ドンッという激しい音と衝撃が美由希を襲った。
その予想外の衝撃に美由希は驚きを隠せなかったが、吹き飛ばされながらも空中で回転し地面に降り立った。
ダメージはない。どこかを痛めた様子もない。
それに内心安堵しながら美由希は視線の先の葛葉を睨んだ。
美由希の小太刀が抜刀された瞬間、葛葉は十文字槍の根元の部分で小太刀を受け止め、そのまま力任せに美由希を弾き飛ばしたのだ。
言うだけなら簡単だ。だが、生死を分けたあの瞬間。全く予想外の美由希の斬撃が迫りつつあった状況で、それだけのことができるとは……。
そんな美由希を葛葉は手首をぶらぶらと揺らしながら見据えた。
「あのよ、【御神】。お前さっき言ったよな?」
「……」
燃える。燃え上がる。灼熱の如く。マグマの如く。爆炎の如く。
美由希の凍えるような鬼気をとかすように、葛葉の殺気が濃密に周囲を満たしていく。
「俺が驕っているって言ったよな、お前?でもよ……」
クルリと十文字槍を回転。穂先を美由希に向けて獰猛な笑みを浮かべた葛葉が吼える。
「そう思ってるお前自身も驕ってるってことじゃねーのかよ!!なぁ、【御神】!!」
吼える葛葉の両腕が霞む。流れるような銀光が闇夜を貫く。
葛葉の持つ十文字槍が一瞬の停滞もなく繰り出される。傍目には葛葉の両手がぶれているようにしか見えない高速の突き。
普通の槍とは違い刃が十字になっているその十文字槍を紙一重で避けることは出来ない。対する美由希はどうしても回避運動を大きく取る事になってしまう。
槍と刀。どうしても刀との相性が悪い。ましてや美由希の武器は小太刀。通常の日本刀よりさらに射程が短いのだ。
葛葉はその射程の差を利用し、美由希の有効攻撃圏外から幾度も攻撃を仕掛けている。
ただの槍使いであるならばその突きを掻い潜ることなど美由希には容易いことだ。懐に踏み込んでしまえば小太刀の方が勝るのは自明の理。
だが、踏み込めない。
本気になった葛葉の突きのスピードは美由希をしてかわし続けることが精一杯であった。
突き出されるスピードも速い。それ以上に引き手のスピードが驚異的だ。
十文字槍を葛葉が引くと同時に踏み込もうとタイミングを計っている美由希だが、踏み込もうとする瞬間にそんな美由希の鼻先に切っ先が迫ってくるのだ。
横に横にとかわし続ける美由希を追う様に葛葉の連続の突きが繰り出される。
近接戦に持ち込もうとする美由希を葛葉は僅かたりとも近づけない。
幾度もそんな攻防が繰り返される中で、葛葉の手首が返される。避けた美由希を追い、突きではなく払いに変化させる。
風を切る鈍い音をたてながら水平に十文字槍が払われる。その急激な変化に驚きながらも美由希が身体を沈める。
一拍後に十文字槍が美由希の頭上を薙ぎ払われていった。
「ァァアアアアッ!!!!!」
考える間もなく、思考を遥かに凌ぐ速度で美由希は絶叫を放つ。空気が楽器のように振動。美由希の纏う鬼気も相まって葛葉を竦みあがらせるような何かを秘めていた。
もはや美由希の咆哮は物理的な破壊力を持つ衝撃となって葛葉を打ち抜いた。
ほんの僅か。隙ともいえない一瞬の硬直。それを確認する間もなく美由希は葛葉へと踏み込む。
たった二歩。それだけで美由希は葛葉の鼻先へと着地、閃光のように小太刀が疾る。
右の小太刀が銀光を残し、右斜め上へと駆け抜けた。狙いは葛葉の両手。槍を持てなくするように、切り上げられた。
ここまで接近された葛葉は硬直から回復。瞬時に判断し、美由希の予想外の行動を取る。
十文字槍から両手を放した。両手をひくと同時に小太刀が先程まで両腕があった空間を音をたてて切り裂いた。
瞬時に十文字槍に手を戻すと跳ね上げるように柄を美由希に叩き上げる。
最小限の動きで美由希は後方へかわすと右手を振るう。空気を裂く音が葛葉の耳に聞こえた。
「ッア!!」
短い悲鳴が漏れる。背筋を襲った悪寒。今度は葛葉が横っ飛び。葛葉の顔があった空間を貫いていった飛針。
逃がすまいと、そんな葛葉を美由希が追う。今度はそんな美由希が悪寒に襲われた。
いつの間にか柄を短く持っていた葛葉が至近距離からの突きを放つ。紙一重で跳躍。
上空から舞い降りるように唐竹一閃。葛葉が十文字槍の柄の部分で受け止める。
小太刀と槍がぶつかり合い、弾きあう。闇夜を火花が散らす。
二人の視線が交錯。二人の闘気を表すかのように灼熱の葛葉。絶対零度の美由希。
「っ……ははは!!すげぇな!!【御神】!!いや、高町美由希!!」
瞬間、葛葉の筋力が膨張する。小太刀を伝わってくる衝撃。弾き飛ばされたように美由希が空を駆け抜ける。音もなく美由希が地面に着地。
休む暇もなく今度は葛葉が飛び出した。十文字槍が葛葉を中心に銀光が同心円を描いて弾ける。
美由希が小太刀を盾に受け止めるが、弧を描いて迫ってきた一撃は遠心力により今まで以上に重い。受け止めれるような攻撃ではない。
受け止めた力をそのままに地面を蹴り逆方向へと飛ぶ。衝撃を完全に受け逃した美由希が地面に幾つもの跡を残して立ち止まる。
再び五メートルほどの距離を取って向かい合う二人。激しい動きをしたにもかかわらず二人の呼吸は全く乱れていない。
「とんでもない女だな、お前。ここまで俺とやり合える奴なんざ随分久しいぜ」
「……貴方こそ」
嬉しそうに語る葛葉。対する美由希も言葉は少ないが内心では葛葉を認めていた。
力を隠していたのは自分だけではなかった。葛葉は自分が考えていたより遥かに強敵だ。槍と小太刀という武器の間合いの差はあるだろう。
それでも己の間合いに入ることが容易くできない。例え小太刀の間合いに入ってもそれを防ぎきる技量。
葛葉の台詞は驕っているように聞こえるだろう。だが、今なら分かる。葛葉は決して驕ってなどいない。自分自身の力量を、相手の力量をしっかりと認めている。
強いのだ、この目の前の槍使いは。本気になった美由希と対等に渡り合えるほどに。
そして、美由希は先程感付いてしまった。この校庭から離れた場所、恐らく風芽丘学園の屋上。
そこからこちらを窺っている気配に。美由希と葛葉が戦い始めてから気配を隠す様子すらなくした、濃密でどす黒い、黒煙のように漂う闘気。
楽しんでいるように、嬉しそうに、面白そうに二人の戦いを見守っている。
この気配は間違いようがない、天守翼。
葛葉との戦いの後、最悪翼と戦わなければいけないという想定もしていなくてはならない。
あまり葛葉との戦いを長引かせるわけにもいかない。ましてや何かしらの怪我を負うなどもってのほかだ。ベストコンディションの時でさえ、勝てる可能性は薄いのだ。
神速を使うべきか、美由希の心が一瞬迷う。
神速の領域に入れば葛葉を打ち倒すことができる筈。しかし、美由希の奥の手である神速を翼に見られてしまう。それに神速が使えると翼に知られてしまう。切り札を翼に見せてしまうと言うリスク。
「神速はつかわねーほうがいいぜ」
ドクンと美由希の心臓が波打った。まるで心を読まれたかのようなタイミングで葛葉が口を挟んできた。
戦いの最中に消していた表情が一瞬驚きで染まる。
「……なんのこと?」
「別に心を読んだわけじゃないけどな。その顔色を見るとビンゴか」
お前は嘘つくの苦手そうだな、と苦笑する葛葉。
くっくっくと本当に可笑しそうに葛葉はしばらく笑い続ける。対照的に美由希がやや憮然とした表情で葛葉を睨む。
そんな様子の美由希に満足したように葛葉はようやく笑うのを止める。
「御神を【破神】たらしめている神速。噂程度には聞いてるがな。限界以上の能力を引き出すんだ。身体にかかる負担が半端ねえんだろ?」
「……」
「お前には申し訳ないんだが、どうやらうちの大将が見物してるみたいでよ」
沈黙の美由希。葛葉は親指で己の背後の校舎の屋上を差す。美由希だけでなく葛葉も翼の存在に気づいていた。
もしかしたら葛葉が翼達がいる場所に誘ったのでは、と疑っていた美由希だが、きっと葛葉は風芽丘学園に翼がいるのを知らなかったのだろう。
「あんまり大将に奥の手は見せない方がいいぜ。それに同じ永全不動八門同士、【神速】に対抗する技が存在してるとは思わないのか?」
「!!」
全く考えていなかったことを指摘され美由希の全身を稲妻が走った。
そうだ。その通りだ。葛葉の言うとおりなのだ。
確かに【神速】は御神の奥の手だ。人間を超えた動きを可能とする奥義の歩法。
それでも、御神流だけしか使えないと決まっているわけではない。広い世の中、似たようなモノがあってもおかしくはない。
ましてや相手は御神と同じく永全不動八門なのだ。神速と同様の技がないほうが疑わしい。
つまり、永全不動八門同士の戦いでは神速といえど決め手にはならない。
美由希が冷水を浴びせられたかのようにぶるりと震えた。己の考えが、奥の手がいきなり失われたのだ。
葛葉に気づかれないように奥歯を噛み締める。
恭也に言われていたはずだ。慢心をするな、と。自分自身していたつもりはない。だが、どこかで甘く見ていたのだ敵を。永全不動八門を。
恭也に天才だと誉められ、それに驕っていた自分が確かに存在した。
そんな美由希の内心の変化を敏感に感じ取った葛葉が美由希に知られずに安堵のため息をもらした。
葛葉は神速に対抗する技があるなどと匂わせたが実際には葛葉にはそんなものありはしなかったのだ。
確かに己の流派にはそういった技も存在する。だが、それはまさに奥義中の奥義。秘伝とさえされる境地。
当代を含む片手で足りる人間しか自在に扱うことが出来ないレベルの技だ。少なくとも葛葉が知る限り、葛葉家においてさえ僅か二人。たったそれだけの人間だけだ。
葛葉もかつて一度だけ本当に偶然その世界に踏み入ることが出来た。あれはまさに別世界。拳銃の弾丸すら見切ることができるのではないかと錯覚すら覚えた領域。
悔しいことだが未だ、葛葉自身で自在にその領域に踏み入ることなどできはしない。もし美由希が神速の世界へ自在に踏み入ることが出来たのなら、己に勝ち目はない。
その牽制のために美由希にかけた言葉だったが相手の様子からみるとどうやら本当に神速の領域に入ることが出来るようで実は冷や汗をかいたのは美由希ではなく葛葉の方であったのだ。
葛葉は本来ならこのような手は使いたくなかった。余計なことを考えずに己の全力を御神にぶつけたかった。
それでも葛葉は先程の攻防で気づいてしまったのだ。己では美由希には及ばないと言うことに。
槍の間合いがあるからこそなんとか戦いは拮抗しているかのようにみえる。懐に入られても本当にぎりぎりの所で凌ぐことは出来ていた。完全に運があったのもあるだろう。
それでも確かに、格が違うのだ。下手をしたら天守翼に匹敵しかねない可能性を秘めた剣士。
悔しいが認めよう。高町美由希の恐るべき技量を。
重心を落とし、身体を捻りながら十文字槍を構える葛葉。矢を引き絞った弓のように限界まで引き絞る。
「次の一撃を以って……お前を倒すぜ、高町美由希」
その台詞には覚悟が込められていた。次の一撃に全力を込めるという。
避けれるものなら避けてみろ。防げれるものなら防いでみろ、と。重い覚悟が。
その覚悟は確かに美由希に伝わった。美由希も右の小太刀を大きく後ろにひき、重心を落とす。
二振りの小太刀が鈍い銀の光を放ちながら葛葉を狙う。
