのは、雫と鬼童丸の二人であった。
鬼という種族に対して異常に憎しみを覚える風音ではあったが、雫はといえばそうでもない。
邪魔ならば斬るのは当然だが、戦いを挑んでこないのならば、別段どうと思うことも無い。
対して鬼童の方はというと、生憎と茨城ほど短気というわけでもない。
鬼という種族にしてみれば実に珍しく、気性は多少は穏やかであるといってもいいだろう。
そのため、簡単に挑発にのせられた茨城に対して、やれやれと深いため息を吐いた。
「……あの人は、全くもって困ったものです。闘争が我らの本質とはいえ今回は戦いに来たというわけではないのに」
きりきりと痛む胃をおさえながら、鬼童はさらに深いため息を吐く。
鬼童の言葉は正しく、今回の訪問は酒呑童子も先程いったように恭也への見舞いが目的であった。
風音と雫が酒呑童子の命を狙っていた先程は、それを阻止するためとはいえ戦意を纏っていたが、その目的を果たした今となっては戦うという選択肢は選ばなくてもいいはずである。
「全くもってその通りです。姉様の行動には理解できますが、茨城童子は幾らなんでも挑発にのりやすすぎませんか?」
「……いや、まー、そうですね。返す言葉もありませんよ」
雫の発言に対して、半ば呆れた表情の鬼童は頷いた。
白熱してく目の前の戦いを見学していた二人だったが、暫くしてぽつりと雫が呟く。
「あの二人の戦いも結局は姉様が勝つのは明らかです。その点貴方は利口ですね。私に勝てないと理解して戦わないのですから」
「……」
返すのは沈黙、なれど膨れ上がるのは殺気。
パチリと雫の視界に黒い電気が奔った。雫の重圧を弾き飛ばすほどに濃密な、死の気配を漂わせるナニかが、すぐ傍にいた。
「【勝てない】から戦わないのではありませんよ?なんなら証明して見せましょうか、混じりモノ」
「いいでしょう、よく吼えましたね。酒呑童子の笠を借りるだけの小鬼風情が」
鬼童丸もまた、鬼である。それは否定のしようもなく―――する筈もなく。
彼は確かに気性が他の鬼に比べて多少は穏やかだ。そう、あくまで【多少】なだけである。
鬼童丸の本質もまた―――闘争。
戦いに喜びを見出す人外の一鬼。頂点に匹敵する、最強の一角。
開戦の合図もなく、滑るように抜き放たれた雫の小太刀が鬼童の首元へと迫る。
そのまま何の容赦もなく、小太刀が鬼童の首元を掻っ切った。
いや、違うと雫はそれと同時に理解する。
小太刀が斬ったのはコンマ一秒の差で、それまでそこに存在したはずの鬼童の首の残像。
雫は舌打ちすると、忌々しげに右手の方向に視線を向けた。
「―――殺さない程度で、教育してあげましょう。鬼の頂点たる酒呑童子を支え続ける、この私―――鬼童丸の力というものを」
「結構です。ですが、教育ならしてあげてもいいですよ?剣の頂点、御神恭也の弟子であるこの私―――御神雫が」
「あー、なんか随分と派手にやり始めたな、外のあいつら」
「そのようだ。全く、最近の若者は辛抱がたりん」
「くっひっひっひ。実年齢だったなら一応お前が一番若いんじゃないのか?」
「いや、多分それはないと思う……ない、筈だ?」
屋敷の外では、強大な殺気と戦意の嵐が迸っていた。
それに対して恭也と酒呑童子は、中庭に面した縁側にて、湯飲みに入った茶を啜りながら、夜空に浮かぶ月を見上げているところである。
密着するというほどではないが、空けすぎるというわけでもない距離で揃って腰をおろし、湯飲みに口をつけた。
当然中身の茶はすぐに胃の中へと消え、御代わりを持ってくるかと視線にのせる恭也に対して、酒呑童子は首を横に振る。
