十二月二十三日金曜日。
今年は土曜日にクリスマスイブ、日曜日にクリスマスを迎えることが出来、世の中のカップルは大層幸せな年だと言われていた。しかし、一人身の者としては非常に肩身が狭いともいえる。
海鳴駅前も明日に備えた多くの人たちが浮き足立っていた。時間は午後五時を少し回った程度。夕陽が落ちつつある時間でもある。駅の前のロータリーは、多数の人が待ち合わせをしたり、通り過ぎたりで、混雑していた。
実はこのロータリーは一度破壊されたことがあるという。もう数ヶ月以上前の話なのだが、地面が爆発物でも仕掛けられたのか抉られていたことがあったという。
その犯人は未だ見つかっていない。警察もまさか、素手でそれをやったと気づいていないためなのだが、犯人捕まらず迷宮入りの事件となっていた。
そこの一画の噴水がある場所。噴水を囲むようにベンチが幾つも置かれている。
ベンチに座り、人を待っている様々な老若男女がいるのだが、そのうちの一人が―――神咲葉弓だった。
普段【仕事】をしている時は式服を着ているが、流石の彼女も今回は普段着で待ち合わせをしている。
葉弓の温和な雰囲気に合わせるように、白をベースとした清楚な服を着ていた。冬の寒さに対応するためにロングコートも着ているのだが、ヒュゥっと風が吹きその寒さを誤魔化すためにコートをポケットに手を入れてブルリと震えた。
暖冬と言われていた今年ではあるが、それも終わりを告げている。
今週あたりから、急激に冷え込んできていた。日本全国も同じで各地で雪まで降り始めているという。
海鳴もまた夕方以降コート手袋は必須となっている。そろそろ初雪がふるのではないかと天気予報でも予想されていた。
相手を待たせる訳にもいかないので、早めにさざなみ寮をでてきたのだが、その判断は誤りだったかもしれないと自分が吐く白い息を見つめる。
さざなみ寮からここまで距離があるため、ある程度時間を計算してきたのだが、葉弓は自分が思ったよりも早く到着してしまったのだ。
ちなみに楓はさざなみ寮でぬくぬくとお茶をしている。青森育ちということもあり寒さに強そうに思われている葉弓でも、寒いものは寒い。同じ人間なのでそれに違いはなかった。
寒さに震えて、しかも一人で待ち合わせをしている葉弓は時間の流れが非常に遅く感じる。
携帯やスマートフォンを弄くるのが好きな人間だったならば、待ち時間もたいしたことないが、生憎と彼女はそういったものはそこまで利用していなかった。
あくまでも通信の手段としてしか携帯電話を使用していない。仕事で警察関係の人間と連絡を取るか、神咲真鳴流の仲間達。そして薫や楓といった友達とメールをするくらいだ。もっとも、葉弓と同じく薫も楓も仕事が忙しく、碌に連絡が取れていないというのが実態ではあるのだが。
「―――ハァ」
息を吐くたびに白い息が空気に消えていく。
待ち人の連絡によると、恐らくは後数十分程度で到着するとのことだ。その数十分が非常に長い。
それも仕方ないといえば仕方ない。何せ、鹿児島からここまでは流石に遠い。
気軽に来れる距離でもないのも事実だ。
一際強い冷風が吹き、葉弓は再びブルリと身体を震わせた。ポケットに入れている手がかじかんでいる。
コートだけは着てきたのだが、手袋をしてくるのをすっかり忘れていたのだ。
いや、というよりもあまり必要ないとおもって敢えてつけてこなかったのだが、今日の寒さは今年一番なのかもしれない。
これは何か暖かい飲み物でも買ってこようと決断した葉弓が立ち上がろうとしたとき、突如頬に感じる暖かい感覚。ペタリと熱い金属的な何かをつけられ、びくっと葉弓の身体が反応した。
「―――ひゃ、ひゃぁ!?」
葉弓は慌ててベンチから立ち上がり、ばっと勢いよく後ろを振り返る。
すると背後には気配一つ感じさせず、最近知り合った男性―――高町恭也が少しだけ意地悪そうに口元に笑みを浮かべて立っていた。彼の手には、葉弓を驚かせた原因でもある、缶コーヒーが握られている。これがどうやら葉弓の頬に当てられたのだろう。
「―――も、もう。恭也さん。いきなりそんなことされたら吃驚しますよ?」
「失礼しました」
口では謝っているが、全く反省している様子は見られない。
周囲の人たちが葉弓の驚いた声に、注目していたが、葉弓と缶コーヒーを持つ恭也の姿を見て、どこか納得したかのように関心をなくす。
二人は気づかぬことだったが周囲の人間からしてみれば、待ち合わせに遅れた彼氏が、彼女を驚かせていたというようにしか見えていなかった。このバカップルめ……それが周囲の人間が皆抱いた気持ちである。
いや、葉弓は一拍を置いてそれに気づく。
まさか、周囲の人間に違うんですと行って回るわけにもいかず、対処に困った葉弓の頬が赤くなる。
そのように男性と勘違いされるのは実は初めてで、心臓の高鳴りが妙に激しく聞こえた。
「そ、その……恭也さんはどうしてこちらに?」
「井関という店に少々用事がありまして」
「井関さんですか?」
「はい。刀剣類専門店ですが、昔からお世話になっていまして。そちらに所用がありまして、今から帰るところです」
「あら。そういえば、恭也さんは美由希ちゃんと同じで剣術をされているのですよね」
「美由希ともにまだまだ未熟者ではありますが」
ようやく心臓の鼓動が治まりつつあった葉弓はベンチに座りなおす。そんな葉弓に、恭也は持っていた缶コーヒーを差し出した。一瞬キョトンとした葉弓だったが、反射的に差し出された缶コーヒーを受け取る。
「えっと、これは?」
「寒そうにしていましたので、差し入れです」
「え、でも―――悪いです」
「普段翠屋をご利用していただいているお礼と思っていただければ幸いです。特に葉弓さんにはここ数日大変お世話になっていますし」
「わかりました。それでは遠慮なく。有難うございます、恭也さん」
クスっと微笑を浮かべた葉弓がかじかんだ両手で缶コーヒーを包むように持つ。
買ったばかりなのだろう、非常に暖かい。この寒空の下では熱いと感じてしまうかもしれないが、不思議と心地よい暖かさであった。初めて会った時は一見無愛想にも見える青年だったが、付き合って見ればわかる。
恭也のそれとない優しさを。那美の友達として付き合えている理由がわかった。こんな青年ならば、安心して彼女を任せられるとも葉弓は思った。
「それでは俺は失礼します」
「―――っあ。その、恭也さん」
頭を下げて暇を告げた恭也を、葉弓は見送ろうとしたのだが―――何故か別れの言葉が出ず、その代わりに名前を無意識のうちに呼んでいた。
「はい。どうかしましたか?」
「―――実は、知り合いを待っているのですが。その、まだ暫くかかるようでして。よろしければ、お話に少しでもいいので付き合って頂けないでしょうか?」
そして無意識のうちの言葉が続く。
別に一人で待っていても良いはずなのだが、このまま別れるのがほんの少しだけ寂しく感じてしまったのだ。
「ええ。葉弓さんが宜しければ」
「有難うございます、恭也さん」
恭也の返答を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。
横に失礼しますと一言断ってから、葉弓の隣に腰を下ろした恭也だったが、三人掛けのベンチで葉弓以外にも他の人が逆端に座っていたため、空いている真ん中に恭也が座る形となった。
三人で座っているため恭也と葉弓の体が密着―――というには言い過ぎだが、それに近い状態になっている。
それに僅かに鼓動と体温をあげて、緊張し始めた葉弓の笑顔が微妙にぎこちなくなっていた。
「あ、あの―――その、良い天気ですね!!」
「は、はぁ。そうですね」
唐突な葉弓の擦れるような声に、空を見上げてた恭也が頷く。
既に夕陽も落ちて、夜といってもいい時間帯だ。空も雲が覆っていて、とても良い天気という話ではない。むしろ、この時間帯で良い天気も何もないだろう。
―――駄目駄目だ、私。
幾ら緊張したからといって良い天気はないと反省する葉弓。
とりあえず落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。
「その、恭也さんは剣術を習っているとのことですけど、どちらの流派なのですか?」
「―――そうですね、御神流。正式名称はもっと長いのですが、一応は世間からはそう呼ばれています」
「御神流……すみません。私は聞いたことが、ありません。もしかしたら楓ちゃんなら知っているかもしれませんね」
「葉弓さんが知らないのも無理はないかと。もう既に十年以上も昔に裏舞台からも姿を消した剣術ですから」
「そうなんですか?」
「ええ。俺が知っている限り現在の御神流の使い手は、俺と美由希。それにもう一人の三人だけです」
「さ、三人ですか!?」
あまりの少なさに葉弓が驚きの声をあげた。
神咲とて、特殊な一族だ。人間誰しもが霊力自体は所有しているとはいえ、それが優れた人は数少ない。
彼女の親戚である神咲薫や楓クラスの霊力の持ち主は日本中を探したとしても数えるほどだ。ましてや葉弓が知っている槙原耕介という男は規格外。恐らくは神咲一族の歴史でも上から数えたほうが早いほどの怪物。
身近にそういった存在を知ってはいるが、それでもやはり実戦にて退魔師として戦える者は現在の神咲三流でも多くはない。しかし、流石に三人ということはありはしない。というか、ここに集結する神咲三流の当代と槙原耕介であっさりとその三人の人数を超えてしまう。
一応恭也は三人―――つまり、恭也、美由希。そして美由希の母である美沙斗と言ったのだが、そこに御神流【裏】の人間を入れてはいない。
御神流【裏】の人間を実は恭也は把握しているが、それを言い出すと説明しにくくなるのも事実故に、敢えて三人だけということにしたのだ。
御神流【裏】の剣士達は強さというよりも、怖さが武器だ。人を殺すことに何の躊躇いもない。彼らは勝つためならばどんな汚い手段でも、どんな非道な手段でも使う。故に恐ろしい。
今の美由希でも御神流【裏】の連中とある程度は戦えるだろう。いや、その中でも上位に位置することは出来る。だが、人を殺めるという点においては美由希は躊躇するだろう。
別にそれが悪いとは恭也は思っていない。逆に人を殺すことに躊躇わない方が人としておかしいのだ。そう―――彼らは人としておかしくなった。既に人と言っても良いか分からない殺戮集団だ。
それに、単純な強さという点でも美由希を上回る剣士は数多い。恭也が知っている限り、数人はいる筈だ。
不破咲。全盛期は当に過ぎていながら、その強さは計り知れない。身体能力は他の人間に比べれば劣るだろうが、技術と経験という点で見れば、彼女に勝るものはいないだろう。
不破和人。咲の血を受け継ぐ青年。御神流【裏】で起きる苦労を全て背負った青年で、飄々としているが、技術という点で見るならば、今現在の美由希を遥かに超える。
不破青子。和人の妹。無口で無愛想ではあるが、仕事はきっちりこなす。全体的な動き、特にスピードに特化した少女。神速の域に軽々と踏み入った剣士。
そして―――。
【不破一姫】。恭也の従兄弟。即ち―――不破一臣の唯一残された娘。不破家の呪い全てを一身に受けた少女。力も技もスピードも、経験も、心も、何もかもが規格外。人を殺すことだけに特化した、御神流【裏】の体現者。今の美由希ではどう足掻いても奇跡が起きても勝ち目のない怪物だ。この少女の領域に至るには、美由希はどれだけの時間がかかるだろう。一年では足りない。二年でも厳しい。だが、恭也は信じている。何時か必ず美由希はこの少女を超えることを。
最後に会ったのは何時だろうか。咲の家に逗留した時に、何時も後ろについてきたことを思い出す。あの頃でさえ、背筋に冷たいものが走るような少女だった―――別の意味で。スクール水着で風呂場に乱入してきたり、夜寝ている間に寝床に侵入してきたり、食事の時に彼女の箸で食べさせようとしてきたり―――。
「その、恭也さんはどのように御神流の鍛錬をされているのですか?美由希ちゃんは、恭也さんが指導していると聞きましたが……恭也さんは、もう一人の方に?」