二人ともギリギリまで身体を捻り、少しの切欠があれば爆発しそうな状況だ。
互いの身体が震える。勿論、恐怖ではない。強敵を前にして得られた高揚感だ。
全ての音が消失した中、聞こえるのは両者とも互いの呼吸音のみ。
血がドクドクと体内を巡り、己自身の血流が全身を圧迫し始める。
その時、二人の戦いを見守っていた翼の気配が一気に膨れ上がった。風芽丘学園全域を包むかのように、夜の闇など話にもならない真の漆黒が周囲を侵食していく。
二人の頭の中にその漆黒が囁いた。
―――さぁ、始めなさい。貴方達の輝きを私に見せてみなさい。
そう聞こえた気がした。それは幻聴だったのだろう。それでも葛葉の、美由希の張り詰めた空気を破るには十分なものであった。
葛葉の両手が前方へと放たれた。十文字槍が圧倒的気配を放ちながら、音を置き去りに美由希に迫る。
その突きは完璧。己のできる真の全力。確実に相手を穿つことができるその一突に軽い陶酔感を覚えた。
凍りつく視線の先、美由希が動き出す。トンと地面を蹴る音がやけに大きく響く。
爆発的な勢いで突進した美由希が葛葉の十文字槍を飛び越える。十文字槍に足を乗せたはずの美由希の重さがまるで天から舞い降りた羽のように重さを感じさせない。
葛葉が両手に重さを感じるより速く、美由希が十文字槍を蹴る。スローモーションのように迫る美由希。
風を斬る音が聞こえ、美由希の小太刀が確かに葛葉の肩を貫いた。
肉を穿つ感触。その嫌な感触に眉をしかめる。周囲の闇を血飛沫が舞う。
衝撃。葛葉の身体が地面を勢いよく転がっていく。音をたててそのままの勢いで校舎の壁に激突。粉塵が巻き起こる。
射抜を放った体勢のまま残身を保つ美由希。一息。粉塵が舞う中を何かがゆっくりと身を起こす。
「く……へへ……強ええわ、お前」
右肩から血を流しながら、片手で十文字槍を支えにして葛葉は立ち上がった。そんな葛葉の精神力に美由希が驚く。
感触からして貫いただけではない。確実に右肩は砕けた。少なくとも起き上がれるような怪我ではない。
そんな状態でありながら葛葉の眼は死んでいない。ぎらぎらと血走った眼。
ゆっくりとだが葛葉は歩く。一歩ずつ。美由希に向かって。
油断なく美由希が小太刀を向けるが、葛葉は途中で力尽きたように地面に腰をおろした。
「……参った。お前の勝ちだ……」
息を乱し、右肩を血に濡らしながらも葛葉は笑って見せた。それは完全に美由希を認めた笑顔のようであった。
荒れ狂う灼熱のような闘気ももはや沈静している。それを確認した美由希が両の小太刀を鞘に納めた。
「葛葉が……負けた!?」
愕然としたような呟きが小金衣から漏れた。
フェンスにしがみつくように両手で掴みながら校庭の美由希と葛葉の決着を見た小金衣の頭をハンマーで殴られたかのような衝撃が走る。
気に喰わない相手であった。この半年の間、一触即発の状況になったことなど数知れない。
以前に葛葉に向かって如月に勝てない。御神にも勝てないと言った。だが、こうも容易く葛葉が敗れ去るなど予想もしていなかった。
まして、葛葉の隠していた力量。それに驚きを隠せなかったのも事実。確かに、葛葉は強い。校庭のような広い空間で戦えば小金衣とて良くて引き分け。
それほどの実力をもつ葛葉を傷一つ負うことなく叩き伏せて見せた美由希の桁外れの技量。
そんな困惑している小金衣の耳に風に乗って高らかに笑う葛葉の声が届く。
―――あの馬鹿、こっちの気持ちも知らずに……。
頭の痛いことであった。重傷を負わされていながら戦いの後でああも嬉しそうに笑うことができる葛葉に多少いらつく。
こめかみを指で押さえながらため息をついて、気づいた。
視線の端。眼下を見下ろしている翼。背中を向けているため表情が読めない。
だが、翼の背中が震えていた。激しくではない。小刻みにふるふると。周囲を満たしていた漆黒の闘気もいつのまにか治まっていた。
疑問に思いながら小金衣は翼に問いかけようと手を伸ばした。
その手が途中で止まった。手の半ばからまるで数百の黒い羽虫にたかられたかのような幻覚を視た。
「ヒッ!?」
思わず口元から漏れた短い悲鳴。反射的に手を引く。もう一度引いた手を見てみても特に異常などない。
小金衣はわかった。己の本能が感じ取ることを拒否しているのだ。
翼が放つあまりに禍々しい黒気。世界の陰陽の均衡を乱すかのようなどす黒い漆黒。
脂汗が流れるのがはっきりとわかる。
「……クス……クスクスクス……」
―――ヤバイ。
そう小金衣と秋草と風的の三人は本能で感じた。
天守翼が、自分達とは根本的に違っている化け物が、笑っている。哂っている。嘲笑っている。
可笑しそうに。鳥肌が立つ。周囲の空気が物量を持ったかのように重く身体に圧し掛かっている。
「ごめんなさい、恭也。少し摘み食いさせてもらうから」
言葉は謝罪。なれど、込められた感情は歓喜。
動けない三人を放置して、翼は屋上の床から飛び上がる。フェンスの上へと立ち、そして飛び降りた。
重力が翼を落下させてゆく。普通ならば恐怖で何もできないだろう。
そんな中、翼は三階の手すりを軽く蹴り、スピードを殺す。次は二階の手すりだ。
落下スピードを完全に殺すと、二階の手すりから跳躍。さらに下にあった駐輪所の天井へ。そして、天井から地面へと舞い降りた。
音もたてずに。翼は校庭に居た葛葉と美由希の眼前に現れた。
「っ……天守!?」
「……!!」
空から舞い降りた翼に驚く様子も見せずに美由希が距離を取る。葛葉も、反射的に十文字槍を杖にして立ち上がる。
「御機嫌よう。高町美由希」
そう挨拶をしただけ。翼の切れ長の眼が美由希の全身に絡みつくように細まる。
ざわっと美由希の背中に冷たいものが走る。反射的に小太刀を抜いた。いや、抜かされた。翼の圧倒的な気配に。
「今日は本当のところ見物だけにしておく予定だったのよ?」
クスリと微笑み右手を口元に持ってて囁く。その言葉は耳元よりさらに奥。鼓膜の内側から響くような感覚。
脳味噌に直接届くような不快さ。
「でも、悪いわね?本当に悪いわね?我慢できなくなったのよ。私と踊りましょう、高町美由希」
クスクスクスクスと不気味な笑い声が周囲に反響する。
年季の入ったジーンズ。黒いブラウス。お洒落など全く考えていない翼の服装。その翼が腰に差してある鞘から刀を引き抜く。
優雅に。見せ付けるように。だが歪んだ笑顔を見せながら。翼は抜いた刀を片手で持って垂直に美由希に切っ先を抜ける。
その切っ先から黒い何かが生まれ出でるように、美由希に牙を剥く。
ドロドロとした底なし沼に陥ったような感覚が美由希を襲う。両足から徐々に身体を這い上がってくる。
「ッァァアア!!!」
美由希が吼えた。絶叫。その得体の知れない纏わりつくモノを弾き飛ばすように美由希が気合を入れる。
これは威嚇だ。いや、威嚇ともいえない翼の遊びだ。
普通の人間では決して到達できない領域に易々と踏み入り、存在している少女が自分と戦うに値する相手か値踏みするために殺気を向けただけなのだ。
なにしろ単純に刀を美由希に向けて殺気を放っただけなのだ。
本気ではない。まるで大人がじゃれついてくる子供を見て少しばかり相手にしてやろうと、その程度の認識でしかないのだろう。
甘く見られている。間違いなく。美由希は確実に翼の底知れぬ実力の一端に触れた。無意識のうちに後退さろうとしていた己を罵る。
翼の桁外れの闘気は美由希の全てを吹き飛ばした。だが、意思だけは残った。
十年もの間、高町恭也と共に歩いてきた剣の道。共に道を歩まんと約束した誓い。
美由希は退かなかった。強き意思が崩れそうになる身体を支えた。
先程から震えていた剣先がピタリと静止する。その力強い力が篭った瞳が、翼を見返す。
美由希の戦う覚悟が翼に伝わったのか満足気に頷く。
何時互いの戦端が開かれてもおかしくない。そんな状況。そこにようやく翼を追って降りてきた小金衣、秋草、風的が校庭に到着した。
美由希の気配が揺らぐ。そんな美由希を三人から庇うように葛葉が立ちふさがる。
「……何の真似、葛葉?」
小金衣の鋭い問い。
「悪いが、邪魔はさせねーよ」
ニヤリと挑発するかのような笑みを浮かべて葛葉が左手一つで十文字槍を持ち上げる。鈍い色を湛えて刃先が向けられる。
「こいつはな、高町美由希は面白い奴だぜ?負けてこれだけ清清しい気持ちになったのは初めてだしな。それに……」
ブンっと十文字槍が闇を裂く。水平に薙ぎ払われる。とても片手一本で振り回したとは思えない、その筋力。
「俺はこいつの可能性を見たいのさ。天守にも匹敵しかねない、この剣士のな!!」
再度灼熱の闘気が燃え上がる。先程にも勝るとも劣らない。怪我など知ったことかと言わんばかりに。
肩から血が滴り落ちる。そんなもの気づかないように、葛葉は永全不動八門の三人を前に一歩も退かず、立ちふさがった。
「僕達三人を相手に大口を叩きますね」
秋草が半ば呆れるように肩をすくめる。客観的に見たらそれも当然だろう。
確かに葛葉は強い。それでも片手を潰された状態で自分達三人を相手にできるなど自惚れもいいところだ。
「うん?三対一じゃなくて三対二でしょ?」
ここにはいない第三者の声が聞こえ、数個の銀の光が秋草に降り注いだ。
「な!?」
反射的に回避行動を取り、後ろに飛ぶ。それを狙っていたかのように小柄な人影が地面を這うように飛び出し、強襲する。
しなるような回し蹴り。とても小柄な体格から放たれたとは思えない蹴りの衝撃が秋草を貫く。瞬時にガードをしていたがその防御ごと弾き飛ばされた。
それでも決め手にはならない。弾き飛ばされながら空中で体勢を立て直し着地。己に攻撃してきた人影が誰なのか見極めようとする。
月光を浴びながらそこに立っていたのは水面だ。百五十にも満たない小柄な身長。とても二十台半ばには見えない女性。
その水面が容姿とは相反する妖艶な双眸で秋草を見据えている。
「……これは何の真似だい?」
秋草がその女性的な容貌を軽く歪め問いかける。
「ん?理由は簡単さ。単純に不破―――いや、不破恭也と敵対したくないだけだよ」
ケラケラと水面は笑うと足を広げ、腰を落とす。下にだらりとおろされている両手の指と指の間に銀色の針が幾つも挟まれていた。
「だからとこれ以上闘うなら―――潰すよ、ガキども」
眼が見開く。猫のように瞳が変化する。夜の闇のなかで爛々と輝く。
急激に圧迫感が増してくる。身体全体を押してくる重圧。普段とは異なる狂暴な笑みを張り付かせ、水面は拳を握っていた。
「そうですね。鬼頭さんの仰るとおりです。ですけど、先程の言葉は訂正してください。三対二ではなく。三対三ですよ?」
小金衣が、秋草が、風的がその場から飛び退いた。僅かな気配もなく、新たな声の主が静かにそこにいた。
如月紅葉。緊迫したこの場の空気とは対照的にニコニコと笑顔をふりまいている。
「申し訳ありませんがこれ以上の戦いは止めませんか?今更永全不動八門同士争うのも馬鹿げていますし」
笑顔のまま両手を広げて周囲に訴える。そんな新たな乱入者に少しも驚いていないように翼が向き直る。
「どういうことかしら?鬼頭に如月。私を裏切ると言うことで良いのかしら?」
