高町恭也の十メートル程前方に居る女性。大怨霊と名乗った彼女は、己の肉体が正しく動作するのかどうかを確かめるように右手を握り、そして開くを幾度か繰り返していた。
そして何を思ったか己の両胸に手をあて軽く揉み解す。一体なにをやってるんだこいつは―――と緊迫した空気のなかの突然の行為にさしものの恭也の頬が引き攣る。
「成る程。初めての余の肉体。【お前】を意識してかこのような姿になってしまったぞ。全く困ったものだ」
なにやら一人呟いていた大怨霊は、一頻り彼女の肉体が自分の思い通りに動くのを確信したのか、緩やかな一歩を踏み出してきた。
一歩踏み出すだけで膨れ上がっていく狂暴な悪意。感じ取れるのは気が狂いそうになるほどの負の感情。数百年という年月に渡ってあらゆる悪意を喰らってきた、暴食の怨霊。その名に偽りはなく、ただただ人を滅ぼそうとする意思だけがはっきりと伝わってくる。
「―――っぁぁぁああああああ!!」
誰もが足を止め、身動き取れない静寂を破ったのは久遠だった。
より一層金色の光を強めた雷を身に纏い、大怨霊に向かって突撃する。
恭也達と戦っていた時の意識がある。記憶がある。十年前に数多の祓い師を退けた記憶がある。そして、那美の両親を殺めた記憶も。三百年前にありとあらゆる悲劇を造り出した思い出もこの胸に。
それも全ては己の弱さのため。憎しみに負け、悪意に負け、流された結果だ。
だからこそ、新たに産み出されるであろう悲劇の根源たる存在を此処から先へ行かしてはならない。ここで仕留めねばならない。ここで終わらせなければならない。
久遠の手が振り下ろされる。自由に使える力は残り僅か。それを振り絞り闇夜を切り裂く光の奔流。
的となっている大怨霊は避けようともしていない。防ごうともしていない。雷撃が大怨霊に直撃するも、一瞬でその光は消え失せる。
だが、久遠は足を止めない。懐に踏み込もうとしている彼女を一瞥。大怨霊は右手を天にかざす。
それだけの動きで恭也の背筋が粟立った。なにかが危険だと。説明できない第六感。彼女が振り上げた右手がとてつもなく恐ろしい。あの右手に触れてはならない。
久遠へと注意を叫ぶよりも速く飛針を煌く。大怨霊の右手に当たる寸前に、ナニかに弾かれた。それに眼もくれず自分に向かってくる久遠に振り下ろそうとして―――ガクンと空中で止まる。
夜の暗さで眼に見えなかったが彼女の腕に絡みついている銀色に輝く細い糸。鋼糸と呼ばれる暗器の一つ。その糸を辿れば恭也の手へと繋がっていた。飛針を投げつけると同時に鋼糸も飛ばしていたのだ。
隙だらけの大怨霊の体に久遠の雷撃が迸っている拳が着弾した。爆音が響き渡り、大怨霊の肉体を―――後退させることに成功した。たった一歩だけの後退を。
残りの全霊力を込めた一撃が全く相手に通用していないことに驚くも、その次の瞬間には【ナニ】かに久遠の身体が薙ぎ払われる。久遠が地面に叩きつけられ、大地が罅割れた。叩きつけられるだけではすまず、地面を滑りつつ薫達の下まで幾度も転がりながら戻された。
「く、久遠―――!?」
楓が慌てて久遠を抱き起こすが、反応がない。霊力を使い果たしたというのもあるだろうが、衝撃で意識を失っていた。
【ナニ】かが空間を断裂させ、自分の右手に絡み付いている鋼糸を断ち切る。
愕然とする薫達に聞こえるのは甲高い鳥の鳴き声。そして音を発しながら渦巻くのは黒い靄。
地獄の餓鬼を連想させる禍々しい黒霧が、徐々に周囲に広がっていき、世界を侵蝕していく。
際限を知らず膨れ上がっていく瘴気が、空を覆っていき、やがて月光をも遮り始める。
ふっと微かな笑みを浮かべた大怨霊は、右手の人差し指と中指二本を恭也―――いや、薫達五人に向かって突きつけた。神聖なはずの八束神社を覆いつくすに至った深き闇。それらが急激に凝縮されていく。
喉が渇き始める。これ以上ないほどの死が傍に這い寄ってくる。
「―――お主との戯れを始める前に、邪魔者を舞台から排除しよう」
―――薫、逃げなさい!!
その場にいた全ての者に十六夜の焦った叫び声が聞こえた。だが、全てが遅すぎる。
暗黒が周囲を包む。大怨霊の指先に闇が収束していった。そして、爆発的な勢いで膨れ上がっていく黒き球体。
空間が軋む音を響かせながら、黒球が薫達五人に向かって放たれた。地面を根こそぎ抉りながら、亜音速で射抜かれる境内。直径数メートルはありそうな黒の閃光があらゆるモノを消滅させていった。
その輝きに死ぬという絶望感を持ちながら五人は行動を映すことができなかった。いや、辛うじて楓が霊符を発動させて幾重にも重なる土の防壁を作り上げる。だが、それは無駄に終わった。
彼女達の丁度中心で激突した土の防壁と黒閃光は拮抗したのは刹那の瞬間。幾重もの防壁は脆くも弾きかき消され、その場にいた全員の視界全てに死が広がった。
唯一範囲外にいた恭也だったが、助けに行きたくても行くことができない。
黒閃光が周囲に発する圧力をも感じる闇の奔流に、体がその場から吹き飛ばされないように踏みとどまるので精一杯だった。それに加えて、目を細めた大怨霊が恭也の動きを見逃すまいと見つめている。
恐らく助けに向かえば、その隙をつかれて殺される。それが容易く想像できる明確な戦意を感じ取れていた。
終わる。彼女達の生命が終わる。彼女達の人生が終わる。
無力な高町恭也のせいで。たった一歩を踏み出せなかったために。全てが―――終わる。
「―――やれやれ。やはり剣士殿には我が必要であるな」
ふぁさっと夜の闇の中でさえも映える黒髪を靡かせて、金色の着物を纏った女性が薫達の眼前に舞い降りる。
迫ってきていた黒の閃光を右手をかざして受け止めた。奇妙な音をたてて彼女―――空の右手と球体が悲鳴をあげる。
ビキビキと彼女の腕が軋み始めるが、不敵な笑みを崩さないまま激痛に耐え続けた。
拮抗していたのは数秒で、鷲掴みにしていた右腕の掌が―――黒の球体を跡形残さず、握りつぶした。
己達に死を齎そうとしていた閃光が霧散していく様を 呆然と見つめている薫達だったが、目の前に優雅に立つ女性の姿を目に入れて―――薫だけは目を見開いた。
大怨霊にも勝るとも劣らない、底が見えない怪物がまた一人。ただ人の姿をしているだけにしか過ぎない怪物だ。
「流石にこの身体でこれだけの悪意を喰らうのは少々骨が折れたぞ」
飄々とそう語る空は、ぷらぷらと右手を空中で振る。
楓も葉弓も久遠も、突如現れ自分達の命を救ってくれた女性に感謝と供に訝しげな視線を向けるが、その中でただ一人、薫だけは愕然と呟いた。
「な、なんで……お前が……」
「久しいではないか、神咲の小娘。息災にしていたか?」
「……お前が、何故、お前が―――ざ、から!!」
ざからと呼ばれた空はくふっと笑いを抑えられなかったのか、僅かに笑みを零す。
背後にいる四人を庇うようにその場から動かない空―――いや、ざからは大怨霊へと視線を移した。
「まさか大怨霊が自分の肉体を得ることになるとは。流石の我も予想外の出来事だ。少しばかり我が助力したとしても文句はなかろう」
「……何者だ、お主。人―――ではあるまい。人外の存在か?」
ざからを前にして奇妙な感覚を全身に浴びながら大怨霊が問い掛ける。
その言葉には当然、相手を平伏せさせるような重みが篭ってはいたが、ざからに通じている気配は全く見られない。そんな姿に眉を顰める。
「我を何者かと問うか。既に我が名は過去のモノとなっているのが些か不満ではあるが。そなたに倣って名乗りをあげさせてもらうとしようか。我が名は―――【ざから】。かつては国喰らいと呼ばれた、破滅を告げし魔の獣よ」
かつて、一匹の魔獣がいた。
その魔獣が意識を持ったのは大凡四百年もの昔。
【それ】はあらゆる人を喰らった。あらゆる人外を喰らった。あらゆる生命を喰らった。
数万。数十万。数百万―――国が傾くほどの被害を日本に齎した最凶最悪の魔獣。
如何なる軍勢も薙ぎ払い、如何なる猛者も喰らいつくし、如何なる人外も殺しつくした。
伝承級と呼ばれるアンチナンバーズの一桁台さえも、【それ】の前では塵芥に過ぎず。奇跡が産み出した、世界を滅ぼすに至る可能性を秘めた全ての魔獣の頂点。大怨霊に匹敵するほどの死をばら撒いた獣の王。
純粋に破壊を求めた【それ】の名は―――座空。遥かなる空の頂に座する神をも喰らいし獣。
「何故、だ。お前は確かに―――あの時、あの人によって封印されたはず!!」
「うむ。我の本体は未だあの地に眠ってはいるぞ?少しだけ隙間を空けてもらって出入りしているだけだ」
「……す、隙間?そんな簡単に、出入りできるわけが……」
「最近は雪の奴も協力的であるからな。別に我もかつてのように人の世界をどうこうするつもりはない。それよりも興味深い人間をみつけたのでな」
ふっと艶かしい流し目をそれとなく恭也に送りながら何気なくアピールしてくる彼女に、特に何かを言うわけでもなく恭也は大怨霊へと小太刀を向けた。
無視される形となったざからではあったが、まぁよいかと小さく呟いたのを薫達の耳は聞き取る。
「この者達は任せておけ、剣士殿。そなたの全力―――見せてもらうぞ」
「―――感謝します」
言葉短く礼を述べた恭也が、大怨霊ただ一人に集中をし始めた。
薫達に注意を払わなくてもよくなったため、それは恭也にとって随分と有り難い話だ。戦いに集中できる、できないでは随分と差が出てくる。
大怨霊も一旦ざからから視線を外し、恭也へと向き直った。
ざからが尋常ではない相手なのは否が応でも理解できている。先ほど放った一撃は生半可なものではないのは大怨霊自身が一番良く知っているのだから。それこそこの場に居る恭也以外の存在を塵と化せるほどの威力を秘めていた。
それをあっさりと消す―――否、喰らった。
しかし、見る限り戦いに参加してくる様子は見られない。
それならば、ざからの相手は後回しにしたほうが無難。そう判断した大怨霊もまた恭也の身体を。隅々までねめつける様に見渡した。
「―――まさか余が肉体を得て初めての相手がお主となるとはな、御神恭也よ。因縁を感じるとしか言えまい」
「……?」
「あの時より幾星霜。お主が予言した、余を殺す者。それがお主とはまた、皮肉なものだ」
「……」
朗々と語る大怨霊に対して、恭也は返答をしない。
彼女の動きを見逃すまいと凝視している。額にはうっすらと汗の珠まで浮かべて呼吸を深く繰り返す。
大怨霊が浮かべる笑み。それは人や人外では為しえぬ、得体の知れない邪気を秘めていた。
普段の恭也に比べて明らかに精彩をかいている。己と同種の闇の支配者との対面にて、緊張を隠せずにいたのだ。
