「くっく……すげぇな、小娘」
相馬と宴と幾らかの距離を取って構えているレンを評価するのならば素晴らしいの一言だろう。相馬とて例外ではなく、レンのことを素直にそう賞賛した。
見たところ年の頃良いところ十三か十四。大きく外していることはないはずである。
その歳の少女が相馬をここまで驚かせ、立ち姿に見惚れさせることなど今までの生涯を思い返してもあったであろうか。
正直な話、たった一人だけだ。御神琴絵ただ一人。己の姉であり、天性の才能をもった御神の異才。
レンはその琴絵を思い出させるほどのモノであったのだ。
見るだけで分かる絶対的なまでの才。あらゆる凡人の夢や願い、そして努力を奈落に突き落とすであろうほどの極み。
それをこんな日本の片隅で見つけることになろうとは予想だにしていなかった。
恐らく後数年もすれば間違いなくその名を世界に轟かすことができるだろう。
近いうちに五指拳に数えられてもおかしくはない。あの、巻島十蔵をも凌駕しかねない素材。
そんなレンを前にして相馬の口元に浮かんだのは皮肉気に歪んだ笑みであった。
確かに凄まじいまでの才能だ。
剣才と武才。方向性が違うので比べることは可笑しいのかもしれない。
それでもレンから感じるのは、或いはあの琴絵をも凌駕しかねない圧倒的なまでの才覚。
凡人が一をいくあいだに百をいけるほどの天才。
まさに……神に愛された才能。
だが、俺の前に立つにはまだ早すぎる!!
「運がなかったな。今のお前では俺にはおよばねぇよ」
「……」
相馬の嘲笑に対してレンは無言。
僅かな隙も作らぬように、僅かな隙も逃さぬように、レンは極限にまで集中していた。
そんなレンを面白そうに窺う相馬が、足を踏み出そうとして何かを思いついたように視線を横にずらした。
その隙を狙うかのようにレンが動き出そうとしたが、足が踏み出せない。
確かに視線をレンからずらしてはいるが、あれは隙ではない。
もし踏み込み相馬にむかっていたならば、斬り倒される。そんなイメージがレンの頭に浮かんだ。
相馬の視線の先にはポリポリと頬をかいている宴の姿があった。
視線が自分に向いたと分かった宴が不思議そうな表情で首を捻る。
疑問符が周囲に浮かんでいそうな表情であった。
「丁度良い。宴、お前あいつとやれ」
「ええ?いいのかにー?おとーさまの相手取っちゃって?」
「構わんよ。確かに面白そうな相手ではあるが……まだ青い」
「よーし!!宴ちゃん頑張っちゃうぞー」
左手を右肩において、ぐるぐると回す。芝居がかったその様子に相馬は失笑した。
そして、相馬はもう一つ宴に付け加える。
「ああ。武器は使うな。無論暗器もな」
「……ハィイ?」
「素手でそいつを倒して見せろ」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!何その罰ゲーム!?」
首を激しく横に振るう宴。
勿論武器を使わない戦闘方法は嫌というほど叩き込まれている。だが、結局の所宴の得意とするのは小太刀を使った剣術だ。
それに対してレンは一目見れば分かるが無手の、恐らく中国武術を得意としている。
つまり相馬はこういっているのだ。
ハンデありでレンを倒せ、と。
「それはちょっと厳しいかなー、なんて宴は思っちゃうわけなんですが?」
「いいからさっさとやれ。安心しろ、骨は拾ってやる」
「全然安心できないんですけどぉぉぉぉおおお!?」
宴の反論を一蹴すると相馬は近くにあった庭石に腰掛ける。
そんな相馬の様子に幾ら反論しても無駄だと悟った宴はため息をつくと改めてレンに向き直る。
視線鋭いレンの姿に宴は再度ためいきをつくと、首を軽く捻った。
「おとーさまは相変わらず何考えてるかわかんないんだけど……こうなったら仕方ないですかねー。私が相手しますよ。私は御神宴。よろしくですよ、異端の天才さん」
「……み、かみ?」
反射的に聞き返すレン。
今目の前の少女はなんと言ったのか。聞き間違いなのか?
違う。本当はしっかりと聞き取れたのだ。
確かに目の前の少女はこう名乗ったのだ、御神と。
これは偶然なのか。そんなわけがあるはずがない。
御神などという苗字がそこらに転がっているほどありふれたものではない。
それに、向かい合うだけで分かる桁外れの強者。
なのはへの暴行に加え、この吐き気を催すかのような血の匂い。
相馬から感じるのはどう見ても友好的な態度ではない。
明らかにこちらを……殺しに来ている。宴のほうは正直良く分からないのだが。
考え付くことの結論は唯一つ。
この二人は恭也の敵ということだ!!
「っ……」
宴が息を呑む。
レンが確信を持った瞬間、さらに気配の質と量が変化したのだ。
恭也の敵だと理解した瞬間にレンの意識は極限にまで研ぎ澄まされた。
ここで止める、と。自分がここから先には行かせるものか、と。
太陽が沈みつつあり、薄暗くなった周囲。
だがはっきりと二人は互いを感じ取っていた。
分かるのだ。実力が下手に拮抗しているぶん、僅かでも集中力を切らしたほうが負けると。
そんな二人を離れた場所から見ている相馬は口元をゆがめている。
二人の力は確かに拮抗しているように見えるかもしれない。例え武器を使用しないとはいえ、無手の宴の実力は桁外れだ。
その宴に匹敵するレンの方こそ異常なのだと相馬は評価する。
それでも、宴のほうが確実に強い。そして全力で十回戦えば九回は宴が勝つ。
それだけの差が二人の間には横たわっているのだ。
だからこそ相馬は宴とレンを戦わせようとしたのだ。
油断すれば負ける。僅かな油断もなく、集中力を切らさずに戦ってようやく勝ちを拾える相手。それほどの敵。
その戦いでの経験値は計り知れない。百度の格下の敵との戦いよりよっぽど経験となる。
睨み合う事一分。
二人は互いに牽制しあって動こうとしない。
それに痺れをきらしたのは向かい合っている宴とレンではなく、腰掛けている相馬であった。
服のポケットに手を突っ込むとジャラジャラという金属音が聞こえた。先ほど自販機で飲み物を買ったときのお釣りを入れていたのをふと思い出す。
その中から百円を取り出すと右手の親指で弾く。奇妙な音をたてて空へ弾き飛ばされる。
クルクルと幾度も回転を繰り返し、放物線を描きながら宴とレンの丁度中間へと落ちていく。
その落ちていく速度が二人にはスローモーションのようにも見えた。
そして、その百円が重力に負けて地面に落ちた丁度その瞬間、二人が動いた。
聞こえたのは地面を蹴った音だけだった。
二人が丁度中間で交差する。放たれた拳を二人とも防ぐわけでもなく、紙一重でかわして見せた。
互いの耳に聞こえたのは拳が空気を引き裂く音。ミリ単位で互いの拳が自分の顔の真横を通ったのに全くの躊躇いもなかった。
拳を引き戻す間もなく、宴の蹴り足が跳ね上がる。狙いは一目瞭然。レンの顎先に襲い掛かる剣のように鋭い蹴り足。
それを予想通りといわんばかりに上半身を反らして避ける。そのままレンは宴に踏み込もうとして、その場にとどまった。
それはレンの本能がなせる勘だったのか。跳ね上がった蹴り足が踵落しとなって同じ軌道を描いて落ちてきたのだから。
ゾクリとレンの背筋が泡立った。普段晶と戦っているときとは全く異なる戦闘。
一歩間違えれば確実に死ぬ。それだけの気迫と力が宴の攻撃には宿っていた。
そんなレンの思考を押しつぶすように、流れるような動きで振るわれる裏拳。
その裏拳を受け止めようとして、再度本能が警鐘をあげた。その一撃を受け止めるな、と。そう頭の中で叫んだような気がした。
やや強引に上体を下げる。頭の上を通り過ぎる拳。
見るだけならば、受け止めることなど容易いかもしれない。だが、その拳に秘められた威力にレンは気づいた。
幾度となく見た、恭也と美由希の戦い。その中で使われていた技術。
衝撃を相手に完全に徹す技。徹と恭也達が呼んでいたそれが、宴の拳に眠っていたのだ。
ガードは不可能。例え打撃を防いだとしても、防いだその上から伝わる衝撃までは防ぎきれない。
なんともはや、レンにとって随分と不利な状況であった。
だが、レンの瞳に揺らぎはない。その視線は鋭く宴を射抜いたままだ。
防ぐこともできないのならば、全てかわしきればいいだけ。
それがレンの辿りついた答えであった。