「俺にはこれがあるからな。お前もいける口か?」
「―――少しなら」
横に置いていた巨大な徳利を片手で持ち上げる酒呑童子に、恭也が答えた。
昔からアルコールにはそれほど強くはなかった恭也だったが、嫌いというわけではない。
そういえばあの破天荒だった父は、随分とお酒に強かったと、ふと思い出す。そこは遺伝しなかったのか、それとも母の方を遺伝してしまったのか。最も産みの母のことはもはや記憶にはなく、果たして母が酒に強かったかどうかなど確かめる術もない。
どくどくと片手で恭也の持っている湯飲みに酒を注ぎいれる。
ツンと非常に独特な匂いが恭也の鼻につくが、兎にも角にも一口啜ってみると、恐ろしいほどにきついアルコールが口の中に広がっていく。
吹き出さないようにごくりと喉を動かし、胃の中に入れるも、その後すぐにゴホゴホと咳き込んでしまった。
それを見ていた酒呑童子は笑いながら徳利に直接口をつけ一気に嚥下する。恭也とは違い、咽る様子は一切見受けられない。
流石は【酒呑】童子と、男として僅かに尊敬を覚える恭也だった。
二人は元々多弁というわけではなく、二人は酒を飲みながら月を見上げる―――それだけで時は過ぎていく。
「なかなかやるじゃない!!このちっぱい鬼!!」
「煩いですよ!!この、牛乳猫娘!!」
「あんたに比べたら誰でも大きいってのよ!!」
「あーあー、聞こえないです!!聞こえないですから!!」
なにやらそんな怒声が屋敷の外で飛び交っている。
恭也も酒呑童子もその怒声に苦笑した。あの二人は憎しみあってはいるが、何気にいい好敵手だと二人して思ってはいた。
最も―――風音も茨城も凄い勢いで否定はするだろうが。
「なぁ、恭也。なんだ、お前が長くないっていうのは、本当なのか?」
「ん……ああ、事実だ。持ってあと数ヶ月程度が限界らしい」
外の怒声で本題を話す切欠を掴めたのか、酒呑童子がそう切り出した。
それを聞いた恭也は特に気分を害したわけでもなく、あっさりとごく自然にそう答えた。
その答えはあまりにも自然で、人事のように答えた恭也に対し、逆に唖然としたのは酒呑童子の方だった。
何かを言おうとしても、それは喉につまって言葉にならない。
「―――俺は、俺の人生に満足している」
言葉を詰まらせた酒呑童子に変わって、語りだしたのは恭也だった。
「【不破】の一族に生を受け、一族を失い、殺戮の日々に生きる筈だった俺は―――何をどうしてか、愛し愛される家族を手に入れ、幸せな日々を送れた」
淡々と独白は続く―――。
「人形遣い。猫神。鬼王。大怨霊。執行者。百鬼夜行。魔導の王。魔女。未来視の魔人。剣神。剣聖―――多くの敵と戦った。多くの友と出会えた。一歩間違えれば死んでいた闘争ばかりだったよ。それでも俺は生き残り、今此処にいる」
―――思い出す。あの人外達を。あの友たちを。
「―――俺は【雫】という遺産を残せた。御神の剣神を育て上げることが出来た。俺は確かに―――未来へと繋がる確かな可能性を残すことができたんだ」
何時の間にか空になっていた湯飲みに気づいた酒呑童子が、絶妙のタイミングで酒を注いでくる。
「生に未練がないといえば嘘になるだろう。だが、それでも―――俺は満足して逝ける」
僅かたりとも翳りを見せない恭也に、酒呑童子は言葉もなかった。
そもそも彼の目的は確かに見舞いではあったが―――誰にも語ってはいないが本当の目的は、恭也に己の血肉を食らわせることだったのだ。
鬼という種族の血肉は言ってしまえば人間に対しては毒である。【ただ】の人間にならば、だが。