僅かとはいえ気圧されていた心を意思の力で押し潰す。
改めて大怨霊と名乗る女性の睨みつけるように凝視した。
佇む黒の姿。長身痩躯の肉体から目を離せない。大怨霊の視線から、口元。彼女の肉体が奏でる鼓動。薄く聞こえる呼吸音。悠然と佇むその姿。恭也の見切りを持ってしても、彼女の備える技量が全く把握できなかった。
「だが、それもまた一興。今回は余がお主を―――超えさせて貰おう」
両腕を腹部のあたりで組み、胸を強調する体勢を作る。
彼女の腰から生える尻尾が、ゆらりと揺れた。
「―――来るがよい。我が怨敵。我が宿敵。我が好敵手。我が全ての悪意を斬り裂いた―――我が同胞よ」
それが開戦の合図となった。
油断はない。慢心もない。あるのは全力で叩き潰すという強き意思。その両足が地を蹴った。
高町恭也という人間を容赦なく圧殺しようと襲い掛かってくる、無限の悪意。気を抜けば眩暈がしてくる。
パチリと視界の色合いが音をたてて変わりゆく。
意識が世界を切り替えた。色が全てこそぎ落とされ、モノクロの空間。
神速の領域に踏み込んだ恭也が二歩目を踏み出そうとしたその一瞬。背中に走るのは想像を絶する悪寒。
その場から二歩目の足を踏み出した。ただし前にではなく、後方へと逃げ延びた。
ナニかが地面を抉り、横一線に深い溝を作り上げた。それに続いてシュパンっと音を切る僅かな耳鳴りが聞こえる。
音よりも速く、ナニかが恭也を攻撃したのだ。緊張が一気に強まっていく。
その音の原因。それは至極簡単に判明した。
闇夜に浮かぶ、一房の尻尾。大怨霊の腰から映える闇色の尾。それがゆらゆらと彼女の背後で揺れていた。
明らかに今先ほどまでより長い。伸縮自在ということかと恭也は悟った。
休む暇もなく、闇色の尾が恭也へと荒れ狂う。周囲で見ている者でも何かが煌く。その程度の認識しかできない超音速。
縦横無尽に恭也へと降り注いだ。舌打ち一つ。その連斬からさらに後方へと飛び下がり難を逃れた。
そんな恭也を尾は容赦なく追いすがる。
弧月の軌跡を描き、恭也へと襲い掛かった。目前の視界に幾重も円月が描かれる。
その中で自分に攻撃が届くものだけを選び、八景で撃ち払う。手に響き渡る衝撃。耐え切れず一歩後退。
大怨霊は腕組みのままその場から動かず。
一房の尾のみで恭也の踏み込みを防いでいる。その牽制に歯噛みするも、無理に踏み込むことは出来ない。
尾の一撃一撃が恐ろしいほどに速く、重い。油断すれば一撃で小太刀を持っていかれる。流石の恭也と言えど、素手でこの尾を捌くことは不可能だ。小太刀が手元から離れれば勝率は限りなく零へと近づく。
恭也の動きを逃すまいと視線鋭い大怨霊に飛針を投擲。
空気が揺らぐ。二本の飛針が大怨霊の首に正確に、精密に狙い、飛翔する。
だが、その飛針はあっさりと弾き落とされる。大怨霊の前でしなる一房の尻尾。弾かれた飛針が地面に突き刺さった。
尾が彼女の視界を塞いだ一瞬。飛針を叩き落すために、しならせた僅かな瞬間。
その刹那ともいえる時間の流れの中で―――恭也の姿が消え失せる。
大怨霊の視界の死角。そこを的確につきながら、神域の世界に飛び込んだ恭也が大怨霊の右手から小太刀を一閃。
狙いは喉元。いや、容赦なく首を落とす斬撃。あの宿敵である天眼と同じで全くの躊躇いを持たない。
だが、恭也のその一瞬確かに見た。口元を微かに歪める彼女の姿を。
再度襲い掛かる悪寒。しかし、そのまま小太刀を振り切った。ぞぶんと水面に刀を叩き付けた様な、奇妙な感覚が手に残る。八景は彼女の首を落とすことはおろか、傷一つつけることができていない。
彼女が薄く纏う黒い闇。それが鎧となって、小太刀を止める。
大怨霊は未だ両手を使おうとしないのか、恭也から離れるように距離を取る。
長い尾を大きく振って、半円を刻みながら横薙ぎの刃を形作った。恭也の胴体を両断する勢いのそれを、跳躍してかわす。そのついでに、足元を通った尾を軽く蹴り、間合いを外した。
そして、三度感じる悪寒。
僅かな風の揺らぎ。視認するよりも一歩早く、後方へと逃げる。
闇色の尾が一瞬前まで恭也がいた場所を叩きつぶすように降ってきた。その尾が地面を打ち据えた瞬間、パァンっと破裂音が炸裂する。
「―――どうした、御神恭也?かつてのお主ならば、この程度の尾の攻撃など瞬く間に潜り抜け、この程度の防御など容易く切裂いたぞ?」
「―――俺の名は、不破恭也だ」
「ふふん。どの口でその名をほざく。お前は確かに御神恭也―――かつての余を滅ぼした者。お主の魂の色だけは決して忘れぬぞ」
たった一言だけを発した恭也だったが、それ以上は口に出さない。
いや、正確には口に出せないといったほうがいいだろう。喉が異常なまでに渇いている。名前を名乗った今でさえ、声がかすれなかったことを褒めたいくらいだ。唾液もでてこないほどに乾ききった口内。ひりひりと痛みが襲ってくる。
僅か一分にも満たない攻防の筈だった。だが、その攻防でそこまでに緊張している。恭也にしてみれば実に珍しい。
それも無理なかろうことだ。相手は数百年の悪意の具現化した存在。彼女が放つ重圧はこれまでのどの敵よりも禍々しい。その悪意に晒され、疾風の尾の斬撃を撃ち払い、避けきる。言葉にすれば簡単なことだが、それがどれほどに神技の領域の話だろうか。
尾の一撃避けるたびに神速の域に入らねばならない状態だ。短時間の神速のため、まだまだ体力に余裕があるとはいえ、徐々に疲労は蓄積されていく。
そして厄介なことに、大怨霊が纏う鎧。一撃防がれただけとはいえ感覚でわかる。
【アレ】はそう簡単には切裂くことができないと。一体どれほどの斬撃を見舞えば大怨霊に届くか想像に難しい。
兎にも角にも、まずは尾の攻撃を潜り抜け、刃を彼女に届かせるしかない。幾度か刃を振るえば、勝利への道筋は見えてくる筈だ。
「まぁ、よい。我も少しばかり本気を出そう」
大怨霊は組んでいた両腕を解き、だらりと下げ、両手の指をコキコキと音を鳴らしながら動かした。
それだけで先ほどまでよりも恭也に襲い掛かってくる重圧が凶悪さを増していく。彼女が放つ際限なき邪気に、否が応でも更なる集中力を求め欲す。
己が放つ悪意に膝を折らない恭也と相対することができるのが嬉しいのか、笑みがより深く濃くなっていった。
「―――ふぅ」
深く呼吸を吐いたその瞬間、横薙ぎの尾の一振りが襲い掛かってくる。
八景を盾にその一撃を防ぐ。そのまま小太刀滑らせるように疾走した。その勢いを殺さずに、間合いを詰めていこうとするも、グンっと尾を受け止めている小太刀にかかる重量が増す。
それが爆発的に膨れ上がり、危険だと思った瞬間には身体ごと吹き飛ばされていた。
半分は恭也が自分から跳んだ衝撃とはいえ、まさか身体ごと持っていかれるとは考えておらず、半ば垂直に飛ばされた先―――大人の男性の胴の倍はありそうな幹周りの木々に激突する瞬間、足をつけ衝撃を殺した。
びりっとした痛みが足を襲うが、痺れるというほどのモノでもない。
ぎりぎりの所で流したとはいえ、易々と身体を飛ばされる大怨霊の力に寒気がはしる。
速度でも単純なそれでは彼女のほうに分がある。神速及び神域の世界に入り―――見切りによる先読みを使いながらでようやく間合いをつめることが出来る状況だ。
つまりは力と速度では大怨霊に軍配があがるというわけだ。しかも圧倒的といっていいだろう。
幾らまだ余力があるとはいえ恭也の神速と神域の回数も無限ではない。
勝利を掴むためにはどうするか。
答えは簡単だ。力でも速度でも勝てないのならば―――技術で勝てば良い。
恭也にとってこれだけは、大怨霊を上回る自信があるからだ。己の生涯をかけて追求してきた剣の極地。未だ【上】を目指しているとはいえ、そう簡単に遅れを取る気はない。
そしてもう一つ―――。
―――大体、【見切った】。
元々大怨霊の戦闘能力が半端ではないことは分かっていた。
そんなもの戦わずとも気配だけで理解できることだ。故に、恭也は今までの戦い相手の動きを理解することに全力を傾けていた。
幾ら大怨霊といえども【人】の形を取ったことが恭也にとっては幸いだった。
彼女と向かい合っている最中にでも、挙動の一つ見逃さぬように意識を集中させる。相手の呼吸も、筋肉の稼動の様子、心音、そして人が為せる骨格の稼動範囲。
それら全てを、ひとつとして見逃すことなく、大怨霊が次に打つ一手を推測する。
彼女が動くよりも速く一歩でも、一手でも、一瞬でも、相手の機を悟り恭也は動く。
恭也に与えられた才能。見切りの極地。かつての御神の剣士達に心眼とも神眼とも云わしめた、その技術を持って恭也は大怨霊と戦うことが出来ている。
彼が極限の集中力を要して、大怨霊の動きを予測して、予想して、そこから彼女の攻撃に対して放つ反撃の一手は、恭也にとっての最高の一刃。
その一刃の前では、圧倒的に力が足りなかったとしても、圧倒的に速度が敗北していたとしても、相手へと必ず辿り着く、文字通り必殺の刃。
唯一の問題があるとすれば、彼女が纏う闇の靄。恭也の斬を持ってしても断ち切れぬ完全防御。しかも見る限り大怨霊が意識して操っているわけではない。完全に、完璧に、身体全域を覆っている。
先ほどまでは、幾度か刃を通せば勝利への道筋が見えてくると思いはしたが、それも怪しく思えてきた。
自信に満ち溢れた大怨霊の姿は決して己の肉体を傷つけられないという確信故にか。
それに、彼女へと至る斬撃を届かせるのにも一苦労だ。ならば、攻める場所は限定したほうが良い。
そう、つまり―――。
―――あの、【宝石】だ。
大怨霊が肉体を得ることになった原因。それは間違いなく彼女の両胸の丁度中間にて不気味に光り輝く宝石。
埋め込まれているのか、完全に同化しているのが見て取れる。
少なくとも、一番弱点らしい弱点といえば、今見えているあの宝石しかない。
果たして恭也の狙いが正解なのかはわからない。しかし、現在行動できる最善を尽くすならば、間違いなくそれしかないはずだ。
「考えが纏まりはしたか?そろそろ行くぞ。さぁ、舞え。御神恭也」
大怨霊の尻尾が霞む速度で撓り始める。
巻き起こした余波で、砂や小石が舞い散っていく。風を斬り、土を吹き飛ばし、木々を破壊していった。
空間が軋む。大怨霊の全身を結界のように、覆い隠すのは、闇色の尻尾。触れただけで人の肉体をあっさりと切断し、圧壊する超高速の刃の鎧。
それに身を守られながら、大怨霊は恭也へと近づいてくる。一歩一歩確実に。しかし、恭也を逃さぬように。