「―――ああ、いえ。俺は父に基本的に御神流の全ては叩き込まれていましたから。それと父が残した御神流についての手帳もありましたし」
「……そ、そうなんですか」
遠い眼で過去の思い出に浸っていた恭也は、葉弓の呼びかけで我を取り戻す。
対して葉弓は恭也の返答を聞き、開いた口が塞がらないとはこのことだ。
まさか二十にも満たぬ年で、本当に妹を指導しているとは夢にも思ってはいなかった。葉弓のイメージしている高校生というモノを完璧に破壊されたような気分になった。
「ところで一つお聞きしたいのですが、宜しいですか?」
「あ、はい。何でしょうか、恭也さん」
「葉弓さんや楓さん。薫さんの目的は久遠の抹殺でしょうか?」
「―――っ!?」
まるで日常会話をするかのように、息を吸うかのように、気軽に恭也が確信をつく質問をした。
葉弓の言葉が詰まる。
心臓が先程までとは別の意味で鼓動を早めた。気温が低いというのにじわっと嫌な汗が滲み出る。
「神咲が久遠にかけた封印は今月が限界と聞いています。それなのにこの地に来るのは神咲一族からは僅か三人。祟り狐に対抗するにはあまりにも少なすぎる戦力だと思います。無論、神咲三流において最年少で正統伝承者となった御三方だったとしても。となれば、祟り狐の封印が解かれる前に依り代である久遠を斬ることを目的としていると考えるほうが自然だと」
「―――恭、也さん、貴方はどこで、その情報を」
「後半部分は殆ど推測です。もし、貴方達が久遠を助けるために集結しているのならばこれ以上の失礼はありません。謝罪させていただきます」
「……」
恭也の淡々とした口調に、葉弓は何も答えられない。答えることが出来ない。
理由は簡単だ。恭也の予想が正しかっただけに、葉弓は返答を窮している。今の神咲の総戦力であるならば、祟り狐を倒すことも可能だろう。だが、十年も前の事件は記憶に新しい。神咲三流の正統伝承者達が死亡、もしくは引退に追い込まれるという大事件。それ以外の祓い師達にもどれだけの被害が出るか。そのような危険を踏むことは出来ないというのが、神咲三流の【上】が出した結論だ。
葉弓や薫は那美と久遠のことを信じている。彼女達の絆を信頼している。それでも、それは個人としてだ。
神咲三流の伝承者として、神咲三流を背負う者としての判断は―――久遠の封印が解ける前の抹殺。
無論、本来ならば恭也の予想は間違っていて、久遠を助けるために自分達は来たのだと、答えるのが正しかったのだろう。
だが、そう答えられなかった。恭也の言葉に嘘をつきたくなかったというのもあるが―――それ以上に、本能が嘘の答えを発することを拒否していた。
隣に座っている青年の底知れぬ気配に当てられて、葉弓は言葉に詰まっていたのだ。
「あな、たは……それを知って、どうされるのですか?」
「―――そうですね。正直に言いますと俺個人としては、それは正しい判断だと思います」
「……え?」
葉弓の目が点になった。
それは当然だろう。恭也は那美や久遠と親しくしているということは聞いている。
それなのに、その久遠を抹殺しにきたという自分達の行動が正しいとはっきり言われたのだから。てっきり卑怯者を見る眼で見下されるかと思っていたのだ。
「久遠に取り付いているという祟り狐の話は聞いています。日本歴史上最悪といっても過言ではない怨霊だとか。もし蘇ったらどれだけの被害がでるかわかりませんしね。被害を抑えられるのならば、それを第一の手段として【神咲】が判断を下すのも至極当然だと」
「―――っ」
「もしも俺が葉弓さんの立場だったら―――きっと同じ判断をしたでしょう」
それに―――と一息ついて恭也は続ける。
「葉弓さんが久遠の抹殺を自分から望んでするようには見えません。そんなことをする人ではありません」
「……そんな、ことをする女かも、しれませんよ?」
「那美さんにも言いましたが、俺はこう見えても人を見る眼はあるつもりです。勿論、葉弓さんほどではありませんけど」
―――流石は神咲真鳴流の最年少伝承者。
誰かが言う。
―――お前は、神咲三流に数えられる【我ら】の代表だ。
誰かが言う。
―――お前は完璧であり続けねばならない。それが正統伝承者として選ばれた宿命。
誰かが言う。
―――あの祟り狐を殺せ。もはや過去の過ちを二度繰り返してはならぬ。
誰かが言う。
―――あれは化け物だ。我らの怨敵だ。まさかお前がそれに逆らうわけはあるまい?
誰かが言う。
神咲葉弓は完璧であり続けた。完全であり続けた。如何なる時も取り乱さず、神咲真鳴流の伝承者として、神咲三流の見本としてあり続けた。十年も昔に祖母である神咲亜弓が祟り狐を封印するために命を落とし、その後を継ぎ伝承者となった彼女は、最年少伝承者として、退魔師という存在を象徴する自分であり続けた。
自分を殺し続けて早十年。誰にも本当の神咲葉弓という姿を見破られず、自分でさえも忘れかけた今日この日―――会って間もない青年が、理解してくれた。
本当は久遠を殺したくなかった。那美を信じて、久遠を信じて、彼女達の未来を願い、可能性にかけたかった。
しかし、それは神咲真鳴流の伝承者として許されなく―――己を殺して海鳴にきた。
「―――私は、神咲真鳴流の、伝承者です。私は、久遠を―――」
那美に憎まれてもいい。世界中でたった一人でも、自分を理解してくれている人がいるのならば―――きっとそれにも耐えられる。
「ええ。葉弓さんの覚悟は止めません。ですが―――」
自然と差し出されたハンカチ。それで気づく。自分の眼から流れ落ちていた一滴の涙に。
「久遠を抹殺することが正しいことだと頭では分かっています。でも、俺は久遠の友達です。例え化け物であろうとも、怨霊であろうとも、あいつを信じていたい」
恭也から受け取ったハンカチで零れ落ちた涙を拭う。
「【貴女】の分まで、久遠を守ってみせますよ」
「―――ふふ。そうですね、お願いします。でも、【私】も結構強いですよ。ちゃんと守りきって貰えますか?」
「奇遇ですね。実は俺も―――結構強いんです」
「本当に、奇遇ですね」
葉弓は笑う。曇り一つない笑顔で彼女は笑う。
綺麗な、本当に美しい笑顔で―――。
「―――葉弓、さん?」
「あ、薫ちゃん。もう着いたの?」
葉弓の前で足を止めた一人の女性がいた。神咲楓と同じ髪の色。ただし、この女性の方が髪が随分と長い。腰近くまで伸びたロングヘアー。艶があり、周囲の光を反射して煌いていた。旅行者が持っているようなキャリーバックを手で引いている。それとは別の肩には細長い袋―――竹刀袋に似たモノを担いでいる。身長は葉弓と同じく程度だろう。ただし、身に纏う雰囲気は別物だ。葉弓よりも、楓に近い。どちらかというと武人。そんなイメージを与えてくる。化粧ッ気はないのだが、元が相当にいいのか、非常に美しい女性でもある。大和撫子である葉弓とも甲乙つけ難い。
「遅くなって申し訳なかね」
「ううん。お蔭様で、恭也さんとも話すことができたし、気にしないで」
「恭也、さん?」
キョトンとした薫だったが、すぐに隣にいる男性が葉弓のいう人物だと気づいたのか視線を向けてくる。
彼女の瞳は真っ直ぐだった。恐ろしいほどに実直で、強き意思が込められていた。纏っている雰囲気、立っているだけでわかるほど身体の身のこなしが洗練されている。薫もまた―――達人。
「初めまして、高町恭也と申します」
「ああ、キミが。那美からは美由希さんとキミの話ばかり、聞いちょるよ。勿論良い話ばかりだけどね」
「―――それは、少し照れ臭いですね」
薫はごく自然に右手を差し出してくる。
自分の利き手を何の躊躇いも無く差し出してくることに多少驚くも、まさか拒否など出来る訳も無いので、恭也も右手で彼女の手を握る。
互いにぐっと軽く力を込め―――薫が僅かに目元を動かす。
「―――驚いた。高町君、キミは―――」
その時ピリリっと恭也の携帯電話が音を鳴らす。
失礼しますと断ってから携帯の着信画面を見てみれば、翠屋と表示されている。
嫌な予感をビンビン感じながら、通話ボタンを押して耳に当ててみると―――。
『恭也ー!!ごめん、ちょっとヘルプお願いー!!』
「これまた急だな……何があった?」
『バイトの子が急用で、これなくなっちゃったの。一人!!』
「あー。了解した。できるだけ急いでいこう」
『さすが、我が愛する息子!!本当にありがとうー』
最後の戯言を無視して、電話を切る。
そして二人に向かって軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。少し急用ができましたので、これで失礼させていただきます」
「ちょっと聞こえましたよ?はやく翠屋に行ってあげて下さい」
桃子の声が大きかったためだろうか、葉弓にも聞こえていたらしい。
少々恥ずかしく思いながら、携帯電話をしまう。
「それでは葉弓さん。神咲さん。【また】近いうちに」
「はい。その時はお手柔らかに」
「ああ。また―――」
薫と葉弓。二人は恭也が去っていった後、暫く見送っていたが、完全に姿が見えなくなると、さざなみ寮がある方角へと歩き出す。
そんな薫の背中はビッショリと汗で濡れていた。軽く握手をしただけ。それだけなのに、これ以上ないほどの悪寒に襲われた。今まで対峙してきた霊障が子供に見えるほどの禍々しい気配。こんな気配を内包できる人間がいるのかと、正直な話驚愕を隠せなかった。
―――もし彼と剣を交えたらどうなるか。
剣士として、想像した恭也との対決を、首を振ってそのイメージを消し―――薫は幾分か先に進んでいた葉弓の後姿を追っていった。
十二月二十四日土曜日。
世間ではクリスマスイヴと呼ばれ、或いはクリスマス本番よりも大切とされる日だ。
さざなみ寮でも、それは例外ではなく多くのご馳走が用意され。、大騒ぎとなるパーティーが行われていた。
夜七時から始まり、既に時間は十一時近いというのに未だ騒ぎが治まらないのは流石さざなみ寮というべきだろうか。
未成年組みにはお酒は飲ませれないが、成年組みはうわばみの如く用意されたお酒を飲み干していく。
薫も楓も葉弓も―――パーティーに参加はしていたのだが、どれだけ真雪が勧めてもお酒を飲もうとはしていなかった。普段の真雪だったならば遠慮なく、というか無理矢理にでも飲ませただろうが、この日の薫達はどこか鬼気迫る気配を醸しだしていた。
何かしらの覚悟を決めた者の気配。それ故に真雪も無理強いはしていなかった。
その代わりに、管理人の槙原耕介が限界を超えるほどに飲まされて意識を失う羽目になったが。
リビングに横たわる死屍累々。食べ物飲み物が散乱したテーブル。
それを片付けるのは槙原愛と神咲那美の二人だった。未成年ということもありお酒を免れはしたが、その代わりといってはなんだが、パーティーの後片付けが凄いことになっていた。
薫や葉弓、楓も手伝い、リビングの片付けが終わったのか、台所にいる愛と那美に声をかける。
「すみません、愛さん。うちらは先に休ませて貰ってもいいですか?」
「はい。いいですよ。ゆっくり疲れを癒してくださいね」
そして三人は―――部屋に戻らず、さざなみ寮から外へと出る。
各自用意していた己が霊刀、霊弓を携えて、目的を達するために歩み始めた。
足音や物音は消していたため、那美が三人がいないことに気づくのは多少遅れるだろう。気がつかないのは数十分かもしれない。数分かもしれない。それでも十分だ。
力のほぼ全てを封印されている久遠ならば、その数分でこと足りる。
ここにいるのは神咲三流の伝承者達。日本という国における霊を滅する退魔師達の最高峰。変身能力を持ち、僅かな雷を発するだけの妖など、ただの子狐とかわらない。
「―――薫。久遠は何処にいるかわかっとるん?」
「八束神社。そこから動いて、ない」
「……そっか」
久遠のいる場所は薫には手に取るように理解できる。何故ならば、祟り狐を封印したのは神咲薫その人であるからだ。
己が全てをかけた封印が、久遠の居場所を教えてくれる。
