「美由希。お前は強くなりたいか?」
恭也にそう問われたのは、幾度となくあった。だが、それまでとは違った恭也の真剣な表情。
家族と赤星以外には表情を読むことなどできないような恭也の顔がこの時ばかりは誰もが一目で分かるようなどこか研ぎ澄まされた表情。
その日は美由希が十四の誕生日を迎えた時だった。一年に一回の記念日にも関わらず、美由希は家族で祝ってもらった後に何時もと同じように恭也と訓練を行っていた。
相変わらず美由希の斬撃は恭也に一切かすりもせず、訓練が終わり、地面に息を乱しながら座っている時に聞かれたのだ。
夜空を見上げ、真剣だがどことなく迷いがあるような恭也に美由希は首をかしげた。だが、美由希の答えは何時もと同じ。
「うん。私は強くなりたいよ」
「―――そうか」
ふっと恭也は笑う。普段は全くの無表情の癖して本当に極稀に恭也は笑う。美由希はそんな恭也の笑った顔が何よりも好きだった。
「お前は、強くなる。【御神流】を習っている以上、誰よりもな」
「……うん?」
「忘れるな。例えこれから先、どんなことがあってもお前は【美由希】だ。それだけは決して忘れるな」
「……何を言ってるの、きょーちゃん?」
美由希の疑問は尤もであろう。恭也の言葉を美由希は全く理解できない。
それでも恭也の言葉にはどこか切羽詰っているところが窺えて、美由希は聞き返す。恭也はそばにあった巨木をトンと軽く叩く。
内に浸透した衝撃が広がりブワっと葉っぱが舞い散る。御神流の基本の一つ【徹】。
唯の基本。しかし、基本であるがゆえにその【徹】の見事さに美由希は息を呑む。己とは次元が違うその技量。
「【御神】とは特別な一族だ。永全不動八門の中でもかつて【最強】を欲しいままにした殺戮一族。【御神】と唯一並び立つことができたのは【天守】(アマノカミ)だけだ」
「【天守】?」
「【御神】と同じく永全不動八門一派が一つだ。【御神】が衰退した今では永全不動八門の中でも他の追随を許さぬ一族」
「そうなんだ……」
「まぁ、それはいい。美由希、【御神】が最強だと恐れられた理由は知っているか?」
「う、うーん……」
美由希は首を捻る。小太刀を他の誰よりもうまく扱えるから?人間の限界を超えたような動きをすることが出来るから?圧倒的な剣術を習得しているから?暗器を利用した手段を選ばない戦闘を行うから?【御神】だけでなく【不破】の一族を有していたから?
あまりに思い当たるふしが多くて逆に答えられない。恭也はそれを見越したかのように笑うとポンと美由希の頭を撫でる。
「お前の考えていることは限りなく正解に近い。だが、正解ではない」
「どういうこと?」
「【御神】が恐れられたのは、【御神宗家】が存在したからだ。それに比べればその他のことなど些細なことなんだ」
美由希はわけが分からなかった。【御神宗家】が存在したから恐れられたとはどういうことか……。
「【御神宗家】とは【御神】そのもの。【御神宗家】とは【特別】なんだ。いいか、美由希」
恭也は美由希の眼をみて、何の迷いもなく、躊躇いも無く言葉を吐き出した。
「【御神】は滅びてなどいない。【御神宗家】の血を受け継ぐお前が在る限り、それが【御神】だ。お前の存在自体が【御神】なんだ」
話はこれで終わりとばかりに恭也は歩き出した。その背中はもうこれ以上のことは話さないと語っているかのような印象を美由希に与える。
美由希は結局のところ恭也が何を話したかったのか全く分からなかった。それでも良いか、と美由希は思った。
今は話さなくても何時かきっと恭也は話してくれる。何となく、美由希はそう思った。
「待ってよ、きょーちゃん!」
感じた疑問は置いて、美由希は前を歩く恭也の後を追う。
ここまで。ここまでが美由希の記憶にある正しい出来事。
「くふ……くふふふ……」
不気味な笑い声が周囲を満たした。美由希はその突然の笑い声に一瞬で小太刀を抜き戦闘態勢を取る。背中から嫌な汗が流れた。気配など今まで一瞬たりとも感じられなかったからだ。
恭也は笑い声が聞こえていないはずが無いのに美由希を無視するかのようにドンドンと歩いていく。
そんな恭也とは正反対の位置に女性が立っていた。不思議な女性だ。艶やかな黒髪。甘い匂い。白い肌。年齢も分からない。三十過ぎに見えなくも無いが、二十台にも見える。或いは十代にも……。
誰かに似ているが、すぐには思い出せない。いや、思い出すことを頭が拒絶している。
女性は構えている美由希を見てクスリと笑う。まるで我が子を見るかのように慈しむ笑み。
「素晴らしいのぅ。本当に素晴らしいのぅ。今まで妾が見てきた【御神】の中でも比類無き才能だよ、ぬしは」
女性の目が美由希を捕らえる。魂を砕かれるかのような衝撃。眼があっただけで美由希の意識がとびそうになった。
そのあまりのプレッシャー。この女性は己の師でもある恭也よりも―――。
手が震える。足が震える。身体が震える。心が震える。
「怖がる必要はないて。妾はぬしを害する気など一切ないからのぅ。それに危害など加えれるわけはなかろう?これはぬしの夢なのだから」
「……ゆ……め?」
自分の夢という事実に気づいた瞬間、かすれる言葉と意識。ぽつりと漏れた言葉を切欠に美由希の視界がぶれはじめる。まるで調子の悪いテレビの画像のように。
「そう、夢じゃて。夢から覚めたら妾のことなど忘れてしまうであろうが、覚えておくといいよ」
女性がクフフと、その外見からは想像できないような笑い声をあげて、両手を広げる。
「ぬしは間違いなく【御神】史上最強の剣士に成れる器よ。その若さで妾を呼び起こせるのだから」
美由希の視界はもう波打って女性の顔すらろくに見えない。それでも声だけははっきりと聞こえる。
「また会おうよ。【御神宗家】の剣士」
その言葉を最後に美由希の意識が闇に染まった。ふっと美由希の姿が蜃気楼のように掻き消える。
美由希がこの世界から消え去ったあとも、女性はクフフ、と笑い続ける。
「なんともまぁ、【不破】の子倅も【御神宗家】を立派な【化け物】に育てたようで」
女性は先程の恭也がしたように目の前にある巨木にトンと手をあてる。力を込めた様子は無い。だが、ドンという音が鳴り響く。
バサっと先程の比ではない、いや、巨木のほぼ全ての葉が舞い散った。
くふふ、くふふと女性は笑い続けながらこの世界から姿を消した。
「嬉しいのぅ。妾も今代は遊ばせて貰えるようじゃて」
「んじゃ、これで授業は終わりー。よーやく昼休み!ご飯の時間!」
そんな担任の声で美由希の意識が浮上した。ゴシゴシと眼を擦れば黒板の前の教壇に立つ女性。今年風芽丘学園に着たばかりの新任の教師【鬼頭水面】(キトウ ミナモ)。
可愛らしい容姿と教え子より小さい身長とは裏腹にラフな性格と口調のギャップで風芽丘学園の生徒から人気は高い。
その水面がダンダンと授業に使った用具を揃え教室から出て行こうとする。
「あ、あのー鬼頭先生。号令がまだなんですが……」
そう恐る恐る水面に声をかける学級委員の生徒。
「あーもう、号令くらいいいじゃん。あんた達、きっちり復習はしておくように。もし、宿題忘れた奴がいたら一発芸やってもらうからね、覚悟しておくように」
そんな言葉を残して水面は号令を待たずに教室を飛び出した。開け放たれた扉から聞こえる、ご飯~ご飯~というリズムにのった声に教室に居た生徒達は唖然となる。
それでもいつものことか、と生徒達は各々昼食を取るべく動き出す。美由希も小さく欠伸をして背筋を伸ばす。
―――なまってるのかな。
二学期に入ってはおろか、一学期や去年を含めて授業中に居眠りするなんて真面目に授業を受けている美由希にとって初めてのことであった。師である恭也はほぼ全ての授業を睡眠に費やしていると聞いているので驚きだ。
およそ一ヶ月と少し前。【北斗】との戦いで負った腹部への怪我。完治ではないにしろ、身体を動かすことにはほぼ影響はない。
恭也の指導で未だ本来の修練には戻れず、身体に負担のかからない鍛錬ばかりを集中して行っているため逆に落ち着かない。
だが、美由希は恭也の指導に不満はない。恭也がそう判断したのならそれがベストな判断なのだと信じているからだ。
―――それに何か夢を見たような気が?
