「それで本題になるわけだが」
「うんうん?」
両肩で息をしながら恨みがましそうに見ている冥を尻目に今までの話などなかったかのように恭也が切り出した。
それに桃子も頷くように続ける。クイっとコーヒーを一杯。
そんな二人を見て、冥は激しい悪寒に襲われた。夜の一族の勘とでもいうべきものか。
「……二度目のボケはいらないからね」
「ちぃ」
釘をさすかのような冥に、恭也が出鼻を挫かれて舌打ち。
まさかとは思ったがまた何かボケようとしてたのかと心底呆れた。
「あら。やるわね、冥ちゃん。恭也をやりこめるなんて」
眼を丸くしながら桃子が驚いた。これは将来楽しみねぇ……と心の中でほくそ笑む。
対する恭也は若干残念そうにしながらも、気を取り直すようにゴホンと咳払いをした。
「水無月冥。彼女は俺の古い知り合いの妹さんなんだ」
「古い知り合いって?」
「以前、全国武者修行の旅へ出たときがあっただろう?その時に世話になった人でな」
「あんたって相変わらず知り合いが多いわねぇ……人脈の広さは士郎さんと同じね」
「褒められたと思っておこう。で、だ……その知り合いはとーさんと同じ様な仕事をしていてな。そちらの方で多少面倒ごとに巻き込まれたらしい、という連絡があったわけだ」
「成る程。それで危険が冥ちゃんに及ばないようにって恭也に預けたというわけね?」
「おおまかに言ってしまえばそういうわけだ。理解が早くて助かるぞ、かーさん。昨夜随分遅くにだがこちらに到着したという連絡を受けて家に案内したわけだ。何せ夜分遅くだったから話は翌日にしようと思ってな」
「了解、わかったわ。冥ちゃん、自分の家だとおもってゆっくり過ごしていいからね」
そう桃子はにっこりと冥に笑いかける。母性を感じさせる、全てを包み込んでくれるような笑顔。
真実の一部を織り交ぜて説明したとはいえ随分とあっさり説得できたな、と拍子抜けの恭也であったが無論それには理由がある。
まず第一に冥の容姿が幼いということだ。
もしこれが筋骨隆々の男だったりしたら流石の桃子も悩んだだろう。冥の庇護したくなる容姿と雰囲気が桃子の警戒心を和らげた。
第二に、桃子の懐の大きさだ。
若い頃から苦労しているせいか人間としての器が大きい。多少のことでは動揺しない。恭也の大人びた容姿と同じく、桃子の人間としての大きさもある意味年齢とは見合わない。
第三に、これが一番大きな理由だ。
冥を【恭也】が連れてきたからだ。もし、冥だけだったならば流石の桃子も多少なりとも渋っただろう。
桃子は信頼しているのだ。信用しているのだ。この世界の誰よりも。高町恭也という息子を。恭也という男を。
高町家の大黒柱は高町桃子だ。だが、精神的な柱は間違いなく恭也である。
恭也がいるからこそ、今の高町家があるのだ。
なのはが誰よりも純粋に育ってくれた。美由希が優しく成長してくれた。晶が真っ直ぐに大きくなってくれた。レンが病魔に打ち勝とうとしてくれた。フィアッセが笑顔を取り戻してくれた。そして桃子に……生きる希望を与えてくれた。
なのはを身ごもった当時、夫である士郎はボディーガードの仕事で命を落とした。
幸せの絶頂から転がり落ちた桃子。箱に入り、小さくなって戻ってきた士郎を抱いて桃子は呆然としながらも泣けなかった。美由希と恭也がいたから。女であるよりもまず母であったからだ。
そして美由希と恭也を呼んで抱きしめて士郎の訃報を躊躇いがちに語った。 美由希は泣いた。数日間に渡って、士郎の死を受け入れたくないように。
だが、恭也は泣かなかった。士郎が死んだ現実をしっかりと受け止めながら。実の父が死んで悲しくないはずがないのに。まだ中学生になるかならないか程の年の少年が。
かわりに桃子にこう頼んだ。
「俺はきっと冷たい息子なんだろう。涙が流れないんだ……変わりにかーさんが泣いてくれ。俺の分までとーさんのために泣いてくれ」
そう、血がながれだしそうなくらい拳を強く握りながら、歯を食いしばりながら必死で涙を堪えている桃子に語りかけたのだ。
そんな恭也の優しさが桃子を、母から女へと戻した。桃子も泣いた。父の死をたえようとしている恭也を抱きしめながら、一晩中泣き続けた。
それから執り行われた葬式には数多くの人が訪れたのだけは覚えている。人は葬式の際にどれだけの人が訪れ、涙したかで生前の愛され方がわかるという。
気さくで奔放だった士郎であるが、多くの人に愛されていたのだろう。次から次へと弔問客が途切れることはなかった。
そんな中やってきたのがフィアッセと父であるアルバード。そして母のティオレ。
士郎が命をおとした原因はアルバードの護衛のためだと知られているため、他の弔問客には良い眼で見られていなかった。
桃子に頭をさげるアルバード夫妻。泣きながら謝るフィアッセ。
護衛なのだ。命を落とす危険がある。そう知ってはいたが、桃子も当時は頭では納得できていても心では納得できていなかった。
反射的に怨嗟の言葉が喉元まででかかって、それよりも早く恭也が答えた。
貴方達のせいではない、と。父は貴方を護ることに誇りを持っていた、と。
それが桃子の目を覚まさせた。自分より一回り以上若い恭也を見て、自分が恥ずかしくもなったものだ。
だからこそ誰よりも心がつよい恭也のことを、まだ二十になったばかりの息子のことを桃子はこの世界で誰よりも尊敬していた。
それと同時に桃子は恭也にどうしようもないほど深い罪悪感も抱いている。恭也は泣かなかったのではない。泣けなかったのだ。桃子が、美由希がいたから。
そのために恭也は泣くことを忘れてしまった。桃子がそのことに気づけたのは随分と後になってからである。
【今】だったら随分と違うのに。当時は若かったわよねーと桃子は幾度も後悔したものだ。
そんな恭也が連れてきたのだ。だからこそ、桃子は冥を無条件で受け入れた。桃子が恭也を疑うことなど決してない。
「ああ、すまない。俺と水無月は俺の仕事場の方で寝泊りしようと思っている。かーさんにはそのことを説明しておきたかったんだ」
「あれ?ここに泊まるんじゃなかったの?」
「水無月を追って来る相手がいるかもしれないからな。ここを危険に晒すわけにもいくまい」
「ん……まぁ、それはそうだけど……」
恭也にとって最も大切なこととは家族を護ること。それは昔から変わらない。
それ故に、高町家に泊まっていたら死刑執行者がここに攻め込んでこないとは限らない。家族を危険に晒すことはしたくなかった。
桃子にとっても自分だけならともかく、娘のなのはや親友からの大切な預かり者のレンや美由希もいるのだ。
冥をどうこう言うつもりはないが、大切な娘たちに危険が及ぶかもしれないと考えると恭也の考えに賛成せざるを得ない。
「じゃあ、あそこにいるのねー。何時からいくの?」
「すぐにでも出ようと思う。水無月の生活用品もかわないといけないからな」
「どれくらい留守にするかわかるかしら?」
「……正確な時間は少しわからん。だが、そう長い間ではないはずだ」
「わかったわ。美由希達には私の方からうまくいっておくから」
桃子は納得したという感じで頷く。
椅子から立ちあがると冥の元まで歩み寄り、ぎゅぅと抱きしめる。
その母性に満ちた雰囲気に、冥はなすがままだ。
「大変だと思うけど頑張ってね。心配はいらないわよ?うちの恭也は誰よりも強いんだから、ね?」
「……う、うん」
素直に頷くことしかできない冥。これほど純粋な優しさに触れたのはどれくらいぶりだろう。
生まれ故郷の家族とは比較にならない、全てを包み込む海のような母性。
抱きしめられること一分。ぽんと背中を軽く叩くと桃子は冥から離れる。
「それじゃあ、そろそろ私はいくわね?また何かあったら連絡頂戴。あ、直接翠屋にきてもいいからね?」
「ああ。朝の忙しい時間に引き止めて悪かった。仕事頑張ってくれ」
「ううん、気にしないの。もっとかーさんを頼りなさいよ?」
「……肝に銘じておこう」
桃子はバタバタと足音をたてて玄関の方に向かう。
「あ、あの!!」
「うん?どうしたの?」
「……あ、ありがとう」
顔を真っ赤にしながらそう呟いた冥。そんな冥に満面の笑顔を向けた。
「またね、冥ちゃん」
そういい残すと桃子は足早に高町家から出て行った。残されたしばらく呆然と桃子が姿を消した先を見つめていたが、桃子に触れられた場所はまだ桃子の暖かさが残っているかのようであった。
「……いい母親だね」
「ああ。自慢の母だ。俺が尊敬している数少ない女性だ」
「分かる気がするよ……それ」
「もっとも俺が褒めたことは秘密にしておいてくれ。すぐ調子になるからな」
「はは。分かったよ」
恭也の冗談とも本気ともつかない台詞に苦笑する冥。
だが、その恭也の言葉には隠しようのない敬愛の情がこもっていた。
付き合いは短いがそれくらいは冥にも感じ取れる。素直じゃないな、と冥は心のなかで再度苦笑した。
そんなことを冥が思っているとは露知らず、恭也は湯飲みとカップ、皿を片付ける。
「さて、そろそろ出るとしよう。水無月、お前は玄関で待っててくれ」
「ん、了解」
冥は玄関へと向かい、恭也は二階の自分の部屋と足を向けた。
部屋の入ると押入れに隠してある飛針や鋼糸をリュックに詰め込む。その他諸々の装備を準備すると背中に担ぎ部屋を出る。
普段ならば体に隠せる分だけしか持ち歩かないが、これから向かう先にはそういった暗器のストックがないのだ。
必要になるかわからないが、とりあえず持てる分だけの暗器を持っていくことにしたというわけだ。
玄関に戻るとそこには手持ち無沙汰状態の冥が恭也を待っていた。外に出てしっかりと鍵をかける。
「待たせたな。行くとしようか」
「うん」
二人は高町家を離れるとゆっくりと歩を進めながら住宅地を抜けていく。
すでに太陽はすっかり天空に昇っており、ジリジリとした暑さを肌に感じさせる。
夜の一族である冥にとって太陽の光はどうなのだろうか、と恭也は冥に視線をやるが、特に問題はなさそうな様子であった。
親友である月村忍は吸血鬼の血族らしいが、やはりというべきか吸血鬼らしく日中はテンションが低い。
別に肌が陽の光に焼かれるとかそういった問題ではなく単純に体中がだるくなるのだという。それゆえにか、大学の授業もほぼ爆睡して過ごしている。
しかし、恭也は単純に忍がゲームで徹夜をしているから寝不足なだけではないのか、と最近は疑うようになってきたが。