高町家の空間を打つのは、二人の無言の気合。
地面の土がめくれ、上に向かって弾けとんだ。それはレンが地面を蹴った衝撃だった。
瞬間移動というに相応しい速度で肉薄したレンにたいして、宴は僅かな驚きとともに、レンの顔に向かってカウンターとなる正拳を放った。
しかし、レンはその拳を再度首の脇へと流しつつ、その宴の腕の半ばに片手をあてる。
その瞬間、がくりと宴が体勢を崩したかのように前のめりとなった。それはレンが片手をあてたと同時に服を引いたからだ。
そのままレンは宴を引き寄せるように引っ張る。そのまま空いている片手で宴の喉に向かって突き上げた。
常人では何が起こったか理解できるはずもない一瞬の攻防。その一撃が宴に決まるかと思われた。
その瞬間、レンの世界が回った。比喩ではなく現実に、だ。
空が下に。大地が上に。宴の姿も上下逆に。視界の端に映る高町家もまた普段とは正反対に。
一拍の間もおかずにレンは理解した。自分が投げられたのだと。
どちらが地面なのか普通ならば分かるはずもない。しかし、レンの常人離れした平衡感覚が平常な世界を取り戻そうと、反射的に両足が大地を掴んだ。
それに驚いたのは宴だ。まさか受身を取るどころか、一瞬で体勢を整えるとは思ってもいなかった。
地面に蹲ったような状態から、レンが後ろへと僅かに跳んだ。
追撃にと放った回し蹴りがレンの居た空間を薙ぎ払っていた。その動きに舌を巻く。
そして、その薙ぎ払った回し蹴りに手を当てたレン。嫌な予感が宴を襲った。
まさか、と宴がそんなレンの動作に驚く間もなく―――宴の世界が回転する。
先ほどのレンと真逆。今度は宴の世界が上下へと変化した。
「っこの程度ぉぉお!!」
リプレイを見るかのように宴もまた空中で回転。ざざっと地面をこする音をたてて宴が地面に降り立つ。
ほっとする間もなく宴の背筋を悪寒が襲う。視界には居ないのだ。己と戦っているレンが。
とんっと軽く何かが背中に押し当てられる音と感覚。
反射的に強張る全身の筋肉。
「これで―――終いや」
爆発的な踏み込みとともに打ち出される拳。あまりに強く踏み込んだために地面に靴がめり込んでいた。
その拳が宴の背中を穿ち貫こうとした刹那、レンは信じられないものを見る。
レンが放とうとした、否、はなった拳よりなお速く、宴がその場から姿を消していた。
いや、見える。その場から跳躍。突き出されたレンの腕を後ろ手に掴むと、空中で華麗に回転して、そのまま蹴り足がレンに向かって降り注いだ。
レンは強引に宴の手を切ると前方に転がるように逃れた。
宴は追撃をするでもなく、転がって即座に体勢を整えたレンを見ていた。
その胸中にあるのは、純粋な尊敬。
自分よりも年下であるにもかかわらず、ここまで己と渡り合える相手はこれまで存在していなかった。
それは、刀を使わない状況でも例外ではない。
相馬に叩き込まれた武は、それほど安っぽいものではないのだ。
或いは目の前の少女は自分よりも過酷な鍛錬を行っているのか……と疑問がわく。
そしてそれを宴は否定した。
確かに鍛錬は行っているのだろう。だが、それはあくまで常識の範囲内で、だ。
この少女は、鳳蓮飛は、単純な才能だけで自分と渡り合っているという事実。
その事実を知ってなお、宴はレンのことを凄いと思った。
宴もまた、恭也と同じように、レンの底知れぬ才に、嫉妬ではなく尊敬を覚えたのだ。
「さぁ、続きをしようよ!!キミの力を!!私に見せつけてよ!!」
「……!!」
嬉しそうに笑い、誘うように両手を広げた宴に対して、レンは無言のまま立ち向かった。
そんな二人の戦いを見ている相馬から笑みが消えていた。それとは逆に訝しげな表情で首を捻る。
……おかしい。
そう相馬は考え込むように掌で口元を隠すようにして視線をレンに向ける。
目の前で行われる高速の戦い。
二人の戦う姿が昇華され、演舞にも見える美しい戦い。
宴の攻撃を悉くかわしきる、レンの見切り。それは素晴らしいの一言だ。
宴の攻撃を避け、受け流し、一撃たりとももらってはいない。勿論それだけではない。さらには僅かな隙ともいえない間に反撃まで加えている。
それに対して宴は悔しがるでもなく、レンのその行動に嬉しそうに反応している。顔は笑っているが、手を抜いてるとかそのようなことは一切ない。
正真正銘の全力。
無手とはいえ御神宴の全力をレンは捌ききっているのだ。
相馬の読みでは、レンはここまでではなかったはずだ。
確かに強いが―――宴の猛攻をあそこまで完全に捌くことができるとは予想もしていなかった。
「俺が、読み間違えた、か?」
ぽつりと思わずもらしたその言葉。
それは確かに珍しいかもしれない。この十数年、数多の猛者と戦い続けてきた相馬が相手の力量を見誤るなど滅多にない。
大概の相手は力量をかくしていることも多いが、それでも相手がどれくらいの力を隠しているかそれなりにわかる。
だが、レンは最初から全力だったのだ。隠す必要もないと、宴と相馬の前に立ち塞がったのだから。
だというのにレンの力量を見誤ったということは腑に落ちない。
何か、何か大きな落とし穴を見過ごしているのではないか、という不安が相馬を襲う。
宴とレンの戦いを視線でおっているその時、レンの動きが明らかに、確実に速く鋭くなっていく。
戦いの最初は宴のほうが確実に上回っていたというのに。
攻めの比率も宴のほうが遥かに勝り、レンは防戦を主においていたというのに。
今では互いの攻防比は互角になりつつあった。
そんなレンの動きを見ていた相馬は信じられない光景を、視界に捉えた。
レンは、一瞬。それこそ数コンマ一秒とはいえ視界の端に相馬を映していたのだ。
何時相馬が自分に攻撃をしてくるか分からない。だからこそレンは宴と戦っている最中にもかかわらず、相馬に注意を割いていたのだ。
ドクン、と相馬の心臓が胸を打った。
そして理解した。
この不可思議な光景が何故うまれたのかということに。
「……ありえねぇ、だろうが」
相馬が知る限り、そして認める限り、天才と呼ぶに相応しい人間は生涯において十人いるかどうかだ。
それを少ないと見るか多いと見るかは人にもよるだろう。
といってもその殆どはすでにこの世には居ない。
当然だ。その大部分をあげるとすれば、今は亡き御神の者達であったからだ。
不破士郎。不破一臣。不破美影。不破美沙斗。御神静馬。それに―――御神琴絵。
別に相馬は相手の才能や実力を認めない、ということはない。逆に強き者、才ある者には好意を抱く。
だが、それは勿論、自分の方が強いという前提があってこそなのだが。
相馬は強い。それだけは事実であり、確かなことだ。
才能だけではなく、意外かもしれないが鍛錬も怠ることはなかった。
恭也が語ったように、相馬は才能だけではなく努力も行う人間であった。人間性は認めることはできないのだが。
そんな相馬が己より確実に才能が上だと思った相手はただ一人。それが姉である御神琴絵。
病弱の身であったために鍛錬などほぼできなかったその身で、数分とはいえあの御神静馬や不破士郎と渡り合えるなど、どれだけ常軌を逸した戦闘能力だったことか。
御神の天才達が努力に努力を重ね、長い年月を経てようやく至れるその境地に、苦もなく踏み込んでいるふざけた剣才。
それでも、やはり努力というものは大きかった。
剣才で劣ってはいても、努力を重ねた相馬のほうが琴絵を上回っていたのだから。
だが、内心は琴絵の剣才を疎ましく思ったのもまた事実。
だというのに、それだというのに―――。
「お前は、一体なんだ、鳳蓮飛!!」
怨嗟のような声が相馬の口から漏れた。
相馬の読みは正しかったのだ。全くもって完全にレンの力量を読んでいた。
宴とレンが戦えば確かに十中八九、宴が勝っただろう……そう、それは戦いの最初までの話だが。
レンは宴と戦っている最中に成長していったのだ。いや、それはすでに進化とも呼べるだろう。
一分、否、一秒単位でレンは凄まじい勢いでその実力をあげていっていた。
そのレンの才能は、相馬の知る天才達を遥かに凌駕している。
相馬はレンのことを凡人が一をいくあいだに百をいくと、称した。
だが、そんなレベルではない。桁が違う。こいつは、凡人が一を行く間に、千をいく!!
御神琴絵に匹敵?
