開発の手が触れられぬまま放置されたような巨大な森の中、ポツンとある家、いや館といったほうがしっくりくる【北斗】の現在の仮の拠点。
そこに殺音は玄関のドアを開けて入ると丁度二階から降りてきていた巨門と鉢合わせた。
完治とはいかないまでも決して浅くない傷を負ったはずなのに昨日の今日で問題なく歩けるようになっているのはやはり夜の一族である。
そんな巨門に向かって影山邸から引きずってきた―――未だ眼を覚まさない廉貞を片手一本で投げつける。
「パス」
「うお!?」
驚きながらも巨門は廉貞を落とすことなく受け止め、受け止めたのがボロボロの廉貞だと気づいてさらに驚く。
仮にも【北斗】の第三座。殺音、冥に続く実力者の廉貞がこれほど追い詰められた所は巨門とて記憶にない。
殺音は黙っているが廉貞の怪我の半分はここまで廉貞を引き摺りながら走っていたためなのだが。
「完璧に気を失ってるから寝かしといて。怪我自体はそんなに重くないから。多分肋骨が数本バキバキにおれて内臓に突き刺さってるくらい」
「……十分重傷だと思いますけど」
「まー、死にはしないわよ。ってことでよろしく」
「は、はぁ……」
納得しきれない様子で巨門もまた、廉貞の足を掴んで引き摺って二階へ連れて行く。哀れ、廉貞。
それと入れ違うように息を乱しながら冥もようやく辿り着いたようで先ほどの文句を言おうと殺音に詰め寄る。
「―――ごめん、冥。後にして」
そう言って殺音は冥の頭を軽く叩くとリビングのソファーに寝転がる。眼をつぶり両手を胸の前で組み、物思いにふける。
冥はそれにタイミングを外されたかのように言葉が喉でつまり、仕方なく殺音の正面のソファーに座って肩の傷口を見る。
もうすでに血は止まっているようで、それを見て安堵のため息を漏らす。それでも完治するにはしばらくかかりそうな様子に今度は失望のため息をつく。
全力を出せるまで一週間ほどかな……とあたりをつけ掌を握る。力は入るがやはり心許ない。
「人の身でたいしたものだよ……高町美由希」
思わず口からでた言葉。冥が送る最大限の賞賛。自然と口元に浮かぶ笑み。
今まで冥は戦いを楽しいと思ったことはない。彼女が剣を振るうのは戦わざるをえない状況、その時だけ。喜んで人を殺したことはない。
自分がどこまで強くなれるのか、それは興味がないといえば嘘になる。でなければ殺音とともに剣術など学ばなかった。
そんな自分が美由希ともっと戦っていたいと思っていたなど……変われば変わるものだね、と傍らに置いてある愛刀をなでる。
その時、二階からギシギシと階段を踏みしめる音が聞こえ冥が視線をやると短い黒髪をオールバックにして固めた神職者の格好をした青年がゆっくりと降りてきていた。
冥の肩が血塗れなのに驚き口を大きく開けてじっとみつめてる。
「武曲、貴方や廉貞ほどの方が手傷を負わされるとは一体何があったというのですか」
「【禄存】か……。相手が文曲達が言っていた以上の人間だっただけだよ」
「申し訳ありませんが俄かには信じられません。ただの人間にここまでしてやられるとは……」
「まぁ、そうかもね。実際自分で立ち会わないとなかなかね、ああ、アレアレ。百聞は一見にしかず、ってやつ。人間っていい言葉を残してるよね」
「ふむ……」
「まぁ、はっきり言って強いね。あそこにいた三人が三人とも。特に恭也とか言ったかな?あの剣士は化け物だね。文曲が脅えるのも無理ない」
「人間です……よね?」
「そうなんだけどね。一体どれだけ研鑽を積めばあんな領域に到達できるのやら」
ブルリと冥は身体を震わせる。人間が高町恭也の域に達するまでどれほどかかるのか。
少なくとも十年や二十年ではきかない。
その程度であれだけの存在になれるのなら今頃は世界中の夜の一族が人間の手によって滅ぼされていただろう。
―――五十年?それとも百年?
なるほど、百年も研鑽をただひたすらに積めば或いはあの領域にまで到達できるかもしれない。
つまりあの剣士は、高町恭也は達人と称される人間達のさらに十倍以上の密度の時間を過ごしているのか。
その予想に辿り着いたときゴクリっと冥の喉が鳴った。なんという化け物か。
だがそれでも、人間が殺音と戦おうと思うにはそれだけの研鑽を積まねば、人の域を外れなければできないのだろう。
「或いは……あの剣士ならば【十界位】ともやりあえるかもしれないね」
「さ、さすがにそれはないでしょう」
意に関せずでた言葉は即座に禄存によって一蹴された。冥も特に反論しようとせず未だ横になっている殺音に視線を移す。
【十界位】(じゅかいい)。それは【呪怪異】とも言われ夜の一族を含めた第三世界に住まうありとあらゆる怪物の頂点に君臨する王を称する。
時には彼らの動きはもうすでに【行動】ではなく【現象】とさえ判断されるのだ。
現在日本を中心として活動している【十界位】は三つ。
夜の一族の中でも強い影響力をもつ【綺堂】。そしてそれに連なる【月村】と【氷村】。
この一族を纏めて【十界位】の第七位として数えられている。
そしてもう一つが五位に数えられている【百鬼夜行】と称される化け物。
強い者と戦うことを至上の喜びとする戦いに狂った戦士。この化け物に滅ぼされた一族は数知れない。もっともここ十数年近くは消息不明となっているが。
三つ目が第九位の【クロ】。
年齢も性別も種族も一切が不明。分かっているのは三年ほど前に日本で前九位を打ち破ってその階位を受け継いだ言われていることだけ。
「そうかもね。少し大げさに言い過ぎたかな」
「そうですよ。治療用具をもってきますので少し待っていてください」
「別にいいから。どうせもう血はとまってるし」
「黴菌とかはいったら危険じゃないですか。そこらへんはキッチリしときましょう」
「はいはい。あんたは几帳面すぎなのよ」
ずぼらなのよりはいいじゃないですか、と残して禄存は再び二階へ上っていった。
それとほぼ同時に突然、殺音が身体を起こす。
「思い出した!小太刀を操る剣術は数少ないけれどある、それでも二刀をあやつる一族がいたのを失念していた!」
「うん?どうしたのさ、殺音?」
「思い出したのよ、キョーヤ達が使う剣術が何なのか」
「な!本当か!?」
ええ、と答えて殺音は唇を舐めて湿らせる。
「その動きは疾風迅雷。その剣技は天衣無縫。現世にて人に逢えば人を斬り、鬼に逢えば鬼を斬る。果ては神さえ斬らんと求め続けた【破神】の【御神】」
「……永全不動八門一派!!」
「そうよ。御神真刀流小太刀二刀術。もう十年以上前に一族郎党滅びたと聞いてたからすぐには思い出せなかったけど」
「成る程。確かにあの恭也なら下手したら神さえも斬れそうだね。神なんか信じてないけど……ね」
夜の一族にさえ警戒された人間達がいた。
一つは【退魔】の【神咲】。
高度な剣術と強大な霊力を併せ持ち悪霊を滅ぼすことだけを四百年という長きに渡って生業としてきた一族。
一つは【乱波】の【御剣】。
日本古来から伝えられている忍術と予測不可能な動きを受け継ぐ一族。
そして【破神】の【御神】。
他にも数あれど夜の一族にとって最も警戒を払うのはこの御三家だった。そう、【だった】。
今から十余年程前、【御神】の一族はとある事情で滅んでしまったのだ、殺音の言ったとおりに。
「まさか御神の末裔と出逢えるなんてね」
「御神か……確かにそれなら恭也と美由希があれ程の剣士だというのも納得できるね」
「それは違う、冥。恭也が強いのは【御神】だからじゃない。キョーヤは【恭也】だから強いのよ?」
あの意思。あの決意。あの剣技。あの錬度。あの気合。
御神だとかそういった枠に収まった強さではない。
