美由希と翔の激闘から月日は流れ、既に季節は冬となっていた。
今年は暖冬のようで、十二月に入っていながら、まだそれほど寒さは感じない。肌寒くはあるが、そこまで着込まなくても大丈夫のようで、厚着をしている人はあまり見かけはしないようだ。
あれから永全不動八門の人間達は、各々の実家へと戻っていった。
葛葉は、全治四ヶ月という診断結果ではあったが脅威の回復力を見せ、その三ヶ月が経ったころには病院を抜け出し、軽い鍛錬に励んでいたという。しかし、他の八門の人間と同じ様に、何やら身の危険を感じている宗家の上の人間から半ば無理矢理呼び戻されたらしい。
ちなみに例外として天守翼は海鳴で相変わらず生活を続けている。
確かに他を圧倒するほどに強い彼女ではあるが、自由奔放。唯我独尊の翼は天守家での評判はすこぶる悪い。それは翼もまだ若かった頃―――今も若いが―――天守本家の人間達と相当にぶつかり合ったことに起因する。
そのため彼女は本家に呼び戻されずにすんだのだ。もっとも、もし呼び戻されたとしても翼はあっさりと断ったことは想像に難くないことではある。
ちなみに天守翔は本家からの評判は、翼とは違って至極良好。当主の座を得るために彼女は、本家に対して従順だったためだ。そういうこともあり翔は本家から帰郷せよという話が来ていたのだが―――それを断り今も海鳴で翼と一緒に暮らしているという。
当主の座にもはや一切の執着をみせなくなった翔にとって、それは当然といえば当然な答えだったのかもしれない。
二人とも翠屋によく来てくれている常連となっていた。翼は恭也に会いに、翔は美由希に会いに来ているといった違いはあれど、二人は桃子の目に止まり、それなりに仲良くなったようだ。
美由希に二人目の友達ができたということで、桃子は本気で嬉し泣きをしていたことも記憶に新しい。
そんな十二月に入って間もない今日とんでもない事態が起きていた。厨房担当のアルバイトが一人捻挫。一人は親戚でご不幸。更には店内担当のアルバイトの娘が風邪を引いたらしく人手不足に陥っていたのだ。
流石に三人抜けは厳しく、当日ということもあり空いた穴を埋めることは出来なかったため急遽ヘルプとして入った恭也が、店内を忙しなく動き回っていた。
生憎と本日は日曜日。一日中が稼ぎ時の大繁盛。そして突然のヘルプ要請もあり、鍛錬は急遽休みとなっていたが、美由希は鍛錬が終わった後那美と遊びに行く予定をたてていたため、昼前であがっている。レンと晶も現在必死になって厨房で注文を捌いていた。
流石に翠屋のメニュー全てを作ることは出来ないが、人手が足りない時は二人ともヘルプに入っているので、それなりに手伝うことは可能だ。
恭也と晶、レンのヘルプもあり、なんとか翠屋は危機を乗り越えることができ、外から差し込む光にはオレンジのものが混じる時間帯
になってきていた。
その時、厨房から皿を持って出てきた桃子と目が合う。
「恭也ー。はい、これ十二番のテーブルのお客様にお願いね」
「―――十二番?」
桃子に渡された熱々のホットケーキが二枚乗った皿を渡されて聞き返す。十二番とは翠屋の一番奥にあるテーブルのことであり、店内が満員にならないかぎりはそこには客が案内されることは少ない。
客がそこがいいといえばまた別であろうが。わざわざそんな奥に行こうとする客も滅多にいない筈だ。
ピーク時を何とか乗り越え、店内を見渡してもお客もかなりまばらになっている。つまりはカウンターなり、テーブルなり好きに座れる状況で、敢えてそんな奥まったところに座る酔狂な客がいたのかと疑問に思ったのだ。
「わかった。持って行こう」
「頼むわねー」
厨房へと戻っていった桃子とは逆に、翠屋の一番奥まった席へと向かう。
それにしても、と恭也は首を傾げる。今から向かうテーブルには全く人の気配というものが感じられない。恭也ほどの【心】の使い手となれば大なり小なり、一般人の気配くらい感じ取れるのはわけはない。
それこそ翠屋程度の店舗の大きさならば、気配の数くらい把握は可能だ。
もしかしたら桃子がテーブルの番号を間違えたのかもしれないと思いつつ十二番席に辿り着き―――。
「お待たせしま―――」
「はい。有難うございます。少年」
