「ん……ふぁ……んぅ……」
ピチャリ。ピチャリ。ピチャリ。
暗闇に包まれた恭也の部屋で、艶かしい息遣いと雫の舌が淫靡な音を奏で出す。
部屋の中を照らすのは机に置かれた、淡い光の照明のみ。床にひかれた布団の上で上半身だけをやや起こしている恭也にかぶさるように御神雫は彼に重なり合っていた。
抜け出そうとしても雫は身体と絡み合わせている足を上手く動かし、恭也の動きを見事なまでに封じている。
危うい光を灯した真紅の瞳が、ほとんど零距離で恭也を貫いていた。いや、危ういというよりもどこか焦点があっていないような感じである。
恭也の頬を切り裂いてできた切り傷は思ったより深かったのか、その傷から滴り落ちる血液を雫は美味しそうに舐め取っている。精神が御神雫とはいえ、体は美由希そのものなのだが、何故か普段の妹とは違った匂いが香りたつ。
花のように甘い香り。異性を強く意識させてくる、危険な匂いだった。
夢中になって舌を這わせている雫のなすがままにされている恭也だったが、それは戦闘時における第六感みたいなものがそうさせていたのだ。日常生活では全く働いてくれない第六感は、今この時の雫の邪魔をするなと煩いほどにアラームを頭の中でかき鳴らしている。
「……ん。はぁ……」
一体何時終わるのだろうかと半ば達観してしまった恭也は、雫が落ち着くまでそのままでいようと決心する。
もっともここまで異性と密着した経験は家族以外に殆ど無いため、緊張は隠せないでいた。やがて傷口から血液が滲むことがなくなり、名残惜しそうに舐め取るのを止める雫。
「……不思議よのぅ。お主の血の味は、まろやかで、コクがあって……極上のワインのような奥深さがある。かつて味わった妾の父と同じ。不思議なほどに、一致しておる」
愛おしさと切なさが混ざり合った表情を見せつつ、恭也の頬を撫でる。先ほど雫に切られた頬がヒリヒリと痛むが、それを気にしている余裕は全くといっていいほどない。
「お主は、本当にあの人と瓜二つよ……顔も名前も血も魂の色も、そしてその技も。妾が尊敬し敬愛し、崇拝した御神恭也と同一人物と言っても過言ではない」
「……御神、恭也ですか」
「―――うむ。お主にはアンチナンバーズの一位といった方がわかりやすいやもしれぬ。闇が色濃かった遠き昔のあの時代でおいてなお最強という名を欲しいままにした剣士。鬼の王をも退け、未来視の魔人さえも打破した。そして悪霊の頂点といえどもあの人には及ばなかった」
長年の鍛錬によって美由希の手は剣ダコでぼろぼろだ。普通の女性のように美しい手ではないかもしれない。
それでも、彼女の手で頬を撫でられると何故か心地よさを感じてしまう。かつて琴絵に撫でられた時と同じで、不思議とそのまま眠りの世界へと誘われそうだった。
このまま意識を手放してもいいかという考えが一瞬よぎるも、今の雫の発言でどこかひっかかる部分があった。
甘い匂いで考えがまとまりにくい恭也だったが―――ようやく思い出す。雫に質問しようと考えていたことがあったのだ。それを突然の雫の訪問ですっかり忘れていた。
「―――雫、さん」
「む?」
「貴女の今の発言にあった、悪霊の頂点とは―――大怨霊と呼ばれる存在のことですか?」
「ほぅ」
感心した雫の声があがる。
興味深そうに瞳が輝くも、それも一瞬のことですぐにジト眼となって恭也を覗き込んでくる。
「その名何処で聞いたのかの?」
「―――知り合いの、霊能力者に」
ここで天眼と答えたならば今度はどうなるかわからない。
そう判断した恭也は咄嗟に嘘をつく。その嘘の答えを聞いた雫は、少しばかり考える様子を見せた。
「最近御神美由希と親しい神咲の小娘に聞いたのかのぅ?」
「―――え、ええ。そうです」
「確かに三百年ほど昔に神咲の一族が対抗しておった……知っていても不思議ではないか」
すみません神咲さん、と心の中で謝罪をしながら恭也は雫の質問にさらに嘘を重ねる。