だが、薫の言葉に普段の力強さは無く、楓の返答にも切れは無い。それも無理はないと葉弓は思う。
今から彼女達が行おうとしていること。それを考えれば気分が重くなるのも仕方ない。
【祟り狐】久遠の抹殺。
彼女達の行いには正義がある。神咲三流のみならず、あらゆる退魔師達が同調してくれるだろう。
大怨霊と呼ばれる悪霊を宿した封印がとかれえば、日本は間違いなく荒れる。前回は何とか封印できたが今回も上手くいくとは限らない。大を生かすために小を殺す。
それでも三人は知っている。那美と久遠の笑顔を。優しさを。純粋さを。彼女達の絆の強さを。
二人を信じたい。だが、それは許されない。万が一にかけられるほど、祟り狐という怪物の存在は甘くない。
もし、三人が神咲三流の正統伝承者という立場にいなかったら、きっと違う判断を下せたかもしれない。
それほどにその立場は重いのだ。個人の想いなど、その前では殺しきらないとならない。
三人の行く道を照らす街灯は薄暗い。まるで彼女達の行く末を暗示しいているかのようだ。
後一時間もすれば日がかわる時間帯だ。当然八束神社までの道のりで、出くわす人間はいなかった。
階段を一段ずつのぼっていく。鉛をつけたように足が重い。以前階段をのぼったときの数倍は感じられるほどに、神社までが遠く、高く感じた。
無言。薫も楓も、葉弓も―――さざなみ寮を出たときに話してから、誰一人として言葉を発しない。
何か話せば決意と一緒に漏れ出ていきそうで、誰も話すことが出来なかった。
そして彼女達は境内へと辿り着く。薄暗い空間。八束神社を照らすのは夜空の星々と、僅かな照明のみ。
鳥居を越えて、神社に近づいた彼女達の眼前に久遠がいた。
―――ベンチに座った高町恭也の膝元で、体を丸めて寝ている久遠が。
「こんばんは。葉弓さん。それに神咲さんと、神咲楓さん」
「何故、キミが?」
「俺は普段は此処で鍛錬をしていますので。日が変わるくらいまではいるんですよ」
薫の声が震える。一方恭也は何時と同じ様に返答する。
「高町、くん。久遠を渡して貰えへん?」
「久遠を斬るためにでしょうか」
「……っ、ああ。そうや」
「でしたらお断りします」
楓の声が震える。一方恭也は何時もと同じ様に返答する。
「恭也さん……貴方は私達を止めてくれるのですか?」
「ええ。止めて見せましょう」
葉弓の声が震える。一方恭也は何時もと同じ様に返答する。
「貴女達の行動は正しい。俺は貴女達を尊敬します」
ぽんと軽く久遠の頭を撫でる。
それで眼を覚ました久遠が頭をもたげ、恭也の顔を見た。
「愛しい相手に憎まれたとしても、それでも成し遂げようとする。果たして俺が貴女達の立場だったらそれだけの覚悟が持てるかどうか―――」
恭也が八束神社の本殿の方角を指差す。
それで理解したのか、久遠が膝から飛び降り軒下へと走り去っていった。
「ですが、貴女達にも迷いがある。久遠を殺さなければいけないという気持ちと同様に―――自分を止めて欲しいという気持ちが存在しています」
だが、久遠は軒下の暗闇に姿は消さず、四人が見える位置で足を止め振り返った。
「―――その想い、俺が汲み取りましょう」
そして薫は、楓は、葉弓は見た。
目の前の青年の、あまりにも、規格外の気配に息を呑む。
眼前が暗く染まる。ポタリポタリと空から雨が降ってきた。いや、それは錯覚だった。
重く、ただ重く、ひたすらに重い。身体を空から押し付けてくる闇色のナニか。
背筋に冷たいモノが走る。全身の毛穴が開き、汗が噴出してくる。
気がおかしくなりそうなほどの重圧。肩にずしりと鉛がのしかかってきている重み。ともすれば、その圧力で膝を折りたくなるのを、全身の神経を奮い立たせて三人は耐える。
ただの人間が放つそれは桁が違った。数多の怨霊、悪霊を見てきた三人でさえ、異常なまでの戦慄を感じ取った。
濃密で、濃厚で、濃縮された、底知れない―――いや、【底がない】極限の闇。
しかし、三人もただの人間ではない。
日本にその名を知られる神咲三流。その頂点に立つ者達だ。
圧力感に押し潰されそうになりながらも、それに負けじと熱い気持ちを全身に巡らせる。
身体中の神経を隅々まで働かせる。身体の内側から揺さぶり、まとわりつく黒き闇を振り払った。
それを確認したわけではないだろうが、恭也は立ち上がり、久遠と三人の間に陣取る。
「まぁ、本音を言いますと……」
そして恭也は悪戯小僧のように、口元を微笑させ―――。
「家族曰く俺は相当に兄馬鹿らしく―――久遠がいなくなるとなのはが悲しみます。泣いてしまいます。きっと俺はそれが許せません」
―――そう言い切った。
それを聞いた三人は暫く呆然としていたが、強張っていた表情が僅かに緩む。
「それは確かに相当な兄馬鹿やね」
「うん。薫の那美ちゃんへ対する姉馬鹿よりも重病や」
「それは確かに酷いですね」
薫も、楓も、葉弓も意外と容赦が無かった。
そのやり取りで緊張が解けたのか、薫が手に持っていた霊刀―――十六夜に手をかける。
「―――うちがいく。二人は手出し無用じゃ」
「……わかった」
「……」
楓と葉弓を下がらせて、薫が用心深く間合いをつめていく。
対して恭也は小太刀に手をかけてもいない。それを不審に思う薫が―――。
「抜かんのね?」
「―――まだ必要ありません」
必要があったならば抜きます。そう後に続けた恭也に、薫の視線が鋭くなる。
確かに向かい合っただけで分かる尋常ではない使い手。だが、こちらが刀を抜こうとしているというのに、その対応は一体どうだというのか。素手に刀で遅れをとるような鍛錬を積んではいない。
「貴女が、貴女達が霊を倒すことに全てを費やし、鍛錬を行っているのは分かっています。特に神咲【一刀】流を学んだ貴女は剣術家としても達人の域。恐らくは今の美由希では貴女達には及びません」
深く肺の中の空気を吐き出し、新鮮な空気を取り入れる。
「ですが知っていただきたい。俺は―――人の姿をしたモノを斃すことだけに全身全霊をかけて、己の人生の全てを費やしてきたということを」
―――薫!!
薫の愛剣―――意思を持つ霊刀十六夜の叫び声が木霊した。
認識するよりも早く、十六夜の鬼気迫った声に体が十六夜を鞘がついたまま真上に掲げた。
それと同時に伝わってくる衝撃。硬質な震動が十六夜を通じて両腕に痺れをもたらす。
音も無く振り下ろしてきた拳を両断すべく、空中で鞘を取り払い、刃を滑らせる。
だが、ギャリンっと金属音がなるだけで手にはそれしか伝わってこなかった。十六夜が断つはずだった相手の拳は空中で取り払った鞘を盾として無傷のまま今の今まで感じていた質量が消え失せる。
逃すものかと、片足を引きつつ、身をよじりながらも切り落とされる十六夜の刃。
しかし、十六夜を握る手首にそっと添えられる恭也の掌。それだけで力の流れを支配された。そして、もう片方の手が十六夜の横腹を叩き流す。
一撃必殺の剛剣が、撓る枝を斬れないのと同様に、恭也の身体に届かず地面を叩き斬る。
「―――なんや、【アレ】」
その光景を理解できたのは遠目から見ていた楓のみだった。彼女は小太刀を使う。他の霊具も使う。だが、あくまでメインは小太刀だ。刀を扱うものとして、目の前で起きた動きを理解できた―――それがどれだけ理解の外にあるものだとしても。
薫の剣は、生半可なモノではない。それを一番知っているのは神咲楓だ。薫に憧れているからこそ、彼女の凄まじい剣術を知っている。そもそも神咲一灯流は悪霊を祓うだけではなく、【斬る】ことに主眼を置いている。故に、その剣術は退魔師としての片手間に覚えるものではない。剣士としても一流だ。
薫の剛剣を避けたのならまだわかる。防いだのならまだわかる。だが、恭也のしたことは、斬撃を【流した】。
斬られることを恐れずに、何のためらいも無く真剣に向かって、拳を振るう。それは楓にとって、正気の沙汰の技ではない。人の為せる技ではない。いや、人が為して良い技ではない。
―――薫!!
再度必死に呼びかける十六夜の声。
一瞬の悪寒。咄嗟に身を逸らしたその空間を通り過ぎるのは、黒の残像。
恭也の掌底が一ミリの狂いもなく、顎があった場所を通過していく。
身を逸らした結果、生じた隙。薫が体勢を整えるよりも早く黒き閃光が駆け巡る。
懐に入り込んできた恭也が、響かせる冷たくも重い踏み込みの音。神社が揺れたと錯覚するほどに巨大な地震。そう勘違いしてもおかしくはない震脚。先に空を切った左掌底の勢いのままに、左掌が薫の腹部に叩き込まれる。
いや、その寸前でピタリと停止する。それと同時に振り下ろされてきた十六夜が何も無い空間を断ち切った。
もしもそのまま左掌底を叩き込んでいたら腕を切られていたことは想像に難しくない。それを予感し、予想して恭也は腕を止めたのだ。
ガリっと歯を食いしばる音が響く。
振り下ろされた十六夜がそのままの勢いで、紫電の如き切り上げが襲い掛かる。
だが、それが恭也に届くことは無い。紙一重、決して届かぬミリ単位での見切り。剣圧で前髪が舞い上がるほどの超絶近距離回避。
柄を握る薫の両手首に添えられる、逆手の掌。力の流れを加えられ、薫の狙い以上に大きく振り上げられた。
闇夜でなお鮮烈な印象を相手にもたらす恭也の瞳と眼が合った。
まるで初めて悪霊と対峙したときのようなおぞましい気配が背中を襲う。
恭也の瞳は瞬き一つなく、薫の全身を見つめている。四肢の動きだけではない。目線から、頬の僅かな緩み、口元の筋肉、さらには呼吸の動作、全身の脈動にまで観察していた。
薫の呼吸が激しく乱れる。時間にして一分にも満たぬ僅かな時で、これ以上ないほどに削られてしまった集中力。そして、体力。底がない闇の気配によって奪われていく気力。
恭也の体躯は確かに薫と比べれば大きい。だが、それでも理解してしまう。
一撃でももし受けたならば―――それで意識を刈り取られるということを。
しかもそれだけではない。恭也の動きは、薫の想像を遥かに超える。動きが速いというだけではない。
何時踏み込んできたのか。どの段階で踏み込んできたのか。どの方向から踏み込んできたのか。
どの方角から、一体何歩で間合いを詰めてきたのか、その軌道がわからない。
来ると思った瞬間にはすでに、攻撃の態勢を整えた漆黒が通り過ぎている。十六夜の注意がなければ最初の一撃で終わっていたのかもしれない。
刀を持っていない。相手は素手だ。それは自分の思い上がりだった。
削り取られた集中力を凝縮、戦いにようやく入り込んだ薫が、一歩を踏み込み強烈な横薙ぎを放つ。
相手の胴を狙い、半円を描いた白銀が澄んだ音を残して軌跡を描いた。
それをミリ単位でかわされるのも予想通り。腕に限界までの力を込めて、途中でピタリと十六夜を止める。
そのまま切っ先を鋭く叩きこむ。身体ごとぶつかるような泥臭くも見事な刺突技だ。
だが、十六夜が貫いたのは恭也の残像で、身体を開いてかわした彼の右掌底が振り落とされた。その目的地は薫の首。狙いは頚動脈。一撃で昏倒させようという目論見だろうが、まともに喰らえば下手をすれば死ぬ。そんな脅威を秘めた。ある意味容赦のない攻撃だ。
これは避けられない。まともに喰らう。誰もがそう思った攻防だった。
―――もし、相手が薫だけだったならばの話だが
十六夜が薫の肉体を無理に動かす。薫の意思とはまた別で、頚動脈へと迫ってきていた掌に切り上げで合わせられた。
相手の指を全てこそぎ落とす勢いの斬撃は躊躇いも無く振り切られ、切断の手応え。
ただしその切断の手応えは―――空気。
薫へと迫っていた右掌には僅かな傷もない。刹那の差を持って掌の軌道を僅かに変え、激突する瞬間十六夜の刃を逸らし、流した。
ついで放たれるのは掬い上げるかのような左の掌。狙いは腹部。流され頭より上に向かっていた十六夜を、やはり無理矢理に振り落とす。今度は相手の拳を叩き切る勢いの縦の斬撃だ。
柄越しに感じるのは何かを切断した手応え。
無論、恭也の左手を断った感触ではない。十六夜が地面を抉り、突き立てた感触だ。
―――また、だ!!
