九月も半ばに差し掛かり、徐々に日差しも柔らかになってきた暑くもなく寒くもない過ごしやすい時期。
恭也はもうあと一週間もすれば大学が始まることにやや憂鬱になりながらも日々を過ごしていた。【北斗】との邂逅以来、特に恭也に護衛の依頼もなく平凡な毎日である。
早朝に起き鍛錬を行い、昼前になると翠屋の手伝いに行く。夕方になると家に帰り、また鍛錬を行う。普段ならば美由希と一緒に鍛錬を行うが、未だ北斗との戦いの怪我が完治していないので念には念を入れて美由希には別メニューを課している。
大学生でありながら色気も何も無い生活サイクルに桃子は呆れ気味で、何かしら裏でコソコソ動くような真似をしていたようだが。 いい若い者が真昼間からふらふらとしているのはどうかと思われるが一応恭也にも予定があった。
来週から始まる大学の講義の時間割をとりに大学に行かねばならないのだ。勿論、用事はそれだけなのでわざわざ大学へいくことが大変無駄に思えてしまう。もっともほとんどの大学生が一度は考えることであろう。
高校と違い恭也が通っている大学は出席を取らない講義が多い。テストで良い点をとればいいだけなので普段の講義で爆睡している恭也にとって授業態度が考慮されないというのはあり難い。
だが、テストで良い点をとれるかといわれれば首を傾げざるを得ない。
同じ大学に通っている親友の【月村忍】と【赤星勇吾】とできるだけ同じ講義を取りノートを確保できるようにしてはいるが、もし二人がいなかったらと思うとゾッとする。
しかし、学部も違うためそのうちバラバラの授業をとらなければならないことを考えてため息をつく恭也。
「あ、恭也ー!」
そんな鬱になっている恭也を遠めで見かけた、やや紫がかった黒の髪を腰近くまで伸ばした女性が声をかけてきた。
周囲の男女問わず反射的に振り返ってしますほどの美貌の持ち主。
「【忍】か。今日は大学へ行くんじゃなかったのか?」
「んーその予定だったんだけどね。ちょっとめんどくさくなっちゃってね。どうせ恭也もそのクチでしょ?」
「……まぁ、否定はせん」
「あはは、やっぱり。内縁の妻の忍ちゃんにはお見通しよ」
「誰が内縁の妻だ、誰が」
「わたしわたし」
嬉しそうに笑って自分を指差す忍に恭也は呆れたようにため息をつく。
恭也の目の前にいる女性は月村忍。高校三年間クラスが一緒であったにもかかわらず親しくなったのは高校三年のときからである。
僅か一年と半年程度の付き合いではあるがもはや親友という言葉が相応しいほど互いに心を許しあっている。
夜の一族という存在を知ったのもこの忍との関係からなのだ。
「赤星君が大学行ってくれてるみたいだから今日はゆっくりしようよ」
「……そうするか」
正直、内心面倒くさがっていた恭也は赤星が行ってくれてると聞きあっさりと忍の言葉に誘惑される。
忍はそんな恭也の手を取ると近くにある喫茶店に入店した。よほど嬉しいのか自然と鼻歌など歌っていたりする。
「ここの喫茶店って結構評判いいのよね。翠屋ほどじゃないけどー」
ウェイトレスに奥の席に案内され、とりあえずコーヒーを二つ頼む。ウェイトレスは見事な営業スマイルを残し戻っていく。
忍はテーブルに両肘をつき、手を組む。その上に顎を乗せると恭也に向日葵のような笑顔を見せる。
「なんだか恭也と会うのも久々な気がするね。電話は結構してたんだけど」
「まぁ、そうだな。互いになんだかんだで色々用事があったみたいだしな」
「あはは。私はちょっと【さくら】と海外へ出かけてたしね。毎年恒例だから恭也と一緒に行きたかったんだけど……」
タイミング悪かったかしら、と忍は苦笑する。
丁度その頃は【北斗】との戦いが終わったばかりだったので丁重にお断りしたのを恭也は思い出した。
「それよりドイツはどうだったんだ?」
「んー……毎年行ってるけどいい所よ。今度機会があったら是非行こうね」
「ああ、その時はよろしく頼む」
くすりと忍は笑うと今までの笑顔を消し、突然真面目な顔になる。
「恭也……【北斗】と戦ったって本当?」
「……誰から聞いたか分からんが、事実だ」
「なんて無茶をするのよ……」
恭也の答えに忍は心底呆れたような、賞賛するような表情でため息をついた。
「【破軍】の水無月と戦ってよく無事だったわね……」
「……殺音のことを知っているのか、忍?」
水無月殺音のことをファーストネームで呼ぶ恭也に忍がピキっと頬を引きつらせるが、それも一瞬。
ウェイトレスがコーヒーを運んできたので一端話を中断させ、コーヒーを一口含む。
うまい、と恭也は呟いた。確かに翠屋には及ばぬもののこの値段でこの味は十分破格ともいえるほどの味わいだった。
コーヒーを堪能したそんな恭也を見ていた忍が先程の続きと口を開く。
「んー。かなり有名よ、夜の一族の間だと。色々物騒な名前で呼ばれてたりした女性でね。近い将来、頂点の【十人】のうちの一人になるんじゃないかって話もあったくらいだし」
「……【十人】、か。そこまでの剣士だったのか……」
恭也の唖然とした返答。恭也の無謀さに忍が顔を顰める。
その後、夏休みあった出来事などを互いに話し合っているといつのまにか時間が過ぎ、夕日が差す時間帯になっていた。
コーヒー一杯でそこまで粘る二人。店員も嫌な顔一つしないのがまた凄い。精算をすませ、喫茶店から外に出る。カランカランというベルの音を、聞きながら恭也は夕日を見上げる。その横では忍が手を合わせて空にあげ、伸びをしている。
「それじゃあ、またね恭也。今日は話せれて楽しかった」
「ああ。また大学でな」
忍はぶんぶんと手をふりながら上機嫌で鼻歌をうたいながら人波に消えてゆく。
―――やっぱり恭也は凄い!!
身体がブルリと震える。発情期に入ったときのようにぞくぞくとした快感が全身を巡る。
水無月殺音のことは濁しながら話してはいたが実際は決して敵対してはならない存在だと、幼い頃から聞かされたものだ。
夜の一族の間でも戦いを挑むことは死に繋がる。正真正銘の死神だと、称された女性。
その水無月殺音をも打ち破ったのだ。ただの人間が。たかだか二十年も生きていない人の子が。
さすがは私と誓いを立てた人。
古代の技術で造り上げられた最終生産型自動人形イレインをも打ち破った剣士。
私が知る限り最強の―――ヒト。
「はぁ……」
艶っぽいため息が漏れる。身体が火照っているのがわかる。
絶対逃がさない。
―――私と共に、私の闇を歩いてもらうからね、恭也。
学校帰りの学生。買い物途中の主婦。少々早めの帰宅の会社員。
そんな大勢の人間でごったがえした商店街。
恭也も忍が去っていった方向とは逆へと足を向ける。人々が向かう方向ともまた逆へ。人気がない方へと若干足早になりながら。
ふと前方をみるとそこに工事を行っているのか、白い布で周囲を覆っている現場が視界に映った。
意識を鋭くして周囲の気配を感じ取る恭也。その工事現場に誰もいないことを確認すると躊躇いもなく布をまくって中に入った。
周囲を軽く見渡す。思ったとおり今日は休みなのか工事は途中で放置されており、人影はない。また、外から中の状況が見えなくなっている。
「―――丁度いい所があってよかった」
呟いて右手を上げる。翳すようにある方向へ掌を向ける。
「出て来い。俺に話があるんだろう?」
夕日で作られた影の中、恭也が掌を向けた先。その闇のなかから小柄な人影が音もなく姿を現す。
風芽丘学園に居る時とは違い、おちゃらけた表情など一切ない水面だ。
見たことのない顔に恭也が不審気に眉を顰める。およそ、数メートルの間合いを取り水面は足を止めた。
「もう一度聞く。俺に何か用か?最近何度か俺の様子を窺っていたようだが」
「私の気配に気づかれていましたか。さすが、と言うしかありません。こう見えても隠形の術に関して言えば自信があったのですが」
「確かにな。大した手前だ」
「噂に名高き【不破】にそういって頂けるとは光栄の至りです」
そう水面が言葉を返した時だった。全身の毛穴という毛穴から冷や汗があふれ出した、と錯覚するような怖気に襲われた。
地面を蹴る。例えどんな攻勢に出られたとしても反応できるようにとっていた数メートルの間合い。確実な安全圏。
それが一瞬で崩壊した。自分が安全圏だと思っていた所は危険地帯。その気になれば首を落とされるであろう死の領域。
恭也から水面はさらに距離をとった。相手の武器は間合い精々数十センチ程度。届くはずがない距離。
それでも水面の眼には喉元に小太刀を突きつけられてるような幻覚が、全身が圧迫感を感じ取っている。
「話があるならば聞こう。だがもし、お前が俺の家族を害する使者であるならば―――」
恭也が腰を落とし、前傾姿勢を取る。
「―――斬る」
その言葉が鋭利な刃となって水面の全身を切り刻んだ。
全身から鮮血を噴出したかのような幻覚。勿論恭也は武器など持っていない。無手だ。
だが、水面は確かに見た。恭也の腰に挿された幻想の小太刀を。
「お、お待ちください!!非礼をお詫びします!!私は【永全不動八門】一派が一、【鬼頭】の者です……!!」
水面はかすれるような声で腹から声を振り絞って叫ぶように訴える。誤解を解かねば今度は幻覚ではなく、本当に斬られる。
そう感じる冷たさが確かに恭也には存在した。
【鬼頭】という単語に恭也がピクリと眉を動かす。恭也は殺気はそのまま、無言で水面に続きを言うよう促す。
恭也が僅かとはいえ話を聞く体勢になったことに安堵しながら水面は呼吸を整える。
だが、これより先うかつに言葉を違えることはできない。自分の命はまさしく目の前の男に握られているのだ。
水面は地面に片手と片膝をつき頭を垂れる。まるで騎士が王に忠誠を誓うかのように。
「失礼いたしました、【不破】殿。お初にお目にかかります。永全不動八門一派【破神】の【御神】が闇。【不破】の当主。私は鬼頭水面。この地、海鳴に派遣された鬼頭宗家の者です」
「鬼頭が今更、何用だ?」
「恐れながら私だけではありません。鬼頭を含む永全不動全ての一族がこの地に集結しております」
「……ほぅ」
永全不動八門が全てこの海鳴に集結していると聞き僅かに驚く。
「半年ほど前のことです。鬼頭当主から私に海鳴にて他の永全不動八門と協力して【御神】の監視を行えと命が下りました。それの意図することは私にはわかりません。ですが、本日【天守】により……【御神】と……戦争を行うと……」
最後の方は恭也の怒りを恐れて尻すぼみになりながら、水面は恭也の様子を窺う。
そんな恭也は意外や意外。先程のような殺気は放たず、戦闘体勢をスっと解除した。
ふむ、と顎に手をあてて考え込む。
「―――天守か」