目的の場所まで歩いたら三十分程度。先に冥の生活用品と買おうか迷ったが、背中に感じる暗器の重さに気がついた。こんな物騒な物をもったまま買い物などできるはずもない。
そしてこんな時に限って近所の人に良く出会う。こんな時だからこそだろうか。家から出てきた顔見知りの人たちに挨拶だけして公園のほうへと足を向けた。
海鳴臨海公園。
旅行ガイド曰く、海鳴に来たカップルは一度でいいから通うべき場所らしい。
だからといって恭也は別にデート気分で海鳴臨海公園に向かったわけではない。ここを通り抜けたほうがずっと目的地まで短縮できるからだ。
海鳴臨海公園に足を踏み入れると潮の香りが恭也のと冥の鼻をくすぐった。海鳴臨海公園はその名の通り、海に面している。随分と長い柵が海と公園を分け隔てていた。
夜になるとライトアップされて、観光するカップルは良い雰囲気になるとか。
恭也も何度か夜間にきてみているが、思わず感心するほど素晴らしい景色であったのは間違いなかった。残念ながら鍛錬ついでに通っただけなので、誰かと一緒に来たというわけではない。
二人は連れ立って公園の中を突っ切るように歩いていく。途中幾度か、カップルらしき男女とすれ違う。楽しそうに語らいながら腕を組んでる。
「恋人かな?ここって多いいんだね」
「ん?ああ、そうだな。海鳴では有名なデートスポットらしい」
「……僕達も周囲からそう見られてたりして?」
「まぁ、残念だが兄妹がいいところだろう」
「は、ははは……確かにそうかもね」
通り過ぎるカップルを横目にみながらふと漏らした冥に恭也は何の気なしに答える。
ある意味朴念仁の恭也らしい答えにハァとため息を漏らす冥。予想通りすぎた。
肩を落とす冥に疑問をもちつつも歩き続ける恭也の視界の端に屋台がうつる。それについつい足を止めてしまった。
「どうしたんだい?って……あれは鯛焼き屋?」
「ああ。俺がわりと贔屓にしている店でな。なかなかうまいぞ。良かったら寄っていかないか?」
「キミに任せるよ」
「そうか。あそこは中身の種類が多彩でな。あんやクリーム。チョコクリームにカレーやチーズにピザもあるぞ」
「……後半の方がうまく聞き取れなかったんだけど、なんだって?」
「カレーやチーズにピザといったんだが?」
「……聞き間違いじゃなかったのか……」
「意外と旨いぞ?」
「そ、そーなの?」
「俺以外には不評なのだがな、何故か」
「……それはそうでしょ」
最後は恭也に聞こえない声でぽつりと呟く。確かにそういった鯛焼き屋があってもおかしくはないが鯛焼きというものは甘い物という固定概念があるためどうしても受け入れがたい。
恭也が幾ら勧めても絶対あんこかクリームにしようと心に決めて恭也の後についていく。しかし、数歩歩いただけで恭也の歩みが止まった。
不思議に思って恭也の背後から覗き込むように屋台のほうをみると一人の女性が何やら騒いでいるのが見えた。
「これとっても美味しいですよ?私の故郷にもこんな美味しいものありません。おじさん、天才じゃないですか?」
綺麗なソプラノの声。流暢な日本語で、その西洋の女性は屋台の主人に話しかけていた。
主人はまさかそれほど褒めらるとは思っていなかったのだろう。恥ずかしそうに頭をかきながら女性にサービスで鯛焼きを多く渡している。
こちらの視線に気づいたのだろう。恭也たちに振り返りばっちりと目があった。
女性自身が光を放っているのではないかと思うほどの美貌。
輝き渡るプラチナブロンドが背にまで伸びている。顔には若干のあどけなさが残っていた。
女性と少女。どちらで表現すればいいのか悩む容姿だが、少女とよばれるようなか弱さなど微塵もない。
何故か右眼を瞑っており、左眼だけだが、強烈な光をともして、冥を貫いた。
腰が砕けそうになるような。悪寒。圧迫感。口に咥えている鯛焼きが少し間抜けだったが。
「あらあら。そこにいるキミはもしかして、もしかしなくても少年じゃないですか?ちょっと見ない間に大きくなりましたね。ん?いや、少年達の時間の流れなら久しぶりというべきなのですかね?」
ゴクリと咥えていた鯛焼きを一気に飲み込むとマシンガントークで銀髪美人は恭也に語りかける。
またこの美人は恭也の知り合いなのか!!っと、頬をひきつらせながら恭也をみあげるが、意外や意外。恭也の顔はまるで殺音と向かい合っていた時の様な研ぎ澄まされた表情であった。
「何故、アンタが……」
「いやいや?偶然?それとも必然?どっちだと思いますか、少年。私としてはどちらでもなく、運命だと願いたいところですけどね。しかし良く覚えていましたね、私のことを。あの時、僅か一瞬の邂逅だったと思ったのですが?」
「……アンタほどの存在を、忘れれるわけないだろう」
「やん。それは遠まわしな告白ですか?流石に白昼堂々は恥ずかしいですね」
「……本題を言って貰おうか。俺はアンタとの偶然も運命も信じられん」
「切ないですね。でも、そんな少年も素敵ですよ?ああ、本題でしたね。本当に特にはないんですよ?勿論、そちらの少女にも興味はありません」
片目の強烈な眼光が鋭さを増す。物理的な圧迫感をもって恭也と冥を襲う。
「だって私は観測者なのですからね。今回は少年と【彼】の戦いを見に来ただけですよ?どちらかに手を貸すことはないから安心してください。ああ、でも【彼】も驚くでしょうね。少年がそうであることは知らないのですから。まぁ、【彼】だけでなく少年がそうであることを知っているのは私を含む三人だけでしたか」
「……知らせてないのか、アンタ達は」
「当然ですよ?知らせてどうするというのですか?皆信じませんよ?有り得ない、あってはならないことなのですから。あの出来事は。私だって実際に見てなかったら信じられませんよ」
手に持った袋から鯛焼きを取り出して頭からもぐもぐと食べる女性。
ゴクリと飲み込むと、手にもっていた袋をヒョイっと冥に向かって軽く放物線を描くように投げる。
反射的にその袋を視線でおう。重力に負けるように袋は冥の手元に寸分の狂いもなく収まった。
「うん、良い髪質ですね。でも、最近手入れしてませんね?女性ならば、少年の横に立ちたいのならちゃんと手入れしましょうね?」
冥の全身から冷や汗が噴出した。
心臓が物凄い勢いで拍動し、全身が金縛りにあったかのように強張る。
絶望的なまでの悪意を秘めた声が、冥の鼓膜にまで響き渡る。
いつの間にか冥の背後に回った女性が両手で冥の髪を梳き、嗤っていた。
殺される。虫けらのように。躊躇いもなく。
永遠と続くように思えた一瞬が過ぎ去る。冥の思考が凍結し、動き出す。何時までたってもそれ以上何かが起こることはなかったのだから。疑問が湧き出るが、それもすぐになぜか分かった。
「何もしませんよ、少年?ただ、少しからかっただけですから、本当ですよ?」
「弁解はいい。水無月から離れろ」
女性が冥の首筋に手をあてがってるのと同様に、恭也も何時の間に袋に入ったままの小太刀を女性の腹部に押し当てていた。
ただ、押し当てていただけ。それでも、その小太刀からは明らかに、死の香りがした。もし、これ以上冥に何かするなら、確実に死ぬ。そう連想させるほどの死臭を漂わせ、恭也は女性を冷たい眼差しで見ていた。
その眼差しをその身に受けながら女性は薄く笑った。満足そうに微笑んだ。
「ああ、素晴らしいですね。たった三年で少年はどこまで成長したんですか。いいえ、もはやそれは成長というレベルではありませんね。進化、それも少し違いますね?……まぁ、そんな些細なことはどうでもいいです」
ぱっと冥から離れると女性はくるりと回転して背を向ける。
「やっぱり少年は凄いです。私が見届けてきた人間の中で一番イカレテイル、バケモノですよ?自覚していようがいまいが、それだけは絶対です。安心してくださいね?本当に私は今回は手をだしませんから。これは少年と【彼】の戦いですから。私はどうやらその戦いの輪には入っていないようですし」
ゆらり、と女性の体がぶれる。蜃気楼のように消えていく。
「でも、気をつけてくださいね。【彼】は強いですよ?ただ、【彼】は少年がそうであるとは知りません。ただの人間だと油断するかもしれないですからね。ああ、ごめんなさい。少年は異常なくらいイカレテイルだけで、一応は人間でしたね。まぁ、そこの油断をついて頑張ってくださいね?少年の可能性を、私に見せてください」
言いたいことだけを言って、女性はそのまま揺らめくようにして姿を消した。
残された冥は、その掴めない薄気味悪い女性が姿を消えたのを確認しても、悪寒は消えなかった。まるでとんでもない化け物を前にしていたかのような感覚。
恭也はなんとも厄介なことになった、と深い深いため息をついて、小太刀をしまうのであった。
女性の姿が消えても、体が重く、身動き一つするのも苦労する倦怠感が冥を包んでいた。
頭がぼんやりとしていて思考回路が正常に働いていないような感覚だ。
「今の、女性、は……?」
からからに渇いた喉で、問いかけようとした冥は自分が極度の緊張状態であったことにようやく気づいた。
その冥のかすれた声に恭也は反応することなく、銀髪の女性が消えた先を睨んでいる。そんな恭也の様子は尋常ではない。
冥も辺りを注意深く見回してみるが、特筆して変わったことはなかった。強いて言うなら、いきなり人が消えたのに驚いた鯛焼き屋の主人が腰を抜かしているところくらいだ。
それでも恭也には違う景色でもみえているのだろうか?
油断することなく、気を張ったままだ。それにつられて冥もすぐ動ける体勢のまま恭也のそばに近寄る。
近寄ったところで、タイミング良く、冥にとってはタイミング悪くだが……恭也がふぅと息を吐き、気を緩めた。
「大丈夫のようだな……この周囲にもう奴はいない」
「う、うん……」
ぽんっと冥の肩におかれる手。その手はゴツゴツとしていて、だが心強かった。恭也の体温が伝わってくるようで、冥は自然と高鳴る鼓動を抑え切れなかった。
しかし、あの恭也にここまで警戒させるとは、一体何者なのか。冥の頭を巡る疑問。
先ほどの質問と、顔に出ている恭也への質問。それに答えるべきか恭也は迷う。
「正直なところ、俺もあの女の正体は把握できてはいない。過去に一度あったことがあるだけだからな。だがな、正体とかそういった以前の問題だ。お前なら分かっただろう?