相手の攻撃を断ち切ると思われる瞬間に、柄に手を添えられる感覚。
それで力を操作され、ついで十六夜の刀身に感じる僅かな違和感。
片手で薫の肉体の力の流れを支配し、もう一方の片手で十六夜の刀身を流す。薫と十六夜の二つの意思を完全に戦いの中で殺していた。
薫と十六夜が放つ必殺の斬撃は、容赦なく、暗闇を照らす刃の軌跡となって、幾重にも複雑な軌道を描く。
だが、恭也の掌がどれだけ複雑に絡み合った軌道も尽く逸らしてゆく流された十六夜は周囲の地面に傷跡を増やしていくだけに終わる。
それは薫にとっては悪夢の時間。己が剣が、己が技が、ただの人の手によって無効化されているという信じがたい事実。
ましてや十六夜との連携。彼女の声を聞き、刀を振るう、その連携が無為に終わるという有り得ない出来事。
これは果たして如何なる神技か、それとも魔技か。或いは魔術か。いや、神技も魔技も、魔術も超えた―――人の技。
脆い筈の人の拳が生み出す鉄壁の防御。そして油断をすれば一瞬で終わらせられる業火の攻撃。
出口の無い暗闇の迷宮に迷い込んだように薫の心は焦燥に支配されていた。
一方恭也も必死だ。
彼が使用しているのは、【刃流し】と呼ばれる技術。以前那美の前でしてみせた【刃取り】と同じ宴会芸でしかない。他にも刀を折る【刃断ち】もあるが、それも同じだ。
それらはそもそも文字通り宴会の時に使われた技術だ。過去の御神と不破の宴会の時に、相手が次の一手をどう動くかを告げ、それに応えて行っていた。それでも士郎や静馬といった限られた者しか使えない技術でもあった。
それ故に実戦では到底使用不可能な技術―――恭也を除いてだが。
恭也が完成させた御神流裏。相手の肉体の動きを、思考を分析し、推察し、予測し、検討し、己の肉体をも利用して相手の行動の可能性を潰していく。その結果生まれるのは相手が【選んだ】のではなく、相手に自分が【選ばせた】行動の結果。
完全に予想した結果通りの相手の攻撃を、極限の集中力で捌いて行く。それはまさに綱渡りの戦い。
勿論、素手で戦うのにはわけもある。
小太刀を抜かない状態でさえも、神咲三流の者達と渡り合う。まだ恭也は本気を出していないぞと、圧倒的な優位を知らしめる。今回の恭也の目的は相手の打破ではない。
薫の、楓の、葉弓の戦意を削ぐことだ。仮にも相手は那美の姉。できれば怪我をさせたくはない。それ故に攻撃も最小限に留めている。
本来ならば素手でここまで渡り合えるとは思ってはいなかった。薫の太刀筋は確かに達人。恭也の背筋を冷たくするに値する剛剣の乱撃。だが、迷いがある。
恭也と戦うことに、いや―――久遠を殺めることにこれ以上ないほどの躊躇いがある。それが薫の太刀筋を鈍らせていた。
二人の戦いは数分程度続いただろうか。やがてそれは終わりを告げる。この八束神社に現れた新たなる人間によって。
その気配に気づいたのは恭也が最初だった。次の楓、そして葉弓。恭也を相手取っていた薫が最後となった。
静かな夜の世界に響き渡るのは階段をかけあがってくる音。こんな夜中に神社に来る人間は限られているだろう。
それにここにいる四人が四人ともその気配に覚えがあった。その気配の持ち主は―――。
「薫、ちゃん?それに葉弓さんと、楓さんも―――やっぱり、ここに」
薫の義妹である神咲那美だった。相当に急いできたのか、呼吸が激しく乱れている。
那美の視界に映ったのは気まずそうに顔を伏せた楓と葉弓。それに、十六夜を握り締めた薫と、それと向かい合っている恭也。如何に那美と言えど、何があったか容易く想像がついた。
「薫ちゃん……なんで。久遠のことは、私に任せてくれるって―――」
「……っ」
唇を噛み締めると薫は十六夜を転がっていた鞘を拾い納める。
泣きそうな表情で那美は薫のもとに駆け寄ると、彼女の両腕の半ばを掴む。
「薫ちゃん、久遠を、私を―――信じて。お願い、薫ちゃん!!」
「……うち個人としては信じたい。それでも、うちは―――破魔真道剣術神咲一灯流の伝承者。これから起きる、破滅から多くの人を守る義務がある。力なき人に降りかかる不幸を、悲しみを少しでも減らすのが、うちらの仕事だ」
「でも、それでも―――」
二人を見守る楓と葉弓。那美の言いたい事は良くわかる。
彼女達個人としては信じたい。でも、それは許されない。そして、既に薫達が強硬手段にでなければならないほどに、現状は切羽詰っている。
自分達が甘い感情に流されたが為に、多くの人間の命が奪われることなどあってはならない。
薫と那美の話は結局どこまでいっても平行線だ。どちらも己の意思を譲らない。譲れない。
説得程度でそれを曲げられるものか。互いに立場も想いも違えど、確固たる気骨があるのだから。
恭也も二人の想いのぶつけ合いを眺めようと一息吐いた瞬間―――。
「―――っ!!」
肺の中の空気を搾り取られた。
直接鳩尾を殴られたかのような、衝撃を体が襲う。
【視】ている。【視】られている。
あの、怪物に。薄ら寒い笑みを浮かべている魔人がここにいる。
頭で考えるよりも早く、体が動いた。
ざんっと砂を蹴る音が恭也の足が放ち、弾丸の如き姿で一直線に久遠へと疾駆する。
僅かな躊躇いもなく、走りながら鯉口をきる。チンっと金属音が高鳴った。
那美の姿を見て、軒下から這い出てきていた久遠が、首を傾げる。
久遠の瞳に映ったのは鬼気迫る殺気を身に纏いった恭也が自分に向かって疾走してくる姿だった。
その殺気に驚いたのが那美達だ。慌てて恭也の姿を追うが、それに驚く。
久遠に突撃していく恭也の姿。誰がどう見ても、久遠を斬り捨てようとする純粋な殺意。
「―――高町、先輩!!待っ―――」
那美が叫び終わるよりも早く―――恭也は小太刀を抜き放った。
最速最短の速度と距離で抜刀された小太刀は。何の迷いもなく久遠を―――貫こうとしていた黒の刃を切り払った。
視認できぬ二度の抜刀で、久遠の頭上から降り注いできた四本の黒剣を払いきった恭也は、そのままの速度と勢いで賽銭箱を蹴りつける。そしてその横にあった柱をさらに蹴りつけ、屋根の端へと片手をかけて、力一杯己を引き上げた。
屋根へと一瞬で辿り着いた恭也の先に、黒衣を纏った天眼が座っている。
「あらあら、お見事ですね。少年」
「―――何をしにきた」
「何をって、決まってるじゃないですか。少年のお手伝いですよ?」
「ふざけた、ことを―――!!」
瓦が弾け飛ぶ。首を飛ばす角度で振るわれた小太刀を、彼女はあっさりと素手で受け止めた。
それに背筋を冷たくする恭也。彼が使用する刃取りといった技術とは違う。
種族としての根本的な身体能力の違い。ようするに技術も何もない力技。それだけで己の一刀を掴み取った。
「躊躇いもなく首を落とそうとするとは―――ぞくぞくしちゃいますね」
舌打ちを残し、恭也の蹴りが天眼の腹部に叩き込まれる。
だが、何か分厚い布を蹴ったかのような妙な感覚が足に残されるだけで、一歩彼女をたたらを踏ませることしかできなかった。その拍子に掴まれていた小太刀は解放され、恭也は用心するように間合いを取る。
「あいたた。女性の腹部はとても大切なんですよ、少年。責任を取ってくれるんですか?」
「誰が、取るものか。化け物め」
しかし―――と、恭也は疑問に思う。
如何に底知れぬ怪物とはいえ、あの速度の刃を無造作とも言える行動で受け止めるなどできるものなのかと。
訝しげな恭也の視線に気づいたのか、天眼はぽんっと手を叩いた。
「私の羽織った衣は中々に強固ですよ?私の人生でただの一度しか破られたことはありません」
注視してみて衣という言葉の意味がわかった。
夜の闇のせいで薄っすらとしか見えないが、彼女は身体全体にナニかを纏っている。それもまた小太刀を受け止める役割を果たしたのだろうか。
「ところで、少年。大怨霊が依り代に望むものは何だと思いますか?」
「……悪意。人の憎悪。そういった負の感情」
「はい、大正解です。さて、あの大怨霊の依り代は、どうすれば憎悪という感情を持つと思いますか?」
「……」
薄ら寒い口元の微笑がやけに恭也の癇に障る。
答えない恭也を、愛おしそうに眼を細め、眺めている。
「あの大怨霊の器を守ったことは素晴らしい。ですが惜しかったですね。本当に惜しかったです―――貴方がここにいるということは悪手にほかなりませんよ?」
―――久遠がどうすれば憎しみという感情を持つのか?
それは簡単なことだ。
もし、もしも目の前で親しいものが傷つけられたら―――。
「―――薫さん!!」
反射的に下の名前で薫を呼ぶ。
確証はないが、間違いない。そして、今この場所にいる以上、恭也では間に合わない。
「……えっ?」
それは誰の声だったのか。トスっと静かな音がなる。
小さかったはずなのに、その音は確かに恭也の、薫の、楓の、葉弓の耳に届く。
那美の影が突如せりあがり、黒く細い桐となったそれが―――那美の腹部を貫いた。
「那……美?」
そしてその桐は一瞬で霧散する。貫かれた腹部からはどろっとした血液が溢れ始めた。
致命傷ではないだろう。だが、油断できる傷でもない。
どさりと音をたてて那美が地面に倒れる。じわじわと広がっていく血の池。
呆然としていた三人は、十数秒たってようやく現状を理解する。
「那美、那美、那美!?」
「那美、ちゃん!!」
「どいて、薫ちゃん!!」
パニックになりつつあった薫と楓を引き剥がし、葉弓が那美の傷を見る。
意識を確認してみるが、生憎と失っていた。即座にヒーリングを開始する。果たしてどこまで出来るかと、歯噛みする。
その時―――。
「―――私もご協力します」
薫の愛剣である、十六夜が光を発し、そこに一人の女性が現れる。
西洋人のような美しい金色の髪。女性でありながらの長身。フィアッセを彷彿とさせる美しい容姿だ。
彼女こそが真道破魔神咲一灯霊剣十六夜として神咲家初代から400年近くに渡って、神咲家に仕え、そして支えていた女性。霊剣に宿った魂を具現化させることを可能とした歴史に類を見ない異質性を持った霊剣だ。
葉弓と十六夜の二人が両手を那美の貫かれた腹部に手を当てる。淡い光が両手から発せられ、それを不安そうに見ている薫。僅かにだが、出血の量が治まっていく。この傷を見た十六夜が眉を顰める。
―――見た目よりも、深い傷ではない?