「裏切るってわけじゃないけど。【御神】には不干渉の約定でしょ?それを止めるのも鬼頭たる私の役目だしー。それにさっきも言ったけど不破恭也に敵対したくないってのが本音」
私は悪くないといった軽い口調で翼に答えをたたき返す。翼の圧力を前にしても水面は怯むことがない。全くの自然体。
「うちは【不破】さんに恩がありますので。あの人の害になることならば……」
とんっとリズムを取るように身体を上下に動かす。半身になって構えると透明な闘気を漂わせる。
「貴方でも倒して見せます。天守翼」
三人の闘気がぶつかり合う。どれだけ睨みあっていたか。突如翼は鼻で笑うと状況を見定めている美由希に向き直る。
「鬼頭。如月。貴方達のやってることは全くの【無駄】よ?何の意味もないわ。でもこんな状況も悪くないわね。小金衣、秋草、風的。貴方達で遊んであげてなさい」
翼のその言葉が終わるか終わらないかの刹那。小金衣が走る。
小金衣の手にいつの間にか握られた棍が紅葉の上半身を弾き飛ばさんばかりの勢いで薙ぎ払われた。
しかし、小金衣が叩くのは空気のみ。すでに紅葉は空に跳ねていた。
空でくるりと華麗に回転し、幾ばくか離れた場所へ着地する。
対峙する小金衣と紅葉。秋草と水面。風的と葛葉。
そして、翼と美由希。
永全不動八門の最後の争いが火蓋を切って落とされた。
【永全不動八門】のとある一族の宗家では長い間子に恵まれなかった。分家から養子を取るべきではという話もなかったわけではない。
そんな中でその一族の当主が四十近くなってようやく少女が産まれたのだ。その少女の誕生が喜ばれないはずがなく、一族全ての人間から祝福を受けた。。
両親は少女を後継にと考え幼い頃から英才教育を施そうとした。それが少女を苦しめる結果になるとは知らずに。
少女には才能がなかった。確かに常人と比べれば幾分もマシであっただろう。それでも永全不動八門という特殊な家柄の継承者になるにはあまりに才能が欠けすぎていた。
しかし、少女はそんな己の才能の無さを憎くは思ったことなどなかった。例え才能などなかったとしても大好きな両親が常に一緒にいてくれるからだ。
幾ら修行に励んでも、本当に僅かずつにしか上達しない少女に両親は根気よく指導を続けた。それも、少女の妹が産まれるまでであった。
四歳離れた妹はまさしく才ある者が集まる【永全不動八門】においても群を抜いた【天才】であった。乾いた綿が水を吸い込むかのように妹は一族の技を覚えていく。まさに類稀ななる才能。姉である少女を歯牙にもかけぬ。比べることすらおこがましい。
両親は歓喜した。狂喜した。当主において最も必要とされる血筋と実力。その二つを兼ね揃えた存在が現れたのだから。
両親が妹につきっきりの指導にあたるようになり、少女は自然と一人で居ることが多くなった。それも当然。
いかに宗家の血筋であろうが当主から見放された少女に近づくものなどいるはずがない。幼い頃からの両親との鍛錬で友達も作ることができていなかったのだから。
そんな姉妹に対する家の者の視線は正直で、特に両親の態度は掌を返すようだった。
妹にはその圧倒的な才能に期待の視線を。姉にはその才能の無さに無能の視線を隠すことなく送っていた。
まさにそれは奇跡ともいえただろう。年端もいかない少女がそんな視線に何年も何年も耐え切っていたのだ。
少女は腐るわけでもなく一人で己を鍛え続けた。時には我流で、時には両親が妹に教える様子を見て。
何時しか少女は宗家の人間でありながら落ちこぼれと陰口を叩かれるようになっていた。
それでも少女は諦めない。何時か両親が自分に振り向いてくれることを祈って。手足は少女とは思えないほどぼろぼろになり、頬も痩せこけ幽鬼のようにも見えた。
もはや誰が見ても限界に見えた。彼女の糸が切れるのも時間の問題であった。
そんな少女の転機はあまりにも突然。
滅びた【御神】を除く永全不動八門の当主があるコトを話し合うために会合を開くことになった。
父であり永全不動八門一派の当主であった父の付き人としてその会合に出席した少女にとってまさにそれが運命の転機。
永全不動八門の七人の当主とその他の手練の者達がいる部屋に何の恐れも迷いもなく突如現れた少年。
そんな少年を排除しようと襲い掛かった永全不動八門の猛者を叩き伏せ、【御神】とともに滅びたはずの【不破】を名乗った剣士。
年齢に見合わぬ絶対的な剣技を持つ恐るべき【不破】の宣言がその場にいた全ての人間の芯に染み渡った。
【御神】が未だ永全不動八門に相応しい戦力を持つと、【不破】たる己一人でそれに相応しい戦力に値すると不遜にも言い放ったのだ。
子供の馬鹿げた妄想だと誰もが一笑できない凄みと、実力がその少年には存在した。
【御神】を除いた永全不動八門全ての当代に【御神】は未だ健在だと、【認めさせた】。
【認められた】のではなく【認めさせた】のだ。たった一人の剣士が。年端もいかぬ剣士が。海千山千の化け物どもを。
誰もが【不破】の実力に驚愕し、才能に恐れる中で少女だけは違った。皆が表面だけを見なかったことに対して少女はその場の誰よりも【不破】の奥底をのぞいた。
少女に唯一与えられたといっても言い才能。それが人の何たるかを見抜く力。誰よりも人を見続けてきた少女が得た後天的な才。
その少女に視界に映ったのは鍛錬に鍛錬を重ね、修練に修練を極めた剣士の姿。血の滲むという言葉すら生温い、真の意味で血反吐を吐き、己を壊しながら到達した魔物の姿。
自分が今まで費やしてきた努力など足元にすら及ばぬ、いや、努力ということすらおこがましい結晶を【視た】。
―――凄いなぁ。
それだけ思うのが精一杯であった。それだけが少女の全身を満たした。
【不破】が小太刀をおさめ去っていこうとする。その前方に広がっていた人波はモーゼの十戒の如く割れていく。
周囲が何もできず、ただ【不破】が去っていこうとするのを見守ることしかできないなかで少女はふらふらと覚束ない足取りで近づいていった。
何故そうしたのか覚えていない。ただ、無意識のうちに近づいた【不破】の袖を掴んだ。
「うち……貴方のようになれますか?」
そう言葉がもれた。泣きそうな声。声が震える。
一瞬不思議そうな顔をした【不破】が、少しだけ口元を歪める。不器用にも笑ってくれたのだと分かった。
軽く頭を撫でられる。まるで両親に撫でられたかのように暖かい。ゴツゴツとした手から優しさが伝わってくる。
「なれるさ。君がその気持ちと今までの努力を忘れないのならば」
言葉短く、それだけを言い残し【不破】は去っていった。
何でもない一言だったのだろう。他の人からしてみれば。だが、確かにその短い言葉は少女を救ったのだ。
畳に水滴が落ちる。もう何年も流したことの無い涙が溢れるように滴り落ちる。少女は泣いた。泣き続けた。
そんな少女を置いて、周囲の人間が騒ぎ出す。
【不破】を討てと騒ぎ立てる者もいた。だが、結局のところ【御神】を永全不動八門と認めつつ【御神】と【不破】には不干渉を取ることになった。
皆が皆、恐れていたのだ。あの底知れぬヒトの形をしたバケモノを。
全面戦争を行えば打ち倒すことはできるだろう。だが、どれだけの被害を負うか想像することなどできはしまい。捨て身になったバケモノほど怖いものはないのだから。
この日を境に少女には目標ができた。
強くなろう。誰よりも。才能という言葉を限界の免罪符に使うのではなく。ただ己の努力を持って強くなろう。努力は才能を超えられるということが分かったから。
そして何時かあの人に会おう。そして胸を張って言うのだ。
貴方のお陰で私は強くなれました……と。
その目標の人物は【不破恭也】ということを後に知った。
それからの少女は異常であった。一族においても異常と評価されるほどに。
学校へ行く以外の全ての時間を鍛錬に費やした。食事の時間を削り、寝る時間も削り、唯ひたすらに鍛錬に鍛錬を重ねた。
幅広く己の流派の技を修めるのではなく基本をひたすらに繰り返した。全てに力を注げれるほど器用ではないことなどわかりきっていたからだ。
少女は基本を繰り返した。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
かの一族の長女は気が狂っているそうだ……そう噂が流れもした。だが、気にならなかった。自分には目標があるから。
幾百の夜を越え、何時しか三年近くもの時が流れ少女が十七になるころには何時しか周囲の評価は変わっていた。
己の流派の技をほぼ使えないにも関わらず、少女は己が一族において片手で数えられるほどの存在へと成長していた。
【基本】を極めた少女の武は……皮肉にも数多の者から【鬼】と呼ばれるほどになっていたのだ。
そんな少女の名前は……如月宗家長女【如月紅葉】と言った。
「小金衣さん。無駄な戦いは止めませんか?」
「……天守の命令よ。仕方ないでしょう?」
小金衣とて好きで戦うわけではない。翼が言ったのだ。紅葉の相手をしろと。
同じ永全不動八門とはいえ、天守に逆らうような真似はできればしたくない。というより翼に、だが。
下手に逆鱗に触れてしまえばどうなるかわからない。
「そうですか……」
紅葉が残念そうに目を瞑る。隙だらけともいえる紅葉に小金衣が突撃しようとするが、足が地面に根をはやしたように動かない。
小金衣の第六感が紅葉に攻撃することを拒絶している。
動けない。無手で、なおかつ隙だらけのはずの紅葉に威圧されたように。
「それでは、仕方ありません。小金衣さん……運が悪かったと思って寝てて下さい」
音すらたてない無音の踏み込み。空を渡るかのように間合いを一呼吸でつめ、突き出される紅葉の正拳突き。
風を切り、放たれた何の変哲もない一撃。あまりに自然に放たれたその拳は最短距離をもって小金衣に迫った。
綿を打ち抜いたかのような音と感触。
自動車に跳ねられたかのように小金衣の身体が吹き飛んだ。数メートル以上も飛ばされた小金衣はゴロゴロと地面を転がり倒れる。
「……ぇ……?」
たっぷり数秒。それでようやく小金衣は己が殴られたのだと気づいた。
呆けた声をだして杖を利用して立ち上がろうとするが膝が笑ってなかなか立つことが出来ない。
今なにをされたのかわからない。いや、殴られたのはわかる。だが、【何時】なぐられたのかわからないのだ。
小金衣は戦慄した。そのあまりの武に。
話には聞いていた。如月紅葉という少女の話を。
強いのは分かっていた。如月宗家には一人の【天才】と一人の【鬼】が住む、と風の噂には聞いていた。その二人のどちらかだろうということは予測がついていた。
追撃するでもなく残身を残している紅葉の背後にとてつもない、化け物のような闘気を確かに小金衣は視界の端に見た。
―――如月の【鬼】の方だったのね。
ごぽりと喉元から血が昇ってくる。たった一撃で内臓を痛めたらしい
小金衣は己の力量くらい弁えている。歳若いといえど、小金衣において同年代では並ぶものなし、と評価された自分ならば如月の天才とも戦えると思っていた。
それでも、それでもこれほどのものだとは思わなかったのだ。目の前の、少女の形をした鬼の実力が。
この小金衣が……小金衣夏樹ともあろう人間が視覚することすらできなかったなど!!