「うん……分かる。分からないはずがないよ……あんな外れた存在、殺音や死刑執行者くらいしかみたことない」
「俺は第二位にはあったことがないのでな、なんともいえんが。確かに殺音にも匹敵しかねん、あの女は」
「一体、何が目的だったんだろう……あの女性は」
「そこまでは分からんが……あいつの言を信じるならばこちらの不利益になる行動はしないようだ」
どこまで信じられるか分からんがな、と最後に付け加えた恭也。
冥は先ほどの女性を思い出してぶるりと背筋を震わせた。
あの、モルモットを見て、その観察日記をつけているような、淡々としている冷たい瞳。
そして口に出していた通り、本当に冥には興味がなかったのだろう。冥を見る視線には温度というものが感じられなかった。逆に恭也を見る女性の目には様々な想いが見て取れた。本当に一度だけしか会ったことがないのか疑わしく思う冥である。
自画自賛というわけでもないが冥は自分のことをそれなりには強い、と思っている。それは他者の目からしてみてもそう見えるだろう。何せ、あの美由希と互角に戦えるほどなのだから。
そんな冥でさえ、あの女性と戦ったら殺されるというイメージが自然と湧き出てきた。明らかに、自分とは格が違う。
若干マイナス思考になっていた冥に気づいたのか、恭也がぽんっと頭に手を置きぐりぐりと撫で付ける。
「さて、いらん手間を取ったな。さっさと行くとしようか」
「あ、そうだね。でも、恥ずかしいから、ほどほどにしてよ」
照れながら返事をする冥。決してやめてとは言わず、ほどほどにしてというところが乙女心なのだろうか。
恭也は冥をつれだって歩き出す。無論、目的の鯛焼きを買うのも忘れない。
チーズとカレーの二種類。上級者向けの両方一気食いをしてみると、冥が変な生き物をみるかのような眼で見てきたのが少し悲しい恭也であった。
冥はかなり嫌がったので仕方なくオーソドックスなあんこ。
さっきの女性が投げてよこした紙袋のなかには鯛焼きが何故か入っていなかった。冥に放り投げたときには確かに重みが感じられたのに、あけてみると空っぽだったのだ。
おそらく、冥からはなれるときにきっちり回収しておいたのだろう。意外とちゃっかりものである。
鯛焼きを歩きながら嬉しそうに頬張る冥をみて、なんとか誤魔化せたか、と安堵のため息をついた。多少疑惑の念は残っているようだが、どうしても聞き出そうというほどではないようだ。
恭也は冥に女性の正体を把握できていないと語ったが、本当は何者であるかは知っていた。一度しか会ったことがないというのは事実。その時にあの女性は自分の正体をあっさりと恭也にばらして去っていったのだから。決して忘れることはできない。それほど恭也の印象に残っていた。
冥に女性の正体を告げなかったのは、やはりというか冥を思ってである。女性の正体をしったら間違いなく冥の精神に負担をかける。
ただでさえ死刑執行者に追われるということですでに精神に多大な負荷をかけているのだ。これ以上負担をかけたらまずいと恭也が判断したためである。
でも、今はとりあえずできることから片付けないといけないとな、と気を引き締める恭也。
公園を抜け、それなりに大きい歩道をゆっくりと歩く。人間数人分の歩道の横は車道になっていて、平日の昼近くだというのにかなりの車が通り過ぎる。
そんな車を眼で追っていた冥がふと浮かんだ疑問を恭也にぶつける。
「そういえば、キミは免許は持っているのかい?」
「ん?ああ、一応持ってるぞ。普通免許だがな」
「運転とかはしないの?」
「生憎とする機会がなかなかなくてな。大学も電車通学のほうが通いやすい場所にあるんだ」
「……」
冥が歩みをとめ、押し黙った。
それに不審を感じた恭也が振り返り、どうした、と無言で問いかける。
冥の顔がひきつっている。
「い、今なんていったっけ?」
「電車通学がどうした?」
「もうちょっと前!!」
「大学が―――」
「う、うそぉおーーーー!?」
驚嘆の叫び声があがった。その声に驚いた恭也が驚き、反射的に一歩後ろに下がった。
周囲に通行人がいなかったのが救いだろう。もし居たら注目の的になっていたところだ。
「キミって学生だったの!?」
「どこからどうみても学生にしかみえんとおもうが」
「いやいやいやいやいや!!それはないないないないない!!」
「流石にそこまで力いっぱい否定されると少し悲しいところがあるな」
「ええっと、ご、ごめん!!で、でも本当の本当に学生なの?」
「ああ。今年入学したばかりだ。一年留年してるから今年で丁度二十だ」
「ハ、ハタチデスカ」
何やら怪しい片言の日本語になった冥はオーノーと言わんばかりに天を仰いだ。陽光がやけに眼に沁みる。
確かに、恭也は大人っぽくみえる。心も体も、恭也の老成された雰囲気と相まって随分と大人に見えるのだ。
事実、冥も恭也のことを二十台後半だと思っていた。それが、意外や意外。
まさかまだ二十の若造だったとは予想外すぎる。と、いうか想像できるはずもない。
「二十でそれって……キミはどれだけ人間辞めてるんだよ……」
「失敬な。日々の鍛錬を怠らなかっただけだ」
絶対無理だろう、という喉元まででかかった言葉を飲み込む。恭也の透明な歪んだ笑みを見てしまったから。
「所詮、俺はこの程度だ。あの人にはまだまだ及ばない。それに……」
ごくりと冥は恭也の雰囲気に呑まれていた。別に殺気をばら撒いているわけではない。それでも、呼吸が苦しくなる、先ほどの女性にも勝る圧迫感が冥を押しつぶさんと荒れ狂っていた。
「美由希を見ているといい。後三年たって今の俺と同じ年になったならば……あいつの強さは俺の上を行くぞ」
高町美由希が自分の上をいくと、はっきり答えた恭也だったが、冥はそうは思わなかった。
確かに美由希は強い。冥が見てきた中で五本の指に入るだろう。現段階でその状態ならば確かに恭也の言うとおり後三年たてばその力量はどこまで伸びるのだろうか。確かに恭也よりも強くなるのかもしれない。
だが、足りない物がある。いや、単純な戦闘者としては足りない物はない、と思う。
しかし、恭也と比べるとするならばあの娘には、足りない物が多すぎる。何が、と問われれば答えることは難しい。だが、確かに足りないのだ。
例えば美由希の剣の技量、速度、力それら全てが恭也と互角になったとしよう。その状態で恭也と戦ったとしても勝つのは恭也だ。
攻撃と防御。その二つの完璧なる瞬間調整。刹那の見切り。人間とは思えぬ無限にも等しい体力。決して折れることのない鋼のような精神力。如何なる存在を前にしても揺らぐことのない剣の意思。
それが恭也の強さなのだろう。圧倒的なまでの剣術が恭也の強みなのは確かだ。
それでも決してそれだけに頼っているわけではない。高町恭也の根本的な強さは、心と技と体。それら全てによる完全な戦闘の支配力。
美由希はどこまでも強くなるだろう。或いは単純な御神の剣士としてならば恭也を上回るかもしれない。だが、死合いにおいては決して高町恭也には及ばない。強いのは美由希だが、勝つのは恭也ということだ。
「ようやく着いたな、ここだ」
物思いにふけっていた冥はハッと恭也の声で我に返った。
無意識のうちに恭也の背を追っていたのだろう。気がついたときにはすでに一際大きいマンションの前に着いていた。
その大きさに少し圧倒された冥が驚いたようにマンションを見上げる。正直なところ、もっと質素な所を思い描いていたのだがものの見事に外れてしまった。
入り口に向かう恭也に慌ててついていく。恭也が入り口のドアの横にある装置にカードキーを通すとガチャンと音がして入り口のドアが開いた。
一階の中央には驚いたことに小さいが噴水があり、水が湧き出ていた。通路も大理石でできているようで冥はさらに驚く。
エレベーターに乗り込むと十五階まである数字のうち五階を押す。上にあがっているはずなのに下に降りているような不思議な感覚を体に感じながら八階に到着。エレベーターからおりると廊下には絨毯がひかれていた。
「この階には二部屋しかないからわかりやすいと思う。迷子にはなるなよ?」
「な、なんでこんな良い部屋を借りてるんだい……」
恭也が案内した部屋は冥が呆れるほどであった。俗に言う3LDk。しかも、人が住んでいるような生活感があまりない。頻繁につかっているというわけではなさそうだ。
近くというほどでもないが、歩いて三十分もかからない場所に自宅があるというのに何故こんな広い部屋を借りているのか疑問がつきない。
「俺は知り合いに少々仕事を頼まれることがあってな。護衛や、まぁ、他に色々とだが。その際にあまり物騒なことを自宅で話すわけにいかないこともあって知人に相談したらここを格安で貸してくれたんだ」
「格安で?」
「ああ。元々は俺の父に命を救われたことがあったらしい。そういうこともあって俺でも借りれる程度の家賃ですんでいるんだ」
「キミの父親もボディーガードか何かをしているのかい?」
「まぁ、そうだな。正確にはやっていた、だが」
「……すまない。配慮に欠けた質問をしたみたいだね」
「気にするな。もう随分前の話しだしな」
だった、という過去形に気づいた冥はすでに恭也の父が亡くなっているのだと知り、素直に謝罪の言葉を告げる。恭也も特に気にしているわけでもないのであっさりと聞き流す。
背負っていたリュックをおろし。軽く伸びをする。別に重さが辛かったというわけではないが、背負っていないほうが随分と動きやすい。
「さて、水無月の生活用品でも買いにいくとするか。ああ、費用のほうは気にするな。それくらいは俺が出そう」
「ぅぅ……世話をかけるね」
しゅんと素直に礼を言う冥。生憎と手持ちのお金はほとんどないに等しい。そればかりは恭也に甘えるしかない。
部屋の外にでるとしっかりと鍵をかける。待っていたエレベーターで一階へ戻り、マンションの外に出た。
ガチャンと音がしてオートロックがかかる。その音で思い出したのか、冥にカードキーを渡す。
「スペアの鍵だ。なくすなよ?」
「子供じゃあるまいし、そう簡単にはなくさないよ!!」
「それもそうだな」
完全に子供扱いしてくる恭也に冥はやや膨れっ面で言い返すが、恭也は若干苦笑する。その様子が年齢とは裏腹に子供っぽくて少し微笑ましい。
恭也と冥はそのまま連れ立って歩き出す。ふと気づくが、常に恭也は車道側に立っている。些細なことではあるが、恭也の気の利かせ方に感心した。
そのまましばらく歩くと徐々にすれ違う人が増えていき、商店街に着くと人が波のように流れている。
時計を見ればもうすぐ昼時。人が多いわけである。
「わっと……」
恭也はその人の波を流れるように避けて進むが、冥は途中で人波に巻き込まれてうまく進めない。
それに気づいた恭也が冥の手を握りエスコートするように引っ張っていく。
そこから二人は様々店を見て回った。意外と必要なものがあったため、いつの間にか恭也の両手は荷物で一杯になっていた。
剣士としては利き手を自由にしておきたかったのだが、冥に気を利かせて恭也が持つことにしたのだ。
しかし、と恭也は思う。
女性の買い物は何故こんなに時間がかかるのだろうか……と。
勿論冥だけに限ったことではない。桃子やフィアッセの買い物に付き合うこともあるが、やはり長い。
恭也は別に待つこと自体は苦痛ではない。だが、女性物の服や下着売り場に一人取り残されるのだけは勘弁してほしいものである。かといって、似合うかどうか感想を求められても困るのだが。
今回は冥が服を買いに店に入ったら、子供用の所に店員さんに案内されたのには思わず噴出しかけた。
少し不機嫌になりながらも買い物を済ませた冥と恭也は丁度昼を過ぎたので食事をしようと周囲を見回す。
「苦手な物はあるのか?」
「玉葱とか以外なら大丈夫かなぁ……」
「ふむ……俺も実はそんなに外食をするわけではないからな。どこが良いのかとか詳しくはない」
「そうなのかい?」
「家の料理が下手な店より旨すぎてな。和洋中なんでもござれだ。まぁ、洋の担当は今は海外を飛び回ってるので家にはいないんだが」
「羨ましい話だよ」
「自分で言っておきながら全くだ。さて、ここにしておくか」