彼女が近づいてくるたびに、地面が抉れ、切り刻まれ、荒れ果てていく。
そんな無敵となった一つの結界を前にして恭也の次に取った行動とは退避ではなく、その場での待機であった。
「―――逃げるんや、恭也君!!」
遥か背後から楓の声が聞こえる。
返事をしている余裕はない。少しでも注意力が、集中力が途切れたならば、そこで死ぬ。
今からやろうとしていることは、恭也をして生死の境目があやふやとなる妙技。乾いた唇を舌で湿らす。
数多の残像を残して大怨霊を守護する闇色の結界となった尾の軌跡。
それら全てを見極めることは流石の恭也といえど不可能だ。幾らなんでも視覚の限界を超えている。
だが、一つだけ方法がある。それは実に単純な答え。確かに大怨霊の尾は伸縮自在で驚異的だ。攻撃範囲を掴みにくいこと限りなし。
それでも、いきなり彼女の尻尾は消えるわけでもない。突如別の空間から飛び出てくるわけでもない。二つや三つに増えるわけでもない。
注目すべきは、彼女の腰。闇色の尾の根元付近。霞む速度で動き続けるその場所だ。
そこさえ見極めればある程度の予測はつく。予想がつく。
大怨霊が興味深そうに間合いをつめる。やがてそれが構えて待っている恭也へと肉薄していく。
暴れまわる尻尾の結界。軽い衝撃波をうみ、劈くような金切り声にも似た音が耳に届いた。
後一歩でも大怨霊が近づいたら恭也の肉体はあっさりと肉片に化す。それほどの距離へと縮まった二人の距離。
しくじれば死ぬ。それを理解しながら恭也は退かない。彼もまた己の命を軽々とチップにできる剣にいかれた、一太刀の刃。僅かたりとも恐怖も躊躇いも持たず、大怨霊が後一歩近づいてくるのを注視している。
くふっと笑った大怨霊が、ついに最後の一歩を踏み込んだ。
そして恭也の肉体は、万物一切を粉微塵にする黒尾の斬撃範囲へと収まった。円形に荒れ狂う刃の軌跡が恭也へと襲い掛かる。
対する恭也は、視覚、聴覚、触覚を総動員。相手の尾の根元を視覚で確認。己へと迫りくる尾の方向を予想。
そして頭に振り下ろされてきた黒尾を小太刀で流す。流された尾は大地を叩き、大きな穴を作り上げた。
地面を叩いた力を利用し、掬い上げる一閃が跳ね上がる。その尾に再度小太刀をあわせて、上空へと流す。方向をかえ、横薙ぎ。これはかわせまいと自信にあふれたその尾を、一方の小太刀で受け止めつつ力の流れを斜め上へと逃がし、さらにもう一太刀でもう一度上空へと流す。
縦横無尽な尾の連撃を尽く捌かれた大怨霊は、さすがに驚きを隠せずに、目を見開いた。
そんな彼女を置き去りに、恭也は暴風の中心へと辿り着く。小太刀が二閃―――狙いは胸の谷間の宝石。
金属音を予想していた恭也の予想に反して、先ほどと同じく水面に剣を叩き付けた感覚しか手には残らなかった。大怨霊の闇の靄を切り裂くことは出来なかった。
零距離となった恭也の頭に振り下ろされるのは、大怨霊の右拳。腕の半ばを切り落とすつもりで放った小太刀が逆に弾かれ、若干慌てて身体を捻る。僅かに拳にかすった恭也の服の端が、一瞬で黒く染まり、ぼろぼろと崩れ去った。
それに思わず罵倒したくなるが、そんな暇があるわけもなく、二刀の小太刀を腹部の前にかざす。
弧月を描いた尾の薙ぎ払いがズシリと両腕に重みを伝えてきた。その尾撃を流そうと考えるも、判断を即座に変更。地面を蹴りつけ後方へと脱出した。
恭也の残像を貫いたのは黒尾と片手の拳。間合いを取った恭也は止めていた呼吸を再開させた。
鋭い獣の眼の恭也と、楽しげな大怨霊の眼がぶつかりあう。
視線はそのままに、大怨霊に触られた衣服の端を触って確認。触れただけで頼りなくぼろっと炭となって空気に運ばれ地面に落ちた。焼き焦がされたわけではない。これは、腐っているのだと恭也の脳が一拍を置いて理解する。
「余の手に触れた者は等しく滅びる。かつての余の依り代が望んだことだ。空も大地も川も、等しく穢し汚し腐らせるという望みが創造した滅びの力」
生憎と雷撃の異能はそこの子狐に奪われてしまったが、と自嘲染みた呟きが聞こえた。
腐食。これもまた厄介な能力だともはや何度目になるか分からない舌打ち。しかし、腐ってばかりもいられない。彼女の腐食の能力がどこまで働くのか分析する。
先ほど腕の半ばを叩き切ろうとした時は、靄に防がれただけで終わった。しかし、八景に変化はない。つまり、大怨霊が手とはいったが恐らく腐食させるのは拳―――もしくは指や掌。そういった部分だけだろう。
その他の部位はどうだろうか。左手は。右足は。左足は。戦いの中で確認していくしかない。
「―――ああ、そこまで注意する必要はないぞ。腐食させるのは余の右手のみ。他の部位では為し得ぬ。信じるか信じないかはお主次第だ」
あっさりと自分の能力をばらした大怨霊に首を傾げる。わざわざ自分の能力を自白するとは思えないのだが―――確かに異様な圧迫感を感じるのは彼女の右手からだ。恭也の第六感が反応するのはそこのみなので、彼女は恐らく嘘をついてはいないのだろう。
それに加えて宝石を斬った筈の小太刀も通用はしていなかった。
やはり届く前に靄によって防がれる。最初の攻防の時に首を狙ったときは己に出来る【斬】の極限。宝石を狙った時は己に出来る【徹】の極限。そのどちらも靄が霧散させた。
斬撃も衝撃も通さない。恭也の打つ手が次々と潰されていく。
―――つまりは、勝ち目がない。
どろりっと敗北という名の影が這い寄ってくる。汗が頬を伝い、地面へと落ち黒い染みを作った。
薫達の援護は期待できない。久遠と那美は気絶しているし、葉弓は長い間の治癒術で霊力を相当に疲弊している。楓もまだ回復しきっていないだろう。唯一余裕がありそうなのは薫だが、久遠の雷も容易くかき消した大怨霊にどこまで切り札と為り得るか。しかも既に大怨霊は己の肉体を手に入れている。
久遠に取り憑いていたときや、そこから弾き出されていた黒い霊体の時だったならば、必殺になっただろう。しかし、今の大怨霊にはそこまでの効果は期待できない。
ましてや敵の攻撃の速度は尋常ではない。誰かを気にしながら戦える余裕も恭也にはありはしなかった。
ざからはというと、薫達の前に立ちそこから動こうとはしておらず、恭也に加勢しようとする様子は見られない。
「くっふっふっふ。全く、剣士殿も人が悪い。そろそろ【本気】をださねば相手にも悪かろう?出し惜しみとは人が良くないぞ?」
「……」
恭也の心を読んだように、ざからは実に気軽に言ってくる。
別に理由なく本気を出していないわけでもない。勝機が見えない今の段階で全力で戦うことは―――。
―――いや、そうだな。
頭を振ってぼけていた意識を明確にする。
ざからの言うとおりだ。どんな理由をつけたとしても、全力で戦わねば見えてこないものもあるはずだ。
相手の力を見極めるために、相手の防御を突き抜くために、相手の攻撃方法を確認するために。余力を残す。そんな時間はもう終わりだ。例えどんな力を持っていたとしても、どんな鉄壁の防御だったとしても、どんな攻撃をしてきたとしても―――それらを超える技で叩き伏せる。
例え如何なる相手だったとしても刃が届くのならば―――不破恭也に斬れぬもの無し。
人も魔も神さえも。斬ってみせよう、人に与えられし剣の技で。
覚悟を決めた恭也の気配が消え失せる。
これまでの荒れ狂う黒き気配が治まっていた。全くの無。この場にいる誰よりも静かな気配を漂わせていた。
恭也の気配はまるで波一つない湖面。凪を連想させる。しかし、それも僅かな時。
これは、嵐の前の静けさだと誰もが理解していた。そして―――。
空気が爆発する。
その気配の質の変化に大怨霊が笑みを深くした。
遠き過去の思い出が不思議と蘇ってきた。頭に響くのは懐かしき男の声。
―――悪いな、大怨霊。お前の歩みは此処で終わりだ。
恭也の気配が膨れ上がり、質量をもった突風が大怨霊の体に叩きつけられる。
大怨霊が周囲を覆う闇の結界を粉砕し、破壊する爆発的な空気の震動。
―――俺の一太刀に斬れぬものはない。
その場にいる全員にのしかかる質量を帯び、見渡す限りの全ての空間を確かに軋ませていた。
―――俺の名前?……ああ、言うの忘れてた。御神恭也だ、六百年先まで覚えているといい。
軋む音が周囲を震わせ、暗い色を広げていく。視界に広がるこの場の世界に漆黒の暗幕をたらしている。大怨霊という悪意の塊が放つ【それ】を喰らい、侵食し、凌駕していく。
―――生憎と俺では【お前】を殺すことはできない。六百年という遠い先、必ず【お前】を殺す者が現れる。
その黒の輝きのなんと美しきことか。その殺意のなんと美しきことか。その魂のなんと美しきことか。
―――その名は。
「―――く、はははははははははははははははは!!そうだ、そうだ、そうだ!!お主がそうだろう!!お主がそうではなくてはならぬだろう!!そうでなくては、六百年という、狂いそうになるほどの年月の果ての果て!!あらゆる悪意の中で【余】という意識を保っていた意味がない!!お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が!!」
狂ったように吼えながら、右手を地面に叩き付ける。ジワリと黒い染みが叩き付けた拳を中心に広がっていった。
いや、急激にその染みが範囲を広げていった。大地が腐っていく。大地が死んでいく。大地から生命が失われていく。
「さぁ!!さぁ!!さぁ!!世界も人も、獣も、神も!!悪意も憎悪も!!今このときは何もいらぬ!!今このとき、お主さえいればいい!!六百年前の決着をつけようぞ―――御神恭也!!」
互いが地を蹴るのは同時。そして、黒尾と小太刀が中間で噛み合わさった。
強かに打ち下ろされる黒尾を右の小太刀で地面へと流す。相手の懐に踏み入った恭也の左小太刀が宝石に向かって切り落とされる。だが、相変わらずや闇色の靄によって小太刀が防がれた。
次いで黒尾を撃ち払った右小太刀が左小太刀の上から叩きつけられた。二重の衝撃が靄へと襲い掛かる。だが、大怨霊の笑みは変わらず。御神流奥義之肆雷徹でも掠り傷一つ負わすことができなかったが、その程度は予測のうちだ。
尾が旋回するよりも速く、左小太刀の切り上げ。
その刃が靄に阻まれ速度が落ちた刀身を大怨霊は左手で捕まえる。一瞬遅れて黒尾が右斜め上から降り注いできた。
それを自由の利く右小太刀で再度叩き落す。それと同時に上体を後ろへと逸らした。目の前を腐食の右手が通過していく。
彼女の指にかかった前髪が数本不気味な音をたててパラパラと散ってゆく。