どんな夢を見たか思い出せない。喉までは出掛かっているのだが、まるで脳が思い出すことを拒絶するかのように。
まぁ、忘れるってことはたいしたことじゃないか、と判断した後、もう一度背筋を伸ばした後、鞄から弁当箱を取り出し教室を出る。
「あ、美由希さーん」
そう声をかけて廊下をとてとてと駆けてきたのは茶色がかった肩程まで伸びた髪の少女。どことなくぽややんとした雰囲気を纏っている。
「あ、【那美】さん」
那美と呼ばれた少女はハァハァと軽く息を乱し美由希ににっこりと笑いかける。
「美由希さん、今日はお昼ご飯どうします?」
「私も今日は晶にお弁当作ってもらったのでどこか静かなところで一緒に食べましょうか」
「そうですねーそうしましょう」
神咲那美。
美由希より一つ年上の風芽丘学園の三年。去年に恭也との関連から知り合い、今では親友となった少女。
非常に穏やかな性格で、雰囲気の似通った美由希ととても馬が合うようで、休日も一緒に遊ぶことが多い。
「それじゃ、屋上とかどうでしょうか?」
「いいですねー。九月ですけどまだぽかぽかして暖かいですしね」
美由希の提案に那美は嬉しそうに頷くと連れ立って屋上へ向かう。
二人は最近あった出来事を話し合いながら廊下を歩いていると突然、美由希が後ろを振り向き、後方をじっと睨みつけた。
そんな美由希の様子に呆気にとられたように那美は目を丸くする。
―――【また】だ。
美由希の視線から逃れるように廊下の角から覗き見ていた人影が姿をスっと消す。
背筋を貫いていた透明な視線が消える。
―――監視されている?
「えっと……急にどうしたんですか?美由希さん?」
那美の台詞にも答える余裕はない。二学期に入ってから時々感じる【六】の視線。美由希を監視するかのように冷たく、鋭い。
一学期から監視されていたか定かではない。【北斗】との戦いで己の強さが一段跳ね上がったことは自覚している。それで気づけるようになったのかもしれない。
それほどこの【六】の視線は鋭くありながら希薄なのだ。
―――焦って手を出さない方がいいかな。
敵か味方かは分からない。むしろ自分の生まれを考えると敵の可能性が高い。
下手に手をだしてどうにもならない状況を作るわけにはいかない。自分一人ならまだいい。
もし家族にも被害が広まったら後悔してもしきれない。それに……。
―――強い。この六人は。
その完璧に近い隠形の術。美由希ですら気を抜くと捕らえられない。力量的に一人一人が下手をしたら自分と同等クラス。
一対一ならば負けるつもりはない。だが、そんな相手が六人。
―――今は様子見だね。
そう結論付けると美由希は那美に振り返る。
「あ、ごめんなさい、那美さん。早く屋上へ行きましょう」
「そうですねー行きましょう」
にこりと胸中を感じさせない笑顔で美由希は笑って那美と連れ立って屋上へと向かった。
風芽丘学園。
県外県内問わずかなり名の知れた名門校で同じ敷地に私立海鳴中央という中学もある種のマンモス学園である。
運動部が強く、そのなかでも護身道部や剣道部、バスケ部は全国レベルの強さを誇る。
そのため部活が割と活発に活動しているようで、中にはとんでもない部活も何故か存在する。
【帰宅部】。部活は強制ではないので入部したくない生徒は入らなくても良いのだから自然と帰宅部になるのだが、今年の一学期に何故か作られた部活。
【帰宅部】と銘打ってはいるが、実際は部室で遊び呆けているのでは、と憶測が飛んでいる。
そんな【帰宅部】の部室、それほど広くない部屋のなかでテーブルを囲んで座っている五人の生徒が居た。
特に話をしようとせず各々やりたいことをやっているような印象を受けた。
一人は坊主の少年。カリカリと数学の教科書を見ながらノートに式を書き込んでいる。
一人は眼鏡をかけた短髪の少年。眼鏡を手に取ると綺麗にレンズを拭いている。
一人は女性のような黒い長髪の少年。男子の制服を着ていなかったら女生徒と間違えられかねない容姿だ。
一人はセミロングの目の細い少女。寝ているのか起きているのかも区別がつかない様子で椅子に座っている。
一人は茶色の長髪を後ろで軽く結んだ少女。テーブルに腕を組み、その上に顎を乗せて欠伸をしている。どこか眠たさ気な様子だ。
静寂を破るように勢いよくドアが開く。勢いが良すぎて横にスライドしたドアがガンっという音を立てる。
「おぃ~す!あんた達、ご飯食べた?」
中に飛び込んできたのは水面だ。その両手には山のような菓子パンを抱えている。
「あんたが早く来いって言ったんだろ、鬼頭?おかげで食えてねーよ」
「全くですよ。昼食も買わずに部室に直行したんですからね」
眼鏡をかけた少年が吐き捨てるように水面に言う。眼鏡を吹き終わり、綺麗になったのを満足するように頷き、かける。
それに追随するように長髪の少年。顔は笑顔だが、内心は全く笑っていない。
「なーに、【葛葉】(クズハ)?男が細かいこときにしない。それに【秋草】(アキクサ)も。ほら、これあげるから我慢しなさいっーの」
水面は葛葉とよばれた短髪の少年に菓子パンを数個投げつける。それに続いて【秋草】と呼ばれた長髪の少年にも。ため息をつき、ふっと右手を振るう。溢すことなく空中をとんでいた菓子パンは葛葉の手に治まった。
「礼は言わねーぞ」
「有難うございます」
そう言うと袋をあけてムシャムシャと葛葉は食べ始める。秋草は逆に男とは思えぬようにチビチビと菓子パンを齧る。
「それで、今日は何用でしょうか、鬼頭殿?」
「あんたは礼儀ただしいわねー【風的】(カザマト)!褒美にこれをあげるわ」
「すでに昼食はとりましたのでお気になさらぬよう。間食はしないようにしております故に」
坊主頭の少年がノートから視線をあげて答える。そしてノートと教科書を片付け始める。それに投げつけようとしていた菓子パンを渋々と手元に戻す。
「あんた達はいるー?【小金衣】(コガネイ)、【如月】(キサラギ)?」
「いらない」
「あ、うちはメロンパンあったらほしいですー」
眼の細い少女……小金衣がばっさりと斬って捨てる。それに対して茶髪の少女……如月は目をキラキラとさせて水面に眼を向ける。
「ほいほい。メロンパンねーほいさ」
何故そんなに買ったのかとつっこみたくなるほどの量のメロンパンを如月に投げつける。葛葉と同じく器用に空中ですべてキャッチすると嬉しそうにメロンパンを頬張った。
五人に菓子パンを配り終わった後に水面はドンと手近にあった椅子を引き腰をおろす。
「んじゃ、時間も時間だしちゃっちゃと何時もの報告よろしく!」
水面の台詞に葛葉が首を傾げる。
「ついに人数も数えられなくなったか、ボケ女。部長がまだきてねーだろ」
「ああ、あいつはちょっと遅れるってさー。クラス委員だかなんかの仕事があるんだって。大変だねぇ、優等生は」
辛辣な葛葉の言葉にも水面は笑顔を崩すことなく答える。葛葉は舌打ちする。
「おっけーおっけー。そういうことかよ。まぁ、俺から報告するよーなことはねーわ。【御神】に異常は無し」
「あ、そう。あんた達は?」
「某の方も特には」
「僕のほうもありませんねー」
「無い」
「うーん、うちもありませんねー」
「ほいほい。まぁ、何時もどおりってことね」
五人の報告に水面はクリームパンを齧りながら適当に頷く。
そう。水面達はある事情から美由希を監視しているのだ。美由希が感じていた視線は水面を含むこの六人からの視線。
「あーでも一つ気になることがあるんですけど、うち」
「うん?何かあったの?如月」
「うーん。気のせいかもしれないんですが【御神】さんが最近うちらの監視に気づいてません?」
「あー……あんたもそう思う?」
「アレ?鬼頭先生もですか?」
如月の憶測に水面は頭をポリポリとかく。参った参ったと両手をあげる。
「そーなんだよねー。何か二学期に入ってからやけに鋭くなったというか……一学期に比べるとまるで別人だしさー」
「うちの勘違いじゃなかったんですねぇ」
「違う違う。今の【御神】は強いよ。多分、私達と互角……或いはそれ以上かもね」
「ですよねー。正直、うちは【御神】さんと戦っても一対一だと勝てる気がしないですし」