そしてどうやら苗字が一緒だとは思っていたが神咲那美と、かつて大怨霊を封印したという神咲は同じ一族だったらしい。適当に答えた嘘がうまく繋がったことに内心で安堵をする恭也だった。
「妾達は【あの存在】を大怨霊と呼んでおる。父がそう呼んでおったが故に。他の者は【祟り】と呼ぶことが多いやもしれん。妾が彼奴を見たのは二十……その程度の若かりし頃だったはず」
「一体どのような相手だったのでしょうか?」
「ふむ。強いて言うならば、怪物。六百年前の大怨霊の恐ろしさは今でも覚えておるわ。あやつはその凶悪さ故に依り代となる現世の生物に乗り移らねばこの世界に存在はできぬし、その依り代もこの世界を強く憎んでいる存在と限定もされておる。当時は妾の父が単騎で大怨霊の依り代となった存在を撃滅し、そこから弾き出された怨念を妾が消し去ったのだが……」
そこで雫は僅かに言い淀む。これから先を方って言いものかどうか迷っている様子だったが、意を決して続きを語り始めた。
「当時の妾とて既に伝承級の怪物と呼ばれはしておったが、恐らく当時の妾一人では―――到底及ばぬ存在であったのは間違いない」
今では負ける気はしない、とは付け足すように呟きはしたが、雫の発言に少しだけ眉を顰める。
どうやら予想以上の怪物なのは間違いがない。依り代を刀で斬ることは問題なくできるようではあるが、斬った後の怨霊となった状態は恭也一人ではどうしようもないのもまた事実のようである。
「……その、仮に大怨霊の依り代となる存在を先に斬った場合はどうなるのでしょうか?」
「大怨霊が現世に現れる前の話かの?彼奴ほどの強大な悪霊はこの世界から制限を受けておる。依り代という入れ物がなければ、この現世に存在することはできぬ。そして彼奴の無限の悪意をその身に宿すことができる依り代など、そうはおらぬ。それ故に大怨霊は数百年に一度しか現れぬのだよ」
雫の話を整理すると、どうやら依り代を斬るというのは有効ではあるようだ。
だが問題は、果たしてこの日本に存在する億を超える人間の中からどうやって依り代を見つけ出すかだ。はっきりいって不可能に等しい。
それに大怨霊がどこで復活するかもわからない。もしかしなくても、そう都合よく復活の場所にいられるはずもない。
ようするに今の恭也にはできることもないし、やれることもない。
いや、あの女がわざわざ伝えにきたということは、或いは恭也に近しい存在が依り代になるのかもしれない。
だが、世界を憎むほどの感情を抱いている知り合いに思い当たる節はなかった。
それにその可能性があるというだけで、確定された話というわけでもない。非常に悩ましい問題である。
「―――っ」
その時恭也の手の甲に鈍い痛みがはしる。なにかとおもって見てみれば、恭也の頬を撫でている手とは逆の雫の手が、彼の手と重なり合わせていたのだが―――手の甲の皮を抓っていた。
相変わらずのジト眼で睨んできていた雫だったが、ふんっと機嫌を損ねた様子で顔をそむける。
「またもや他の女のことを考えておったの?まぁ、よい―――妾の気は済んだ。後はあやつに任せるとしよう」
若干拗ねた雰囲気の雫が眼を閉じる。彼女が纏っていた鮮烈な気配が徐々に薄れていくのがわかり、内心で安堵していた恭也だったが、ふと気づく。何故部屋まで戻ってくれないのだろうという疑問だ。
そんな恭也の疑問を置き去りに、普段の美由希の気配へと完全に戻ったのがわかる。美由希を部屋へと戻そうかと考えた恭也は立ち上がろうとした、その時美由希の瞼がピクリと動く。
「……ん」
パチリと美由希の瞼が開き、寝ぼけているのか焦点があってない瞳で目の前にある恭也の顔を捉えている。
恭也と美由希の視線がぶつかり合うこと十数秒。一体何が起きているのかわかっていない美由希に対して、恭也の頭の中ではこの状況をどう乗り越えようかこれ以上ないほどに必死に考えをまとめていた。
「―――な、なんで、恭ちゃんが、私の部屋に!?」
そしてようやく状況を理解した美由希が、眼の前にあった恭也の顔に驚きつつも、叫ぶ。
