古くは日本の都とされた京都。
その北部に大江山と呼ばれる連山が存在する。多くの登山者が日々それぞれの峰を目指して登っている、有名な連山だ。
遠い昔には鬼がでると噂にもなった呪われた土地でもある。だが、実際にはそれはもう気が遠くなるほどの過去。
今ではそれを信じている者は、極一部を除いていないだろう。
そんな大江山と呼ばれる連山の奥深き場所。何時頃からか、誰かもわからないが、何者かの私有地として何人たりとも足を踏み入ることができない場所があった。
巨大な木々が周囲を覆い、息を吸えば下界とは違った清浄な空気が肺を満たす。
魔境にあるとは思えないほど巨大な屋敷。ただし、古ぼけているとまではいいかないが、全体的に太古を感じさせる不思議な雰囲気の屋敷だった。
その廊下を大股で歩いているのは二メートルを超える大男だ。それ以外に特徴がない平凡な顔。
街で見かけたとしても、誰の記憶にも残らないような、そんな男だった。
男の名前は金熊童子。アンチナンバーズのⅩⅢ(十三)。酒呑童子の配下として名を知られている四鬼の一体。裏の世界では、平凡な容姿とは裏腹に非常に怖れられている鬼である。
怖れられている理由として、四鬼でありながら星熊童子とともに使いっぱしりとして酒呑童子や茨木童子、鬼童丸に使われてしまっているため、他の鬼よりも表に出ていることが多いからだという情けない理由があった。
その金熊童子だが、最近は特に多忙の日々を送っていた。
酒呑童子からは北海道の地酒が飲みたいと言われ北海道までいって買って来たり、茨木童子に九州のあるパワースポットでで売ってい
る装飾品が欲しいと言われ買いに行き、鬼童丸に大阪のたこ焼きが食べたいと言われ買いに行ったりと兎に角多忙の日々だった。
凄くどうでもいいことを頼まれてはいるのだが、一応は上の命令のため拒否は出来ず全てをきっちりとこなしている金熊童子は鬼の鑑としてそれなりに部下からの信頼は篤い。
それにしても、ここ暫くの間本当に忙しいと疑問に思っていた金熊童子だったが、ようやく先ほどその謎が解けた所であった。
そう、本来ならば―――その苦労は星熊童子と折半していた筈だったからだ。
「あの馬鹿女……なにさぼってるんだ」
どしどしと廊下を踏み鳴らし、星熊童子の部屋までいくと、声もかけずに襖を開く。
余程強く開けたせいか、襖がパンっと激しい音をたてた。
「星熊ー!!さぼってんじゃないぞ!!」
今まで溜め込んだ鬱憤を晴らすように怒鳴り散らすが、部屋の中には目的の人物の姿はなかった。
純和風の内装の部屋の中をとりあえず探す金熊童子。しかし、やはり星熊童子の姿かたちひとつ見つけることは出来なかった。ちなみに箪笥の中まで探したので、その中に入っていた下着まで部屋に散らばってしまったが、気にしないことにした。
探す場所が見つからなくなり、両腕を組んで部屋の中央で仁王立ちをする彼だったが―――ふとあることに気づく。
目の前にあるテーブルの上に、折り畳まれた書状が置いてあったのだ。とりあえずその書状を開け、中に書かれている内容を読んでみる。
『探さないでください。星熊童子 追伸。○△県の海鳴という街に行っています』
内容は短いがそういったことが書かれていた。
これは……と、それをもう一度読み直した金熊童子は考える。
前半だけを読めば家出をしたのかと考えられる。正直な話、金熊童子は星熊童子の気持ちが非常にわかる。自分だって今すぐにでも家出をしたいと思ってはいるくらいだ。
だが、後半にわざわざ行く場所を書いているということは、探して欲しいという気持ちが少しくらいはあったのだろう。
書状が書かれたであろう日付を見てみると大体二ヶ月近く前になっている。
良く考えていれば金熊童子が忙しくなったのも大体それくらい前からだ。妙に仕事を任せられることが多くなったとおもったらそういうことだったのかと納得した。
「……いや、ていうか……星熊がいないの気づかなかった」
哀れだと、金熊童子は心の中で涙した。
恐らくは自分だけではないはずだ。酒呑童子も茨木童子も、鬼童丸も―――誰一人、星熊童子がいないことに気づいていなかったのだ。しかも二ヶ月の間に渡って。
書状をとりあえず元通りにたたんで、考えに耽る。
この海鳴という都市はそこまで遠いというわけではない。二ヶ月かかっても戻ってこないということは通常であったならば考えられない。もし仮にこれほどの長期間戻って来れないのであったならば、部下をつかって報告の一つもしてくるものだ。そこら辺星熊童子は細かい性格をしているのだから。
では、誰一人として自分を探しに着てくれなかったから拗ねているのだろうかと考えるも―――それが一番ありえそうな可能性だった。仮にも四鬼の一体。そこら辺の有象無象に後れは取るまい、と結論付ける。
「仕方ない。迎えに行ってやるか……」
星熊童子の部屋から出た金熊童子は偶々見かけた部下の鬼に、書状を渡して自分の考え付いた憶測を伝え、それを酒呑童子に報告するように言い含めた。
そしてそのまま屋敷を出ようと入り口の方へと歩いて向かう。すると丁度入れ違いの形で一人の女性とばったりと出くわした。
死んだ魚のような生気のない瞳。長い髪を首の辺りで縛り、犬の尻尾みたいに背中で揺れている。アンチナンバーズのCM(九百)。金熊童子と同じく、四鬼の筆頭として知られている虎熊童子だった。