ようやく膝の震えが止まった夏樹が杖を構える。
「……ハァハァ……まだ、よ。私はまだ戦える……」
油断してくれたのならばまだ勝機はあっただろう。しかし、小金衣の前に立つ紅葉には一片の油断もない。
小金衣は内心で笑った。同じ永全不動八門同士でありながらこれほどの実力差があるということに。
―――いや、違う。私が弱いだけだ。
自嘲気味な心の声は誰にも届くことなく、消えていった。
再び地面を蹴る音さえもたてずに紅葉が動く。小金衣に反応させることなく紅葉の掌底が放たれた。
その拳が直撃した瞬間。重い音をたてて小金衣の身体が弾き飛ばされた。轟風の如き風が小金衣の髪を、身体を靡かせる。
地面をバウンドし、窓ガラスに激突。窓ガラスが小金衣を受け止めたのも一瞬。ガラスが割れる音を残して小金衣は一階の廊下に転がり落ちる。
粉々になったガラスが倒れて動けない小金衣の上にパラパラと粉微塵になって落ちる。
右手を前に突き出す構えを取っていた紅葉が、深く息を吐く。限界まで息を吐いた後、今度は息を深く吸う。
「きっとあの人にとっては記憶にすらないなんでもなかったことでしょう。でもあの人は確かに言ってくれました。強くなった、と。私のようなたった一言だけ言葉を交えた者のことを覚えていてくれました」
紅葉は拳をすっとおろすと動かない小金衣に背中を向ける。
「あの人にとっては迷惑なだけかもしれません。だけどうちは戦います。あの人に降りかかるであろう全ての厄災を振り払うために」
夜空を仰ぐ。月が静かに浮かんでいる。迷いの無い覚悟。揺るがない意思。
「例え、如月の名を捨てることになっても」
片手で十文字槍を風的に向けながら葛葉は構えていた。血を流しすぎたのか葛葉の視界が霞む。
美由希に貫かれた右肩が激しく痛む。気を抜けば今にも気を失いそうだ。
ポタリポタリと微かな音をたてて地面を紅く濡らしていく。風的はそんな葛葉を一瞥すると、軽く口元を歪める。
「医者にかからねばいけないほどの怪我だろう、葛葉。無茶はするな」
「……は!!笑わせるなよ、風的。万全じゃないから……戦えませんとでもいう気か、お前は?どんな状態にしろ……今のこの状態が俺のベストだ……!!」
獰猛な、灼熱の闘気。口でどう言っても、ベストコンディションではない。それでも葛葉の心に揺らぎなど一片もない。
「今までお前とは合わないと思っていた。いや、これからもそうだろう」
「奇遇だな……俺もそう思うぜ」
「だが、称賛しよう。いや、今のお前は尊敬に値する相手だ」
風的は構えもせず葛葉へと歩み寄る。葛葉が向けている槍など目に入らぬ様子で。
葛葉の間合いに侵入しても葛葉に動く気配はない。先程から精神力だけで立ち続けていたのだ。もはや槍を振る力など残っていない
「……くそったれ……」
手をのばせば触れ合う距離に辿り着いた風的が葛葉に手を伸ばす。手が葛葉の身体に触れた瞬間、グルリと葛葉の視界が反転。
気がついたときには地面に倒されていた。しかし、衝撃はない。風的が葛葉の身体を支えていたのだ。
風的は懐からだしたナイフで葛葉の服を引き裂く。露になった右肩の負傷の酷さに軽く眉を顰めた。
それでも手馴れた様子で治療を始める。
「何、しやがんだ……!?」
「大人しくしてろ。右肩が使い物にならなくなってもいいのか」
「う……」
風的の言葉に葛葉が抵抗を止める。チっと舌打ちをすると風的の治療に身を任せる。
張り詰めていた糸がきれたように、精神の昂ぶりで感じなかった痛みが、いまさながらに激痛となって右肩を襲う。
誰も居なかったら肩をおさえて泣き叫んだかもしれないが、まさかここでそんな真似するわけにもいかず歯を噛み締めて耐える。
「高町美由希は強いな……」
「……くっく。ああ……俺達の想像以上にな……」
本当に嬉しそうに笑う葛葉に風的は躊躇いがちに何かを言おうとするが、口を閉じる。そんな風的に言えよ、と無言の視線を送る。
「……本当に天守に匹敵すると思うか?」
「……」
無言。それはそうだ。美由希の実力は予想の遥か上。とてつもない剣士なのはわかった。だが、二人が知る天守翼という剣士もまた、今まで見たことが無い最強の剣士。
翼が敗北を喫する相手など想像も出来ず、敗北する場面も頭の中に浮かばない。
「わかんねーよ……わかんねーけど……あいつならもしかしてと思わせてくれる……」
「そうか……。ならば信じてみよう」
二人の視線が、ふと合った。葛葉はふんっと照れたようにそっぽを向く。風的はそんな葛葉に珍しく苦笑すると黙々と治療を続けた。
「あっは!!あはははははは!!」
そんな狂ったような笑い声が二人の耳を打つ。それにギョッと驚く風的。逆に葛葉は、困ったように眉を八の字に寄せて、はぁとため息を漏らした。
「あの馬鹿……完全にスイッチ入ってやがる……」
ドンっと、何かを殴りつけた音が周囲に響く。もちろん、それは二人が殴られた音とは違う。
二人の視線の先、闇夜で踊る二人の男女。
女性と見間違わんばかりの美貌の少年秋草。身長も低く、体重も軽い、女子高校生にも見えかねない女性水面。
異様な光景であった。身体のあちらこちらから血を流し、必死に逃げ回っている秋草。それを水面が一方的に追い詰めている。
「シッ!!」
微かな呼吸音。水面の右手が振り下ろされる。左手がそれに続く。音をたてて秋草を包囲するように飛針が迫る。
後ろに横に、秋草は全力で飛び退き、すんでのところでやりすごす。
秋草の両手が揺らめくように動く。闇を裂く様に鋼糸が波打って水面に迫る。ただの糸と思うこと無かれ。
目で見ることも困難な細さでありながら、その耐久性と切れ味は想像を絶する。
後ろへ逃げると予想した秋草の想像を水面はあっさりとぶっ壊した。前へと突き進んだのだ。
触れたら服が裂け、肉などあっさりと切られるその鋭利な鋼糸の波の中へと。
最小限の見切り。鋼糸が水面の頬を、手足の服を切り裂く。そんな僅かでも間違えば死が免れない中でも、水面は瞬き一つせず、秋草へと飛び掛る。
空中からの踵落し。体重と重力を乗せたその一撃は体重の軽い水面といえど一撃必殺。予想外の攻撃に回避は間に合わず。片手を頭上にかかげる。
水面の踵落しを防ぐも、ゴギンと嫌な音をたてる。それに伴う激痛。
思わず息が詰まる。水面もそれだけでは終わらない。勢いそのままに左足が跳ねる。前蹴りがまともに入った秋草を吹き飛ばす。
砂埃をあげて地面を転がっていく秋草。そんな秋草を腹を抱えて水面は笑ってみせる。
「弱い。弱いよ、秋草?その程度?」
「っ……化け物ですか……貴方は!!」
唾を地面にむけて吐きかける。唾に紅いものが混じっていた。口の中を切ったのか、内臓を痛めたのか。
秋草の叫びの通りに水面は強かった。ここまで一方的に蹂躙されるなど、悪夢をみているかのようだ。
「いやいや。私とアンタの実力は実はそんなに変わらないよ?【試合】だったならば拮抗してるかもね?」
水面は心外な、という顔で秋草に語りかける。
そんなわけがない。そうであるならば何故これほど一方的にやられるのか。
水面は人差し指を振ってみせる。チッチと付け加えながら。
「アンタは良くも悪くもまともすぎるのよ。私や天守、如月みたいにどこかイカレているところがないのさ。それはとっても素敵なことだよ?でもね……」
秋草が反射的に水面から距離を取る。その手に握られている鋼糸……それを最も有効に使える距離で水面を迎え撃とうとする。
「自分の命も易々と賭けられる、頭のネジが抜けた化け物しか、【死合い】だと生き残れないよ?」
ケラケラと可笑しそうに笑う。その笑っているが笑っていない、薄気味悪い笑顔に、秋草は気が遠くなりそうになった。
勝てない。そう本能が理解してしまった。ガクリと秋草は膝を地面についてうな垂れる。
秋草は半年近く一緒にいたこの女性の本質を全く誤解していたのだ。
中立たる鬼頭の教えを体言するものだと。常に葛葉や小金衣の争いを宥めていた戦いを好まない性格だと。
それが、全く違う。中立や、戦いを好まないとか、そういった話ではない。
この女性もまた、結局のところ天守翼のように血と戦いを好む化け物だ。普段はそれを鬼頭であることを己に言い聞かせ律しているに過ぎない。
「物分りがいいじゃん、秋草」
ぽんっと秋草の頭を叩くと別の方向に歩いていこうとする。戦いはもう終わったと言わんばかりに。
「……貴方は強い。ですが……天守君はさらに強いですよ……」
「分かってるって。私一人じゃどうやっても勝てないしねーアイツには」
永全不動八門は対等な関係だ。それでも、この海鳴に集ったメンバーでは翼が中心となった。
それは御神と並んだとされる天守ということもあったが、それ以上に翼があまりに強すぎたためだ。
天守でさえ飼い殺せない、狂った魔物の毛皮を被ったヒト。永全不動八門の掟さえも歯牙にもかけない、そしてそれが許される圧倒的な実力の剣士。
「まぁーでも、私と如月と御神の三人がかりなら何とか止めることくらいはできるでしょ。アイツは満足さえすればいいだけだしねー」
ヒョイっと肩をすくめると、小金衣を一蹴した紅葉がこちらに近寄ってくるのが遠めに見えた。
「さーて、最後の一仕事と行きますか」
美由希は首の左側が痺れるような、突き刺さるような嫌な予感を感じて小太刀を上げる。
その一拍後に、翼の刀が水平に薙ぎ払われる。金属音が高鳴り、火花が散った。
互いに押し合うようにぎりぎりと音が鳴る。それに美由希は内心で首を傾げる。