言葉が途中で詰まった。瞬間背中が粟立つ。
何故気づかなかったのか。何故気づけなかったのか。何故気づくことが出来なかったのか。
こんな、こんな、こんな―――。
―――人の姿を取っているだけの怪物に。
刹那、恭也の手が霞む。皿を載せているお盆を支えていた手とは別の手が残像を残す速度でしなった。
仮にここに美由希が居たとしても何が起きたかわからなかったであろう。翼であったとしても、理解は及ばなかったはずだ。
だが―――。
「いきなり乱暴ですね。ですが、野性味溢れる貴方も大好きですよ」
恭也の目の前で椅子に座っていたプラチナブロンドの女性は笑っている。笑いながら、人差し指と中指の二本の指で目の前に迫っていたナイフを受け止めていた。
何の予備動作もなく、躊躇いもなくお盆に載っていたナイフを女性に向けて投擲していたのは恭也だった。それをあっさりと二本の指で受け止めた人外は、そのナイフをテーブルに置く。カタンっと小さな音がした。
間違いなく防ぐことが出来るタイミングではなく、速度でもなかったはずだ。だが、目の前の怪物は笑いながらそれを成し遂げる。
十三歳の時に出会った当時の底知れない気配と瞳をそのままに、数年ぶりに彼と彼女は邂逅した。
アンチナンバーズの一桁ナンバー。酒呑童子とともに最も古き時代より生き続けている最古の魔人。一説によればアンチナンバーズの創設者とも言い伝えられている―――未来視の人外。
「できればそのホットケーキを頂きたいのですけれども。宜しいですか?」
「……お待たせしました」
渋々といった様子で恭也はホットケーキの乗った皿を天眼の前に置く。
そんな恭也の姿を嬉しそうに眺めていた彼女は、目の前にようやく置かれた皿のホットケーキに、一緒に持ってこられたシロップをかける。吸い込むようにシロップがホットケーキに染み渡っていき、それをナイフとフォークを使って綺麗に切り分けてく。
その一つをフォークで刺すと、口に運んでいく。パクリと咥え、頬張るその姿はただの美しい女性にしかみえないだろう。普通だったならば、見惚れるのかもしれない。
だが、恭也はこの女性の脅威を知っている。恐怖を知っている。深遠を知っている。
瞬き一つできるものか。集中力を切らすことができるものか。
ここは翠屋じゃない。ここは既に生と死が曖昧な境界線だ。油断をしたらそれで終わる。圧倒的な死が来訪する。
この女は今ここで殺さなければいけない。そうしなくては、何時か必ず目の前の怪物は破滅を齎す。それは確信だ。それは確定事項だ。未来視の魔人は、高町家に、いや海鳴に―――違う。世界そのものに絶望と死を呼び込む。
「やん。そんな怖い顔をしないでくださいよ?そんな顔をされたら―――疼いてきちゃうじゃないですか」
恭也の険しい顔を、天眼はうっとりと恍惚とした表情で眺める。
唇についたシロップを右手の親指で拭うと、赤い舌がちろりとそのシロップを舐め取った。それはぞくりとするほどに艶かしい。
「それにこんな場所で遊ぶのですか?ここには無関係な人もいますよ。それに―――」
邪悪な笑みだ。それが高町恭也の神経を逆立てる。
「少年の家族もいますよね?」
―――そして決定的な台詞を言い放った。
空気が急激に重さを増す。いや、重くなるとかそんなレベルではない。
高町恭也の周囲の空気が―――爆砕した。相手の心の臓を直接握り締め、押し潰す。単純で物理的な圧力を秘めた爆風が巻き起こる。
断言しよう。高町恭也は最強なのだ。圧倒的であり、絶対的であり、究極的であり、超越的である。あらゆる者を、物を、モノを殺すことだけに特化した。最凶最悪の魔人―――いや、魔刃。
高町美由希も、天守翼も、人形遣いも、水無月殺音も、不破一姫も―――誰であっても勝ち目のない怪物の中の怪物だ。
カチリと機械的な音をたてて恭也の意識が切り替わった。それは、数年ぶりに切り替えた、殺すためだけの意識。
高町恭也ではなく、不破恭也でもなく―――【刀】として、命を奪うためだけに恭也が作った死を体現したモノ。
どうやって殺す?
このまま両の眼に指をつきいれ、奴の視覚を奪え。
どうやって殺す?
隠し持っている飛針で四肢を突き刺し、腕力と脚力を奪え。
どうやって殺す?