あっさりと自分では勝てないと言い切った如月。そんな如月に葛葉が侮蔑の視線を向ける。
「は!はなっから敗北宣言かよ、情けねーな。それでも栄えある永全不動八門一派が一。如月流掌術の後継かよ!」
「うーん。うちは如月でも落ち零れですから。皆さんとは違いますし」
「ち……つまんねーな」
不機嫌そうに葛葉がテーブルに足を乗せる。その態度に風的が眉を潜める。礼儀を重んじる風的にとっては横柄な葛葉の態度は不快を感じさせる。
そんな葛葉を諌めるために風的が口を開こうとした瞬間、横から小金衣が口を挟んだ。
「自分を過大評価しすぎ。はっきり言うけどアンタじゃ、如月はおろか今の【御神】にも勝てはしない」
「ぁあ?」
ピシリと部室の空気が音を立てて凍った。葛葉と小金衣を中心に空間が歪むかのように音を立てる。葛葉がテーブルから足を下ろした。
ゴキリと葛葉は手首を鳴らす。肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべる。
対して小金衣は自然体で葛葉の殺気を受け流す。まるで最初からそんなもの存在していないかのように。
「やめておくといい、葛葉。この狭い空間ではアンタじゃ私に勝てない」
「……舐めんな、小金衣。永全不動八門が一。葛葉流槍術をその身に刻めや」
小金衣の言葉を合図に葛葉の殺気が爆発。テーブルが弾け飛ぶ。葛葉と小金衣がぶつかり合おうとした瞬間。
ゾワリと、言葉では表現できないような暗くて黒くて冷たい何かが二人だけに降り注いだ。
まるで巨人の腕で上から押さえつけられたような圧迫感が【二人】を襲った。少しでも気をぬけばその重圧に地面に叩き潰されそうなほどの衝圧。
ドクン、ドクン、ドクンと互いの心臓の音が耳を打つ。本能が恐怖する。この重圧を放つニンゲンに。
葛葉も小金衣も弱くはない。弱いどころか桁外れに強い。未だ十代に関わらず各流派で【天才】と称されるほどに。
天から与えられた才能。他を圧倒する技術。強き意思。恵まれた環境。
この場にいる全員がそれらを有した【永全不動八門】の者達。
そんな葛葉と小金衣ですら恐怖を抱くような闇。それを放つ正体を二人は―――知っている。
「―――何をしているのかしら?」
鈴が鳴るような声。どこか小馬鹿にしたような口調。いつのまにかドアを開けて立っていたのは一人の少女。
きりっと伸びた柳眉に漆黒の髪。それと同じく黒の瞳。背は女性にしては平均くらいだろうか、百六十ほど。人並みはずれた容姿だ。
ただ見ただけならモデルでも通じる少女だったが、彼女の纏う雰囲気が全てを裏切っていた。まるで抜き放たれた刀。それをイメージさせるような研ぎ澄まされた雰囲気。
「……あ、【天守】(アマノカミ)……」
「……【翼】さん……」
息も切れ切れに葛葉と小金衣が呟く。未だ二人だけに降り注いでいる重圧は取り除かれていない。
天守翼はなにも特別なことをしているわけではない。ただ、二人だけに殺気をはなっている。それだけなのだ。
それだけで二人は動きを縛られている。それほどこの少女は何かが違っていた。
「この海鳴では私達【永全不動八門】同士の私闘は禁止しているはずじゃなかったかしら?」
「……っ……そ、それは……」
「……申し訳ありません……」
葛葉が視線を逸らし、小金衣が俯き謝罪を述べる。そんな二人を見た翼は鼻で笑うと扉を閉めてツカツカと部屋の中に入る。
翼はふっと視線を二人から離す。その途端、二人を縛っていた重圧が取り除かれ自由になる。
「く……っ……」
「……ハァ……ハァ……」
だが、二人は床に四肢を付き呼吸を整えようとする。そんな翼を見た水面がニヤニヤと笑う。
「相変わらずのでたらめぶりねー。さすがは【天守】」
「それはどうも、鬼頭先生」
笑いもせず翼は椅子を引き座る。足を組み、六人を見回す。達観したような顔。だが。全てを見下したかのような瞳。
「随分と欲求不満みたいね、葛葉」
「っ……そんなことは……」
「いいのよ、正直に言って。私も最近は退屈で仕方ないもの」
「……」
「だから喜びなさい。監視は終わりよ」
「!?」
驚く葛葉。勿論、驚いたのは葛葉だけではない、水面も、小金衣も、秋草も、如月も、風的も、皆が驚いた。半年以上も【御神】の監視だけを続けていたのだから。
それに満足そうに翼は頷いた。
「さぁ、始まるわよ。【御神】と【永全不動八門】の戦争が!!」
翼は厭らしい笑みを浮かべ天を仰ぎながら雄叫びの如く戦いの宣誓を告げた。
師である恭也から与えられた特別メニューも終わり、汗を流そうと美由希は風呂に向かう。
脱衣所で服を脱ぐと白い肌が露になる。恭也の傷だらけの身体とは違い美由希には眼に目立つ傷はない。
さすがに女性ということもあり、恭也が気を使っているのだろう。
白いタイルを床一面に張った空間。
軽くシャワーで汗を流した後、若干熱めのお湯を張った湯船につかると手足を伸ばす。
「んー」
疲労した身体に染み渡るかのように心地よい。
「ふぃ―――極楽極楽」
湯船にもたれてはぁーと息を吐くと両手を併せて上に持ち上げて伸びをする。身体が弓のように逸らされ何ともいえない心地よさが全身を包む。
風呂場は、普通の家より大きい高町家に比例してそこそこ広い。美由希が足を伸ばしてもまだ余裕があるくらいなのでゆったりできる。
口元まで湯船につかるとぶくぶくと息を漏らす。
―――まだまだだなぁ。。
自分は強くなった。自惚れではなく、第三者の目からみてもそう称されても可笑しくはないだけの実力を備えている筈だ。
それでも、未だ師の影さえ踏むことが出来ない。上限が見えない強さ。限界を見極めれない強さ。
何時追いつけるのだろうか、兄に、師に。
例え十年かかろうが二十年かかろうが、追いついてみせる。
それが師が私に望んでいることなのだから。
筋肉をほぐしながら十分ほども入浴していただろうか、湯船からあがり身体を洗う。
再びシャワーで洗い流した後、脱衣所に戻り身体を拭き、濡れた髪の毛を乾かす。髪の毛が長いため乾かすのも一苦労だ。
鼻歌を歌いながらゆっくりと乾かしていると、ふと美由希は恭也の気配を感じた。
どうやら鍛錬から帰ってきたようだが、おかしい。
普段ならもっと遅くまで鍛錬を行っているのに随分と今日は早い。
それに覚えがない気配が一つ一緒に感じ取った。
首を捻りつつ寝間着を着ると脱衣所から出て恭也に声をかけようとする。
「おかえりなさーい、きょーちゃん。今日は、はやかった……ね……?」
「……美由希か」
「お邪魔させてもらうよ……高町美由希」
美由希が驚きで固まる。
恭也以外の誰かと思いきや全くもって予想外の人物。
廊下に立っていたのは北斗が二座、武曲。一ヶ月程前に戦った水無月冥。
だが、以前のような苛烈な意志の光がその表情からは読み取れない。明らかに以前とは異なる憔悴したような様子。
「え?あれ?冥さん?えーと……あれ?」
半ばパニックになりながら美由希が疑問を投げかける。ぐるぐると疑問が頭のなかを巡っている。
そんな美由希に対して恭也は冷静そのもの。外見上だけはだが。
「そこで拾った」
「拾ったって……ええ!?」
恭也の台詞に美由希が心底びっくりしたように大声を上げる。
「うるさい。なのはが起きるだろうが」
音もなく間合いを詰めた恭也の強烈なデコピンが美由希の額に直撃。
ゴンっというもはや何かを殴ったかのような音をたてて、美由希の脳に直接響く衝撃。
「ぁぁ……ぅぅ……」
激痛に美由希が額を押さえて廊下に座り込む。
「……拾ったか……言いえて妙だね……あはは……」
そんな二人を最初は呆然と見ていた冥だが、恭也の言葉に笑って見せる。
暗い影はとれてはいない。だが、確かに冥は笑っていた。
「先に風呂に入ってくるといい。俺は少し夜食でもつくっておこう」
そんな冥を横目でみた恭也はそう言い残すとキッチンへと向かう。
未だ蹲っている美由希の横を通る時に、美由希にだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「……話は後で話す。今は何も聞くな」
「と、いうことがありましてねー。お陰で寝不足なんです」
「あはは。それで眠そうなんですねぇ」