小太刀から力を抜き、翼の刀をそのまま受け流す。それに流されるように翼が体勢を崩す。
体勢を崩した翼に小太刀で下から切り上げる。後ろに軽くバックステップで後退。あっさりとかわしてみせる。
それを追う様に地面を蹴る。小太刀を構え、一矢となって翼に迫った。
翼が突き出された小太刀を刀で流すと、位置を変えようと回りもうとする。そんな翼を追撃するように突きが横薙ぎへと変化する。
僅かに驚いた翼が、大幅に距離を取って逃げる。再び、美由希が翼を追うために疾走しようとするが、今度は間を外すように翼が美由希へと踏み込む。
先程のお返しといわんばかりに突きを放つ。一撃では終わらない。弐、参、漆と連続で放たれた突きは一回にしか見えないほど速かった。
それでも、美由希はその四回の突きを両の小太刀で裁いてみせる。
―――やはりおかしい。
美由希の心中を満たす疑問。
確かに、翼は強い。強いが……。
強すぎはしないのだ。
力はそれほどでもない。女性なのだしそれも当然だろう。鍛えている美由希の方が上だ。
スピードも確かに速いが、ついていけないほどではない。というより、美由希の方が速い。
剣の技量にしてみてもそうだ。見事とは思う。それでも、美由希の方が洗練されている。
力も速さも技量も、それら全てが美由希の方が上回っている。
そんな美由希の思考を中断させるように正面から刀が顔目掛けて突き出された。
一瞬焦りながら小太刀で弾く。それに反撃するように逆手の小太刀が翼に振るおうとするが、すでに翼は距離を取っていた。
距離を置いて二人が対峙する。美由希は厳しい表情で、翼は歪んだ笑みを絶やさず。
「本当に大したものね。私の想像を超えているわ」
刀を軽く振り、素振りを幾度か繰り返す。
「高い才能。怠らない修練。私の殺気を前にして平然としていられる精神。さすがは恭也の唯一の弟子」
どこか陶然と、語る翼。その兄を知っているような台詞に美由希が口を開こうとするが、止めた。
「さぁ、次へ行くわよ?」
地を蹴る。黒い残像を残し、三足の飛翔で美由希との距離を詰める。
上段から力強く振り下ろされた刀。美由希の首を斬りとばす勢いで迫った。
周囲から見れば決まったと誤認されるほどの勢い。しかし、翼の刀に当たった感触は人の肌ではない。
堅い金属、小太刀だ。
翼がクスリと笑うと身体を捻り右の回し蹴りを放つ。薄い鉄板が仕込まれているのか、とんでもない風きり音を残し、美由希に迫るが片手の小太刀でけりを受け止める。
予想通り、高鳴る金属音。
翼の連続技は止まらない。上体を後ろに倒し、後転。その勢いで振り上げられた左足の爪先が美由希の顎を狙う。
それを軽く顔を逸らしてかわす。その時生じた風が美由希の髪を靡かせた。
翼は地面に足をつけた途端、再度地面を蹴り、身体ごとぶつかるような突きを放つ。
そんな突きを美由希は横に僅かに動いてかわす。突っ込んできた翼に、カウンターのように下から小太刀を振り上げた。
己に迫ってくる小太刀に気づいた翼が腰から鞘を引き抜いて受け止める。それでも、小太刀は止まらない。
互いの体重が乗った斬撃は翼の身体を弾くように吹き飛ばす。
その身体に残るような斬撃の重さに翼が目を見開く。地面を削るように体勢を整えた。
攻守の交代と言わんばかりに美由希が飛び出す。
短い呼吸音を残して頭上から振り下ろされる小太刀。翼が刀を真上に掲げて受け止める。
それに続くようにもう一方の小太刀が振りあげられる。仕方なく、翼が後ろに後退。
美由希の小太刀が空を斬る。小太刀を振り切った美由希の首元を狙って翼の刀が薙ぎ払われた。
美由希がその一撃を屈んでかわす。立ち上がりざまに、頭上にある翼の両腕を狙う。切り上げられる小太刀。
その小太刀を見越していたかのようにあっさりと後退してやり過ごす。かわされたと知る美由希の反応も速かった。
後退した翼を追撃する。首に、肩に、手に、胴に、足に、休む間もなく繰り出される連撃。
それら全てを翼は華麗に捌ききってみせる。
―――おかしい。
再び美由希を襲う疑問。
力も速さも技量も確実に美由希が上回っている。それでも、傷一つつけることができていない。
あれだけの攻撃を加えていながら。翼は歪んだ笑顔を崩さないまま、美由希の斬撃を防いでいるのだ。
「……クスクスクス。不思議に思うかしら、高町美由希?」
斬線が走る中、死の閃光が周囲を弾きあう中、翼は口を開いてみせた。
愕然とする。そんな余裕など、美由希にはないというのに。強がりで余裕をみせているわけではない。本当に翼には余裕があるのだ。
全てが美由希に劣っているというのに。
―――侮るな!!!!!
美由希の裂帛の気合が込められた二振りの小太刀。高速で繰り出された、二つの銀光。
それを、最初からどう軌道を描いて己に迫ってくるのか分かっていたかのごとく、翼はゆらりと歩きながらその死の斬線をかわしてみせた。
その行きがけの駄賃だ、といわんばかりに美由希の首筋を素手で撫でながら。そのまま、美由希を通り越し、振り返って見せた。
美由希の身体が硬直したように動かない。
遊ばれた?今、確実に殺されていた。
何故?どうして?と駆け巡る疑問。
硬直したのも一瞬。すぐさま、地面を蹴り、翼から距離を取る。
「疑問で一杯って顔をしてるわね?」
「……」
「隠さなくてもいいよの。別に私としても隠すようなことでもないから」
翼はやや大げさに両手を広げて語りかけるように口を開く。
「私は産まれた時から少し特殊なのよ。別に角が生えていたとか、尻尾が生えていたとかそういうのじゃないわよ?」
全く笑えない冗談を言いながら、翼は美由希を舐めるような視線を送る。
反応しない美由希に少し残念そうに肩をすくめた。
「【神速】って知ってるわよね?人外の域へと人を導く、人ならざる者の技。尋常ではない鍛錬と修練の果てに到達できる絶対領域。単純な話よ。私はその世界を―――物心ついたときから認識することができていたの」
「な!?」
美由希の驚愕の声が上がった。理解が追いつかない。
有り得ない。自分がどれだけ、鍛錬の、修練の、努力の果てに辿り着いた境地に、目の前の剣士は産まれた時からすでに足を踏み入れているという信じられない事実。信じたくない事実。
自然体のまま、翼はゆっくりと美由希に近づいてくる。
美由希が後退する。気圧された。翼の言葉に。
もし、翼の言葉が事実ならばなんて理不尽なことか。美由希の努力を嘲笑う、圧倒的な天からの才能。
「これが私の他の追随を許さない絶対の才能!!私だけが生まれ持つ、何者をも凌駕する領域よ!!」
あまりに驚異的な事実。そして、それは紛れも無い事実。
だからこそ、翼は才能に驕っている。溺れている。胡坐をかいている。
力も速さも技量も。その全てを凌駕できる領域にすんでいるからこそ。
才能にしか頼らなくても、翼に比肩できるものなど存在しなかったから翼はここまで歪んでしまった。
どこまでもどす黒く、どこまでも傲慢で、どこまでも最凶に。
もはや、翼の笑顔は悪魔のようにしか美由希にはみえなかった。
心臓を鷲掴みにされるような感覚をその身に抱きながら。それでも小太刀を構えた。
「認めない……!!私は貴方を……認めない!!」
美由希が魂の咆哮をあげた。弱い己と、翼を拒絶するように全力で翼に突撃する。
渦巻く鬼気が、荒れ狂う暴風のように周囲をかき乱す。闇を貫き、銀の閃光が迸った。
その瞬間、美由希は考えるでもなく、本能がスイッチを入れた。
【神速】の領域に、美由希は足を踏み入れたのだ。
視界が、世界が、色をなくす。思考がクリアに、真っ白になる。身体中が悲鳴をあげるが、そんなことを気にもせず美由希がゼリーのように重く質量をもった空気をかきわけるように翼に迫る。
人間の限界以上の動きを可能とする。御神の奥義中の奥義の一つ。全ての動きが鈍くなる中、美由希がゆっくりと走る。
倒せる。倒せるはずだ。この世界ならば。信じられるものか。神速の領域に何の努力もせずに、才能だけで存在できるなど。
そんな美由希を嘲笑うかのように、翼は美由希と同等の速度で、神速の領域で動いた。
認識していた。翼は確かに神速の領域を。
その領域で、幾度も斬りつけ合い、弾きあう、受け流しあい、防ぎあった。どれだけその領域にいたのか。
ようやく互いに神速の領域からぬけだした途端、ぐにゃりと美由希の視界が揺らいだ。
あまりに長く神速の領域に滞在しすぎたのだ。ガタガタと膝が震える。胃からせりあがってくるような吐き気を催す。
肩膝をつき、激しく呼吸を繰り返す。対する翼は僅かに息を乱しているだけ。
身体に負担がかかる神速を恭也に止められている故に、美由希は神速の世界に慣れていない。しかし、翼は日常的に神速の世界に住んでいるのだ。
身体にかかる負担を最小限に抑える術をしっている。慣れが違うのだ、美由希とは。
俯いて、咳き込む美由希に影が掛かる。殺気に反応して、横に飛ぶ。振り下ろされる刀。間一髪でかわした美由希が地面を転がりつつ逃げる。
「凄いわね……久しぶりに見たわ、神速を!!未熟と言わざるをえないけど、素晴らしいわ!!」
それはまさに狂喜。周囲を侵食するような黒気を放ちながら翼が迫った。
大振りともいえる上段からの振り下ろし。その隙がある一撃を美由希は反撃することを考えなかった。
逃げ腰になりそうな自分を奮い立たせるのに必死で、そんなことを考える余裕すらない。
翼の刀が振り下ろされた。金属音が鳴り響く。なんとか防いだ美由希だったが、手が痺れるような衝撃に驚愕する。
衝撃が……【徹】った!?