高町恭也だからこそ強いのだ。
邂逅したのはわずかな時間。それでも 殺音は恭也の本質を誰よりも掴んでいた。
「冥、他の皆に伝えといて。これから影山咲夜には手出し無用、と。」
「……ボクは別に構わないけど。他の連中が黙って……いるね」
否定しようとして冥は考え直した。よく考えたら巨門も貪狼もすぐに動けるような怪我ではないし文曲に恭也と戦えというのも酷な話。
廉貞も重体、そして自分も軽くはない怪我を負っている。
五体満足なのは禄存と殺音のわずか二人。そして禄存は殺音を神の様に信望しているため言えば当然従うはず。
「まぁ、殺音の好きにすればいいんじゃない?」
投げ槍にそう言うと冥は天を仰いだ。
周囲を満たす陰鬱な雰囲気に先ほどまで曇天だった空からパラパラと小雨が降り始め、それを影山邸の中から見ていた恭也は深いため息をついた。外では警官が嵐山と巻島の二人と話しているのが見える。
警察には顔が利くからといって巻島と嵐山の二人が名乗り出たのだ。そこらへんは恭也たちにはできない人脈の広さを窺える。
それにしても、と恭也は自分の両手を見る。その手はブルブルと微かにだが震えていた。
今まで剣を交えて来た中でもっとも強烈な一撃を放ってきていたのは友人でもある赤星勇吾だったが……殺音は赤星の比ではなかった。
もし殺音の刃筋を逸らさずに受け止めていたらあっさりと小太刀を叩き切られていただろう。それだけの力と剣技。
そんな状況であったために刃筋を逸らせながらの防戦。神経を使い、並みの精神力で続けれることではない。
殺音とのわずか数分にも満たない戦いで恭也の体力と精神力は恐ろしいほどに磨耗していたのだ。
それを美由希に悟られるわけにはいかない。恭也は美由希の前ではそんな無様な姿を見せるわけにはいかないのだ。
「大丈夫か、美由希?」
「う、うん……ちょっと痛いけどね」
「無理をするな、救急車がくるまで横になっていろ」
「ん……ありがと、きょーちゃん」
声をかけられソファーで寝ていた美由希が反射的に起きようとするが手で制し再び横にさせる。その笑顔に力はなく、相当の痛みを我慢しているのだろうと予想される。
そんな美由希を触診した恭也だが、内心安堵する。確かに骨は折れているが後遺症が残るような怪我ではない。
「ごめん……きょーちゃん。あの人、冥って名乗った相手だけど倒せなかった」
「気にするな。あの少女は強い。それは戦ったお前が一番わかっているだろう?」
「うん。強い人だったよ……でも、それでも勝てる相手だったの。【射抜】が決まってそのまま鍛錬どおりに次の攻撃に移っていれば……一撃入れたからって油断しちゃった」
「そうか」
「なんて無様なんだろう、私。きょーちゃんの弟子なのに。高町恭也の弟子なのに……」
「……」
腕で目元を隠し涙声な美由希の頭を恭也はクシャッとなでる。
「悔しいか?」
「―――うん」
「勝ちたいか?」
「―――うん」
「強くなりたいか?」
「―――うん」
「ならばまずは傷を癒せ。俺がお前を更なる高みに連れて行こう。あの少女すら寄せ付けない御神の境地に」
「―――うん!!」
もはや美由希に涙の後はない。あるのは強くなりたいという激しく燃える強い眼差しのみ。後悔はここに置き、すでに美由希の心は比類なき力を求めて歩き出していた。
それに恭也は満足げに頷くと美由希の頭から手を戻す。
「……ぁ」
「ん?どうかしたか?」
「ぅーなんでもないよ」
ゴロリと美由希は恭也に背を向ける。何がなんだか分かっていない恭也だが、元気になったならいいかと口元を緩める。
しかし、と恭也は殺音のことを思いだす。
―――あの女性は強い。だが……。
もし、次の恭也の心の声を冥あたりが聞いておたら言葉をなくしていただろう。それとも何を馬鹿なと鼻で笑ったか。
―――あの【程度】なら勝てる。
コキリと震えがとまった腕を鳴らす。
恭也を遥かに上回るパワー。恭也を遥かに上回るスピード。客観的に見たら恭也に勝てる要素など無い。それでも、それでもなのだ。
それでも、恭也は殺音に勝てると確信していた。
それは慢心ではなく、膨大な鍛錬によって生み出された自信。
恭也は自分を過大評価も過小評価もしていない。先ほどの戦いでの殺音を見て、冷静に判断した結果がソレだったのだ。
勿論、殺音が全力だったという保障はない。それに恭也自身、まだ奥の手を隠し持っているのだ。殺音も奥の手を隠し持っていないとは言い切れない。
それを考えても恭也は負ける気がしなかった。
その自信は【破神】と称された御神の奥義。御神の最奥を覗いた者だけが到達できる絶対領域。神さえ堕とす【破神】之壱【神速】。
今まで【神速】を実戦で使ったことは数えるほど。御神を御神たらしめている奥義中の奥義を敵に見せるわけにはいかない。使うときは確実に相手を死に至らしめるときのみ。
その実戦の中で【神速】に反応できたのは同じ御神の剣士である叔母の【御神美沙斗】のみ。もしかしたら殺音なら【神速】にすら反応するかもしれないと心のどこかで期待する。
その時はその時で面白くなりそうだ、と見たものを恐怖させるかのような笑みを一瞬うかべた恭也だったが、すぐにそれを消す。警察との話が終わったのか巻島と嵐山が恭也の方に近づいてきたからだ。
「お疲れ様です。館長、嵐山さん」
「ああ、ありがとう。恭也くん」」
「ったくよー、警察ってのはなんであーもキッチリしてんのかね」
「警官の方々も職務ですし仕方ないですよ」
「かーやだねやだね。これだからくそ真面目なやつは」
巻島は空いてるソファーに音をたてて座り込む。
「ああ、それと館長。救急車がきたら美由希と一緒に病院へ行ってください」
「ああん?なんで俺が病院なんか行かないといけねーんだ」
「それは自分の身体に聞いてください」
そう言って恭也は巻島の腹部を軽く押すと巻島はあまりの激痛で反射的に丸くなる。それに呆れたような視線を向ける恭也。
「美由希以上の大怪我をしているのになんでそんな平然としてたんですか」
「ぐ……きょ、恭也……てめー……いい度胸してるじゃねえか」
「残念ですが今の館長に凄まれても全く怖くはありません。大事になるまえに医者にかかってくださいよ」
「くそ……完治したらぜってー泣かしてやる……」
「その時はいつでもお相手しますよ」
激痛と悔しさで歯軋りをする巻島に対して恭也は飄々と受け流す。巻島はよほどの重傷なのかソファーから動こうとしない、いや動けないのかもしれないが。
「ああ、恭也くん。今日から警察が咲夜さんの警護をしてくれることになったよ」
「それはあり難いですね」
「そうだね。正直、巻島と美由希さんがこれほどの怪我をさせられた相手に不安はあるが……」
「多分大丈夫でしょう。日本の警察は優秀ですし」
「恭也くんがいなかったらと思うとゾッとするけどね」
嵐山は警官には聞こえないような声で言って苦笑する。恭也は殺音と交わした約束を咲夜と嵐山には伝えていない。
散々命を狙ってきた相手が、恭也ともう一度戦うことを約束すれば依頼を破棄すると約束した、などと言っても到底信じられないことだと恭也自信考えたからだ。
恭也のことは信頼されているだろうが、暗殺者のことなど信頼されるはずがない。恭也自身、それを信じて影山邸から離れた途端襲撃されたなどという状況になったら笑い話にもならない。
もっとも恭也は殺音の言ったことに嘘はないだろう、とふんでいたが。あっちから連絡を取りやすいように影山邸に滞在しようという考えも少しだけあった。
恭也がわずかに考え込んでいる間に救急車が独特の音を鳴らしながら近づいてきてようやく影山邸に到着した。