馬鹿が、そんな話では既になくなっている。
神に愛された才能?
違う。こいつのこの武才は……。
神をも恐怖させるほどの、武才!!
「理解したぜ。何故今更こんな所で馬鹿げた小娘に会ったのかな」
相馬は一人ごちると座っていた庭石から立ち上がる。
ゴキリと、手を鳴らして、禍々しい笑みを浮かべた。
「今ここでこいつを殺せっていうことか。未だ未熟なこのときに、完膚なきまでに殺しつくせと、そう世界が望んだわけか」
そういう意味で相馬は感謝した。
今ならば確実に相馬はレンを殺すことが出来る。
確かに凄まじい勢いで力をつけていっているが、それでもレンの力量は相馬には及ばない。
殺すならば、今が好機であるのだ。
相馬が戦っている二人に近づこうとした瞬間、黒く鋭い殺気が弾丸となって突撃してきた。
今の今まで全くといっていいほど気配を感じさせなかった存在の奇襲。それに舌打ちをして瞬時に抜いた小太刀を背後に向かってきた相手に斬りつける。
刀と刀。金属が弾きあい、耳障りな刃鳴りが響き渡った。
予想外の手ごたえにピクリと頬をひきつらせる相馬。
一刀のもとに斬り伏せるつもりだったが、防がれるのは少々意外であった。
相馬と小太刀を噛みあわせているのは、美由希だ。
すでに眼鏡を外し最初から戦闘態勢に入っている。
高町家に帰ってきてみれば、その随分と手前から感じる異常なまでの気配。しかも知らない気配が二つ。
片方は明らかに不吉な匂いを漂わせていた。そう、あの天守翼よりもなお、深く暗く、血に濡れた殺意に満ちた気配。
だからこそ美由希は気配を消して、慎重に慎重を重ねて、高町家にまで忍んできたのだ。
窺ってみればレンと戦っている見知らぬ少女が一人とそれを見物している男性が一人。一目見るだけで分かった。
その座っている男性はナニかいけない存在だと。確実に敵だということが確認するまでもなく分かった。
そして玄関の手前から、男性が立ち上がったところを狙って、完全に気配を消してからの奇襲。
だというのに、その一撃を容易く防がれた。
美由希を襲う動揺。
皮肉にも、相馬と美由希の両者とも互いの一撃を防がれたことに驚愕していたのだ。
美由希は動揺を消すと、二刀めの小太刀を抜き相馬を斬りつけようとした瞬間、言いようのない悪寒に襲われて、飛びのいた。
その行動は正解であった。美由希が小太刀を抜くよりも早く、相馬の小太刀の方が抜かれていたのだから。
向かい合う相馬と美由希。
相馬が纏う禍々しい殺気に対しても美由希は怯むことはなかった。
質は異なるが天守翼のあの凶悪な殺気でを散々浴びたせいで、このような異常な気配にも耐性ができていたようだ。
感謝するかどうか微妙なことではあるが。
相馬は自分に斬りつけて来た美由希を一睨みして、眼を細めた。
細めること数秒、口元を楽しそうに歪める。
「くっ……そうか、お前がそうなんだな。一目見てわかったぜ。確かにお前はあいつの娘だな、御神美由希」
「……貴方は?」
楽しそうな相馬に向かって、敵意を剥き出しにして美由希は答える。
それも当然だろう。御神の名を知っているものは数えるほどだ。ましてや相馬の只ならぬ気配。明らかに友好的とは言い難い。
先日の戦いもあったので、もしかして永全不動八門の手の者かとも頭に浮かんだが、首を振る。
相馬が両手に持つのは小太刀。一合とはいえ刃を合わせ、対峙したからこそわかる。目の前の男は……御神流の使い手なのだと。
「俺のことを聞いたことはないか?と、自分で言っておいてなんだが、そういえば俺が御神の一族を追放されたのはお前がまだ物心つく前だったか。覚えているはずもねぇな」
「つい、ほう?」
「ああ。もう十数年も前の話さ。まぁ、美沙斗が俺のことを話すわけもないし知らないのも当然か」
「まさか……御神、相馬さんですか?」
「……なんだ、知ってたのか」
美由希の答えに心底意外そう顔をする。
対する美由希もその予想外すぎる相手に一瞬とはいえ呆けた顔になる。
それもそうだろう。まさか何時ぞやに恭也に聞いた、かつて御神流最強をほしいままにした剣士が目の前に居るのだ。
本物かどうか美由希では判別つけることなどできるはずもない。
ただ……確実に言える事はがある。
それは―――目の前の御神相馬を名乗る剣士がとてつもなく強いということだけだ。
弓から放たれる寸前の矢のように、限界まで引き絞った射抜きを、奇襲される寸前まで気づかなかった筈の相馬が軽々と小太刀を抜いて弾いたのだ。
そんなことができる剣士が果たしてどれだけいるだろうか。
恭也ならば可能だろう。美沙斗でもできるだろうか。水無月殺音だったら笑ってこちらが弾き飛ばされそうだ。では天守翼ならばどうだろうか?
あの少女もまた底が知れない。できても不思議ではないだろう。
つまりは、それだけの力を持った剣士。
美由希では掴みきれないが、かの剣士達に匹敵すると見ても可笑しくはない。
「美沙斗からでも俺の話を聞いていたのか?」
「……貴方のことは師から聞いています」
「師、だと?士郎の奴か……?」
「……いいえ。高町恭也。いえ、不破恭也といったほうが分かりやすいですか?」
「不破、恭也?あの小僧が……お前の師だと?」
何を言っているんだ、とそう目が語っていた。目は口よりもモノを言うというが、実にそれを表現している。
相馬が驚くのも当然だろう。相馬が覚えている限り恭也と美由希の歳の差は三つか四つ程度のはずだ。
その程度の年齢の差で、恭也のことを師を呼ぶのかと。疑問に思っても仕方のないことだろう。
だが、それを裏付ける事実をすでに相馬は調べていた。
すでに不破士郎は亡くなっている。
それはもう十年近い昔の話だ。
だからこそ相馬は恭也と美由希の腕前はたいしたことがないと踏んでいたのだ。
当然だ。不破士郎という師が亡くなり、一体どうしろというのだ。
年端もいかない少年少女がどう強き剣士になるというのだ。
そう相馬が考えるのが普通なのだ。まさか、十歳を越えたばかりの少年が地獄の道を歩き続けるなど誰が想像しえるだろうか。
それも強制されるのではなく、確固たる己の信念の下にて。
そしてたった一合の打ち合いで分かった美由希の腕前。恐るべきもの。
かつての御神の剣士達をも上回るほどの力量。この歳で、これほどの境地に達しているのは驚愕に値する。
娘である宴と戦ったらどうなるか……。
そう考えた相馬の頬を冷たい汗が流れ落ちた。
そんな相馬がふと周囲の暗闇に気づく。すでに陽は落ちて、世界は闇に包まれていた。
どうやら海鳴にきて随分と時間が経っていたようだ。
その暗闇を見て、相馬はやれやれと安堵のため息をつく。
「ぎりぎりセーフといったところか。まさか御神美由希、お前がこれほどとは正直思っていなかった。世の中は分からんもんだな」
「……?」
「おい、宴。何時まで遊んでやがる。前言撤回だ。刀と暗器の使用を許可してやる。さっさとそいつを片付けろ」
意味がわからない相馬の発言に疑問を抱きつつ、美由希は相馬と、戦っている宴とレンの戦いを視界の端におさめる。
相馬の声が聞こえていないのか、宴とレンの戦いは止まる事を知らず、逆に加速していく。
宴の放つ拳をかわし、蹴り上げられる足を捌き、その猛攻全てを避けきるレン。
その光景を見て、再度背筋を粟立たせる相馬。
そして……美由希。
先日までのレンとは次元が異なっているその動き。
恭也が語った天才。純粋なまでの才能。それが完全に開花したのだと美由希は悟った。
美由希はレンのことを天才だと認めている。だが、それは甘かったようだ。甘すぎたようだ。レンの天性の才を甘く見すぎていた。
確かに恭也の言うとおりだ。レンの才能は、桁が違う。
そう理解できるほどにとびぬけた絶対の才能。
レンと戦っている少女―――相馬がいうには宴というらしいが、その少女は強い。はっきりいって美由希と同レベルと判断しても差し支えはないだろう。
だというのに、レンは宴と互角に渡り合っているのだ。驚愕以外どうしろというのか。
「宴、聞こえているのか!?そいつを―――」
「五月蝿い、よ!!おとーさま!!私とこの娘の戦いを汚すんじゃない!!」