逸らした力を利用、空中へと跳躍し、両足が大怨霊へと蹴り込まれた。相変わらず彼女には衝撃が伝わっていないようだが、恭也は蹴り込んだ蹴り足の力をそのままに後方へと宙返り地面に降り立つ。相手の左手に掴まれていた小太刀を引き抜くことに成功。
前置きの一つもなく、上体を屈めて突進。その上を尾が薙ぎ払う。
だが、大怨霊の瞳に映るのは二本の飛針。突進を開始する前に既に飛ばしていたのだ。
超至近距離から投擲された飛針を右手の掌ではたき落とした。じゅわっと妙な音を残し、金属製のそれらが溶けて消える。
次の瞬間には小太刀が煌く。二対一刀の八景が、軽やかな音を空気に散じ、四閃の軌跡が宝石へと吸い込まれていった。
防ぐ間も、避ける間も与えない瞬速四閃。薙旋と呼ばれる奥義之陸。
相対する相手であっても、自分が四度斬られたと認識する暇さえ与えない超速奥義。
その薙旋でさえも、闇の靄を突破するには至らない。
轟っと激音が鳴り響く。真正面から空気の壁を突き抜けた黒尾が恭也の胴体を両断しようと迫ってくる。
正面から降り注ぐ尻尾が彼の身体を縦に叩き潰そうと軌道を描き、地面を貫き砂埃を巻き上げた。しかし、その尾が捉えたのは恭也の残像だった。
ばさりと服がはためく。
頭上、飛び降りざまの最上段からの斬り下ろし。返す刀で、左右からの横薙ぎ。そして胴体を両断する袈裟斬り。
その後も途切れることがなく、一瞬の間もなく叩き込まれる必殺の斬撃。それら全てが【斬】にのみ特化した鉄をも断ち切る刃の荒波だった。
驚異的なのは、恭也が放つ斬閃は、それら尽くが宝石狙い。僅かなずれもなく、ただひたすらに【そこ】だけを狙い続けていた。
ジャリっと砂が音をたてる。
大怨霊の懐から何故か距離を取った恭也を不思議に思うも、追撃へと尾を振るう。
右の小太刀を後ろに大きく引き、刺突の構えをとった恭也はその横薙ぎに払われた尾に突撃。
紙一重、ミリ単位の領域の跳躍。そんな隙間を残して恭也の足元を通過した尾にタイミングを合わせてさらに一蹴り。
さらに爆発的な速度を得た恭也の右小太刀が放たれる。大怨霊の尾と同じく、音が後からついてくる亜音速。
内に抉りこむように回転させた刺突が宝石に向かって叩き込まれた。それだけでは終わらない。
そこからさらに地面についた足の筋肉を躍動。上半身の力も利用し、さらなる加速。
身に纏いし靄を突き抜けることはできなかったが、僅かに剣の切っ先が靄を突き抜けた。宝石に届く一歩手前にて突如靄が色を濃くする。驚愕したように眼を見開いた大怨霊は、その二連の刺突の衝撃に、初めて後方へと吹き飛ばされた。
凄まじい勢いで崩れかけた八束神社へと激突。パラパラと音をたてて埃が舞い散る。
恭也が振るう刃は一撃一撃の軌道が、全身の筋肉を利用しての最速。
恭也が放つ刃は一撃一撃が正確にして精密。
完全防御を誇る大怨霊でなかったら、既にもう戦闘という行為はとっくの昔に終わっていた。
そして何よりも、恭也の斬撃の速さ、正確さ、数多の刃。それらが大怨霊の攻撃を防ぐ役割もしている。
彼の攻撃はまさに攻防一体を為し得た妙技。精密斬撃の繰り返しは、見ている者の背筋を凍らせるほどのモノであった。
その時八束神社が揺れた。
いや、八束神社が存在する山自体が激しく震動する。
「ふ―――ふははははははははは!!見事、見事だ!!やはり、この【姿】では!!人の姿ではお主には及ばぬか!!全身全霊!!余の全てで挑んでみせようぞ!!」
己を退かせた恭也へ対して歓喜を爆発させる大怨霊の宣言が声高らかに響き渡る。
ぼろぼろに破壊された神社の本殿。埃が舞って彼女の姿が見ることができない。だが、ピシリと未だ無事であった神社の柱にヒビがはいる。それが一つだったのが、震動が激しくなるにつれ二つとなり、やがて三つ、四つと際限なく増えていった。
それに伴って、本殿の入り口で舞っている埃も濃くなっていく。
周囲を覆っている恭也の気配が打ち消され―――否、喰われてゆく。
暗かった悪意の天幕が消え失せ、夜空の星々が瞬いているのが視界に映る。ただし、それはまるで何かに脅えているかのような、そんな輝きだった。
闇が一瞬で凝縮。そして、漆黒の闇が爆発。
八束神社の奥から発せられた闇に染まった閃光が一条。
恭也でさえも反応を許さない超音速の閃光が、彼の数メートルも上空を打ち抜き、遥か彼方へと消えてゆく。
夜空の星々の光を隠すように漆黒の螺旋が、空に浮かぶ雲の全てを吹き飛ばし、天空へと姿を消した。
その閃光が迸り、消えていったのは数秒程度の時間だったろう。
閃光が上空を通り過ぎた間、圧力を感じさせる漆黒に身体を動くことを許されなかった。
既に見る影も無くなり、更地となった八束神社の本殿の後、残されたのは未だに舞っている砂埃のみ。
しかし、それも治まっていき、ようやく視界を遮るものがなくなった。
そして―――異形の影が浮かび上がる。
恭也の、薫の、楓の、葉弓の視線が呆然とその影の姿を追っていた。
ズドンっと地響きをあげ、巨大な威容が彼らの視界すべてに広がっている。
【それ】は文字通り、人が見上げねばならないほどの巨大な体躯。
その体躯を覆うのは純粋な黒。漆黒というに相応しい毛並み。久遠とは真逆の深淵を感じさせる闇色。
地面に届くほどに長い尾。人の胴体よりもなお太く長い四肢。美しさを感じる巨大な頭部。その頭部を支えるさらに巨大な胴体。その胴体で光り輝く宝石。全長にして十数メートル。もはや怪物というしか他がない―――闇の狐がそこにいた。
「―――は、はは。なんや、これは」
楓から乾いた声が漏れた。
彼女とて今まで多くの霊敵と戦った。多くの人外とも戦った。
それでも、それはまだ想像の範囲内におさまる形をしていた。それなのに、今目の前にいるのは人とか人外とかそういった問題ではない。
怪物。いや、怪獣。個人でどうにかできる問題の相手であるはずがない。
天空を見上げていた大怨霊が己が放った黒の閃光から、眼下を見下ろした。
地上で自分達を見上げている恭也達を、体躯の全てが黒に塗れている彼女の中でただ一つ、真紅に輝く瞳で射抜いている。その真紅の視線に射抜かれたこの場の者達は―――。
薫は、如何にこの場から最小限の被害で逃げ出すかを考えていた。
例え久遠や那美が起きていたとしても、自分達の霊力が完全な状態であったとしても、勝ち目は皆無。
神咲三流及び、あらゆる傍流亜流、その他の祓い師。それら全てをかき集めて対抗するしかない。それまでにどれだけの破滅が日本にもたらされるか。それを想像した薫の顔が歪む。
葉弓は、この場からどうやって薫だけを逃がすかを考えていた。
今この状況で大怨霊を打倒する手段はありはしない。残された霊力を使用しても間違いなく大怨霊を斃すことは不可能だ。そしてこの場から全員が無事に逃げ出すこともまた不可能だろう。
本来なら一番と歳若い那美を逃がすのが正しいのかも知れない。しかしこの場から逃げ出した後、神咲三流を纏め上げ、対大怨霊のまとめ役と為り得るのは、霊力や人望、神咲一灯流正統伝承者という地位の面から見て神咲薫しか相応しいものはいない。
楓は、自分の残された体力、霊力を確認。そして、絶対的に己に勝利の道筋が見えないことを受け入れた。
先ほどまで戦っていた久遠が可愛く見える、格の異なる大怪物。
カタカタと小刻みに渚を握る手が震えている。霊符も既に底をついていた。
ざからは、普段と同じ笑みを浮かべながらも―――珠の汗を額から頬を伝い、滴り落ちた。
大怨霊の力は想定外としか答えようが無い。彼女が想像し、予想していた領域を遥かに飛び越えていた。
今の切れ端のこの身体では、圧倒的に力が足りない。自分にかけられている封印を解き放ち、全力を出さねば、どうしようもない。そこまでの力の差がざからと大怨霊には存在した。
そして恭也は―――。
「―――薫さん」
大怨霊と睨みあいながら、恭也が囁く。
そこまで大きい声ではないが、不思議とその場にいる全員の耳に届いた。
「申し訳ありませんが、できればこの場から離れていただきたい」
普段の彼と同じ声色で、淀みなく続ける。
「ここからさき、そちらに注意を割く余裕が一瞬たりともありません」
両翼を広げた猛禽類の如く、恭也は小太刀を構えて巨大な闇狐に向かって足を一歩踏み出した。
薫達が見る彼の横顔は―――高町恭也という人間の横顔は、絶望も諦めの感情はなく、かといって途方にくれたという様子も見られない。彼女達の知る限り、本当に普段通りの彼がいた。
目の前に存在する闇狐の巨大な体躯も、彼女が放つ威圧感も、それら全てを一身に受けてなお、恭也は平常心を保ったままだった。
「―――剣士、殿。我も力を―――」
「いえ、大丈夫です。アレは俺が―――殺します」
静かな声がざからを静止し、彼女の耳を打つ。
何の気負いも無く、至極当たり前のように恭也は語る。
だが、それ故にざからは息を呑む。恭也が確かに言ったのだ。大怨霊を殺すと。
陳腐き聞こえるかもしれない殺意の言葉。たった一言のその言葉。それが、明確な意思を持ち、ざからへと届く。
恭也は【殺す】という言葉は使わない。決して言わない。その彼が、高町恭也が確かに口に出した。その言葉は言霊となって、恭也自身の胸に染み渡る。
大怨霊と高町恭也。互いに互いしか視認していないその空間。
そんな空間で、楓が一番最初に我を取り戻す。
「―――薫。那美ちゃんと久遠連れて、退くんや」
「……で、も」
「わかっとるやろう。お前が分からないはずがないやろう?それが、神咲最高の祓い師のお前の役目や」
「―――っ」
悔しさと申し訳なさで薫は唇を噛み締める。プツリと血の味が広がっていく。
無言のままで薫は那美を、葉弓は久遠を背負う。そして、邪魔にならないように階段へと歩いて行くが、自分達の後についてこない楓を不思議に思って振り返る。
「……楓?」
「かえで、ちゃん?」
「心配せんでいい。うちもすぐに行く」
薫と葉弓に、楓はそう答える。問いただしている暇はないのは明らかで、薫と葉弓は階段を降っていく。
残されたのはざからと楓の二人だけ。いや―――ざからも、恭也達から背を向ける。
「―――間に合うとは思えぬが、我の封印を解いて貰うしかあるまい」
一人ごちたざからの背が遠ざかっていく。
いや、その途中で一端足を止めた。
「そなたはどうするのだ?」
「うちは、ここに残る」
「……悪いことは言わぬ。去れ、小娘。確実に、死ぬぞ?」
「―――死なへんよ」
「……まぁ、よい。剣士殿を救うためにもここで無駄な時間を使う暇も今はないのでな」