選ぶのが面倒くさくなったのか恭也は眼にとまった喫茶店に入る。それは先日忍に紹介された喫茶店であった。
扉を開けて中に入ると、店員の見事な営業スマイルが出迎える。窓際の禁煙席に案内されると向かい合って座る。メニューを開きどれにするか眼を走らせる。
その時、カランと扉が開いた音が鳴り、新たな客が入ってきたのを知らせた。
どうにも見知った気配を感じ取った恭也はメニューから視線を扉の方向へ向けると、こちらに向かってきている二人の女性が眼に入った。
一人は月村忍。
その背後に付き従うのはスーツ姿の妙齢の美女。僅かに紫がかった髪に、冷たい表情の女性。だが、恭也はその女性が本当は誰よりも優しいのだと知っていた。
ノエル・綺堂・エーアリヒカイト。
月村忍のメイドであり、幼い頃から彼女を見守ってきた女性。
その二人が恭也の席まで歩いてきて足を止めた。
「こんにちは、恭也。折角だから相席いい?」
「む……」
冥に気を使うように視線をやるが、そんな冥はメニューから視線をあげないまま頷く。
「ボクは良いよ。キミの知り合いなら歓迎さ」
「だ、そうだ。好きにするといい」
「有難う、恭也。それと貴方もね」
ピシリと空気が凍った気がしたが、それには気にせずに忍は恭也の横に座る。
「ご迷惑をおかけします。恭也様」
「ノエルが気にすることでもあるまい」
そうは言ったがなにやら非常に空気が重い。その理由が分からず首を捻る恭也。
「初めまして、かな?ボクは水無月冥。彼のちょっとしった知り合いさ」
「ご丁寧にどうも。私は【月村】。月村忍よ。恭也の内縁の妻なんだけどよろしくねー」
「誰が内縁の妻だ、誰が。あまりそういう冗談を広めるんじゃないぞ」
「冗談だって、さ?」
メニューをテーブルに置き、ようやく視線をあげる。何やら笑顔が怖い忍と視線があう。
今度はバチリと火花が散った気がした。というか、確実に散っている。
何やら非常に居心地が悪い。気のせいではない。絶対に。ノエルはその冷静な表情がひきつったりしている。
「とりあえず、注文が決まったなら頼むとしよう」
その空気を全く読まずに発言する恭也。空気を読まないにしても程がある。
注文を取りに来た店員がその場の空気に腰がひけているが、気合で注文をきき厨房に戻っていった。というか逃げ去っていった。
「さて、俺は少し手洗いへいってくる」
私を一人にしないでください!!という魂の叫びが顔にでているノエルだったが、そのSOSには全く気づかない恭也はあっさりとトイレへ旅立つ。
残されたのは何やらにらみ合っている冥と忍。あと泣きそうになっているノエル。
恭也が完全にトイレへいったのを確認した冥が声に険を混じらせて忍に問いかける。
「初対面の相手に対する態度かい、それが」
「そうね。別に、恭也が誰と一緒に居ても咎めることはないわよ?私にそんな権利もないし」
「……じゃあ、なんなの?喧嘩でも売ってるのかい、キミは」
「そう受け取って貰っても構わないわ、【武曲】の水無月」
「……っ!?」
ガタンと驚いて席を立つ冥。それを冷たい眼差しでみたままの忍。
「何を驚く必要があるの?言った筈よ、私は【月村】忍と」
「【三巨頭】の月村……」
「そそ。月村の当主ってことになってるけどね、一応」
「……驚いたよ。まさかそんな大物がこんな小さな町にいるなんてね」
「そんなことはどうでもいいの。私が言いたいこと分かってるんじゃないかしら?」
「……」
「貴方はすでに罪人なのよ?死刑執行者に追われる、ね」
「……分かってるよ」
「分かってる?本当に?じゃあ、何故、貴方は恭也と一緒にいるの?何故、貴方はここに居るの?」
「そ、それは……」
「分かっていないわ。いいえ、本当は分かっていて気づかない振りをしてるのかしら?貴方がここに居る事がどんな意味を持つことかわかっているの?」
「ボ、ボクは……」
「それとも恭也の優しさに縋って助かろうとでもしているのかしら?恭也と死刑執行者を戦わせてどうにかしようと?」
「ち、違う!!ボクはそんなつもりじゃ!!」
「私はね、貴方が恭也と一緒に居る理由は分からないし、どうでもいいの。でも―――」
忍が眼を閉じ、そしてゆっくりと開けた。
ルビーのような真紅の瞳が冥を貫いた。音をたてて、周囲の空気が凍っていく。冥の背筋を震わせる。反射的に距離を取ろうとしたが、動けなかった。
まるで万力のように隣に座っていたノエルが冥の手首を掴んで離さない。ギリギリと骨が軋む音が聞こえる。全力で握られたら恐らく骨を砕かれるであろうことは簡単に予想できる反則的な握力。
「恭也の優しさを利用することだけは許さない。もし、そうならば私は、【月村】ではなく―――私自身の意思で、貴方を決して許さない」
忍は財布から幾らかの紙幣を取り出すとテーブルに置いた。そして立ち上がる。
それに続くのはノエル。いつの間にか、冥からは手を離していたが、そこにはくっきりと手の痣がついていた。
「死刑執行者には連絡しないでおいてあげる。だからお願い……恭也だけは巻き込まないで……」
最後の台詞にこめられていたのは懇願。泣きそうな声で忍はそう残してノエルを伴って喫茶店から出て行った。
忍とノエルは車がとめてある駐車場まで急ぎ早で歩いて行く。
昼過ぎということもあるが、まだまだ商店街には人が多い。
「忍お嬢様……」
「ノエル、私って酷いかな?」
「いいえ。決してそんなことはありません」
冥に対して酷い対応をしたと忍自身分かっている。
それでも、このままではいけないのだ。
あの水無月冥を追っているのは死刑執行者。
その純粋な戦闘力は十人の中でも【百鬼夜行】に次ぐと名高い。まさに頂点の中の頂点。
以前恭也が倒したイレインとは比較にならない人外の化け物。
正直な話、忍は死刑執行者が日本に来たという情報を聞いたとき耳を疑った。
第二位の死刑執行者。
第七位の【三巨頭】の綺堂・氷村・月村。
第九位のクロ。
第十位の漂流王。
この狭い日本に四人の王が集結しているのだ。尋常ではない事態。もっともクロだけは日本に居るということだけしか情報がないのだが。
そして、死刑執行者が水無月の生き残りを追っているという情報は聞いていた。どのような容姿かも。
まさか自分の領域である海鳴でみつけることになるとは思わなかったが。
そんな冥と共に居た恭也。恐らくだが、このまま冥と一緒にいたならば死刑執行者と出会うことになるはずだ。
その時、恭也はどうするのか?
決まっている。剣をとり、立ち向かうのだろう。忍の時と同じように。
―――でも、きっと勝てない。
恭也は強い。強すぎる。人の域を超えているといっても良い。それでも、勝てる筈がないのだ。あの化け物には―――。
それは忍の恭也への愛情。傷ついてほしくないという、関わってほしくないという。深い深い、底知れぬ恭也への想い。
「……お願い、恭也。これ以上、こちら側にこないで……」
ツゥーと忍の頬を一滴の涙が流れ落ちた。
全ては一瞬だった。
その殺意に満ちた男は突然に現れて、冥の全てを崩していった。
白銀の刃が北斗を斬る。貪狼を、巨門を、文曲を、廉貞を、禄存を、そして殺音を斬る。
それを冥は声を出せずに、止めることさえできずただ見ていただけだ。声がかすれた。助けを呼ぶこともできない。
ベチャリと地面に倒れ付す、死体死体死体死体死体死体。死屍累々。周囲を鮮血が満たす。
地面に横たわる北斗の仲間が、何故お前だけが生きているのだと言わんばかりの、空虚なガラス玉のような眼で冥を見つめていた。
そんな中で、闇を従えて死刑執行者はゆっくりと動けない冥に近づいてくる。逃げようとしても、足が根をはったように動かない。
執行者は冥の眼前までくると剛剣を振り上げる。そして、振り下ろした。
死の剛剣が、冥に迫り来る刹那の瞬間に確かに、だが、しっかりと見た。
執行者の剛剣を弾き落とす、二筋の銀光を。
執行者よりもなお深き闇をその両手に握る小太刀に纏わせて、冥の背後からまるで守護者のように現れた恭也の姿を。
闇と闇がぶつかり、意識が遠くなるなかで、その声だけは鮮明に聞き取れた。冥の絶望を振り払うように。
「―――冥。お前は俺が護る」
「な、なんて夢をみるんだよ……ボクは……」
冥は手を顔に当てて、すこしでも顔の火照りを隠そうとしていた。
別に誰かが見ているわけではないのだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
今まで眠っていたベッドから立ち上がると、壁際まで歩いていきスイッチを押して明かりをつける。
パッと周囲の暗闇は消えさり、人工的な光で部屋が満たされた。再び寝ようという気はすぐにはおきない。
先ほどの夢の恐怖もあるのだが、それ以上にドクンドクンと胸の動悸が激しくてとても寝れるような状態ではないのだ。夜の静寂をかき消すような、心臓の音が冥の耳を打つ。
部屋の中を見回してみるが、はっきりいって極めてシンプルな内装であった。
壁にポスターが貼ってあるわけでもなく、ぬいぐるみなどの置物がおいてあるわけでもない。
本棚には申し訳なさそうに、僅かばかりの参考書や辞書。
それとは対照的に音楽CDには力を入れているようで、世界的に有名な歌手であるアイリーン・ノア。【天使のソプラノ】SEENA。【光の歌姫】フィアッセ・クリステラ。その他にもウォン・リーファ。エレン・コナーズ。アムリタ・カムラン等々。
音楽はあまり聴かない冥でさえ知っているような有名人ばかりだ。しかし、どれも恭也が聴くようなイメージではない。どちらかというと演歌でもきいてるほうがしっくりくる。
ふぅ、とため息をついて昼間のことに思いをはせる。
昼間に忍が帰った後にトイレから戻ってきた恭也は冥の顔色が悪いのを気にしていたのだが、なんでもないと強がって答えていた。
それから他の細々としたことを終わらせてるうちに夜の帳が落ちたために家に帰ってきたのだ。
この家というのは高町家ではなく、恭也が個人的に借りている部屋のことである。
一緒に夕飯を食べて……恭也が作ったのだが冥よりはかなり上手に作ったので少しショックを受けていたようだが……先ほど就寝したところであった。
時計を見てみると深夜の一時を回った所だ。まだ二時間も寝ていない。
普段の冥ならば夜の暗闇など怖くはない。仮にもワーキャット。夜の一族の申し子である冥が夜の暗闇を怖がるはずがない。
だが。執行者に追われる日々が続き、本能的に恐れるようになってしまった。
ここ一ヶ月の間は体も心も休まることなどなかった。だが、それが今では親鳥に護られた雛鳥のように安らぎを得ている。
「ぅぅ……あんなのボクのキャラじゃないよぉ……」
自分自身の願望。それが夢に現れるのだという話もあるが……。
あれでは恭也に白馬の王子ならぬ黒馬の王子を期待しているのだとしか考えられない。
夢の恭也を思い出した冥がボッと瞬間湯沸かし器のように真っ赤に沸騰。勢い良くベッドに飛び込んだ。
声を殺しながら布団に包まって悶え続ける。数分もそうしていただろうか、ようやく顔の火照りと動悸が治まった。
はたからみていたらどう見ても変な少女にしか見えない。
「少し飲み物でものもうかな……」
喉がからからだということに気づいた冥は部屋から出ると短い廊下を抜けて、リビングに入る。
テレビとソファー。テーブル。その一室に繋がるようにキッチン。そのキッチンの隅に置かれている冷蔵庫の前まで歩いていき、開ける。
中にはペットボトルの水やお茶、スポーツドリンクの他に先ほどの夕食の残り物などが入っていた。
冥はお茶を取り出すとコップに注ぎ、口をつける。よほど喉が渇いていたのか、思わず一気に飲み干してしまう。ゴクリゴクリと喉が鳴る。
当然、一杯だけでは足りない。もう一杯注ぐとまた一気にあおる。
二杯飲んでようやく潤ったのか、冥はふぅと一息ついた。
ペットボトルを冷蔵庫に戻そうとしたとき、明かりがパッとついた。別にやましいことをしていたわけではないが、あまりに突然だったので驚き、慌てて振り向いた。
視線の先、部屋の入り口には恭也がいた。風呂にでも入っていたのかまだ湿っている髪をバスタオルでゴシゴシと拭いているところだった。