相馬に対して怒鳴り返す宴。その表情はぎりぎりの戦いをしているというのに逆に活き活きと輝いていた。
レンも先ほどまでは相馬に注意を払っていたが、美由希が相馬と向かい合っているおかげで、完全に宴に集中することができ、さらに動きに鋭さが増していく。
そんなレンに、嬉しくてたまらないのか宴は嬉々として拳を振るう。
レンもまた、宴の猛攻を凌ぎつつ、感じるものがあった。
自分の力が段飛ばしで跳ね上がっていくのをはっきりと実感していた。
晶との手合わせとはまた異なる、たまらない高揚を確かにレンは感じているのだ。
それにこの少女は……御神宴は真っ直ぐなのだ。武器を使えば形勢はあっさりと逆転するだろう。相馬の言うとおりだ。
だというのに使おうとしない。全力で打ち合えるのが楽しいのだろう。きっとこの少女は強すぎたのだ。全力で戦えることなどなかったのだろう。だからこそ楽しいのだ。
レンと戦えることが。全力をだしても、その悉くをかわしきる、レンと戦うのが。
そう。晶のように真っ直ぐなのだ。戦いということに正直すぎるのだ。
そんな二人の様子に舌打ちをする相馬。
言うことを聞かない宴に多少の苛立ちを覚える。
「ああ、もうめんどくせぇ。本当は宴と御神美由希、お前を戦わせる予定だったんだがな……狂いっぱなしだ」
ごくりと美由希は唾を飲んだ。
相馬の放つ威圧感がさらに膨れ上がっていったからだ。
「もう当初の予定など、どうなろうが構わん。お前が死ねばあの亡霊は宴に宿るだろう」
それは深い深い影のように、黒い殺意だった。
禍々しいという言葉さえ、相応しくない。どこまでも呪われたかのような黒い気配。
美由希の視界に映るのは奇妙な光景であった。
相馬の周囲に展開する黒いカーテン。そう錯覚するほどに濃密な殺気の幻覚。
「とりあえず、お前は死ね」
そう相馬は酷薄な表情のまま、美由希に向かって絶望を告げた。
それと同時に相馬の身体がぶれて消える。
果てしない悪寒。かつてない死への予感。美由希の全身をそれらが包み込む。
「っ……!?」
夜の闇を斬り裂くのは一条の銀光。
超高速の踏み込みとともに振り払われた相馬の斬撃はあまりにも速かった。
横薙ぎにて、自分に迫ってきたその一撃を美由希は反射とも言える動きで弾き落とそうとして、その斬撃の重さに逆に弾き飛ばされた。
正確には美由希がその場から相馬の力を利用して跳んだのだが。
「御神美由希。せめて三十秒は持ちこたえろよ」
冷たい声だった。
慈悲の欠片など一片たりとも存在しない、絶対零度の声。
機械のように淡々として、人を斬ることに僅かな躊躇いも持たない。
その冷たさは―――天守翼を上回る非人間的なものであった。
必死になって距離を取ろうとする美由希の前髪が剣風で揺れる。
ハラッと幾つかの前髪が宙を舞う。完全には避け切れなかったようだ。
ダンッと地面を叩く音を残して跳び下がる美由希の眼前に、冷笑を浮かべた相馬が迫る。
たたみかけるように小太刀を振るう相馬。それから死ぬような思いで逃げ下がる。
相馬の斬撃は、力任せに振るっているわけではない。
その口調とは裏腹に緻密に連携して、台風のように荒れ狂う。
美由希を軽々と圧倒して小太刀による反撃はおろか、鋼糸や針を使う隙すら与えない。
その太刀筋の速さたるや、並の剣士では一太刀のもとで切り伏せられることは明白。
ある程度腕に自信があるものとて視認することさえできはしまい。
息つく間もない斬撃の嵐に押し込まれ、後退する一方だった美由希は気がついたら高町家の壁を背負わされていた。
相馬は単純に小太刀を振るっていたわけではない。巧妙に美由希の逃げ道を誘導していたのだ。
右か左か。どちらへ逃げるか一瞬の逡巡。
だが美由希は、どちらも選ばなかった。
真正面。無言の気合を発しつつ、小太刀を相馬に向かってはしらせる。
美由希のその判断に意外そうに、相馬は目を僅かに見開いた。
ぶつかり合う二人の小太刀。美由希の腕に激しい衝撃が伝わってくる。
―――徹。
自分を上回るその見事な技術に、美由希は唇を噛む。
手が痺れ、たった一合切り結んだだけで、勝算の薄さを美由希に叩き込んでくる。
その痺れからまともに斬りあうことはできないと判断した美由希が横っ飛び。逃げに徹しようと相馬から距離を取る。
相馬は逃げる美由希に視線を合わせ、滑るような動きで追い詰めてくる。
「良い動きだ。だがな、本気を早く出せよ。さもなくば死ぬぞ?」
「……ッ!!」
直後、美由希は上体を反らす。眼前を小太刀が薙いだからだ。
瞬く間に踏み込んできた相馬は、流水のように滑らかに小太刀を振るってくる。
美由希は、その斬撃を弾くでもなく、切り払うのでもなく、相馬に明らかに届かぬ距離で小太刀で空を払う。
闇夜に溶け込むようにして、美由希の服の袖から飛び出してくる飛針。
隠し持っていたその二本の飛針を普通ならば防ぐことはできなかっただろう。実に見事な暗器の技であった。
その二本の飛針を相馬は目を軽く細めただけで、特に驚くでもなく小太刀で叩き落した。
相馬が飛針に注意を払った一瞬の間に、美由希が間髪いれず、鋭く踏み込み、二撃を相馬に叩き込む。
美由希の斬撃もまた見事。
華麗な剣舞のように理想的な弧を描いた銀閃だ。、
しかし、相馬はその銀閃をことごとく弾き、防ぐ。相馬は冷静に美由希を観察していた。
弾きながら冷静に、美由希の太刀筋を見極める。
相馬が見る限り、美由希の腕前は相当なものだ。
戦う前に感じていた予想通りに、その力量は宴と互角か、それ以上。
御神の剣士としては一流。今まで戦ってきた裏世界の住人と比較しても上位に位置するであろうほどの剣士。
そう、予想通りに強い。あくまでも予想通り。
予想以上では決してなかった。自分にはあと一歩、いや二歩も及ばない腕前だ。
美由希の太刀筋は華麗だ。流麗だ。御神の剣士として余程の鍛錬を積んだのだろう。
才能もなければこれほどの剣士になることもなかったはずだ。レンと同じで素晴らしいとは思う。
だが―――怖くはない。
背筋を凍らせるような氷刃のような一撃が存在しない。
お前を殺す、という殺意の刃がそこにはないのだ。
「軽いな、お前の剣は。人を殺したこともないだろう?」
「っぁぁあああああああああ!!」
美由希はこれが返答だと言わんばかりに裂帛の気合を乗せて、縦横無尽に小太刀を振るう。
疾風の如く荒れ狂うその斬撃を、相馬は若干冷めた目つきのまま、無造作にも見える動きで、弾き続ける。
ギィンという耳障りな音をたてて幾度となく弾かれる美由希の小太刀。
歯を食いしばらねば今にも小太刀を落としそうになる。それほどに手の力が入らなくなってきている。
同じ徹でも質が違う。相手のほうが随分と上手なのだ。
短い呼吸音とともに繰り出された相馬の一太刀。
幾度目になるかわからないが、美由希はその一太刀から大きく跳び下がって逃れた。
その時、美由希を追撃しようとした相馬の動きが止まる。
尋常ではない殺気。いや、或いは鬼気と呼んだほうがいいのか。
美由希がこの戦いで初めて醸し出すその気配が相馬の動きを縫い付けたのだ。
別に相馬がその気配に恐れたわけではない。臆したわけでもない。
ただ、美由希が何かをするということを確信した。
恐らく、奥の手を出そうとしているのか。
そう読んだ相馬は警戒するように、美由希から距離を取るように軽く後ろに跳んだ。
軽い跳躍。ほんの十数センチ宙にうかび距離を取ろうとした相馬。
それを、その一瞬を美由希は見逃さなかった。
地面を蹴りつける音が凶暴なまでの爆音となって響く。
その音を相馬が聞いた瞬間には、すでに美由希の姿は幻のように霞み、消えた。
思わず目を見張った相馬の頭を、危険だという直感が鳴り響く。
空気を裂く音も聞こえず、超速度で迫ってきていた美由希の放たれた一矢の如き突きを、相馬が貫いた。
と、見ている者がいたならば誰もがそう確信をもてるほどの一撃を、相馬は首を捻ることで、かわしていたのだ。
そのまま美由希は残像を残しつつ、地面を抉りながら相馬の後方で止まり、体勢を整え第二撃へと映ろうと四肢に力を入れた。