「はい。かつての【御神】と立ち並んだ永全不動八門一派。【御神】にかなりの敵愾心を抱いているようですが……」
「天守の誰が来ている?」
「……最悪の相手とも言えます。化け物揃いの天守宗家でも百年に一人の逸材と謳われる天守の次期当主……」
「【天守翼】だな」
「ご存知でしたか。御推察の通りです」
その答えに考え込む恭也。そんな恭也に対して水面は今まで垂れていた頭をあげる。
「恐れ入りますが【天守】の行動は不自然すぎます。私としても今回は【天守】の独断だという疑いを捨て切れません。今一度鬼頭宗家に連絡をとってみようと思います。【御神】には不干渉……その約定を破るわけにはいきませんので」
それに……と水面は首を振る。
「私達【鬼頭】は誰よりも中立であらねばなりません。ですが、他の者達はどうかわかりません。私が鬼頭宗家と連絡が取れるまで【御神】殿と行動を共にすることを願います」
真剣な水面。真摯で裏がないように見える。いや、恭也の眼からみても裏はない。そう確実に断言できる。
恭也は気づいた。この女性は、本当に自分と美由希の心配をしているのだと。
だが―――。
「いらぬ心配だ。あいつは、美由希はどこまでも【御神】だ。この俺が鍛え上げた最強へと至る剣士。その美由希に勝てると思うのならば戦いを挑むがいい」
「っ……!!」
恭也はそう水面を睥睨すると、踵を返す。その背中に追いすがろうとして水面は言葉に詰まった。
拒絶している。話は終わりだと。恭也の雰囲気が、壁を作っていた。
水面は理解できない。
確かに【御神】は強い。あの歳でどれだけの鍛錬を費やしたのか、どれだけの才能を必要としたのか。
恐らく自分でも一対一では勝てはしまい。現段階の能力でさえそれなのだ。潜在能力などは底が知れない。
それでも、恭也は理解していない。【天守】の危険さを、強さを、異常さを。
百年に一人の逸材と言われているが、それですら甘い考えだと思わざるを得ない圧倒的な才能。
努力という言葉を嘲笑うかのように凡人が一を行く間に百を行く少女。
才能に胡坐をかきながらも才能だけで他を凌駕する。
水面が見てきた中で天守翼ほど強き者は【先程】までいなかった。そう、【先程】まで―――。
「あれが、【不破】!!あれが、【絶刃】!!」
恭也の姿はすでにない。それでも未だに声が震える。身体がカタカタと鳴る。全身が硬直したように身動きが取れない。
噂には聞いていた。【不破】の存在を。
三年ほど前に行われた永全不動八門の会談。無論、滅びた【御神】を除いてだが。
その会談に【御神】当代代理として現れ、御神が未だ健在だとたった一人で他の七の当代に【認めさせた】、化け物だと。
噂はメダカが鯨になると言われている。話半分に聞いておけ、とも。
だが―――。
「あの男……桁が違う……」
今回ばかりは噂のほうが可愛いものだ。全くもってとんでもない。叔父が、鬼頭当代が【不破】にだけは関わるなと言った理由がよくわかる。
【御神】相手ならば場所と罠をかけて自分の土俵で戦えば勝てる芽はある。
だが、【不破】を相手に戦いを挑んだならば、絶対に、完璧に、限りなく、壊滅的に、勝利の文字など浮かびもしまい。
天守翼でも―――勝ちの目など一片たりともありはしまい。
【不破】はああ言ったが、弟子をやられて黙っている筈が無い。
―――本格的な戦争になる前に、鬼頭家と連絡を取らないと……。
ようやく治まりつつある震えをおさえながら水面は夕闇に消えた。
高町家は一風変わった家族構成である。
母親であり大黒柱の高町桃子。長兄である恭也。コンサートで海外を飛び回っている長女的存在のフィアッセ・クリステラ。次女的存在の高町美由希。美由希に続き鳳蓮飛と城島晶。末っ娘の高町なのは。
実際に血の繋がりがあるのは桃子となのはだけ。
血の繋がりがなくても家族になれるという例の一端だろう。
晶とレンが作った夕食を皆で食べる。相変わらず桃子が楽しそうに話し、なのはや美由希が頷く。
晶とレンの二人は口喧嘩をしながらもどこか楽しそうだ。
恭也は桃子に絡まれながらも黙々と夕食を箸で口に運ぶ。
毎日これほど美味しい料理を食べれることに内心感謝しながら。無論、二人に礼も忘れてはない。
プロとはいかないまでもそれに近い料理の腕を持つ二人。そして正真正銘のプロの桃子。
なのはも次期翠屋店長をめざしているのか最近料理に目覚めていたりもする。つまり……。
「料理ができないのはお前だけということだ、美由希」
「ぇぇ!?何、いきなり?きょーちゃん、脈絡がないよ!」
「うるさい、黙れ」
「な、なんか酷い……」
「悔しかったら少しは食べられるものを作れるようになることだ」
恭也のあまりといえばあまりの言いようにシクシクと涙を流す美由希。そんな恭也と美由希を顔を苦笑いしながら見る晶とレン。
少し言い過ぎという感じも否めないが、実際美由希の料理は酷いものだ。まだ、料理を習い始めたなのはの方がましかもしれない。
最も、それも仕方のないことかもしれない。幼い頃から剣一筋だったのだ。料理などといった女性らしいことは一切習っていないのだから。
習っていないのにやれといわれてもそれは無茶だろう。最も、恭也が無茶と分かっていても言いたくなるほど酷いのだから桃子でさえも笑って誤魔化すしかない。
夕食を食べ終わり、桃子はなのはと一緒にお風呂へ。レンと晶は食器を洗っている。恭也は鍛錬に使う道具、小太刀や飛針、鋼糸などを用意すると二人に声をかける。
「では、俺は何時もどおり出るぞ。悪いが後は頼む」
「了解ですー。おししょー」
「頑張ってきて下さい!師匠!」
「ああ。美由希には何時もどおりのことをやっておけ、と言っておいてくれ」
そういい残すと恭也は高町家を出る。
もう秋に近いのか、日が沈むのもかなり早くなってきたのかすでに辺りは家からの電気や街燈の明かりが目立つようになってきた。
闇は人を恐れさせる。だが、恭也は幼い頃から常に闇と共に在った者。逆にどこか心が休まるところがあるのも否定できない。
いつもの鍛錬場所に向かうために軽く走って流す。恭也からしれみれば軽くだが、通りすがりの人がみたら驚きで眼を見開くくらいのスピードだ。
調子は良い。一ヶ月前の【北斗】との戦いから実感できるほどに。
嬉しいことに自分はまだ強くなれることが分かったのだ。美由希の師として、壁として、自分は誰よりも強くあらねばならぬのだ。
ふと、星が瞬く夜空に殺音の顔が浮かんだ。
―――あいつは元気でやってるか。
強かった。本当に強かった。記憶にある誰よりも。群を抜いて。
あいつとなら俺もさらなる高みにいけそうだ。
そう殺音のことを考えている己に苦笑する。
まるで懸想しているようだな、これは。
首をふってその考えを消す。余分なことを考えて怪我をしたら笑えない。馬鹿弟子は遠慮なく笑ってくるだろうが。
夜の帳がおりる眼前の先に高くのびる階段が現れた。休むことなく階段を駆け上がる。
ダンダンという音があたりの静寂を破る。息も乱さず、階段を駆け上った恭也が一息。
視界に映るのは八束神社。恭也や美由希、晶がよく鍛錬場所に使う所である。
この神社の裏手には森が広がっており、実戦形式で試合を行う場合大変重宝している場所だ。
さすがにやや人家から離れているということもあり、人気はない。というか、今まで他の人に出くわしたことがない。
鍛錬を行うのが早朝や深夜近いということもあるだろうが。稀に会うのがこの神社で巫女のアルバイトをしている那美だけである。
柔軟をしながら恭也は先程の水面の言葉を思い出す。
「【あいつ】が動き出したか……。そう判断したのなら任せておくか」
そう呟きながら柔軟を続ける。そんな恭也は本当に小さな気配に気づいた。野生動物のようにか細く、どこか脅えたような気配。
まさかこんな時間に人が居るとは思わなかった恭也が首を捻る。どこかで感じたことがあるような気配。
ごく最近。誰だったか、と一瞬考える。その気配が神社の中からこちらを窺っている。
「見てて楽しいものではないですが……?」
これほど気配を消すことが出来る相手が普通の人間であるはずがないと判断して先に声をかけてみる。
気配の主は戸惑っているのか動こうとしない。それ以上声をかけることなく恭也は手首、足首を捻る。
コキコキと首をならすと神社を見据える。
どれだけたったか、一分ほどだろうか。ギギっと木と木が掠れる音を立てて扉が開いた。
闇が広がっている。その中からゆっくりと一人の少女が歩み出てくる。
中学生ほどにしか見えない、幼い容姿。夜の闇に溶け込みそうなやや紫がかった漆黒の髪。その髪をツインテールにしている。
物憂げにゆっくりと。よく見れば、整った容姿とは逆に服装も髪も泥や汚れで薄汚れている。その上、所々にほつれ穴があいている。その下からは白い肌がみえ、男を誘惑するようなそそる格好になっていた。
怠慢な動作で視線を恭也に向ける。その少女を恭也はようやく思い出した。
「―――水無月冥か?」
「……はは……一ヶ月の間逃げに逃げて……辿り着いたのが……お前の所とはね……高町恭也……運が良いのか悪いのか……」
全てを諦めたような諦観の混じった声が冥からもれた。そこに込められたのは絶望。
負の感情と入り混じった言葉が恭也の耳をうった。
「……他の連中はどうした?」
聞くな、聞くなと、恭也の本能が全身を駆け巡る。それは聞いてはいけない。聞いたら後悔する。
そう感じたがそれでも恭也は聞かざるをえなかった。なぜこれほどの少女がこんな状態になっているのか。
「……皆死んだよ、殺された。巨門も文曲も……殺音もね……生き残ったのはボクだけさ……」
静かな冥の声。
その言葉は、今まで感じたどのような殺気や鬼気よりも恭也の心を鷲掴みにし、思考を強制的に止めた。
どのような冗談か、もしくは幻聴か、と頭の片隅で考えながらも冥の言葉の続きを待ったが、それ以上続けることはないとその表情が物語っている。
それから何も語らず、冥は心底疲れたように視線を地面に落とした。
その姿の冥が真実を語っていると嫌がおうにも理解させられる。
生み出される思考の空白。高町恭也という人間が、刀と一心同体ともいえる存在が、巨大な蛇に飲み込まれたかのように思考を闇に押しつぶされた。
思考も身体も、その闇に溶け込んだかのように感覚が消失する。
永遠ともいえるループ。唯ひたすらに思考がループする。それほどの衝撃。冥が言い放ったそれは確かに高町恭也を揺るがした。
―――馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な。
今、冥は何と言った?