忠告は至極あっさりと終わらせたざからは足早にその場から姿を消した。元々ざからが興味があるのは恭也のみ。それ以外の人間がどうなろうと知ったことではない。
一応は忠告をしたので、守るという義理は果たしたとも言えるはずだ。後はここに残って死ぬのも、逃げて生きるのも個人の自由だ。
一人残った楓は、その場から動く様子は見られない。
「―――頑張れ、恭也君」
怖い。恐ろしい。目の前の闇狐は人の悪意を、恐怖を具現化した怪物だ。
身体中を駆け巡る悪寒が止まらない。あんな怪物に人では勝てないと誰もが感じたことだ。
正直言って、恭也が大怨霊と戦って勝てるかどうか、確信は持てない。だからこそ、薫達を退却させた。もしも、恭也が負けたのならば、薫達が大怨霊という怪物を倒さねば為らない。
そう、楓は恭也が大怨霊に勝てるかどうか、【確信】が持てないだけだ。
皆が恭也が、闇狐に勝ち目など有るはずがないと感じていたが、楓だけは別だった。恭也なら、久遠と肩を並べて戦った底知れない剣士ならば―――【もしも】がある。
あの怪物を、打倒しえるかもしれない。打破しえるかもしれない。
【もしも】彼が、大怨霊を倒したときその場に誰もいなかったら寂しいではないか。悲しいではないか。
だからこそ自分が信じよう。あの剣士を。如何なる敵も斬滅せしめる高町恭也を信じよう。
分が悪い賭けなのかもしれない。チップは己の命。最悪の賭けなのかもしれないが―――不思議と負ける気はしない。
「―――頑張れ、頑張れ、頑張れ。恭也君」
神咲楓の祈りが、風に溶ける。
恭也を信じる乙女の祈りは、誰にも届かない。
だが、彼女は両手を合わせて、静かに祈り続ける。
そんな楓を置き去りに、恭也の意識が深淵へと沈んでいく。
薫のことも、楓のことも、葉弓のことも、久遠のことも、那美のことも―――全てを頭の中から消し去る。
すべての注意は目の前にいる怪物に向けた。如何なる動作も見逃さぬように、一振りの刃へと意識を変える。
周囲を覆う殺意の結界もなりを潜め、それらは小太刀へと凝縮された。ただ、目の前の巨大な怪物を斬り殺すために。
「もはや、言葉は無用。余が勝つかお主が勝つか。さぁ―――最後の戦いだ」
大怨霊の喜びに満ち溢れた声が、二度目にして終幕の戦いの合図となった。
一瞬、恭也の身が沈む。
それと同時に―――彼の両足が地を蹴った。
神速。否、神域の世界に一足飛びで足を踏み入れた恭也の後には僅かな砂埃も立たず。
空気が揺れたと感じた瞬間には、既に高町恭也の姿は大怨霊の懐深く踏み入っていた。
だが、流石は音に聞こえし大怨霊。神風一陣の彼の動きを見過ごさず。
踏み入ってきた恭也を叩きつぶさんと、薙ぎ払った前足が逆の方向へと弾かれた。
両者ともにその衝撃の重さは、これまでの比ではない。歯を噛み締め、腕が悲鳴をあげながらの恭也にできる最高最大の【斬】の斬術。それを最重最速の【徹】による斬術を重ねて使う。それは最高最大最重最速の複合斬術。
人型を保っていた時の黒い靄は巨躯となった大怨霊を未だ覆っている。
だが、注視しなければわからない。その程度の極僅か。巨大な氷山の一角にしかならぬであろうが、ほんの一欠けらだけ宙に舞う。大怨霊を覆う悪意の結晶を、微量とはいえ削り取った。
前足に感じたかつてないほどの衝撃に、咄嗟に眼下の恭也に視線を向け、その姿が無いことに驚いた。
吹き飛ばされた前足とは逆側の足に軽く感じる感触。トントンと何かが登っていく。
慌ててその【何か】を視線で追うが、既に姿は消えていた。次いで感じ取ったのは、空から降り注ぐ一筋の殺気。
頭上を仰いだ大怨霊の鼻先に、理解を遥かに超えた大衝撃の斬撃が振り下ろされた。
鼻先に受けた斬撃に、闇狐の巨体がガクンと前方へと倒れふす。
更地となった境内に錯覚ではない地震が揺り起こされた。
巻き起こされた砂埃の合間を裂くように、倒れた大怨霊の背中に四斬が叩き込まれる。水面を叩き切った感触と供に、ギャリンっと耳障りな音をたて、黒色の四欠片が露と散る。
神速を発動させ、即座にその場から背中を蹴って離脱する。
巨大な尻尾が恭也が乗っていた背中をかすめ振り回され、闇狐は勢いよく立ち上がった。
地面に着地した恭也は、ガリガリと地面を抉りながら身体を止め、再び地を駆け巨躯に立ち向かう。
圧倒的な質量の尾が突撃してくる恭也に薙ぎ払われるが、突撃する動きを一瞬止める。その前方を黒尾が薙ぎ払い通過していった。触れたわけでもないのに、突風が巻き起こり恭也の肉体を吹き飛ばそうとするが、それで止まるわけにもいかない。突風を突きぬけ、剣士は疾走する。
「――――っぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおお」
悪意に塗れた、闇狐の雄叫びが臓腑に響く。
威嚇するように四肢が大地を踏みしめた。落雷と勘違いしそうな轟音が山々に木霊する。
聞く者を冥府に誘う怨霊の大音響を耳にしても恭也の動きに鈍りはない。
二刀の小太刀が、闇夜に煌く。
一太刀目の斬撃が闇狐の前足に叩き込まれる。ついで二太刀目の斬撃がその上から重ねられる。奥義之肆雷徹を容赦なく叩き込む。それと同時に逆の前足にも二刀の小太刀が十字を描く。連続使用の雷徹。
ガクンっと前足が揺れ、巨躯が前のみりとなったその顎に、下からの全身のバネを利用した切り上げが跳ね上がる。
一撃がまともに直撃。それに続いて叩き込まれる数撃の斬閃。その斬撃の重さで前のめりとなった狐の顎が浮き上がっていく。
ギラリとねめつけるのは真紅の瞳。大怨霊は全く怯みもせず、前足を叩き付けてくる。
恭也は逃げない。逆にさらなる一歩を踏み込み振り下ろされる前に斬撃を見舞う。一秒間に振るわれるのは数度の剣閃。振り下ろそうとした前足を逆に、かちあげられる。
次いで横に薙ぎ払われる尾の一蹴。迫ってきたそれを蹴りつけ、跳躍。
眼前の巨躯に輝くのは不気味な宝石。空中で体勢が不安定なその状況で、上半身の回転のみで繰り出される斬撃の嵐。奥義之弐―――虎乱。
これまでで最高となる斬閃が迸るも、靄を切り裂くには至らず。しかし、恭也の視界に確かに舞い飛ぶ漆黒の欠片。
ほんの僅かずつではあるが、大怨霊の悪意を切り裂いていく。
もはや己の身の危険も顧みない、ただ【斬る】ということだけに特化し、全てをかけた剣士の超速の動きは止まらない。
宝石の防御をまだ破れないと判断した恭也が、大怨霊の肉体を蹴りつけた。
弾丸の連想させる速度でやや離れた場所に着地。今までいた宝石の空間を尾が薙ぎ払っている。
体勢を整えた恭也が真っ直ぐ前方、闇狐との間合いをつめた。翻った巨大な尾の影に隠れるように己の身を隠し、その尾が大怨霊の視界から消えた途端、そこから飛び出し尻尾を蹴りつけ、肩を蹴りつけ、飛翔した恭也の小太刀が彼女の頬を強かに打ち据えた。その斬撃の重さに顔がよこにずれる。さらに追撃を仕掛けた小太刀が眉間に二撃打ち下ろされた。
さしものの闇狐も連斬に耐え切れず、ふらりと倒れそうになるも、四肢に力を入れて立て直す。
恭也は着地と同時に再び懐へと飛び込む。隙だらけの腹部に容赦なく叩き込む左右の小太刀。その連撃は十数閃。信じられないことに、恭也を遥かに凌駕する巨体がぶわりと後方へと浮き上がり地響きを立てて倒れこむ。
一息つく間もなく、恭也は駆ける。だが対する大怨霊も、その巨体からは想像できない俊敏な動きで体勢を整えた。
「―――くふはははははははははははははははははは!!流石は!!流石は!!流石は!!流石は御神恭也!!」
永全不動八門御神真刀流小太刀二刀術。
人は御神流と呼ぶ流派。その歴史は古い。遥か太古の昔―――六百年という遠き過去より受け継がれてきた暗殺術。
御神雫。彼女こそが六百年もの昔に御神流を創り上げ、完成させた。だが事実は違うと雫は云う。
彼女の師であり父である御神恭也こそが全ての始まりなのだと。彼こそが御神流の土台を作り、完成させたのだと。
もはやこの時代に彼を知る者は数少ない。六百年という時の流れは人外達でさえ途方もない年月だ。
一人は大怨霊。
一人は御神雫。
一人は魔導の王。
一人は鬼の王。
一人は茨木童子。
一人は鬼童丸。
一人は虎熊童子。
一人は未来視の魔人。
六百年という年月は、かつてその名を知らぬ者なしと称された剣の鬼を知る者をたった八人にまで減らし続けた。
御神恭也とは何だったのか。御神恭也とはどういう剣士だったのか。
八人は口をそろえてこう云うだろう。
世界最強を体現した剣士だと。
魑魅魍魎が溢れ、闇が色濃かったあの時代。
鬼の王をも退け、茨木童子をも打破し、鬼童子丸をも打倒し、虎熊童子をも斬り伏せ、大怨霊をも調伏し、魔導の王をも従え、未来視の魔人とも渡り合った。
彼ら八人は誰よりも御神恭也という人間を見てきた。戦ってきた。友とも、仇敵とも、怨敵とも、宿敵とも認めていた。
そんな彼と同一の魂を宿す者。それが不破恭也。
故に皆が惹かれる。引かれる。
かつて誇りを、命を、想いを、心を賭けて戦った者達だからこそ、当然のように惹かれ集う。
だからこそ、大怨霊も彼に拘る。彼に惹かれる。彼を求める。
本来大怨霊という存在には確固たる【個】というものがない。それも当然だろう。
数百年分の悪意を喰らい、固まり、長い年月をかけて産み出されるもの、それが大怨霊だ。
大怨霊を形作る悪意は、ただ人を殺し続けることだけが目的だ。世界を壊し続けることだけが目的だ。
だが、今の大怨霊には確固たる個の意志がある。それは今から数百年前に、御神恭也と戦ったときに生じた意識。その意識が数百年という年月でも、悪意に飲み込まれず、消されず、大怨霊という悪意を支配下に置き続けていた。
故に彼女は悪意も憎悪も怨恨も、己を構成する混沌を―――何もかもを投げ捨てて、今この一時に全てをかける。
交錯する闇狐の前足に輝く鋭利な爪と二本の小太刀。
半ばから両断され、弾け飛ぶ闇色の爪。叩き切った恭也も交錯した衝撃までは殺しきれず、後方に吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。即座に片手をつき、飛び上がる。そして、疾走―――。
轟音が鳴り響くたびに、八景が大怨霊の悪意の靄を削り取っていく。
何十もの斬撃が、息つく間もなく繰り出され、放たれ、大怨霊の巨体を追い詰めていく。
一人の剣鬼と一匹の怪物の戦いは、ただひたすらに加速していく。戦いの鼓動が、高まっていく。
だが、己の命を投げ打って、死が纏わり付く零距離にて剣の刃を紡ぐ恭也の脳裏に一抹の不安がよぎる。
―――くそ。もってくれ、八景!!