その人外ともいうべき超速度。人の域を外れた領域に、相馬は本当に感心したかのように美由希へと振り返った。
「お前も、神速の領域の住人か!!」
返事をするまでもなく、美由希は意識を相馬だけに集中。
全身の力を爆発させ、夜を引き裂く飛影となって、駆け抜けた。
狙いはただ一人。相馬を打ち倒すために―――。
そんな美由希の突撃を止めたのは、重い斬撃だった。
神速の領域から弾かれるように、美由希は後方の地面に激突し、バウンド。
跳ねるようにして、体勢を整えた美由希だったが、ゴホゴホと幾度も咳き込む。
霞むような視線の先に、小太刀を横薙ぎに払った姿の相馬が見えた。
「無意識にしろ、今の一撃をも防ぐか。大したものだわ、お前は」
「今の、は、一体なん―――」
語尾は唇からあふれ出た吐血の中へと消えた。
ぽたぽたと水音をたてて地面を汚す。真っ赤な血が生理的嫌悪を引き起こす。
とてつもなく重い衝撃だった。そしてとてつもなく速い斬撃だった。
相馬の言うとおり防ぐことが出来たのは無意識が為した偶然。確認して防げたわけではない。
「別にたいした種や仕掛けがあるわけじゃないぜ。単純にお前より俺の方が神速を有効に使えるってだけだ」
「……っ」
なんでもないようにそう語る相馬は息を乱すわけでもなくゆっくりと美由希に近づいてくる。
だが、そこに油断は全くといっていいほどない。
美由希が付け入る隙は、相馬にはなかった。
「お前は強いな。御神宗家の名に恥じぬ、立派な剣士だ。だからこそ、誇って―――死ね」
相馬は一切の慈悲もなく、美由希に向かって小太刀を振り下ろした。
自分に振り下ろされるその白刃が、スローモーションのように見える。
とてつもなく速いはずのその一撃が、いつ自分を切り裂くのだろうかと思えるほどに鈍い。
それは神速の世界。
御神の一族の中でも限られた者しか到達できなかったといわれる破神の域。
身体中が水のなかにいるように重い。
それでもそれを引きちぎるように横に転がるようにして、相馬の一撃から逃れる。
一秒にも満たぬその瞬間で、美由希は神速の世界から抜け出した。
いや、正確には強制的に抜け出されてしまったのだ。
神速は身体中に多大な負荷をかける。多用できるような技でもない。
万全の状態でも一日に使えて数度。神速の域に入れるのは良い所二秒程度。
現在の美由希の状態では、神速の世界に入れただけでも御の字の状況だ。
「驚かせてくれるな。まさか、まだ神速の域に入れるか」
再度逃げる様に相馬から距離を大きく取る。
恐らく今の自分の状態ではもう神速を発動させることはできない。さきほどの神速で打ち止めだろう。
普通に考えれば勝ち目などもはやなし。
力も技も速度も、美由希は相馬には及ばなかった。
絶望して戦いを辞めても可笑しくはないこの状況で―――美由希は笑った。
力も技も速度も相手が上だからどうだというのだ。
私が何時も戦っているのを誰だと思っている。
高町恭也―――至高の剣士だ。
戦いを諦めるなど、師の教えにはありはしない。
自分より強き者と戦う術は、日常で幾万回も叩き込まれている。
何よりも、我が家族に害を為して―――無事ですむと思うなっ!!
そう、相馬は言葉にならぬ美由希の声が聞こえた気がした。
意気消沈するどころか、戦う前よりさらに膨れ上がる美由希の戦意。
相馬の数メートルほど前方にて、美由希は小太刀を鞘に納め、腰を落としやや前傾姿勢になった状態で相馬を睨みつけていた。
氷の視線で自分を見据えている相馬に、美由希は納刀したまま悠然と語りかける。その口元からはかすかに血が流れているのがわかった。
「どうしましたか、御神相馬さん?たかが十七の手負いの小娘如きに何を臆することがありましょうか」
くすりと馬鹿にするような笑みを浮かべて、口元から垂れる血を右手の親指で弾くように拭う。
そして、その掌を上に向け、誘うように優雅に差し招く。
それに、相馬の目が少しだけ据わった。躊躇いもなく、地面を蹴り、美由希に向かって飛び込んだ。
速い。速すぎる。風を纏って踏み込んでくるその速度は、すでに人と呼んでいいのか分からない。
一陣の風。疾風。まさしくそう表現するに相応しいものであった。
風を引き裂き、相馬は美由希の脳天に白刃を降らせた。
小太刀が美由希の頭蓋を無残にも叩き割る光景を予見していた相馬は、言い様のない激しい悪寒に襲われた。
小太刀には人の体を斬る感覚は無く―――感じたのは不快な金属音。
流れるような小太刀が舞った。
相馬が振り下ろされるより速く、抜刀された美由希の小太刀が頭上に迫ってきた小太刀を受け流し、ほぼ同時に引き抜かれたもう一刀が相馬にはしる。
到底防ぐことが出来ぬと思われたその抜刀術を、相馬は冷静に弾き落とした。
「ぁああああああああああああああああああ!!」
ビキィと筋肉が悲鳴をあげる。獣のような雄叫びとともに、強引にさらなる追撃を美由希は放った。
抜刀からの四連撃。
薙旋と呼ばれる、御神流奥義之陸。
恭也が最も得意とする斬撃奥義。
美由希の決死の覚悟で放った残りの二撃は、それでも相馬には届かなかった。
元々美由希は抜刀術が得意ではない。女性ならではの体の柔軟さを利用した突技を最も得意とするのだ。
恭也に基本だけ教えてもらった薙旋。完成度では射抜と比べるまでも無い。
相馬は追撃の斬撃も容易く弾き、美由希から距離を取った。
正直な話、相馬は驚いていた。
今の薙旋は明らかに未熟といえただろう。
それでも今までで一番相馬へと迫った一撃であった。それほどの思いと気合が込められた攻撃だったのだ。
「お前もやればできるんじゃないか、御神美由希」
「……ふふ」
相馬の褒め言葉に美由希は不気味な笑みで返した。そして相馬の右腕を指でさす。
その指された右腕を見て、絶句する。
相馬の右腕は、服を裂かれ、肌が露出していた。
見つめるさき、腕に入ったスゥとした線が斬られたことをようやく思い出したかのようにパクリと開き、血が滴り落ちた。
傷といっても深くは無い。幅も数センチ程度の切り傷……というには大きいが別に死ぬような大怪我でもない。
だが、それはこの戦闘で初めて美由希が相馬に与えた一撃だった。
傷つけられたのが信じられないのか呆然と己の腕を見続ける相馬。
「貴方は言いましたね。私の剣が軽い、と。人を殺したことがない剣だ、と。後半は認めるしかありません。私は人を斬ったことは確かにないのですから。ですが―――」
「……」
相馬が返すのは沈黙。
聞いているのかいないのか。どちらか分からないが美由希は 構わず続ける。
「私の師は言いました。強さとは、人を殺せるかどうかではない。人を殺せるから強い?人を殺せないから弱い?そんな馬鹿な話があるはずがない、と」
小太刀についた血を振り払うように軽く振る。
「人を斬ったことがあろうと無かろうと、強い者は強い。唯、それだけではないのですか?」
身体中は未だ重い。
鉛をつけているかのように、動きが鈍い。
神速の影響と、先ほどの強引にはなった薙旋のせいだろう。
「私は確かに人を斬ったことがありません。好んで斬ろうとは思いません。ですが、【覚悟】あります。人を斬る【覚悟】だけは常にこの胸に」
だが、戦える。
例え身体の動きが万全ではなくても、自分は戦えるのだ。
心が、体を突き動かす。
「ただ本能の赴くままに人を斬るだけの貴方と、私。果てさて、軽いのはどちらの剣でしょうか?」
ニィ、と美由希は不敵な笑みを浮かべたまま、相馬に向かって問いかけた。
「ぁぁあああああああああ!!」
「せぇぁぁあああああああ!!」
宴とレンの咆哮が空気を震わせ、響き渡る。
紫電のように鋭い宴の上段蹴りが斜め下へと振り下ろされ、レンの足に直撃する瞬間、足を引きやり過ごす。
その蹴りが地面に激突。その力を利用して体を回転。胴回し回転蹴りがレンへと襲い掛かる。
蹴りをかわし、踏み込もうとしていたレンが顔を歪めながら必死に避けた。
かわされた宴が慌てるでもなく着地。一瞬で体勢を整えレンへと向かう。
たまらない!!
この娘との戦いはとてつもなく楽しい!!
戦い始めた時とは明らかに動きが違う。すでに別人といっても過言ではない!!