「……どうかした?」
暗い声が、金熊童子の耳に響き渡る。
相変わらず生気がない鬼だと考えながら、彼は星熊童子の行方について語った。それを最後まで聞いていた虎熊童子だったが、何か考えるそぶりを暫く見せる。
「……私も行く」
「え、虎さんも行くんっすか?」
「文句、ある?」
「い、いやー。全然そんなことないんですけど……外に出るって珍しいじゃないですか」
おもわず敬語になってしまう金熊童子。それもそのはず、なんといっても、虎熊童子は酒呑童子に仕える配下としては、副頭領の二人を除いて最も古い。星熊童子よりも更に古いという。
鬼でありながら人間の【武】に興味を持ち、極めようとしている変わり者ではあるが、その力は四鬼の中でも飛びぬけている。何でも六百年近く昔に、人間に完膚なきまでに敗北を味あわされて以来、修行に明け暮れているという話を酒呑童子から聞いたことがある。
「……簡単な話。もしも星熊に続いて貴方まで居なくなったら、私にも厄介事が回ってくる可能性が高い」
「あー、そういやそうですね」
虎熊童子の答えに納得がいく。
基本的に使いっぱしりの二人がいなくなれば、自然と上からの無茶な頼み事は残された四鬼の誰かに回ってくるだろう。四鬼の一体熊童子は確か休暇を取って海外へバカンスに行っているが、そろそろ帰ってくる筈だ。
とりあえず厄介事は熊童子に回して貰えばいいか、と結論付けた金熊童子は、虎熊童子と連れ立って大江山を降りていく。
二人の姿は人間と大差なく、人の交通機関を使っても特には問題は起きない。
と言っても、本来の姿は今現在のものとは違う。あくまで人に近い姿を取っているだけだ。
鬼としての本能を解放すれば、人外に近い姿に戻ってしまう。その時の力は、この人間の状態とは比較にはならない。
幾つもの電車を乗り継いで、目的である海鳴という都市を目指す。
北海道へ行って来いやら、九州へ行って来いといった命令よりよっぽど楽だと電車の椅子に座って考えていた。
その正面にて、窓の外の景色をぼーっと眺めている虎熊童子を見て、金熊童子は遠い過去に想いを馳せる。
金熊童子は他の四鬼に比べると随分と若い。生を受けてまだ百と少し程度の年月しか生きてはいない。
数十年前に初代の金熊童子からその名前を引き継いだ。つまりは二代目ということだ。
父親である初代金熊童子は恐ろしいほどに強かった。よく虎熊童子と喧嘩をしていたが、一歩も退くことはなかった姿を覚えている。
今の己の力ではまだ、虎熊童子には遠く及ばぬだろう。今目の前にいる女の力は想像を絶しているのだから。
名を受け継ぐ原因となった事件を思い出す。強かったはずの父親は、まだ未熟だった自分を庇って殺された。当時大江山に攻め込んできた百鬼夜行という名の怪物に、叩き潰された。
別にそれは構わない。弱肉強食こそが鬼の世界に通じる唯一つのルールなのだから。
だが、その時の無念さに満ち溢れた父親の顔が今でも夢に出てくる。それを振り払うためにやらなければならないことがある。せめて父親が常日頃から口癖にしていた言葉を成し遂げてやろうと、金熊童子は心に決めていた。
―――【御神の極限】を超えるのは、この俺だ。
御神の極限とは何なのか知らないし、わからない。
酒呑童子も茨木童子も鬼童丸も、虎熊童子も、初代金熊童子も―――皆が皆、その名に拘っていた。
虎熊童子は【武】を極めようと人里を良く訪れる。
鬼童丸は、一緒に酒を飲むのだと、苦手な酒を毎夜毎夜酒呑童子と一緒に飲んで潰されている。
茨木童子は、何時か眼にモノを言わせてやると、毎日牛乳を飲んでいる。
その中で酒呑童子は特別だった。
数百年も前にかわした約束。それを未だに守っている。
彼は鬼の王だ。全ての鬼達の頂点だ。鬼は人を喰らう。それは本能であり、鬼の本性でもある。
茨木童子も鬼童丸も、四鬼も、人を喰らう。喰らわなければ、本能に押し潰されてしまうからだ。
だが、酒呑童子は―――未だ人を喰らっていない。
どれだけの飢餓に襲われても、彼はそれに耐え切ってきた。
鬼の頂点である彼の本能は、本性は、他の鬼とは比べ物にはならないほどに、【鬼】である。
しかし、彼はかつての友とかわした約束ともいえぬ約束を守り続けていた。それが何故なのかまだ歳若い金熊童子には理解できてはいない。
そんなことを考えているうちに、気が付いたときには既に目的地となる海鳴に電車は到着していた。
実は金熊童子は途中何度か虎熊童子に話しかけようとしたが、全てが未遂に終わっている。窓の外をずっと眺めている彼女の雰囲気の重さがとんでもない。
結局数時間に渡って特に会話らしい会話をしないで到着してしまったことが、虎熊童子の【私に関わるな】オーラの凄まじさを物語っているともいえる。
海鳴駅に到着した二人は、人の多さに辟易しながらも人波をかきわけつつ、駅の外へと出た。
日の光が降り注いでくるが、別に吸血鬼というわけではないので特に気にもせずに、とりあえず駅の傍にあった周辺の地図の前でどこへいくか話し合いを開始する。
「うーん。虎さんはあいつどこにいると思います?」
「……さぁ?」
「いやー別に予想でもいいんですけど」
「……あいつの考えることなんて私に予想がつくはずがない」