奴の背後に回って首を絞め、そのまま首を圧し折ってしまえ。
御神の魔刃の名を持って全力全速を持って、有無を言わさず、躊躇いもなく、容赦もせずに、破壊せよ。
恭也の身体が、脳髄からの指令に呼応する。ミシリと音をたてて四肢の筋肉が躍動した。
極限にまで研ぎ澄まされた集中力が、世界をモノクロに染め―――。
それと同調するように女性の背後から膨れ上がった黒い闇。それは本当に深かった。それは【闇】だった。恭也の本質と同種であり、同等であり、同族であった。人からも、人外からも外れてしまった超越的な原初の闇だった。
【闇】は一瞬で巨大なナニかを形作り、恭也へと襲いかかる。幾重にも、幾十にも、闇を形作ったナニかの牙が降り注いできた。その無限の牙がゾブリと音をたてて喰らいついてくる。首に、肩に、腕に、胴に、脚に、足に。
これは幻想だ。これは幻影だ。鋼鉄の精神力が、死の恐怖を弾き飛ばす。だが、幻は消えはしない。
恭也の全身に鳥肌が立つ。危険だと。立ち向かうなと。意識よりも更に奥底からの本能が雄叫びをあげていた。
―――今はまだ、目の前の【コレ】は、殺せない。
「はい、少年。あーんしてください」
「っむ―――ぐぅ」
天眼の言葉に反射的に口をあけて―――そこに放り込まれるフォークに突き刺さった一切れのホットケーキ。
クスクスと何が楽しいのかわからないが、天眼は嬉しそうに笑っている。放り込まれた以上吐き出すわけにもいかない恭也は、仕方なく噛み締め嚥下した。甘い香りと味わい―――シロップとはまた別の、蕩けるような女性の香りが恭也の鼻をくすぐった。
他の女性にされたら羞恥しか感じない行為だったろうが、どうしてかこの女性にされても全くそういった感情はわき上がってこない。
そこで、しまったと恭也は頬をひきつらせる。全く手加減も、遠慮もしない殺意を翠屋にばらまいてしまったのだ。
幾ら店内の客がまばらといっても、これはまずい。というより、客にナイフを投げつけるとか―――恐らくそれは速すぎて見えなかっただろうが、とんでもないことをしたのは間違いない。
ちらりと店内を見渡すが、不思議なことに恭也達に注目している客は誰一人としていなかった。流石にそれは腑に落ちなかった恭也の様子に気づいたのか、彼女は笑顔を向けたまま―――。
「少年とゆっくりお話したいことがありまして、人払いの結界とやらを少しだけ展開させていただきました」
「……」
他の人間に気づかれないようにしてくれたのは非常に有難いのだが、素直に喜べない恭也は沈黙をもって答えとする。
普段の恭也にしてはあまりにも可笑しい対応ではある。常にどんな相手でも敬意を払う彼にしては、ここまで苛烈な反応をする人間はそうはいないだろう。だが、恭也の中のナニかが―――抑え切れないほどの明確な敵意と殺意を彼女に向けていた。
「やれやれです。ゆっくりと言う訳にはいかないようですね?」
恭也の殺意をまともに浴びても、彼女の笑みに変化はない。
だが、ツンツンっとホットケーキをフォークで突きながらも、少しだけ瞳に寂しさが混じっている気がした。
「少年に今日はあることを教えてあげようと思いまして。少年は―――【大怨霊】という言葉を聞いた事はありますか?」
―――そして彼女は語りだす。【大怨霊】と呼ばれる悪霊のことを。
大怨霊。それは文字通りの意味ですよ?
強大な怨霊。ようするにそういうことです。ああ、少年は霊の存在を知っていましたか?
あ、見たことがありましたか。では説明の手間が省けますね。助かりました。
さて、勿論ただ強力な力を持つ怨霊だからといって大怨霊と呼ばれることになるわけではありません。そんなことだったら今頃世界は大怨霊で溢れています。
では、どうやったら大怨霊と呼ばれるようになるか、ですか?それはもう少し後で話しますね。
大怨霊は数百年に一度だけ、現世に現れます。この怨霊が現れると、それが運命であるかのようにその国が荒れます。
運が悪いことに現世に出現する場合、それは日本のどこかと決まっています。日本を覆う霊的結界から外には出れないとか、そういった噂ですけどね。真実は私にはわかりかねますよ?
荒れるとはどういうことですか、ですか?
例えば大飢饉。大災害。大きな戦争。そういった国が傾きかねない、【何か】が起きるんです。
そして多くの命が奪われます。兎に角死ぬんです。何千何万という単位ではありませんよ?桁が二つ三つばかり違いますね。
その怨霊は、日本という国において数百年分の憎悪や悪意を溜め込んでいるわけです。どんな小さな悪意でも。どんな大きな殺意でも。兎に角溜めに溜め続けています。
数百年分の悪意をその身に纏って、その怨霊は現世に現れるんです。そしてその怨霊が【大怨霊】となって、その国に起こる大荒廃の中心となるんです。
はい?私が見たことがあるか、ですか?