もはや底が知れない超絶的な才能。恭也が別格と称した理由がよくわかる。
桁が違う。格が違う。次元が違う。
才能一つで全てを覆す、なんという理不尽な怪物なのだ。
翼の黒い瞳に、鏡のように美由希の顔が映った。今にも泣きそうな、その表情。
「……負けない!!私は……貴方だけには負けない!!」
こんな理不尽を認めるわけにはいかない。そうしないと今まで積み重ねてきた努力が……無駄になってしまう。
美由希が放った起死回生の突き。意表をついたその一撃。
それを翼はあっさりとかわす。そして、横薙ぎ。もはや反射に近い動きでその横薙ぎを受け止める。
衝撃を受け止めれず、弾き飛ばされる。
必死になって逃げる最中で、美由希は翼と目があった。その瞬間、美由希の心は恐怖で支配された。
まるで虫を解体するかのような残酷な目が、僅かに開いた口元から覗く八重歯が、とてつもない化け物に見えたから。
―――怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
ガタガタと身体が震える。どれくらいぶりになるのか、美由希は完全に恐怖という感情で心を埋め尽くされた。
攻撃にでることなど考えることなどできず、ただひたすらに美由希は亀のように縮こまり防御に専念する。
死ぬ。私は殺される。天守に。
「ァ……ヒッ……」
言葉にならない悲鳴。
死にたくない。
それだけが美由希の全身を埋め尽くす。
だが、それは死ぬから感じたモノではない。死ぬと言うことは敗北するということ。
敗北をするということは師を、高町恭也を汚すということ。
それだけは認められない。例え、自分の実力が翼に劣っていたとしても、それだけは絶対認めるわけにはいかないのだ。
高町恭也は誰よりも強いのだ。誰よりも高みに居なければならないのだ。
自分が敗北を喫するなど、高町恭也の存在を汚すことなどしてはいけないのだ!!
その想いだけが、意思が美由希を支えている。本当にそれだけなのだ、今の美由希にはそれしかないのだ。
響く衝撃。痺れる両腕。かすれる様な視界。
思考が上手く纏まらない。その時、脳裏に甘い声が聞こえた。
―――くふふ。そこまでされてなお……心が折れないとはのぅ。
誰、と問う余裕もない。ただの幻聴だろう、と死の斬線が荒れ狂う中で納得する。
―――よかろう……お主に見せてやろうではないか……真の【御神】というものを。
白い。純白。汚れなど一切無い、閃光が美由希の視界を埋め尽くした。
太陽のような圧倒的な光。熱。暖かさ。
その光に抱かれて、美由希は意識を手放した。
反応の鈍くなった美由希に訝しがりながらも、翼は流れるような斬閃を落とす。
滑らかに空気を断ち切っていく、刃が美由希に襲い掛かる直前―――。
「な!?」
翼の上段からの切り落とし。それを軽々と美由希が受け止めたのだ。
別に驚くほどのことでもないかもしれない。それでも、先程まで防ぐだけで精一杯の状態だったとは思えない。
押しても一寸たりとも動かない、まるで数千年の時を経た巨木のような存在感を持つ何かがそこに突如として現れた。
烈風が巻き起こる。翼は己が右手を小太刀で切り落とされる、という錯覚を視た。
美由希から天に向かって立ち昇る、あまりに巨大すぎる純白の闘気。いいや、これはもはや闘気や鬼気などといったレベルのものではない。
例えるならそれはもはや神気の域。翼をして、思考に空白を造り上げるほどの異常で、濃密で、強大。
危険を感じて、翼が一気に後退した。美由希は追撃する様子もなく己の両手を見て、小太刀を見て、身体を見て、足を見て天を仰いだ。
「久方ぶりの肉体よのぅ。随分久しぶりじゃて。先代の琴絵は才はあったが病弱であったからの」
身体が動くか確認するように動かしてみせる。その動きに満足したようにクフフと美由希は笑った。
まるで別人のその様子に翼が、背を伝う汗を感じつつ問いかけた。
「貴方は……【誰】かしら?」
「ふむ。妾が誰と問うか。それは哲学的な問答よの」
トントンと爪先で地面を叩く。何でもない行動。しかし、翼は【今】の美由希の一挙一動から目が放せない。
放したら何かとてつもないことが起きそうな予感を感じて。
「よかろう。今宵は妾も機嫌が良い。特別に名乗ってしんぜよう」
天すらも己の支配化だといわんばかりに、両手を小太刀ごと空に掲げる。
双眸に冷たい白い炎が宿った。そして、美由希だった者は高らかに名乗りを上げた。
「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って目にも見よ。畏れ多くも妾は【御神】が歴史そのものぞ」
【御神】の歴史と名乗った何者かの威圧感に、翼は一歩後退する。
翼の頬を一筋の汗が伝っていた。普段ならば戦闘中だろうが何のためらいも無く拭っていただろう。
だが、今の翼にはそのような余裕など一切なかった。両手で握る刀の柄から、手を離す余裕など一切ない。それほどの圧倒的な存在感を目の前の少女……否、女性は放っていた。
これほどの存在感を示した剣士を、翼はこれまでの人生で見つけることができなかった。
―――或いは【彼】よりも上?
そう考えた翼は内心で首を振り、苦笑した。それに【御神】と名乗った女性は不思議そうに眉を顰める。
「何か可笑しいことでもあったかの?」
「失礼。気にしないでくれるかしら」
「ふむ……」
唯の問いかけの筈が、翼の芯にまで圧迫感を与える。先程流した汗が急激に冷えて、寒さが身にしみてきた。
翼はその体をぶるりと一瞬震わせると、己の愛刀を強く握り締める。
「一つ聞きたいのだけど良いかしら?」
「良い。許そう」
妙に偉そうに答える【御神】に、ぴくりと頬を引き攣らせた翼が軽く深呼吸をする。
「貴方は自らを【御神】の歴史と名乗ったようだけど……それはどういうことかしら?」
その質問に【御神】は薄く目を細めると、冷笑を浮かべた。
「簡単なことよ。妾は【御神】の歴史を見届ける者。御神宗家が望んだ、最強で在り続けたいと望んだ……具現者とでもいうべきかの?」
「……【御神】に宿る寄生虫みたいな認識でいいのかしら?」
身も蓋もない翼のたとえに流石に【御神】はピキっと頬をひきつらせた。
「せめて守護霊とでもいってもらいたいものだがのぅ」
「それは失礼したわね?」
内心の動揺をおくびにもださず、逆に余裕の笑みを翼は浮かべる。対峙する二人の間を夜風が通り過ぎた。
「やれやれね……」
そう【御神】に聞こえるように呟くと首を振ると先程から、【御神】を牽制するように翼が周囲に撒き散らしていた殺気をおさめる。
「……諦めたのかの?」
それに意外そうに声をあげた【御神】。美由希の内から見ていたが、この天守翼がそう簡単に諦めるように人間ではないことには気づいている。
その隙ともいえない、刹那の空白。その一瞬で翼が……疾走した。
【天翔(アマカケ)】―――と呼ばれる天守の奥義中の奥義。御神流では神速と呼ばれている歩法。
人間が普段己にかけている枷を意識的に外すことにより、その瞬間的に自らの知覚力を爆発的に高めることができる。
当然、体にかかる負担も大きい。乱発などしたら剣士としての寿命を削るといってもおおげさではない。
それを代償に己を常人とは異なる時間外領域に導く。故に必殺。
翼は確かに己の才能に絶対の自信をもっている。だから相手の力量の上限を見定めると言う意味で【遊ぶ】場合が常であった。
真剣勝負。しかも命をかけた死合いの時でさえ。
何故そんなことをしていたのかというと、それは自分に匹敵する相手が居なかったからだ。
今まで剣を交えて来た同門でさえ、ウサギと獅子ほどの差がある故に、翼は手を抜いて遊んでいた。
獅子はウサギを倒すのにも全力を尽くすという。だが、実際に幾ら油断したからといっても獅子がウサギに敗北することなど有り得はしない。
そこには絶対的に超えられない壁がある。それが己と他者。自分こそが上位者なのだ。
そんな翼が、剣を交えるまえから、さらには相手を油断させてその隙をつこうなどと、翼を知るものがみたら信じられなかっただろう。
その理由として、やはり翼は感じ取っていたのだ……相手の、【御神】と名乗る化け物の力量を。油断などできる相手ではないのだ。
そう、まるで【彼】を前にしたかのような……得体の知れない果てしない何かを纏った剣士。
空気を渡って、全身を縛り付けるかのような殺気。そのような相手に奥の手を隠して勝とうなど虫のいい話だ。
自分ができる最高にして最強の一撃を奇襲でしかける。そう、それを本能で実践した翼は最善の一手をうったはずであった。
視界がクリアに、モノクロに染まり、世界が音と動きを停止させたその領域を翼は駆け抜ける。
スイッチをオンオフに切り分けるように、自在にこの世界に出入りすることができる翼ではあるが、常に、どんなときでも、際限なく天翔をつかえるわけではない。
人が肉体を壊さぬように己に課しているリミッターを外して、限界ギリギリの能力を意識的に引き出すのだ。
身体がそれについていけるはずがない。幾ら翼がこの絶対領域に慣れてるとはいえ、それはあくまで認識し慣れている、どいうだけだ。
未だに身体が完成されていない翼にとってそう何度も使用可能というわけではないのだ。
そんな天翔の領域に身を置いていた翼の顔驚愕に染まった。先程の美由希の神速と天翔のぶつかり合いとは真逆。油断させ、隙をついたはずの【御神】の動きが翼の一歩上を確実にいっていた。
まるで蛇のように不規則で、からみつくように小太刀が白銀の軌跡を残して翼に迫る。
その剣閃が翼の右肩にくらいつこうとした間一髪のところで、刀をきりあげて弾き、防ぎきった筈だった。
だが、確かに弾いた筈の翼の身体にズシリと残る衝撃。羽をもがれた蝶のように翼の動きがとまった。いや、とめられたのだ。【御神】によって。
翼が予想だにしない衝撃を受け、その衝撃によって強制的に天翔の世界からはじき出された。
「っぁ……!?」
その美しい顔を痛みでゆがめながらも翼は体勢を崩しながら大きく跳躍して後退する。衝撃の激痛に耐えながら翼は【御神】の追撃に反撃しようと、視線だけは逸らさなかった。
そんな翼を【御神】は驚いたように僅かに目を見開き見つめていた。その視線に疑問を抱いた翼が呼吸を整えるための時間稼ぎも含めて質問を口に出す。
「なに、かしら?」
「いや、なに。その若さで大したものだと感心しておったのよ」
「……あっさりと防いだ貴方にそういわれても嫌味にしかきこえないけど」
「くふふ。穿った見方をしすぎじゃの……お主」
「……そうかしらね?」
「年長者の言葉は素直に聞いておくべきだと思うがの」
相変わらず美由希と同じ容姿のまま、雰囲気だけは異なる【御神】が妖艶に笑う。
「先程の一撃は手加減なしの徹を込めたはずだったのだがのぅ」
「高町美由希も見事とは思ったけど……貴方は彼女とは桁外れの衝撃だったわ。流石に己を御神の歴史と自負するだけはあるわね」
「妾の一撃に刀を落とすことなく済ませたお主の腕と、また砕けることのなかったお主の刀を誇ると良いぞ」
「……そう」
その【御神】の言葉に……翼の目が細まった。【御神】からしてみれば純粋に翼を賞賛したのだろうが、その台詞は翼には別の意味で捉えていた。
すなわち、自分よりも絶対上位だと確信しているからの、言葉と。
己に対する自信。それを打ち砕こうとする【御神】に、翼は冷たい殺意を初めて抱いた。
「……クス」
翼は笑う。
「……クスクスクスクス」
いや、哂った。どこまでも純粋で、どこまでも狂気に染まった笑顔を【御神】に向けながら。
全身に残る先程の衝撃など、まるで気にしないかのように。
音を立てて、台風のような轟風が、強烈な殺気が、周囲を駆け巡る。
鋭い突風となって【御神】をうつ。そんな殺気を前にしても【御神】に変化はない。
逆にホゥと感嘆の声をあげただけであった。
「気に入らないわ。ええ……気に入らないわよ、貴方」
はっきりとした憎悪の感情をのせ、翼は呪うかのように紡ぐ。
「御神の歴史?守護霊?だからなんだというのよ!たかだか過去の亡霊じゃないかしら?」
刀をすらりと構え、切っ先を【御神】に向ける。切っ先は止まれど、言葉はそのままとまらない。
「私は強さを求めて生きている。ただ、強く。誰よりも強く。何よりも強く。それも全ては【彼】に私を認めさせるために!そのためだけに私は高みを目指しているのよ!!カビが生えた過去の亡霊如きが、私の道を邪魔するな!!」
吐き捨てるように翼は激昂した。全てを見下し、どこか諦観したかのような普段の雰囲気など一切ない。
この姿もまた天守翼の本当の姿だ。冷静?冷酷?残虐?非常?非人間的?