「いやっはっはー。虎さんと星熊って仲悪いですからねー」
「……あいつが勝手に突っかかってくるだけ」
金熊童子の言ったことは事実であり、虎熊童子と星熊童子はことあるごとに仲違いをしていた。
もっとも星熊童子が一方的に敵視しているだけで、結局は虎熊童子に泣かされて終わることが非常に多い。
「うーん。拙者にも予想つかないんですけどね。あいつが何しにこの街に来たかが分かればまだ良かったんですが」
星熊童子が残した手紙の内容を思い出すが、手がかりになりそうなことは全くなかった。
実は彼の予想ではもっと小さい街だと思っていたのだが、予想よりも遥かに大きい街だったことに驚いているところである。ここまで大きいと探し人を一人見つけるだけでもなかなかに厄介なことだ。
「あー。なんか急に面倒になってきたんですけど」
「……私は最初から面倒だった」
「そうっすか。まー適当に探し回っていなかったら帰りましょうか。良く考えたら、あの三人を放っておいたらどうなるか分からないですし」
「別に、私は構わないけど……金熊がまた面倒ごと背負い込むことになるよ?」
「もう仕方ないです。諦めましたわ。拙者さえ我慢したらなんとかなるんですし―――今度星熊にあったらぶん殴っときます」
頭の中で星熊童子の両頬を力いっぱい引っ張る想像をしてストレスを解消しながら、二人は特に目的地を決めずに歩き始めた。
とりあえず星熊童子の容姿を口頭で伝えつつ、道行く人に聞いてみる。中々に親切な住人が多いのか、聞く人全員が律儀に金熊童子の問いに答えてくれた。生憎と全て無駄に終わる結果となったが。
「んー。虎さん、感じてます?」
「……ん。この街何かおかしい」
一時間近く探し回ったが成果はなく、海鳴臨海公園の海が見渡せるベンチにて並んで座っていた時、金熊童子がそう切り出した。それに対して虎熊童子が感じていた違和感に頷く。
街の至るところに感じる異様な気配。自分達のような人外のモノもあれば、明らかに人間のモノもある。
幾らそれなりに大きい街だからといって、これほど強大な気配を持つ者達がここまで密集して生活していることに疑問が浮かぶ。
「もうちょっと探ってみますかねぇ、虎さん」
「……いや。その手間が省けたかもしれない」
「―――成る程」
先に気づいたのは虎熊童子だった。それに一拍置いて金熊童子も気づく。
彼女ら二人が座っているベンチの十数メートル離れた場所に、鯛焼きの屋台が出ているが、そこに三人の女性が居た。
水無月殺音と冥。その二人の背後に控えている文曲だ。
「だーかーら!!カレーとピザ味を買ってみようって!!」
「全く、お前は何を考えてるんだ。鯛焼きには餡子と決まっているだろう?」
何やら言い争いをしているようで、屋台の店主は若干困り顔だ。
メイド服の女性が三人、しかも極上の美女が騒いでいたら当然人の目を惹くだろうが、さすが海鳴と言うべきか周囲の人間達は我関せずとスルーして去っていく。
何をそんなに騒いでいるのかと、金熊童子は眼を細くして鯛焼きの屋台に書かれているメニュー表を眺める。
メニュー表にはオーソドックスな餡子。クリーム。チョコ&クリーム。ここまでは良い。だが―――。
「カレーにピザにチーズ。……ぎょ、餃子風味?」
「……何それ怖い」
「うっひょー面白いっすねぇ。茨木様にお土産で何個か買って行って上げましょうか?」
「……止めた方が良いと思う。首の骨折られるよ」
「首で済むと思います?」
「……ついでに腕と足も折られるかも」
その光景を脳裏に描いた金熊童子は、アイタタと言いながらベンチから立ち上がる。
この街に来て初めてとなる星熊童子の行方に関係するかもしれない相手と出会えて、少しだけ気が楽になった。
例え相手が水無月殺音だったとしても―――。
「ちーっす。お久しぶりっすねー、猫神の姉さん」
「うん?あー、金熊じゃない。こんな街にどうしたの?」
「―――っな!?」
「!?」
非常に気軽に声をかけた金熊童子と同じく、気安く手をあげて答えた殺音。
逆に驚きのあまり一瞬固まったのは冥と文曲だった。それも僅かな時で、瞬時に金熊童子との距離を慌てて取る二人。
「何よーあんたまた大きくなったんじゃないの?」
「いやっはっは。何ですか、その親戚のおばさんみたいな台詞―――げふっっ」
おばさんという単語を聞いた刹那、殺音の拳が金熊の腹にめり込んだ。両手で腹を押さえて、両膝を地面について悶え苦しむ。
今日は忙しくて何も食べてなかったためだろう。胃の中の物は幸い出てこなかったが、その代わり胃液が地面を汚した。
鯛焼きの屋台の前で起きた惨劇に、周囲の人間は逃げ出す。泣きっ面に蜂なのは屋台の店主だ。鯛焼きが焼ける匂いのかわりに、酸っぱ臭い悪臭が屋台を包む。
「い、幾らなんでも、この仕打ちは、酷いと拙者は、思うんですけど」
「あーごめん。手が滑ったみたい」
「手が滑って、こんなボディブロー、かませるわけ、ないっしょ」
「そう言えば、前から言おうと思ってたんだけどあんたの一人称の拙者ってダサイよ」
「今の会話に、全く関係、ねーっすよ!!」
腹をさすりながら立ち上がった金熊童子が、口のまわりの胃液を拭く。
そんなやり取りを呆然と見ていた冥だったが、はっと我を取り戻して殺音の腕を引っ張って遠ざける。