救急隊員が複数人、担架を持って恭也達の方にやってくる。恭也は美由希のことを宜しくお願いします、と伝えると担架で運ばれていった。
巻島だけは担架なんかにのってられるか!と大騒ぎして救急車に乗り込んでいったが……。
そんな二人を乗せた救急車が出発したのを見送った後、恭也は携帯電話をとりだす。
「すみません、嵐山さん。実家に少し連絡を入れておきますので少し席を外します」
「ああ、わかったよ」
「では失礼します」
恭也は一礼すると部屋から出ると人気が無い庭の隅っこまで移動すると母が経営する―――洋風喫茶翠屋の電話番号を押す。
『いつも有難うございます♪翠屋店長の高町が承りまーす♪』
「……その猫なで声はやめてくれ、高町母」
『って、あれ?恭也?こんな時間に電話してくるなんて何かあったの?』
「いや、どうやら少し長引きそうなのでそのことを連絡しておこうと思ってな」
『あーそうなんだ。ほんと、身体だけは大切にねー』
「ああ、それと美由希なんだがそちらの海鳴大学附属病院に入院することになると思う。着替え等持っていってくれ」
『ええ!?美由希が入院って大丈夫なの!?』
「ああ。後遺症が残るとかそういった類のモノではない」
『そう……それならよかったんだけど』
「フィリス先生にも宜しく伝えておいてほしい」
『はーい。恭也もあんまり無理しちゃ駄目だからね!』
「……努力しよう」
『忙しいから切るわねー。また電話して頂戴』
「ああ、かーさんも頑張れ」
電話をきり、桃子の元気そうな声に安堵した恭也は空を見上げる。通り雨だったのかすでに小雨は降り止んでいた。
七月 三十日 05:25
『北斗』の二度に渡る襲撃から三日がたった。殺音が交わした約束通りなのか、あれから一度も『北斗』による襲撃はない。
もっともあちらの態勢が整っていないだけかもしれないが、と恭也本人全く信じていないことを考えて腕を振るった。
カンという金属音が鳴り恭也の十メートルほど先にあったジュースのスチール缶らしきものが空中に跳ね上がった。二度三度と手を振るう。
その度に金属音を鳴らして缶は空へ空へ舞い上がっていく。これで仕舞いだ、と言わんばかりに恭也は手を振り下ろす。
耳障りな音が木霊して缶は床に頼りなさ気に落ちた。その缶には、針のような鋭く小さな刃物が数本突き刺さっている。恭也はその缶を拾うとまじまじと見つめる。
飛針……と呼ばれる御神流で扱う小太刀以外の武器の一つ。小さいとはいえ使いようによっては人の命すら奪うことができる武器。
「まぁまぁか」
一寸の狂いも無く自分の狙ったとおりに命中させておきながら、まぁまぁとするほどに恭也は己に厳しい。
家の外は警官が見回っているため恭也は中の警備担当になっているためどうしても家の中でできる鍛錬が中心になってしまう。
それを多少不満に思わないでもないができる鍛錬は全て行っている、刀は振ってはいるがやはり美由希との打ち合いがないとどうもしっくりこないとも感じていた。
恭也は腰をおとして居合いの構えをとるとゆっくりと呼吸を整えていく。ゆっくりと吸って吸いきったところで再びゆっくりと吐く。十秒に一度ほどの呼吸。
その呼吸に連動するように恭也の心も凪いだ海面のように静まっている。
瞬時に抜刀して一薙。銀の軌跡を残して納刀。
そして一息。もしこの部屋に見物人がいたならそのあまりに見事な抜刀術に誰であろうと無意識に拍手をしていただろう。もっとも恭也の小太刀の軌道を眼で追えていたら、の条件がつくが。
それほど見事な抜刀。例え美由希であったとしても今のを防げたかどうか……。
今の一太刀で現在の自分の状態を判断できたのか恭也は構えを解く。
「見てても面白いものではありませんよ」
「……ぁ」
恭也の独り言ともとれる言葉に反応したのはいつのまにか部屋のドアを開けて覗いていた……影山咲夜であった。
「ご、ごめんなさい!」
反射的にだろうが……咲夜は頭を下げて謝る。覗き見していたことに罪悪感を感じているのだろう。恭也は首を横に振って答える。
「いいえ。先ほどから見ていたのは気づいていましたから」
「ぇ……そうなんですか?」
「ええ。コレでも剣士の端くれですからね、気配には敏感なんですよ」
「凄いですね……気配とか。御祖父様もおっしゃられてたのですが私にはさっぱりで」
「影山さんは何かされてるのですか?」
「それが……私はそちらの方面は才能がまるでなかったようで。御祖父様にも呆れられたくらいで」
「そうだったのですか」
緊張気味に話していた咲夜も話しているうちに緊張が解けたのか少しずつ自然な笑顔になっていった。対する恭也はなんというか、相変わらずの仏頂面だが。
別に女性が苦手というわけではないがこれだけはどんなときでも変わらない、というかもはや変えられないというべきか。
「それにしても恭也さんって強いんですね。まだお若いのに。失礼ですけどお幾つなんですか?」
「今年で二十になります。一年留年していたので大学一年ですかね」
「……え?ええっと……あの、すみません。二十歳と聞こえたのですが……聞き間違いでしょうか?」
「あってますよ」
「そ。そうなんですか」
咲夜は若干ひきつり気味である。それも無理は無い。大人びた容姿に寡黙な雰囲気、そして祖父でもあり世間一般では【五指拳】に数えられ最高の空手家として知られていた影山竜蔵すらも上回る実力。
この三つがそろっていながら実はまだ自分よりも年下。あろうことかまだ二十にもなっていないだと誰が想像することができるであろう。
そんな恭也と自分を比較して、少ししょげながら誤魔化し笑いをする。
「あ、あの妹さんと巻島さんの怪我のこと本当に申し訳ありません」
「いえ。美由希も館長も覚悟の上でのことです」
「で、でも……」
「それに確かに入院が少々必要ではありますが特に酷い怪我というわけではありませんしね。影山さんが気にされることではありませんよ」
「あ、ありがとうございます。それでも、ごめんなさい!」
どもりながらお礼を言ったり謝ったり忙しい人だな、と恭也は咲夜を見守るが何を勘違いしたか照れたように顔を逸らす。
「では、俺はここで失礼します。少し外を見回ってきますね」
「え?あ、はい。お話に付き合っていただいて有難うございました!」
「ええ、こちらこそ。影山さんもゆっくり休んでください」
少し強引にだが話を切り上げて恭也は影山邸からでていった。途中であった警官に挨拶しながらそのまま森の方に向かっていく。
太陽が完全にでてるとは言えず薄暗いまま歩くこと数分、木々が少なくなっていき視界が広がる。森の中とは思えないほどきり広げられた空間。半径二十メートルはありそうな円の広間。
その広間の中心には一つの人影。神職者の格好をした青年……【禄存】。
「初めまして。人間の剣客よ」
「何か用か、夜の一族」
ピシリと二人の間で視線がぶつかり合う。珍しく恭也の声も心なしか険を含んでいるようにも窺えた。
「お前達の長【破軍】の殺音か……。彼女からもう影山咲夜には手を出さないということを聞いたがその話はどうなったんだ」
「早合点しないでもらいたいですね。僕は破軍からの言伝を貴方に伝えにきたのです」
「……ほう」
「今日から十日後、八月十日の午前零時にここに書かれた場所で貴方を待つとのことです」
禄存は人差し指と中指に挟んだ紙片を勢いよく恭也に投げつける。頼りない筈の紙片は一直線に恭也に飛んでいく。それを恭也は空中で受け取ると中身を確認する。
ここからそう離れていない場所……車ならおよそ三十分もあればいけるだろう地図が書かれていた。
「確かに受け取った。約束は護ろう、と破軍に伝えておいてくれ」
「分かりました」