翌日の昼休み。風芽丘学園の屋上。
多くの学生が各々弁当を広げて食べている姿が見て取れる。その一画で美由希と那美もまた昼食を取っていた。
美由希が昨日あった出来事を話しながら目を擦る。
そんな美由希に相槌を打ちながら箸で玉子焼きを口に運ぶ那美。
勿論、美由希も馬鹿正直に話したわけではない。【北斗】のことやらを省き、高町家に居候が一人増えたことを那美に話していたのだ。
「今度美由希さんの家に行ったら会うかもしれませんね~」
「多分会うかもしれないですね」
にこにこと笑う那美に答える美由希。
昨夜恭也にある程度の説明を聞かされていた。勿論、美由希とてすぐには信じられる話ではない。
あの水無月殺音が殺されたなど。
言いたくはないが殺音に勝てる存在を思い浮かべるならば、高町恭也唯一人。
自分では到底及ばない、正真正銘の化け物だ。
その水無月殺音を殺したなどすぐには信じられない。
それでも、あの冥の様子を見るからには嘘だと言える筈がない。
殺音にあったときにも感じたことだが、世の中には意外ととんでもない存在がいるのだということを美由希は思い知らされた。
「美由希さん、美由希さん」
「え?どうしました、那美さん?」
「ぼーとしてましたけど大丈夫ですか?」
「あれ?ああ、すみません!!」
少し考え込んでいたようで昼食を食べる箸も止まっていた。周囲をみれば美由希と那美以外の生徒はすでに居なくなっている。
時計をみればもうすぐ昼休みが終わる時間だ。
慌てて昼食をすませると弁当箱をしまう。那美も美由希に併せるように弁当箱をしまうと立ち上がる。
「それでは、戻りましょうか」
「はい」
二人連れ立って屋上から校舎に戻り階段を降りようとしたときだった。
もうすぐ昼休みが終わるというのに屋上へと続く階段を登ってくる生徒が一人いた。
やや茶色に染まった長い髪を後ろでリボンで結いでいる少女。美由希や那美に引けを取らぬ人目をひく少女。
美由希と視線があうとにっこりと笑いそのまま美由希を避けて屋上へと向かう。
階下へと降りていく美由希の足が止まる。ぞわぞわと嫌な気配が美由希を包む。
足元から這いずり出たような幾つもの手が美由希の足首を掴んで放さないような感覚が離れない。
「どうしました?美由希さん」
そんな美由希を何段か下から那美が首を傾げて見上げる。強張っていた表情を一瞬で消すと美由希は答える。
「ちょっと忘れ物をしましたので那美さん先に教室に戻ってください」
「あら?私も行きましょうか?」
「あ、大丈夫です。すぐですから。また放課後に会いましょう」
「そうですか~。また放課後ですね」
那美が階下に降りていくのを確認した後、美由希は屋上へと戻る。
屋上にはすでに人影はない。あるのは唯一つ。先程の少女のみ。
屋上全域に張り巡らされているフェンスにもたれかかるように屋上へと出た美由希に出迎えていた。
心臓の鼓動が激しく高鳴る。向かい合っただけで分かる。
このフェンスにもたれかかっている少女は……強い!!
「もう昼休み終わってしまいますけど―――申し訳ないです」
「え……?」
そんな美由希の内心とは逆に少女は謝りながら深々と頭をさげる。
それに美由希は意表をつかれた様に呆けたような声を出す。
「初めに言っておきます。うちは貴方に危害を加えるつもりはありません。だから落ち着いて聞いてください、【御神】さん」
「……!!」
ドンっと音をたてたように膨れ上がる美由希の闘気。激しい風圧。
勿論、実際に風圧が巻き起こったわけではない。
だが、確かに暴風の如き圧力が美由希の周囲で荒れ狂ったのは事実だ。
もし、この場に一般の人間が、いやある程度武をかじった人間がいたならばその圧力の前に気を失ったかもしれない。
その殺気に若干驚いたような顔になる少女。だが、慌てるでもなく両手を挙げて降参のポーズを取る。
「不審に感じるのは当然だと思います。うちは【如月紅葉】。貴方と同じく【永全不動八門】の一つ、【如月流掌術】を伝える一族の者です」
油断なく美由希は如月紅葉を窺う。そんな美由希に対して紅葉は邪気のない笑顔で答える。
「急いで伝えないといけないことがありまして、このような礼を欠いた行為をしてしまったことをまずは深くお詫びします」
「……何が目的なんですか?」
「えっと……忠告です。これからしばらくは学校に来ないで下さい。何かしらの理由をつけて。お願いします」
「……」
学校に来るな、という紅葉に不審気に見る美由希。
「いきなりこんなこと言われて疑うのは当然だと思います。でも、貴方の身を護るにはそれしかないんです」
「説明、してくれますか?」
紅葉の言葉と様子にようやく殺気を鎮めると美由希は紅葉に説明を求める。
「話が長くなるので要点だけを話しますね。今、この海鳴には永全不動八門全ての一族が集まっているんです。彼らが【御神】さんを狙っています」
「もしかして監視されていたのは……」
「あー、やっぱり気づいてましたか。そうです。うちらですね、それは」
「……永全不動八門ですか」
「はい。私を除いて六人ですが全員が強いです。永全不動八門の秘蔵っ子。天才と名高き猛者ばかりです」
「本当……ですか?」
美由希を衝撃が襲った。目の前の紅葉が全員が強い、と断言したのだ。
信じられない気持ちであった。
はっきり言おう。美由希が感じ取れる限り紅葉は強い。強い、と言葉に言い表せないほどの底が知れない何かを秘めた少女。
全力で戦っても良いところ互角。それほどの少女。
その紅葉をして強いと称するほどの相手が六人もいることが、恐ろしい。
「恐らくですが【不破】さんと一緒に行動していれば【御神】さんが襲われることは無いと思います。勿論、襲われたとしても【不破】さんと一緒ならばどうにでもなるはずです」
「きょーちゃんのことも知っているんですか?」
「勿論です。【御神】と唯一共に歩きし殺戮一族。戦いを挑むな、挑めば死ぬ。彼の者こそ【不破】が生み出した最終血統。永全不動八門の間では有名ですよ。【御神】には不可侵の約定を取り付けた魔物だと」
「……」
唖然とした。まさか恭也が、兄がそんなことをしていたとは。それほどまでに恐れられていたとは。
そして疑問を持った。紅葉の言葉。台詞は兄を畏れているようだが、笑っている。恐れなどまるで無い。まるで憧れの人物を語るかのような尊敬の念さえ窺えた。
「【不破】さんは至高の剣士です。強き者。何人たりとも彼の横に立つことはできない孤高のヒト。太陽……そうですね、あの人は太陽なんです。誰も近づくことが出来ない。近づきすぎればその身を焼かれてしまう」
「……」
ぞわりと、美由希の肌が粟立った。全身の血液が凍ったような、異様な感覚。
恭也とはまた違った異質なまでの威圧感。
そんな紅葉がくすりと笑い、テヘっと舌をだす。先程までの危うい雰囲気を一瞬で消し去る。
「あ、すみません。変なこと話してしまって。【不破】さんと一緒に居れば天守さんも手をだせないと思います。しばらく時間を稼いでいただければ私も如月宗家に連絡を取って何とかできるように動きますので」
周囲を沈黙が包む。
その時その静寂を破るように昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
―――十数秒。
鐘が鳴り終わった後、美由希がようやく口を開こうとした瞬間。
「おいおい、何をほざいてやがんだ?如月よぉ……抜け駆けってわけじゃないよーだけどな!!」
美由希が屋上を蹴り前に跳びつつ背後をみやる。
気配はなかった。つい先程までは。
気配を消して隠れていた?それとも丁度今、屋上に来た?どちらにせよ美由希が気配を感じ取れなかった事実。
屋上の入り口を塞ぐように立っていたのは二人。一人の少年と一人の少女。
獰猛な笑みを浮かべている葛葉。それとは対照的に無表情の小金衣。
「初めましてってところか、【御神】。同じ永全不動八門のよしみで名乗っておいてやらぁ」
葛葉がポケットから筒のような物を出す。クルリと掌で回転させた次の刹那、彼の両手には穂先が十字になった十文字槍が握られていた。
葛葉は肩に十文字槍を担ぐと、美由希を真っ直ぐに見据える。