はい、ありますよ。嘘をついても仕方ないじゃないですか。泣いちゃいますよ?
私が初めて見たのは大凡六百年ほど昔でしょうか。当時の大怨霊が取り付いたのは一人の農民でした。
切欠はなんということもないものでしたよ。あの時代では当たり前のように起きていた、一人の娘が死んだこと。ただそれだけです。
その二人は親娘でした。親一人子一人。それは仲睦まじい家族だったそうです。
そんなある日、ちょっとした飢饉がありました。その親子は手元にある米を年貢として納めなければなりません。ですが、納めたら食べるものがなくなります。そこで少しで良いので待って貰うように頼んだそうです。生憎と無駄に終わりましたけどね。
他の村民にも食料に余裕がなく―――その娘は餓死したそうです。
父親は嘆きました。父親は呪いました。父親は憎みました。
もし、もしも後少しの食料があれば、もしも年貢を納めなくて済んだならば娘は助かったのにと。
それに目をつけたのが【大怨霊】です。いえ、正確には大怨霊の【元】になるモノですかね。
そんな出来事は当時は幾らでもあったでしょう。ですから、大怨霊に目をつけられたのは運が悪かったとしか言えませんね―――いえ、運が良かったのですかね?ただの人間では決して不可能だった、復讐を果たす力を手に入れることが出来たのですから。
大怨霊の依り代となった父親は、それはもう凄かったですよ。
無限の憎悪で大地を害し、無限の悪意で川を汚し、無限の殺意で天を覆ったんです。
親子が体験したチャチな飢饉ではありません。百年近くに渡って、幾度も続いた大飢饉。死者は果たしてどれくらい出たでしょうか……数え切れないほど、と言っておきましょうか。
もしもあの時【青年】が倒さなければもっと長く続いたかもしれませんね。もっとも、倒されてもなお深い怨念が国を覆っていたせいで大飢饉は免れなかったようですが。
え、【青年】とは誰のことですか?残念ですがそれはまだ秘密です。
さて、その大怨霊ですが、はっきり言って本来ならば人の手におえる物ではありません。
何せ数百年分の悪意の結晶です。ですが、強すぎるが故の制約も存在するのもまた事実です。
【大怨霊】がこの世界に現れると同時に、必ず【天敵】というモノも存在します。それは人であったり、人外であったり、霊刀であったり―――毎回変化しますが必ず存在するのです。
大方世界が完全に滅ばないための自浄作用というものでしょうか。
ようするに、大怨霊は世界を滅ぼすことはできないんですよ。安心しましたか?
ただし逆に言えば―――国が傾くほどの大恐慌は起きてしまうということですけどね。
「で、お前はなんのためにそんなことを俺に言いに来たんだ?」
長い天眼の大怨霊語りが終わった後の、恭也は容赦なくそんな疑問をぶつけた。
興味深い話ではあったが、全く自分には関係ない話ではあるので、そう思うのも当然だっただろう。
「いえいえ。単純に少年と話したかっただけですよ。大怨霊という薀蓄をちょっと披露しようかと思いまして」
話が長かったためか熱々だったホットケーキはすでに冷めてしまっている。それでも天眼は美味しそうに味わいながら、それらを口の中へと消していった。
残りのホットケーキも残り僅か。それが残念なのか、少しだけ頬を膨らませ不満そうな様子を見せている。
「ああ、そうそう。私は大怨霊がこの世に現れるのは数百年に一度といいましたよね?あくまで【数百年】ですよ?五百年現れないこともあります。ですが、二百年で現れることもあります。そこら辺はランダム性が強いですね」
残り一切れとなったホットケーキを口の中へと放り込み、幸福そうに飲み込む。
「この前見たときは何時でしたか―――そう、三百年ほど前です。日本中の神社仏閣を破壊しつくした、日本歴史上最悪の妖怪。確か【祟り狐】とでも呼ばれていましたかね」
「祟り、狐?」
聞きなれぬ名前に恭也は反射的に聞き返す。
日本歴史上最悪の妖怪と、彼女は言った。だが、正直な話恭也はその名を聞いたことがない。
恐らくは最も知られているだろう日本三大妖怪―――そこにその名を連ねていないのだ。
「ええ、そうですよ。そもそも妖怪や怨霊、悪霊が神社仏閣を破壊するという行為自体が有り得ない事です。神社仏閣は確かに邪なる存在の侵入を防ぐために神聖な結界を張っていることがほとんどです。ですが―――そんな結界を張っていなくても、そもそも【破壊】することができないんですよ」