ごく稀にだが適正を示す場合もあり、その場合は半人半鬼ともいうべき存在となる。
鬼の王たる酒呑童子の血肉に適応するなど、もはや天文学的な確立になるであろうが、それでも彼は確信していた。御神恭也ならば間違いなく、適応するだろうと。
そうすれば純血の鬼とまでは言えないが、人とは比べ物にならないほどの不老長寿となるはずだ。
酒呑童子は、何十度も殺し合いを行ったはずの恭也を、宿敵を殺したくなかった。
寿命などというくだらないもののせいで、友を失いたくなかったのだ。
そのために来たはずの酒呑童子ではあったが、それを切り出せない。いや、分かってしまったのだ。
例えどんな提案をしようと、無駄であることを。どれだけの甘言であろうと、御神恭也は受け入れない。彼は己の寿命を受け入れてしまっているのだ。
世界最強でありながら、一切の不平不満も恨みもなく、死の運命を受け入れてしまっている。
馬鹿な男だと思いながらも、これこそが御神恭也だとどこかで、酒呑童子は納得してしまった。
「ところで、何か用事でもあったんじゃないのか?」
「―――いや、俺様の用事はもう済んだ。気にするな」
「そうなのか?」
「ああ、そうだ」
疑問符を浮かべた恭也に、酒呑童子はニヤリと男臭い笑みを返す。
その笑顔は不思議と亡き父を思い出させる、暖かなモノであった。
二人の間に流れる空気は、暖かいものへと変わっていて、二人は何も喋らなくても、居心地の良い空間が確かにそこにあった。
恭也の酒が尽きれば、酒呑童子は湯飲みに酒を注ぎ、自分は徳利ごと酒をあおる。
その時も無限ではなく、やがて酒も尽き、終わりを告げた。
何時までもこうしていたいのだが、そうするわけにもいかず―――ついに酒呑童子が腰をあげた。
帰るのだろう。それは誰の目にも明らかであったが、彼が口に出すよりも早く、恭也も席を立つ。
「折角来てくれたんだ。一戦、やろう」
「は、はぁ!?ば、馬鹿かお前は!?そんな身体で何を―――」
「はっはっは。なんだ、酒呑?お前らしくもない。お前もわかってるだろう―――これが、最後だ」
「……くそっ、どうなってもしらねーぞ」
二人は中庭へとゆっくりと歩いていき、距離を取る。
その距離は実に三メートル程度。二人ならばそれこそ一瞬で詰めることが可能である。
長時間の戦いができないと理解している恭也と、酒呑童子。だからこそ、一手でもいい。互いの全力で最高の戦いを今此処で―――。
酒呑童子は構えない。武術も何もない、純粋な身体能力のみであらゆる敵を滅ぼしてきた。
其れゆえの無形の構え。いや、それがすでに酒呑童子という存在の構えなのだ。
対して恭也もまた同じ。
腰元に挿してある二振りの小太刀を抜かず、両手はだらりと下げている。
互いに一切の油断も慢心もない。
二人は知っているのだ。互いが持つ力量を。桁外れの戦闘力を。
酒呑童子がその身に宿す、天地揺るがす破壊の力を。
恭也が放つ、数百年の憎悪の結晶たる大怨霊をも切り伏せる、神魔調伏に至った剣技を。
二人は互いに知っていて、その身に刻んでいて、だからこそ二人は認め合っている。
【最強】とは最も強き者に与えらる称号。だが、その称号は御神恭也と酒呑童子に与えられている。誰からも異論がないほどにみとめられている。それは矛盾。最も強き者が二人いるという。
それでも認めてしまっている。この世界にて、世界最強を名乗るに相応しき者達だと。
他の人外も、人間も、あらゆる存在を凌駕している別格の怪物たちだと。
出会ってからもはや数十年。
命をかけた全力全開。手加減など一切しない、殺し合い。
数十回にも及ぶその戦いで、勝者はなく―――敗者もない。