その時に微妙に唾がとんできたが、なんとかそれを片手で防ぐことによって顔にかかるのを免れた。なんとも色気がない話ではあるが。
「馬鹿者、よく見ろ。ここは俺の部屋だ」
「っえ!?ええっ?ええーーー!?」
恭也の返答に慌てて部屋のなかを見渡す美由希だったが、確かに兄の言うとおり、どこをどう見ても自分の部屋ではない。きちんと自分の部屋で寝たはずだというのに、とパニック状態となっている。
何故ここにいるのか記憶に全くといって良いほど残っていない。あわわわっとぷるぷる震えている美由希を、生暖かい眼で見ていた恭也だったが―――。
「ところで美由希」
「ひゃ、ひゃい!?」
「そろそろ退いてくれると有難いんだが」
「え、え、え?」
恭也に言われて改めて今の自分達の体勢を確認してみる。
畳の上にひかれた布団。その上に上半身をが僅かにあがった状態で寝転がっている恭也。その上から覆いかぶさっている美由希。しかも片手で恭也の手を握り締めている。さらには足まで相手に絡ませていた。
どう見ても美由希が恭也を襲っている風にしかみえない。性別的に普通は体勢は逆だろうとと、妙に冷静なツッコミが頭のなかに響き渡る。
「ご、ごめん!!きょーちゃん!!」
がばっとその場から起き上がると、凄まじい勢いで恭也の部屋から飛び出し自分の部屋へと駆け込み逃げる。そのまま布団の中に飛び込むと、頭の上から布団をかぶり自分のしでかしたことに体が震えた。
記憶にないがトイレへいった後に間違えて恭也の部屋に入ってしまったのだろうか。それとも、寝ながら無意識のうちに兄の部屋に夜這いをかけにいってしまったのか。後者だったら一体どれだけ恭也を欲しているのだろうといった考えがぐるぐると頭のなかをまわっている。これは夢だと思い込みながら、美由希は布団をかぶっていたが―――結局熟睡もできずに朝を迎えた。
チュンチュンと雀が鳴く音で、うとうととしかけていた美由希は布団から這い出ていく。
寝不足で頭がぼーっとしている。それでも鍛錬をサボるわけにはいかない。なにやら意識がハッキリしないこの状況。昨日のことは夢ではなかったのかとも思えてしまう。
そうきっと夢だ。まさか自分が兄へと夜這いをかけるはずがない―――多分。
そんなことを考えながら着替えを終え、鍛錬の準備をした美由希は部屋の扉を開ける。
するとタイミングがいいのか悪いのか、丁度部屋からでてきた恭也とばったりと出くわす。昨日の零距離で見つめあった時のことを思い出し、顔が赤く染まるのを止められない。頬が真っ赤になってしまっているのを自覚してしまう。
「あの……その、きょーちゃん」
「おはよう、美由希。どうかしたか?」
「そ、その……き、昨日のことなんだけど……」
勇気をだして切り出す美由希。このままモヤモヤとした状態では鍛錬もろくにはできまい。
というか、気になって仕方がないのが本音だ。
「昨日?何のことだ?」
「―――う、ううん!!なんでもないから!!」
モジモジとした美由希の質問に対して、恭也は首を捻る。
嘘をついてるようには見えず、心当たりが全くない様子の兄の姿に、美由希は胸を撫で下ろす。
どうやら昨日の事件は夢だったようで、美由希は心底ほっとした。だが、逆に言ってしまえば、アレが自分の願望だったのかと思うと、さらに頬が赤くなるのを止められない。
ハァっと深いため息をつく。朝の寒さが息を白く色づける。
なんにせよ、昨日の出来事が夢だとはっきりしたならば、何時も通りでいよう。そう心に決めた美由希だったが―――。
「ああ、そうだ。今夜は部屋を間違えないようにするんだぞ」
「―――えっ?」
悪戯っ小僧のように邪悪な笑み浮かべた恭也がそれだけを言い残し階下へと消えていく。
残された美由希は恭也の台詞を頭の中で何度も繰り返す。部屋を間違えないように―――つまり、それは。
「きょ、きょうちゃぁああああああああん!?昨日やっぱり何かあったの!?あったんでしょー!?ねぇ、どっちなのー!?」
半狂乱になった美由希が一階へ降りていった兄の後を追いながら叫んで回る。