「お前、なにそんなに悠長に話している!?相手はあの四鬼の一体だぞ!?」
「えー。まぁ、そうだけどさ。金熊とは長い付き合いだから、ついついね。それに一体じゃなくて、もう一人来てるみたいだけど?」
殺音がベンチに座っている虎熊童子の方向を指をさす。指をさされた虎熊童子だったが、何の反応もせずに、顔をあさっての方向に向ける。まるで人違いですよーと言わんばかりの対応だ。
それに気づいた冥の顔が引き攣る。まさかこんな街中で四鬼のうちの半分―――しかも、最悪の二人が訪れるとは夢にも思っていなかった事態だ。
「くっ―――まさか星熊童子の仇を取りにきたのか!?」
「え?何のこと?」
きょとんとした様子の金熊童子に、冥はしまったと顔を顰める。
星熊童子の行方を知らない相手だというのに、まさかの墓穴を掘った冥だった。
「あー。まさかうちの星熊がご迷惑おかけしました?」
「うん。こっちが瀕死の時に手下引き連れて殺しにかかってきたんだけど。ちゃんと教育しといてよ」
「それは申し訳ないっすねー」
金熊童子は殺音の苦情にペコペコと頭を下げて謝罪する。
どんな方法か知らないが、どうやら水無月殺音が弱った時を察知して、彼女を殺すために星熊は動いていたようだと予想がついた。真正面からぶつかっても勝ち目がない以上それは仕方のないことだが。そしてここに殺音が五体満足で立っている以上―――星熊童子がどうなったか察しがつく。
仕方ないかと、ため息を吐いた。戦って負けたのなら相手を責めることはできない。その結果死んだのならば、それが星熊童子の運命とやらだったのだろう。弱肉強食―――強き者が正しい。それが鬼の正しいあり方だ。
問題はこれからの酒呑童子達の無茶振りが全て自分に降りかかるということだけが非常に辛い。
そこで金熊童子は気づく。ある異常なことに。ありえるはずがない、水無月殺音―――伝説に名を刻む猫神が、瀕死という単語を使った事実。
「……猫神の姉さんが、瀕死?」
「うん、そうそう。いやー見事に負けちゃった」
「は、はははは……お、面白い冗談ですねー」
今度は金熊童子の頬が引き攣る。笑えている自信がない。口の中が乾く。喉がひりついた。
殺音の言葉は軽く聞こえる。だが、眼が笑っていない。それは事実を告げている。彼女は真実を語っている。
「猫神を【覚醒】させて、【解放】させても無理だったからさー。私も実はもう一段階あげれるように修行中なんだよね」
「どんなっ、化け物―――」
言葉にならない。きっと今の状況をそう例えるしかないだろう。
伝承級と謳われる猫神の全力を打ち破る。それが出来る相手を金熊童子とて、自分の主くらいしか知らない。
「近い将来多分あんた達もその名を知ることになると思うよ。伝承墜とし―――ある御神の剣士の名をね」
【御神】という名を聞いてぴくりと虎熊童子の耳が動いた。我関せずの態度だった彼女がベンチから立ち上がる。
じゃりっと砂を踏みしめる音が響く。全員が気が付いたときには既に虎熊童子は殺音の目の前にいた。
その動きを見切れたものはこの場に殺音のみ。冥も文曲も、金熊童子も、その動きを理解できなかった。
殺音は自分をみつめてくる生気の無い瞳を気味悪く思いながらも見つめ返す。
滅多に会う事が無かった相手だが、相変わらず虎熊童子は不気味な気配を漂わせていた。
「何か用?」
「―――御神の、剣士?」
「え?」
「―――【御神、恭也】?」
虎熊童子の右手が殺音の首を掴む。その動きは特に速かったわけではない。
だが、不思議とその手を振り払うことができない奇妙な動きだった。虎熊童子の右手に力が入る。ビキビキと音をたてて殺音の首を締め付けた。
己の首を凶悪な握力で締め付けてくる虎熊童子を冷たい視線で見返していた殺音の左手が、首を絞めている相手の右手首を掴む。
両者が放つ異様な気配に、観客と成り果てた三人が飲み込まれ、圧倒される。
虎熊童子の右手が殺音の首を圧し折る勢いで締め付ける。
殺音の左手が虎熊童子の右手首を破壊する勢いで掴みあげる。
ミシミシと骨が軋む音が周囲に鳴り響きながらも、どちらも引く様子は見られない。
尋常ではない互いの気当たりが周囲に広がっていく。鯛焼きの屋台の土台がベキッという音をたてて崩れ落ちた。
店主が泣きそうになりながら早くどこかにいってくれといいたそうにしていたが、言える勇気があるはずも無く、この空間は人外が支配する異空間へと変貌していた。
「ストップ!!はい、ストップですって。二人とも」
二人が狂気を発してたのは一分程度だっただろうか、我を取り戻した金熊童子が二人の間に割ってはいる。
両手で二人の手を掴み引き剥がす。予想に反して二人の腕はあっさりと外すことができ、彼が間に立ち距離を取らせた。
それでも二人の視線は、金熊童子など眼中にないといわんばかりに、互いに向けられている状況だ。それに金熊童子冷や汗を流す。
「猫神の姉さん、拙者達はこれにて失礼します!!」
これ以上ここにいても碌なことになるまいと判断した彼は、金熊童子の背を押してこの場から離れてく。
四鬼の二人の姿が海鳴臨海公園から見えなくなって―――ようやく臨戦態勢を崩した冥と文曲。
「大丈夫か、殺音―――っ!?」
冥が自分の姉を見上げて驚きのあまり眼を見開いた。