かなり大きいタオルのようで両肩が隠れ、脇腹のところまでタオルが垂れている。下は寝間着のズボンをはいているが、上は裸だ。
冥はそんな恭也の、傷だらけの上半身に眼を奪われていた。
一体どれだけの実戦を、鍛錬を行えばこれだけの傷を負えるのだろうか。想像を絶する。
そんな冥の様子に恭也は苦笑した。
「すまんな。起きているとは思わなかった。見苦しい物を見せてしまったようだ」
「いや、そんなことはないよ」
はっと我を取り戻した冥は答える。
確かに凄い傷だ。だが、それが醜い物だとは全く思わなかった。むしろ頼もしさを覚えた。
「しかし、そんなにお腹が減っていたとはな。夕食がたりなかったのならば遠慮せず言えばよかったんだぞ」
「……へ?いやいやいやいや!!」
恭也に冷蔵庫を漁っていたのはお腹が減っていたからだと思われたらしい。
流石にそう思われるのは恥ずかしい。誤解ならばなおさらだ。
「ち、ちがうよ!!ちょっと喉が渇いただけなんだ!!」
「隠さないでも良い。うちの晶も良く食べる。それは恥じることではないぞ」
「ほ、本当に違うんだってば!!」
これでもかっというくらい否定するのだが、恭也は柳の枝のように飄々と受け流す。
「よく食べ、よく寝て、よく遊ぶ。それが大きくなる秘訣だ」
「だーーーかーーーらーーー!!」
だんだんと泣きそうになってくる冥を見た恭也が少しからかいすぎたかと反省。
髪を拭きながら冷蔵庫をあける。スポーツドリンクを取り出して豪快に一気飲み。
満杯まで入っていた中身が凄い勢いで減っていく。口を離し、手の甲で口を拭う。
「すまんな。からかいすぎたようだ」
「……もう、本当だよ!!」
「だが、元気はでたようだな」
「っ!?」
苦笑しながらそう言った恭也に冥は驚いた。
まさか、からかうふりをしながら元気付けようとしていたのか。
いや。きっとからかいたかっただけに違いない。なんとなく冥はそう思った。
「昼間なにがあった?忍に何か言われたのか?」
「……」
沈黙で返すしかない。忍が冥に詰問したことは全くもって正論。どこも間違っていない。
押し黙った冥に嘆息する。昼間からこれの繰り返しだ。恭也が問いかけて、冥が黙る。
「忍が何を言ったか知らんが気にするな」
「……」
「まぁ、大体は予想できるがな。あいつも夜の一族だ。死刑執行者の情報でも聞いて俺のことを心配したといったところだろう」
「……鋭いね。キミって何時も」
「その程度のことならお前が気にかけることでもない」
「その程度って、何さ!!」
恭也の台詞に反射的に大声で返す。
おもわず振り下ろした手がバンっと激しい音をたててテーブルを叩く。
「死刑執行者だよ!!この世に存在する夜の一族の頂点!!最強の名を冠する、剣の王者!!逆らう者はその悉くを例外なく打ち倒してきた王なんだ!!その王と戦うって状況をわかっているの!?」
「……」
「勝てないよ!!キミは強い。とんでもなく!ボクなんか目じゃないくらいに!!それでも……それでもアイツには!!」
「なんだ。そういうことか」
恭也は冥を黙らせるように頭に手を置いてワシャワシャとやや強引に撫で回す。
何故撫でられたのか分からないが、振り払う気にはなれない。この感覚は嫌ではない。
「水無月。お前は優しいな」
「な、なんでそうなるのさ!?」
「結局のところ、お前は自分のことを心配しているのではない。俺のことを心配しているんだ」
「そ、そんなことは……!!」
「あるんだ。自分が命を狙われているというのに、人が良いのにもほどがある。ん、夜の一族が良いのにも、か?」
変なことを真面目に聞いてくる恭也に冥は両肩の力が抜けた。
スポーツドリンクを冷蔵庫に戻すと扉を閉める。バタンと音が鳴り響く。
「死刑執行者のことを甘く見ているわけではないぞ?だがな……」
髪を拭いていたバスタオルを片手に持つ。恭也の傷だらけの上半身が全て露になった。
視線をずらそうとした冥だったが、恭也の体から視線をずらすことができない。まるで石像のように固まって。ぽかんと口を驚きであけたまま。視線は縫い付けられたように肩から逸らすことができなかった。
これは夢か幻か。そう自問自答してしまうほどの衝撃を冥は受けていた。
「俺は頂点の力というものを知っている。確かに強い。強いが……勝てないというほどのものでもない」
はっきりと、自信に満ちた力強い声で。恭也はまっすぐと冥を見つめたまま語りかける。
「俺を信じろ。もし、お前が俺を信じてくれるならば―――神さえも斬り伏せ、お前を護る」
そう恥ずかしげもなく、偽りなく、恭也は宣誓した。
冥はしばらく目の前の恭也を見つめていたが、恭也の台詞を脳内で幾度も反芻。
ようやく意味が飲み込めたのか、顔を真っ赤にさせて俯く。
「……人間離れをしてるって何度も思ってたけど……まさかキミが【そう】だったなんてね」
「少々面倒なことになるからと口止めをされてたからな。あまりいいふらすなよ?」
「流石に他の人には言えないよ……こんなこと」
冗談混じりの恭也の頼みに冥は笑みを浮かべる。
その笑みを消し、真面目な顔で恭也を見上げた。
「……正直、凄く迷ってる。キミに迷惑をかけることになると思う。普通の人間……ううん、どんな人間、夜の一族でもどんな条件があったとしても断る頼みだと思う……それでもキミはボクを……」
「二度も言わせるな。剣士の魂たる剣にかけて、誓おう。どのような危険からも、どのような脅威からも。どのような災厄からもお前を護ると」
「……一つだけ、きかせてくれないか?」
「なんだ?」
「何故、キミはそうまでしてボクを助けてくれるんだい?建前はいらないよ、キミの本当の答えが欲しい」
じっと見つめてくる冥に、恭也は一瞬答えに詰まる。
だが、偽りの答えでは冥には通じないだろう。言葉通り、今の冥は恭也の心からの答えを待っている。
迷う。それでも答えるしかない。
「……そうだな。正直に言うと最初は殺音を殺した執行者に対する復讐心だった」
「うん。それはなんとなく分かっていたよ」
「……そうか。だがな、お前と一日行動を共にして気づいてしまった。許してしまった。お前が、俺の領域に入ってしまったのにな」
「領域?」
「……簡単に言ってしまうと、護りたいと想ってしまったということだ。水無月冥という女性を。嘘偽りなく」
真正面から、そう答えた。
恭也と冥の視線が交錯。どちらも逸らすことなく、沈黙のまま時が過ぎる。静寂が耳に痛い。
「俺がそう思うことが意外か?」
「ううん。そんなことはないよ」
「……お前には話したほうがいいかもしれんな」
まだ、どちらにするか判断を決めあぐねている冥に座れと、椅子をひいて合図をする。
それに大人しくちょこんと座るのを見届けると恭也もその対面に腰を下ろす。
「昔々の話だ。俺がまだ幼い頃。俺の一族が未だ健在だった時のな」
「御神の一族かい?」
「御神を知っているのか……」
「ボク達世代の夜の一族の間では知らない者はいないんじゃないかな。人の身で、夜の一族に対抗できる数少ない存在だったからね」
「……そんなに有名だったのか」
恭也の方が逆に驚いたように両腕を組んで考え込む。確かにとんでもない腕前の戦闘一族だったが、そこまで名が知られているのは意外だった。
まだまだ幼い時に一族が滅びてしまったのだから当時の風評を知らなくても仕方ない。今ではすでに御神は滅びた過去の伝説。
「それは、まぁいい。御神の一族といっても、正直な話、普通の人間と変わらない人たちだった。泣き、笑い、喜ぶ。俺からしてみれば皆がいい人たちばかりだったよ」
懐かしそうに遠い目をしながら恭也は語る。
「そんなある日、御神宗家の女性の披露宴が屋敷で行われることになった。御神琴絵さんといってな。病弱だったが、皆に愛されていた人だったよ。俺も可愛がって貰っていた」
「……」
嬉しそうに御神琴絵という女性のことを語る恭也に冥は少しだけもやもやとした感情を抱く。
それを消すように首をぶんぶんと強く振る。
「御神と不破の一族全てがその披露宴に参加していた。それほど琴絵さんは皆に愛されていた」
「キミもかい?」
「ああ。とーさんが旅行先で無計画にお金を使いすぎたせいで遅れそうになったが、ぎりぎり間に合ったんだ。大道芸をやって電車賃をかせいだな、あの時は」
「……む、無茶苦茶な父親だね」
「肝心な所ではしっかり決める人なんだがな。それで、披露宴は凄く盛り上がっていた。皆が喜び、琴絵さんを祝福していたよ。そして、俺が琴絵さんに祝福の言葉をかけようと傍によった時に」
「うん?」
変なところで言葉を切った恭也を不思議に思って、首を傾げながら聞き返す。
―――死が、弾けた。
「!?」
ガクン、と冥の全身の力が抜けた。いや、正確には喰われたのだろう。
恭也のおぞましい程に濃縮され、凝縮され、圧縮された、あまりに絶大な殺意の奔流に。
カハッと咳き込んだ。ガタガタと体が震えるのを抑え切れない。
胃の中のモノがせりあがってくる重圧に必死で耐える。奥歯を噛み締める。
だが、これは言ってしまえばただの余波だ。恭也の殺意の端っこに触れただけなのだ、冥は。
もしも、この殺意の的になったとしたならば……。
「御神には敵が多かった。【龍】と呼ばれる組織がな、御神の屋敷に爆弾をしかけていたらしい。それが爆発。御神と不破の一族は壊滅したというわけだ。俺が目を覚ましたときは酷いものだった。屋敷が全壊し、火災が広がっていた。俺の揺らぐ視界には見知った人達が見知らぬ【モノ】になって散乱していた」
淡々と語る恭也。
それでも、その殺意には澱みはない。どこまでも純粋で、龍という存在に対しての悪意だけは、見て取れた。
その危険さは、冥が今まで見たどの夜の一族よりも凌駕していた。
昼間の女性。水無月殺音。死刑執行者。漂流王。その誰よりも、ただの人間であるはずの恭也の気配は禍々しかった。
冥が知る限り、最凶で、最狂で、最恐で、最脅。
「不思議だったよ。何故俺だけが無事だったのか。生きていたのか。その疑問もすぐに解けた。幼いこの俺が生き延びれた理由。簡単な話だったんだ。琴絵さんが。爆風から、爆発から、衝撃から、その身を持って盾となってくれたのだから」
「っ……」
「病弱で、ようやく幸せになれる筈だったあの人は、俺なんかのためにその命を投げ出してくれた。あの人の血と匂いに抱かれて、最後に琴絵さんはこう言い残して、俺の目の前で逝った」
肺の中の空気を、狂った殺意を吐き出すように深く深呼吸をする。
「生きて生きて生き抜いて、琴絵さんが俺を護ったように、俺の大切な人を護って欲しいと。最後の最後まであの人は自分ではなく、俺のことを考えて逝ったんだ」
「そう……なんだ……」
「狂ったように剣を振るい、憎悪と殺意に支配されたこともある。いや、今でもその殺意には支配されているのだろうな。だが、それでもあの人の最後の願いを振り切ることができなかった」
音もなく、立ち上がる。
「全ての力なき人を護る、というほど自惚れているわけではない。だから、俺は俺の大切な者達を護ろうと想っている。あの人の最後の願い通り、な」
だからお前を護るのだ、と恭也の視線が語っている気がした。
なんという男なのだ、と冥は戦慄した。
大切な者達を理不尽に奪われ、憎悪の炎に身を焦がし、飽くなき力への渇望と、発狂しかねない鍛錬の日々。その果ての果てにようやく復讐するに足る力を手にいれたというのに、たった一人の女性の願いのためだけに、その全てを己の内に抑えているのだ。
確かに恭也は狂気に支配されているのだろう。正直、冥ですら恭也を怖いと思った。
しかし、泥を這って、血を啜って、己の全てを投げ捨てても、憎悪に呑まれようとも、最後の一線だけは越えていない。恭也はたった一つの願いのためだけに生きているのだ。それは恭也の心の強さ。そして、優しさ。
―――ああ、もう。参ったな。
冥が嘆息する。笑うしかない。考えようとしなかったことを、今更はっきりと自覚してしまった。
―――ボク、水無月冥は高町恭也に恋焦がれている。
恭也の殺意を。狂気を。憎悪を。願いを。優しさを。
全て知って。それでも、はっきりと言えてしまう。
恭也の心の強さに。優しさに。冥は捕らえられてしまった。蜘蛛の網にかかった蝶のように。決して逃れられない、感情に。