確かにそうだろう。翼はそういうところが大部分を占めている。だが、この姿こそ、真の翼。
美由希と異なれど、負けない、強い信念を持っているのだ。
そんな翼を、【御神】は面白いものをみたかのように、くふふと笑う。
「心地良いのぅ。強き信念を持つものの殺気というものは……」
【御神】は構えをとらない。所謂無形の位。
翼の凶悪な殺気を前にしても、その余裕を無くしてはいない。
その余裕が翼はますます気に入らない。表情を、鋭く、冷たく、変化させ、翼が思考さえも刀と同化させていく。
世界から音がなくなる。色がなくなる。翼の瞳に映るのは普段とおなじ、天翔の世界。
―――だが。
まだ、まだ足りない!この程度では届かない!
頭のなかでそう響く。だからこそ、思考を回転させる。
【御神】を打倒するための方法を。技を。
その瞬間、天啓がおりた。かつて、そう三年前の彼との会話を思い出したのだ。
―――翼、お前は強い。お前ほどの才ある者を俺は知らない。
―――貴方にそう言って貰えるなんて光栄ね。
―――だが、だからこそ惜しい
―――それは、どういうことかしら?
―――お前はもし神速、お前でいうならば天翔か。それが通じない相手と剣を交えることになったらどうする?
―――そんな相手がいるとは思えないけど。
―――いるさ。げんにお前の天翔は俺に通用したか?
―――それは……。
―――それにな。あの世界にはまだ【先】がある。
―――そんな……まさか……。
―――信じられないのも無理はない。だが、事実だ。確かに存在する。誰もが有り得ないと思っているからこそ、どれだけ無茶苦茶なのか分かっているからこそ……辿り着けなかった世界が。
―――それが本当なら面白いわね。
―――ああ。もし、お前が俺を超えたいならば……辿り着いて見せろ、その世界に。
―――ええ。必ず。
懐かしい過去の会話。それに、思わず笑ってしまう。
冷笑でも、見下した笑みでもない。誰もが見惚れずにはいられない魅力的な笑みを。
クスリと再び笑うと、翼は深く深く、まさに深海のように、己自身を遥かなる底に導いていく。
普段当たり前のように踏み入る天翔の世界より遥かな底へ。
だが、足りない。全然足りない。
天翔と神速の世界での刀と小太刀の応酬。【御神】は軽々とその世界で、翼の猛攻を防いでいる。まるで子供をあやすかのように。
足りない?何が?力?速度?技?
違う。そんなものではない。
己の才能に対する自信……私ならできると。必ずできると。
信じる心。意思。決意。
【彼】が言ったのだ。私―――天守翼の才能は……【彼】でさえ比肩する者を知らない、と!
【彼】が言ったのだ。己を超えて見せろ、と。
だから……だからこそ負けるわけにはいかない!!
私が、私だけが【彼】と共に歩む資格があるのだ!!彼と共に修羅の道を!!三年前に、その道へと誘ってしまった、それが私の―――贖罪!!
腕が、足が、肺が、心臓が、思考が重い。
だが、まだだ。
【彼】が私に伝えたのだ。この世界には先があると。
ならばそれを証明してみせる!他ならぬ私が!
天翔でさえ対抗できないならば……その領域を持って……【御神】を倒す!!
今までよりも遥かに長く天翔の世界にその身を置き、身体中が限界だと悲鳴をあげても、翼は天翔の世界から抜け出すことはしなかった。
限界を越え、更に限界を超えたその瞬間。世界が変わった。
無音の世界でパンと何かを突き抜けた音が翼の耳をうった。
光が、見えた。輝く光が、モノクロの世界を彩る。
普段感じる、先程まで感じていた、苦しさがスっとひいた。今ならば全てを見通せそうな感覚を翼はその身に宿した。
―――これが……更なる高み……天翔を超えた領域。
この世界を支配下においた私は……勝てる。彼女に。【御神】に。
「……見事よの」
ぞっとした。心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖。
天翔をこえた……更なるその領域で、【御神】はなお笑っている。
本来ならば、この時間外領域で言葉など聞こえるはずがない。それなのに確かにはっきりと【御神】の声は翼の耳に届いた。
有り得ない、時間の凍った空間。その世界で【御神】は、翼の全ての上をいっていた。
「褒美に見せてやろうではないか……【御神】を極めし者の真の一閃を」
思考する余裕もなく、翼は……己に迫ってくる白色光に煌く一筋の剣閃を呆然と見つめることしかできなかった。
「まさか妾に【閃】を使わせるとはのぅ……末恐ろしい小娘よ」
【御神】はそう一人ごちると小太刀を納刀し、地面に横たわっている翼を見つめた。
僅か二十にも満たない小娘が一瞬とはいえ【御神】を体現した自分に匹敵する能力を示し、全力をださせたのだ。
【御神】ですらあの世界に……神速を越えた世界へ到達できたのは何時であったか。
「これが才能というものかのぅ」
成る程。確かに不破の子倅が、天才と賞賛していただけはある。
美由希は間違いなく御神の歴史において並ぶ者がいない才能の持ち主だ。それでも、天守翼はそんな美由希の才能をも上回っている。
「先程の一瞬。お主は不破の子倅をも凌駕しておったよ」
慈しむように地に伏せている翼を一瞥すると踵を返して離れようとする、が……。
「どこに……いくのかしら……?」
「……!?」
その声に、驚愕の表情の【御神】が振り返る。
信じられないことに翼が立ち上がろうとしていた。生まれたての小鹿のようにぶるぶると震えながらも。
それでも刀を支えにゆっくりと確実に。
「妾の閃をその身に受けて……まだ立ち上がるとはのぅ」
【御神】は心底驚いていた。峰を返しての一撃とはいえ、御神の奥義の極み。
如何なる相手をも無力化する活殺自在のその技を、受けてまだ立ち上がることができるとは。いや、意識があることさえ信じられない。
「あまり無理をするでない。もはやお主は限界であろう?」
「……それは……どうかしらね?」
こふりっと、咳をする翼。ビチャリと、地面に吐血する。
【御神】の見立て通り、翼はすでに限界であった。
天翔の連続使用でさえ、身体に過度の負担をかけていたのだ。更に、天飛を越えた領域に足を踏み入れた代償は軽くはない。
付け加えて、【御神】の一撃。もはや意識を保つことさえ辛い状況である。
それでも翼は不敵に笑った。
「妾はお主を殺したくないのじゃよ。お主も……御神美由希を殺そうなどと考えてはおるまい?」
「……」
「……お主は御神美由希を実戦で鍛えようとしておったのじゃろう?そうでなければ当の昔にこの娘はお主に殺されておる」
そう【御神】が答える。小太刀も抜こうとせず、柔らかい視線を翼に向けたまま。
「だから妾もお主を殺さんよ」
翼がガクリと肩と顔を落とす。【御神】もそれを見てようやく、安堵のため息をついた。
翼を殺したくない。それが【御神】の本心である。長きに渡って御神の歴史を見てきた自分にとって唯一の楽しみが、人の成長を見届けること。
間違いなく目の前の少女は……近い将来更なる高みにのぼっているだろう。
不覚にもその姿を見たい、と思ってしまったのだ。【御神】は。
これ以上戦って、そんな逸材の剣士としての将来を奪うような怪我を負わせたくはない。
「……【殺したくない】、か」
ポツリと、そう翼が呟いた。そしてゆっくりと立ち上がる。俯いていた顔をあげ、震える両足に力をいれて。
「……屈辱だけど……今の私は……その言葉に甘えるしかないようね……」
強い夜風が吹く。それだけで翼はぐらりと揺れて倒れそうになるのを、なんとか刀を支えにする。
「でも……分かったわ、貴方の底が」
「なんじゃと?」
「何時か……貴方を倒すわ。この私が、必ず」
【御神】の疑問に答えることなく、今度は翼が背を向けてゆっくりと歩き出す。
敗北を喫したままこの場をさることにどれだけの屈辱を覚えるか。
だが、それでも……負けたくない以上に死にたくはない。
死んだら全てが終わりだ。そこから先には何もない。剣士としての終わり。全ての終焉。
―――だから、耐えなさい!天守翼!今はこの屈辱に!