殺音の首には呪いの痣のように、くっきりと虎熊童子の手痕がついていたのだ。そこは青黒く染まっていた。
その痕に手を触れた殺音は相当に痛むのか顔を顰める。
「もうちょっと続けてたら首の骨折られてたかもねー」
そんな物騒な台詞を吐いた。
仮にも伝承級と呼ばれる猫神の首を圧し折ることを可能とする。それがどれだけ桁外れの行いなのか―――冥はごくりと息を呑んだ。
「まぁ、もっとも―――続けられたらって話だけどね」
にひひっと笑った殺音は、もはや影も形もない二鬼の消えた方角を見据えていた。
「虎さんも、いきなり何やってるんですか?猫神に喧嘩売るなんて、幾らなんでも結構厳しいですよ」
「……別に」
邪魔をされたのが癇に障ったのか、並んで歩いてはいるが虎熊童子は若干不機嫌そうだった。
それにしてもやはりこの女は恐ろしいと、改めて彼は実感する。今でこそアンチナンバーズのCM(九百)に位置しているが純粋な戦闘力だけでいうならば間違いなく自分より上だろうと。
そもそもアンチナンバーズの序列は強さだけでは決められていない。強さを含む思想・経歴・性格・経験―――そういった人間社会へ対する危険度が重視されるため、ここ数百年の間人間社会へ全く手を出していない虎熊童子の序列がそこまで下がってしまったのは無理なかろう話だ。そういった意味ではⅩⅠ(十一)の茨木童子。ⅩⅡ(十二)の鬼童丸は別格とも言えるが。
「やー。それにしても虎さんやっぱ強いですね。あの猫神と力比べで負けないなんて」
「……そう、見えた?」
「え、あ……はい」
そして虎熊童子は右手を無言で彼の前に持ってくる。
金熊童子の視界に映ったのはパンパンに膨れ上がった、彼女の右手首。その手首は一目で判るが、明らかに折れていた。
折れていると言うのに全く表情を変えていない彼女は、忌々しそうにもう姿は見えない殺音がいる方向へと一瞬視線を送る。
「……強いよ、あの小娘。さすがは風音の後継者」
称賛の言葉を送った。千年近くを生きる彼女が、百数十年程度しか生きていない殺音を認めていた。
その称賛は、虎熊童子が相手に贈る最大限のモノだと金熊童子は知っている。ここまで手放しで相手を強いと断定することは長らくともにいる彼とて初めて聞いた。
一方虎熊童子は先ほどの水無月殺音の姿を思い出す。
人里に下りるときは人間の武を見学に行く時以外、基本的に大江山に引きこもっている彼女にとって水無月殺音とは実は数えるほどしか会っていない。その数は実に二度。実は数十年ぶりの出会いだったのだが―――。
―――確かに強い。でも噂ほど、か?
それが彼女の率直な感想だった。
世間では水無月殺音は先代を超えたと云われている。それがいまいち納得できなかった。
確かに強い。いや、恐ろしいほどに強い。通常状態であれならば、猫神の力を解放したときは一体どれほどになるか想像は難しい。
だが、虎熊童子は知っている。先代猫神―――水無月風音の凄まじさを。凶悪さを。異常さを。
御神恭也の懐刀として、幾度となく彼女の前に立ち塞がったあの怪物を超えているとは思えなかった。
闇の力が弱くなってきた現代とは違う。魑魅魍魎が溢れるあの遠き過去―――その時代でさえも、その名を聞いただけで恐れられた伝説の怪物。それが本当の猫神だ。アンチナンバーズの伝承級と呼ばれた化け物だ。
「まー、とりあえず帰りましょうや。星熊多分死んでますよ」
「……そうだね」
考えるのは苦手な虎熊童子は、思考に割って入ってきた金熊童子に同意した。
思っていたよりもあっさりと目的を達することができたようで、助かったと内心で安堵する。さっさと帰って鍛錬を再開しようと心に決めたその時―――。
「それで、何故そんなに慌てて連絡をしてきたんだ?四鬼はもう帰ったんじゃないのか?」
ズクンっと心臓が胸を叩く。
「縁があるとは確かに思うが……さすがに今回ばかりは考えすぎだ」
この声の持ち主に虎熊童子には覚えがあった。
足が止まる。手が、足が、心が震える。忘れるはずが無い。忘れようもない。
視線の先、そこに声の主がいた。
そして―――。
「く―――あは、はははは、はは。この世界に生まれ出でて幾星霜。今日、この日ほど嬉しかったことはない。お前は確かに盟約を守ってくれた。私と、否。【私達】と交わした盟約を―――」
考えるよりも早く、本能が言葉を発していた。
足が一歩を踏み出す。身体中の震えはおさまっていない。だが、構うものか。
これは、歓喜で全身が打ち震えているだけの話なのだから。
「―――私の名前を覚えているか?いや、覚えていなくても良い。忘れていたとしても構わない。そのかわりに【今度】は私から名乗りをあげさせて貰おう。我が名は虎熊童子。お前を超えるためだけに数百年を捧げてきた―――同胞にさえも愚か者と呼ばれる一人の鬼だ」
随分と年若く見えるが、間違いようがない。
虎熊童子が間違えるはずが無い。幾ら姿形が若くても、一目で判る。
何故ならばその身に宿す魂の色が一緒なのだ。数百年前と同じで誰よりも、何よりも深い闇色だ。
輪廻転生。生まれ変わり。そういったモノでなければ説明がつかない。
「もしも、お前が現れなかったら愚か者で終わったであろう、我が人生。だが、お前は現れた―――現れてくれた。ならば私は、愚か者などでは決してない。私は―――幸せ者だと胸を張っていえる」