「ボクの名前なんだけど……水無月って辞めて欲しいな。できれば名前で呼んで欲しい」
「いいのか?」
「うん。勿論さ。かわりにボクもキミのことを名前で呼ばせてもらうよ?」
「ああ。分かった。それくらい構わんさ、冥」
「ん……よろしく、キョーヤ。ボクの命、キミに預けるよ?」
そう、冥は向日葵のような笑顔で恭也に笑いかけた。
恭也の超感覚が部屋に入ってくる見知った気配を感じ取り、浅い眠りから目を覚ました。
睡眠時間は相変わらず最小限なので思考が鈍い。まどろみのなかで再度眠りに落ちそうにはなるが、そういうわけにもいかない。
ふぅという深いため息とともに恭也はうっすらと目を開けた。寝相は良い方なので掛け布団は寝たときと寸分変わらず恭也にかかっている。
横倒しの視界に映るのはおおよそ八畳程度の洋室。あまり使うことはないので必要最低限の者しかおいていない簡素な部屋。
本当ならば恭也の好み的に全て和室が良かったのだが流石に格安で部屋を貸して貰っている身でそんな我がままはいえやしない。
そして恭也の頭の横から少しばかり離れた所に正座して座っている冥がいた。
「相変わらず鋭いね、キョーヤは。折角起こしにきても何時も気づかれてしまうよ」
優しさを秘めた微笑の後に、ほっぺたを膨らませてちょっと拗ねたような表情を作る。
恭也は腹筋に力をこめて勢い良く起き上がる。生理現象の如く出そうになった欠伸をかみ締めた。
「腐っても御神の剣士だ。それに気配を読む鍛錬は幼い時にとーさんに嫌というほど叩き込まれたしな」
「キョーヤの話によくでてくる父親だけど、どんな人だったんだよ……」
「……破天荒な人だった。だが、人間としての大きさならば身内の贔屓目抜きで大きな人だったぞ」
「器が大きくても底に穴があいてたりしてたんじゃないの?キミの話を聞いてると」
「はっはっは。かもしれんな、今思えば。思い出補正というものがあるやもしれん」
苦笑。
恭也が立ち上がり、軽く伸びをする。それにつられるように冥も立ち上がった。
ちょっと鼻を動かすと味噌汁の良い香りがする。
好き嫌いがない恭也ではあるが―――甘い物をのぞく―――やはり和洋中でいうなら和食が最も好ましい。
「毎朝すまんな。また朝食を作ってくれていたのか」
「世話になってるんだし、これくらいね。準備はできてるからやっつけてしまわないかい?」
「ああ、そうしようか」
まるで違和感なく、冥は音をたてずに恭也の部屋から出て行った。
恭也もそれに続くようにリビングにでる。恭也の部屋はリビングと繋がっているので、入ると同時に朝のニュースを放映しているテレビからニュースキャスターの声が響いている。
そのままテーブルには行かずに、別のドアから抜け、洗面所へと入る。
蛇口を捻り、勢い良く流れ出した水で顔を洗う。その冷たさが、恭也の思考をはっきりと目覚めさせた。
リビングに戻り、すでにテーブルに準備されていた朝食を見てほぅと思わず感嘆の声が漏れる。
テーブルにはご飯と味噌汁。目玉焼きに簡単な野菜炒め。
簡素といえばそうであるが、幾ら恭也でも朝っぱらから重たいものはきつい。逆にこれくらいで丁度いいというものだ。
椅子に座るとそのタイミングを待っていたかのように恭也の前に出てくる熱いお茶。感謝の礼をのべて一口飲むが、熱さといい濃さといい実に恭也好みであった。
冥も恭也の正面に座ると二人でいただきますをして、目の前の朝食に取り掛かる。
「……うまい」
「ふふ。そう言って貰えると嬉しいよ」
味噌汁を啜った恭也が無意識に一言。それににこりと笑って答える冥。恭也には見えないようにテーブルの下に回した手をガッツポーズの如くグっと握り締める。
冥と恭也がこの家に住み始めて今日で三日目。せめてもの礼とばかりに冥がご飯を作っているのだが最初にくらべて随分と恭也の舌に合う味付けになってきていた。
元々冥の料理の腕はそれほど悪くはない。北斗の中でも料理ができる者がいなかったので自然と彼女の担当になったのだ。
ちなみに殺音の料理の腕は壊滅的に悪い。とても食べられるような代物を作れやしなかったのだと冥は語った。
流石にレンや晶や桃子に比べると見劣りするが、それでも十分たいしたレベルではある。
黙々と朝食を食べる二人。そこに漂う沈黙は重苦しい物ではなく、どことなく自然な静寂。まるでそれが当然のように。
恭也が食べ終わってからしばらくたち、ようやく冥も食べ終わる。二人で食器を片付けた後に再び熱いお茶を恭也は啜る。冥は熱いのが苦手らしく冷たいお茶を飲んでいる。ワーキャットだけに猫舌なのだろうか。
二人してぼーとしながらテレビ見る。相変わらずよくわからないニュース番組ばかり流れている。口に含んでいた熱いお茶を飲みほしてふと呟く。
「そろそろ、だな」
「……うん」
周囲を満たしていた緩んだ空気がピリっと一瞬で引き締まる。
今日で三日目。二人がこの海鳴で出会ってから。まだ三日目なのか、もう三日目なのか。
答えは、もう、だ。
「死刑執行者だけだったならばもう少し時間がかせげただろうが……恐らく、近いうちに来るだろうな、奴らは」
「……多分ね」
「昼間はそれほど注意を払う必要はないだろう。人気のないところにいかなければ、だが。奴らも目立つ真似は極力避けるしな。問題は夜だ」
「夜の一族の本領が発揮される時間帯をどう凌げばいいかな……」
「余計な小細工抜きで真正面からぶつかるしかあるまい。俺が執行者と戦う。その間なんだが……昨日話したとおりでいいか?」
「うん。漂流王はボクがひき付けておくから。ボクが逃げることに徹したら、そう簡単には捕まらないから任せてよ」
自信満々の冥。そしてそれは事実でもある。
ワーキャットである冥のスピードは夜の一族の中でも群を抜いている。その速度があったからこそ一ヶ月の間逃げ切ることができたのだ。
まともに漂流王と戦ったならば確実に負けるだろう。冥自身も勝てるとか良い勝負ができるとか、そんな楽観視はできやしない。だが、逃げに徹するならばまだ望みはある。
もっともこの作戦ともいえないような作戦は、全てが恭也にかかっている。
恭也が死刑執行者を倒す。それが最大にして最高の難関。
「勝てるかな……」
「勝てるか、じゃない。勝つんだ。俺を信じろ。御神の剣士に敗北の二文字はない」
一瞬漏れた冥の不安を消し飛ばすように恭也が断言する。
その心強さに背筋をぶるりと震わせ、無言でこくりと冥は頷く。
恭也でも勝てないかもしれない。恭也ならば勝てるかもしれない。その考えは半々であり、天秤にかけたとしたらどちらに傾くか分からない。
だが、信じよう。殺音を凌駕したその技を。絶対護るというその想いを。そして、あのバケモノを打倒したのだというその戦闘力を。
「これで王手だ」
「……ぅぅ」
将棋の駒をパチンと盤にうつ。もはや逃げ道のない必滅の一手。
冥は湯気が出そうなくらい必死になって逃げ道を考えるが、どう見ても次に打つ手はない。
それは分かっていてもひたすら考えるしかない。また負けを認めることになるのだけは悔しい。
テレビを見たり、読書をしたり、そして将棋をうったり。様々なことをして過ごしていたのだが、恭也は将棋が異常に強い。
何度挑んでも勝てないのだ。飛車角落ちでうっても結果は同じ。流石に何度も負けているとどうにかして一泡吹かせたくなってくるのだが、毎回結果は冥の敗北になる。
「キョーヤってどこまでこー、ハイスペックなのさ」
「一体何の話だ?」
「なんでもありませんよーだ」
一体、この男には苦手なものや欠点などあるのだろうか、と本気で考える。どんなことでも淡々とこなしてしまうイメージをもってしまう。
ふと外を見ると既に太陽が西の方角へと落ちかけていた。かなり日が沈むのが早くなってきたようだ。
「さてと、ボクはそろそろ買い出しに行って来るよ」
「ああ。俺も行こう。少し高町の家の方に用がある」
「何か必要なものでもあるのかい?」
「いや。かーさんから連絡があってな。美由希の様子が少しおかしいらしい。切羽詰ってるところがあるとな」
「へー。あの高町美由希がね。壁にでもぶつかったのかな」
「どうだろうな。まぁ、大体の予想はつく。【あいつ】に出会ってしまったのだろうな」
「【あいつ】?誰のこと?」
「ん……お前に言っても分からないだろうが。強いて言うならば天才、か。後数年もすれば頂点の力にも匹敵するであろう人間だ。美由希も含めてな」
「……冗談、だよね?」
「生憎と本気だ。今の段階でも美由希より一枚……二枚くらい上手か」
「この町って、一体どんな人外魔境なんだよ……」
冥がこれでもかというくらい深いため息をついた。間違いなく日本で一番デンジャラスな町に違いない。
二人は互いの部屋に戻ると外着に着替える。と、いってもお洒落など全く考えない恭也は本当に適当に服を着替えただけだ。冥も必要最低限の服しか買ってないので恭也と似たようなものではあるが。
連れ立ってマンションから外に出る。夕方近くになると昼間の暑さもだいぶマシになっているようだ。
冥のペースにあわせて坂道を降っていく。時折、横の車道を車が排気音を残して走り去る。
商店街に向かう途中、海鳴臨海公園に差し掛かった所で足を止めた。
「少し公園に寄っていかないか?」
「ん、良いけど。何か用事でもあるの?」
「いや、少し小腹がすいてな。鯛焼きでも腹に入れようかと」
「もしかしなくても、またカレーとチーズなわけじゃないよね?」
「……さて、行こう」
「ああ、もう!!」
ああ、先ほど考えていたことだが、欠点があった。この鯛焼きの趣味が悪いということだ。鯛焼きはあんこが一番だというのに。
冥の抗議などどこ吹く風で恭也は鯛焼きの屋台がある場所まで辿りつく。鯛焼き屋の主人が丁度焼いてる所だったのか、良い匂いが恭也と冥の鼻をくすぐった。
「カレーとチーズ。それにあんを一つずつお願いします」
「おじさーん!!カレーとカレーとカレーにピザお願い!!」
「鬼頭先生って!!うちはカレーとピザはやめてくださいっていったのに―――!!」
恭也にかぶるようにかん高い声が乱入してきた。ついでに小柄な体も恭也の横に滑り込むように走ってきて、ピタっと止まった。
滑り込んできた小柄な……鬼頭水面は恭也の姿を確認した途端金縛りにあったかのように動きを止めた。
水面に気づいた恭也は一瞬見覚えがある顔だな、と首を傾げそうになったが、先日工事現場で話をした永全不動八門の鬼頭の女性だと思い出した。
同じ海鳴に住んでいるのだから偶然出くわすこともあるか、と納得した。
勿論、水面は納得できるような話ではない。できるだけ出会わないように動いていたというのに、まさか鯛焼き屋で出会うとは夢にも思っていなかった。
固まった水面と同じく、その水面を追ってきていた茶色の長い髪を後ろで縛った少女。風芽丘学園の制服を着ている。学年ごとに制服に入っている色が違うため何年生か非常に分かりやすい。美由希と一緒の黄色なので、二年かとあたりをつける。
「ふ、あっと……高町さんじゃないですかー!!お、お久しぶりです!!」
不破と言いそうになった水面であったが、恭也の力の篭った視線に、慌てて言い直す。しかも、年下の恭也に向かってきっちり敬語まで使っている。余程先日会った時の恐怖が骨身に沁みたのだろう。
「ご丁寧に。先日は失礼いたしました」
「え?い、いやー。そんなことはないですよ!!こちらこそご迷惑をおかけして!!」
もうこれでもかといくらい下手にでる水面。恭也も相手が年上のうえに、ここまで下手に出られたら敬語で返すしかない。
「あ、私は一応風芽丘学園の教師やってまして。こっちは教え子の如月です。お見知りおきを」
「あ、あの、え?ええっと……あ、あわわわわ」
突然話を振られた少女……如月紅葉は水面と恭也の両方を繰り返し見て、言葉にならない声を漏らす。
恭也の視線を受けて、慌てて後ろに下がろうとしたところ、段差にひっかかって地面に倒れた。
ガツンと硬い物がぶつかりあう音が響いて、後頭部を思いっきり打った紅葉が両手で抑えて立ち上がる。本当ならば痛みのあまり転がりたかったが流石にそんな真似はできない。でも、滅茶苦茶痛かったのか涙目になって、恭也を見上げる。