「修めた流派は葛葉流槍術。葛葉弘行だ」
ビリビリと空気を伝わってくる闘気。先程美由希が放った闘気とは勝るとも劣らない。
そんな葛葉が横に立ったままの小金衣を刃のついてないほうで突付く。
小金衣はそんな槍を手で軽く弾き落としため息を吐きつつ前に出る。
「葛葉と同じく永全不動八門の一つ、【小金衣流杖術】。小金衣夏樹。よろしく、【御神】」
何もかも対照的な葛葉と小金衣。葛葉の荒れ狂う闘気と小金衣の波の無い海面のように静かな闘気。
感じ取れる確かな実力。美由希の頬を汗が一滴流れて、落ちる。
肌で感じる相手の力量。数ヶ月前の自分では相手にならないほどの実力。
成る程。これが永全不動八門の流派を修めた者達。
美由希の手が武者震いで震えた。
「わりーけど俺からやらせてもらうぜ、小金衣。半年近くもお預けくらってたんだからな」
「……好きにすれば?」
小金衣は壁にもたれかかるとどうでもいいかのように答える。
それに嬉しそうにニヤっと笑って葛葉が十文字槍を肩からおろして構えた。
対する美由希も構えはするが内心は焦燥していた。まさか学校の真昼間から戦闘をしかけてくるとは思わず小太刀を持ってきていなかったのだ。
現在隠し持っている武器は飛針数本と鋼糸。正直な話、分が悪い。
「待ってください。こんな所で始めたらどうなるかわかってますよね、葛葉さん!?」
そんな二人の間に割って入ったのは紅葉。激しく葛葉を一喝する。
紅葉の台詞に葛葉は一瞬不快そうな顔をするが、槍の先を紅葉に向けたまま犬歯を剥き出しにして吼えた。
「お前は黙ってな、如月!!これは俺と【御神】との戦いだ!!邪魔をするならお前ごと―――」
葛葉の言葉は最後まで続かなかった。葛葉や美由希を遥かに上回る暗い闘気が屋上全体を包み込むように展開された。
その様子はまるで結界を張られたかのようで、美由希の全身がぶるりと震える。
さんさんと光を落とす太陽が陰ったような気すらその場にいた全員は感じた。 有り得ない、と戦慄く身体を押さえてそう絶叫したかった。これほどの威圧感を放つ存在を美由希は二人しか知らない。
高町恭也と水無月殺音。
二人に匹敵しかねない圧倒的な闘気を撒き散らしながら彼女は、天守翼はそこに現れた。
どう見ても己と同年代にしか見えない少女。武器ももたず、肩にかかった髪を手で弾き見下すような瞳で美由希を見やる。
身長は同じくらいなのにまるでそびえたつ巨人のように遥か上空から見下ろされてる気さえした。
「勝手に動きすぎよ、貴方達」
桜色の唇から美しい声が漏れた。それにビクリと身体を奮わせる葛葉と小金衣。そして紅葉。
葛葉が何かしら言いた気に口を開こうとするが一睨みでその口を閉じさせる。
「如月。貴方がしたことは目を瞑ってあげる。だから黙ってなさい。良いわね?」
紅葉に問いかける翼。だが、違う。これは選択肢の無い問い。圧倒的な圧力が紅葉を襲い、翼が望むハイという言葉だけを紡がせる。
それでも紅葉は唇を噛み締めてその圧力に屈しまいと耐え切ろうとする。
その紅葉の様子に眉を動かして、感心したように驚いた顔をした。それも僅かな時。今度は面白そうに紅葉を見る。
「―――驚いたわ。大した胆力ね」
「……」
沈黙の紅葉を哂うと翼は興味を無くした様に階下へと降りる階段に向かった。
顔だけをやや後ろに向けて美由希を見据える。
「話くらいは聞いてると思うけど私は天守。天守翼よ。私の目的は貴方だけ。貴方が無様な真似さえしなければ貴方の家族には手を出さないと誓ってあげる」
信じるか信じないかは貴方次第だけど、と聞こえるか聞こえないかの声で付け足す。
「それと今回のところは退いてあげる。貴方も万全じゃないでしょうしね」
翼はもはや用は無いと言わんばかりに踵を返す。
「帰るわよ。葛葉、小金衣、如月」
そのまま階下へと姿を消した翼を追って小金衣も後に続く。
葛葉だけは名残惜しげに翼の消えた方向と美由希を交互に見た後、ため息を吐いた。
「やる気が削げたな。折角の良い機会だったってーのに」
頭をかきながら葛葉も美由希に背を向ける。
三人がいなくなった後、美由希は身体の芯からくる震えを抑えるので精一杯であった。
風の音も耳から遠ざかっている。鼓動の音さえ。
強いとかそういった表現ではおさまりきらない。葛葉や小金衣とはまた一回り違った底知れぬ力量。
恐ろしいまでに強大な相手。美由希の思考全てを占めている存在感を示した少女。
あの少女もまた、普通の人間が一生かかっても到達できない領域に足を踏み込んでいる存在。
恭也と同じとは言えないまでも、それに匹敵しかねない境地に住んでいる。
美由希の口元から紅い血が流れた。悔しさのあまりに唇を噛み切ったのだ。
同年代で、あそこまでの高みに登っている少女が、存在がいることに美由希は発狂しそうになった。
美由希の心中に渦巻いている感情。それにようやく気づいた。
―――ああ、これは恐怖じゃない。
それを理解した時身体中の震えがぴたりと治まった。
―――これは、嫉妬なんだ。
自分以上に恭也に近づいている存在がいることに、美由希は確かに嫉妬していた。
羨ましい。妬ましい。悔しい。
美由希の身体から溢れんばかりに発せられる……鬼気。
残された紅葉の眼が驚きで大きく見開く。
とてつもなく膨大で、とてつもなく強大で、とてつもなく巨大。
天守翼という天才と出会ったことで、その才覚に共鳴するかのように美由希の潜在能力も目覚めつつあった。
美由希は立ち上がると翼が去っていった方角を見つめて眼を細める。
―――天守翼、貴方は私が倒す。倒して証明してみせる。私こそが高町恭也に最も近い剣士なのだと!!
授業中のためか人気の一切ない廊下を無言のまま歩く翼。
その後ろから一歩遅れてついていく葛葉と小金衣。葛葉は両手を後頭部にやってやれやれと呟く。
「いいのかよ、天守。折角のチャンスだったのによ」
「何?葛葉。貴方は小太刀も持っていない【御神】を潰して楽しいのかしら?」
「ぅ……」
言葉に詰まる葛葉に翼は視線を向けることなく歩く。
そんな態度に葛葉は小金衣に顔を向けるが知らん振りをされてしまった。
「で、でもよー。【御神】から【不破】に話がいったらどうするんだよ?相当厄介な野郎みたいだけど」
【不破】という単語に翼が足を止める。そして振り替えて葛葉を見据えた。恐ろしいほど透明な笑みを浮かべて。
「大丈夫よ。何があっても【不破】は動かないから」
「いや、【不破】って【御神】の師匠なんだろ?普通は動くだろう、普通は」
「【普通】は、でしょう?【不破】は普通じゃないってことかしらね」
「言葉遊びしてるわけじゃねーだろうが……」
ゾクリと葛葉の背筋に氷柱をつっこまれたかのような悪寒を覚えた。
哂っている。見下すかのように。
「心配しないでも【不破】は絶対動かないわ。だから余計なことを考えなくてもいいの、貴方達は」
冷たい。その表情といい言葉といい。
それ以上突っ込むことも出来ず葛葉は視線をそらす。
「でも、まぁ、一度でいいから【不破】とやりあってみたかったな」
それは話をそらせるために口に出した他愛も無い冗談。軽口。
その瞬間、翼は明らかに変わった。確実に変わった。絶対的に変わった。
今までの翼とは違い、とても二十にも満たない小娘とは思えない妖艶な双眸が、危険な光を放ちつつ葛葉を捉えた。
「―――貴方が【不破】に勝てると思ってるのかしら?」
「やってみなくちゃわかんねーだろうが」
息を呑みつつ、なんとか答えた葛葉。
「そうね。そう思ってるほうが幸せかしらね」
憮然とした葛葉など眼中にないかのように遠くを見るかのような視線を浮かべる。
―――ああ、分かっていないのね。
葛葉では、戦っても万が一はおろか億に一すらの可能性すらないのに。
分かっていない。ここに居る誰もが分かっていない。いや、そもそも分かっている人間など自分以外にいやしまい。
彼の実力を。彼の技量を。彼の外れ様を。
彼は強い。強すぎる。あまりにも。格が違う強さ。
「……お前なら勝てるっていうのかよ、天守」
「さぁ?どうかしら?」
ああ。なんて面白いことを言うのかしら、葛葉は。
彼に勝てる?誰が?私が?