何という言葉を言い放ったのだ。
死んだ、だと。殺された、だと。
あの殺音が。水無月殺音が。
有り得ない。そんなことが有り得るはずがない。
この俺と死闘を演じた、あの殺音を。超越的な戦闘力を誇った、あの化け物を殺せる存在がいるというのか。
実際に呆けていたのは僅か数秒。だが、恭也は数十分もの間思考していたかのような錯覚を覚えていた。
「……冗談というわけではないようだな」
「はは……冗談だったらどれだけ良かったことだろうね……」
互いに互いが搾り出すような声。相変わらず冥の表情は虚ろで、まるでここにはいない別の誰かと話しているように。
そんな冥の様子が、殺音が殺されたと言う事実を証明しているようで恭也が頭を振った。冷静になれ、と己に言い聞かせる。
「もう、いいだろう……?ボクも少し疲れているからね……今夜のことは忘れて帰ってくれ……」
冥はふらりと覚束ない足取りで境内の中へ戻ろうとする。
「誰に殺され……たんだ、あいつは?そこら辺の相手に遅れをとるはずが無いだろう」
「……」
恭也の問いに対して冥は無言。答えるかどうか迷っているのか。
答えを聞くまで退きはしないという強い執念が恭也から伝わってくるのが冥には分かった。沈黙が続く。
「……答えたら帰ってくれるかい?」
「ああ」
迷いの無い肯定に冥の決心がつく。
「……人が生きる表と裏の世界。それより深い闇の領域。僕達北斗が活動してきたヒトとは異なる生物が闊歩する第参世界。その世界において他とは格が違う十人の存在がいるのは知っている?」
「まぁ、な。嫌でも耳に入る話だ。夜の一族を支配する十の王のことは」
「そう。それなら話は早いよ。その十人のうちの一人。夜の一族を断罪する命の奪い手。死刑執行者―――そいつが殺音を、北斗を潰した男さ」
冥の口から飛び出た死刑執行者という言葉に恭也の瞳の奥に驚愕の光が宿った。全く想像もしていなかった存在。それが殺音の命を奪ったのだ。
「馬鹿な……何故執行者が動く?」
「……以前から何度か僕たちの活動について一族から忠告をうけていたんだけどね。殺音は全く聞くことは無かったんだけど……まさか執行者に話を通すなんて真似をするとは予想外さ」
死刑執行者が動く時。それは夜の一族が同族、又は人間世界に重大な被害をもたらすと判断した時だ。まさか冥も執行者が極東の島国にまで態々出向くとは思ってもいなかった。
「それでお前も逃亡を続けていると言うわけか」
「……そうだよ。奴は一度狙いを定めた相手を決して逃がしはない。どれだけかかろうとも必ずその剣を獲物の命に届かせる」
かれこれもう一ヶ月さ、と心底疲れた雰囲気でため息をついた。それで恭也も納得がいった。常に命を狙われた逃亡生活が一ヶ月も続いたのだ。満足な睡眠も食事もとってはいないだろうという予想はまさしくその通りだった。
冥が幾ら夜の一族とはいえそんな生活が続けば現在のような状態になるのも当然のことだろう。冥が話は終わったと、恭也から遠ざかるように足を向けた。
「ふむ」
「な、何をする、お前!?」
恭也は音も無く冥の背後に忍び寄るとヒョイっと担ぎ上げた。しかも、お姫様だっこではなく荷物を担ぐように肩に冥のお腹を乗せ片手で背中を押さえる感じで。
いきなり高くなった視線。見えるのは恭也のゴツゴツとした背中。担ぎ上げられたと気がついた冥がバタバタと両手両足を振る。
「あまり暴れるな落ちるぞ」
「暴れたくて暴れてるわけじゃない!!下ろしてくれ!!それに答えを聞いたら帰ってくれると言ったじゃないか!!」
「【一人】で帰るとは一言も言ってなかったから嘘ではないな」
「な!?」
淡々と答える恭也の屁理屈に思わず言葉を失う。それに冥が非難するように恭也の背中を何度か叩く。本気ではないのだろうが結構痛い。最も誰にも見られていないとはいえ羞恥心は限界一杯なのだろう。顔が真っ赤に染まっている。
先程の生気のない声とは違って今の冥の声には力強さが戻っている。それに多少安堵を覚え、冥を担いだまま神社に背を向けた。
「ど、どこへいくきだ!?」
「家に帰ろうと思ってな。お前もこのまま野宿する気なら一緒にくるといい」
「馬鹿か、お前は!!僕が居れば奴がくる!!執行者が!!」
「うまくまいてきたんだろう?でなければ、こんなところで宿を取る筈が無い」
「う……」
言葉に詰まる冥。恭也の推測通りここ数日寝る間も惜しんで逃亡を続けていた。幾ら執行者といえどそう簡単に冥の行方を掴めれるとは思えない。
冥の言うことなど左の耳から右の耳へ受け流すように恭也は八束神社の長い階段を降りていく。担がれている冥は全く振動がこないことに驚く。
「暖かい食事と風呂くらいは馳走しよう。知らぬ仲でもないしな」
「……馬鹿だよ……お前……」
恭也が完全に引かないと分かったのだろう。冥ももはや無駄な反抗はせずに、されるがままだ。それに恭也の言った暖かい食事と風呂という言葉の魅力にもやられていた。
「了承してくれたようで感謝しよう。さすがに暴れるお前を担いでいるところを他の人に見られたらとんでもないことになりそうだ」
「……く……確かにな」
少しおどけたような恭也に苦笑する冥。僅かにだが冥の気が緩む。
確かにこんな夜中に中学生くらいにしかみえない暴れている冥を担いでいるところを見られたらどうみても変質者にしかみえないだろう。
大人しくなった冥から視線を前方に戻すと恭也はゆっくりと階段を降りていく。
だが、もし冥が今の恭也の表情を見たらどんな気持ちを抱いただろうか。
恐ろしいほどの無表情。まるで氷のように。先程まではまるで偽りの仮面であったかのような。
家族である桃子やなのははおろか、弟子である美由希ですら見たことがないであろう、その絶対零度の表情。そんな恭也の内心に渦巻いているのは憤怒。
己が唯一人のライバルと認めた殺音を殺した相手への……執行者への怒りだった。
―――水無月冥を狙って来るならばこい。その時がお前の最後だ、死刑執行者。
恭也の心の声は誰にも届かない。その冷たい怒りを胸に恭也は冥を抱えて高町家へと足を向けた。
幾ら深夜とはいえさすがに担がれたままの状態は恥ずかしかったのか冥は恭也に大人しくついていくという約束をして恭也の肩から降ろされていた。
元々無口である恭也と疲労困憊な冥。二人の間で会話があるはずもなく神社から高町家に着くまでほとんど会話らしい会話はなかった。
普通なら気まずい雰囲気になるのだろうが生憎と恭也はそういったことを気にもしない。冥も疲労で気にする余裕もない。
「すまんが家族はもう寝ている筈だから静かに頼む」
高町家の敷居を跨ぐのに若干躊躇っていた冥に声をかける。執行者に命を狙われている自分が他の人間と接触しても果たしていいのだろうか。
「遠慮などするな。俺が良いと言っているんだ。何を遠慮することがある?」
冥の躊躇いを無視するかのように恭也は言ってのける。それに冥は戸惑いながらも恭也の後に続く。
さすがにもう真夜中といってもいい時間帯なので他の住人が起きてくる気配がないのを感じて若干ほっとする冥。
仮に他の住人と顔をあわせたらどんな言い訳をすればいいのかまったく考えていないのでなおさらだ。
ハァと安堵のため息を漏らしたそれと同時。
「おかえりなさーい、きょーちゃん。今日ははやかった……ね……?」
「……美由希か」
ドアを開けて出てきたのはつい先月剣を交えたばかりの少女、美由希だ。
風呂あがりのためか長い黒髪をタオルで拭きながらでてきたようだが、冥を見て驚き拭く手をとめている。
パクパクと金魚のように口を動かしながら恭也と冥を交互に見る美由希が可笑しくて苦笑しそうになるのをおさえつけた。
「お邪魔させてもらうよ……高町美由希」
特に気のきいた言葉も思い浮かばず、とりあえず無難に挨拶をしてみる。
元々冥はそれほど多弁というわけでもない。と、いうよりどちらかというと人見知りをするほうだ。
長年、姉であった殺音と二人っきりで世界中を放浪していいたためどうも人付き合いというのが苦手なのだ。
「え?あれ?冥さん?えーと……あれ?」
「そこで拾った」
「拾ったって……ええ!?」
恭也の台詞に美由希が心底びっくりしたように大声を上げ、さらに混乱は加速していく。
その瞬間にふと、恭也の姿が掻き消えるように揺らぐと、気がついた時には美由希の眼前であり、デコピンをきめていた。
ゴツンと、まるで拳で殴ったかのような音が響き、美由希がでこを抑えて蹲る。
「……拾ったか……言いえて妙だね……あはは……」
思わず苦笑してしまう。
だが、そんな言葉よりも冥は恭也の動きに驚愕していた。
いつ移動したのか全く気がつかなかったのだ。唯速いだけなら夜の一族である自分の動体視力で見えないはずがない。
それなのに気づけなかったのだ。恭也が美由希の前にどうやって移動したのか。むしろ、動いたのかすら。
僅かなその動きだけで、相変わらず恭也の化け物ぶりがよく分かった。
十人の王に最も近いとされた殺音をも凌駕した人間。御神の剣士。人の身でありながら人を外れた人。
―――或いは、この剣士ならば王さえも……。
ふと、心に浮かんだ希望を心の奥へと押し込むと冥は自嘲気味た笑みを浮かべた。
「あの小娘の行方は掴めそうか?」
「ちょっと待ってて」
ボロボロの黒い服装の……第三世界では死刑執行者と呼ばれ、恐れられている青年は眼前に立つ己の相方に声をかける。
それに漂流王は答える。相変わらず全身をフード付きの黒いコートを羽織っていているため顔さえ見えない。
死刑執行者は手を軽くふると傍らの倒れた木に腰をおろし、一息ついた。
周囲は木々に覆われていて、明かりもみえない。天から降り注ぐ月の光だけが道しるべだ。
夜空を見上げると月の他に瞬く星々もみえる。どこか心を癒される光。
死刑執行者は視線を落として、自分の前にたつ漂流王に戻す。
地面は枝や葉っぱで覆われているというのに、漂流王の周囲だけは不思議と開けた空間になっていた。その空間の地面に複雑な魔方陣が描かれている。
その魔方陣の中心で漂流王が何事か呟いている。徐々に周囲に満ち溢れる金色の粒子。ゆっくりと、不規則に。
周囲とは隔絶した、どこか荘厳な雰囲気を醸し出していた。
「せーの!!」
そんな気配をぶち壊すかのように漂流王が声をあげて地面に片手を勢いよく叩きつける。
それを見ていた執行者はなんとなくやるせなそうに肩を落とす。
「……そんな無茶苦茶な術式でよく発動させれるものだな」
「師匠が師匠だからね」
「……【魔女】に預けたのは失敗だったかもしれんな」
「全くだよ。あの人って天才肌だから感覚的にしか教えてくれないし……はっきり言って教えるの下手すぎだったんだけど」
「……そ、そうか」
たらりと暑くもないのに一筋の汗が執行者の頬を伝った。
己に魔術の才がないからといって、同じ十人の王の一人である魔女に預けなければよかったかもしれないと、今更ながら後悔する。
それから漂流王は師匠の悪口をあーだこうだとボロクソに言い始める。どれだけ修行中にいたぶられたのかから、果ては嫌いなピーマンまで無理に食べさせられたとかまで。
それはどうでもいいだろうと激しく思う執行者だったが、適当に返事だけはしておく。
しばらく悪口が続いていたが、突然シュンという微かな音を残し、どのような奇跡か、魔術か、先程まで魔方陣しか描かれていなかった地面に海鳴の町が映し出された。
望遠鏡で遠くから見るように、空から見下ろすような、そんな映し出され方ではあったが、そんな海鳴の町をみて僅かに死刑執行者は眉を顰めた。