ガリっと歯軋りをしながら、校門寸前まできたところで、地面に躓き倒れそうになった。
それを横から出てきた水面が支えた。
「やーやー。大丈夫かい、天守?」
「……余計なお世話よ?」
そう言って翼は水面から離れると一人で歩き出す。
「あーあ。折角支えてあげたっていうのにさー」
後頭部で両手を組み、つまらなそうに翼の後に水面は続く。
「いやー、一体あんたたちなにやってたの?はっきり言って全く見えなかったんだけど」
「……さぁ?」
「全く、化け物よねー。ってか、なにアレ?御神?よくわからないけど……でたらめに強いんだけどさ」
「ええ……そうね。強いわ。でも、それだけよ」
「うん?」
水面を無視して、翼は痛む身体をおして夜空を見上げた。
そう。確かに強い。桁外れに。
恐らく【彼】よりも強いだろう。腹立たしいことだが。
【御神】の強さは完成された強さだ。どこから見てももはや口を挟む余地もない、完璧な強さ。
だが、それだけなのだ。もはや成長もしないだろう、アレが限界だ。
でも、【彼】は違う。未だ発展途上。どこまでも高く、強く成長していっているのだ。
「貴方は……超えられるわよ、【彼】にね。必ず」
翼の姿が見えなくなった頃に、突然、【御神】は糸の切れた人形のようにふらりと崩れ落ちた。
それを見て慌てたのが紅葉だ。あまりにも人智を逸した争いに、水面と共に加勢にきたはずの彼女たちは呆然としているしかできなかった。
「御神さん!?大丈夫ですか!?」
崩れ落ちた【御神】を胸にだいて揺さぶる。しばらくしてようやく閉じていた眼を開けた。
「……如月……さん?」
「気がついたんですか?良かった……」
心底ほっとしたようにため息をつく紅葉。美由希は焦点のあわない虚ろな表情のままギュっと紅葉の服を握り締めた。
「……悔しい」
ぽつりと呟いた。
美由希は見ていたのだ。【御神】の内から先程の戦いを。
以前に見た、恭也と殺音の戦いにさえ匹敵しかねない、剣士の戦いを。
自分のうちに【御神】が……本人の言うことが本当ならば守護霊がいたことにも驚いたが、それ以上に悔しかった。
恐怖に負けて、【御神】にこの身体をわけあたしたことを後悔していた。
己を信じず、戦いを放棄した不甲斐なさ。
「……私は……弱い……」
涙が流れる。己のあまりの弱さに。
こんな自分が師に、恭也に誇りにされることなど許されて良い筈がない。
「!?」
ぞわりと、美由希の眼をみた紅葉の背筋が粟立った。
今までの美由希とは正反対の……どこまでもどす黒い、負の何か。
まるで天守翼か、それ以上の……何かに狂った瞳。
「私は……強くなる。誰よりも……誰よりも!!」
悪魔さえも逃げ出すような、黒い感情を宿した、どろりとした暗い感情をのせて美由希は叫んだ。
------エピローグ--------
「あー平和ねぇ」
「まーな」
さんさんと陽をおとす太陽の光をあびながら、海鳴商店街の一画にあるカフェの窓際の席に向かい合って座っていた水面と葛葉がいた。
葛葉は美由希に貫かれた肩がそう簡単になおるわけもなく、ギブスでガチガチに固定していた。
葛葉の前にはカップにはいっているコーヒーが置かれていた。それに対して水面はオレンジジュースだ。
両肘をテーブルについて、ストローでオレンジジュースを吸う水面。眠いのか眼がトロンとしている。
「毎日こんな天気だったらいいのにねぇ」
「そうだな。俺は寒いの苦手だしな」
「あたしもさー」
全てのみきったのか、残りは氷だけとなりカランと音が鳴る。
水面はグラスを持って中にはいってる氷を口に頬張るとガリガリと噛み砕く。
「あれから一週間かぁ。永全不動の本家のほうからもお咎めなしだし。よくわかんないわよねー」
「……そうだな」
永全不動八門の戦いから一週間が過ぎていた。
結局のところ一番の大怪我はここにいる葛葉だったのだが、病院が嫌いなためにとっとと抜け出しているわけだが。
性格は少し乱暴だが、結局のところ根が真面目なため、ギブスをしたまま学校に通っているのだが、それを水面におちょくられていたりする。
そんな葛葉がコーヒーを飲もうとカップを持った瞬間。
「ちょ……葛葉葛葉!!!!」
水面が葛葉の襟を掴んで引き寄せる。それにバランスを崩した葛葉がコーヒーをテーブルにぶちまけた。
「な、なにしやがる!?」
「あれみて、アレ!!!」
「あん?」
水面が指差した先。その先には翼がいた。
上から下までの服装が全て漆黒。それは相変わらずだ。だが、長い髪をリボンでとめ、あろうことか薄く化粧までしている。
半年近く一緒にいたが、化粧をしているところなどみたことすらないというのに。
いつもの冷たい雰囲気は無く、遠めからみても上機嫌なのが分かる。
二人に気づくことなく翼は商店街を歩いていく。それを呆然と見送っていた水面と葛葉だったが、正気にもどると、支払いをすませて急いで後を追う。
野次馬根性とでもいうべきか。それでも二人の知っている翼とは全く違う彼女が何故あんなに上機嫌なのかどうしても知りたいために気配をけして慎重に尾行する。
「……相当うかれてるわねぇ、天守」
「だな……俺達の尾行にもきづかねーくらいだしな」
ヒソヒソと話す二人だったが、尾行すること数分。ようやく翼が何かに気づいたように薄く口元を綻ばせると手を振って、オープンテラスになっているカフェのテーブルに座っている青年の元に近づいていった。
待ち合わせが男という事実に驚愕の表情で固まる葛葉。
それと同じく、水面もまた翼の待ち合わせの青年を見て固まった。
「あの男って……【不破】!?」
「待たせたかしら?」
「いや。そうでもない。俺も今さっき来たところだ」
「それなら良かったわ」
失礼するわね、と言って翼は恭也と向かい合って腰をおろした。
注文を取りにきたウェイターに適当にメニューを頼む。そのウェイターが翼に若干見惚れていたのはご愛嬌である。
以上、という翼の答えに我を取り戻したのか、慌てて店内に戻っていく。
翼は足を組むと恭也に笑いかける。普段の相手を見下す笑みではない。まさに【女】としての笑み。
「改めて久しぶりね?恭也」
「ああ。健啖そうでなによりだ」
「クス。直に会うのは三年ぶりかしら?」
「そうだな。電話では時々話していたんだがな」
「……その電話も私の方からしないと、かけてこないくせに」
「うん?何か言ったか?」
「いーえ。何でもありませんよーだ」
べーっと恭也に舌をだして翼が答える。恭也は苦笑するとガシガシと髪をかく。
先に注文していたコーヒーを口に含んで一息。
翼を優しげに見ていた恭也だったが、っふと視線を鋭くする。
「……怪我は大丈夫なのか?」
「ん……それほど重傷じゃなかったわよ?と、いうより私の方が吃驚」
「そうか。それなら良かったんだが」
「って、それよりも!!」
ダンっと両手でテーブルを叩いて思わず立ち上がる。
「何よ、あれ!!聞いてなかったわよ!?」
「うん?何のことだ?」
「御神美由希のことよ!!彼女は凄い腕前だと思うけど……【御神】って寝耳に水なんだけど!!」
「……【御神】が出てきたのか」
心底驚いたように恭也が眼を見開く。それをみて少し落ち着いたのか翼が椅子に座りなおす。
「アレってなんなのよ?」
「さぁな。俺も詳しいことはわからん。分かっていることは、あの存在が御神流を最強たらしめんとしている、ということだけだ」
「……」
「御神宗家において、別格の才能を持つものだけに顕現する別人格。御神の歴史全てを見届ける者。以前は御神宗家の長女である御神琴絵さんという人に宿っていたのだがな。病弱であったためにそうは表には出ていなかったから、俺もそうは会ったことないんだ」
「まさか御神宗家が最強と称された理由って……」
「そうだ。【御神】がいるからこそ、だ」
「……そう」
一端口を閉ざすと、ウェイターが運んできたミルクティーを口に運ぶ。
一瞬の沈黙。その沈黙をやぶって、しかし、と恭也が呟く。
「【御神】が表にでるのは完全に俺の読み違いだ。迷惑をかけた」
そう言うと恭也は頭を垂れる。それに慌てたのが翼だ。わたわたと両手を顔の前で振る。
「き、気にしないでいいわよ!私は気にしてないんだし!」
「そうか。すまんな」
「……う、うん」
若干顔を赤くした翼がぷいっと視線をそらす。
「まぁ、美由希の面倒を見てくれて助かったぞ。あいつよりも格上の……命のやり取りが行える相手が欲しくてな」
「……貴方の頼みだし。三年前の借りは返したわよ?」
「……三年前か。まだあの時のことを覚えていたのか」
「忘れるわけないじゃない……」
深い悔恨。翼の瞳に悲しさが混じる。自分が恭也を、地獄の入り口へと導いてしまったのだから。
ハァと重いため息をついて気づいた。恭也も、また万全の状態ではないことに。
「恭也もどこか怪我してない?」
「……ばれたか」
「それはね。流石に気づくわよ。貴方の前にいる私は誰だと思ってるの?そこらの俗物じゃないわよ」
「くっ……それもそうだな。失礼した」
「で、貴方にそれだけの傷を負わせたのってどこの誰かしら?」
「ああ、【死刑執行者】だ」
「ふーん」
あっさりとした恭也の答えに、これまたあっさりと返事をした翼。
一拍の時。
「ッケホ……!?」
むせた。それはもう、おもいっきり。これ以上ないくらいに。
「し、死刑執行者!?」
「ああ」
「ああ、って何よ!その冷静沈着ぶり!?死刑執行者よ、死刑執行者!あの、十人の中で最も有名な!五百年前から第三世界の最後の砦とも言われている王の一人よ!」
「大げさな奴だ」
「大げさじゃないわよ!特殊能力を使わない戦闘においては【百鬼夜行】と並ぶと言われているあの化け物を……三年前のあいつの比じゃないわよ……」
ガクリと翼は心底疲れたように深く腰をおろす。この男の、恭也のでたらめぶりは三年前から知っているが、まさか今度はこんなとんでもないことをやってのけるとは……。
間違いなく、第三世界は揺れる。あの十人の一人が、たかが【人間】に崩されるなど有り得ないことだ。
だからこそあの時も……。
「気にするな。何時かこうなることは眼に見えていた。三年前から、な」
「っ……」
恭也の言葉に翼が俯く。
そうだ。そうなのだ。結局、死刑執行者を倒そうが倒すまいが、こうなることは決まっていたのだ。
それが遅いか早いかの違いだけ。そのために、私はここにいるのだ。
彼だけを、恭也だけを修羅道を歩ませないために。
そう誓いを新たにした翼は一気にミルクティーをあおった。
「あ、あれが天守かよ……?」
「ま、ま、まぢで……?」
近くにある花壇に隠れながら会話を聞いていた二人は背筋に鳥肌を立てながらガタガタと震えていた。
違う。あまりにも違いすぎる。
自分達の知る天守翼とは。
あれではそこらへんにいる普通の恋する乙女ではないか。最も、剣の腕だけは乙女とは言い難いのだが。
水面も葛葉もあまりの事態に思考がスパークしてどうしようもない状態であった。
「それでは、俺は帰るとしよう。またな」
「……ええ。またね、恭也」
そう言って遠ざかっていく恭也の気配。だが、もう一つの……肝心の翼の気配が動かない。
はやくいってくれーと願う二人を無視して、一瞬気配が消えた。
ぞわりと嫌な空気が周囲に満ちる。そして、いつのまにか翼は花壇の上に立ち、二人を見下ろしていた。
その瞳は冷たい。そのまま凍らされるのではないかと思うほどに。
「あ、あ、あ」
恐怖でうまく口も回らない。葛葉も水面も蛇に睨まれた蛙のようにガタガタとふるえながら死刑を執行される罪人の如く見上げていた。
「二人とも」
「「ひゃ、ひゃい!!」」
「今日のことを誰かに話したら……」
一息。
「殺すわよ?」
返事も聞かず翼は踵をかえすと歩き去っていく。完全に姿がみえなくなっても二人はしばらくそこで震えていた。
歩く。ひたすら歩く。翼が何も眼を向けることなく歩いていく。
数分で、現在住んでいるマンションに到着。エレベーターにのり、自分の部屋に入った。
そのままドアをあけてベッドに飛び込んで顔を枕に押し付ける。
「ぁぁ……ぅぅ……」
顔が赤い。真っ赤に染まっている。それは果てしない羞恥によるためだ。
失敗した、という想いが頭を埋め尽くす。そう、とんでもなく失敗したのだ。
随分久しぶりに恭也に会えるからと、化粧までして待ち合わせ場所にいったというのに。
相当浮かれていたのだろう。普段なら気づいたはずのあの二人に気づけなかった。
しかも、聞かれてしまったのだ。恭也との会話を。
―――恥ずかしい。恥ずかしすぎてどうにかなりそうね。
もし、万が一にもこの話が広まったりしたら……。
「……本当に殺すわよ、鬼頭!!!葛葉!!!」