父から受け継いだ形見の刃。二対一刀の名刀。
これまで幾度となく恭也の窮地を救い、供に潜り抜けてきた相棒の軋む音が確かに聞こえる。
悲鳴をあげながら、それでも恭也に尽くすように、耐え続けていた。
ガリっと歯をかみ締めた彼の左肩を振り下ろされた尾の一撃がかする。服があっさりと破き切り裂かれ、パァっと赤い花が同時に咲いた。
ひりつく痛みが左肩を襲う。だが、その程度に構っている暇はない。
目の前に映る前足に無数の斬撃を叩き込む。数度の連撃を叩き込まれた闇狐のバランスが崩れ、ガクンっと斜めに倒れかける。さらに刃を振るおうとした恭也を影が覆った。
やばいと思う間もなく、左右の小太刀を交差して頭上に掲げた。
逆側の前足が恭也を潰そうと振ってきていた。それを紙一重で受け止めるが、圧倒的な大質量。四肢の筋肉が断裂する痛みが襲ってくる。今度は恭也の体勢が崩れ、そのまま圧殺させられるかと思いきや、その状態から決死の覚悟で横に飛ぶ。
地震と大音響が耳を打つ。一度深く呼吸をし、肺の中の空気を一新。
見上げる巨躯が纏う黒き靄は明らかに薄くなってきていた。
恭也の絶望を振り払いように放ち続けた斬撃は、死を身近に感じながら繰り出し続けた剣閃は、限りなく零に近かった勝率を、徐々にだが白く輝く勝利への道筋を照らし始めていた。
そんな一瞬の油断が生死をわける闘争の最中、大怨霊の巨躯が翻る。
砂塵を巻き上げ、唸り声をあげ、巨体が迫ると同時に、巨躯を影とした尾の一撃が振り回された。先ほど恭也が死角を利用したように、大怨霊もまた己の肉体を利用し、恭也の死角をつく。
風を切り、空気を打ち抜き、横薙ぎに振りぬかれた黒尾が―――神域に入る恭也より速く、彼の身体を大きく跳ね飛ばした。
数メートルでは済まない距離を弾かれた恭也が、森の中へと叩き込まれる。枝や葉をクッションにしつつも、その程度で止まるはずもない―――本当にまともに喰らったならばの話だが。
尾が直撃する瞬間、側面で八景を盾としたことが幸いしたのか、即死だけは免れる。
森の中、地面に叩きつけられる前に、足を伸ばして地面を擦った。それでも止まるには至らず、跳ね上がった恭也は、その反動を利用して、空中で身体を反転。衝撃を殺し、なんとかその場に着地した。
ガガっと地面を抉り、擦り、両足が二本の線を描き、それでようやく身体が制止する。
後退を止めた恭也は、顔を上げるよりも速く地を蹴り、神域の世界に突入する。
その世界で視線を遥か前方の大怨霊を戻し、森の中から姿勢を低く飛び出していた。
幾ら数時間戦闘可能な驚異的な体力を誇る恭也といえど、彼に残された体力は限界を迎えつつあるのが現状だ。
ただでさえ祟り狐久遠との戦いで神域と無言の世界を使用し、それから後はたった一人での戦い。
神速、神域の乱用。左肩を抉られた傷跡。そして、先ほどの尾での一撃が致命的だ。
直撃は防いでいたとはいえ、小太刀を越えて伝わってきた衝撃。骨まではいっていないが、確実に皹が入っていた。
体力も底をつきかけ、肉体も万全ではない。そして愛刀八景の限界。
もう、長期戦を覚悟して敵の防御を削り取っている状況ではないのは明らかだ。
ならばもはや取れる手段はただ一つ。
この瞬間、恭也は覚悟を決めた。次の交錯で―――大怨霊を殺しきると。
もしもそれで殺しきれなかったならば、それは自分の負けだと。
そんな恭也の意識が伝わったのか、大怨霊も四肢を大地へと叩き付ける。
地面が陥没し、ひび割れ、尾が背後にあった木々をなぎ倒す。真紅の瞳が爛々と恭也を射抜く。
地の底から湧き上がる咆哮をあげた。身体全体を震わせながら、歓喜とも狂喜ともいえる感情を乗せ、周囲全てに響き渡る。その巨躯から放たれる咆哮は、聞く者の思考力を、判断力を、気力を、精神力を、ありとあらゆる希望を奪う。
絶望が具現化した怪物は、今にも飛び掛らんとする肉食獣の体勢を取った。
今一度―――神代の領域に己を導け。
脳内でスイッチを切り替える。世界はモノクロに染まり、神速の世界に突入する。
それと同時に大怨霊が尾をもたげる。それは死神の鎌を連想させた。
ガンっと音をたてて神速を超える。世界はモノクロから色を取り戻し、神域と呼ばれた音速の世界へ突入する。
それでも僅かに大怨霊の動きは遅くなっただけで、彼女は死神の鎌を振り下ろす。
あらゆるものを破壊する鉄槌。横薙ぎ振るわれた黒尾が恭也へと迫る。
己に振り下ろされる死を冷静に見つめ―――そして、世界を入れ替える。
その世界に音は無く。その世界に恭也以外に動くものは無し。
格が違う速度ではなく、桁が違う速度でもなく、次元が違う速度でも無く、ただ互いの【世界】が異なっていた。
横薙ぎの尾を駆け上り、狙いはただ一つ。闇狐の胸に輝く、宝石のみ。
切り落とし、袈裟斬り、逆袈裟斬り、右薙ぎ、左薙ぎ、右切り上げ、左切り上げ。ただひたすらに小太刀が迸る。
無限に続く刃が靄を切り刻み、破壊していく。小太刀が舞うたびに、黒の欠片が飛び散っていく。
頭に響く気が遠くなる鈍痛。四肢にへばりつく疲労。骨が軋みをあげるが、恭也の手は止まらない。
彼の膂力、瞬発力、それら全てを限界以上に引き出し、引き絞り、必殺の刃を振るい続ける。
その刃は凄まじい。我武者羅に見えるその剣閃は、全てが極限にまで研ぎ澄まされていた。
刃の軌道。刃の軌跡。刃の角度。刃の速度。刃の威力。
小太刀が宝石へと叩き込まれる一撃一撃を構成する全てが、美しく、残酷なまでに洗練されている。
御神流正統奥義―――鳴神。
反撃も、防御も、回避さえも許さない。
絶対絶殺の極地の斬術奥義。その剣撃の前で生き残るすべはなし。
無言の世界で振るう太刀は何十何百と繰り広げられ、大怨霊の絶対防御を潜り抜けた。
恭也の眼前、不気味に輝く宝石を守るはあと薄皮一枚の闇の膜のみ。後数度の斬撃で、それを削り取ることが可能となった。もはやその世界に身を置くことは、限界に近い。それでも、後一歩で到達できる。御神の極地へと、最後の一歩を歩み出だすことが出来るのだ。
そして、左右の小太刀を振るい―――。
パキィリ。
金属が悲鳴をあげた。
振り切った恭也の両手に残されたのは―――半ばから折れた己が愛刀八景。
半ばから先の刀身が、キラキラと飛び散り、地面に落ちる。
数多の死線を潜り抜けた相棒の最後に呆然と、恭也はそれの行く末を追っていた。
そしてそれは同時にこの戦いで初めてとなる、あまりにも致命的な隙となったのは当然の結果だった。
闇狐の前足が振り上げられ、呆然としている恭也に叩きつけられる。
はっと気づくもその反応は遅すぎて、辛うじて半ばから折れた八影を迫ってきていた前足に繰り出した。
ぞぶんっと奇妙な手応え。だが、大怨霊の前足は止まらない。そのまま恭也の身体を地面へと弾き飛ばす。何かがひしゃげる音が響く。背中が地面にぶつかり、呼吸が止まる。ごぼりと血が一瞬で喉元を通り過ぎ、口から吹き出す。
それだけで済む筈も無く、地面に叩きつけられた反動でボールのように跳ね上げられ、後方へと転がっていった。
満身創痍の身体となった恭也が片膝を付きながらも、眼だけは死んではいなかった。
もはや力もない。体力もない。武器もない。あるのは気力のみ。
どうしようもない絶望の中、それでも恭也は立ち上がる。半ばから折れた八景を構え、己へと追撃を仕掛けてくる大怨霊の巨躯を睨みつけた。
最後まで諦めないその姿に、やはりお前こそが御神恭也だと心の中で叫びながら、大怨霊は最後の一手となる尾を薙ぎ払った。これで終わりだと。これが余とお主との決着なのだと。
対する恭也は何故そうしようと思ったのか自分でも理解できなかった。
強いて言うならば本能。予感。第六感。それに聞こえたからだ彼女の声が。確かに耳に届いたのだ。彼女の魂の叫びが。
折れた八景を握っていた手を離す。当然重力に負けて愛刀は落ちていく。折れたとはいえ武器を捨ててどうするというのか。それを見ていた大怨霊に呼び起こされる迷い。猜疑心。
それは全てが【もし】で構成されていた。
もしも、後一瞬恭也が八景を手放すのが遅かったならば。もしも、後一瞬恭也が左手を【そこ】に持っていくのが遅かったならば。もしも、後一瞬恭也が空中で手を握り締めるのが遅かったならば。もしも、後一瞬【彼女】が投擲するのが遅かったならば。
戦いの決着は―――全てが真逆になっていただろう。
恭也の左手が【何か】を掴む。空中で、何も無かったはずの空間で確かに掴んだ。
左手から伝わってくるのは冷たい感覚。しかし、それ以上に伝わってくる彼女の想い。彼女の心。彼女の気力。彼女の魂。
シャリンっと空に散じた高らかな金属音。恭也の左手に輝くは、霊刀渚。
「いっけぇぇえええええええええ!!恭也君!!」
「―――承知!!」
限界だったはずの身体に力がみなぎる。
普段以上の力が蘇ってきた。たった一瞬のためでいい。次の交差に全てを込めて。
意識が限界をあっさりと乗り越えた。神域をさらに超越し、無言の世界へと三度恭也を引き入れる。
渚を両手で握り締め、無言の世界で恭也が光の一矢となって放つは、己の速度と大怨霊の突撃を利用したカウンターともいえる一撃。身体ごと叩き付ける一突。
いや、一撃では終わらない。瞬間的に幾度も幾十も叩きつけられる超速の連突。
それは鳴神の斬撃にも匹敵する、瞬間刺殺。
御神流正統奥義―――鳴神・連。
斬術ではなく、それに匹敵する突きの連撃。
無数に突き繰り広げた、渚が圧倒的な勢いで闇の靄を削り、破壊していく。
恭也一人だけの力ではない。渚に込められた霊力が、楓の想いが恭也の限界を超えさせた。
遂には渚は靄を突きぬけ、無数の刺突が宝石へと降り注ぎ、ピシリと音をたてた。
そして―――。
宝石が光を発する。まるで負けを認めたかのように、闇色の光が周囲に溶けて消えてゆく。
僅かに入ったヒビが、次々に広がっていき、恭也の視界を覆いつくす。
その光に眼を細くしながら、限界を超えた恭也は地面へと着地する。
息を激しく乱しながら、前方の闇色の光を黙って見つめていた。
渦巻く黒い気配が霧散する。荒れ果て、木々が薙ぎ倒され、更地となったその広大な地。
数瞬前まで世界に闇が広がっていたというのに、今ではどこか清浄な空気が満ち溢れている。
あれだけの悪意の結晶が、跡形なく、消え失せていた。
さぁっと静かな風が砂塵を運ぶ。
視界が揺れ、手に握力も残っておらず渚を握るのも一苦労の状態。
そんな恭也の眼前に、【彼女】はいた。
闇狐へと変化する前の、人の姿を保っていた時の大怨霊が悠然と立っている。