「今のところは標的はこの町に隠れてるみたいだよ?」
「―――あの地か」
「知ってるの?」
「一応は、な」
「ふーん」
奥歯にものがはさまったかのような死刑執行者の発言に漂流王がどこか剣呑な返事を返す。
フードに隠れて見えない漂流王の眼光がキラリと光ったような幻覚を執行者は見た。
「昔の女でもいるの?」
「……そういうのでない」
ハァと呆れたようなため息をついて腰をあげ、漂流王のもとまで歩み寄るとポンと頭に手をおく。
そして地面に映る海鳴の町のある一画を鞘つきの剣でトントンと叩いた。
月の光を浴びた壮大な山々。不思議な存在感を醸し出している、その頂上付近にキラリと光を反射している湖のようなモノが微かに映っていた。
「湖がどうかした?」
「あそこにだけは近づくな」
「……どんな理由?」
「もう一度だけ言う。あそこには近づくな」
先程までとは違う。言霊ともいえるような強い力を言葉にのせ、執行者はそう言った。
その声には如何なる者をも屈服させるかのような、深い恐怖を呼び起こすような力が込められていた。
ビクリと、漂流王は身体を震えさせるとコクリと頷く。
ふぅ、と息を吐くと執行者は額にかかった髪をかきあげる。そのまま地面に映る湖を見つめた。
湖を見ながら随分と遠くまで逃げたものだ、と若干感心しながら苦笑する。
あの地に行くのもどれくらいぶりだろうか。
懐かしさで表情を和らげると執行者は顎をしゃくって後ろでややへこんでいる漂流王に合図を送る。
「行くぞ。標的がいる地までかなりの時を要する。強行軍になるがついてこい」
漂流王を従えると執行者は歩みだす。だが僅か数歩、歩いた途端に勢いよく後ろを振り返った。
それに驚いたような気配の漂流王を無視して執行者は未だ地面に映る海鳴の町を……いや、湖を見つめる。
なんとなく、湖から懐かしい気配を感じたのだ。こちらを窺うような。
最もそんなはずがない。まだあの地からここはとんでもなく離れているのだから。ましてや漂流王の遠見の魔術を通してだ。
あの存在が自分達に気づくはずがない。その筈なのだが……。
気のせいだ、と執行者は自分に言い聞かせる。
随分と久しくあの地を見たので、神経が過敏になってしまっただけだろう。
「お前はまだ、アイツを待っているのか……」
執行者のどこか悔恨したような感情を乗せた言葉は、漂流王の耳にすら届くことなく夜風に消えた。
ぐつぐつとコンロで火にかけている粥が音を立てる。
恭也は粥を小皿に取り分けて一口。
「こんなものか」
そう一人ごちるとコンロの火を止めた。ただ、塩のみの味付けの簡素な粥。
高町家のリビング。そこにいるのは恭也一人。
先ほど、美由希には詳しいことは後日話すと言いくるめて無理矢理寝かしつけ、冥には先に風呂を勧めていたからだ。帰ってくる道中に多少自分の汚れた姿を気にしていたようであるからだ。朴念仁の恭也でもそこらへんは気づいていた。
無論、冷蔵庫には夕飯の残り物……残り物というにはあまりに贅沢のものがあるのだが、そういったものより体の弱った冥には粥のほうがいいだろうと判断して態々作っていた。
これがレンあたりならば粥は粥でもとんでもなく豪勢な中華粥を作ったんだろうかな、とふと苦笑する。
それと時を同じくして、ガチャリと音を立ててドアが開いた。
一人用の鍋を皿の上にのせてテーブルに移そうとしていた恭也が振り返って冥を見た瞬間固まってしまった。
まさか恭也の着替えを貸すわけにもいかず、、美由希から寝間着を借りていたのだが……。
女性としては長身とは決して言えない美由希の寝間着さえ大きすぎたのだ。両手が完全に袖に隠れてしまっている。
全身ぶかぶかで服を着ているというより着られているというほうが正しいかもしれない。
その手の趣味がある人ならばたまらない光景だったのだろうが、生憎と恭也にそっちの趣味はなかった。
逆に美由希がなのはに自分の服を着せて遊んでいた昔を思い出して、口元が緩みそうになる。
それをめざとく見つけた冥が眉をひそめた。
「とても馬鹿にされてるような気がするんだけど……」
「……気のせいだろう?」
鋭い冥に思わず顔を背ける恭也。
それでもじっと見つめてくる冥に対して、いたたまれなくなった恭也はゴホンせと咳払いをして、手にもっていた皿にのった鍋をテーブルの上にのせる。
「折角作った粥だ。風呂からあがったばかりで申し訳ないが、冷める前に食べてくれ」
そういって冥に椅子に座れと暗にせかす。
じっとみてい冥だったが追求を諦めたのか、ハァとため息をついて鍋が置かれたテーブルの前の椅子に大人しく座った。
そこでまた、粥と恭也を見比べる。まるで本当に食べていいのかと、迷っているように。その姿はどことなく子猫を連想させる。
「遠慮しないでいい。ここまできたら食べても食べなくても一緒だ。それなら食べて腹を膨らしたほうがいいと思うがな」
恐る恐る、レンゲに手を伸ばし掬う。そして。口に運んだ。
「ぁつ!?」
「あわてる必要はない。別に誰もとりはしないさ」
「わ、わかってるよ!」
若干赤くなった顔で言い返す。
今度はふぅーふぅーとさ冷ましながら粥を食べようとする姿に、鉄面皮の恭也も流石に再度頬が緩みそうになる。
今度はちゃんと一口。
ゆっくりと味わうように噛み締める。
「……おいしい……」
ぽつりとそう漏らした。なんの偽りもない正直な感想。
「何の工夫もしていない唯の粥だぞ?」
「それでも、さ……」
かすれるような声。ぽたりと雫がたれた。
いつのまにか冥は涙していた。その涙に今きづいたといわんばかりに、流れ落ちる涙をぬぐう。
「とま……れよ!!なん、で……涙なんかが……!!」
震える声で、そう訴えながらとまらない涙をぬぐい続ける。
「涙は嬉しいときに流すものだ、そう言った知人がいる」
恭也の独白。それに冥は、夜の一族の証でもある真紅の瞳とはまたちがった、涙で真っ赤になった瞳をむけた。
「それが一番の理想なのだろう。俺もその考えには賛成している。だが……」
一息。
「悲しいときに流す涙もあるだろう。今は泣け。お前が抱え込んでいる悲しみも苦しみも俺が全て受け止めよう。我慢する必要などない。お前は【今】は一人ではないのだからな」
「っ……」
怖かった。
仲間を、殺音を殺されて、次は自分だと死刑執行者に追われる日々。
「ぁ……」
悔しかった。
仲間を、姉を殺されたのに、逃げ回るしかできない無力な自分。
「ぅぅ……」
苦しかった。
たった一人で、孤独に生き抜いた、何時殺されるかもわからないこの一月。
だから……。
「ぅぅっぁぁあああ!!ぅぅぅ……あぁああああぁあ!!」
泣いた。冥はひたすらに泣き続けた。子供のように、見栄も外聞もなく。
今までの苦しみを、悲しみを全て吐き出すかのように。
目の前の男ならば……恭也ならばどんなことでも受け止めてくれると信じて。
そんな声を殺して泣きじゃくる冥を、恭也は優しい眼差しで見守っていた。
たっぷり数分ほど、ようやく落ち着いた冥がごしごしと目を拭きながら、恥ずかしそうに口を尖らせながら恭也を上目遣いに見る。
「……恥ずかしい姿をみせたね、ごめん」
「気にするな。誰にでもそういう時はある」
「キミにもあったのかい?」
「無論、な」
「あ、あったの!?」
恭也にもそういったことがあったのかと、多少おちょくるような冥の台詞にあっさりと肯定で切り返されて逆に驚いてしまった。
コ、コイツウソクセーと思いつつ恭也の泣くであろう姿を思い浮かべようとして全く想像できない。
「ところで多少聞きにくいことなんだが……」
「うん?」
「お前を追ってきているのは執行者だけなのか?」
「多分、違う。漂流王も一緒だとおもう……」
「王に数えられる者が、二人か―――厄介だな。一人ならまだ戦いやすかったのだが……」
「……」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。冥からしてみれば厄介などという言葉一つですませれるものではない。
一人でも絶体絶命。決して抗えない死の運命を辿るしかないというのに。
それを一人ならまだ可能性があるといわんばかりの恭也にどう反応すればいいのか迷う。
夜の一族において、十階位とは即ち王。頂点なのである。
誰よりも強きバケモノの集団。
幼きころから大人たちに、決して関わらないように寝物語のように語られる存在。
そんな相手だからこそ冥は恐れている。
そして殺音と世界を放浪していたときに一度だけ見た執行者の圧倒的な戦闘力。
一度しか見ていないにも関わらず、目を瞑れば思い出せる。
その死刑執行者を何とかすると軽々と言い放つ恭也。
「キミはまさか……死刑執行者と戦ったことがあるのか!?」
「あるわけないだろう?」
その自信の高さから、以前死刑執行者と戦ったことがあるのではと予想した冥だったが、恭也はあっさりと否定。
コントのように思わず顔をテーブルに勢いよくぶつけてしまった。
いたた、と多少赤くなった額をさすりながら冥が口を尖らせる。
「ならなんなのさ、その無意味な自信は」
「勝ち目がない、とでも言ってほしいのか?」
「それは……」
「直にあったことはないのでな。実際どれほどのものかわからん」
だが、と。
「桁外れのバケモノだということは分かる。なにせあの十人のなかでも始まりの三人と称されているのだからな」
始まりの三人。
一位の夜王。二位の死刑執行者。三位の天眼。
この三人は始まりという言葉通り最も古き時代から生き続けてきた夜の一族。夜の一族を長きに渡り守護してきたバケモノ達。
その三人の中で最強と名高いのが死刑執行者だ、数百年もの間、命を刈り取ってきた死神。
実際に刃を交えたわけではない。だが、これだけの話が流れているのだ。もはや伝承の域。弱いはずがない。
「相手がどれだけのバケモノか理解できているつもりだ。だが、最初から勝てないと思い込んで戦うのならば僅かな勝ち目すらなくなるぞ」
「……っ!?」
愕然とした。
確かにそのとおりだ。恭也の言うとおりなのだ。
今の冥は、戦ったら殺されるということしか想像できなかったからだ。
これでは勝てるはずがない。戦う前から負け犬の思考。
「お前の……言うとおりだよ。でも……」
冥を遮るようにガタンと音を立てて恭也は椅子から立ち上がる。
そして、からっぽになっていた鍋を水につける。
「疲れているところすまない。そろそろ休むことにしよう。水無月、お前は俺の部屋で寝てくれ」
こっちだ、と冥を二階へ案内する。
水無月という苗字にピクリと反応して、俺の部屋という言葉でさらにピクリと反応する、冥。
今時にしては珍しい襖を開けて自分の部屋に招きいれると、テキパキと布団の準備をする。
そんな恭也を冥は若干焦ったような表情で問いかける。
「ね、ねぇ。ボクはソファーとかでも十分だよ?」
「客人にをそんなところで寝かせるわけにもいくまい」
「い、いや、でもさ。幾らボクが小柄といっても……流石に一緒に寝るのは……」
「……お前は何を言っているんだ?俺は下の部屋で寝る予定なんだが」
「そ、そ、そうだよね!?あははははは」
恭也の返答にごまかすように手を振り続けて笑う。
「よくわからんが、今日はゆっくり体を休めておくんだぞ」
「う、うん」
素直に頷いた冥に苦笑して、恭也は部屋から廊下へとでる。
襖を閉じようとした、その瞬間、。
「安心しろ。死刑執行者より強い相手を俺は知っている。だからこそ、俺には恐怖はない。守ってみせるさ」
冥の返答を聞くことなく、襖を閉じると恭也は音を立てないように一階へと降りていく。