「あ、あの……う、うちはその、き、きさらぎゅ」
「如月、かんでるかんでる。落ち着きなさいよ」
「え?は、はい、そ、そ、そそそーーですよね」
だめだこりゃ、と空を見上げる水面。すでに完全にテンパッている紅葉をどうやって落ち着かせようかと。というか、なんでこの娘はこんなに取り乱してるのか。幾ら相手は噂に名高き【不破】だからといってもちょっと異常だ。でもおもしろそうだし、このままでもいいかなとか悪魔が囁く。
じょじょに冷静さを取り戻してきたのか、紅葉は深く深く深呼吸をする。吸って吐いて吸って吐いて。土下座をせんとばかりに頭を深々と下げる。
「失礼しました。うちは如月。如月紅葉といいます。以後お見知りおきを」
「不破恭也です。こちらこそお見知りおきを」
「う、うちに敬語なんてつかわんでください!!敬語なんて使われたら死んでしまいます!!」
如月という苗字と、紅葉の動きから永全不動八門なのだと分かり、不破を名乗る恭也。
紅葉が恭也に向かって右手を差し出してくる。握手を求めてきたのだろうが、いきなり利き手で求める紅葉を怪訝に思った。それでも紅葉の手がぷるぷると震えて、表情には不安な影が浮かんでいる。
握手を断られるのではないか。と不安気な様子。まるで小動物のようで微笑ましい。
恭也は差し出された手を軽く握り締める。ビクリと電流が走ったかのような反応を紅葉がする。ゆっくりと離した後、紅葉は自分の右手の手のひらをじっと見つめる。
「う、うちこの右手は絶対洗いません!!」
なにやら怪しい発言をする。おっかけをしているアイドルと握手できたかのような反応に恭也もやや引き気味だ。
何時もとテンション違いすぎるでしょう、と何がなんだか分からない水面は紅葉の襟を掴む。
―――よし、逃げよう。
「それでは、失礼します。不破殿」
そう決めるとヒョイっと右手を太陽に翳して感動している紅葉に足払い。
全く注意してなかった紅葉は横に倒れそうになるが、水面が襟を強く引っ張る。グェっと何やら奇妙な声をあげて紅葉が咳き込んだ。
そのまま咳き込んでる紅葉を引っ張りながら走り去ろうとした瞬間。
「―――三年前に比べると随分強くなったようで驚いた。今度会うときがあったらキミの話をゆっくり聞かせてくれ」
そう風に乗って恭也の声が聞こえた。
水面は何のことか分からなかった。しかし、如月の表情が固まった。
ぐんぐんと恭也との距離が離れていく。小柄な体なのに紅葉を引っ張りながら走る速度は驚異的だ。
公園の入り口まで走った所で水面は後ろを振り返った。視界にはすでに恭也の姿はない。
ふぅと髪をかきあげるようにため息をついて一息つく。そこで気づいた。ぽろぽろと涙を流している紅葉に。
「ああ、ごめんごめん。もしかして痛かった?」
無理矢理引っ張ってきたので相当痛かったのかと水面が焦る。しかも、何時もふんわりとした雰囲気の紅葉がこんな涙を流す姿などはじめてみた。
「ぅぅ、ひっく……ぁぁぁ……っぇぁぁあ」
子供のように泣きじゃくる紅葉に焦る水面。夕方に差し掛かっているということもあって通行人も多い。注目の的だ。
目立ちたくないのにと思っても、これで目立つなというほうがおかしい。
「お、覚えて、ぅぅ……覚えていてくれたんだ……あの人は、ひっく……あの人は……」
ああ、もう!!、と水面は泣きじゃくる紅葉を抱きしめるのであった。その平ぺったい胸で―――。
「何だったんだろうか、今のは?」
「さぁ、知らないよ」
また知らない女性が出てきたのかと何度目になるかわからないため息をつく。返事に険が篭るのも仕方ないだろう。
とりあえず鯛焼きのお金を払って、あん入りを冥に渡す。
二人で鯛焼きを食べながら歩き、公園の幾つかある入り口の一つまでたどり着いた。そこが恭也と冥の目的地への分かれ道。
「では、俺は高町の家の方に行って来る」
「うん。ボクは商店街に買出しにいってくるから」
「まだ明るいとはいえ万が一ということもある。必ず人の多い道を選んでおくんだぞ」
「大丈夫さ。流石に奴らもこんな人目がある場所で襲ってはこないよ」
「万が一、だ」
「ふふ。キョーヤは心配性だね。わかったよ」
「宜しい」
手を振って二人が別れた。言ったとおり恭也は高町家へと。冥は商店街へと。
ゾクリと、恭也は嫌な予感がした。まるで何かが喪失するような予感。反射的に後ろを振り向いた。
遠目にだが、冥の後姿が見える。しばらく、見つめているとやがて冥は見えなくなった。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる恭也。執行者達はあくまで【裏】でしか動かない。人目につくことは絶対に避ける。
だが……。
「念のためだ。できるだけ直ぐに合流するか」
嫌な予感を振り払うように恭也は高町家へと足を向けた。
「美由希自身で乗り越えてくれればいいんだが……」
高町家かの敷地から出ると、道場がある方角へと向き直る。そこでは美由希が鍛錬をしているのだろう。
先ほど道場で美由希と少し話をしたのだが、予想していたよりもまだ余裕があった。それほど追い詰められている様子ではなかったようで安心したのは事実であった。
美由希に足りない物は様々あるが、その中で最たる物は経験だろう。
力やスピード、技ならば日々の鍛錬でどうにかできる。と、いうか美由希のそれらは御神の剣士としてもすでに非凡なる領域。かつて御神の一族が健在だったころに見た御神の剣士達を大きく上回っている。
静馬や士郎、一臣などの天才と謳われた剣士達に比べれば未熟ではあろう。だが、それに匹敵する腕前を持っていると見てもおかしくはない。それほどの力量に達している。
しかし、死合いにおける経験が絶対的に足りない。海鳴で行われたフィアッセとティオレ、その他の超有名歌手によるチャリティコンサート。それを襲撃したテロリスト達。あとは北斗との戦い。
たった二度。この平和な日本において二度もできれば御の字だろうが。もっとも、チャリティコンサートでの襲撃者達の力量はあまりに美由希とかけ離れていたので正確には北斗との一戦だけといってもいい。
北斗との戦いで美由希の実力は一気に跳ね上がった。百の試合よりも一の実戦ということだろう。
恭也と実戦に近い鍛錬を行ってはいる。幾ら実戦に近いとはいえあくまでそれは試合。恭也が幾ら本気でいこうとも美由希を殺す気になど絶対なれるはずがない。
高町恭也は身内には絶対的に甘いのだから。美由希を最強の御神の剣士にする。家族と周囲の大切な人を護る。それは恭也にとっての決して違えてはならない決意。
美由希を宝石のように大切に育ててきたのだ。だが、何度も自問自答しているが何時までも恭也の手元に置いておけるわけではない。
「今回の壁はお前自身の力で乗り越えるんだ……美由希」
そう、深い愛情の篭った呟きは風に溶けた。踵を返す。
確かに美由希のことは心配だ。だが、切羽詰るというほどのことでもない。ならば当面の問題は恭也の方だ。
相手は頂点の中の頂点。恭也の想像通りの強さなのか。想像以上の強さなのか。
暫くは、冥と行動をともにしなければならない。まだ太陽は沈んでいないから多少は安心できるが、沈んでしまったら警戒が必要だ。
高町家から若干足早に離れていく。考えていたより時間は取られなかったので、まだ冥は商店街の方にいるだろうとあたりをつける。
数分も歩いただろうか、商店街へと至る途中の交差点で青信号が点滅。急いではいたが止まっている車もあったので渡らず横断歩道の前で足を止めた。パッっと恭也の見ている前で信号が赤に変わる。
これが全ての分岐点。この、何でもないただの信号が決定的な引き金となった。
「やぁ。恭也じゃないか。元気にしてたかい?」
「あれ、恭也君。お久しぶりですね」
自分を呼ぶ声に振り返る恭也。背後の角を曲がって現れ、声をかけてきたのは二人の銀の妖精。勿論比喩ではあるが、そう表現しても納得できるような美しさと可憐さを備えていた。
二人は良く似ていた。まるで双子のように。
違いがあるとすれば、ラフな言葉遣いの女性の方が身長が幾分か高くプラチナブロンドの髪が短い。丁寧な言葉遣いの女性は、髪が長く、腰元近くはあるが身長が低く若干子供っぽそうではある。
「お久しぶりです。リスティさん。フィリス先生」
恭也はペコリと頭を下げる。リスティと呼ばれた女性はポケットから煙草を取り出すと口に咥える。カチンと音をたててジッポーライターで火をつけると深く呼吸。ふぅと煙を吐き出す。
「最近は忙しいのか知らないけど、たまには病院に顔を出しなよ?フィリスが不機嫌になって仕方ないんだ」
「リ、リスティ!!」
何やら爆弾発言をさらりとするリスティにフィリスが顔を赤くして抗議する。その笑顔が厭らしい。訂正、一人の妖精と一人の小悪魔であった。
「コ、コホン。でも、絶対に病院に来てくださいね?恭也君はただでさえ無茶な鍛錬をするんですから。本当に体を壊しそうで心配なんです」
フィリスが気を取り直すように咳払い。心配そうに恭也に語りかける。心配のあまりか少し目が潤んでいたりする。
彼女は恭也と美由希、レンの担当医だ。少し前までは、高町家にいたフィアッセ・クリステラの担当医兼カウンセラーとして海鳴病院にいたのだが、その関係で恭也達も診てもらう事になったのだ。ちなみにフィアッセとフィリスは以前からの親友だったらしい。
「ええ。勿論です。今回の件が落ち着いたらうかがわさせていただきます」
「絶対の絶対の絶対ですからね?こなかったらどうなるかわかりますよね?」
「……ぜ、絶対行きます」
珍しく恭也が冷や汗をかく。別にフィリスは脅しているわけではないのだが、いや脅しているのかもしれない。
フィリスの整体はその小柄な体からは想像できない程苛烈なのだ。恭也ですら呻き声をあげるのを抑えられないほどだ。ようするに滅茶苦茶痛い。それでもその痛みを越えた先、整体が終わった後は不思議と体が軽くなっているのだから謎である。
よし、と言質を取ったフィリスは嬉しそうに頷く。定期的に病院へくるようには言ってるのだが、行くたびにあまりに無茶な鍛錬で溜まった疲労を咎められるので、恭也はどうしても足が遠くなってくる。美由希には容赦なく行かせているのだが。
「また何か厄介ごとに首を突っ込んでいるの?」
そう、煙草の灰を携帯灰皿に落としながらリスティが聞いてくる。
今回の件、から何かの事件に足を踏み入れているのかと判断したようだ。相変わらずの鋭さに恭也が舌を巻く。
「ええ。少しばかり。多分後二、三日で片付くと思うんですが……」
「……ふーん」
恭也の本音を探るようにリスティのすみれ色の瞳が恭也の瞳を覗き込む。
数秒程度見つめあっただろうか。或いは十数秒か。ニヤリと笑って煙草を吸う。
「まぁ、信じるよ。あまり無茶なことはしないことだね。僕の妹を泣かせないでくれよ?」
「リ、リ、リスティ!?」
再度真っ赤になってリスティをぽかぽかと叩くフィリス。笑いながらリスティは恭也が向かう方角とは逆方向に足を向ける。
「それじゃあ、またね。恭也。バーイ」
「あ、リスティが変なこといってごめんなさい。また病院にきてくださいね。絶対ですよ!?」
片手をポケットに突っ込んで、煙草を握っている手をヒラヒラと振りながら歩き去っていく。それに慌てて着いていくフィリス。
向かった方角は商店街。おそらくまたリスティがフィリス食事をたかっているのだろう。浪費家であるリスティは給料日前になると必ずといっていいほどフィリスに食事をご馳走させる。お金が全くないらしい。フィリス先生頑張れ。超頑張れ。
二人の姿が見えなくなるまで恭也はフィリスを応援しておいた。あくまで応援だけであるが。下手に手をだすとターゲットがこちらにきてしまうのだ。以前はよく恭也もたかられていた。しかも場所は何故か翠屋ばかり。
しかも、面白がってか恭也に向かってあーん、などといって食べさせようとしてきたこともある。必死で笑いを抑えるようにしていたのを覚えている。桃子だけは嬉しそうにしていたが、美由希や臨時のアルバイトに入ってた忍や那美は顔がひきつってたりしていた。