以前と違うところといえば、両胸の合間にはめられていた宝石が無くなっているという事。それに、彼女が纏っていた地獄を思わせる悪意も消えていた。
「―――ふむ。此度も、余の負けか」
ふっと大怨霊は笑った。
そこには敗北したという悔しさも、恨みも無かった。ああ、また負けたのか―――本当にそんな気持ちしかそこには込められていないようだ。
「人の形でも及ばず。余の本来の姿でも及ばず。結局余ではお主に及ばなかった」
天に瞬く星々を見上げ、深く息をつく。
「―――悪意と憎悪と殺意に塗れた余ではあったが、満足のいく結果であったぞ」
その時、揺れる恭也の視界で、ぼろりとなにかが崩れ落ちた。
眼を凝らしてみれば、それは大怨霊の右手。指先から少しずつ、白い灰となって朽ちてゆく。
「やれやれ。幾ら無理矢理にこの世に留まっていたとはいえ―――こうも早く消え去らねばならぬとは」
右手は既に根元までが灰となってきえていた。それと同じく左手も白く染まり、風が吹いただけで、ぼろりと消失した。
ざっと踵を返し、恭也に背を向ける。まるで最後の姿を見せたくないような、そんな様子だ。
そして―――。
「―――楽しかったぞ、御神恭也よ」
それは大怨霊が初めて見せた邪気のない笑顔。子供のように嬉しそうに、彼女は笑った。
一際強い突風が吹き、恭也の視界を砂埃が塞ぐ。
その砂埃がおさまった後―――恭也の視界には何も残されていなかった。
まるで最初からなにもいなかったように。何も無かったように。
ただ、これまで起きたことが夢ではないのを証明するのは、更地となった八束神社の跡地。
そして、真っ二つに砕き折られた八景の残骸。
―――兎に角、もう限界、だ。
口に出すのも億劫な恭也の手から渚が落ちる。カランと音をたてて地面に転がった。
ふらりと身体が揺れる。真後ろに倒れそうになった恭也だったが、何時までたっても衝撃は来ない。
かわりに背中に感じるのは柔らかな二つの感触と、甘い香り。
顔を僅かに横向けて見れば、視界に映ったのは泣きそうになっている楓の顔。
倒れかけた恭也を慌てて楓が支えていたのだ。
だが、恭也の体重が考えていたよりも重かったのか、彼を支えきれずに二人して地面に転がった。
どさりと二人は倒れながら夜空を見上げる。
一瞬このままでもいいかなと思った楓だったがそういうわけにもいかず、自分を潰している恭也から這い出した。
「お疲れ様、恭也君」
「―――いえ。最後に楓さんの助力が無かったら、俺の負けでした」
「恭也君以外だったらあそこまで追い込めれんかったよ」
「久々に死ぬ気で、戦いました」
「それで何とかなるんやから本当にたいしたもんや」
楓は地面に正座をすると、仰向けに倒れている恭也の頭を膝に乗せる。
一般的に膝枕というものだ。普段だったら恥ずかしくて即座に逃げ出したろうが、もはや逃げ出す体力も残っていない。
意識もはっきりしない。頭がぼーっとしてくる。全身を襲う気だるさ。右肩にはしる激痛。肋骨やその他の骨も何本かいってしまっているようだ。
「膝枕とか、少しはずかしいんです、けど?」
「どうせ誰も見てないから大丈夫。それに、一杯頑張ったんや。これくらいの役得はないと可哀相やろ?」
「―――そんなもん、ですかね」
「ああ。そんなもんや」
砂と血に塗れた恭也の髪を梳く様に撫でる。
改めて恭也の全身を見た楓は眉を顰める。全身まさにボロボロで、よく最後まで戦えたと思う。
まさか本当に大怨霊を単騎で倒すとは―――なんという剣士なのだろうか。
剣士として嫉妬すると同時に、尊敬する。そしてこの戦いを見届けることが出来た自分を少しだけ誇りに思える。
何度も何度も楓は恭也の頭を撫でる。恭也はといえば流石にこの歳になってから頭を撫でられたことも無いので、意識が朦朧としながらも、羞恥心を感じた。
その時―――恭也の視界に白いモノが映った。
夜空から無数に白いモノが落ちてくる。何かと思えば、純白の雪。海鳴にとって今年初めてとなる雪だった。
パラパラと、夜を彩る雪が降り注いでくる。それがとてつもなく二人には綺麗に感じられた。
「―――ああ、そうか」
混濁していく意識。
恭也は、ついに限界を迎え目を閉じた。
そんな恭也の意識が闇に落ちるその瞬間―――。
「メリークリスマス、恭也君」
十二月二十五日午前零時。
楓の祝いの声を聞きながら、恭也は意識を手放した。
-------------えぴろーぐ------------------
高町恭也入院の急報を聞き、驚いたのが高町家の面々だ。
クリスマスイヴにも関わらず鍛錬をするために家を出たのはまだいい。そういったストイックな姿も高町恭也という人間なのだと家族誰もが知っているのだから。
だが、まさか鍛錬に出て重傷になって病院に担ぎ込まれるのはどういうことだと、高町家の大黒柱である桃子に酷く長時間怒られてしまった。
勿論、意識が戻るまでは泣きそうに心配をし、意識が戻ってからは実際に泣きつき―――そして、そこからの説教になったのは言うまでもないが。
医者が言うには相当に酷い怪我だったらしい。
それも仕方ないと一人納得しているのは恭也ただ一人だ。
一体どれだけの身体の酷使を行ったのか、当の本人でもある恭也でさえもはっきりと覚えていない。
神速は数え切れないほど。神域は辛うじて両手の指で足りるくらいだろう。そして奥の手無言は三度。如何に恭也といえど、それだけ乱用すれば肉体が限界を迎えるのは明白だ。
クリスマスパーティーは急遽キャンセルとなり、桃子とフィアッセは仕事がどうしても外せないため、入院している恭也に付きっ切りというわけにも行かない。美由希や晶、レンが至れり尽くせりで恭也の身の回りの世話をしてくれている。
トイレだけは気合でしにいっている姿を見て、医者や看護師は目を丸くしていた。暫く歩くことはできないと考えていた彼らの想像を遥かに超えた回復力―――いや、既に再生力。
恭也としても、意識が無い時ならば兎も角、しっかり起きている状況で妹分達に見られるくらいならば死を選ぶ。それほどの覚悟を持って、行動していた。
ちなみにここ―――海鳴大学病院に入院しているのは恭也だけではなく、那美もお世話になっている。
病室は違うが、奇遇にも同じ階の部屋だったため、恭也を見舞いに来た人がそのまま那美の病室へ行き、那美を見舞いに来た人がそのまま恭也の病室に来る。そんな流れが出来上がっていた。
見舞いに来た薫曰く、那美のほうがよっぽど軽症だったらしい。
一週間もすれば退院できるとか。恭也は暫く病室に缶詰となる己のことを考えて深くため息をついた。
本日二十五日のクリスマスの夜。何を血迷ったか病室でクリスマスパーティーをやろうと騒ぎ立てた美由希やレンと晶は、看護師の手によって追い出され、面会禁止にされてしまったことにはため息をつくしかない。
だが、三人とも相変わらず只者ではなく、晶とレンは看護師の目を上手く逃れ見舞いに来てくれていた。
美由希だけは何故か見つかって追い出されてしまっていたのが不思議でならない。退院したらより一層厳しくせねなるまいと決心した恭也だった。
神咲三流の三人が気を使い、恭也は個室を与えられていた。
おかげで他の人の目を気にすることなく、過ごすことができるのは非常に有り難い。
窓から差し込んでくる夕陽が、徐々に色を変えていく。たいした時間をおかずに、病室に差し込む光は無くなり夜の世界となった。
幾ら身体中が痛むとはいえ、やることがないのは非常に辛い。普段鍛錬ばかりして生活している弊害か、こういうときでも頭に浮かぶのは鍛錬のことだけだ。
ちらりと視線をテーブルの上に向ければ、そこには山のように積み上げられた漫画本。時代小説。ゲーム機。
それぞれ晶やレン、なのは、美由希が各々で時間つぶし用に持ってきた見舞いの品だ。
生憎と恭也の興味をひくものはどれもなかったが、一応は見舞いとして持ってきてくれたものだ。今度来た時に感想を求められても困るので、それなりに手をつけなければならないだろうと気が重くなった。
ベッドに横たわりながら天井を見上げている恭也は、真っ白に塗られている天井の染みでも数えようとも思ったが、塗り替えられたばかりなのか染み一つないことによって諦める。
カッチカッチと時計の針が進む音が聞こえた。普段だったならば全く気にならないのだが、こうも静かな病室だとやけに時計の音が響き渡る。
全く眠くは無いのだが、身体を回復させるためにも睡眠は大切だ。
瞼を閉じて、眠りの世界へ旅立とうとする恭也を邪魔するように、ガラっと窓が開く音が聞こえる。
見知った気配を感じた恭也は、ふぅっとため息をつき口を開く。
「珍しいですね。八束神社以外で会うなんて」
「―――あそこで待っていても剣士殿には当分会えそうにないのでな」
感じていた気配を肯定するように、女性の声が静かな病室に囁かれた。
瞼を開き、窓がある方向に視線をやると、そこにはどうやってか窓ガラスを開け、腰を下ろしているざからの姿がある。
夜だというのに激しい自己主張を放つ金色の着物が美しい。両足を組み、どこか呆れた表情でベッドに横たわっている恭也を見下ろしていた。
「わざわざ病院まで来るとは、何か御用でしたか?」
「いや、なに。この地を救った剣士殿を見舞いにきただけだ。我も他の人間―――特に神咲の小娘とはあまり顔を合わせたくはないのでな」
「そういえば、薫さんと顔見知りのご様子でしたが」
「数年も昔に一度だけ顔を合わせただけの相手だ。特に深い知り合いというわけでもないぞ」
「そうでしたか。ああ―――そういえば、貴女を呼ぶときはどちらの名前が宜しいのでしょうか?」
「好きに呼ぶと良い。だが、もはや隠す必要もないか。我のことはざからと呼んで貰いたい」
ざから、と恭也は口の中で呟いた。
その名前は聞いた事がある。エルフと世間話をしていた時、話題になった怪物の名前だ。
数百年も昔にこの地に封印されたという魔獣の王。確かその怪物の名がざからといったはずだ。
恭也が見た限り、どう見ても魔獣には見えないが、先日の大怨霊の例もある。突然巨大化して怪獣になったとしても、不思議ではあるまい。
「しかし、そなたには驚かされてばかりだ。まさかあの大怨霊を打ち破るとは……」
「おかげでこの様ではありますが」
「その程度ですませれたのが、また信じられんことだ。剣士殿が勝てぬと踏んで、封印を解除しに帰った我は恥ずかしいことこのうえない」
「あの状況で俺が勝つと予想するのは不可能ですし。ざからさんがそういった行動を取ったのも無理はないことかと」