歓喜だけではない。言葉通り幸福で全身が満ち溢れる。
数百年刻んできた時が報われたのだ。
「さぁ、約束の時だ。【かつて】はお前に私の初めてが奪われた。ならば【今度】は私がお前との初めてを奪ってやる。存分に楽しもうぞ―――御神の魔刃よ」
そして地面が爆発した。
驚異的な爆速で間合いを詰めた虎熊童子の左手が薙ぎ払われる。狙いは恭也の頭。
空気を打ち抜き、恭也の頭があった場所を振りぬいた。
間合いを見切り、僅かに後ろに上体をずらしかわしていた恭也の頬に鋭い痛みがはしる。避けたというのに、風圧だけで皮膚を切られたということに瞬時に気づく。
恭也の視界にパッと赤い血が舞った。
振りぬいた左手の影になるように、恭也が一歩踏み込んだ。
ズシンっと周囲が揺れる。掌底が虎熊童子の腹部に叩き込まれた。勿論徹込みの容赦のない一撃だ。
衝撃が浸透する。その衝撃に虎熊童子はこふっと咳き込む―――そう、咳き込んだだけだった。
振り戻される左手。鋭い肘が、懐に踏み込んでいる恭也に向かって狙い、放たれた。
対して恭也はさらに一歩を踏み込む。逃げもせず、間合いを取ろうともせず、追撃の一手を叩き込んだ。
連続して打ち込まれる二度目の掌底。今度は【徹】を加えていない、ただの打撃だ。
ぶわっと虎熊童子の体が浮き上がる。両足が地面を削りつつ、虎熊童子は一メートル近くも吹き飛ばされた。
当然、彼女の肘は間合いから外れた恭也に届くはずも無く、空振りに終わる。
この相手は危険だと、恭也の脳に危険信号が鳴り響く。
容姿だけを見れば人間の女性に見えるが、恐らくは違う。ただの人間が恭也の【徹】を受けて咳き込むだけで済む筈がない。しかも手加減抜きの全力の一撃だ。人形遣いや殺音のような人外の耐久性がなければ、それは有り得ない。
意識を切り替えたが、まだ甘かったらしい。恭也の口から短い呼気が漏れる。
手持ちの武器を確認する。生憎と翠屋のヘルプ中だったために、小太刀はない。飛針も鋼糸も本日は間が悪いことに持ち合わせていなかった。つまりは底知れぬ怪物相手に、素手で立ち向かわなければならないということだ。
それを確認した恭也は意識を集中させる。握り締めていた拳の力を抜き、その代わりに歯を食いしばった。
―――久しぶりに、使うか。
覚悟を決めた恭也にあわせるかの如く、虎熊童子が動く。
翻る一つの肉体。人外に相応しい迅速の動き。黒き獣は既に恭也の目の前にいる。
ドンっと足元に地鳴りが響く。まるで先ほどの自分の踏み込みの音のようだと口角が緩む。
振り下ろされる凶悪な左拳。最大の威力を持って、最速のスピードを持って―――恭也の頭蓋を叩き割るべく牙を剥いた。
恭也は退かない。恭也は逃げない。恭也は避けない。
圧倒的な暴力が迫り来るなか、その拳に左手を合わせ―――激突する瞬間、威力を完全に【流した】。
虎熊童子の拳は威力を全て流され、地面に叩きつけられる。何かが砕ける音がして、地面に拳大の穴が開いた。
それを見た彼女の顔が嬉々とした様子を浮かべる。
恭也の身体が開き、右拳が虎熊童子の顎を捉える。如何な化け物とて、顎を揺さぶられたならばまともな動きは期待できまい。
しかし、恭也の拳が捉えたのは空気のみ。その速度は人の域を遥かに超え、人外の域も遥かに超えていた。
非常に厄介だと恭也の舌が鳴る。
恭也の打撃をものともしない耐久力。恭也の攻撃をかわすことを可能とする機動力。あたれば決着がつく破壊力。
そのどれもが人形遣いと比べても遜色はない。恐ろしいほどの怪物だ。
ざっと風きり音が、耳を打つ。身をかがめ、一瞬遅れて虎熊童子の蹴りが通過していった。
身をかがめたまま水面蹴り。虎熊童子の足を刈り取った。
バランスを崩した彼女に鞭を連想させる蹴りが襲い掛かる。その蹴りを片手で軽々と受け止めて間合いを取る。
多少は痛むのか、蹴りを喰らった手をぷらぷらと空中で揺らす。
だが、到底効いているとは思えないのが恭也の印象だ。
攻防の直後ではあるが、隙という隙が見当たらない。見出すことが出来ない。
彼女の手も足も、脚も、胴も、顔も―――その全てが、どのような攻撃にも対応できるように恭也のみに向けられている。
どのような攻撃にも、どこからの攻撃にも対応し、そしてあらゆる反撃へと移り得る。
人外にしては珍しい、武を突き詰めたような、隙を見せぬ戦いかただ。
恐らくはこのまま見つからない隙を探しても無駄だろうと恭也は判断した。見つからない隙を見つけようとしても、それは無駄な行為にしかならない。ならばどうするか。決まっている。無いのなら作り出すしかない。
ぞぶんっと恭也の意識が深淵へと沈んでいく。意識を極限にまで集中。理解しろ。目の前の相手は、刀が無い状態の己では、全力をだすしか勝利を掴む方法は無いということを。
そして恭也は御神流裏と呼ばれる【それ】を発動させる。
可能性を摘んでいけ。可能性を潰していけ。可能性を消していけ。可能性を奪っていけ。
虎熊童子の四肢を凝視する。その肉体の脈動を理解する。
彼女の耐久力を、機動力を、破壊力を分析し、組み立てていく。
虎熊童子には四肢がある。それは当然だ。だが、それが全て同じ動きをするかといえばそうではない。