用は済んだはずなのに立ち去ろうとしない禄存を訝しげに見るが禄存の恭也を見る瞳には隠しきれない敵意があった。確かに彼の仲間である『北斗』の半数を戦闘不能にまで追い込んだのは恭也であるので敵意をもたれても不思議はないのだが……。
「それにしてもよく僕がここにいると気づかれましたね。直接渡そうとどうやって忍び込もうか考えていたんですが」
「俺の流派には視界に頼らず気配を感じ取るという技法がある。もっとも他の流派にもそういったものは少なからずあるだろうがな」
「なるほど、御見それしました。さすがは人間。非力ながらもそのような技術を学んでおられるのですね」
「……」
御神真刀流小太刀二刀術 【心】……先ほど恭也が言った相手の気配を感じ取る技法。恭也はなんでもないことのように言うがかなりの高等技術であり使い手によって感知できる範囲が当然違ってくる。
美由希なら半径十メートルの広さまでなら問題ない。
それでは恭也はどうかといえば……実際に測ったことは無いのでなんとも言えないがかなりの広範囲に渡って感じ取ることが出来る。
もっとも相手が敵意や殺気を持っていない限り相当離れた相手を感じ取ることはできないのだが。
それがどれだけ桁はずれたことか理解できる人間はこの場にいなかったが……。
「正直言わせてもらえば僕は貴方が憎いのですよ、人間」
「……お前の仲間を斬ったんだ。それは当然だろう」
「ああ、それはどうでもいいんですよ。巨門も貪狼も文曲も、僕にはどうでもいいことです」
「……何?」
仮にも仲間を斬ったことをどうでも良いと言い捨てる禄存に眉を潜める。
「僕にとって憎いことは……貴方が【破軍】の興味を引いているということなのですよ」
「どういうことだ」
「何故あの方が!強く気高く美しい!あのお方が!人間などに興味を持つのか!!!」
狂ったように騒ぎ立てる禄存をあきれ果てたように眺める。狂ってるな、と恭也は考えが冷えていくのが分かる。
「ニンゲン!お前は邪魔だ!あのお方にとって!害悪にしかならない!」
「そうか、それならば俺を殺すか?夜の一族」
「黙れ!!!!!」
禄存が猛り狂って恭也に突進。腕を捻るとゆったりとした袖の下からレイピアが出現、それを取って恭也の腹部を目掛けて突きを穿つ。
心臓を狙わないのは殺さないようにと、わずかに残った理性のためか。
どちらにしろその突きは実に見事であった。レイピアの特性もあいまってか美由希の突きにも勝るとも劣らない。
禄存の脳内では自分のレイピアが目の前の憎らしい人間の腹部を貫き血が溢れ出てる様子が描かれていたが……。
全く無い手ごたえ。地面を滑りながらブレーキをかけ今しがた通り抜けた場所を振り返るが恭也はいない。いや、視界のどこにもいないのだ。
「いい突きだ。夜の一族としての能力に頼っているだけではなこうはいかない」
まったく予想だにしない場所からその声は聞こえた。まさしく禄存の真後ろ。それに息が一瞬とまりそうになりながら距離をとって振り返る。
「いつのまに……!!!」
そこに恭也はいた。腰の小太刀を抜こうともせず自然体でそこに。もし恭也がその気であったなら禄存は命を落としていた……その事実に禄存の頭が沸騰しそうになる。
それでもそうすぐには攻められない。激しく憎い相手ではあるが予想以上の戦闘力。油断できるような相手ではないのだ。
今度は禄存はレイピアを構え油断なく切っ先を恭也に向けて腰を落とす。
―――おかしい。
恭也が強いのは分かる。それでも特に何かをしようというわけではない。小太刀を抜いてこちらを牽制するわけでもなく殺気を放つわけでもなくただ立っているだけ。
そして朝が早いとは言え今は真夏。先ほどは蒸し蒸しとした暑さで嫌気がさしていたが今は真逆。
寒いのだ。感じるのは異常なまでの寒さ。まるで真夏とは逆の真冬のなかで服を着ずに冷蔵庫の中に入ったような寒さ。
恭也が小太刀を抜いて構える。そして一瞥する。
それによってさらに禄存の周囲の空気が冷えていくのがわかった。せめて身体を動かそうとステップを踏もうとしたが、それで気づいた。
禄存の身体が動くことを拒否したかのように全く身動きをとることができないのだ。足も腕も首も瞼も、果ては心臓さえも鼓動をやめるのではないかという恐ろしい感覚。
そんな中で禄存の歯だけがガチガチと反応する。
目の前の男が、人間が切っ先を禄存に向けたその時、ようやく何なのか理解できた。
禄存は、恐怖しいているのだ。高町恭也という人間に、心の底から。
自然と涙が流れる。ようやく分かったのだ……文曲がここまでこの人間を恐れる理由を。
「う……ぁ……」
言葉にならない声が漏れる。もはや喉すらひりついたように感じまともに声も発せない。
自分は死ぬのだと、霧がかかる意識のなかで漠然と感じていた。
その時その霧がいきなり晴れ異常な寒さも消え辺りは蒸し暑い熱波が禄存にふりかかっていた。
殺気はもうない。
「ぅ……げっ……げほ……」
自由になった両足は折れ、地面に膝を突く。そして胃の中のものを、胃液をぶちまける。
涙ではっきりと見えない視界のなか恭也は小太刀を納め森の中に消えていく。
強い。強すぎる。桁が違う。武曲の言うとおりあれはもはや人間という枠組を外れたものだ。いや、そんなものすら生ぬるい。アレはもはや【鬼神】の領域。
―――果たしてあんな化け物に殺音とて勝てるのか。
己のなかで神にすら等しい殺音ですらアレに勝てるかどうか想像することはできない。
いや、自分ごときが想像していいはずもない。
ガタガタと震える身体を抱きしめながら禄存はこの場所でいつまでも蹲っていた……。
八月 五日 12:00
「……暑いな」
八月という真夏の空はよく晴れ容赦なく日光が降り注ぐ。風でも吹けばそれなりに違ってくるだろうがその様子は一切ない。
驚異的な精神力を持つ恭也でもこの暑さには参っていた。心頭滅却すればなんとやらと言われてはいるとおり耐えれるものではあるがそれでも暑いものは暑いのだ。
体中の傷を隠すために袖のあるシャツを着ている恭也もこの気温には正直参っていた。半そででも暑いのだ、長袖などたまったものではない。
恭也の頬を汗が一滴垂れて地面に落ちる。深い呼吸を一つ、足を止める。
恭也は軽く流すつもりだけだったがついついいつも通りの走りこみをしていた。
習慣とは恐ろしいものだ、と考えながら呼吸一つ乱さず影山邸に足を向ける。目下の所恭也の悩みは一つ、八月十日の立会いのことであった。
手紙に書かれてあった場所もすでに確認してきたので地理的な面では問題ないのだが……。
もう一つの条件のようなものが書かれていた。要約すると一人ずつ互いに立会人を連れて来い、ということだ。
これに恭也は悩んでいるのだ。普段なら有無も言わさず美由希を引っ張っていくのだがそう大怪我ではないにしろ現在入院中。巻島も同じく入院中、しかもこちらは重傷もいいところ。
嵐山は念のため咲夜の傍についていてもらいたいし、他に当てはあることはあるが関係がないこの面倒ごとに巻き込みたくないというのが本心である。
「最悪一人で行くか……」
多いと問題だが少なければ別に構わんだろう、と考えながら首からかけてあるタオルで汗を拭く。
シャワーでも浴びようかと荷物が置いてある二階の部屋に向かおうとして……一階のすぐ近くの部屋から慣れしたんだ気配、本来ならここに居る筈が無い気配を感じ取った。
まさかとは思いつつその部屋のドアを開けてみると中にはソファーに座りつつテレビを見ている……馬鹿弟子こと美由希がいた。