死刑執行者より強い者を知っているという台詞は冥を安心させるためだけにいったものではないのだ。
それは事実。
恭也が知る限り、最も最強に近き者。御神の体現者。御神の歴史を見届けし者。
幼きころに数度言葉を交わしただけの剣士。
彼女が死刑執行者より強い保証などあるわけではない。
だが、わかる。わかってしまう。
本能が、直感が、彼女こそが人を極めた頂点だと認めてしまっている。
彼女に勝てるものなどいない、と恭也に思い込ませてしまうほどに強い。
いまだ見たことすらない死刑執行者の実力を知らないというのに、彼女の方が強いのだと。
それほど幼きころの恭也の心に【御神】は深い爪あとを残した。あまりに強い印象を恭也の心に刻み込んだ。
故に、噂に名高き死刑執行者と戦うという現実を直視しても、恐怖など抱くことはない。
自分はもっと高みにいる存在を知っているのだから。
その【御神】に対する想いは一種の羨望。御神流を極めた者への崇拝とも似ていた。
だが、だからこそ気づかない。
もし、もしも【御神】よりも強い存在が居たとしたら……。
彼女を打倒できる存在が居たとしたら……。
その時、果たして恭也は冷静に戦うことができるのか、恐怖に負けずに刀を振るうことができるのか……。
この時、恭也はその可能性を全く考えていなかった。それが、その想いが悲劇を生むことになるというのに……。
一階にある客間……この部屋も相変わらずの日本式だが、布団を敷いて寝る準備を整える。
冥をこの客間ではなく自分の部屋に寝かしたのは、万が一桃子や他の住人がこの部屋を覗いてしまったら面倒なことになりそうだったからだ。
寝間着に着替える途中、クンと自分の匂いを嗅いで見ると多少汗臭い。
今夜はそれほど鍛錬をしていないのだが、やはりまだ日中の暑さで汗をかいてしまっていたのだろう。
「寝る前にシャワーでもあびておくか……」
とりあえず風呂場に向かう恭也。
真っ暗な風呂場。壁にあるスイッチをおすと、パっと電球に灯がともり視界が明るくなる。
寝間着を脱ぎ、上のシャツをも脱ぎ、上半身裸になった恭也が全身が映る大きな鏡の前に立つ。
全身が傷だらけのその姿。実戦で負った傷も数少ないけれどあるが、そのほぼ全てが鍛錬でおった傷。
普段どれだけ厳しい鍛錬を行っているのか、この傷を見れば一目瞭然。
もっともこの傷ほぼ全てが過去の未だ未熟だったころにおったものであり最近はほぼ傷を負う事はなくなっていた。
その傷の一部をそっと手で押さえる。水無月殺音につけられた傷だ。
思い出す。一ヶ月前の戦いを。北斗との、いや、殺音との戦いを。
正直に言うと、殺音に勝てたのは運があったからとしか言いようがない。
半獣半人となり全力となった殺音が、恭也の全力をみたいから、と恭也と同じ土俵にあがり真正面から戦いを挑んできた。
だからこそ恭也は勝てた。もしも殺音が長期戦を挑んできていたら負けていたのは恭也の方であっただろう。
それほどずば抜けた戦闘者。だからこそ疑問が残る。
「いくら俺との死合いの後だからといって……あいつが軽々と殺されるとは考えがたいのだがな……」
確かに全力で死合いをした後なのだ。相当な疲れも残っていただろう。
しかし、あの時の殺音にはまだ幾らかの余力が見て取れた。恭也よりもよっぽど戦える状態であったはずだ。
その殺音を殺して見せたということは、死刑執行者はそれだけのバケモノだったのだろうか……。
それにしてもタイミングも悪かった。死刑執行者も態々、恭也との死闘の後の殺音を狙うとは……。
「……いや、まさか」
電流が走った。その自分の考えに。
十階位が二人で態々この日本に出向き、態々、弱った状態の殺音を狙った。
それはつまりまさか……。
「んにゅ……」
その恭也の思考に割り込むかのように寝ぼけたような声とともに風呂場のドアがガチャリと音をたてて開いた。
自分の考えに集中していたため、気配を読むことを怠っていた恭也も驚きつつ振り向く。
ドアを開けて入ってきたのは高町家の末っ子なのはだ。
寝ぼけているのか眼をこすりながら半分眼をつぶった状態でよろよろと夢遊病者のように入ってくる。
「あれぇ……おにーちゃん……?なんでトイレに……いるの?」
トイレにおきたはいいものの、寝ぼけて風呂場に来てしまったのか、と苦笑する。
「手洗いはもう一つ隣のドアだぞ、なのは。こちらは風呂だ」
「……あ、ごめんなさい。おにーちゃん!」
ようやく眠気が覚めたのか、わたわたと慌てて謝るなのは。
「気にするな。寝ぼけて階段からおちるのだけは注意するんだぞ」
「ぅ、ぅん……」
気のないなのはの返事に首を傾げる恭也。
まじまじと自分をみつめてくるなのはに、何かあったのかと聞こうとした所、なのはがちょこちょこと近づいてきて恭也を見上げる。
「凄い、傷だよね。おにーちゃん。痛くないの?」
「ああ。痛みはないぞ。しかし、すまんな。醜いものをみせてしまった」
「ううん。そんなことないよ……あまり無茶したら駄目だよ?」
「肝にめいじておこう」
普段は長袖をきて体の傷を隠しているので、なのはには恭也の体中の傷が痛そうに見えたのだろう。
しかし、美由希や晶とちがって無邪気ななのはの気配は非常に読みづらい。
幾ら気を抜いていたとしても、美由希のことは笑えんな、と自嘲する。
恭也はなのはに対してだけ、異常なまでに甘いということも気配を読めなかったこともあっただろうが……。
「あれ?おにーちゃん、肩の痣って大丈夫なの?」
その一言に恭也がビクンと反応した。
右肩にあった、他の傷とは少し違ったその痣を恭也はなのはから見えないように鷲づかむようにして隠した。
「……?」
あまりに過敏な恭也の反応に首を傾けるようにして、疑問符をうかべるなのは。
「あまり夜更かしするものではないぞ、なのは。明日に備えてそろそろ寝よう」
なのはの両脇を抱えて回転。下ろした後、体を廊下のほうにむけて背を押す。
「はーい。お休みなさい、おにーちゃん」
僅かな疑問を残しつつなのははちょこちょこと廊下にでて二階へあがっていく。
それを確認したあと、扉をしめて安堵のため息を漏らした。
「油断しすぎか……なのはならばこれの意味もわからないだろうが……」
そう呟いて、右肩の痣を見下ろす。
それは烙印。三年前に刻まれた、決して消えない、修羅の道を歩くことになった証。
他者には見せられない、見せてはならない印。
「気を入れなおすか……」
そこで気づいた。重大なことに。
「……なのは、結局トイレへいかなかったんじゃないのか……」
呆れたような恭也の呟きは、誰にも聞かれることなく、消えていった。
「恭也ちゃん。凄く強い人に会いたくなーい?」
そう、恭也にとって姉のような存在の彼女は言った。
艶やかな長い黒髪。整った顔立ち。濡れたような唇に儚い笑顔を浮かべながら、御神宗家の広い屋敷の中庭に面した縁側に腰をおろしながら彼女は……御神琴絵は幼き恭也に語りかけた。
病弱で一年のほとんどを畳の上で過ごす琴絵にしては珍しく、気分が良いということで太陽の光を浴びながら恭也の鍛錬を微笑みながら見学していた。
鍛錬といっても幼い恭也ではろくに小太刀も扱えない。無論、それなりに扱うことはできる。同年代の子供に比べれば天と地の差があるのは確かだ。
それでも大人の御神の剣士からしてみれば恭也の腕前はあくまで子供のお遊びレベルなのはには違いない。
それ故に恭也が力を注いでいたのが飛針である。飛針ならば体が小さく、力が弱い恭也でも小太刀よりは有効に使える。
十五メートルほど先にある小さな的。そこに向けて飛針を投げていたが、流石に百発百中とはいかない。それでも外すことのほうが少ないのが驚きだ。
事実、琴絵もその年齢には見合わない恭也の腕前に驚き、うれしそうに微笑んでいた。
だからこそ、琴絵は先ほどの台詞を恭也に放ったのだ。
「強い人ですか?とーさんや一臣叔父さんよりも?」
滴り落ちる汗を拭いながら首を傾げる恭也。それに、ううんと首を横に振る。
「静馬さんよりもですか?」
「もっとだよ」
くすくすと笑いながら琴絵はゆっくりと立ち上がる。
御神流正当継承者である静馬よりも強い、と断言する琴絵に対して恭也は考え込む。
そんな恭也を後ろからぎゅぅと抱きしめる琴絵。
会いに行くたびに抱きしめてくる琴絵にもう何を言っても無駄だと理解している恭也は琴絵のなすがままである。
それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。頬を真っ赤にさせる恭也。
背中に当たる柔らかな双丘。日向のような匂い。
そんな煩悩を振り払うように恭也は続けた。
「琴絵さんや美影さんよりもですか?」
「うん。勿論」
「……そんな人いるんですか……」
呆れたような恭也。
不破美影。
恭也の祖母。つまり、不破士郎、不破一臣、不破美沙斗の母親。
不破家の当主であり、その剣腕は歴代の不破家の中でも並ぶもの無し、と謳われる女性。
孫がいる身でありながら下手をしたら士郎達と兄弟に見えるほどの若作りのため、恭也にお祖母ちゃんと呼ばれるのを嫌い、名前で呼ばせている裏がある。
御神琴絵。
御神宗家の長女であり、現在進行形で恭也に後ろから抱きしめている女性。年齢不詳。
恭也も幾つか聞いたことはないが、静馬よりも五歳ほど年上ということだけは知っている。子供の頃から病気がちで御神流よりも裁縫などの方に時間をかけていた。
それなのにその実力は桁が違う。並の御神の剣士では相手にもならない。士郎や一臣とすらも制限時間つきでなら渡り合えるほどである。
「うん。いるいる。いるよー。恭也ちゃんのすぐそばにね」
やけに上機嫌な琴絵に、若干の嘘くささを感じながら心当たりがないかを思考する。様々な御神の剣士が恭也の脳裏に現れては消えていく。しかし、そのことごとくを首を振って否定した。
確かに想像した剣士は皆が強者ばかりだ。恭也では手も足もでないほどの熟練者。それでも、その想像した剣士の誰一人として恭也が声にだしてあげた人物に追随するとは思えなかった。その中で可能性があるとすれば唯一人だけだったのだが……。
恭也は幼い。剣士としての実力はたかが知れている。だが、物事の真贋を、相手の力量を読むことだけには長けていた。相手の力量の全てを読み取れるか、といえば答えは否定であるが。【ほぼ】全て読み取ることはできる。
「よぅ。不破の小僧と姉貴じゃねーか。何遊んでるんだよ」
悪寒がした。禍々しいまでに黒く濁った気配を漂わせ、一人の青年が廊下から二人をいつの間にか見ていた。
琴絵の髪に似た長い黒髪を後ろで紐でくくっただけの乱雑な髪型。顔立ちは十分に美形だといえるだろうが、鋭い目つきが台無しにしていた。
一部の女性はそれがいいと噂していたのを恭也は聞いたことがある。
「……何の用なの、相馬?」
誰にでも人当たりが良い琴絵にしては珍しく冷たささえ混じった質問。先ほどまでの笑顔は消えさっていた。
相馬と呼ばれた青年はクククと小馬鹿にするように笑い、両手を挙げながら天を仰いだ。
「病弱のお姉さまを見舞いに来た弟に対してこの仕打ち。俺のガラスのように繊細な心は砕け散りそうですよ」
「ガラスはガラスでも防弾ガラスじゃないの?」
「ハッ!!随分と言う様になったじゃねーか、姉貴」
この青年は御神相馬。
御神宗家長男にして、呪われた忌み子。悪意をばら撒きし、殺戮の剣士。
ターゲット一人を確実に殺すためならその過程で百人殺そうが気にもかけない正真正銘の狂人。
そして先ほど恭也が思い浮かべた……美影や琴絵、静馬を凌駕する唯一の男。