右手には右手の。左手には左手の。左足には左足の。右足には右足の。それぞれが成し遂げる役割が存在し、動き方にも限界がある。
それに戦いの最中に気づいたが、彼女の右腕は壊れている。どうやらこの戦いのなかで動かすことはできないようだ。
ならばさらに選択肢をつぶすことができる。
虎熊童子の全身を観察する。
果たして次の瞬間には左手はどの方向に動くのか。どの位置に移動するのか。どれだけの力が込められるのか。
果たして次の瞬間には右足はどの方向に動くのか。どの位置に移動するのか。どれだけの力が込められるのか。
果たして次の瞬間には左足はどの方向に動くのか。どの位置に移動するのか。どれだけの力が込められるのか。
相手の呼吸と肉体の脈動を観察し、凝視し、分析し、見切り―――次の可能性の一手を絞る。
そしてその一手へと導くために己の右手を、左手を、右足を、左足を、胴体を、視線を、呼吸を動かす。
己が導き、相手をその可能性へと至らせる。だが、それはあくまでも複数の可能性の一つでしかない。恭也の意識に描かれるのは、幾多の可能性。その可能性の全てに対応できるように、意識を張り巡らせる。
しかし、どんな行動を取ろうとも、それは恭也が思い描き、予想し、予測した可能性の一つ。
相手の動きを理解している以上、次の行動には僅かな隙が生まれ出でる。そこに攻撃はまだ加えることは出来ない。ならばそれを可能とするまで続ければ良いだけだ。
虎熊童子の次の行動を推測し、検討し、可能性を取拾選択し続ける。
如何なる破壊力を秘めた一撃だろうが、来るとわかっていれば恭也ならば流し受けきることは可能だ。
彼女の取る行動の可能性を全て潰していく。そうすることによって、虎熊童子の取りえる行動が少しずつだが狭まっていく。
無限に広がっていた筈の彼女の取れる行動が確定していく。
それとともに恭也が出来得る限りの最善の一手。最速の一手。最高の一手。それらをただひたすらに繰り返し続ける。
極限の集中力が、虎熊童子の行動の可能性を奪っていく。
だが、逆に言えばそれは諸刃の剣でもある。恭也は凶悪な暴力の間合いにいる。そこは一撃で相手を殺し得る怪物の暴風地帯だ。
もしも恭也の集中力が途切れたならば、もしも恭也の判断が一手でも間違えたならば、もしも恭也の相手への可能性の潰し方を
間違えたならば―――瞬きする間に、命を落とす。
それはまさに恭也だからこそ為し得る。恭也だからこそ展開できる。恭也だからこそ可能とした。
極限の集中力が、緊張感が、これまで積み重ねてきた技術が、蓄えてきた経験が―――今ここで可能性を現実とし、消し去り、相手の行動を限定していく。
美由希が翔との戦いで見せた御神流裏とは比べるまでも無く、ここで行われている出来事は次元が違った。
御神雫がこれを見たらどう思っただろうか。果たして驚いただろうか。果たして喜んだだろうか。果たして懐かしんだだろうか。
ここに存在している恭也の技は―――御神恭也の域にもうすぐ達しようとしていた。
そんな二人の空間を引き裂くように、白色の閃光が迸った。
奇妙な音をたてて、超高温超圧縮されたレーザービームともいうべき閃光が虎熊童子に降り注いだ。
そのレーザーを流石に危険に感じたのか虎熊童子は大きく後退して、恭也との間合いを広げた。それとともに感じる悪寒が再度彼女を襲う。着地した場所からさらに後方へと離脱する。同時に地面が激しく音をたてて爆発した。
「いやー。全然帰ってこないと思ったら何してるんッスかー、キョーヤ兄」
「全く。お前は眼を離すと直ぐに女に絡まれるな」
恭也の前にエルフとフュンフが立ち塞がる。その背にはHGSの証である双翼がたなびいていた。
二人とも言葉は軽いが、一切の油断は見受けられない。それも当然だろう。
恭也と虎熊童子の戦いをを見て、相手を軽く見るならばそれはもはやただの愚か者だ。
「―――さがっていろ。その女性は、強いぞ」
「わかっているさ。だが、我らはナンバーズ。あらゆる人外から人間社会を守る最後の砦だ」
「まー、そういうことッスよ。キョーヤ兄はそこで見物しててもらって構わないッス」
二人の双翼が一際強く輝きを放つ。
決して引きはしないという意思がそこからは見て取れた。だが―――。
「……邪魔だ!!」
疾走する虎熊童子の左手が、二人に異能力を使わせる暇もなく振り払われる。
激しく音をたてて空気を裂き、その拳がエルフの体を貫いた。
「―――っな、に?」
貫いた筈の虎熊童子が声をあげる。手から感じ取ったのは人体を破壊する感覚とは全く異なった感触。
そして、エルフとフュンフの姿が陽炎のように視界から消え失せる。刹那感じるのは、先ほどと同じ悪寒。背筋が冷たく濡れる。
その場から跳躍。降り注ぐ白の閃光。道路に幾つもの穴を空ける。嫌な匂いが立ち込めた。
遠く離れたことによって再度視界に入ったのは三人の姿。見ればフィーアが邪悪な笑みを浮かべていた。
「初めましてぇ。アンチナンバーズのCM(九百)さん。私はナンバーズが有する数字持ちの一人。幻惑使いのフィーアと申しますわぁ」
語尾が独特のフィーアがクイっと落ちそうだった眼鏡を押し上げる。
幻惑使いと聞いて、成る程と納得する虎熊童子。恐らくは光の屈折率を変化させ、幻影を造り出すのだろう。