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス。
面白い。本当に面白い。面白すぎて、笑い転げてしまいそうだ。
あの絶対強者にこの私が勝てるか、ですって。
私の【才能】をも凌駕する修練に修練を重ね、果て無き地獄に身を置き続けるあの狂人に。
【今】の私では到底及ばない。百度戦ったとしても、一度として勝つ機会すら訪れない絶望的な実力差。
彼こそが―――最強。私が知る限り永全不動八門全てを超えるモノ。
努力の先にて人の身を外れた異端の王。
私の求める到達者。彼の領域こそ私の求める最強への最終到達域。
三年。あと、三年。それだけは必要。私が【今】の彼に追いつくには。
だけど、私は諦めている訳ではない。諦めるわけにはいかない。
私もまた最強を求め続けるモノ。だから利用させてもらうわ、【御神】。
貴方を高みに引き上げてあげる。今よりも更なる高みに。私が住まう領域に。
私の牙を磨ぐために。あの存在にその牙を突き立てるために。
彼の望みと私の望みが一致する限り、どこまでも引き上げてあげる、【御神】。
―――だから、貴方は私の望むが侭に、【最強】の頂に座していて頂戴。不破恭也。。
永全不動八門との顔見せから数日の時が流れた。
あれから八門からの襲撃も、監視もなくなっており逆に美由希を不安にさせている。
そんな不安を消し飛ばすように鍛錬に励む美由希であったが、やはり不安を完全に隠せるわけもなく桃子や恭也、果てはなのはにまで心配される様である。
怪我もいよいよ完治して戦いに関しては問題なく動けるようになったが、師である恭也は最近高町家に居候している冥と行動を共にしていることもあり相変わらず一人で鍛錬を行っている。
美由希としては悔しい部分もあるが永全不動八門との戦いは恭也に気づかれたくないと、己の手で決着はつけたいと思っているところもあったので逆にこの時ばかりは有難かったかもしれない。
最も、やはり兄に女性がひっついているところを見ると嫌な気分にもなってしまうが……。
そんなある日の夕方、高町家の庭の片隅にある道場で美由希は正座をしてイメージトレーニングを行っていた。
相手は恭也。どんな攻撃をしてくるか、どんな動きをしてくるかは限界の見えない恭也だとしても十年近くも共に剣の道に励んだ者同士。
ある程度は美由希とて理解しているつもりだ。それに水無月殺音との戦い。あの時の恭也こそ、きっと全力だったに違いない。
眼を瞑る。漆黒の空間の中で、もやもやとした霧が徐々に人の形を形成していき、ようやくイメージが固まった。
一呼吸。美由希の思考を押しつぶすように激しく斬りあう二人。
己の出来る全力を、全てをイメージの中の恭也にぶつける。恭也はその全力すらも軽々と受け流す。
初めは互角、その形勢も一瞬で崩れた。
「……ハァ……ハァ……ゲホッ!!」
殺された。何の迷いも無くイメージの中で、美由希は二分と持たず、恭也に斬り殺された。
速さだけなら自分の方が上かもしれない。それでも、上手い。恭也はまるで数十年も先に剣術を学んでいたかのような老練さを持つ。
それこそが恭也の強さ。派手な技でもなく、力任せな剣でもなく、スピードで相手を翻弄するのでもなくそんなものには頼らない。
己の努力で積み上げてきた基本。地味ともいえる、その基礎が想像を絶するほどの高みにあるのだ。
達人ほど基本を大切にするという。まさに恭也はそれを体言していた。
美由希は頬を流れる汗をふくと立ち上がる。考えることは大切だ。それでも考えてるだけでは強くなれない。
まずは軽く走ってこようと道場を出ようとしてようやく道場の入り口に恭也が立っているのに気づいた。
イメージトレーニングに集中するあまり恭也の気配に気づいていなかったことに美由希は多少ショックを受ける。
「俺が敵だったら美由希、お前は死んでいたな」
「ぅ……」
事実故に反論できない。普段ならしたかもしれないが永全不動八門との戦いがいつあるか分からない。いくら家にいるからとはいえ油断していたことに違いは無い。
恭也は道場に入ると壁にかけてある木刀の所まで歩いていき一本手に取る。
その木刀を軽く振る。空気を裂く音が聞こえた。
「これはつまらない話だ。聞き流しても良い」
「……?」
木刀を見たまま、何か過去を思い出すように恭也は独白し始めた。
「俺はこれまでの人生の中で【天才】という言葉が相応しい人間に四人あったことがある」
「四人?」
「一人はレンだ。正直な話を言うとレンの武才を恐ろしいと俺は思ったことがある」
「……うん」
それには美由希も同感であった。
鳳蓮飛。
その武才は文字通り桁が違う。心臓を患っていて昨年手術をするまで、長時間の運動もできない身体でありながら武器を使わない無手の戦いならば美由希とて勝てるかどうか。
一日数十分の運動が限界の身体だったのだ。努力をしないのではなく、できなかった身。そんな身体でありながらも、レンの武才は恭也をして恐れさせた。そして最も恭也に己の凡才さを身体の芯まで叩き込んだ少女。
「二人めが【御神相馬】。お前の父であり御神正統伝承者であった御神静馬さんの兄だ。つまりお前から見れば叔父ということか」
「……え?叔父?」
「ああ。御神宗家の長男でありながら強すぎたが故に御神を追われた人だ」
「強すぎたが故に?どういうこと?」
「才に驕り、他人を見下し、己の望むがままに行動していたんだ、あの人は。己以外を人間扱いしていなかった所もあってな。そのために御神から追放されてしまった」
「そんな人がいたんだ……」
「幼いながらにも記憶にある。あまり悪口は言いたくないが碌な人ではなかったな。とーさんのほうがまだマシだった」
「あ、あはは」
恭也の冗談に苦笑いをする美由希。一瞬気が抜ける。
「……だが、強かった」
昔を思い出すように遠い眼を一瞬した恭也。相馬という人のことを思い出していたのだろう。
そして、三人目だと恭也が呟いた。
しかし、美由希はなんとなく次にでてくる人物の名前を予想できていた。
きっとその人物がでてくるだろう、と。
「御神と双璧をなした天守家。その天守の次期当主。天守翼だ」
―――やっぱり。
「アレの才能は別格だ。産まれた時から既に他とは異なる時間領域の住人。アレの行動は全てが才能によって成される。俺とは対極にいる人物ともいえる」
「……」
息を呑む。あの兄にここまで言わせる人間と闘わなければいけないのだ。
天守翼に勝つ。勝たなければいけない。それは分かっている。その意思もある。
それでも今の美由希では翼に勝てる自信がなかった。
戦いにマグレはない。互いの純粋な実力によって確かに勝敗が分かれるのだ。
翼は強い。あの周囲を威圧するかのように発せられる闘気。
悔しいことに確実に、己よりも……強い。
手に持つ木刀をギュっと握り締める。
「四人目が……」
恭也がそこで息を吐く。強張っている美由希を優しい眼で見る。
その穏やかな視線に美由希の緊張が解かれていく。
「お前だ……美由希」
「ぇ……?」
あまりに意外な四人目に美由希が呆けた声を出す。というより心底驚いた。
馬鹿弟子とよばれているだけに師にそう思われていたとは露にも思っていなかった。
「お前は天才だ。才能と努力。その二つを怠らないお前こそが真の意味で天才に相応しい」
くしゃりと時々されるように頭を撫でられる。不意打ちだったゆえにぞくっとした快感が一瞬背筋を駆け抜ける。
「驕るな。自惚れるな。慢心をもつな。今のままのお前でいろ。そして俺に見せてくれ、真の最強というものを」
―――ああ。
そうなのか。そうなんだ。
自分は、高町美由希という存在は高町恭也にここまで認められていたのか。
なんて幸せなんだろうか。なんて嬉しいんだろうか。
なんとも言えない幸福感が美由希の全身を包む。一生その暖かい感覚に身をゆだねたい気持ちになる。
ふとその感触が、気配が消える。いつのまにか離れたのか恭也が一足刀の間合いをとって木刀を構えている。
首を捻るように美由希が無言で問いかけるが恭也は先程までの優しい表情を消していた。
「お前に御神の―――終局の一手を見せてやる。今からお前に一撃だけ打つ。防御してもいい。避けても良い、できるのならな」
「……はい!!」
先程までの余韻を消す。今までにないほど美由希の気力は充実していた。
意識が研ぎ澄まされる。神経全てが敏感になったかのように周囲を感じ取っている。
今ならばきっとどんな攻撃にでも対応できる。そう美由希は確信していた。
事実、今の美由希はこれまでの生涯でもっとも集中していた筈だった。
対する恭也が動いた。ゆっくりと足を踏み出す。何の力も込めていないかのような横薙ぎの一撃。
普段の師の一撃とは思えないほどの緩やかな斬撃。美由希は確かにその一撃を認識していた。少し手に持っている木刀を持ち上げれば軽がると受け止めれることは明白。
だが、手が動かない。足が動かない。身体が強張ったかのように身動き一つ取ることが出来ない。ただ、視線だけが恭也の木刀を追う。
空間を裂くようにゆったりと恭也の木刀が美由希の首元で止まった。
反応できなかった。認識していたはずなのに。
―――何故?どうして?