犬歯を剥き出しにするように笑うと、相馬は縁側から中庭へと音を立てず飛び降りる。
濁った気配がさらに濃く、強くなっていく。
今すぐにでも逃げ出したくなる気持ちを押さえつけ、恭也は琴絵と相馬の間に割り込むように立ちふさがった。それに琴絵は驚くように肩に手を置く。
それでも恭也は引きさがらない。気づいてしまっているから。琴絵の手が微かに震えているのに。
だからこそ恭也はひけなかった。この場所から。琴絵の前から。
「いやいや。全くもってたいしたガキだよ、お前。普通のガキなら気を失うか腰を抜かして小便ちびってるぞ」
そんな二人を見て、ニィと笑うと相馬はバシバシと恭也の両肩を叩く。相馬からしてみれば軽くだが恭也からしてみればかなり強烈だ。
「不破の小僧。お前は実際たいしたものだぜ?その年齢でそこまで辿りついてるガキなんざ、そうはいねーよ。でもな……」
「相馬!!やめなさい!!」
琴絵の激しい言葉を無視するかのように懐からタバコをとりだし、吸いながら火をつける。すぅと煙を吸い込みながら、煙と一緒に息を吐き出した。その煙にゴホゴホと咳をする恭也。
「生まれた時代が悪かった。お前は一流の御神の剣士にはなれるだろうよ。だが、【超】一流の剣士にはなれやしねぇ。お前には決定的に足りないものがあるんだよ、剣才ってモノがな」
「相馬ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「……」
琴絵の激しい絶叫。憎しみのこもったそれに答えるどころか逆に満足そうにニヤニヤと笑う。
相馬の言うことは全くもって正しかった。それを恭也は理解していた。薄々感じていたことではあったのだが……。
恭也が生きるこの時代は天才の集まりであっった。
御神相馬。御神静馬。御神琴絵。不破美影。不破士郎。不破一臣。不破美沙斗。
本来ならば一世代で神速を自在に操れる剣士が現れるのはせいぜい一人。多くて二人。
神速を自在に操れたものは例外なく御神の歴史に名を刻むことができる。それほどの奥義中の奥義。
その神速を扱うことができる者が七人。この者達全てが本来ならば正当継承者として名を残すことができたであろうほどの剣士達。
それら天才達に比べれば、確かに恭也は劣っていた。まだ年若い恭也なのだから、その判断は早計だと思うかもしれないだろう。
それでも恭也はあくまで一を聞いて一を知る程度の才能しか持ち得なかったのだ。士郎達のように一を聞いて十を知る。そんな飛びぬけた才能を開花させているわけではなかった。
一流にはなれるだろう。だが、【超】一流にはなれはしない。それが周囲の恭也にたいする評価である。
そのことを恭也に教え込むように、厭らしい、蔑むような視線で恭也をいつのまにか見下ろしていた。
両肩を掴む手に力がこめられ、砕かれそうになるほどの痛みが恭也を襲う。しかし、恭也はその痛みを耐え切るように歯を食いしばる。そんな恭也を相馬は嘲笑う。
「いいか、小僧。これは慈悲なんだよ。無駄な努力はやめておけ。お前はお前の器を知っておくんだな」
その瞬間、何かが切れる音が聞こえた。
「―――少し黙ったほうがよいぞ、小童」
世界が凍った。まるで空気中の水分が音を立てて凍っていき、この場にいる人間全ての動きを止めんとばかりに。
少なくとも恭也にはそう感じられた。あまりに冷たい声が、恭也の真後ろから聞こえた。
後ろには琴絵しかいないのに、琴絵とは違った声が聞こえたのだ。気がつけば震えていた琴絵の手が止まっていた。
「……っ!?亡霊さんのお出ましかよ!!」
相馬が後ろに跳躍。縁側に着地する。その表情は先ほどまでの嘲るようなものではなく、どこか焦りを見て取れた。
琴絵が恭也の肩をひき、自分の後ろにかばう様に引き寄せる。恭也はなすがままだ。
先ほどまでの琴絵とは違う。圧倒的な存在感。絶対的な安心感。
普段の琴絵が姉のような優しさと暖かさならば、今の琴絵はまるで鬼子母神のような力強さを纏っている。
「全く、主にも困ったものじゃよ。あまり童を虐めるでないぞ」
直接言われたわけでもないのに、その何でもない言葉には全身を切り裂かれるような言霊が宿っていた。
「はっ……!!姉貴にも困ったもんだぜ……御神宗家長女でありながらそんな不破の小僧を可愛がりやがってよ……それにあんたが出てくるほどにそいつが可愛いってのかよ!!」
相馬は脂汗をながしつつ、琴絵に悪態をつく。
この雰囲気の中でそれだけ悪態をつけるのも凄いものだと、恭也はある意味相馬に感心していた。
「そのようじゃのぅ。だが勘違いするでないぞ?御神琴絵だけではなく―――妾にとってもこの不破の子倅は興味深いのじゃよ」
「……そーかよ。まぁ、流石にアンタ相手には分が悪い。ここは退かせてもらうぜ」
そう捨て台詞を残して相馬は姿を消した。残されたのは恭也と琴絵の二人。
琴絵は何がどうなったのか分からないと疑問が顔にでている恭也を優しく抱きしめた。
その感触は何時もの琴絵とは異なる。別人のように力強い。そして理解した。この琴絵であるが琴絵ではない女性こそが、琴絵が言っていた誰よりも強い人だと。
恭也はこの時、視てしまった。琴絵の、否、【御神】の底を。どこまでも果てしなく、どこまでも遠く高い。絶対的なる強者。ありとあらゆる存在を凌駕するであろう、真の最強という生物を初めて視てしまった……。
この日、この時、この場所で……恭也は確かに、【御神】に恋をした。
「……懐かしい、夢だ」
恭也は視界に写る天井を若干ぼーとしながら見つめていた。
本当に懐かしい夢。まだ御神と不破の一族が健在であったころの夢。恭也も美由希もまだまだ幼かった頃。
昨夜、【御神】のことを思い出したせいなのか、随分と久しぶりにあの頃の夢をみてしまった。
凶悪な眠気が未だ襲ってくるせいか、体が重く、身動きするにも一苦労だ。頭もぼんやりとしていて、脳みそがうまく働いていないような感覚。
恭也の寝起きは決して悪くはない、というか良いというのに、珍しく思考を目覚めさせるのに苦労する。
かといって、いつまでもこのままというわけにもいかないので、恭也は気合をいれて布団から上半身を起こす。上半身をおこしたあと、今度は足に力を入れて立ち上がる。
時計を見ると普段起きるより大分寝過ごしてしまったようで、昨夜気を引き締めるか……と誓ったばかりの自分が少し情けなくなった。
布団を綺麗にたたみ動くのに支障がない服装に着替えると、客間からでる。廊下で軽く伸びをする。
高町家の朝は一般家庭に比べて随分とはやい。
恭也と美由希はいわずもがな、朝の鍛錬があるのでご老人顔負けの早さで朝は起床する。
最近はまだ北斗との戦いの怪我を考慮して、朝の鍛錬を休みにして別メニューにしてあるので美由希は夢の中だろう。
次に早いのはやはりというか高町家の大黒柱、高町桃子である。続いてレンと晶がほぼ同時。最後になのは。もっともなのはは朝が異常なまでに弱いので本当にギリギリの時間に起きるのだが。
恭也は風呂場に入ると、洗面台で顔を洗う。水の冷たさが恭也の思考をクリアにした。タオルで顔を拭きようやく完全に眼がさめた。
「かーさんが起きるまでもう少し時間があるか……少し汗を流すか」
洗面台から出るとそのまま玄関をまわって庭の一画にある道場へ向かう。
道場の扉を開けて中に入る。すぅと息を吸うと木の匂いが鼻孔を刺激した。壁にかけてある木刀を手に取り中央に歩み寄ると正座して瞑想する。
一瞬。
僅か一瞬の間で、精神を集中させるとまるで彫像のように微動だにしない。
心を無にさせ、神経を尖らせる。どのような状況にでも対応できるように。一分近くかけて息を吐き、そして吸うことを繰り返す。
己の間合いを徐々に広げていく。最初は僅か半径三メートル程。
それが五メートルに……八メートルに……十メートルに……。
さらにさらにさらに!!
その領域はのびていく!!広がっていく!!巨大になっていく!!
それはまさに結界。その領域で動くものは落ちた針の音さえ聞き逃さない絶対領域が創り上げられた。
その領域を維持すること数分。恭也の頬を汗が滴り落ちる。これだけの状態を維持し続けることがどれだけ辛いことか。尋常ではない集中力を必要としていた。
汗が流れ落ち、床にポタリと落ちる。
まるでそれを切欠としたかのように、高町家で今まで全く動いてなかった気配が鈍くだが動くのを感じ取った。
桃子の眼が覚めたのだろう。そうあたりをつけると領域をとく。
パチンとした幻聴を残して恭也の世界は普段どおりに戻った。
呼吸を戻そうとして、大きく息を吸って吐いた。もう一度、吸って、吐く。若干気だるい感覚を残しながら、恭也はゆっくりと立ち上がる。
「さて、水無月のことを上手くかーさんに説明しておくとするか」
九月ともなれば流石に日が昇るのも若干遅くなりつつあるため、僅かに薄暗い。先月の八月ならばすっかり日が昇っていただろう。
今年は残暑が例年よりしつこいのか、早朝でありながらやや蒸し暑い。
先ほどの瞑想で随分と集中したせいか、汗ばんでしまったようだ。
常人とは精神力が随分と違う恭也ではあるが、暑いものは暑い。秋の暑くもなく寒くもない、過ごしやすい季節に早くならないか、と毎朝鍛錬をしていて思う恭也であった。
薄暗くありながらも地平線の彼方から顔を出した太陽から降り注ぐ陽光。それを眩しげに見上げながら恭也は高町家の玄関から足を踏み入れる。そのついでにポストに挟まっている新聞を回収しておいた。
高町家は意外と……全然意外でもないが広い。一階にはキッチンとリビング。客間に風呂場、桃子とフィアッセの私室がある。そして二階には恭也と美由希、なのはとレンの私室がある。晶は近所に実家があるのでそちらから高町家にやってはくるが、レンの部屋に夜遅くまでいる場合もあるし、時にはとまっていくこともある。
さらに庭には恭也自慢の数多くの盆栽を並べるスペース。ある程度の運動ができる広さの庭。隅には小さいとはいえ道場まであるのだ。
この広さの土地と家をよく購入できたものだ、と昔疑問に思ったことがある。
そのことを聞いたら、桃子は笑ってこうこう答えた。
―――士郎さんがどこからともなくお金をもってきた、と。
相変わらず実の息子でもある恭也でもよく分からないところがある父親だ。相当な浪費家でもあった士郎なのだが、いざ必要となったら、その分のお金を持ってくるのだ。
一時期、銀行強盗でもしてるのではないのかと本気で疑ったこともある。
他の部屋からは一切の物音がしないというのにキッチン兼リビングでは眩い人口の光が部屋を照らし、桃子が鼻歌を歌いながらスクランブルエッグを作っていた。
高町家の要である高町桃子。
調理学校を卒業後、本場でもあるフランスとイタリアで修行をし、その後日本に戻ってから、いくつかのホテルでパティシエを務めたこともある。
そんな折、フィアッセの父親であるイギリス上院議員アルバート・クリステラが海鳴に来日。
アルバードとそのボディガードの士郎が滞在していたホテルで臨時のパティシエとして働いていた桃子。その桃子の洋菓子を食べて感動した士郎に求婚され、紆余曲折あるも互いに愛し合うようになったという。
その容姿は非常に若々しい。なのはという娘が居るにもかかわらず、とても子持ちには見えない。
恭也と一緒に並んで出かけたら、知らない人が見れば姉弟にしか見えない。というか、下手したら兄妹に見られかねない。
桃子といい美沙斗といい、美影といい……若作りな人がやけに恭也の家系には多かった。
「かーさん」
「きゃ、きゃぁ!?」
後ろから声をかけた恭也に、やけに可愛い声をあげて驚いて桃子は振り返った。