朝五時という時間にもかかわらず、高町家に響き渡る美由希の大声。当然、他の家族にも聞こえるわけで―――。
普段よりも随分と早くたたき起こされることになったため、その日美由希は家族全員から恨みがましい眼で見られることになったという。ただし、なのはだけはしっかりと爆睡していたのだが。
その日の学校が終わり、特に用事がなかった恭也は晶やレン、美由希といった学校組みの三人よりも一足先に高町家へと帰宅する。今日は晶もレンも委員会の仕事で少しだけ帰るのが遅くなると聞いたので、そのかわりに恭也がなのはをバス停まで迎えにいくことになっているのだ。
聖祥大学付属小学校は高町家の近くのバス停からスクールバスがでてはいるが、最近は物騒なこともあり高町家の誰かができるだけバス停まで迎えにいくことにしている。全員が忙しかった場合はなのは一人で帰ってきてもらうことになるが、そういったことは珍しい。
先に家に帰ってからバス停に行こうとした恭也がだったが、入り口の扉の鍵が開いていることを不思議に思いつつ、家のドアを潜る。すると、既に家に帰宅していたなのはにばったりと出くわした。
「もう帰ってきていたのか、なのは?すまんな。迎えにいくのが遅くなっていたようだ」
「あ、ううん。ごめんね、おにーちゃん。一人で帰ってきちゃって……」
申し訳ないと思ったのか少しだけしょんぼりとしたなのはだったが、後ろに隠しているものが恭也の視界に映り、何故一人で帰ってきてしまったのかなるほどと納得する。
なのはが後ろ手に隠している物。それは先日と同じく袋に入った油揚げだった。恐らくは昨日のリベンジに行きたいのだろう。だから、早めに帰ってきて、恭也が学校から戻ってくるのを待っていたのだ。
バス停から一人で帰ってくるくらいなら兎も角、八束神社に一人で行くのは流石にまずいと思ったなのはは、恭也に一緒に行って貰えるように頼もうとしているといったところだ。。
昨日の今日ということもあり、一緒に来てくれるように切り出しにくいのだろう。それを察した恭也が、靴を脱ぎ家にあがるとなのはの頭をくしゃりと撫でる。
「なのは少し待ってろ。俺も八束神社に一緒に行こう」
「え、本当にいいの?」
「ああ。それくらい遠慮せずに言えば良いんだぞ?」
「―――ありがとう、おにーちゃん!!」
部屋に戻って鞄を置き、必要最低限で着替えると一階のなのはと合流。二人で八束神社へとむかう。
今日こそはくーちゃんに食べて貰うんだ、と妙にテンションが高いなのはに苦笑しつつ、昨日と同様に八束神社の階段をのぼり、境内へと辿り着く。
相変わらず閑散とした神社で、誰一人として参ってる人間はいない。
これで大丈夫なのかと本当に心配し始める恭也だったが、そんな彼の心配をよそに人影が拝殿を回って後ろから正面の方へと歩いてくるのが見受けられる。
その人影を見た恭也が少し驚く。人影は巫女服姿の神咲那美その人であったのだから。両手に持っているのは竹箒。どうやら周囲の掃除をしていたようだ。
那美とは随分と前に一度しかこの八束神社であっていなかったため、巫女服姿というのも中々新鮮に映った。
那美も恭也に気づいたのか、笑顔で手を振りながら恭也の方へと駆け寄ってきて―――拝殿と階段までに敷き詰めてある石通路と他の地面との僅かな段差に足を引っ掛けて見事に転び、額を強打する。
普通ならば反射的に倒れても両手で顔を打つことはないのだろうが、今回は両手で竹箒を持っていたことが不幸だったのだろう。いや、普通の人ならばそもそも足を引っ掛けること事態、滅多にないはずだ。
「だ、大丈夫ですか、神咲さん?」
「ぅぅ、大丈夫です……」
慌てて駆け寄る恭也に対して、返事をする那美だったが、額が赤くなっている上に、涙目だ。
呆然となっていたなのはも那美の傍によってきて上目遣いで怪我の心配をする。
基本的に運動神経が皆無に等しいなのはにしてみれば、那美に親近感を抱いたのかもしれない。しかし流石のなのはといえども、今さっきの那美みたいな転び方はしない。運動神経がどうのこうのよりも、おっちょこちょいが極まっているといったほうが正しいのかもしれない。