疑問が駆け巡る。今の一撃は一体何なのか。
恭也は木刀を美由希の首元からどかすと元にあった位置に立てかける。その時になってようやく美由希の全身から冷や汗が流れ、ガクンと腰を道場の床についた。
全身を襲う気怠るい感覚が、全力で数分の間走りこんだような虚脱感が美由希を蝕む。
「……い、今のは……?」
掠れる声で恭也に問いかける。
斬?貫?違う。そんなレベルのモノではない。
恭也が言ったとおり防御や回避などできる類のモノではない。
混乱している思考で考えて考えて考え抜いて、ようやく先程の現象が何なのか分かった。
恐らく先程の横薙ぎはあまりに高速すぎたのだ。速過ぎたが故に、美由希は無意識のうちに神速を発動させその斬線を追ったのだ。
己を普通とは異なる時間外領域に置くことによってようやくその一撃を認識することが出来た。
そして、信じられないことに神速の領域においてさえ認識することしかできなかったのだ。
恭也の斬撃は神速の領域でさえ指一本動かすことが出来ずに美由希へと迫ったという事実。
「……ま、まさか今のは……」
今の技を、美由希は思い当たった。実の母である御神美沙斗から聞いたことがある。
曰く、如何なる力も無効化し、如何なる速さも超越し、如何なる技も無力化する。
御神を極めたものだけが到達できる御神流斬式奥義之極―――閃
美沙斗ですら使いこなせた御神の剣士を知らぬと言わしめた境地の技。
それを師は、兄は使いこなすことが出来ているというのか!?
驚愕以上に尊敬を覚える美由希。そして、それをどこか当然だと考えている自分も思考の隅にいる。
息を乱し、下から見上げている美由希に苦笑すると道場の出口に向かう。
「お前の考えていることはわかるが―――少しばかり違うな」
「!?」
ビクリと恭也の囁き声に美由希が反応する。何が外れているのかといった表情がありありとでている美由希に再び苦笑。
「今のはせいぜい【もどき】だ。九割は完成していると自負はできよう。だが、残りの一割だけは俺では成し遂げることができない理由がある。残念なことだがな……」
今ので、まだ完成していないという恭也の言葉。それを信じられるだろうか。
いや、師が言っているのだからそれは間違いないのだろう。
「お前ならば残りの一割を見つけれるはず。悩んで苦しんで戦い抜いて、お前が【閃】を完成させるんだ」
夕日が沈む。
美由希はそれを薄眼でみながら先程の恭也の言葉を思い出していた。
九割は完成している、と。残りの一割は自分で見つけてみろ、と。
だが、美由希は全くと言っていいほど先程の斬撃を理解できていない。
恭也とは逆に九割が理解できていない状況。いや、果たして一割とて理解できているのか疑問にすら思う。
それでもきっと師はこれを自分に完成させて欲しいのだろう、と美由希はふと感じた。
それほど深く恭也の言葉は美由希の奥底に潜り込んだ。
夕日ももはや完全に沈み、辺りは暗闇に包まれている。そんな暗闇を裂くかのように人工的な明かりが周囲を満たしている。
美由希が足を伸ばした海鳴商店街にはまだまだ多くの人々が行きかっている。
時刻は二十時を回った頃。
商店街の一角にある刀剣専門店井関。愛刀の研ぎを頼んでいたのだが、ようやくできあがったという連絡をうけて急いで取りに行っているところなのだ。
本来ならすでに閉まっている時間だが、美由希はお得意様ということもあり多少の融通は聞いてくれるところがある。
何時闇に紛れて襲撃があるかわからないので一応完全装備できてはいるが、こんな状況で警察に職務質問などされたら見事に不審者として警察署にご招待されるのは間違いない、と苦笑する。
商店街を行きかう人波を潜り抜け、ようやく井関についた美由希。
井関は一見普通のサラリーマンが建てた二階建ての家屋。何の変哲もない住居。
そう見えるが、実際はその家屋の横に時代劇でみるかのような立派な鍛冶場が備えられている。
美由希は遠慮なく鍛冶場のほうへと向かい戸を幾度か叩いて横に引く。
「井関さーん。高町ですー!夜遅くすみませーん」
戸が開き、美由希の視界に広がっているのはガラスケースに入った様々な刃物。天井から差す明かりが怪しく刀身を輝かせている。
何十、或いは百を越えるような数の刀や包丁、そういったモノが整然と並んでいた。
日本刀。西洋の剣のような両刃造。果てはテレビでしかみたことがないような槍まで置いてある。
そんな鍛冶場の奥から初老の男性が布に包まれた細長い包みを両手で抱えて出てきた。
「おお、美由希ちゃん。悪いね、こんな遅くに」
「いえいえ。こちらこそ遅くに申し訳ないです」
井関から布包みを受け取る。ズシリとした重さが両手を通じて伝わってくる。
己の相棒がこの手に戻ってきたことに安堵のため息を漏らす。
「有難うございます。またお願いしますね」
「ああ。気をつけて帰りなさい」
軽く一礼。井関は顎から生えている長いヒゲを触りながら嬉しそうに眼を細める。
そんな時だった。何と言う運命の悪戯。この時ばかりは何かの歯車が狂ったのだ。
「おーす!大将!これを一つ頼むわ」
戸を勢いよく開けて入ってきたのは己の身長ほどもある細長い白包みを背負った葛葉。
あまりにも突然の邂逅に二人の思考に空白が生まれた。
まさかこんな所で会うとは美由希も葛葉も全く考えていなかったのだから仕方ない。と、いうか想像できるほうが可笑しい。
先に冷静さを取り戻したのは美由希であった。一瞬で相手のどんな動きでも対応できるように構える。
そんな美由希よりも随分おくれて……と言っても二、三秒の差だが、葛葉も頭を右手でガシガシと掻き毟る。
「あー。つーか、お前もここ使ってたのかよ、御神」
「……」
「そんな用心すんなよ。知らねー仲じゃないんだしよ」
緊迫した二人の様子に訝しげに見ている井関を視線で差し、肩をすくめる。
そして、美由希に聞こえるギリギリの声が美由希に届いた。
「こんな所でやるつもりはねーよ……心配すんな」
当然信用できるはずもない。それでもこれ以上井関に心配をかけるわけにもいかず、体勢だけは自然体に戻す。勿論、気だけは全く抜こうとしない。
「二人は知り合いだったのかね?」
「いやっはっは。まぁー世の中意外と狭いんだぜ、大将?」
「ほほぅ。ああ、葛葉君も何か用だったのかい?」
「いや、急ぎでもないしまた明日にでもくるわ」
「そうかね、すまないね」
「いいってことよ。また明日頼むわ」
そうヒラヒラと片手を振って鍛冶場から出て行く。井関には気づかれないように美由希について来いと顎をしゃくって合図を送る。
美由希も無言で葛葉に続く。二人が連れ立って井関を離れる。
二人の間に広がる微妙な距離。葛葉は全く気にしていないようだが美由希は最大限に葛葉に注意を払っている。
数日前の葛葉のように何時攻勢にでてくるか分かったものじゃない。
二人の間を沈黙が包む。それに多少苛立ったように葛葉が傍にあった電柱を蹴る。
ガンっという音をたてて、その音に驚いたように隣を通っていた会社帰りのサラリーマンらしき人が葛葉を見るが、一睨みされるとそそくさと足早に逃げ去っていく。