恭也は自分の頭が激しく痛むのを自覚しながら未だテレビに夢中になってこちらに気づいてないだろう美由希の頭に天誅をくれてやろうとして部屋に一歩踏み込んだ瞬間に、美由希は恭也の方に気づいたのか顔を向けた。
「……何故ここにいる、美由希」
「あ、きょーちゃん。お帰りなさい。さっき着いたんだけどきょーちゃん走りこみでも行ってたの?」
「ああ。で、何でここにいるんだ?」
「退院許可が昨日でたから来ちゃった」
「退院許可がでたならとっとと家に帰って養生しておけ」
「ぅぅ……怪我をおして駆けつけた妹にもう少し優しい言葉をかけてよ」
「普段ならな。少なくとも今のお前では喜べん」
「今の状態でも十分戦えるよー私」
「笑えない冗談だ」
自然な動きで美由希の顔まで片手を上げてデコピンをうつが、美由希はそれを受け止める。
「……む」
「えっへっへ。いつまでもやられっぱなしってわけにもいかないよ!」
「……」
止められたのが悔しかったのか恭也は逆の手でデコピンを放とうとするがそれも美由希に止められる。が、まるで美由希のガードをすり抜けるように恭也の手が迫る。
しかし、それも美由希によって止められる。恭也の攻撃を見事にさばいた美由希は非常に満足そうに笑う。
それとは対照的に恭也は床に四肢をついて肩を落とす。
「ま、まさか……美由希に防がれるとは……不覚」
「ふふん。私は常に進歩してるんだよ」
「く……」
悔しげな恭也は勝ち誇っている美由希の死角から手刀を振り下ろし脳天に叩きつける。
「ぉぉ……ぅぅ……脳が……」
完全に油断していた美由希はまともにくらってしまい頭を押さえて蹲る。それを見た恭也は先ほどの美由希のように満足そうに頷く。
「残心を忘れるな、未熟者め」
「ぅぅ……さっきのに残心って必要だったの……?」
「当然だ」
「……なんか理不尽……」
「師がカラスが白いと言えば白いと答えるのが弟子というものだろう」
「なんて暴君…!?」
「で、実際の所身体はどうなんだ?」
冗談はここまで、と恭也の眼が鋭くなる。美由希も立ち上がり背筋を伸ばす。
「骨は折れてなかったから思ったより軽症だったよ。肋骨二本ヒビが入ってただけ」
「そうか。それは僥倖」
「ベストコンディションにはほど遠いいけど……でもきょーちゃんの背中くらいは護れるよ」
「……おとなしく家に帰るという選択肢はないのか?」
「うん、全く」
ため息一つ、恭也は美由希を説得することを諦めた。もしこれが通常の命をかけた護衛の任務だとしたらどんな手を使ってでも強引に帰しただろうが今回はもう恐らく美由希が戦闘にでることはない、ということもあったからだ。
恭也と殺音の一騎打ち。それで終わりになる筈だが。
勝っても負けてもどちらでもいいのか……と疑問には思うところではあるが、勿論恭也は負ける気は全くない。戦えば勝つ、それが御神流。
「そういえば、きょーちゃん」
「む?」
「フィリス先生が病院に顔出してください、って怒ってたよ。最近全然行ってなかったんだって?」
「そ、そうか。この仕事が終わったら顔出しておこう」
「そうしたほうがいいよー」
恭也の主治医でもあるフィリスの恭也が無茶したときの笑っていない笑顔を思い出して背筋が寒くなる。
フィリスのスペシャルマッサージコースは恭也をして耐え切れるかどうか……という凶悪なものである。なのになぜか終わったあとはスッキリするという謎なものなのだが。
殺音を倒して早く海鳴病院へいかねば……と本気で悩む恭也の姿があったとかなかったとか。
八月 九日 23:30
「十分間に合いそうだな」
「うん」
未だ本調子ではない美由希のペースに合わせてゆっくり行こうと考えて時間を若干多めに計算して影山邸をでた恭也たちだったが予想以上に時間が余っていた。
周囲は森林。深夜だけあってもはや明かりは無いに等しく、辺りの静寂が人の恐怖を誘うが二人にとっては夜は慣れしたんだ世界。
もはや迷宮ともいえる森の中を恐れも戸惑いもなく黙々と目的地に向かっていく。
美由希の怪我は当然のこと完治していない。わずか十日足らずでなおったらすでに人間をやめてるといってもいいのだが……。
それでも、どんな状態でも戦闘になれば全力を出せる。そういうふうに美由希は育てられてきた。
今回は美由希の出番はないとハッキリ言われているが、もしもということもあると思い装備はきっちりと揃えてきてはいる。
恭也はもし、他の【北斗】の連中が横槍を入れてきたら美由希が手を出す前に斬って捨てると考えていたが。
殺音は信頼できるだろうが、他の連中まではどうかわからないというのが本音である。
「……美由希」
「うん?」
「今夜俺が戦う相手は、水無月殺音は掛け値しに強い」
「……わかってるよ。少なくとも今の私じゃ勝てない」
「俺も本気でいく。決して見逃すなよ」
「……はい!」
恭也の台詞に気を引き締める美由希。
高町恭也の全力を見られるという期待感と水無月殺音への嫉妬を感じずにいられないが今の自分の実力では仕方ない、と納得させる。
もっとも納得しようとしても納得しきれないのが美由希の若さかもしれない。
それも無理ないことといえばそうかもしれない。美由希にとって剣術とは高町恭也そのものである。剣術を学びだしたその頃から恭也は美由希を教え導いてくれた。
まだ小学生という若さでありながら、だ。もし、美由希にかけた時間を自分自身に費やしていれば今よりもさらに遥かな高みにいれたであろう。
そんなことを考えて眠れぬ夜を過ごした時期もあった。どれだけの負担になっているのか、と。
だからこそ美由希は高町恭也以外に敗北することは許されない。恭也に鍛え上げられた自分はそれだけの価値があったことを証明するためにも。
ザクザクと堅い地面を踏みしめながら美由希は前を行く恭也の背中を見つめる。手を伸ばせば届く背中。それでも剣術に関して言えば決して届くことのないその圧倒的な存在感を発する背中を。
生暖かい風が吹く。それでも真夏の夜ということもあり美由希の背中に汗が流れる。その後沈黙が続くこと数分、森林を抜け山の中とは思えないひらけた場所にでる。
恭也と美由希の視線の先には……月光を浴び刀を抱き寄せ座り瞑想している殺音が居た。
その姿は美しいと素直に恭也は認める。
それと同時に殺音の姿を見た恭也の世界は確かに凍てついた。
脳が沸騰したかのように煮えたぎり、視界もまともに定まらない。
もはや理性の静止すらをも振り切るような躍動。
心臓の鼓動が到底通常の時とは思えないほど強く激しく、体中を叩き暴れる。
ああ、やはりそうだ。
恭也の足が意図せずに踏み出される。ゆっくりと、確実に。
眼を瞑って座っているだけのはずなのに殺音から感じるプレッシャーは計り知れない。現に美由希ですら足が止まっている。
「きょーちゃん?」
美由希の震えた声が耳に届く。それでもその声がまるでフィルターを通したかのように鈍く聞こえる。
―――神に、懺悔しよう。
この身体は、この肉は、この血は、この意思は、この魂は、高町恭也という人間の全ては高町美由希を鍛え上げるためだけに剣の神に捧げた供物。
自らの意思などとうの昔に捨てたはずの一振りの刀が、目の前の女と、水無月殺音と心の底から戦いたいと願っている。
今このときだけは……美由希の師【高町恭也】ではなく【不破恭也】として刀を振るおう。
「人に逢っては人を斬り、鬼に逢っては鬼を斬り、神に逢っては神を斬る。【破神】の【御神】。【絶刃】の後継、【不破恭也】推して参る」
小太刀を抜く。普段ならば決してしない殺気を無様にも撒き散らし、哂う。
その殺気を心地よさそうに浴びながら殺音も立ち上がる。
もはや恭也と殺音は互いの言葉と呼吸音しか聞こえず、それ以外の全ての音が周囲から消え去っていく。