十六夜の感じたとおり、那美の傷はそこまで深くはなかった。
出血が多いが命に関わることは決してない。いや、敢えて致命傷を避けるように貫かれている。
最初から殺すつもりはなかったということなのか、そんな想像が脳裏に流れる中―――。
「……な、み……?」
ぽんと音が鳴って久遠が子狐の状態から人間の形態へと変化する。
何が起こったのか理解できていない。そんな様子の久遠の目の焦点が合っていない。
いた、彼女が捉えているのは―――最愛の友の姿。血に塗れ、赤い池に身を横たえているその姿。
バチリと記憶の何かがフラッシュバックする。
遠い昔の記憶。人を憎んだ記憶。最愛の少年を奪われた記憶。
「……あ……ああ……あああ……」
パキリと心の鍵が罅割れる。
深淵に閉じ込めていた黒き悪意を封じ込めていた枷が崩れていく。
久遠の抱いた憎悪が、思い出した憎悪が、薫のかけた封印を次々と破壊していく。
「あああ……ああああああああ……ああああああああああああああああ!!」
ぶわっと生暖かい衝撃波が久遠を中心に巻き起こった。
周囲に転がっていた砂が、石が、弾き飛ばされる。桁外れの邪気が久遠の内から漏れ、溢れ始めた。
それに全員が気がついた。だが、葉弓と十六夜は手が離せない。如何に命に別状がないとはいえ、今此処で治癒をやめることはできない。薫は那美が刺されたということに茫然自失としていて、反応が出来なかった。
この場で久遠の中の悪意の目覚めに反応が出来たのは唯一人―――。
「―――うちが、やる!!」
愛刀渚を引き抜き、楓は己が最速で境内を駆け抜けた。
久遠が放つ果てしない悪意に膝を折りたくなる。近づくだけで許しを請いたくなる。
だが、そんなことができるものかと、歯を噛み締めた。
楓は覚悟を決めていた。この役目を神咲楓月流の長老達から与えられた時から決心していた。
薫はきっと久遠を斬る事はできないだろうと。薄々感づいていた。薫は良い意味で優しい。きっと久遠と那美の絆を断つことはできないだろうことは想像がついた。それが悪いとは思わない。楓にとって、それが神咲薫という尊敬すべき友なのだから。
自分が久遠を斬るという覚悟。揺ぎ無い意思。それが神咲楓という退魔師の足を進める。
如何なる憎悪も。如何なる悪意も。如何なる殺意も―――楓の足を止めるには至らない。
轟っと激しく沸き立つ霊力。夜の闇を逆に侵蝕し、あらゆる魔を祓う退魔の極地。
渚を握る手がミシリと音をたてた。刀身に集まる純白の力。これ以上ないほどに高め、練り上げた最高の一撃。
「神気発勝―――真威楓陣刃!!」
振り払われた渚から、広範囲に渡って放たれる白い爆撃。
楓から久遠へ至るまでの道のあらゆるモノを蹴散らし、破壊し、全てを浄化する。
膨大な霊力を持つ神咲楓の手加減抜きの、全力全開。その神魔覆滅の奔流が久遠を―――飲み込んだ。
【彼女】が自分という自我を持ったのは産まれて間もない頃だった。
母狐と【彼女】と何匹かの兄弟。そんな数匹で、人も近づかない森の奥深き場所で日々を過ごしていた。
自分は母と他の兄弟とも違う。そんな漠然とした気持ちを持ち始めたのは何時頃だったのだろう。
【彼女】は成長が他の兄弟に比べて非常に遅かった。否、子狐のまま決して成長が進むことはなかった。
そんなある日、【彼女】が巣を離れ虫と戯れていた時に事件は起きた。
巣に帰ってみれば、兄弟達は皆殺されており、母狐の姿はどこにも見かけなかった。
何故かわからない。どうしてかわからない。それでも【彼女】はこの日一人となった。
それからどれだけの月日が流れたのか。
【彼女】は気がつかなかったが、既に十数年近くの時が流れていたが、【彼女】は子狐のままだった。
やがて【彼女】は一人の少女と出会う。
名はみつ。
【彼女】が住んでいる森の近くにある村の巫女だという。
当時の彼女は巫女が何なのかもわかってはいなかった。人間に対する知識が皆無に等しかったのだ。
みつは【彼女】に多くのことを語った。
父のこと。母のこと。村のこと。村人のこと。好きな相手のこと。
【彼女】はその時間がとても好きだった。みつと一緒に居る時間がとても大切だった。
だが―――みつは【彼女】の前からいなくなった。
それは簡単で、残酷な事実。
みつはその村の神官の娘。故に、彼女は人柱とされたのだ。
村で流行った病気。それをその土地で祀られていた神の怒りと捉えた村人達は、みつを生きながらにして人柱とした。
それを知らず【彼女】はみつを探し続ける。
当然見つかるはずもなかったが、その途中でとある理由で怪我をした。
【彼女】は助けを求めた。山の奥深き場所故に誰一人として通らぬはずだったその場所に―――少年が通りがかる。
彼の名は弥太。親も兄弟もいない天涯孤独の薬売りの少年。
弥太は怪我をした【彼女】を傷が癒えるまで世話をすした。その間に、弥太は【彼女】と多くのことを語り合う。
それはみつと同じで、【彼女】にとっては至福の時間。誰かとともにいられる喜び。【彼女】は弥太と供にいられるこの時間を何よりも好んだ。
やがて【彼女】の傷も癒え、弥太は自分の家に帰っていった。
別れ際に、今度会った時にはお前の名前を考えてきてあげるよ―――それだけを言い残して。
そして再び悲劇は起こる。
村で起こった病気は治ることは決してなかった。伝染病のように次々と村人達に広がっていく。
みつを人柱にしたのに治らない……そんなのは当たり前のことだ。人柱で病気が治るはずもない。だが、村人達にはそれがわからない。
困ったのがみつの父親でもある村の神官だ。このままでは自分の地位が危ぶまれる。
彼にとって大切なのは自分だけ。己の地位だけ。それに比べれば娘など気にも留めない。そんな悪意の塊のような人間だった。
だからこそ、彼は弥太に目をつけた。
薬売りとして、自分で多くの薬草を取り扱っていた彼は免疫が出来ており、伝染病にはかかっていなかったのだ。
病気を怖れずに弥太は多くの村人達のために奔走した。あらゆる薬草を試した。どんな人でも救うために、彼はそれこそ寝る間も惜しんで村を、山を駆け回った。
その結果―――神官は言った。
弥太こそがこの伝染病の原因だと。彼こそがこの村に不幸を運んできた張本人だと。
村人達は狂気にはしる。自分たちの命のために、自分達を救おうとしてきた弥太に憎しみをぶつけた。
お前のせいだと。お前のせいで父が死んだ。お前のせいで母が死んだ。お前のせいで息子が死んだ。お前のせいで娘が死んだ。お前のせいで祖父が死んだ。お前のせいで祖母が死んだ。お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の―――。
浴びせられる根拠なき罵声。憎悪。怨恨。殺意。
村人達は弥太を捉え、殴りつけた。蹴りつけた。ありとあらゆる憎しみを拳で、少年にぶつけ続けた。
殺せ。殺してくれ。殺してしまえ。殺すんだ。殺そう。
際限なき殺意。狂気。常人では眼を逸らしてしまう、地獄の世界。
意識も混濁した弥太は地面に転がっていた。既に片目もつぶされ、もう片方の視界も塞がりつつあるその僅かな景色の中に、【彼女】を見つけた。
弥太は笑う。殴られぶたれ、蹴りつけられ、元の顔の原型もなくなった弥太は―――それでも、暖かな笑みで【彼女】に呟く。
―――く、お、ん。
ぐしゃり。
【少女】は確かに聞こえた。弥太が【彼女】に語りかけた最後の言葉を。くおんという言葉を。
そして、潰された。弥太だったものは潰された。原型もないほどに、ぐちゃぐちゃに。
頭を砕かれ、頭蓋骨が見える。脳髄が飛び散り、周囲を汚していた。
それを見ていた村人達は笑っていた。神官も笑っていた。
このおぞましい光景を眺めている皆が笑う。これで村は助かるのだと。悪霊は消えたのだと。
【彼女】は、ただ呆然としていた。
なんだこれは、と。これが、こんなモノが人間なのか、と。こんなモノが、弥太達と同じ人間なのか、と。
村人を助けるために寝食を惜しんで、命をかけて働いていた弥太が何故こんな目に合わないといけないのか。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。
目の前で高笑いをしている人間達が心の底から憎い。力が欲しい。この人間達を殺しつくせるだけの力が。
【彼女】は願う。神でも悪魔でも何でも良い。力さえ手に入るのならば―――。
―――ワレ、ミツケタリ。
そんな暗い声が【彼女】の頭に響く。
全身に感じる悪寒。絶望的なほどの悪意。全ての人間を殺しつくそうとする殺意。
だが、【彼女】はそれに身を任せる。もうどうでもいい。弥太の敵を討てるのならば、みつの敵をうてるのならば。
自分の命などもういらない。命をかけて、全ての人間を滅ぼしてしまおう。
バチリと、【彼女】の周囲に雷撃が巻き起こる。
超々々高熱の雷撃が、一瞬でその場にいた村人達を焼き殺す。炭も残さず、虐殺の限りをつくす。
その雷は、村人はおろか、神官が逃げ込んだ神社をも燃え焦がし、消滅させた。
それが【彼女】―――否、【祟り狐】久遠が産声をあげた運命の日。
今から三百年以上も昔の、とある日の出来事だった。
空から激音を告げて、雷が八束神社へと迸った。
闇を切り裂き、周囲を照らすのは、金色に輝く光の電撃。
それが久遠に落雷―――そして、己を飲み込んだ楓の渾身の霊力の奔流を弾き飛ばした。
バチバチと音をたてて久遠は金色の雷を纏う。彼女がいるだけで、八束神社は昼間の如き明るさだった。
誰も彼もが息を呑む。その場に現れた久遠―――否、【祟り狐】の姿に。
子狐とも、子供の姿とも異なる、彼女の力を完全に振るえる肉体。即ち、成人した女性の身体だ。
身長が子供の時はなのは程度だったのが、今では百七十近い。服は赤と白を基本とした巫女服。狐色に輝く長い髪。髪の隙間から揺れる二つの狐耳。豊かな双丘。そして、腰に蠢くのは五本の尻尾。
身に纏うのはあらゆる悪霊、怨念を凌駕する邪気。夜を照らす雷撃の鎧。
そこにいたのは―――確かに歴史にさえも名を残す、正真正銘の怪物だった。
「……あれが、久遠……」
「あらあら。これは見事なまでの大復活ですね」
愕然と呟いた恭也とは真逆で、天眼は面白そうに眺めている。
これは確かに恐ろしいまでの怪物だと恭也は実感した。見るだけで伝わってくる、桁外れの重圧。伝承級の怪物にも決して劣らぬ、いや或いは凌駕するほどの化け物だ。
「お前は、お前は何がしたい?何を考えてる?」
小太刀の切っ先を向けて恭也が問う。
この女の考えが全く読めない。大怨霊のことを伝えてきたと思えば、対処の方法まで教える。
しかし、今度は大怨霊の復活を助ける行動を起こす。理解しがたいのだ、この怪物を。
「お前は―――なんだ。お前の行動は、無茶苦茶だ」
「そうですか?私は一貫してると思ってるんですけど……」
キョトンと、可愛らしく首を横に傾けて口を尖らせる。
「ねぇ、少年。私は貴方のためにしか動きません。貴方のために苦心して、苦労して、苦慮して、努力して、尽力して、骨を折って―――全ては貴方のためなんですよ?」
「……ふざける、な」
「ふざけてなんかいませんよ?少年―――私はですね、命に重い軽いがあると思っています。私自身の価値観ですけどね?」
恭也が一歩退いた。
目の前の得体の知れないナニかに、気圧された。
「この世界に生きる七十億の人命と貴方。天秤にかけたら私にとって重いのは貴方の方です」
恐ろしいと思った。
この女は口先だけではない。この女は事実だけを語っている。
「もし、もしも貴方が命を落としたならば―――私は何の躊躇いもなく、【種】を使って世界を滅ぼします」
笑う。笑う。彼女は笑う。狂ったように彼女は笑う。
奥底に秘めた無限の愛情が、狂おしいほどに凶がりに凶がった恋慕の情が。
剣に生き剣に死ぬことを己に課した、高町恭也をして、這いよってくる虚ろな黒いナニかに息を呑む。
「では、少年。私はこれにて失礼します。頑張ってくださいね。貴方の死はイコール―――世界の破滅と同義なのですから」
忌々しい笑みを残して天眼は、恭也とは反対の屋根へと飛び移り、そのまま飛び降りた。