その悉くが、引き分けに至った最強同士。
呼吸音。鼓動音。筋組織が為す萎縮音。一挙動の所作。
互いの目に見える限り、互いの耳に聞こえる限り、その全てが極限であった。
どちらもどちらの奥底が、限界が読み取れない。其れが二人は限りなく嬉しかった。
さぁっと風が吹く音が聞こえた。
筋肉を最硬にまで圧縮させた右腕で咄嗟に眼前を遮ったのは酒呑童子。
同時に眼前に迸っていた右の剣閃を寸でのところで受け止めた。
それはめくらましの意味もあったのだろう。
左の掌がズンっと音をたてて酒呑童子の腹部に決まった。それは極められた徹。
風音だろうが、雫だろうが、決まれば一撃で相手の意識を消し飛ばすほどの境地の神技。
勿論それで終わる相手ではないのは百も承知。
酒呑童子は、たたらを踏んで一歩後退した。そう、たった一歩だけの後退しかしなかったのだ。
意識を奪うことはおろか、ほんの僅かな痛み程度しか相手に与えることは出来てはいない。
チンっと鋭い鍔音が鳴る。
右の小太刀が跳ね上がる。それの影で抜いた小太刀が胴を薙ぐ。
両の小太刀をそれぞれの腕を硬質化させ、あっさりと受け止めるも、気づいた時には両の目に向かって飛翔する飛針。
左の太刀を抜くのと同時に既に飛針を投げていたらしい。流石に目はまずい、そう判断した酒呑童子は顔を少しだけ傾け、額でそれらを弾き落とす。
お返しと言わんばかりの鉄槌の拳が振り下ろされる。
有無を言わさぬ、最強の破壊。全てを破滅へと導く、命を断絶する拳。
その一撃を防ぐ術はなく―――。
鋼鉄の塊同士が激突する音が響き渡る。
滅殺の一撃を、恭也は避けなかった。防ぎもしなかった。
ただ、【弾き飛ばした】。
振り下ろされるよりなお速く―――。
最強の破壊が全力をだすよりなお速く―――。
二振りの小太刀が十字を描き、その破壊を凌駕し弾き返す。
互いの鋼鉄の破壊がぶつかりあい、火花が空気に散じるより更に速く、両者の眼前を小太刀が一閃。いや、二閃。違う、三閃。
否―――十数閃。
それは、【斬】の極み。
雫でさえも、これの前では色褪せる。
ただ刃を振るっただけの筈の、軌跡は、確かな輝きを持って斬滅せしめる刃の閃光となった。
それでも、酒呑童子には通じない。
その全てを両の腕で受け止め続ける。
躊躇いも、逡巡もなく―――鬼の頂点は刃を防ぎ続けた。
だが、無傷というわけにもいかない。
恭也の小太刀が舞う度に、斬るまではいかずとも、酒呑童子の両腕に赤い傷跡を残していく。
無限ともいえる斬撃乱舞を跳ね返すように、酒呑童子の右手が薙ぎ払われる。
その一撃は、当たれば人間の身体をゴミ屑のように捻り潰す威力の払い拳。
されど、それは恭也には当たらない。虚しく空気を引き裂くのみ。
頭上、最上段からの斬りおとし。飛翔して酒呑童子の拳をかわした恭也の斬撃。
返す刀で相手の右手を斬り飛ばす軌道の斜め斬り上げ。それと同時に左足を狙う。
流れるように続く首を飛ばす勢いの横薙ぎ。そして、胴身体を両断する袈裟斬り。
延々と続く無限の剣閃。僅かな隙もなく続けられるその連撃は、酒呑童子以外に防ぎきることも、かわし切る事もできる者は存在し得ない。
その連撃もまた御神の極限。
いや、正確には違う。これは【恭也】の極限と言い換えたほうが良いだろう。
彼以外には為しえない。彼以外には修得できない。彼にしか実現できない。
それは本来の御神流とは異なる剣技。恭也の全てを継いだと噂される雫でさえも、実戦では使いこなせない御神恭也の極限。
【斬】を極め、【貫】を極め、【徹】を極め、見切りを極めた、御神恭也にのみ許された―――御神流【裏】。