なんという成長速度!!私が気分で呼んだ異端の天才。まさかそれの呼び名がこれほどに合うとは思ってもいなかった!!
「あっはっはっはははははははははは!!」
狂ったように笑いながら宴は攻撃の手を休めない。
二人の戦いを見ていると、互いの力量は互角とも見えた。
もし相馬がこの戦いを見ていたら再び首を捻ったであろう。
レンの成長速度は異常である。
戦えば戦うほど目に見えて跳ね上がっていく。
すでにレンは初期の宴を超えていても可笑しくは無いというのに、二人の攻防比は同等から変わらない。
その答えは至極簡単なものであった。
宴もまた、戦いの中で成長していたのだ。
レンという好敵手を前にして、手を合わせて、その身に刻んで、宴も爆発的に成長していた。
宴もまた天才である。
ただの天才ではない。かつての御神流最強の剣士、御神相馬の血をひく完全なるサラブレッド。
確かに才能だけならばレンには劣る。
だが、十数年にも及ぶ弛まぬ鍛錬。相馬に課せられた御神流を継ぐという目的。
そのために積み上げられてきた努力の結晶。
それが、レンと戦うことによって目覚めたのだ。
幼き少女達の華麗なる戦いは今まさに、完全に拮抗していた。
このままでは一生決着がつかない。
見ている者がいたらそう錯覚するほどに互いに一撃も決まっていない戦いであった。
だが、宴だけは感じていた。この永遠に続くのではないかという楽しき戦いに感じる不協和音を。
それが何なのか宴には最初は分からなかった。
そしてそんなことを気にしている余裕もなかった故に、忘れていた。いや、忘れるふりをしていた。
戦っているうちに気づき始め、今ははっきりとその正体が分かってしまったのだから。
気づきたくなかった、その事実。
レンの呼吸が少しずつではあるが―――乱れてきたことに気づいてしまった。
宴は知らない。
相馬も知らない。
レンが昨年まで心臓を患っていたことを。
レンは幼い頃からの持病で入退院を繰り返し、長時間の運動さえできなかったのだ。
手術の結果ようやく完治に至ったとはいえ、そう無理もできない身体なのだ。
たった一年でどれだけの体力を作れるというのか。それこそ無茶な話である。
宴との戦いは凄まじいほどの集中力、精神力、そして体力をレンから奪い取っていた。
他を寄せ付けない天才である鳳蓮飛の唯一の欠点それは―――体力の少なさであった。
「ん、ちょっと残念かな。もっとキミと戦っていたかったよ?」
「……っく」
本当に残念そうに宴はレンに語りかける。
既に戦いの情勢は宴に傾きかけていた。
先ほどまでは、確かに互いに互角の勝負を繰り広げていたのだ。
それが今ではレンは防戦一方であった。余裕もなく、宴の攻撃を捌くことで精一杯の様子だ。
ぜぇぜぇという激しい呼吸が宴の耳にも届く。
ズキンとレンに響く頭痛。視界が霞む。
身体中が鉛のように重い。構えることだけで一苦労だ。
だというのに、身体が勝手に動く。
宴の蹴りを、拳を、最小限でかわす。
―――まだ、まだ戦える。
それは悲壮なまでのレンの決意であった。
負けるわけにはいかない。なのはを傷つけた、この二人に。
それにもし自分が負けたら相馬と戦っている美由希にどれだけ不利になることか。
そんなレンを嘲笑うかのように下段の蹴りがレンの足をすくった。
ガクンという軽い衝撃とともに身体が崩れ落ちそうになる。そんなレンの腕を宴が掴み、軽々と投げ飛ばす。
くるくると独楽のように投げ飛ばされたレンが体勢を整えようとして、回転する視界がぐにゃりと歪んだ。
ドンという激しい音をたてて、レンは地面にぶつかり、ごろごろと音をたてて転がっていった。
背中に硬い壁のようなものがぶつかり止る。
歪む視界に映るのは高町家を囲う壁。どうやら壁にぶつかってようやく止まったようだ。
「……っ……はぁ……はぁ……」
歪む視界。平衡感覚を失っている今は、立ち上がることさえ苦労する。
ダンと地面を震脚で揺らし構えるが、それでもふらりと身体がぶれる。
「レンフェイちゃんと言ったよね?キミとの戦いは凄く楽しかったですよー。本当の本当に楽しかったです」
「……はぁ……はぁ」
返事はしない。する暇があったら少しでも呼吸を取り戻す。
それしかこの状況を打破する方法は無い。
「だから、これで終わりになるのは残念です。また、やりましょうーね?」
「っく!!」
そして、呼吸を取り戻す間ももらえずに、宴はこの戦いに幕を降ろそうと今まで以上の速度で踏み込んできた。
防ぐこともできない。よけることもできない。さばくこともできるはずがない。
つまり―――詰みである。
勝者は、御神宴でこの戦いは終わりを告げる―――筈だった。
彼女がここに帰ってこなければ、終わるはずだったのだ。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
それは咆哮だった。
少女の気高き遠吠えであった。
高町家の塀を飛び越え、レンへと迫っていた宴へそのまま蹴りを見舞う。
その奇襲に驚きつつも宴はその蹴りを防ぐが、なにせ勝負を決めようと突撃した状態からカウンターを喰らったのだ。
ドンという肉を打つ音が響き、宴が後方へと弾き飛ばされる。
距離が開いた宴とレンの間に立ち塞がるように舞い降りたのは……城島晶。
ミシリと音が鳴るほど強く握り締めた拳を宴に向けて晶はそこに居た。
そんな晶の登場に一番驚いたのは、意外にもレンであった。
晶は心が折れたのだ。
相馬のあの禍々しい殺気を浴びて、戦うことに恐怖したのだ。
なのに何故戻ってきているのか。
そして何より、信頼して預けたなのはをどうしたというのか。
「あほぅ……なのちゃんはどないしたんや……?」
「なのちゃんは、勇兄に任せてきた。だから安心しろよ」
その答えを聞いて僅かに安堵するレン。
赤星になら任せても大丈夫だろう。信頼できる先輩なのだから。
「そんなら……なんで戻ってきたんや……」
「お前を、置いて、にげれるかよ!!」
そう晶が吼えた。
だが、晶の声は震えている。
レンでなくても分かる。誰が聞いても分かるほどにかすれていた。
「……震えてるや、ないか……お猿」
「……ああ、こええよ!!びびってるよ!!こんなバケモノみたいな奴らと戦って勝てるとはおもってねぇよ!!」
ガチガチと晶の歯が鳴っていた。
今にも地面に尻餅をつきそうになるほど、足は震えている。
「そんでも、お前をうしなっちまうかもしれない恐怖に比べたら―――こいつらと戦う恐怖なんかたいしたことない!!」
「……あほぅ」
そんな晶の叫びに、不覚にも言い様のない感動をレンは覚えた。
零れ落ちそうになる涙を我慢するので精一杯であった。
何時もは感じない、頼もしさが晶の小さな背中から感じる。
「それに……お前はなんで負けそうになってるんだよ!?お前を倒すのは、俺だろう!?勝手に負けそうになってるんじゃねーよ!!」
「……」
台無しである。
零れ落ちそうになる涙はすぐさま消えた。
もうちょっとどうにかならないのだろうか、この馬鹿猿は。
「……負けそうになってるんやない……ちょっと休憩しとっただけや」
「嘘つけって。呼吸がすげぇ乱れてるじゃねーかよ」
「……少しばかり……過呼吸なだけや」
「ダメじゃん!!」
そんな二人の様子を興味深げに見ていた宴だったが、わしわしとその美しい黒髪をかきながら晶へと一歩近づく。
その一歩にビクリと大げさに反応する晶。
宴の無意識に放つ威圧に、ガクガクと膝が揺れる。
―――力量の差がありすぎる。
晶とてかなりの腕前の少女だ。
だからこそ分かる。宴の力というものが。
文字通り次元が違う。決して敵うはずも無い、圧倒的な差。
震える唇を血が出ても構うものかと深く噛み締めた。
ガンっと音がなるほど強く震えている両足に拳を叩きつける。
その決して引かない様子に宴が参ったなぁと漏らしたのが聞こえた。
完全に舐められている。だが、舐められても仕方ない。
「……晶。三分……二分でええ。もたしてくれへんか?」
「……」
二分。それがどれだけ絶望的な時間なのか。
果たして一分もつだろうか。それが正直なレンの予想であった。
レンから晶の顔は見えない。だが、晶はニヤリとひきつった笑みを浮かべた気がした。