後を追うも、既にその姿は影も形も見つからない。恭也の気配察知の領域からも完全に居なくなっていた。
「ぁぁあああああああああ!!」
そんな恭也の耳に楓の雄叫びが響き渡る。
圧倒的な邪気を放つ久遠に対抗するために、逃げ出しそうになる自分を鼓舞する雄叫びだ。
悠然と立っている久遠に向けて懐から取り出した霊符を向ける。印をきってその霊符を地面に叩き付けた。
純白の光が迸る。ガガっと音をたてて地面から幾つもの鋭い岩槍がせりあがっていく。
幾重にも重なり、目的である久遠へと突き刺さる。刺殺とも、圧殺ともいえる大地の大瀑布。
しかし、雷が弾け、大地の大波を消し飛ばす。
粉々に砕け散った土の隙間から見えるのは、傷一つない祟り狐の姿。
すっと久遠が右手をあげる。バチリと神々しくも見える雷光が、天に掲げた腕にまとわりつく。
死の予感がガンガンと楓の頭に鳴り響く。悲鳴もあげる暇もなく、横っ飛びで転がりながら大きく間合いを外した瞬間、直線状に光の雷撃が土も砂も木々も吹き飛ばし、焼き尽くす。
その破壊力に息を呑む。これまで見てきた悪霊が、赤子にしか見えない。まさに圧倒的。
勝てるはずがない。そんな弱気がジワジワと楓の心に這いよってきた。だが、唇を噛み切り、その痛みで己の弱さを消し飛ばす。
「―――雷に、水は相性が悪い。木の属性も、通用せーへん。金も微妙。使える力は随分と限られてしまうわ」
ぶるっと体が震える。だが、楓の心は全く折れてはいない。
これまで一体どれだけの修練をつんできた。どれだけの悪霊を祓ってきた。どれだけの友の死を看取ってきた。
其の全てが、今この時のためのものだ。今この時に使わずに何時使うというのだ。
シャランっと澄んだ音をたて小太刀を向ける。
厄介な事に久遠が其の身に纏う雷の鎧。それがまた久遠にとっては鉄壁。こちらにとっては最悪の意味での鉄壁。
霊刀ではあるが金属で精製された渚では恐らく触れた瞬間、電流を流される。ならば遠距離での戦いに活路を見出すしかない。
その遠距離でも果たして効果があるのかどうか。先ほどと同じようにあっさりと防がれるだけかもしれない。
「―――マイナス思考はあかんな。兎に角、当たって砕けるしかあらへん!!」
久遠の周囲を円形に回りながら、様子を窺う。
バチバチと電撃が周囲を覆っているが、久遠からは攻撃を仕掛けてこようとはしていない。
攻勢にでられたら耐え切れるはずもない。一撃一撃の重みが違いすぎる。攻撃あるのみ―――それしか勝ち目はないのだ。
楓の武器の一つである霊符とて無限ではない。
長い準備と霊力を注ぎ込むことによって完成する貴重な札。この時のために前もって用意してはいたが、それでもそれほど多くは用意できていない。そもそも一枚あれば並大抵の悪霊は消滅させることが可能なモノだ。それがただの足止め程度にしか役に立たないことに苦笑しかできない。
久遠は楓にそこまでの脅威を感じていないのか、注意を払っていない。
舐めるなとおもう以上に、チャンスだと楓はそれを勝機と見る。
渚を持っている右手の親指に歯をたてる。強くひき、血がぷくりと薄く浮き上がる。それを霊符に塗りつけ、久遠に向けた。札から爆炎が巻き起こる。離れている自分の皮膚をもチリチリと熱風を伝えてくる超火力。流れる炎の濁流が久遠を飲み込むも、やはり金色の雷が爆炎を散らす。
しかし、その一瞬。炎を防ぎ、雷が僅かにその雷光を弱めた刹那を楓は逃さない。
「神気発勝―――真威閃流刃!!」
あらかじめ蓄えておいた霊力を渚に流し、久遠に向かって振り下ろす。
三日月型の霊気の刃が幾重も刃から放たれた。複雑怪奇な軌道を描き、久遠の纏う雷の鎧の隙間を狙って降り注いだ。
ガガガガっと耳障りな乱刃が雷の結界に喰らいつく。だが、パキンっという心もとない音とともに、霊気の刃はあっさりと砕け散った。
「―――あかんっ。雷の鎧の修復が早すぎる!!幾らなんでも卑怯や!!」
少しは危険を感じたのか久遠が先程と同じ様に片手を空にかかげて、楓に向かって振り下ろす。
金色の光が地面を抉りながら、ジグザグの軌跡で、楓へと迫ってきた。
それに一瞬の躊躇。今さきほどのは一直線。だが、今回は複雑な軌跡。どう避けるか思考の隙間をつくように、急激に加速。金色の雷は楓が不可避なタイミングで牙を剥いた。
「―――やばっ」
視界一杯に広がる雷撃に、楓は死を覚悟した。
霊力を練り上げるのも間に合わない。霊符でもこの雷撃を防ぐことはできないだろう。
何も為せずに、ここで死ぬのかと悔恨だけが心に残る。
だが、雷撃が楓に直撃するよりも早く―――黒の疾風が彼女を浚った。
超速度で駆け抜けた恭也が片腕で楓を抱きかかえ、雷撃から彼女を救う。
それとほぼ同時に雷撃が今の今まで楓が居た場所を蹂躙していった。その行く手にあった木々を焼き焦がし、消滅させる。あまりの高温に火事にもならない。木々を消滅させていっているのだから。
「―――すみません。遅れました」
「今のでチャラにしておくから気にせんでいいで!!」
楓から片手を離し、油断なく久遠を見つめる恭也に、楓が答える。
生死をかけた死闘の最中ではあるが、男性に抱かれたことに頬を若干赤くする。神咲楓月流の伝承者ではあるが、男性とは付き合ったことがない初心な女性であることに変わりはない。
それも一瞬。再度集中力を高める楓は、何時でも攻勢に出られるように呼吸を整える。
恭也の八景が。楓の渚が。三本の小太刀の切っ先が貫くように久遠に向けられていた。
「―――久遠に取り付いている悪霊だけを祓うことはできないでしょうか」
「……無理やな。あれは取り付くなんてレベルやない。久遠が望んでるんや。憎悪に支配されとる」
「成る程。つまりは久遠の正気を取り戻せば、可能性はあると?」
「今の状態の方が久遠の正気かもしれへん。殺戮と破滅を振りまく祟り狐の姿が」
「本当にそうお思いで?」
「阿呆。そんなわけない」
「安心しました。本当にそう思っていたらどうしようかと」
「そんなことあるわけないやろ。問題はどうやって久遠の正気を取り戻すかや」
「こういうときは古来より一発ぶん殴ったら正気になると聞いています」
「せやな。ってそんなわけあるかい!!―――とりあえず久遠を弱らせなどうしようもあらへん」
「そうですね。それは霊力を持っている神咲さんにお任せます」
「全力を尽くす事は尽くすけど……あんまり期待せんといてや。高町君も頑張ってな?」
「生憎と俺は久遠のことを大切に思っていますので小太刀を向けるなんてとてもとても……」
「今向けてるやないか、って突っ込めばええんか?それにうちだって久遠のことは好きや。あのモサモサフカフカは命と引き換えにしてもお釣りがくる」
「すみません。流石の俺も命の方が高くつきます」
「そら困る。うちと高町君の命でようやくお釣りがくるんやで?」
「他人の命を勝手に取引に使わないでください」
「つれないこと言わんといてな。うちと高町君の仲やろ?」
「それもそうですね。二、三回話しただけの親密な関係でしたっけ」
「ああ。一度話したら友達。二度話したら親友。三度話したら―――マブダチや」
「マブダチ……せめて恋人あたりにしてください」
「ば、馬鹿!!それはまだうちらには早い!!」
打てば響くとはこのことかと、恭也は声に出して珍しく笑った。
絶望的な状況で。どうしようもないほどに追い詰められて。
それなのに、神咲楓という女性と並んで立っている今は負ける気がしない。
話にあがったとおり、たった数回会って話をしただけの関係だというのに。何故か妙に気があってしまう。
対して楓も恭也と同じ様な心境だった。
渚による近距離戦はほぼ無効。遠距離による霊符もたいした効果がない。神咲の技も通用していない。
勝ち目は零だ。勝率は零パーセントだ。自分が勝利している光景が思い浮かばない。
だが、心が高揚している。隣に高町恭也という剣士がいるだけで、体が軽い。今ならば己の全力以上の力を出すことが出来るはずだ。
「さて、行きましょうか。【楓】さん」
「そうやね、【恭也】君」
二人は不敵な笑みを浮かべ―――。
「永全不動八門。御神真刀流小太刀二刀術―――不破恭也!!」
「破魔真道剣術神咲楓月流正統伝承者―――神咲楓!!」
二人の咆哮が八束神社に木霊する。ビリビリと空気を震わせた。
それに僅かに気圧されたのか、久遠の視線が初めて―――禍々しく赤く輝いた。
「推して―――」
「―――参る!!」
トンっと軽やかな音。神速の世界に飛び込んだ恭也が久遠に向かって突撃する。
世界が凍ったモノクロの空間を支配するのは恭也ただ一人―――いや、バキィンっと空間が断裂する軋み音。
「ぁあああああああああああああああああああ!!」
雄叫びをあげて神速の世界に割り込んできた久遠が、一瞬で伸びた五本の爪を振りかざす。
バチバチっと嫌な電撃が巻き起こる。五本の光線が大地を切り刻みながら迫ってくる。
再度地面を蹴りつけた恭也が横に飛んでやりすごす。とんだ同時に即座に方向転換。久遠との間合いを詰めていく。
久遠が新たな攻撃を仕掛けるよりも早く、隠し持っていた飛針を投げつける。
その飛針はあっさりと久遠の纏う雷の鎧に弾かれるが、後数歩の地点で歯を食いしばる。脳髄が軋むほどの集中力。己の殺気を最大限にまで放出する。形無き黒き殺気の刃が幻想の牙となって、久遠に被りつく。腕に足にその牙を突きたてた。
「ぅぅあああ!?」
久遠が一瞬だが感じた恐怖を振り払うように両手を振り回す。
それで彼女に突き立っていた牙が霧散する。ほんの一秒にも満たぬその時間。それが活路となって楓の道を作り導く。
「―――良い子やからふっとぶんやで!!久遠!!」
霊符に込められた霊力を起動。吹き出される爆炎。
先程は通じなかったその霊符をもう一度久遠にぶつける。炎が渦巻状になって、久遠に直撃。それを再び雷の鎧が弾き飛ばす。だが―――。
「神気発勝―――真威楓陣刃!!」
今度は先程よりもさらに早い。
雷の鎧が完全に修復されるよりも、さらに早く。僅かな間隙を狙っての超連撃。
久遠を飲み込む浄化の閃光。光の渦ともいえる大瀑布が、久遠を飲み込み吹き飛ばした。
光の奔流が止んだ後、そこに残されたのは、地面に片膝をつくも、傷一つない祟り狐の姿。
バチバチと彼女の周囲を囲う雷神の鎧は相変わらず健在だった。直撃を受ける前に、間一髪で修復が間に合ったのだろう。
「果てさて、中々に強情ですね」
「久遠も反抗期なんやろ」
「まさかの三百年目の反抗期ですか。それは珍しい」
「こういうときには母親からガツンと言って貰うのが良くきくんやけど……」
恭也と楓は同時にチラリと後方を見る。
二人が派手に戦っている最中に移動したのか、かなり離れた場所に薫達がいた。
葉弓と十六夜の治癒術が続いている。いや、二人の手が淡く輝いていた光が消え去った。
「……ふぅ」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
軽く息をつく十六夜と、激しく呼吸を乱す葉弓。
これだけ長い間治癒を続けたらそれは当然だろう。十六夜が少し普通ではないだけだ。
「十六夜、那美は―――那美は大丈夫とね?」
「はい。もう心配いりませんよ、薫」
「……ありが、とう」
両手で十六夜の服を掴み、項垂れるように感謝の言葉を述べる。
十六夜は軽く薫の頭を撫でる。まるで昔の幼い時のようで、少しだけ可笑しかった。
「薫。わかっていますね?」
「―――ああ、心配なか。情けない姿は、もう終わりじゃ。神咲薫はここから、だ!!」
薫から立ち昇る楓を遥かに凌駕する霊気の御柱。
無言でうなずいた十六夜が、其の姿をかき消し、霊刀十六夜となって薫の手のうちに戻る。
「葉弓さん。那美を頼みます」
「……はぁ、うん……まかせて……」
十六夜を片手に薫が久遠へと近づいていく。遠くからでも一目でわかる超絶的な霊力。
久遠がビクリと近寄ってくる薫に反応する。新たな強敵の参入に、久遠が纏う雷撃がより輝きを増していった。
そんな薫を見た恭也は驚きを隠せない。