【斬】を持って、どうすれば相手の息の根を確実に止めることができるのか。
それをなすために身体のどこにどう力をいれて、刃に乗せるのか。それを見切りを持って為す。
【貫】を持って、相手の防御を潜り抜け、身体にこの斬がこもった一撃を届かせるのか。
それをなすために身体のどこにどう力をいれて、刃に乗せるのか。それを見切りを持って為す。
【徹】を持って、相手の防御を潜り抜け、身体にこもった斬を一撃を届かせ、徹を秘めた最強の一撃へと変化させる。
それをなすために身体のどこにどう力をいれて、刃に乗せるのか。それを見切りを持って為す。
御神恭也の放つことができる最速の剣閃。
御神恭也の放つことができる最重の剣閃。
御神恭也の放つことができる最高の剣閃。
彼が振るうその全ての斬撃が―――相手の命へと届く可能性を持った必殺。故に彼はこれをこう呼ぶ。
あらゆる命を断ち切る光の剣閃。即ち、【閃】と。
後の世にて御神流の奥義の極みと呼ばれるこれらは、なんということもない。
ただの斬撃。ただの剣閃。ただの剣撃。
ただしそれらは―――世界最強たる酒呑童子の命さえも奪うことを可能とする【ただ】の一太刀だ。
最速の剣閃が。最重の剣閃が。最高の剣閃が。最善の剣閃が。最良の剣閃が。
―――最強の剣閃となって、酒呑童子の視界すべてに繰り返し突き出され、振り下ろされ、薙ぎ払われ、切り下げられる。
地面の砂が音を立てるよりもはやく、酒呑童子の懐深く踏み入った恭也が小太刀を切り上げる。
それを遮ろうと両腕が交差するよりも一瞬速く、音も残さず剣閃が舞い上がった。
それ以上の追撃を図らず、地面を蹴りつけ後退した恭也。ふぅっとそこで深呼吸をする。
誰もが理解できない超領域の出来事。これら全てが一瞬。まさにその一言の間で行われた戦い。
たった一秒という時間において、超圧縮された時間内にて二人の行った全てであった。
酒呑童子もまた、呼吸をつく。
それを合図に斬られた肩口から血が勢いよく吹き出しはじめた。
自分が斬られたことに驚くも、それよりも嬉しかった。最高だと思った。
年老い、もうすぐ寿命を迎えるはずの好敵手が、友が、宿敵が―――これほどまでに強かったのだと。
再確認できた彼は笑った。本当に嬉しそうに笑った。
「くっひっひ。いてぇな、本当にいてぇよ。俺を斬ったのはお前が最初で最後だ」
筋肉を圧縮し、傷口を塞ぐ。
それだけで勢い良く吹き出していた出血はあっさりとおさまる。
さて、続きをやろうと視線で語ってくる恭也に対して―――酒呑童子は首を振る。
「いや、ここまでだ。本当に楽しかった。今日は此処まできたかいがあった。認めるぜ恭也。俺様の負けを―――この勝負、お前の勝ちだ」
「……何を言っている?」
理解できない。
恭也の顔からはそれだけが伝わってきた。
闘争に全てを賭ける彼らしからぬ発言をいぶかしむ。
「くっくっくっく。いいんだよ、恭也。俺様は認めたんだ。俺様自身の敗北を。お前が満足して逝けるように―――俺様も満足しちまったんだ」
「……」
未だ完全には納得できていない恭也に、笑って傍に置いてあった徳利を拾って背に担ぐ。
そしてくるりと踵を返した。
「帰るのか?」
「―――ああ。目的は達しちまったからなぁ」
「そうか」
斬られた様子を微塵も見せずに、酒呑童子は屋敷の出口へと向かおうとして―――一足を止めた。
「楽しかったぜ、恭也。お前と会えて。お前と戦えて。お前と生きたこの時代―――俺様の一生で最高に濃密で、最高に楽しい時間だった」
「―――ああ。俺もそう思う」