生ぬるい風がザァッと吹き、周囲の木々を揺らし、二人の髪をなびかせる。
もはや二人には肌を焼く温度も風の緩やかさも互いの獲物の重さすらも……全てが消え去っていく。
「気持ち良いなぁ……吐きそうなくらい。今夜は楽しもうよ、キョーヤ?」
―――始まるのは殺劇の舞踏。月光を背景に決着をつけんと極限まで磨き上げられた二振りの刀が今、激突する。
殺音がその漆黒の長髪を振り乱し、右手だけでその刀をふるう。恭也に向かって数本の銀光が迫る。
恭也はそれを切り落とし、弾き、受け流す。
火花を散らしながら恭也の左右の小太刀と殺音の刀がぶつかり合う。音さえも置き去りにしたかのような応酬。
お互いの耳をつんざくような摩擦音と振動。
上下左右、時には突きも混ぜながらの縦横無尽の斬撃は、幾度と無く恭也の両の小太刀によって防がれる。
あまりに完璧、あまりに鉄壁、あまりに完全。
何人も崩すことができない牙城。難攻不落の要塞。そんなイメージを殺音に見せ付けてくる。
しかし、だからこそ楽しいのだ。この時を、気が狂いそうになる気持ちで待っていたかいがあったというもの。
簡単に崩されては意味が無い、簡単に決着がついては意味が無い、簡単に死んでは意味が無い。
生きるか死ぬかのギリギリの生死の境目で、命をチップにした最高のコロシアイ。
生を受けてからおよそ数十年。その無意味に生きながらえてきた年月を遥かに越える快楽がここにある。
そんなハイになっている殺音の意識を奪うかのような衝撃がコメカミに走る。
パンという鋭い音とともに隙ともいえない連撃のわずかな合間を縫うように恭也の蹴撃が決まったのだ。
芯に残るようなズシリとした衝撃を殺音に残すがもはや戦いの高揚で痛みを感じていないかのように止まらない。
攻める殺音。守る恭也。
再び斬り結び火花が連鎖反応を起こす。生暖かい風が強くなっていく。
火花が幾度となく闇夜に散っていき金属音が響きあう。
殺音が前へ前へと突き進み、恭也は凶悪な斬撃を後退しつつも受け流す。
闇夜の中で火花が複雑な描き、恭也の二刀の小太刀と殺音の刀が生物のように絡まりあう。
殺音の呼吸の隙をついた小太刀が左右からほとんど同時といえる剣速で迫るが、殺音は手首を返し受け止め、その二刀に押し込まれないように力で受け止める。
逆にそのまま押し返すように小太刀を弾き打ち下ろす。
恭也はそれを見切り、僅かにステップを踏みつつ後退する。
殺音は地面を蹴ると爆発的なスピードで恭也に迫り頭、首、肩、腕、腰、太腿と息をつかせる間もなく斬りこむ。
そんな攻防が続く中でも恭也と殺音の視線は絡み合ったまま。どちらも決して逸らそうとしない。
前回の戦いと同じ、いや、それ以上の攻防。まさにコンマ一秒タイミングがずれればそれで生死が分かたれる争い。
そんな戦いの中でも二人の胸中には恐怖の感情はない。
殺音の横薙ぎを重心を下げ、掻い潜り同時に右足を跳ね上げる。再び殺音の横顔に襲い掛かってきた蹴りを今度は左手一本で受け止める。
その蹴り足から力を抜き、次の瞬間には身体を回転させて小太刀で殺音の足を狙う。
それをわずかに飛んでかわすが、未だ体勢が整わない状態からの空中の殺音にむかって刺突。
その刺突を身をよじりながらかわすと、着地。
休む間もなく刃風が夜風を切り裂く。
闇夜を照らすように何度も何度も剣戟に飛び散る火花が彩りを添える。
何もかも、その全てがあまりに圧倒的な戦い。
「楽しい!!楽しい!!楽しいよ!!!キョーヤ!!気が狂いそうだ!!!!いや、もう狂ってるよ、私は!!!」
「話す暇があったら手を動かすことだ……!!!」
「あっは!!きみの脈動を!!きみの魂を!!きみの命を!!もっと感じさせてくれ!!」
両者の刀が噛み合う。
激しい鍔迫り合い。その最中でも二人は動きを止めようとしない。
まるで止まったときが死を迎える時かのように。
「オォオオオオオ!!!」
恭也の咆哮が周囲に満たされる。
わずか一瞬のために全身の筋肉が爆発し、この瞬間だけは殺音を上回った。
恭也に押され殺音が弾かれるように後ろに後退する。
しかし、それは殺音が恭也の攻撃を完全に受け流した証。
殺音も恭也には劣るがその気になれば歴史に名を残せるだけの剣士。その技に隙は無い。
それでも後ろに下がった殺音に向かって二の太刀が舞う。
刀が重なり、再び重なり、また重なり、金属音が響き渡る。巻き起こるのは殺意と鬼気と烈風。
刀の閃光が幾度も交錯し、そして消えていく。
二人の動きが前に後ろに、右に左に、まるで踊っているかのような二人の剣舞、美しい斬りあい。
もう、何度斬りあったかわからない。十回、百回、或いは千回か。
二人の剣先がぶつかり合い、弾きあった、その時恭也の動きが変化した。最大速度から零へ。
それに殺音がついていけずに重心が崩れ、体勢が崩れ去る。
一瞬の隙、恭也の眼が、小太刀が殺音の首を鋭く射抜いた。
再び、零から最高速度へ。恭也の身体が躓いたかのように傾き、疾走。急迫する殺音の姿。
流れるような横薙ぎの斬線。首を払った。
だが、それは届かない。斬ったのは皮一枚。さすがは夜の一族というべき身体能力。
溢れ出る赤い血。一歩跳び下がるのが遅れていたら首を落とされていた事実を認識しながら、それでも殺音は哂っている。
恭也と殺音、どちらも剣に狂いに狂った化け物同士だ。
恭也の踏み込み。
下段に構えた小太刀が跳ね上がり、それを殺音は払い落とすが、頭上から逆の小太刀が舞い降りる。
恭也の多彩な攻撃が徐々に殺音の防御を切り崩す。
一切の無駄が無く、鋭い動きが複雑に絡み合い、信じられない速度で繰り出される恭也の剣技。
殺音のスピードもパワーも覆す、凄まじいまでの剣の技量。
先ほどまでとは真逆。攻める恭也。防ぐ殺音。
もはや防戦一方になった殺音だったが先ほどのお返しといわんばかりに恭也の小太刀を地面に這うようにしつつかわし、下から斬り上げる。
恭也はそれを小太刀を交差させ受け止め、後ろに跳び衝撃を逃がして着地する。
二人の動きが……止まる。
睨みあう二人。互いに重心を下げ、いつでも間合いを詰めれるような、肉食獣のように前傾姿勢をとる。
「どうした、殺音。お前はその【程度】なのか?」
「……何?」
「本気をだせ。【不破恭也】の心を初めて戦いという場に引き出した、お前がその程度であるはずがない、違うか?」
「……」
「俺に見せてくれ。水無月殺音という女の全力を、本気を、底というものを」
恭也の剣気が沈黙の殺音を貫く。虚言は許さぬ、と。
対する殺音は空を仰ぐ。急速に彼女の殺気が闘気が萎んでいく。まるで戦いを放棄したかのように。
だが、恭也は違う印象を受けた。まるで、それは台風が来る前の静けさのような、そんな感覚。
「あ……はは……」
そして、ソレはきた。
「あははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!」
爆発。先ほどがまるで遊びだったかと言わんばかりの剣気が暴風となって周囲で暴れつくす。
木々が揺れ、鳥達が羽ばたき、野生動物たちが逃げ去っていく。
恭也が、そのあまりに別人のような気配に目を剥いた。
本気をだせ、と言ったのは恭也自身。それでもまさかこれほど力を隠していたとは思わなかった。
恭也の想像の遥か上、まさにありとあらゆる生物の頂点に君臨しているかのような、暴君がそこにいた。
殺音の放つなんという荒々しい闘気。
あの恭也が、不破恭也ともうあろう人間が気圧された。刀を交える前からすでに。
膝が笑うように震える。
ここまで、ここまで化け物だというのか、夜の一族というのは!!!水無月殺音という女は!!!