これが、本当の神咲薫か、と。現在存在する祓い師の一族で、四百年という日本最古の歴史を誇り、あらゆる霊障を滅してきた家系。其のなかでも神咲三流と褒め称えられる流派。その三流のなかでさえ最強最高を誇る破魔真道剣術神咲一灯流。
四百年の歴史の中で最年少で正統伝承者の座を受け継いだ神童、神咲薫。
「―――申し訳ありません。俺は正直貴女を見誤っていました」
「そんなことなか。うちのほうこそ、【恭也】君を見誤っていたよ。謝罪はしない。そのかわりに―――この十六夜の名にかけて全力をつくす」
「その心意気だけで十分かと。俺も全力でサポートさせていただきます、【薫】さん」
「はいはい。二人でいちゃついてないでうちも混ぜてな」
「い、いちゃついてなか!!」
ガガガガっと三人の会話を途切れさせる落雷音が響き渡った。
天空を雨雲が覆い、その合間から金色の雷が見える。天候さえも支配するのが祟り狐だ。
矮小で、卑怯なだけの人間が己の前で未だ立っている。それに苛立ったかのように、久遠の両足が大地を踏みしめた。
「ぁあああああああああああああああああ!!」
地面の土が爆雷の熱で蒸発していく。あまりの熱量に遠く離れている三人にもそれが伝わってきた。
当たったら間違いなく即死。いや、即死ですめばいいレベルだ。下手をしたら死体も残らない。
生と死が曖昧になりつつあるこの空間。だが、三人は退きはしない。不退転の意思を胸に秘め、伝説を墜とそうとする一人の剣士と二人の退魔師が疾駆した。
一呼吸の間に暗器の飛針を投げつける。その数六本。音よりも早く飛来した鋭利な代物が久遠の体に突き刺さる―――その手前で消し炭になった。
だが、それはめくらましだ。楓が右方向に、薫が左方向に。恭也が正面で祟り狐と激突する。
三方向からの襲撃に、久遠の注意が乱れる。誰が一番自分にとっての最大の脅威なのか。
迷ったのは一瞬。久遠が雷撃を放ったのは―――神咲薫。
かつて十年も昔、祟り狐に封印を施した張本人。故に久遠の判断も早かった。
背中に冷や汗を感じながら、自分に迫ってきた雷撃を横に飛んでかわす。
それを追撃しようとした久遠だったが―――。
「―――祟り狐。俺にお前へ届く武器はない。だからといって、侮るな。見縊るな。見損なうな。俺は、お前を殺し得る力を持っているぞ」
物量を持った重圧。久遠の全身を叩き潰し、圧し折り、粉砕する。そんな錯覚を感じさせるほどに、圧縮された恭也の殺気。久遠が知っている中で、内に潜んでいる大怨霊の悪意でもとびっきりに最悪で、最凶なその気配。
それを放置して薫へと追撃をかける余裕などあるわけがなかった。
「ぅぅぅぁぁああああああああ!!」
片手ではなく両手をかざして、迫ってきていた恭也へと両手の掌を向ける。
まずいと第六感が囁いた。今すぐに逃げなければ、これは避けられない、と。
それを肯定するかのように、久遠の掌から放たれるはこれまでの直線状の雷とは異なる、広範囲に渡って大地を抉り、蒸発させていく。
「―――恭也くん!?」
「行ってください、楓さん!!」
避けきれないと判断した楓から悲鳴染みた声があがった。それに反射的に言い返す。
それと同時にぞぶんっとモノクロの世界へ突入。己へと迫る雷壁ともいうべき荒波は急激に遅くなりはしたが、それでもまだたりない。
―――ならば、もう一つ。
ガキンっと意識が朦朧とするような鈍さと重さ。
世界がモノクロから色を取り戻す。その世界で恭也だけが、超速の動きを可能とする。
神域と呼ばれる恭也の奥の手。迫りくる雷壁の射程を逃れるように、大きく薫側へと離脱した。
紙一重で、神域の世界を抜け出した恭也の背後を絶望的な音をあげながら通過していく。
地面の土をばら撒きながら、両足で速度を殺す。
突然傍に現れた恭也に驚く薫。それに対して楓は止まりはしなかった。
恭也が行ったのだ。行けと。こちらは心配するなと視線で語っていた。心配をするよりも楓にできる全力を尽くせと。肩を並べて戦っている男が。最高の剣士が、心配するなと語ったのだ。自分程度があの高町恭也を心配するなどおこがましい。
楓自身にできる、最高最速。その一撃を久遠に叩き込む。それが彼女にできる最善だ。
「神気発勝―――真威澄炎刃!!」
それは澄み渡る真炎。霊力と霊符の複合技。霊力に乗せた霊符により爆発的な相乗効果が生み出される。
久遠の雷撃のように、線路上にあるものを焼き尽くし浄化していく。ただ一直線に、久遠へと迫る破壊に特化した一撃。
己へと迫ってきたその砲撃を、雷を纏わせた左手で受け止める。バチバチと拮抗する雷と真炎。
「―――かお、るぅぅううううう!!」
「神気発勝―――真威楓陣刃」
楓に対する返事はしない。そんなものをするくらいならば、一歩でも、一呼吸でも、一秒でも、一瞬でもはやく技を放つのみ。
チリンっと十六夜がなる。それはこの荒れ狂う地獄の戦いの中で、とても小さな音だった。
だが、その音は誰もが聞こえた。その美しく、輝かしい太陽の音。
薫が放ったのは楓が放つ真威楓陣刃と同じだ。だが、霊力の質も量も異なる。
確かに楓は神咲楓月流において最年少で正統伝承者として認められた。
だが、薫は歴代最高。歴代最強。歴代最大の霊力を秘めている。同じ技とて、威力の桁が違う。
楓の真威楓陣刃とは一回り違った霊力の大砲撃が久遠へと放たれた。
それに顔を歪ませた久遠だたが―――今度は右手で受け止める。右手と左手。両方の腕に降り注ぐ最高の霊力技。
バチバチバチっとこれまで以上の雷撃が久遠の周囲で荒れ狂う。その二つの砲撃の威力に、僅かずつ久遠の手が押し戻されていく。
誰もがいけると思った。正統伝承者二人による最高のタイミング。最大の威力を込めた技を同時に受けて、無事で居られるはずがない。例えそれが祟り狐であろうとも―――。
「ぁぁあああああああぁあああああああああああああああああああ!!」
喉が潰れんばかりの絶叫が、響き渡る。
一際強く眩しい輝きを残し、久遠の両腕が上空へと跳ね上げられた。
その腕によって威力を流された二つの大砲撃が、上空へと打ち放たれ消え去っていった。
「……恐るべきは、祟り狐、か」
「……せ、やな」
「はぁ、はぁ、はぁ。まだまだ、いける」
三人に悲嘆の色はない。確かに今のを無傷で回避してしまったのは想定外だが、彼ら三人には諦めるという選択肢は存在しない。
だが、心と肉体は別である。特に【それ】が現れたのは楓だった。ガクンっと膝が笑い、片膝を地面につく。
「―――あ、れ?」
カタカタと手が震える。視界が揺れる。頭痛が襲ってきた。
こうなるのは明らかなことだった。幾ら神咲楓とて、単騎で祟り狐と渡り合い、霊力の大量使用。途中からは二対一。三対一となってはいたが、それまでの時間彼女は一人で戦っていたのだ。
体力、精神力、霊力―――それらが限界を迎えたとしても誰も責めることは出来はしまい。
幾ら気力を振り絞っても、限界を迎えた以上、どうしようもない。
「―――っ」
楓の異変を敏感に感じ取った久遠が、右手に雷撃を収束させていく。
薫も恭也も、楓とは真逆の方向。しまったと思う暇もなく―――。
「ぁああぁあああああああああ!!」
久遠の右手が振り払われた。
「―――させる、か!!」
脳内のスイッチを切り替える。世界がモノクロに染まるも、それで間に合わないのは恭也も嫌でも承知している。
さらに、スイッチを切り替えた。モノクロの世界に色を取り戻す。ほとんど連続使用ともいえる神域の乱用に四肢が悲鳴をあげた。そのまま砕かれるのではと勘違いしそうなほどの鈍痛が襲ってくる。
だが、これでも足りない。足りるはずがない。この程度で、人一人の命を救えるはずがない。この程度の、何の代償もない、神域【程度】の世界で神咲楓という価値ある人間を救えるはずがない。
理解しろ高町恭也。解放しろ高町恭也。神域【程度】で満足しているお前程度が、何かを助け、得ることなど出来はしないということを。
「ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
バキンっと四肢を縛り付けていた無色の鎖を引き千切る。恭也を神域の世界へ留めていた枷を振り払った。
神速を超えた神速。それ即ち神域。神域を超えた神速―――それ即ち無言の世界。
水無月殺音との戦い以来となる無言の世界に足を踏み入れた恭也が世界を駆ける。完全に別領域となった、空間を疾走する恭也が―――光の雷撃より速く、楓の腕を掴み抱き寄せる。
それはまさに疾風迅雷。電光石火。人も人外も超えた、これぞまさに本物の神代の領域。
無論未だ完全にその領域を操れない恭也は、抱き寄せたまま、地面にぶつかり、転がって止まった。
「え?え?え?」
訳がわからないのは楓だ。久遠の避けられない雷撃に、遂に死を覚悟した瞬間、いつのまにか恭也に抱き寄せられていたのだから。
唯一つわかることは―――自分は恭也に命をまた救われたということだろう。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
限界以上に肉体を行使した故に、幾ら恭也といえども息切れは隠せない。
ごろりと仰向けに転がっている恭也におぶさるように、体を重ねていた楓たったが―――。
「その、恭也くん……そんなに興奮されても、うち困るやけど。ほら、今戦闘中だし」
「げほっ……貴女の、そんなところは、結構好きです」
冗談に冗談で返した恭也が楓をどかして立ち上がる。
二人が無事なことに気づいた薫が安堵の笑みを一瞬浮かべるも、即座に引き締めて久遠へと立ち向かっていく。
「楓さんは、休んでいてください。後は俺達で、なんとかします」
「―――うん」
ここで食い下がっても自分には為すべきことも、為せることもない。
それを知っている彼女は素直に頷いた。
恭也は己の肉体を冷静に分析する。神速。神域。無言の世界の使用。それの負荷が身体中にかかっている。
休めば問題ないだろうが、今この状況では全力の六割。
しかし、薫一人で戦わせるわけにはいかない。呼吸を整え、地面を蹴りつけようとした、その時―――。
「―――く、おん」
その呟きは、この場に居た全ての人間の動きを止めた。
それは、恭也然り、薫然り、楓然り、葉弓然り―――久遠然り。
【彼女】の声はそれだけの影響力を、持っていた。
ゆらりと覚束ない足取りで恭也の横を通っていく。
それは間違いなく、腹部を貫かれ、意識を失っていた神咲那美の姿だった。
止めようと伸ばした手が凍りついたように、動かない。それは楓も葉弓も同様であったみたいで、那美の歩みを止めれるものはいなかった。
「ぁぁあ?ぁぁあああああぁああああああああああああ」
久遠は、歩み寄ってくる那美を怖れたように一歩下がった。
決して下がることのなかった祟り狐が、死に損ないの霊力も低い少女に脅えていた。
「く……おん。駄目、だよ」
「うぅぅぅぅぅああぁあああああああああああ」
一歩一歩確実に、そして何の躊躇いも怖れもなく、久遠に近づいてくる那美に恐れを抱いていた。
薫もそんな那美を止められなかった。鬼気迫るとでもいえばいいのか、例え止めたとしても、決して彼女は歩みをやめはしないだろう。
「久遠は、貴女は本当はとても、純粋な子。とても優しくて―――」
那美が一歩歩み寄るたびに、久遠は一歩後退する。
その姿はまるで―――泣きそうな子狐久遠を連想させた。
「―――とても素敵な、私の友達。貴方は、【誰】?」
ピシリと空気が一瞬で凍えた。
脅えている久遠の背後から黒の瘴気があふれ出す。
久遠の【影】から、その瘴気は際限なく吹き出し続ける。
獣のような、怨嗟の声。世界を呪っているかのような、怨恨の雄叫び。
「ぁぁぁあぁあ―――な、み―――だ、め……近寄っちゃ……だ、め」
祟り狐となって初めて意味を持つ言葉を久遠は発した。
いや、これこそが久遠なのだろう。奥底に閉じ込められていた久遠という依り代。
これまで暴れていたのは―――大怨霊。全ての生あるモノを呪うもの。
「私の、友達を。とても大切な、友達を―――返して」
常人ならば一目みただけで気が狂う。