声をかけてきたのが恭也だと分かった途端、胸をなでおろす。
「もう。恭也ってば。いきなり声かけないでよー。驚くじゃない」
「ああ、すまない。まさかそんなに驚くとは思わなかった」
「誰も彼もが恭也みたいに気配とか読めちゃうわけじゃないんだからね。そんな人間離れしてるのは恭也くらいよ」
「失敬な、高町母」
くすりと桃子は笑うと再び朝食の準備に取り掛かる。エプロン姿がやけに似合う。
「今日は少し早かったみたいね?そのせいでちょっと驚いたわよ」
「まぁ、少しな」
「ふーん。でも、朝御飯できるまでもうちょっとかかるわよー。テレビでも見てたら?」
「そうしよう」
恭也の奥歯に物が挟まったような返事に桃子が疑問符を浮かべつつも、今は朝食の準備をやっつけないと、と気を取り直す。
恭也は自分専用の湯飲みを出すと、テーブルの上に置いてあった急須にお湯をいれて、湯飲みに熱いお茶を注ぐ。コーヒーや紅茶も別に嫌いというわけではないが、やはり恭也が最も好きなのは熱い緑茶である。
椅子に座ると持ってきた新聞を広げながらお茶を一口。口の中に濃いお茶の味が一杯広がる。
とりあず四コマを最初にチェックしてから適当に興味を引くような記事がないかを確認していく。
そんな恭也の姿を見ながら桃子はこれみよがしにため息をついた。それを視界の端で確認した恭也が新聞から視線を桃子にうつす。
「何かあったか?」
「あんたほど新聞を見ながら熱いお茶を飲むのが似合う若者もいないわよねー」
「そうでもないだろう」
「そうでもあるのよ。あんたが気づいてないだけで」
「むぅ」
自分では決してそんなことはないと思っているのだが桃子からしてみれば違うらしい。
と、いうか桃子を含む家族全員。果ては友人の赤星勇吾にさえ似たようなことを言われた経験もあるのだ。
「そろそろ恭也も彼女くらい作ったらどう?」
「……」
朝食の準備をしつつ、背をむけながら桃子が呼びかける。それに恭也は視線を桃子から新聞に戻す。
恭也の返事は沈黙。もう数十回は繰り返されたであろう問答だ。
決して女性にもてないわけではないのにこれまでの二十年で一回として女性と付き合ったことがない恭也に多少呆れはする。
もてないわけではないというよりもてる。桃子の目からみてどれほどの数の女性に好かれているだろうか……。
知る限りフィアッセ。美由希。レン。晶。那美。忍。その六人は確定している。桃子アイから見て間違いない。
他にも知らないところで多くいるのだろう。それも仕方のないことといえばそうかもしれない。
年齢とは反比例するかのように大人びた雰囲気。これは好みは分かれるかもしれないが、桃子からしてみれば非常に好ましい。
容姿も悪くない。むしろかなり格好いい。何せあの士郎の息子なのだし。
多弁というわけではないが、全くの無口というわけでもない。
何より、強い。腕っ節が、ということもあるがそれよりも【心】が、だ。
これだけの条件が揃っている超優良物件なのになんでかしらねーと桃子は心のなかで深いため息をついた。
恭也が朴念仁ということもあるが、結局のところ皆恐れているのだろう。
恭也は優しい。気を許した仲ならば多少意地悪なこともされるが、それも親愛の証。その優しさが自分ひとりに向いているのではないことくらい皆が分かっている。
もし、もしも告白して振られてしまったら……今までどおりの付き合いができなくなるのではないか。そう考えてしまうと一歩を踏み出せなかった。
そんなジレンマのためか全員が最後の一歩を踏み出せないでいた。
そう言った事情を桃子も理解してはいる。しかし、人生経験が豊富な桃子にとってはそんな状況を見て微笑ましいものであった。
「まだまだみんな若いわよねー」
「何か言ったか?かーさん」
「……あんたが罪つくりってことよ」
「何だ、突然。流石にそれはいきなりすぎるぞ」
「気にしない気にしない。男ならちっちゃなこときにしてたら駄目よ」
思わずため息と一緒にもれた本音に反応した恭也を適当にやり過ごす。
きっと恭也はこのままでいいのだろう、とふっと思った。
下手に自分の魅力を自覚して、遊び人になったらたまったものではない。恭也なのだからなる筈もないが、万が一ということもあり得る。
そんなことを考えていると恭也が椅子から立ち上がる。新聞を綺麗にたたんでいるところが性格をあらわしているようだ。
「そろそろなのはを起こしてこよう」
「あ、悪いわね。お願いできる?」
「なのは起こし三段の俺に任せておいてくれ」
「先日は二段じゃなかった?」
「今しがたで昇段したんだ」
「立派になって……桃子さんは嬉しいわ」
およよと泣く振りをしながら涙をこする演技をする。それには返事をせずリビングをでようとして、振り返った。
「ああ。すまない、かーさん。朝食が終わった後に少し時間をとれるか?」
「んー、昨日のうちに準備はすませてあるから少しなら大丈夫よー。松っちゃんもいるし」
「では、すまないが頼む。少し話したいことがある」
「おっけー。桃子さん了解したわ!!」
松尾さんには悪いことをしたな。今度差し入れでも持っていくか、と思いつつリビングからでる。
階段を登ろうとしたその時、玄関がガラガラと音を立てて開いた。
「おはようございまーーーーす!!」
朝とは思えないハイテンションな挨拶とともに晶が勢いよく入ってきた。
登りかけていた恭也は体半分をもどすと晶のほうに向ける。
「おはよう。今日も元気そうだな」
「あ!!師匠!!おはようございます!!元気だけが俺の取り柄みたいなものですから!!」
テヘヘと照れたように頬をかく。
俺などといってるが晶はちゃんとした女の子である。今は海鳴中央の制服をきているからしっかりと女性と分かるが、私服姿だとかなりの高確率で男の子と間違えられてしまう。
実はそのことを本人は非常に気にしていたりする。まずはその一人称を直したら大分違ってくるだろうに、昔からの癖はなかなか直らないようだ。
そして【あの】空手界の重鎮巻島十蔵の秘蔵っ子。
美由希の剣才のように他を圧倒する超越的なまでの才能を有しては居ない。どちらかといえば恭也に近い。だからこそ恭也は晶を巻島に預けたのだ。
晶は努力型である。習ったことを自分で何度も何度も噛み砕くように練習し、習得する。巻島の指導の方法と合うと判断したためである。
馬車馬のように、一直線に何事にも負けず突き進む。単純明快だからこそ、強い。
何よりも驚くべきことはその応用性。ただ習ったことを習得するだけではない。どうすればその上を行くのか、どうすればその幅を広げることができるのか、それを常に考える。
巻島から教わった吼破を吼破改に進化させたこともある。近い将来、空手界においてなくてはならない存在になるだろう、というのが恭也の判断である。
「お師匠ぅ~おはようございます~」
若干眠気が混じった挨拶と共にレンが二階から手すりに手をつきながらゆっくりと降りてきた。
もう片方の手で眠気を払うように眼をこすりつつ、欠伸をする。
「ん、おはよう、レン。少し眠そうだな?」
「はい~。昨夜はちょっと夜更かししてしもーたんです」
「寝不足には気をつけるように」
「ぅぅ……情けない姿みせて恥ずかしいですわー」
そう恥ずかしそうに笑って、恭也と壁との隙間を一階へ降りていった。その何気ない動作にゾクリと、恭也の背筋に鳥肌が立つ。
鳳蓮飛(フォウレンフェイ)。
年は十四。晶より一歳年下の海鳴中央二年。
一言で言ってしまえば天才。それ以外に言い表す言葉はない。他の言葉などレンの前では全てが霞む。
遠距離では棍術。中距離では中国拳法。接近戦では関節技。と、どの距離でも戦えるが、最も得意とするのがやはりというか中国拳法である。
はっきり言って、強すぎるのだ。この少女は。鳳蓮飛という武術家は。
才に溢れ、努力を惜しまない晶でさえも歯牙にもかけない。余裕さえもって相手をできる。
美由希でさえ小太刀や暗器を使わねば、恐らく敗北を喫するであろう。
【武才】という面だけでみるならば、レンに勝るものを恭也は見たことがなかった。
去年、生まれついての心臓病が手術で治って以来、唯一の弱点であった体力の不足を克服しつつある。
一体これから先、どれほどのものになるか……恭也でさえ予想できない規格外。
本音を言おう。高町恭也は鳳蓮飛と戦ってみたいのだ。
無論、【今】ではない。幾ら天才のレンでも、今戦ったならば百パーセント恭也が勝つ。それくらいの差があるのは分かっている。
だが、あと五年。いや、三年先ならばどうなるか。天才がどれほどまでに伸びるのか。どれだけの高みに到達できるのか。
少なくとも恭也の想像を絶する世界に辿りついているのだろう。それほどのバケモノの片鱗を垣間見せているのだ。
「おっす!!ミドリ亀。ってか、お前なんでそんなねむそーなんだよ」
「うるさいわー。寝起きにお猿のキーキー声はつらいでー」
「な、なんだとぉ!!」
「図星指されてそんなに怒るなんてやっぱお猿やなー」
「く、くっそー!!」
恭也の思考を中断させるかのような二人の言い合い。これが二人のコミュニケーションらしい。
喧嘩するほど仲がいい、か。
苦笑すると恭也は二階へ上がっていく。
「ほどほどにな、二人とも」
「今日こそボコボコにしてやるぜ!!」
「りょーかいです。お師匠~」
拳と拳がぶつかり合うような音を背後に残して、恭也は二階のなのはの部屋に到着。なのはの部屋は恭也と違って洋風である。
コンコンと一応ドアを叩いてみるが反応はなし。
ドアノブを回して開いた扉から部屋にはいる。小学生の部屋とは思えないくらい机は片付いているが、デジカメやらパソコンやら少々似つかわしくないものも置かれていたりはする。
部屋の隅のベッドにはなのはが丸くなって眠っていた。その姿は小動物に見えなくもない。
その少し上にある窓際のへこんだ場所にはいくつかのぬいぐるみも置かれていた。恭也が買い与えたものだ。きちんと飾ってあるようで兄冥利につきるというものである。
「なのは。そろそろ時間だ。起きないと学校に遅刻するぞ」
「……んにゅ……おにーちゃん……?」
「ああ、兄だ。朝御飯もできている頃だぞ」
「ん……はぁい……」
朝に弱いなのはにしては珍しくすぐ起きて安心した恭也。
ベッドから上半身だけおこして両目をこする。相当眠いようでこすり終わったあともそのままぼーとする。
このまま放置したら二度寝するな、と判断した恭也はなのはの手を掴んで立ち上がらせる。
恭也のなすがままに立ち上がると、背中を押されて廊下にでた。
本当に起きてるのか、と疑いたくなるほど廊下を蛇行しながらふらふらと歩く。まるで夢遊病者のようだ。
ある意味器用だな……と呆れる。
「んにゃぁ!?」
呆れていると、ついにゴツンと音をたてて壁に激突したなのは。意外と強くうったようで赤くなった額を抑えながらちょっと涙眼になっていた。
そのおかげか眼が覚めたようで今度はしっかりした足取りで階段をおりていくなのはをみて胸をなでおろす。
あのまま階段をおりていこうとしてたら危なっかしくて仕方ないところであった。
ふと、冥のことが気になって自分の部屋を覗くが布団にはなのはのように丸くなって眠っている冥がいた。恭也の気配に全く気づかないところをみると相当疲れていたのだろう。
もうしばらく寝かせておくか……と、襖を閉じたその時。
「もーーー!!二人とも朝から喧嘩しないのーーーーーー!!」
「う、うわー!!ご、ごめんなさーい!!」
「ぅぅ……ごめんなー、なのちゃん」
なのはの晶とレンを諌める叫び声と、レンと晶の必死に謝る声が聞こえた。