ぷらぷらと宙ぶらりとなっている足を前後に動かしながら、ざからは頬を人差し指でかく。
「それにしても、剣士殿。少しは落ちこんでいるかと思って元気付けにきてみたが、相変わらずのようで少々残念だ」
「何故俺が落ち込んでいると?」
「アレは言ってしまえばそなたの同胞だろう?なぁ―――今代の大怨霊の依り代よ」
ピシリと病室の空気が凍ったのは一瞬だった。
その発生源である恭也が、ふぅっと息をつくのと同時に病室の空気が元に戻る。
「よくそのことがわかりましたね」
「わからいでか。大怨霊とそなたの気配。空気。殺意。それら全てが似通っておる。よくよく考えてみれば、三百年前の大怨霊は倒されたのではない。【封印】されておった」
大怨霊とは数百年分の日本で起きた悪意の結晶。
それらが長年かけて大怨霊という怨霊の元を創り上げる。三百年前、神咲の一族によって祟り狐は封印をされた。
ならば、悪意を喰らい続ける大怨霊の元がなくなったならばどうなるか。答えは新たな大怨霊の元となるものが再び悪意を喰らい続けることになるだけだ。
三百年分の悪意を喰らい続けた今代の大怨霊の元。それが恭也の中にいる。
そういった意味では恭也と大怨霊。それはこの世界でただ二人だけの同胞だった。
「しかし信じられないことに、剣士殿は確かに己という個を持っている。よくぞあれだけの悪意をその身に宿しながら正気を保っていられるものだ」
「まぁ、それは少々裏技といいますか。御神琴絵さんという方のおかげです。俺一人ではあの時悪意に飲み込まれていたでしょう」
胸に手をあてて恭也はあの時のことを思い出す。
十余年昔。御神と不破の一族最後の日。あの時に視界に広がっていた地獄は未だ脳裏に強く刻まれている。
あの時ほど人を憎んだことはない。あの時ほど悪意に塗れたことはない。その時の負の感情が大怨霊という悪霊を呼び寄せてしまった。この悪意に塗れた殺意の元凶とも、もう十年以上もの付き合いなのだ。
もっともあの時に受け入れた怨霊が、大怨霊と呼ばれる悪霊だったということに気がついたのはつい最近だったということに、意外と自分は鈍いのかもしれないと思う。
「まぁ、【それ】がそなたの中にあり続ける限り、今代の大怨霊の復活はなさそうで安心したぞ」
「大怨霊の恐ろしさは身に染みましたからね。復活はさせないように全力を尽くします」
「その意気だぞ、剣士殿。さて、怪我人にあまり無理をさせるものでもないし、我はここらで失礼しよう」
「―――お見舞い有難うございました」
「ふふ。どうせ暫くはここにるのだろう?また来よう」
ざからは相変わらずの艶かしい流し目を残して窓から飛び降りる。
後に残されたのは開きっぱなしの窓だけだ。どうせなら閉めていって欲しかったと内心で思いながら、必死にベッドから立ち上がり窓を閉める。
窓の外には、豆粒のように車が見える。この病室は五階という高さにあるのだが、一体どうやって侵入してきたのか少し不思議だった。
壊れた機械のように、ゆっくりと動きながらベッドに戻り、布団をかぶる。
瞼をつぶれば、ざからが訪ねてくる前とは逆にあっさりと眠気が襲ってきた。羊の数を数える間もなく、眠りの世界へ誘われていく。
高町恭也高校三年のクリスマスはこうして病院で一人寂しく終わりを告げることになった―――。
―――翌日。
朝昼は桃子とフィアッセが交互に世話をしにきたまでは恭也にとってはよかった。
夕方以降には美由希達もくるというので、テーブルに積まれたお土産をなんとか消化しようと、とりあえず少女漫画を手にとって眼を通す。
そんなときにコンコンと扉がノックされる。外の気配には感じ覚えがあった。
どうぞ、と入室を促すと、病室に入ってきたのは予想通りの人物神咲楓だ。
八束神社で見たときとは異なり、式服ではなく通常の服装だ。確かに、病院にまでそんな服をきてくる理由もないのは当たり前だ。流石に病院までくるのは寒かったのか、厚手のコートを着ている。
「やぁ、恭也君。調子はどう?」
「おかげさまで。出切れば今日にでも退院したいくらいですが」
「それは幾らなんでも無茶や―――と思ったけど、恭也君ならいけるかもしれへん」
「自分で言っといて何ですが、それは無理です」
楓はくすっと笑うと、ベッドまで近寄っていき、備え付けの椅子に腰を下ろす。
立ち上がろうとする恭也だったが、そんな彼を手で押しとどめた。彼女の視線が、テーブルの上のお見舞いの果物詰め合わせセットを捉えると、きらっと瞳が輝いた。
「良かったら、果物でも剥こうか?」
「あー。そうですね、お願いできますか」
楓の質問に、自分の喉が乾いていることに気づく。
果物なら丁度喉を潤すことが出来るだろうと判断した恭也は、楓の申し入れを受け入れた。
何故か嬉しそうに楓は林檎を一つ手に取ると、すぐ傍に置いてあった果物ナイフで器用に皮を剥き始める。あっという間に皮を剥き、幾つかに切り分けた林檎の一欠けらを爪楊枝で刺すと、恭也の口に運んでいく。
「あの―――自分で食べれますので」
「いいから。いいから」
別に手が動かせないわけではないので一端断るのだが、楓は林檎を下げる気はないようだ。
諦めて口を開こうとする恭也だったが、タイミング良くか悪くか、再度ドアがノックされる。
「どうぞ」
気のせいだったかもしれないが、楓から舌打ちが聞こえた。
林檎を刺した爪楊枝を楓が手元に戻したのと同時に、病室に入ってきたのは葉弓だ。何時ぞやに見た清楚な白いコートが、真っ白な病室と同色だった。
先に病室にいた楓に多少驚いたのか、一瞬足が止まるもその後は躊躇いなくベッドに近づき備え付けの椅子に腰を下ろす。
「昨日はバタバタしてご挨拶が満足にできなくてごめんなさい、恭也さん」
「いえ。来ていただいただけでも有り難い話です。那美さんの具合は如何ですか?」
「お蔭様で元気にしています。もう一人で歩くことが出来ますし。多分後で那美ちゃんも挨拶に来ると思います」
「あまり無茶はしないほうが良いかと思いますが。出歩けるならばそれは良かったです」
どうやら昨日話に聞いたとおり、那美の怪我は回復に向かいつつある様だ。
安堵するのと同時に、葉弓の視線がチラリと移動し、楓の手元の皿にのっている切られた林檎を見つけた。
「あら。恭也さん果物を召し上がられるところでしたか?」
「ええ、はい。楓さんが剥いて頂けまして」
「そうですか。でも―――林檎よりも梨のほうが美味しいと思いませんか?」
「え?は、はぁ……」
にこにこと笑顔の葉弓が梨をテキパキと剥く。
普段ならば癒される笑顔なのだが―――何故かこの時は薄ら寒いモノを感じた。
葉弓も梨を爪楊枝で刺すと、それを恭也の口に運んでくるのだが―――。
ガシっとそれをとめた人物がいた。
というか、止める人物というのは楓一人しかいない。
「幾ら葉弓さんでも、それはないとうちは思います」
「そう?楓ちゃんも、抜け駆けは駄目だと思うの」
楓が林檎を刺した爪楊枝を伸ばした瞬間、それを葉弓が止める。
互いが互いの手の半ばを掴み、何やら骨が軋む音が聞こえた。さらには病室に膨れ上がる霊力。
純白の気配が室内に溢れ、パリっと電球が音をたてた。
電球だけではなく、座っている椅子がミシミシと悲鳴をあげる。
これはまずいと頬を引き攣らせた恭也が止めようとした瞬間、三度ドアがノックされた。
「ごめん、恭也君。もしかして葉弓さんと楓が来て―――」
ガラっと扉を開いて現れたのは神咲薫だ。しかし、室内の状況を見た途端、微妙に達観した表情になり、そのままドアを閉じて消えた。
「―――薫さん、逃げないでください!!」
恭也の声が聞こえなかったわけではないだろうが、あっという間に遠ざかっていく薫の気配。
ああ、無情。はぁっと深く疲れた恭也は、今度こそ二人を止めようとして―――。
パタパタと床を走る音が聞こえる。看護師から病院では走らないのと叱られる声も遠くから聞こえた。
そして、恭也の病室の扉がノックされるよりも早く、ガラっと四度ドアが開かれる。
「―――きょう、や!!」
だだっと駆けながら室内に飛び込んできたのは、子供形態の久遠だった。
流石に病院では動物禁止のためだろう。人間形態で那美のお見舞いにきていたのだ。狐耳と尻尾、巫女服姿とあいまって、非常に可愛らしいと看護師には実は評判が良かった。
骨を軋ませている二人の間をすり抜けて、久遠がベッドの恭也へとダイブ。
ドンっと胸に飛び込んできた久遠を受け止めて―――。
「―――っ!?」
肋骨が何本かいってしまっている恭也は悶絶した。
あまりに激痛が走りすぎて、意識が飛ぶどころか、逆にクリアになってくる。
「きょう、や!?きょうや!?」
「きょ、恭也くん!?」
「大丈夫ですか、恭也さん!!」
病室に轟くのは三人の悲鳴。
昨日のように一人寂しく過ごすというのも、決して悪くはなかったと歯を食いしばりながら、目の前の久遠を見つつも、そんなふうな感想を抱く恭也だった。
人外魔境海鳴。本日も平穏―――ただし一部嵐也。
時間は少し巻き戻り、二十五日の午前。。
八束神社の階段をのぼる一人の中年の男性がいた。
神職だと一目で判る姿の、八束神社の神主を務める男だ。彼の仕事も落ち着き、そんな時ふと思い出したことが一つあった。以前賽銭箱に入っていた宝石を、警察に届けねばならないということだ。
そんなわけで神主は八束神社へと至る階段をのぼっていき―――神社の境内へと辿り着いた所で固まった。
ゴシゴシと眼をこすってみるが、彼の視界に広がっている光景は変化しない。
鳥居は薙ぎ倒され、神社は九割消し飛び、森の木々も圧し折られている。広大な更地。
おかしい。こんなはずがない。先日まで確かにここには神社があったのだ。
しかし、幾ら見てもそれは事実でしかなく―――。
「なんじゃこりゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
神主の魂の雄叫びがあがった。
八束神社壊滅の日。海鳴では毎年クリスマスは何時しかそう呼ばれることになったという。
------------atogaki-------------------
那美ルート?
いいえ、神咲ルートでした。神咲三流が多少活躍した分那美が割を食う形になってしまいました。
そして後半は怪獣大決戦。もはやラスボス級の大怨霊さん。作中でも確かに最強に近い敵です。
でも、酒呑童子には及ばない闇狐さんでした。
次回は間章を2つ多分挟みます。
その後、原作でいうフィアッセルート(龍編)
ついにMISATOさん登場。では、次回お会いいたしましょう。