そんな立ち昇る悪意を前にして、那美は退かなかった。逆にさらに久遠へと近づいていく。
そして、恭也達は自分達の勘違いにようやく気づいた。
今まで戦っていたのは久遠ではない。【大怨霊】なのだと。
久遠は依り代となりながらも、大怨霊に必死で抵抗していたのだ。
彼の悪霊の力を抑え、決死の覚悟で、恭也達を少しでも守ろうとしていた。もしそうでなかったならば、とっくの昔にここに生きているものはいなかったはずだ。それに気づいていなかった。気づけていなかった。
それに気づけたのは、神咲那美だけであったのだ。
「久遠を―――返して!!」
ペタンと地面に尻餅をついた久遠が、己から溢れる悪意を止めようと、両腕で身体を抱きしめる。
那美を傷つけないように。これ以上の悲劇を齎さないように。
しかし、那美はそんな久遠を抱きしめる。バチリと雷が那美の身体に奔り、激痛をもたらす。
「だ……め、なみ……おね、がい……」
「久遠の、苦しみも、悩みも、何もかも―――私はうけいれる、よ。だから一緒に、歩いていこう。だって私達は友達だも―――」
ドス。ドス。ドス。ドス。ドス。
肉を貫く音が妙に生々しく聞こえる。
貫かれたのは、神咲那美。貫いたのは―――祟り狐、久遠。
最後まで言葉を発することなく、久遠とは別の祟り狐という意識が、最も脅威となっている人間―――那美の腹部を五本の爪が穿っていた。
「ぁぁ……ぁぁぁあ……な、み?」
「―――く、おん」
「ぁぁぁ……ぁぁああぁああああああ……ぁぁあああああああああああ」
砂埃を巻き起こして、行動を起こしたのは二人。
薫と恭也。叫ぶ暇もなく、二人が疾走する。目的は神咲那美の救出。
こればかりは見ただけで分かる、明らかに致命傷だ。いや、即死でもおかしくはない傷の深さ。
何故那美を止めなかったのかと、己達を罵った二人が久遠へと迫る。
その時、空に轟く雷光が煌く。稲光とともに久遠へと雷撃が落ちた。
轟音とともに、恭也と薫の足を止める。雷を受けたらもはや那美の命は潰えたも同然。
真っ青になった薫と恭也の視線の先―――爆煙がおさまったその場には、那美を抱きしめる久遠の姿があった。
恭也が気づいた。痛々しいほどに出血していたはずの那美の傷口から爪は抜かれ―――そして、出血が止まっていることに。何故、だと不可思議な出来事に眉を顰めた。
それに遅れること数秒。薫もその事態に気づき、あっと驚く。
「まさか、雷撃のエネルギーを―――生命力に変換、した?」
久遠の身体が光り輝く。神々しい光が、身体に纏わりついていた瘴気を消し飛ばす。
おぉぉぉぉぉおお―――そんな獣の鳴き声が耳をつんざく。
「くおんの、くおんの―――中から、でていけ!!」
一際強く輝いた雷撃が、完全に久遠の周囲の瘴気を弾き飛ばした
「なみは……なみは、久遠が護る!!」
数百年の負の感情をため続けた大怨霊の、悪意から、強制力から逃れた久遠の気高き宣誓が夜風に響く。
弾き飛ばされた瘴気―――【ナニ】かが、一箇所に集合していき、黒い巨大な雲を作り上げた。
その黒雲が地上の人間達に送るのは揺ぎ無い殺意。憎悪。それはまさしく大怨霊の元となる存在だった。
「―――ワレは、ユルサぬ。ワレは、ホロボす。コノちを―――」
「ああ、煩い。お前はもう、そこで終われ―――」
黒雲に投擲される十数本の飛針。研ぎ澄まされた、鋭き針が突き刺さっていく。
だが、黒雲には全く通用していなかった。依り代から捻り出された大怨霊は、物理的な力では打倒できない。
しかし、逆を言えば―――。
「薫さん!!楓さん!!葉弓さん!!―――久遠!!」
恭也の呼びかけに各々が自分の愛刀、愛弓、雷撃を纏い、構える。
もはや余力を残す必要はない。今このときにすべてをかける。
その場にいる全員の集中力が高まっていく。限界に近づき、限界を迎え、そして―――限界を超える。
己を滅ぼさんとする霊力の高まりに危機感を覚えた黒雲が、瘴気を撒き散らす。
人の体に即効性の害を与えるそれらが、地上に降り注ぐその瞬間―――。
「―――舐めるなよ、大怨霊。例え貴様を断つ力がなくとも、此処から先は俺の命に賭けても通しはしない」
殺気。悪意。憎悪。怨恨。狂気。凶気。
黒雲の放つ悪意を凌駕した、純粋なまでの殺意を八景に纏わせ、届かぬ位置から空中に浮かぶ黒雲に一太刀。
その一撃は、誰一人として視認も、認識もできない超領域の一閃。
それはただの一斬だ。己の全てを賭して放たれた、全ての殺意を乗せて放たれた一撃だ。
黒き三日月の刃が、空を駆け、黒雲を断つ。圧倒的な殺意が蹂躙していく。
「―――っア?」
だが、実際には斬られて訳ではない。ただの殺意による幻覚。幻視。
されどそれは確かな質量と感覚を黒雲に与えもたらした。悪意の結晶たる大怨霊をも、一瞬とはいえ怯ませる。
そして、その一瞬で全ては事足りた。
「神気発勝―――真威乱篠」
極限にまで高められた霊力を込めて、葉弓の構えていた矢が白銀の光を残し黒雲に突き刺さる。
突き刺さった場所を中心に黒雲を侵蝕して行く。言葉にならぬ獣の雄叫びが神社に響き渡った。
それに続くのは薫と楓。
「神気発勝―――」
「神気発勝―――」
薫と楓の祝詞が重なる。二人の霊力を同調。
残された全ての霊力を込めて。
「「―――封神楓華疾光断」」
二つの霊力が螺旋を描き、黒雲を消し飛ばす。
最初の半分以下の面積となった黒雲は、怖れたように、散っていこうとする己が悪意をかき集める。
「ぁぁぁぁあああああああああああああ!!」
そして、それを消滅させるのは妖狐久遠。
大怨霊から奪い取った圧倒的な力を利用し身体から迸る超々高熱の雷撃が、黒雲全てを飲み込み―――雷撃の空間に閉じ込めた。
その閉鎖空間で何十何百の雷撃が黒雲を狙い穿つ。祟り狐の時の久遠をも凌駕する、究極的な雷の結界。その姿はまさに雷神。僅か一分もかからずに―――黒雲を跡形一つ残さず、燃やし尽くした。
静寂が八束神社を包む。
本当に終わったのかと、誰もが言葉を発することが出来なかった。
数十秒。いや数分だったかもしれない。実際にはそんな長い時間ではなかった。
「―――ん」
そんな那美の呟きが、全員の意識を集中させた。
薫が、楓が、葉弓が―――久遠に抱かれている那美に駆け寄っていく。
三人とも笑顔だった。これ以上ないほどに、嬉しさを堪えきれない笑顔だった。
恭也も、ようやく終わったのだと、深い深い安堵のため息を吐いた。
―――いやだ。
どろりとした闇色の空間で【それ】は拒絶する。
―――ワタシは、滅びぬ。
様々な悪意が混ざり合った混沌とした空間で【それ】は拒絶する。
―――ボクは、人を許さない。
数百年にも及ぶ悪意である【それ】は拒絶する。
―――ワレは、世界を滅ぼすのだ。
こんなところで消え去ってなるものかと【それ】は拒絶する。
―――オレは、諦めない。
だが、もはや依り代もなくただ消え去るのみだった【それ】は拒絶する。
―――ヨは、望む。
パキィっと混沌とした世界に一筋の光が差し込んできた。
その光の先、手の届くそこには、不気味な色を発する宝石があった。
宝石が生き物のように脈動する。心臓が動いているかのように色合いを変えていく。
それは【種】と呼ばれるロストテクノロジーの遺物。
多くの記憶や感情、魂と引き換えに願いを叶える奇跡の宝珠。
【種】は如何なる願いも叶える。例えその願い主が人でも、動物でも、虫でも―――悪霊でも。
―――汝は何を望む?
宝石は囁く。混沌たる悪意の結晶に願いを尋ねる。
この瞬間、悪意の結晶が願ったこととは―――。
「―――っ!?」
ほんの僅かな悪寒。
この場で恭也しか気づかなかった、小さな怨念。
悪意の結晶たる大怨霊が僅かに残した、一滴の悪意。
それが―――最後の力を振り絞り、本能に刻まれた【枷】をはずし、八束神社の本殿へと続く扉を破壊した。
まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。
何がどう危険か説明できない。だが、第六感が告げてくるのだ。アレを行かしてはならないと。
もはや動けるのは己だけ。全力全速で、後を追う。
階段を飛び越え、賽銭箱を再度蹴りつけ、ちっぽけな悪意の後を追走する。
だが―――。
これまでの如何なる存在も、生物も、大怨霊も、祟り狐も凌駕する、次元の異なる気配が膨れ上がった。
本殿の、奥に飾られていた宝石に悪意が取り憑き―――宝石は爆発的な光を発する。いや、黒き闇。己の中と同種である、最悪の闇が眼前で目覚めの鼓動をあげた。
闇色の衝撃波が、恭也を吹き飛ばす。踏みこたえることも出来ず、疾風に巻き込まれ、外へと跳ね飛ばされた恭也が体勢を整え着地する。
薫も、楓も、葉弓も、久遠も、何が起こったのかわからない。そんな茫然自失とした状態で、空を見上げていた。
八束神社の屋根を突き破り、闇柱がそびえたっていた。言葉に言い表せぬほどの、邪気。
そんな闇の柱も徐々に治まっていき―――やがて、それを凝縮した完全な闇が、本殿の奥から歩み出てきた。
【それ】は恭也と同程度の長身の女性だった。
身に纏う寝間着のような衣装は、和服にも見える。だが、色が深い闇の色。
長い長い、漆黒の髪が歩くたびに揺れている。容姿は異常だ。異常なほどの美しさだった。油断すれば恭也でさえも飲み込まれるほどの、人の欲望を惹き付ける美。腰からは久遠の五本の尻尾を一つに纏めたかのように大きな尻尾が揺れ動いている。
開いた胸元は、恭也には多少目に毒で、然程大きくないとは言え、豊かに実った二つの果実が見えかけている。
だが、それより注目するのは胸の丁度中心に、不気味な色の宝石が埋め込まれていた。
「―――ああ、ようやくだ」
それだけで恐怖がこの場にいる全員にのしかかる。
「―――ようやく、余は世界を滅ぼせる」
恭也達に気づいていたのか、女性は右手を向け―――。
「平伏せ、ニンゲン」
重力が急激に重さを増す。薫も楓も、葉弓も久遠も―――まるで上位の存在にするように、四肢を地面につけ、頭をたれる。ただの言葉が言霊となり、人を支配する。
「―――ほぅ。余の言霊が効かぬ者もおるか」
ただ一人、恭也だけは、片膝をつくだけで歯を食いしばりながら睨み付けていた。
「いや、まて。その顔。その気配……お主、まさか―――」
恭也の顔を改めてまじまじとみつめていた女性は、本当に驚いたのか、目を大きく見開き、彼の姿を凝視する。
「なん、だ―――お前は」
そして言霊の呪縛を振り払い立ち上がる。
はぁはぁっと息をつく恭也を興味深そうに見ていた女性はふっと薄く笑う。
「無礼者といいたいところではあるが、名乗らせて貰おう。余の名を聞き、そして逝け。余の名は―――」
ばさりっと己の服を翻す。これまで戦ってきた誰よりも禍々しい気配を漂わせ―――。
「余の名は大怨霊。己が肉体を得た、世界に終末をもたらすものだ」
そして、高町恭也の―――絶望的な戦いが、始まった。
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まさかの土曜日帰ってからのテツヤ作業。まだまだ若いぜ!!
色々原作とは異なっています。申し訳ないです。
御神流裏→恭也が作り上げた技術の集大成
御神流【裏】→御神と不破の怨念と思ってください。
葉弓とか楓は 神気発勝の祝詞はいらなかったきもしますが―――なんか使いたかったので付け加えました。
次回の完結編ですが、前々からかいていたとおっもいますが、28日に引越しがあります。
26,27は掃除と荷物整理に使用したいので、もし25日までに投稿がなかったら次の話はいつ投稿かちょっとわかりません。
引越し先のネットがいつ繋がるか……あと環境がかわるので時間取れないかもしれません。
もしかしたらまたですが半ば投稿停止みたいな感じになるかもしれませんが、完結させる気はありますので、できればおつきあいください。
といってたら、25日までに投稿できるフラグ!!
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