「だからこそこれから先、退屈で仕方ねぇ。つまらねぇと思ってしまう。仕方ないことなんだがなぁ」
はぁと絶望が入り混じった吐息だった。
比喩ではなく、それは本当に暗いため息であった。
「―――安心しろ、酒呑。お前は再び会える。お前の全力に値する人間と。お前の闘争本能を満たしてくれる人間と」
「あん?励ましならいら―――」
「事実だ。予言してやる、酒呑童子。これから数百年後―――お前は【必ず】出会える。【必ず】、だ」
酒呑童子の台詞を遮ってまで、強く語ってくる恭也に眼を白黒させるも、クシャリと笑った。
「本当に、逢えるのか?また、俺様の全力を受け止めることができる人間に?」
「ああ、絶対にまたあえる。だから安心しろ、酒呑」
「そうか……そうか……くっくっく。また逢えるのか」
嬉しそうに笑った。
鬼の王は、子供のように本当に嬉しそうに笑った。屋敷中に響き渡る声で、笑い続ける。
その時ふと何かを思いついたように、笑うのを止めた。
「あー、じゃあ、人間は喰わないようにしねぇとなぁ。万が一俺様が喰った相手がお前の予言にあるやつだったら洒落にならねーし。まぁ、願掛けの意味も込めて人間断ちでもしとくか」
「……」
深い意味があった言葉ではなかった。
ただ人間を食するのを止める。恭也がいった、何の保証もない、将来の敵とも言うべき存在のために。
其れに気づく。この男はきっとこの約束を守るのだと。恭也の言葉を信じ、守り続けるのだと。
「―――お前は、馬鹿だ」
「なんだ、突然。失礼な奴だな、お前も」
恭也の失礼極まりない発言に、キョトンとするも特に気分を害したわけでもない様子だ。
「こんな、こんな俺の―――戯言に、付き合うお前は本当に馬鹿だ」
声が震えるのを我慢するのが精一杯だった。
この鬼の王の馬鹿正直なまでの心に。誓いに。強固な意思に。
―――お前に会えて良かった。
口にはださずに、心の中で酒呑童子に謝礼を述べた。
そして、腰に挿してあった二振りの小太刀を鞘ごと引き抜くと、酒呑童子に向かって放り投げる。
それを慌てて受け止めると、首を捻る。
自分の手元にある二振りの小太刀。
これは見覚えがある。其れも当然。御神恭也と戦うたびに眼にしてきた、好敵手の得物だからだ。
「銘は八景。二対一刀の俺の相棒だ」
「や、かげ?で、それを投げてよこしてどうしたんだ?」
「お前に預かってもらいたい。俺の下らない戯言に付き合ってもらうお前に対するせめても礼だ」
「預かるのはいいけどよ。お前はどうするんだ?長い間使い続けてきた小太刀がなくなってやっていけるのかよ」
「ああ。生憎とうちの娘は多彩でな。鍛冶屋の真似事もできる。八景とほぼ同じ小太刀を作ってもらっていてな。武器ということに冠して言えばそちらで問題はない」
ふーん、といまいち要領を得ない返事を返す酒呑童子。
其れもあたりまえだ。仮にも長きに渡って死地を潜り抜けてきた相棒をよりによって何故自分に渡すのか。
「もし、もしもでいい。それを振るうに値する剣士が現れたならば―――渡してやってくれないか?」
「ん―――ああ、わかった。それまでは預かっといてやるぜ」
ひらひらと手を振り、右手に八景を持ちながら酒呑童子は去っていく。
それを見送っていた恭也だったが、彼の姿が完全に見えなくなった頃に、誰にも聞こえないほどに小さな声でポツリと呟いた。
「―――【また】逢おう。酒呑童子」
それから四ヵ月後。
後の世にてアンチナバーズの頂点の中の頂点。アンチナンバーズのⅠ。世界最強。鬼の王に唯一土をつけた男。剣の頂に立つ者。
御神恭也―――死亡。