それに知らず知らずのうちに苦笑してしまった、恭也であった。
美由希もレンも晶も、なのはも学校へと登校し、高町家に居るのは話があるという事で残った桃子と恭也の二人のみ。
本来なら朝はわりと自由が利く恭也がなのはを聖祥大学付属小学校が出しているスクールバスが来るバス停まで送っていくのだが、今日はレンと晶コンビに任せた。
美由希は昨夜のことを聞きたそうな雰囲気を醸し出していたが、見事なまでにスルーしておいた恭也。少し悲しそうに登校していった美由希に悪いことをしたかなーとちょっとだけ反省しておいた。あくまでちょっとだけではあるが。
桃子はどことなく機嫌良さそうに朝食の後片付けをしている。洗剤をつけたスポンジで食器をみがき、水で洗い流す。
光を反射してキラッリと光る食器にニンマリと気持ち良さそうに笑い、食器入れにいれ並べていく。
一方恭也はリビングのソファーに座り、テレビを見ていた。
特に見たいという番組はなかったので適当にチャンネルを変えていくが、興味を引くような番組は何もやっていなかった。
この光景。知らない人が見たならば、姉弟ではなく夫婦と間違えてもおかしくはない。それほど二人には違和感がない。
時計をふと見てみると長針と短針が八の数字を指そうという時間になっていた。本来ならばそろそろ桃子は、経営者兼菓子職人を務めている翠屋に行かなくてはならない時間である。
海鳴で最も人気があるといっても過言ではない洋菓子屋兼喫茶店。どの時間に行っても客が並んでいて待たないと購入できないと評判だ。
翠屋は七時開店ではあるが、桃子が前日に仕込みの準備をしていってることが多いので出勤するのは八時過ぎなのである。
桃子がいなくてもアシスタントコックである松尾や、そのほかのベテランのアルバイトの娘も数多く居るので安心して任せることができる。
とはいっても、早く行ったほうがいいのには違いない。桃子がいない分、その他の人たちが頑張らねばならないのだから。
食器を洗い終わった後、炊事場を片付けてエプロンを外す。
「恭也~終わったわよ。話って何かしら?」
「ん。ああ、すまない。手間を取らせる」
「いーのいーの。あんたの様子から話しずらいことのようだけど……桃子さんに何でも話してみなさい」
「そう言ってもらえると助かるが……」
そこでどうするべきかと一息とめる。冥を起こしてきたほうが良いかどうか迷うが、やはり当の本人がいなくては話にならないと判断した。
「すまない。少し待っていてくれ」
「うん。いいわよ~」
恭也はリビングを後にすると二階へあがる。自分の部屋の前まで着くと一応襖を叩きながら声をかける。
「水無月、起きているか?」
返事はない。物音もしない。
まだ熟睡しているようだが眼が覚めるまで待っている時間があるわけでもない。
「入るぞ、水無月」
しっかりと確認を入れてから部屋に入る。自分の部屋に入るのに確認を取らないといけないのもおかしいものだ、と思う恭也。
襖を開けると、相変わらず子猫のように布団で丸っこくなって寝ている冥。元々の種族がワーキャットなのだから当たり前といえば当たり前かもしれないが。
すぅすぅと僅かばかり聞こえる呼吸音。もし、それが聞こえなかったら死んでいると勘違いしても可笑しくないほど静かに冥は眠りについていた。
彫刻のように、どことなく神聖さを醸し出している。
恭也が冥のそばによって揺り起こそうと手を伸ばして、触れる瞬間に手が止まった。ゴクリと恭也の喉が鳴る。
別に欲情したとか、そういったことではない。
普段はツインテールの髪をおろし、ストレートにしている姿は昨日からみてはいるが、こうしてじっくり見てみると冥の横顔は……殺音にだぶってみえたからだ。
姉妹なのだ。似てて当然かもしれない。しかし、瓜二つにしか見えない冥を見て、殺音を思い出して手がとまったというわけだ。
僅か数度しか会って居ないはずの女性。水無月殺音。
しかもデートをしたわけでもない。愛を囁いたわけでもない。
ただ純粋なまでの殺し合い。憎しみも、怒りも、何もなく。ただただ、己の剣を、魂をぶつけ合った。
己の魂には殺音の全てが刻まれて、殺音の魂には己の全てを刻み込んだ。
出会ったのが運命だと。あの日、二人が戦うのは世界が始まってから定められた運命なのだと。そう錯覚さえした。
それが水無月殺音だ。これから先幾度となく、刃をぶつけ合うのだろう、と確信していた女性。
その女性を思い出し……恭也の動きは思考によって止められた。
「……女性の寝顔を見るなんて、あまり良い趣味とはいえない、よ?」
「っ!?」
珍しく恭也が驚いた。
完全に寝入っていると思っていた冥が、眼を閉じたままそう声をかけてきたのだ。
「流石にそんなに近づかれたら眼が覚めるよ」
「……すまんな。別に盗み見ていたわけではない」
「ん……怒ってるわけじゃないから」
眼をあけた冥と恭也の視線が絡み合う。クスリと微笑すると上半身を起こす。
恭也から顔を背け、眠そうに欠伸をした。欠伸で滲んだ涙を指でふき取る。
「お早う。高町恭也」
「ああ。お早う、水無月。よく眠れたか?」
「お蔭様でここ一ヶ月で一番良く眠れたよ。感謝してもしきれないね」
「それは良かった。招待した甲斐があったというものだ」
何故か冥は恭也とは顔を合わせないようにしてそのまま続ける。
「部屋の前で待っててくれないかな?すぐ行くよ」
「ああ、分かった」
そんな冥の様子にやや釈然としない恭也ではあったが言われるままに部屋の外に出る。その際きちんと襖もしめておいた。
残された冥は、恭也が外にでた途端、我慢できないように布団に突っ伏した。その顔は茹蛸のように真っ赤だ。
少しでも早く赤みが取れるように、無駄な努力ではあろうが頬を両手で挟んでぷるぷると頭を振る。
「ぅぅ……危なかった……」
冷静に対処していたように見えた冥ではあったが、実は冥の思考回路はショート寸前であったのだ。限界ギリギリ。
よくぞあそこまで何でもない振りをしながら話ができたものである。自分をこれ以上ないくらいに褒めてあげたいくらいだ。
何せ、微弱な気配を感じて薄めをあけてみたら部屋に恭也が入ってきたところだった。しかもどんどん近づいてきて自分の横顔をじっとみているのだ。
幾ら、冥が化粧などをしないタイプだからといってスッピンの寝顔を見られて恥ずかしくないはずがあろうか。はっきり言って恥ずかしいことこのうえない。
ついつい我慢できずにこちらから声をかけてしまった。
あの冷静沈着な恭也が僅かとはいえ、驚きを露にしたのは意外だったが。そのおかげで少しだけとはいえ冷静に振舞えたということもある。
冥は、ぁーだとか、ぅーだとか意味不明のことを呟き、ゴロゴロと布団の上をころがりながら顔の火照りが治まるのを待つ。だが、あまり遅くなっても悪いので完全に引いてはいないが立ち上がると布団をたたんで部屋から出ることにした。
「ごめん。待たせたね」
「いや、大丈夫だ」
冷静に冷静に、と自分に言い聞かせながら一階げ降りていく恭也についていく。
こんなに焦っている自分に比べて、普段どおりな恭也がちょっと憎らしい冥であった。
恭也に連れられてリビングに入った冥を見てコーヒーを入れていた桃子の手が驚きで止まる。見知らぬ少女がいきなり恭也に連れられてはいってきたのだから当然だろう。
冥はどう切り出せばいいか分からず、ペコリとお辞儀をする。それで、桃子も驚きから回復し、にこりと向日葵のように暖かい笑顔を浮かべた。
「恭也の知り合いかしら?初めまして。恭也の母の高町桃子と言います」
「あ、ボクは水無月冥です。突然ご迷惑をかけて申し訳ありません」
「あら。礼儀正しいわね~。甘いものすきだったらシュークリーム食べるかしら?」
「そんな、どうぞお構いなくです」
「【子供】が遠慮しちゃ駄目よ~。苦手じゃなかったら、だけど……」
そんな桃子と冥の会話で恭也が噴出した。ぶはっ、と恭也のイメージとはまるで正反対の噴出し音で。
冥が凄い勢いで恭也を睨み付けるが、恭也は誤魔化すようにゴホゴホと咳をしながら顔を背ける。
しかし、その体がぷるぷると震えていた。まるで笑うのを必死で耐えるように。
冥を子供扱いした桃子が相当恭也のツボにはまったようだ。
冥はこうみえてもワーキャット。夜の一族だ。
吸血鬼のように不老不死に近いというわけではないが、人間に比べると随分と不老長寿といえる。
見かけは小学生……相当甘く見ても中学生。その身長もレン未満といったところであるが、年齢は推して知るべし。恭也はもちろん桃子よりも年上だったりするのだ。
もちろん、そんなことを知らない桃子。全く悪意もない。それ故に、冥も乾いた笑いで返すしかない。問題は、隣で必死で笑いをこらえている恭也。
思わず桃子に見られないように恭也の足を踏みつけようと足を振り下ろしたが、恭也は見事にそれを避ける。
桃子は疑問を浮かべながら二人の様子を伺っていたが、キッチンへ戻り冷蔵庫から皿に乗ったシュークリームとコップに牛乳を入れて持ってきた。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「あ、ありがとうございます……」
恭也に復讐することは諦め、大人しく椅子に座る。恭也も冥に並ぶように座った。
桃子はそんな恭也の元には熱い緑茶を置く。
「それで、話というのは水無月のことなんだが……」
「うん。昨夜私が帰ってきたときにはいなかったわよね?」
「ああ。皆が寝た後に連絡があってな」
「ふーん。あ、冥ちゃん。温まらないうちにたべてねーそのシュークリーム」
「あ、はい」
こうまで勧められたら食べないわけにはいかない。それに冥は甘いものが嫌いなわけではない。と、いうか大好きだったりする。
恭也が説明するのだから下手に自分が口を挟んで邪魔するわけにはいかないので大人しくしておこうとシュークリームに口をつけた。
そしてそのあまりの旨さに一瞬固まった。今まで食べた洋菓子とは比較にならないほどの凝縮された美味しさ。
「この子は水無月冥。俺の妹だ」
衝撃の発言。
一気に飲み込もうとして、のどに詰まらせた。必死で胸を叩く冥。
桃子の笑顔が引きつる。
「え、えっと……恭也?」
「とーさんと一緒に護衛の仕事のためにイギリスへ船で行ったときにな。運悪く嵐にあって船が沈没してしまったんだ。その時生き別れてしまったが……ようやく再会できたわけだ」
「……もしかしてマリアナ海溝で?士郎さんが何か言ってた気がするわ……」
「ああ……まさか生きていてくれるとは。俺もあの手この手で探してはいたんだが……奇跡というものは起こるらしい」
「と、いうことは。冥ちゃんって私の娘になるのかしら?」
「まぁ、そういうわけだな」
「こんな可愛い子なら大歓迎よ!!桃子さんって朝から超らっきーね!!」
「かーさんに喜んでもらえて良かった」
「もう、恭也ってば。それならもっと早く言ってくれればよかったのに……冥ちゃん、私のことは桃子おかーさまとよんでね?」
「いやいや、桃子ママでもいいんじゃないのか?」
「って、何言ってんの!!」
むせつづけていた冥がようやく復活。流石に黙っていられなくなったのか、勢いよく突っ込む。
「おお。やるな。ちゃんと突っ込んでくれたか」
「なかなか良いタイミングね~。でも、桃子さんはもうちょっと続けたかったかしら」
そして、これ以上ないくらい冷静に評価してくる二人。
何、この似たもの親子。打ち合わせたわけではないだろうに、阿吽の呼吸の桃子と恭也に冥は戦慄を隠せずに入られなかった。