「恥ずかしいところをお見せしてしまって……」
「いえ!!私も、よく転んでしまうので気持ちがわかります」
「ええ!?なのはちゃんも転んだりするんですか?」
「は、はい……」
那美を慰めるためだろう。そこまで転ばないなのはだったが、それとなく嘘を交えて那美に対して頷く。
そんな気遣いができるなのはに、ほろりと涙がでそうになる恭也だった。
「えっと。もしかして久遠に会いにきて貰えたんですか?」
「は、はい!!」
「ええ。今日こそはと思いまして」
「確かさっき見かけた筈なんですが……」
目的の久遠をキョロキョロと周囲を見渡しながら探し始める那美は、ほどなくして金色の小狐を見つける。
拝殿へとのぼる数段しかない木製の階段。その影に隠れるように久遠は三人を窺っていた。那美と一緒ということもあるのだろうか、普段よりも警戒する雰囲気が和らいでいる。
久遠を見つけたなのはは早速地面に油揚げを置き、少し距離を取った。それに倣うように、恭也と那美もなのはと同じくらいに離れる。
今日は、那美もいるためか久遠も逃げる様子を見せない。なのはと油揚げを交互に見ながら少しずつ距離をつめてきた。
油揚げへと近づくのにかかった時間は、二、三分程度。遂に、油揚げへと辿り着いた久遠が―――かぷりと歯を立てる。小さな咀嚼音が境内に響き渡った。
挑戦すること十数回。ようやく食べて貰えたなのはは、ぱぁっと向日葵のような笑顔を浮かべて、両手を握り締める。
「おにーちゃん!!くーちゃんが食べてくれたよ!!」
見ている此方が嬉しくなりそうな喜びようで、なのはが恭也へと抱きついてくる。そんななのはを抱きとめると、よしよしと頭を撫でた。
隣にいた那美は、なのはと恭也の美しき兄弟愛に、痛みとは別に涙目になっている。性格的に非常に涙もろいようだ。
そんな三人を尻目に久遠は、置かれていた油揚げを平らげる。結構な量があったせいか、どことなく満腹で、満足したような雰囲気を醸し出していた。
それを見たなのはが、我を取り戻し恭也から離れると、久遠に少しずつ近づいていく。
久遠は近づいてくるなのはに対して、以前のように警戒心を抱いていないのか、逃げる気配を見せていない。
一人と一匹の距離は三メートル程度に縮まる。まだ久遠は逃げ出そうとしていない。やがて二メートルほどになっても、その場に留まっていた。そして、距離はさらに近づき―――既に眼と鼻の先になった。久遠はつぶらな瞳で、目の前にいるなのはと見詰め合っている。
なのはは緊張でぷるぷると震える右手を、久遠へと近づけていき、ふぁさっと羽毛を触った時のような軽い音がする。それと時を同じくして、手に伝わる感触。
「くぅ~ん」
「は、はわわわわわわわわーーー!?」
念願がかなったなのはは感動のあまり、意味不明な叫び声をあげた。
そして、そのまま久遠を胸に抱き上げる。子狐だけあって体重はそれほどでもなく、まだ幼いなのはでも十分に持ち上げることが出来た。
「お、おにーーちゃーーん!!ふ、ふさふさだよぉ!?はわわわーーーー!?」
嬉しさのあまりテンションがマックスを振り切ったのか、なのはが胸に抱いた久遠を力一杯に抱きしめる。
あまりにキツク抱きしめすぎたのか、久遠がくぅんっと一鳴きして、なのはの胸からするりと抜け出し、地面へと飛び降りた。地面に着地するとそのまま、恭也と那美の方へと逃げ出し、恭也の影に身を隠す。
「あれ……凄いですね、高町先輩。久遠に懐かれるなんて、本当に珍しいですよ」
「そ、そうですか?」
おもわずどもってしまった恭也。それもある意味当然だろう。なのはが凄く恨みがましい眼で兄を見てきているのだから。なのはからしてみれば、十数回も餌付けにきてようやく触れたというのに、恭也はあっさりと懐かれてしまったという理不尽もいい話だ。
恭也は自分の足を盾としている久遠を持ち上げてみる。