あ、食後のコーヒーをお願いします。という天眼の注文に頬を引き攣らせながら、厨房に取りに行く。
それを持って再び彼女の元へと戻ると、両肘をテーブルにつけ組んだ手の上に顎を置き、恭也の姿を凝視している。その顔にコーヒーをかけてやろうかと一瞬思ったが、理性でそれを止め大人しく渡すことにした。
「例えば鬼。例えば吸血鬼。例えば人狼。例えば龍。そのような人外達は人と比べて強力な力を持つものが多いです。その力を使って彼らは人の世界に手を出してくることが多々有ります。最近は人も科学が進歩したせいで、あまり頻繁には闇の世界の住人も出さなくなりましたけどね。それでも、圧倒的な力を持った怪物というのはやっぱりいるんですよ。ですが彼らはその力を使って、世界を滅ぼそうとは考えません」
何故かわかりますか、と視線で問うてきた相手に、首を振る。考えてみるがそれは流石に恭也にとっては専門外のことだ。
「簡単なことです。世界を滅ぼせるかもしれない力を持っていながら、そんな【発想】ができないんですよ。絶対に。理由なんかわかりませんよ?大怨霊の時にも話しましたが多分、世界が壊れないための作用じゃないですかね。神の意思ってやつでしょうか、下らないですけど。おっと、話が逸れてますね―――つまりは」
「悪霊や怨霊。そう言った存在は神社仏閣を破壊するという【発想】ができない?」
「はい、その通りです。悪霊や怨念は思考能力自体を持つモノも少ないですから発想というよりは、もはや本能でしょうか。もっともそれはあくまで一般的な話であり、ごく稀に本能に埋め込まれたその枷が外れてしまう場合もありますけどね」
「枷が外れていたとしても、好き好んでわざわざ神社仏閣を狙う悪霊もいない、か?」
はい、ビンゴです―――天眼は出来のよい生徒を見る教師のように、嬉しそうに笑みを浮かべている。
「ただそういった本能の枷が外れてしまった化け物が破壊してしまうということも極稀にだけどあります。ですが先ほどもいいましたが、強力な霊的結界を張っている神社仏閣も少なくはありません。そんな場所を破壊して回る。並大抵の化け物にできることではありませんよ。ちなみに少年が知らなかったようにこの【祟り狐】の話はそれほど世間に広がっているわけではありません。理由はわかりますか?」
「―――妖怪に破壊されたことを隠すため、か」
「大正解です。そんな噂が広がってしまえば権威は失墜してしまいますからね。三百年前は相当隠蔽工作に頑張ったみたいですよ?」
カチャっと音をたててコーヒーカップを持ち上げ香りを楽しむ。そして一啜り。ゆっくりと味を楽しみながら、コクリと喉が鳴った。その味わいに満足したのか眼を細め、ふぅっとため息を吐く。
「六百年前の抑止力は、【青年】でした。三百年前の抑止力は―――【神咲】の一族でした。もっとも、当時は壊滅的な被害でようやく封印が可能だったようですけどね」
天眼の語りの中で聞きなれた名前が出てきたため、ピクリと恭也の眉が動いた。
神咲―――確かにそこまで珍しい苗字ではないが、よくある苗字かといわれたら疑問が残る。
「果てさて、少年。ここまで説明すれば私が貴方に会いに来て、これを語った理由がわかりますよね?」
「―――大怨霊が、蘇る」
「ピンポーン。またまた大正解です。日本の歴史上、間違いなく最多の死者を生み出し、最大の被害を齎し、最高の破滅を造り出した。どうしようもないほどに、最悪な―――生あるモノ全ての天敵。【大怨霊】と呼ばれし悪夢が、近いうちに封印から解放されます」
何が可笑しいのかわからない。だが、天眼は笑っている。いや、哂っていた。
最悪の怨霊が蘇るというのに、彼女はそれを歓迎しているかのような節さえ見受けられる。
「それで、俺に何をさせようと企んでいる?」
「いえ、なにも。少年は普段通りに過ごしていればいいんですよ?そう。普段通りで」
飲み干したカップをテーブルに置く。しなやかで美しい白い指が、カップから離れる。
テーブルの隅に置かれていた伝票を手に取ると椅子から立ち上がり、恭也の横を取るときに耳元に口を近づける。
彼女の息が軽く耳に吹きかけられた。
「もしも復活を阻止したければ簡単です。如何に大怨霊といえども依り代がなければ現世に存在し続けるのは不可能です。つまり、封印が解ける前に依り代を見つけ出し―――」
―――殺せばいいんですよ?
悪魔はそう、囁いた。