「ばーか。二分だって?けち臭いこというなよ!!五分はもたせてやるからよ!!お前はさっさと体力を戻しやがれ!!」
晶の身体の震えはまだおさまっていない。
それでも、彼女は、恐怖をその身に感じながらも、宴へと向かっていった。
格下である自分にこうまで言われた相馬はどうでるであろうか。
激昂するのではないか、という美由希の予想を覆すように、相馬は至って冷静であった。
外見も、そして内面も。
己の腕から滴り落ちる血を眺め、美由希に注意を払うことも無く拭った。
その隙をつき、踏み込もうとした美由希は、得体の知れない重圧を感じて、踏み込むことが出来なかった。
「見事だ、御神美由希。流石はあの静馬と美沙斗の娘だけはある。俺に血を流させた奴などそうはおらんぜ」
相馬は相変わらず冷たい視線のまま、美由希へと視線を戻す。
先ほどよりも険しくなった表情のまま美由希を見据える相馬だったが、美由希が感じ取れてないだけで、彼の内心は踊り猛っていた。
怒りではなく、喜びでなのだが。
自らの口角が吊り上るのを、本能的といってもいいその反応を抑えることが出来なかった。
こいつは―――剣士だ。
本物の―――御神の剣士だ。
「手段を選ぶな。意地やプライドなどで勝負を捨てるな―――手段を選ばず、お前の全てを俺に見せてみろ」
血の気の無い緊張した表情の、それでも勝利を見つめる美由希と視線が交錯。
そんな美由希の姿に、相馬は己の直感を確信する。
すでに日常においてさえ、決して忘れることができず、拭い去ることも出来ないほどに、心の芯にまで染み付いてしまった戦いへの渇望。
強くなりたい―――それだけを目的とした、生きながらにして修羅の道を歩き続ける剣の鬼。
そう、お前も所詮俺と同じ穴の狢だ。
「……厄介な、人だね」
美由希は自分にしか聞こえないような低い声で呟きながら、相馬の指先一つの動きをも見落とすまいと集中する。
相馬は本当に厄介な敵であった。身体中が鈍いというのに、今の相馬は先ほどまでよりはるかに危険だ。
先ほどまでの相馬は言ってしまえば淡々と獲物を狩る狩猟者のように攻め立ててきただけであった。
だというのに今の相馬は、美由希のことを敵として認めていた。
恐らくは、全力で来る。
びりびりと肌をうつ相馬の容赦のない殺気がそれを証明している。
美由希は己の現在の状態を瞬時に把握。
攻勢にでることは、ほぼ不可能。当分は体力を回復させることに専念するしかない。
せめて神速を一度でも―――贅沢を言えば二回は使えるようになるまで。
警戒を高める。
精密に自分の間合いを測り、静寂を孕んだ気配のまま、相馬の動きに対応しようと待ち構えた。
相馬がそんな美由希の様子に薄気味悪い笑みを浮かべ、疾走する。
直後、蠢くような黒き刃が無慈悲なまでに鋭く、味気なく、ゾブリと音をたてて相馬の胸を背後から貫いた。
「―――な、にぃ!?」
美由希が初めて聞く、相馬の慌てた声が周囲に響く。
美由希へと迫っていた相馬は地面を蹴りつけ、強引に方向を転回させる。
今までより遥かに遠い間合いを取り、相馬が己の胸に手を当てた。
しかし、そこには何の傷もない。
傷一つどころか血の一滴さえも胸からは流れていなかったのだ。
それに疑問を感じつつ、自分の経験から先ほどの原因を探す。そして、その原因を瞬時に理解した。
―――殺気の刃、か。
自分を貫いたと錯覚するほどに濃密な殺気。
収束され、殺すという確かな意思の元に相馬に向かって放たれた形無き刃。
誰が放ったのか、と疑問に思う相馬。
ちらりと横目に宴と戦っている晶を見やるが、即座に否定した。
どうみても違う。あんな馬鹿正直な少女が相馬を退かせるほどに凶悪な気配を放てるものか。
ならば、今戦っている目の前の御神美由希かと視線を向ける。
帰ってきたのはこちらを訝しげに見返す美由希だ。
無意識のうちに放ったわけでもないだろう。一体だれがあれほどの殺気を放つことが出来るというのか。
そんな相馬の意識に割り込むように、耳に響くかすかな音。タンという音が高町家の屋根から聞こえた。
「―――天落(そらおとし)」
鈴が鳴るような美しい声。
それは、相馬に死の予感を感じさせる程のものであった。
上空から叩きつけられる殺気の大波。
巨人の腕で押しつぶされる様な圧迫感を受けながら、相馬は前方へと跳躍する。
その言葉通り、上空から飛来した黒影が放つ空をも断ち切るかのような抜刀からの一撃。
相馬の判断が僅かにでも遅かったならば、間違いなくそのまま涅槃の彼方へと送られていただろう。
何者が襲ってきたのか確認しようと振り返るが、そこにすでに人影はいなかった。
ぞわりと粟立つ背筋。相馬の第六感が、危険を告げ、首を右へ向ける。
地面を擦るかのような低姿勢で突撃してきた影は、三日月を描くかのように白銀が夜を照らす。
振り上げられたその刃を小太刀を交差して受け止める。
相馬の腕にはしる強い衝撃。
単純に受け止めたから感じた衝撃ではない。体の芯にまで残るような、強い衝撃。
非常に完成度の高い―――徹。
自分には及ばないものの、美由希にも匹敵、凌駕するほどの。
決められかったことに舌打ち一つ残して、影は相馬から距離を取った。
相馬はその影を追わずに、用心深く小太刀を構えたまま影を凝視する。
「……天守、翼さん……どうしてここに?」
「これだけ派手に殺気がぶつかってたら普通わかるわよ。それにあそこにいる御神宴とも少しばかり因縁があったしね」
その影の正体を明らかにしたのは呆然と翼に魅入る美由希であった。
黒いコートを羽織ってる以外は、夕方に宴と戦ったときの服装のままである。
「刀を取りに戻ってたから少し遅くなったのは申し訳ないわね。ああ、私は今回は貴女の味方よ?」
「……信じられない、ですけど」
「それも当然かしらね、と言いたい所だけど……恭也から聞いてないのかしら?」
「……聞いてます。貴女の目的も、師が貴女に頼んだことも」
「気に食わないのは分かるわよ?言いたいこと聞きたいことは後にしましょう」
前回戦ったときとは明らかに違う、柔らかな笑み。
それを美由希に一瞬だけ向けると、相馬にしっかりと向き直る。
本当は翼はここに来るつもりはなかったのだ。
葛葉と別れ、家に着いたときに突如として悪寒を感じた。このままでは取り返しのつかなくなるような悲劇が産まれるような予感を。
三年前のような悲劇が恭也にふりかかるのではないかという漠然とした不安が心のなかを支配した。
そこで夕方に戦った宴のことを思い出した。
宴は強かったが恭也には全くといっていいほど及ばない。
良い所美由希と互角ほどではないかという実力だったので放置したのだが―――そこで思い出した。
あの時、御神宴は電話をしていた。
恐らく仲間と―――。
宴と同レベルの相手ならば流石にまずい。
考えにくいがましてやそれ以上の使い手ならば……。
だからこそ翼は武器だけ持つと、高町家へと急いだのだ。
そしてその予感は正しかったようで……目の前の剣士は、翼の知る限り、数えることができるほどに強き者だった。
恭也がいないこの状況でよくぞ自分が来るまでもたせたものだ、と翼は美由希を言葉に出さなかったが褒め称える。
「あまのかみ、だと……?まさか、お前は永全不動八門の……」
「あら?自己紹介が省けて助かるわ。初めまして、御神の剣士さん」
にこやかに翼は相馬に一礼してみせる。
それだけの動作だが、底知れぬ存在感を相馬には示していた。
そんな翼を横目で見たのか、うげぇと蛙が車にひかれたかのような妙な呻き声を宴があげる。
、
「気をつけてよ、おとーさま!!翼さん、本気で強いから―――!!」
「……成る程。こいつか。お前が戦ったという天守は」
「ええ。世話になったわよ、その娘にはね」
私の方がお世話になったんですけどぉおおおおおおお―――という宴の突っ込みを無視して翼と相馬は対峙する。
相馬の目から見て率直に評価するならば、自分と同族。
その一言で事足りる。
歳は美由希と変わらないだろう。
それだというのに、それだというのに、この小娘は―――。
「何故天守が御神美由希の味方をするのか、とは聞かん。理由も知る必要はねぇしな。だが、それとは別に聞きたいことがある」