なるほど、となのはがご執心なのも納得してしまった。久遠の毛並みが異常なほどにふさふさしていて手触りがたまらなく良い。猫や犬とはまた違った感触である。
なのはだけでなく美由希達がさわりたがるのもも仕方ないと恭也は思った。
「おにーちゃん、ずるい……」
そんな恨みが篭った眼を向けてくるなのはを見て―――これが原因で大怨霊がなのはに乗り移ったらどうしようと少しだけ心配をする恭也だった。
久遠がそれなりに懐いた日の、深夜に近づいた時間帯。
その日の夜の鍛錬も恭也は一人で行っていた。別に美由希がボイコットをしたわけでもなく、本日は雫が鍛えたいと申し出があったためだ。週に一度程度だが、雫は彼女の精神世界で美由希を鍛え上げている。
いや、鍛え上げるというよりも斬り殺しているというほうが正しいかもしれない。経験も大切だがやはり、現実世界での鍛錬の方が重要のため、雫が美由希を鍛えるのもそれくらいにしているのだ。
話を聞くところによると、最近はそう簡単には殺されないようになったらしい。今では一分近く持つようになったとか。
最近は一人で腰を落ち着けて鍛錬が出来ていなかったので、今日こそは集中してやろうと決心して高町家を出てきた恭也だったのだが、いざ八束神社に到着してみれば、眉を顰める結果がそこにはあった。
八束神社の拝殿の横あたりで、なにやら黒くて細長いモノが転がっている。いや、よく見ればそれは人間だった。
神社で寝るとは罰当たりなとも思わなくもないが、その人物が知り合いだけに、ため息をつくしかない。
海鳴を拠点とする放浪者名無し。既に十二月で夜も冷え込むというのに、まさか外で寝泊りしているとは考えてもいなかった。しかも、特に布団や毛布をかぶるでもなく、そのまま寝転がっている。
幾らなんでも風邪を引くのではないかと、少しだけ心配をした。あくまでも少しだけだが。
あまり関わり合いになりたくない恭也は特に声をかけるでもなく、そのまま素通りして神社の裏手へと足音をたてないでむかう。
「ま、まて!!声くらいかけていってくれよぉ!?」
逃がすまいとタックルを仕掛けてくる名無し。
気配をできるだけ消していたにもかかわらず気づき、あろうことかタックルまでしてきた名無しの身の軽さに正直な所驚きを隠せない。
勿論、タックルが決まる前に身体を捌き、しっかりと避けてはいる。
避けられた名無しは、そのまま前方にあった木の幹に頭から激突。鈍い音がしてどしゃりと名無しは地面に転がった。
しかし、恭也は心配の声もかけずにそのまま歩きさっていく。この男の頑強さは身に染みてわかっているからだ。この程度では怪我一つしないことを理解している。
恭也の予想通り名無しは、顔をさすりながら復活。黙って歩き去っていった恭也の背中を追いかけてくる。
「お、おい。待ってくれよ、坊主。ちょっと話でもしようぜ」
「何か重要な話でもありましたか?」
「い、いやとくにはないんだが。世間話でも」
「―――鍛錬が忙しいので」
「ちょっとでいいから付き合ってくれよぉ!?」
ばっさりと斬って捨てた恭也に、泣き付く名無しだったが、とりつく島もない相手の様子に肩を落とす。
この男に付き合っていてはまた碌な鍛錬ができないと判断した恭也は心を鬼にして薄暗い森の中へ入っていく。
だが、名無しの執念は恭也の想像を超えていた。肩を落としながらも、間合いを取って恭也の後を追って来る。それを気配で感じ取った恭也は、突然に地面を蹴りつけ全力で逃走を計った。
「ま、まってくれぇーーー!!」
そんな名無しのストップの掛け声を無視して、森の中を疾走する。
視界も悪く、足場も悪い。夜ということもあり方向感覚も狂わせる森の中を疾走する恭也の後を必死になって追いかけてくる初老の男性。
普通の人間だったならば間違いなく置き去りにできるはずだったのだが、流石は嘗てとはいえアンチナンバーズに籍を置いたことがあるという男。
ぎりぎりではあるが、恭也の後についてきている。このまま尾行をまくのは可能ではあるが、暫くの時間を要すると判断し、足を止める。単純に何時もの鍛錬場所についてしまったためともいうが。