ゴクリと唾を飲み込もうとして、口の中が乾ききっていたのに気づいた。
「素直に謝るよ、キョーヤ。別に手加減していたわけじゃない、でも結果としてそうなってしまったからね」
殺音の頭部に突然はえてきた猫の形をした耳が嬉しそうにピコピコと動く。そして同じく猫のような尻尾がパタパタと振るう。
「人間の状態を維持するのには少々力が必要でね。この半獣半人の状態が私のベストってこと」
これで正真正銘全力でいける、と哂った。殺音がヒョイと刀を持ち上げ肩に置く。
恭也は殺音から眼を離さなかった。集中力も切らさなかった。だが、それでも無理だった。
―――消えた。
人間の限界を越えた剣士である恭也の視覚ですら、殺音の最高速度を追うことができなかったのだ。
もはやそれはカン、本能、長年の経験、死の香り、そういったものをひっくるめた全く根拠のないモノにすがって恭也は横にとんだ。
瞬時に振り向く。恭也がいた場所の少しいった所に、やはり嬉しそうに哂う殺音がいた。
本当に嬉しそうに、その白磁のような肌を紅潮させ、潤んだ瞳で恭也を見ていた。
ガリッと歯軋りをした恭也は己の考えの甘さを呪った。
どこかで自分は自惚れていたのだ。己の努力に、己の剣術に、己の実力に。
もはやこれは技術の差ででどうにかなるようなレベルではない。
生物としての基本性能があまりに違いすぎるのだ。
「キョーヤ、私の本気も見せたんだ。次はキョーヤの番だよ?」
熱のこもった声で、視線で殺音が問いかけてくる。
あまり買いかぶるな、と叫びたくなる気持ちを抑え、呼吸を整える。
長期戦になれば勝ち目など皆無。あるとすれば短期戦。
そして、殺音を打ち破れる可能性があるとすれば恭也の中で……唯一つ。
神を堕とすために練り上げられた御神の奥義……【神速】。
【神速】とは、御神流の中でも秘伝とされる歩法。
御神の最奥を覗いたものだけが習得できるという奥義。
そこに至れるのは御神の一族とはいえ十年に一人でるかでないかとさえされ、【神速】に至ったものは例外なく御神の歴史に名を刻まれる。
使うしかない。使わなければ、待っているのは確実な死。
高町恭也が、愚かにも、無様にも気圧されていた不破恭也を叱咤する。
ドクンッと心臓が雄たけびを上げた。
深く息を吸う。眼が覚めるような熱い空気。恭也の眼が完全に覚めた。
迷いを、弱さを、脅える心を全てを圧倒する信念が、意思が、心が恭也の身体を満たす。
―――【刀】と一つに!!
恭也の覚悟は決まった。
それは殺音の脅威にさらされながらも、普段の彼と同じ決して朽ちず、曲がらず、折れずの信念を宿した最高の剣士として恭也は構えた。
それを見た殺音もまた、構える。
二人の意思が絡み合う、声無き声が互いに通じる。
―――決着をつけよう。水無月殺音。
―――行くよ。不破キョーヤ。
動くのは同時。殺音の姿が消失すると同時に恭也も【神速】を発動。
世界が凍った。【神速】の世界に踏み込んだ恭也の視界がモノクロに染まる。音さえもここでは消え去っている。
これが何人たりとも立ち入ることができない領域。神々さえも凍らせる絶対絶望空間。
脳が焼けるようにあつい。体中が悲鳴をあげる。
恭也の身体能力を限界以上まで引き出したその凍結された世界でさえ、殺音は速い。
その動きはこの世界の支配者たる恭也と同等。
―――化け物め!!!!!!
罵りながらも恭也は哂う。
恭也の愛刀たる【八景】が自分と一体化したような感覚と共に吸い付く。その切っ先までが神経が通ったような己の一部のような感覚。
モノクロの視界の中で、すでに恭也の視界には描こうとする太刀筋が光の軌跡となって見えていた。
小太刀はまるで波に流されるかのように振りぬかれる。
だが殺音もそんな空間で動く。放つは閃光のような斬撃。
全ての流れがスローモーションで流れる世界の中で恭也と殺音は己をぶつけ合う。
楽しいよ、キョーヤ。
―――楽しいな、殺音。
―――これが【神速】?
―――ああ。御神の最奥。【破神】之壱【神速】だ。
―――すごいね。キョーヤ。
―――ああ。お前もな。
―――終わりたくないな。
―――終わらせたくないな。
―――でも。
―――だが。
―――これで決着だ!!!!!!!
【神速】の世界を抜けた。周囲に色が戻り、残されたのは指先さえ動かすのが億劫に感じる倦怠感。
心臓が身体を打ち、肺が酸素を求め激しく暴れ狂う。
小太刀を支えに空を見上げているのは恭也のみ。
殺音は地面に大の字になって倒れている。満足気な笑みを浮かべて。
「凄い世界を見ちゃった」
「……そうか」
「強いね、本当に強い。この戦い、キョーヤの勝ちだよ」
「お前も強かった。俺が戦った中で紛れも無く最強だ」
「ん……ありがと」
殺音は動かない、いや動けない。夜空を見上げながら穏やかに言葉をつなげる。
先ほどまでの狂気と狂喜は消えている。
「一生分楽しんじゃった感じかなー」
「……そうか?」
恭也がふらふらと歩きながら倒れている殺音の元まで行き手を伸ばす。その挿し伸ばされた手を意外そうに呆けたように見る。
「俺はまたお前と戦いたい」
「……へ?」
「なんだ、お前はもう本当に満足したのか?」
「えーと……?」
「俺はこれからさらに強くなる。お前はそこで止まってしまうのか?」
「……上等!」
恭也の言葉の意味を飲み込んだ殺音がニヤリとその美貌を歪ませ恭也の手をとって立ち上がる。
「私も強くなるよ、キョーヤ」
「楽しみにしていよう」
別れの言葉はそれだけ。もう二人は言葉よりも何よりも、互いの心を剣でぶつけあったのだ。語ることはもはやなし。
同時に背を向けると真逆の方向に歩いていく。だが、殺音が少しあるいただけでふらつき倒れそうになるところを冥が支える。
「さんきゅー冥」
「……気にしないでいい。素晴らしい戦いだったよ」
半分は見えなかったけどね、と呟くが。身長の差がかなりあるため冥も殺音を支えるのにかなり苦労している。
「私はお前が負けるとは思っていなかった」
「実は私も負けるとは思ってなかったんだけどねー」
「悔しいとか思うのか?やはり」
「んー。不思議とそんな気持ちはないかな。また戦いとは思ってるけどね」
「……戦闘狂め。あれだけの戦いをしていてまだそうなのか」
「こんな気持ちになるのはキョーヤだけさ」
「あ、そう」
「なんか冷たいねー、この妹は」
危なっかしい足取りで森の中に入る一歩手前で冥は足を止めた。結果として殺音も足を止めなくてはならなくなった。殺音はじっと立ち止まった冥の顔を覗き込む。
「私が怖い?冥」
「……少しはね」
それは冥の本音。いくら姉とはいえ、いや姉だからこそ殺音の内包する禍々しい狂気を誰よりも知っているからこそ、冥は殺音が怖かった。
「でも、本当に怖かったらとっくに逃げてるよ、ボクもあいつらもね」
そういうと冥は地面に落ちていた石を近くの藪に投げつける。
ゴキという痛々しい音がして藪の中から悪戯を見つかった子供のような、何ともいえない表情をした【北斗】のメンバーがでてきた。廉貞の頭にはでっかいタンコブができていたが。
「す、すみません、破軍。どうしても心配で……」
代表して文曲が慌てながら弁明する。貪狼も巨門も廉貞も禄存も気まずそうに顔を逸らす。
それを見ていた殺音はキョトンとした顔をしていたが、しばらくたって苦笑。
冥によりかかるのを止めて一人で歩き出す。
「今回は疲れたし、たまには皆で海にでもバカンスにでも行こうかしらね」
その殺音の言葉に皆がフリーズ。それほど意外な言葉。
「んー行かないの?」
殺音の再度の質問に皆が皆、嬉しそうに頷いて後に続く。
殺音は痛む身体を引き摺りながら心の中で笑い続けていた。
なんていい気分なのか。
なんて素晴らしい体験だったのか。
心も身体も未だ痺れている。恭也の苛烈な魂の衝撃に。
『北斗』のメンバーがいなかったら身悶えしていたかもしれない、いや、かもじゃなくてしていた。
最高だった。キョーヤの顔も表情も身体も剣術も体術も声も匂いも殺気も闘気も全てが!