そうあたりをつけた虎熊童子だったが、彼女のフラストレーションは既にマックスまで高まっていた。
何せ長い間願い続けていた相手との戦いを邪魔されたのだ。その怒りは―――容易く彼女の枷を外すに至った。
「もう、いい。邪魔だ、お前達。一瞬で―――終わらせる」
空気が重くなる。さきほどまでよりもさらに重圧が増し始めた。
風が虎熊童子を怖れたように、ピタリと止んだ。三人に自然と鳥肌が立つ。
これまで戦ってきたどの人外よりも、周囲へと振りまく恐怖は格が違っていた。
「―――鬼人、解―――」
「はい、そこまで。それ以上は駄目ですって、虎さん」
虎熊童子の口を塞いだのは、今まで完全に蚊帳の外にいた金熊童子だった。
正直な話、二人の戦いに見惚れていたのだが、流石にこれ以上はマズイと判断してようやく止めに入ったというわけだ。
憎悪に塗れた視線で、射殺さんばかりに睨みつけてくるが、金熊童子としてもひくわけにはいかない。彼女のしようとした行為。それは鬼の力の完全解放。本能の赴くがままに殺意をばら撒く殺戮鬼へと変貌する。
その解放は酒呑童子―――もしくは、副頭領の二人のうちどちらかの許可がいる。
「それに虎さんの様子からみて、何ですか。あいつが御神の極限って奴ですか?」
「―――ッ」
口を塞がれているため返事ができない虎熊童子は頷くことによって返答とした。
それを確認した金熊童子は、ちらりと此方を窺っている恭也へと視線を向ける。
「じゃーやっぱまずは報告が先ですよ。酒呑様にお伝えしないと駄目です―――わかりますよね?」
酒呑童子の名を出された虎熊童子は、突如大人しくなる。今まで発していた異常な殺意も少しずつおさまっていった。
残念なことだが金熊童子の言う事は筋が通っている。説得に応じざるを得ない。
溢れんばかりの攻撃性が消え去ったことに内心でほっとした金熊童子は遠くに見える恭也にニカリと人の良い笑顔を向けた。
「拙者の名前は―――いや、違うか。【金熊童子】……この名前を覚えておいてくれたら嬉しい」
そして、虎熊童子を庇うように、少しずつ後ろへと下がっていく。
「あんたを超えることだけを目標にして生きてきた馬鹿な男の名前だ。また日を改めて会いに来るよ」
彼の顔は笑っていた。だが、彼の瞳は笑っていなかった。恭也の力を見定めるように、凝視している。
三日月を連想させる、不気味な笑みを浮かべながら、二人の鬼は姿を消していった。
「いやー。それにしてもアレが御神の極限って奴っすか。とんでもないですねー」
「……」
電車を乗り継いで大江山がある京都北部へと戻ってきた金熊童子が山の中を歩きながらそう呟いた。
思い出すだけでゾクゾクっと死の危険が擦り寄ってくる。それは不思議な感覚だった。これまでの百数十年の月日のなかであれほどに死ぬことを意識したのはこれで二回目だ。
あの百鬼夜行と向かい合った時に感じた恐怖をも上回る、人が発する気配とは思えない。
「くっひー。あれは皆が拘るのは分かる気がしますよ。いやいや、実に面白い」
「……」
妙なテンションになっている金熊童子とは対照的に虎熊童子は沈黙を保つ。
帰りの電車からそうだった。どれだけ話しかけても反応もしてくれない。これだけ無視されるのも珍しいと考えながらも、特に気にならなかった。恭也の気配に当てられたせいだろうか。不思議なまでに気分が晴れやかだった。
「それにしても、虎さんって結構喋るんですねー」
「―――っ」
ビクリと反応する虎熊童子。俯いていた顔をバっとあげ、彼を睨みつけるが―――頬は朱に染まっていた。
その反応に一瞬きょとんとする金熊童子だったが、彼女の様子にもしかしてと予想をたてる。
「あっれ。虎さん顔が赤いっすけど大丈夫すか?」
「―――っぅ」
さらにその頬は赤く染まる。
金熊童子はその反応に確信を持つ。ああ。これはアレだ。間違いなくアレだ。
人間と鬼という関係ではあるが、間違いなくアレに違いない。むしろそれ以外の考えが思いつかない。
「もしかして虎さんって―――」
「ぅぅぅぅぅぅぅぅううううううああああああああああああああああ!!」
金熊童子が何を言おうとしたのか察したのか、両耳を塞いで逃げ去っていく。
その途中というか、目の前にいた金熊童子を吹き飛ばし、大江山を登っていく様子はまるで暴走車だ。木々が圧し折られる音が響き、圧し折られた木が地面に倒れる。何本も何十本も連鎖反応を起こすように、山の木々が消えてゆく。
初めてって言っちゃったよぉぉぉぉぉ―――っと山間に響き渡る虎熊童子の山彦を聞きながら、弾き飛ばされ地面に倒れていた金熊童子は立ち上がる。
これから面白くなりそうだと、そんな漠然とした予感を感じながら、彼は虎熊童子の後を追う。
だが―――。
「血の、匂い?」
優れた嗅覚が風が運んできた鉄臭い血の匂いを敏感に嗅ぎ分けた。
人の血の匂いではない。これは明らかに―――同族の血風だ。不吉な予感。この予感には見覚えがある。
屋敷がある方角に感じる凶悪な気配。これにも覚えがある。これは、この気配は―――。
「ふざけるなよ。どうしてお前がここにいる!!なんで、なんでお前が―――また、お前かよ!!百鬼夜行!!」
不幸と惨劇を撒き散らす、人外の中の人外。あらゆる生命を喰らい、己の糧とする同族喰らい。
不死身の百鬼夜行―――大江山に来襲す。