恭也も商店街の方へ向かおうとしたが、目的地をマンションの方へと変える。リスティとフィリスに会ったため少し時間をくってしまったようですでに太陽は沈む寸前だ。
この時間ならばすでに冥はマンションへ帰っていてもおかしくはない。暗くなる前に戻るよう釘をさしていたのだから。
先ほど以上の速度でマンションへと向かう。リスティ達と話してる最中からチリチリと嫌な予感が止まらなかった。てっきりリスティが何かまた仕掛けてくるのでは、と疑っていた恭也だったがどうやらそうではないらしい。
そうでなかったらこの嫌な予感は何なのか。僅かに焦りを滲ませつつ、マンションに到着。エレベーターの前に着くとボタンを押す。ゆっくりと降りてくるが、その時間すら惜しいと感じた。
ようやく降りてきたエレベーターに乗り込み、五階で降りる。部屋に飛び込むようにして入る。
「冥、帰っているのか!?」
声を荒げるようにして叫ぶ。間違いなく部屋のどこにいても気づく程の声量だ。だが、帰ってくるのは静寂だけ。嫌な予感はますます高まっていく。
きっとまだ買い物から帰っていないだけだ。そう考えて外に探しにでようとして、リビングのテーブルの上に何やら紙が置いてあるのに気づいた。
慌ててその紙を取り上げる。そして、固まった。その紙に書かれてある僅か二つの言葉を読んで。
その手紙を放り投げるように捨てて、恭也は部屋から飛び出した。必要最低限の装備だけを持って。
「あの、馬鹿!!」
あの恭也が、本当に珍しく吐き捨てるように罵った。今は居ない冥に向かって。
恭也が読んだ置手紙。そこにはたったこれだけの言葉が書かれていた。冥の筆跡で。
【ありがとう。さようなら。】
「さてと……今晩は何にしようかな」
可愛らしく人差し指をほっぺたにあてて考え込む。しかもかなり真面目に。
商店街についた冥は人の流れに沿ってゆっくりと歩く。他の通行人の邪魔にはならないようにゆっくりとだが。
はっきり言って単純な料理の腕は恭也の方が僅かに上だ。どちらも凄く上手いというほどではないが、一般人と比べるとそれなりに上手い。
かといって、あまり凝った料理が作れるかといえばちょっと難しい。基本的に北斗が健在だった頃は味より量だったので、そんな凝った料理はする必要がなかったからだ。
もっとレパートリーを増やしておいたほうがよかった……と後悔する。
悩んでも仕方ない。とにかく今現在できる料理で恭也に喜んで貰おうと、とりあえず精肉店に向かおうとして、異常に気づいた。
ぽっかりと人の流れに穴が開いている。夕食前のこの時間、商店街には人がごったがえしているというのに。冥の周囲だけは、彼女を避けるように広々とした空間が出来上がっていた。
「あーもう本当に苦労した。ようやくみつけたよ。てこずらしてくれるよね、キミって」
圧倒的なプレッシャー。少女のような高い声でそう頭をかきながら冥の前に少年が現れた。
夕陽を反射させるような美しい金の髪。細面、鼻筋も通り、瞳も大きい。年齢にして十五、六程度の少年にしか見えない……その笑顔の裏に隠された悪意を覗いてだが。
本能が冥を一歩後退させた。恭也ほどではないが、目の前の少年が放つ圧力は十分に異常。他に類を見ないほどの、強者。
「一ヶ月もよくぞまー逃げ回ったものだよ。素直に賞賛する。けど、そろそろ鬼ごっこは終わりさ」
「お、お前は……」
「あれ?もしかして分かんない?って、ああ。フード姿は流石に目立つから脱いできたんだっけ。僕は漂流王。末席とはいえ、頂点に君臨する王の一人だよ」
パチリと漂流王と名乗った少年の周りで空気が爆ぜる。ごくりと口の中にいつのまにかたまった唾液を嚥下した。
以前見たときはほぼ全身を覆うフードつきの姿だったのだが、まさか中身がこんな少年だとは考えもしなかった。意外といえば意外だ。もしかしたらそう思われるのが嫌で姿を隠していたのかもしれない。
「人除けの魔術もめったらやったら疲れるし、悪いけどささっと終わらせちゃうよ」
ゴゥと黒い闇が音をたてて周囲に荒れ狂った気がした。にこにこと場違いに笑う漂流王が手を翳すとちりちりとした圧迫感が冥を襲う。
冥が構える。まさかこんな人が大勢いる所で襲ってくるのは完全に予想外。焦りが隙を生む。
その隙を逃すほど漂流王は甘くない。ニィと口元を吊り上げると、地面を蹴り……一歩進んだ所で止まった。そして、背を向ける。それに拍子抜けしたように呆然とする冥。
「いやいや、流石に人除けの結界張ってても派手に暴れたら直ぐにばれちゃうからやらないよ?実は伝言を伝えにきただけなんだ」
「……伝言?」
「そそ。悪いけど、今夜あそこにきてよ」
そう漂流王は遠くに見える山の一つを指差す。
「国守山だってさ。僕は名前知らなかったんだけど、ここらの地理にやけにあいつが詳しくてね。あそこの頂上付近に大きな湖があるんだ。そこでキミを待つよ?」
「……素直に行くと思ってるの?」
「ん?ああ、別に来なくてもいいよ。そのときはキミを匿っていたあの人間を殺すだけだから」
「っ!!」
唇を噛み締める。よほど強く噛んだのか血の味がした。
「逃げたらキミの大切な人間を殺す。助けを呼んだらその相手を殺す。誰かにしゃべったらしゃべった相手を殺す。ただし、誰にも助けを求めずにあそこにくるのならキミを匿った人間には手出しはなしない。約束する。それを分かってるなら好きにしていいよ」
無邪気に、漂流王は顔だけ後ろをむけて微笑んだ。
「僕たちはあくまで裏の世界の住人さ。表に出るわけにはいかない。だからキミ一人殺すのにもこんな苦労しないといけないんだけどさー」
パチンと指を鳴らすと周囲の不可思議な空気が消え去った。人のざわめきが戻ってくる。冥の周囲にあいていた穴を埋め尽くすように人の流れ押し寄せる。
今更表の世界で生きようなんて思い上がりも甚だしいよ……そう冥の耳に不快気に響く声を残して漂流王は人の流れに飲み込まれ姿を消した。
残された冥は呆然と漂流王が消え去った方向を見つめていた。どれくらいそうしていただろうか、ドンと後ろから通行人にぶつかられ。我を取り戻す。
幽鬼のようにふらふらと人の流れから外れ、路地裏に逃げ込む。壁にもたれかかり呼吸を整えようと深く深呼吸をした。
覚悟はしていた。夜の一族の頂点と戦うことを認識していた。
それでも、実際に目の前にすると、奥底に隠していた恐怖が蘇る。勝てるのか?本当に?夜の一族の頂点の中の頂点に。
可能性は甘く見ても五分五分。それも自分だけが死ぬのならまだいい。恭也を道ずれにしてしまう。本当にそれでいいのか?
ぐるぐると思考がループする。気持ち悪くなり、吐きそうになる。路地裏の更に奥に入り、えずきそうになりながら地面に座り込む。
「うん。ちゃんと手入れをしているようですね?綺麗な髪の色ですよ」
ひたりと冷たい手が冥の首に触れた。びくりと震えた。気配もなく、先日海鳴臨海公園で出会った、得体の知れない白銀の女性が相変わらず片目を瞑り冥の背後で嗤っていた。
「ぅ……ぁ……」
「元気そうで何よりですね?子供は元気が一番ですよ?」
逃げ出せない。もし逃げ出そうとしても、動こうとした瞬間、自分は死んでいるだろうという予感。そして限りなく事実。
この女性は強い。とてつもなく。そう、漂流王よりもさらに。本能が理解する。
ズキンと首筋が痛む。熱い。激しい熱を感じるがそれも一瞬。ぱっと女性は冥から手を離すと距離を取った。
「大丈夫ですよ。私は貴方に直接は手を出しませんからね。貴方を相手するのはあくまで漂流王と【彼】です」
「はぁ……はぁ……」
漂流王と白銀の女性。二人の尋常ならざる気配に連続してあてられたせいで息が乱れる。とても平常心ではいられない。
冥はできれば女性から離れたかった。だが足が言うことを利かない。座り込むようにして地面に膝を着く。
「何を迷っているのですか?少女よ、貴方は」
「ボクは……」
冥の心の迷いを見透かしたように嗤いながら女性は路地裏の出口へと足を進める。
「簡単な話じゃないですか?貴方が逃げたら少年は死ぬでしょうね。何せ【彼】と漂流王。二人がかりです。勝てるはずがないですよ?では、少年と二人で戦いを挑みますか?勝てるかどうか分からない戦いに?」
「……」
「ああ、勝てないですよ。だって、もし仮に少年と貴方が戦いに挑んだら私も参戦しますからね?勿論、貴方達と敵対する立場で」
「な、なんで!?前は手を出さないって……!!」
「物事は常に動いているのですよ?先日はそういいましたが、今は違うわけです」
あっさりと冥を絶望に叩き落す台詞を口にした。もし、戦いを挑むなら自分も参加すると。勝てる可能性などあるはずがない。二対二でさえどうなるかわからないのに、そこにこの女性が加わったら敗北は必然。
「私は一応【彼】と随分長い付き合いですからね。肩入れくらいはさせてもらいますよ。ああ、自己紹介がまだでしたか。少年から聞いていませんでしたか?私の正体を」
「……聞いてないよ」
そうでしたか。と嗤い、右手にしていた手袋を取る。その右手の甲には数字が刻まれていた。Ⅲという数字が。血のように赤い数字が。
息が詰まる。その数字が刻まれている意味。それは、つまり……。
「初めまして、ワーキャットの少女よ。私は頂点の一人。始まりの三人。第三位の【天眼】です。短い間ですが宜しくですよ?」
ガラガラと冥の地面が罅割れて、底知れぬ闇のなかに落ちていくような、絶望を感じさせられた。
何故、こんなところに。頭の中を駆け巡る疑問。
「私は少年が殺されないためにきただけなんですよ。少年以外はどうでもいいのです。この海鳴全ての人間が死のうが、少年さえ生きていればそれでいいですから―――」
にこりと、嗤った。
「貴方一人で死んでくださいね?」
どこをどう歩いたのか覚えていない。
気がついたら高町家の方へ勝手に足が向かっていた。本能的に恭也に助けを求めていたのだろうか。
ふらふらと、土気色になった顔で歩く冥を心配してか、通り過ぎる人たちほぼすべてが心配そうに振り返る。
―――はは、そんなに顔色悪いのかな。
力なくそう思考する。もうすぐ夕陽が沈む。戦うことにするか、諦めるのか、もう決める時間は残り少ない。
せめて恭也に一目で会いたいな……そう考えながらふらふらと歩く。夕闇が辺りを支配していく中で、冥は横断歩道を隔てた道路の逆側に恭也の姿を見つけた。
まだ恭也は気づいていないようだ。声をかけようとした、その時。
「やぁ。恭也じゃないか。元気にしてたかい?」
「あれ、恭也君。お久しぶりですね」
そんな女性達の声が聞こえた。遠めにでも分かる美しい二人の女性が恭也に話しかけていた。
冥の知らない女性。その仲よさげな様子から随分と親しいのだろう。
そんな恭也と女性達を見ていてようやく分かった。理解した。
恭也はこちら側に来る必要はないんだ、と。
元々は夜の一族の問題。それに人間である恭也がでてくることはない。
生きるか死ぬか、そんな命をかけるギャンブルのような戦いに参加することはない。
そして何より……初めて愛した男を危険に晒したくない。
先ほどまでの陰鬱な表情は消え去った。覚悟を決めた表情で冥は踵を返す。恭也から。
数歩踏み出した所で足を止める。振り返りたくなる欲求を振り払った。もし、ここでもう一度恭也の姿を見たら決意が鈍る。
決めたのだ。恭也を巻き込まないことを。
見習おう。恭也の鋼の意思を。愛した男の心の強さを。
「有難う、恭也。そして、さようなら」
決して届かぬかすれるような、だが決意のこもった言葉は誰の耳に届くのでもなく、夕闇に消えた。
一人夕闇に消えた少女……冥を影から見送る一人の女性。第三位の天眼。
嗤いながらその背中を見つめていた。
「うまくいきましたね。これで新たな道筋ができましたよ」
そして、遠くで銀髪の妖精達と話をしている恭也をみやる。
「後はどのタイミングで少年を導くかですけどね。最も効果的なのは何時でしょうかね?」
楽しそうに、嬉しそうに。まるで我が子を見やるかのように慈しむ表情で。まるで己の愛した男を見やるかのように恋慕の表情で。
「少年に乗り越えてもらいますよ。数多の親しき者の屍山血河の未来の道程を―――」
狂ったように微笑む天眼は音もなく、気配もなく、夕闇と同化するように姿を消した。