奥まった森の中の一部。若干木々が伐採され開けた空間となった広場に―――彼女はいた。
いや、恭也はある程度の予想がついていた。昨日に引き続き、きっとまた彼女がいるだろうということに。
広場の端、木の年輪だけとなった丁度椅子のように見えるそこに、腰を下ろし黒く艶がある長い髪を夜の風に靡かせて、空と名乗った女性は、広場にやってきた恭也を懐かしむ視線で迎えた。
「今夜は来るのが遅かったではないか。か弱い女性を待たせるのはどうかと、我は思うぞ?」
「そうですね。申し訳ありません。今夜は少し家の方でごたついていましたので」
誰がかよわい女性だと言い返したかったが、言ったら言ったで碌なめにあいはしないことが予想についた。
ましてや特に待ち合わせをしていたわけではないので、恭也に非はないのだが、なんとなく女性が発する雰囲気に謝ってしまう。
「まったくお主は可愛い男だ。かつてのあやつは、我が何かをいえば必ず反論してくる奴であったからな」
ふふっと含み笑いをする空だったが、何かに気づいたように、恭也の背後に視線をずらす。
「ほぅ。珍しい。そなたがここに妹以外に連れてくる者がいるとは……」
空の言葉を肯定するように、名無しが息を激しく乱しながらようやく追いついてきたらしい。
今にも死にそうなくらい呼吸を繰り返し、広場まで出てくると地面に腰を下ろす。静かな空間に、ぜぇぜぇという息遣いが響き渡った。
「ぼ、坊主。もっと、年寄りは、労わって、くれ」
途切れ途切れになりながらも必死になって言葉を搾り出している名無しを興味深そうに眺めていた空だったが―――眉を顰め何かを思い出そうとしている様子を見せる。
暫く経つと、ぽんっと手を叩きようやく何かを思い出したのか、眼を大きく見開いた。
「どこかで見た顔だと思ったが―――随分と久しぶりではないか」
「はぁ、はぁ、はぁ。あ、あん?どなた様―――!?」
呼吸を整えていた名無しが、突如声をかけてきた空を窺うも、夜の闇によって空の顔がはっきりと見えないことに顔を顰める。
それも一瞬のことで、光が差し込み空の姿を見た瞬間、名無しの顔が引き攣った。
呼吸をすることも忘れ、その場から勢いよく立ち上がる。
「お、おま!!おま、お前!!な、なんで封印から出てきてやがる!?ざ、ざ、ざ、ざ、ざか―――!?」
「ふむ。その名は秘密だぞ」
どこか温かみがある冷笑。そんなニヒルな笑みを浮かべた空は座ったままの状態で名無しにむかってデコピンを放つ。
距離は勿論十数メートル近く離れているわけで、届くはずもない。
だが、立ち上がった名無しの額に【何か】が直撃、弾ける。威力は全くといって良いほどなかったのか、軽く後方へと頭がずれた程度で済んだようだ。
「い、いてぇ!?な、何しやがる!!」
「お主がいきなり我の名を暴露しようとするのが悪い。我は今は空と名乗っている」
やけに色っぽい流し目を恭也に示す空は、くくくっと面白そうに笑う。
そして名無しの足の先から頭のてっぺんまでを見渡し、少しだけ哀れんだように眼を伏せた。
「しかし、変われば変わるものだ。あの頃のお主の面影がほとんどないぞ。我とてお主の魂の色を覚えていなければ、気づきはしなかった」
「う、うるせぇ!!お前に、俺の何がわかる!!」
「わからぬよ。お主のことなどお主以外にわかるはずがなかろう。何があったか知らぬ。何が起きたのかも知らぬ。だが、今のお主を見れば、あの者達はどう思うかわかっている筈だ。そうではないのか、しっ―――」
「うるせぇええええええええ!!」
名無しの怒声が響き渡った。
それに驚いたのが恭也だった。名無しとは数年来の付き合いだったが、彼が怒るところを見たのはこれが初めてだ。
冗談の怒りではない。正真正銘の心の底からの怒り。
「そんなことは俺が一番わかってるんだよ!!でもな、でも―――あの時染み付いちまった戦いの恐怖は、拭えねぇんだ!!」
それだけを言い捨てて名無しは広場から森へと逃げ去っていく。