命を引き換えにしてでも何度でもキョーヤと殺しあいたい!!!
待っていろ、キョーヤ。キョーヤの全てが私の魂に刻まれた。今度は私の全てをキョーヤの魂に刻んでやる。
殺音は笑った。本当に楽しそうに声をあげて笑った。恭也に届けと言わんばかりに笑い続けた。
「だ、大丈夫!?きょーちゃん!?」
「……なんとかな」
殺音と冥が歩き去ったのを確認して美由希は恭也に駆け寄った。
見た感じ大きな怪我は無い。それでも決して楽な戦いでなかったのはアレをみていたら理解できる。
あまりに次元の違う争い。美由希も実際にはっきり見えていたわけではない。それでも自分にできることはこれだけだ、といわんばかりに必死に恭也と殺音の戦いを見ていた。
素直に凄いと思った。高町恭也を、水無月殺音を。
互いに桁外れの実力同士、そしてきっとアレが自分の目指す果てだと感じた。
そんな目標ともいえる兄を、師を誇りに美由希は思った。
「……師範代」
「なんだ?」
「これからもご指導宜しくお願いします」
ピシリと見本のような礼をする。美由希の目標はしっかりと定まった。ならばあとは突き進むだけ。
恭也はそんな美由希を見て満足そうに頭をクシャリと撫でる。
「言われんでも容赦はせんさ。俺を越えて見せろ、御神美由希」
「はい!」
どこか嬉しそうな恭也と美由希の声が闇夜を切り裂く。二人肩を並べて殺音と冥が去っていった方角とは逆に歩き出す。
ふと恭也は足を止め、殺音の姿を探すかのように視線を遥か遠方へと送る。
「……楽しみにしてるぞ、殺音。今度も命を賭けて戦おう」
呟きもれた言葉が夜の風に流される。随分前方から美由希の恭也を呼ぶ声が聞こえる。
今夜は良い夢が見れそうだ、と考えながら……。
---------------エピローグ--------------
殺音と【北斗】のメンバーは楽しげに森の中を歩いていた。仮の拠点としているところまで十数分もあればつける距離だったのが幸いした。
身体がぼろぼろになっている殺音にとっては有り難く、ようやく家が見えるところまできてその入り口に二つの人影があるのがわかった。
不審に思った殺音に気づいたのか他のメンバーも人影に気づき眼をこらす。
人影は一人は青年だった。ざっくらばんに切った短い黒髪に無精ひげをはやし、いくら夜とはいえ真夏なのに長い黒のコートを羽織っている。寝ているのかドアの前のちょっとした数段の階段のところに腰を下ろし眼を瞑っている。もう一人は青年よりも異常な格好をして青年に寄り添うようにもたれ掛かっている。。黒いぶかぶかのフード付きのコートを着ていた。フードが顔を隠し男か女かすらも分からない。ただ、身長は低い。冥と同じくらいの背丈だ。
森に迷って偶々ここについたのかかしら?と疑問に思う殺音。そしてふと横を見ると冥が全身を震わせていた。
カタカタと。まるで恐怖で脅えているかのように。ますます増える疑問。
それに対して貪狼が青年に近寄っていく。
「おいおい、テメー。ここは俺たちの住処だってーの。勝手に居座ってるんじゃねーよ」
乱暴な言葉使いで青年をたたき起こす。襟を掴んで空中に片手一本で吊り上げる。
それでようやく青年が眼を開けた。
「ようやく帰ってきたか、【北斗】」
「な!?」
自分達の素性を知っている?ただの人間じゃない!?
「貪狼!!!!離れるんだ!!!!!!!!!!」
冥の絶叫。だが、遅かった。
真っ赤な噴水が殺音達の前であがった。
【下半身】のみの貪狼が地面にゆっくり倒れる。
貪狼の【上半身】がない。
少し遅れてその【上半身】が落ちてきた。
軽い音を立てて地面に転がり、何が起きたか分からないまま貪狼はその命を失った。
青年は特に何をするでもなく冷たい眼で固まっている殺音達を見ていた。
青年が片手に持っているのは血を吸って赤黒く染まっている両刃の剣だった。
八十センチほどの長さの剣、それで貪狼の身体を両断したのだ。
それにようやく気づいた巨門が怒りの余り飛び出そうとしたところを冥が掴んで止めた。冥の震えが巨門に伝わりその突撃を止める。
首をイヤイヤと子供がするように脅えて振る冥を訝しげに皆が見る。
ここまで恐怖に襲われている冥など皆の記憶にない。
「やめろ、やめてくれ。みんな逃げよう。アレは駄目。アレだけは―――駄目だ」
震える、産まれたばかりの雛のように。
「どうしたというのですか、武曲?貴方ともあろうかたが」
それに冥はそれを口にだすのが罪だと言わんばかりに言葉に詰まり、青年を見ながら涙さえにじませながら口にした。皆に【絶望】を与えるその名を。
「―――アレは、第三世界の王の一人。世界に認められた、命の奪い手。【十界位】が第二位。【死刑執行者】だ……」
空気が凍った。その余りに非現実的な化け物の名前が受け入れるまでに十秒近くも要した。
巨門がその厳つい顔を恐怖で歪める。
「……と言うことは……あのフードの人物は……」
冥がコクリと頷く。
「【死刑執行者】の片翼……【十界位】の第十位【漂流王】……だ」
「俺を知っているか。ならば話は早い。【北斗】、貴様らは少々【裏】の顔のまま【表】に出すぎた。夜の一族らしく大人しくしていればよかったものを」
【死刑執行者】は剣を軽く振る。血糊を払い落とす。何の感情も乗せないまま言葉を繋げる。無言のまま【漂流王】も立ち上がる。
「懺悔も後悔も必要ない。一瞬で死ね」
殺意が巻き起こった。殺音すらをも震撼させる絶望的なまでの化け物が、その牙をむき出したのだ。
殺音は刀を抜く。牽制するように【死刑執行者】に切っ先を向け傷ついた身体をおしながら闘気を搾り出す。
「文曲!! 冥を連れて逃げなさい!!」
「な!?」
冥が何を言い出すのかと、驚きの表情で殺音を見る。その視線に答える余裕は殺音にはない。少しでも注意を逸らしたら、恐らく殺される。
「ボクも……戦う!!」
震える手で冥も刀を抜くが、その刀を持つ手は全く定まっていない。
「禄存!!」
殺音の禄存を呼ぶ声。それに無意識のうちに禄存は反応する。言葉にしなくても殺音の命令は理解できる。
ドンという音と禄存の手刀が冥の首に決まり、冥は抵抗する間もなく意識を手放した。
文曲は幼い冥の身体をさらうように拾い上げ肩に担ぐと全力で【死刑執行者】とは逆の方向へ疾走していく。
残ったのは殺音、巨門、禄存、廉貞。
「……貧乏くじ引かせて、悪いわね」
殺音の謝罪に三人は恐怖など感じていないかのような表情で答える。
「……姐さんからそんな殊勝な台詞が聞けるなんてネ。それだけで命を賭ける価値があるヨ」
「私の命は唯、貴女のためだけにあります」
「組織の長を置いて逃げるほど腐ってはいません」
殺音は厳しい顔をふっと緩める。口には出さないが最大の感謝を心の中で三人に送った。
また恭也と戦いたかったなぁ……決してかなわない望みを抱きながら殺音は【死刑執行者】を迎え撃つ。
この日、殺音は最初で最後の絶望という感情を知ったのだ。
いつのまにか振り出した雨が轟々と降り注ぐ中、恭也の姿を思い浮かべて、殺音は数十年の生涯に幕を閉じた。