少し癖のある短髪。研ぎ澄まされた猛獣のような瞳に、眼鏡をかけた少年。しかし、よくみると意外と顔立ち自体は整っているようだ。
すらっとした背筋。道路を歩く足運び。服の上からでも分かる鍛え上げられた肉体。全体的にシャープな印象を美由希はもった。
「今日は帰って【何でも刀剣団】を見る予定だったのにな。なんでお前はあそこにいるのかね」
「……私だって見る予定だったのに」
互いに恨みがましく見る。しかし、内心は同じテレビを楽しみにしていたようでちょっと互いに見直していた。
「じゃあ、今日はこのままさよならってことで」
美由希はそう言うと高町家の方向へ足を向ける。対する葛葉も、ああと適当に呟いて美由希とは逆へ歩いていこうとするが、数歩歩いて足を止める。
「それで別れれたら楽なんだがなぁ。まぁ、出逢っちまったんだ。悪いな、【御神】。愚痴は閻魔様にでも言ってくれや」
葛葉が纏う空気が変わった。
轟々と燃え盛る灼熱のような真紅の波が葛葉を中心に荒れ狂ったような気配。紅く燃えあがる空気が美由希の足を止めた。止めざるを得なかった。
「俺とお前の戦いはこんなところでやれるモノじゃないだろう?風芽丘学園……あそこは確か今日は鬼頭が宿直だったはずだからな。あそこでやろうぜ」
「……わかりました」
美由希としても下手に同時に闘うより確実に一対一で相手の数を減らしておきたいのも事実だ。この状況は突然ではあるが美由希が望んだ状況でもある。
美由希は短く返事をするがそれを聞く前にすでに葛葉は風芽丘学園の方向へ向かっていた。
その無防備な背中に一瞬、美由希は戸惑った。まるで美由希が奇襲をしかけることなど微塵も思っていないかのように。
それがどうしても美由希は気になった。
「……葛葉さんは私が後ろから攻撃するとは思わないの?」
「お前はそういうタイプじゃねーからな。そんくらいは俺でも分かる」
美由希の質問を鼻で笑って答える。葛葉の答えに美由希は葛葉の評価を改めた。
昼休みの屋上の様子から戦いを好むただの戦闘狂かとおもっていたが存外そうでもなさそうなのだ。
それでもこれから命のやり取りを行うであろう相手と気軽に話すことなど出来るはずもない。
結局のところ二人の間は沈黙が流れ続ける。街灯が周囲を僅かに照らす暗闇の中を二人は黙々と歩いていく。
歩くこと十数分。最も、美由希にとっては十数分が数十分にも一時間にも感じ取れるほど長い時間であったが。
ようやく風芽丘学園に着いたが当然、校門は閉まっているが葛葉は細長い布包みを背中に担いだまま膝を折り、跳躍。
軽々と校門の上に着地すると今度は校庭に飛び降りる。美由希も葛葉に続くように校庭に舞い降りた。
葛葉が美由希と十分な距離を取って向き直る。両者の距離はおよそ五メートル。二人程の腕前ならば一足で駆け抜けられる距離。
葛葉は布包みを取り外すと中から取り出した十文字槍を取り出す。両手で確かめるように持つと軽く膝を曲げ左半身に構えを取る。
美由希も小太刀は抜かずいつでも動けるような体勢を取る。背中側の腰で、十字に交差するように小太刀を差している。
音が……なくなる。
風のざわめきも、鳥の囀りも、虫の音も。
「……五分ってところか」
そんな静寂を破るように葛葉が宣言した。
「……何がですか?」
「お前を倒すのに必要な時間だ」
「……」
すぅと美由希の視線が鋭くなる。その慢心ともいえる葛葉の台詞に美由希は何の感情も持たない。持つ必要がない。
言いたい奴には言わしておけばいい。相手の力量を読み取ることが出来ないような慢心と驕りを抱く相手など、結果はすぐに出るのだから。
美由希が油断なくかけていた眼鏡を取り懐に仕舞う。軽く目を瞑り、そして開け放った。
闘気というのにも色があるという。
例えば恭也ならば深き闇……漆黒のイメージ。翼も恭也と似たようなものだ。
葛葉は先程のように紅。灼熱のような炎。
そして美由希は―――蒼。
カチカチと妙な音をたてて葛葉は己の周囲の空気が凍っていくようなイメージを受けた。
凄まじいまでの冷気。まるで真冬の如く。
まるで葛葉の燃え盛るかのような闘気を氷結させるかのような勢いで膨れ上がっていく美由希の鬼気。
「お前は―――お前が、【御神】か!?」
驚愕したような、喜びのような、複雑な怒声が葛葉からあがった。
今まで監視してきた【御神】など話にもならない実力を秘めた剣士がそこに顕現する。
「驕っている貴方じゃ……私に勝てない」
美由希が疾走した。
その動きは葛葉の想像を遥かに超えた、踏み込みの速度。喉元まで出掛かった驚きを噛み砕きながら葛葉が高速の突きを放つ。
だが、貫いたのは美由希の残像。貫いたのが残像だと気づいた瞬間にはすでに美由希は葛葉の懐に踏み入っていた。
歪む葛葉の表情。ここまで簡単に己の槍を掻い潜って接近された経験など葛葉には存在しなかった。
甘く見すぎていたのだ、葛葉は。高町美由希という剣士を。【御神美由希】の存在を。
そんな葛葉を置き去りに美由希の小太刀が静かに、流麗に、躊躇いもなく、軽やかな音を残して抜刀された。
そんな二人を見下ろすように夜空に浮かぶ月。闇夜を照らす月光。
風芽丘学園の屋上から眼下の校庭で今にも戦いを始めようとしていた葛葉と美由希を見下ろしていた人間達がいた。
翼と小金衣、風的に秋草の四人。
面白そうに二人が纏う闘気を見比べている翼。
「ところで、天守君。何故、葛葉君を御神美由希と戦えるように誘導したんだい?」
屋上を囲むフェンスに手をつきながら秋草が翼に問いかける。
その秋草に翼は目線もやらずに口元を厭らしく歪める。
「決まっているでしょう?丁度良いかませ犬になるじゃない?」
クスリと冷笑を浮かべる翼を秋草は堪らなく不快に感じた。
―――最初から天守は葛葉を捨石にするつもりだったのか。
そう三人が考えた。なんて非人間的な考えをするのか。同じ永全不動八門同士だというのに。ここまで他人を見下すのかと。
「【御神】には強くなってもらわないといけないのよ。今の段階でいきなり私と戦ったら決着は一瞬でしょう?ゲームでもきちんと小ボス中ボスって順番になってるじゃない」
「っ……」
小金衣が唇を噛み締めた。ゲームだと、【御神】との戦いがゲームだとはっきり言われたのだ。例え天守の言葉とはいえ、あまり好きではない葛葉とはいえ我慢できるものでもない。
そんな小金衣が翼に詰め寄ろうとした時、校庭で対峙していた二人が動いた。
ここまで離れていても感じ取れる、美由希の鬼気。とても先程までと同一人物とは思えない。
凶悪なまでに膨れ上がった、その気配に小金衣は、秋草は、風的は息を呑んだ。
ブリザードのように周囲の空気に混じる水分すらも凍らせるのではないかと錯覚するような冷気を漂わせる。
その鬼気に満足そうに笑みを浮かべたのは翼、唯一人。
そして思い出したように独り言を呟いた。三人に聞こえるように。
「ああ。言い忘れてたわ。かませ犬はかませ犬でも―――相手を喰ってしまう場合もあるのよ?」