暗闇に消えていく名無しの背中を黙って見送った恭也だったが、完全に姿と気配が感じられなくなったのを確認すると、空へと向き直る。
「あまりあの人の心を抉るのは止めて置いたほうがいいかと」
「我とて人の古傷を抉るのは好まぬ。だが、古い知り合いがあまりにも落ちぶれてしまっていたために思わず口を出してしまった。許してほしい」
「俺に言っても仕方ないと思います」
「ふふ、そうだな。今度会ったら謝罪しておこう」
意外に素直な空の様子に、多少ではあるが恭也は面食らう。
傲岸不遜な性格をしているかと思っていたが、実際はそうではないらしい。少しだけ空への印象がかわった恭也だった。
「俺としては名無しさんと貴方が知り合いだったことに驚きですが」
「―――古い知り合いとでもいいのか。お主が考えているよりも、遥かに。まだまだ若かったあやつは、何度も我に立ち向かってきた。あの頃のあやつは今とは違って魂の輝きが溢れておったよ」
遠き過去を思い出しているのだろうか。空は星々が煌く満天の夜空を眺めている。
少しだけだが、名無しの過去を聞きたくなる恭也だったが、それに対して心で否定をした。気にならないといえば嘘になるが、本人の了承も得ずに、聞いてしまうというのは許されることではない。
常にふざけた態度を取っているが―――名無しという初老の男性の力は、恭也をして計り知れない。
そんな名無しが何故こんな場所で今のような生活をしているのか。それは出会ったときから感じていたことだ。
百鬼夜行によって全てを砕かれたという話。それが本当ならばそれは名無し自身で乗り越えねばならない。
「我とあやつの関係は気にしなくても良い。さぁ、好きに鍛錬をするが良い」
スパっと話を切った空は、恭也の鍛錬を相当に見物したいのか、ワクワクとした様子を隠そうともしていない。
確かにいい加減鍛錬をしたいのだが、こうまでマジマジと見られているとしにくいのもまた事実。
そして、先日別れる際に言っていたある言葉について気になってもいたので、とりあえずそれを聞こうと恭也は決めた。
「ところで、昨日言っていた、【怨念】のことなんですが……」
「ふむ?ああ、【大怨霊】と言い換えたほうが分かりやすかったかもしれない」
「……貴女も、それをご存知でしたか」
「我らの間では有名な話だよ。気が遠くなる太古の昔より、この地を破滅させんと舞い降りる悪意の怨霊。最凶最悪の霊障とはよくいったものだ」
どうやら昨日聞き取っていた言葉は聞き間違いではなかったようだ。
空は間違いなく大怨霊という存在を知っている。雫にも確認はしたが、情報が多いには越したことがない。
「その大怨霊が、もうすぐ現世に現れるということですか?」
「―――ふむ、なにかしらの齟齬があるか。大怨霊は既にこの地に存在はしている。ただ、【封印】されているにすぎない
「封印、ですか?」
「その通り。三百年もの昔、神社仏閣を破壊しつくした祟り狐と呼ばれた存在がいた。それが大怨霊。そやつは倒されたわけではない。神咲の一族によって【封印】されたのだ。つまり、その封印が解けようとしているということだよ」
なるほどと相槌をうつ。
恭也はてっきり大怨霊が現世に降臨するのだと考えていた。生憎とそれは勘違いで、神咲一族が倒したのではなく、封印したのだという。そして、その封印が解かれようとしているということがわかった。
そして、ふと思い出す。
天眼の言葉を。今の空の言葉を。三百年前の大怨霊は【祟り狐】と呼ばれたと。
ごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
突然に未来視の魔人が現れて大怨霊について語っていく。【祟り狐】という単語を残して、だ。
八束神社で鍛錬をしている時に感じる久遠からの視線。【神咲】那美の飼い狐、久遠。
先日感じた、この世界を憎むような悪意の塊。果たして、これは偶然なのか。それとも―――必然なのか。
―――大怨霊が復活するまで、残された時は短い。