「何かしら?答えれることならば答えてあげるけど」
相馬は翼の返答を聞き、大きく息を吸う。
そして―――。
「何故、お前のような存在がここにいる?」
「……」
「おかしいだろうが?ありえんだろうが?何故お前のようなイカレタ人斬りが―――こんな日本という平和な国で生まれ出でる!?」
美由希でも分からなかった。
レンでも分からなかった。
晶でも分からなかった。
宴でも分からなかった。
数え切れないほどの人を斬り、命を奪ってきた相馬だからこそ分かった。
相馬ですら、眉を顰めるような、咽返るような血の香り。
相馬のように身体に染み付いてしまっている。笑うしかないほどの闇を翼の底に垣間見た。
極東の、世界で最も平和だと称されるこの国にて、自分の同族が存在するなど、一体全体これはどんな悪夢なのか。
「……失敬ね。初対面の相手を人斬り呼ばわり?貴方の程度が知れるわよ」
「茶化すな、人斬り。イカレタ人斬りよ。何をどう繕おうが、俺にはわかる。お前、一体どれだけの人を斬ってきた?俺がいうのもお門違いだが、正気の沙汰じゃねぇ。まともじゃねぇ。狂ってやがるな、剣に狂った人斬りよ」
「お門違いと思うのならば、黙っていなさい。それ以上その口を開かないでくれるかしら?」
「っは!!黙ると言って黙る奴がいるか。歳は幾つだ?十六か?十七か?十八か?二十を超えているということはあるまい。その若さでお前はどれだけの命を奪ってきた?悪いがお前と同じ歳の頃の俺が可愛く見えるぞ。常軌を逸した悪鬼羅刹よ」
「……ふぅ」
翼の瞳に剣呑な光が混じっていく。
相馬の嘲笑うかのような言葉に、翼は苛立ったように肩にかかっている黒髪をパシリと後ろに弾いた。
「百か二百か。一体自分が何人斬ったか覚えてないわ。友だったモノ。家族のように接してくれたモノ。剣を指導してくれたモノ。数え切れない人【だった】モノを斬って私はここにいる」
「やっぱりな。お前は俺と同じだ。人を斬ることに躊躇いを持たない頭のイカレタ人斬りだ。俺と限りなく近い同族だ。だからこそ、お前の心を俺は理解できるぞ」
「―――もういいわ。喋るな。囀るな。口を開くな。貴方と話すのは不快を通り越す。私の心を理解できる?笑わせるな―――私の心を理解できるのは不破恭也唯一人」
ぽたりとどす黒く濁った湖面に水滴が落ちたようなイメージを美由希は感じた。
その水滴が波をおこし、広がっていく。
深い深い闇を垣間見た。それは、以前戦った天守翼を遥かに凌ぐ。
あの時の翼は強かった。だが今の翼は……怖かった。
「貴方如きが理解できるはずも無い。恭也だけが私の罪を、咎を理解している。彼だけが私とともに……永遠に消せない贖罪の道を歩んでくれる。私と恭也の絆を汚すな。それは、それだけは―――万死に値する」
切っ先を相馬に向け、蔑んだような視線を浮かべ、翼はリズムを取るように一度だけ軽く跳躍した。
そして、足が地面についた瞬間、消えた。
超速度の刺突。音もたてずに迫ったそれを、相馬は身体の外側へと弾き流す。
そのままの速度で放たれた、身体ごとぶつかっていくように体重の乗った前蹴りが相馬の鳩尾に繰り出された。
その蹴りを後ろに跳び下がることによってかわす。
絡みつく蛇のように、斬り上げられた日本刀。
半身になって避ける相馬。避けると同時に横薙ぎにされる小太刀。
その一撃が翼の胴を切り裂いた。だが、手ごたえは無し。残像を叩き切っただけだということに気づいた時には既に翼は相馬の背後に回りこんでいた。
翼は相馬の背後から容赦なく太刀を振ろうとして、仕掛けることが出来ない。
踏み込めない。相馬の背中は鏡のように翼の一挙手一投足を映しているかのような不安を味合わせてきたからだ。
踏み込みを戸惑った一瞬で、相馬は翼から離れるように距離を取る。
踏み込めなかった自分に内心で舌打ちをする翼。だが、隙がなかったのだから仕方ない。
僅かな対峙だけで嫌がおうにも理解できる。
相馬の実力の高さを。尋常ならざる剣の腕を。
互いに一撃必殺を可能とする武器を扱うもの同士。
息が詰まる膠着状態が続く。
中断に構え、相手の出方を窺う翼だったが、突然膠着に飽きたようにゆっくりとした動きで歩いてくる相馬。
無造作に、そして何の注意も払わないような歩法で、翼の間合いに踏み込んでくる。
その行動に僅かにうまれた動揺。
短く吐かれた呼吸とともに真っ向から太刀を斬り下げる翼だったが、言いようのない怖気を感じ取って咄嗟に手を引いた。
手を引かなければ手首の先を切り落とされたかもしれない。それほどの小太刀の刃が空気を刈るように視線の先を通り過ぎる。
間一髪で斬られることを回避した翼だったが、その斬撃に続く小太刀。
左右から迫った小太刀が翼を断ち切るかと思われたが、翼はふわりと重力を感じさせない動きで飛び上がり、足下に流す。
即座に空中に浮かんだ翼に追撃しようとした相馬は、驚愕のあまりに目を見開いた。
小太刀が翼の足元を潜った刹那―――、一秒を遥かに短くした一瞬であったが、翼はその小太刀に確かに乗ったからだ。
重さを感じる間もなく、翼は軽やかな音を残して、その小太刀から跳び下がり、距離を取った。
その動きに見惚れていた相馬だったが、嬉しくて堪らないという様子で笑いを噛み締める。
「なんだ、その身のこなしは。動きの所々に、神速を散りばめやがって……人の為せる技かよ、それが」
「別に褒めても何もでないわよ」
相馬の最大限の賞賛に翼は素っ気無く返す。
だが、翼の瞳は言葉とは正反対に煮えたぎるマグマのようにどす黒く、殺意にだけ燃えていた。
相馬の先ほどの発言が相当に気に入らなかったのだろう。
相馬と向かい合っていた翼だが、ちらりとそのさらに後方で相馬との戦いを呆然と見ていた美由希へと視線を向ける。
美由希本人に向けられたわけではないその殺意に、反射的に逃げ出したくなる恐怖を感じた。
「六、七割程度の体力は回復したかしら?そろそろ加勢してくれると嬉しいのだけど」
「……え?」
翼のその台詞に思わず聞き返す美由希。
それも当然だろう。互角以上に渡り合っているように見える翼が加勢しろと言い出したのだ。
プライドの高そうな翼が自ら助力を請うとは予想外も良い所であった。
「手段を選ぶ必要はないわ。だってその男との戦いでは私の心は―――震えない」
大人しく二人のやりとりを見ている相馬の前で、翼はそう事実だけを静かに告げる。
再度肩にかかっていた髪を後ろに弾き、ポケットから取り出したゴムで片手で器用に縛り、ポニーテイルにする。
勿論、もう片方の手を持った刀で相馬を牽制するのを忘れていない。
「それに、二対一くらいでその男には丁度いいのよ。その男―――底が知れないわ」
空気が冷たいというのにポタリと翼の頬を一筋の汗が流れる。
それに美由希が翼から視線を相馬に戻そうとして、ぞわりと全身を襲う今まで以上の悪寒。
禍々しい、オーラ。どす黒い、いや、血が混じったような不気味な赤黒。
「ああ、そうだな。お前の言うとおりだ、天守。美由希には言ったが、手段は選ぶな。さもなくば、死ぬぞ。お前ら」
ズズズっと影が実体化したかのように相馬に宿る。
幻覚だというのにそれを直視するだけで魂を引き込まれそうになる。
「精々俺を楽しませろよ。それが、お前らが生き残れる時間となるのだからな」
翼は強い。美由希は強い。
だが―――相馬は更に強かった。
御神流最盛期の時代において最強の名を欲しいままにした剣士の強さは二人の上をいっていた。
それを認識した美由希が小太刀を構えなおす。
狙いは相馬だ。
翼の言う通り、手段など選んでいられない。
二対一というのは美由希としては後ろ髪をひかれるおもいではあるが……。
「合わせなさい、御神」
「……紛らわしいから名前で呼んでください」
「あら、良いのかしら?それでは遠慮なく呼ばせてもらうわ―――美由希」
「……合わせます、天守さん」
永全不動八門として戦った相手と共同戦線を張る。
それに妙な感情を抱きながらも美由希は気を引き締める。
相馬を挟むように二人はじりじりと間合いをはかる。
そんな二人を鼻で笑い―――相馬は踵を返し、一直線に美由希へと突撃した。
「っな!?」
「っ……!!」
二人の驚きの声が上がる。
一切の躊躇いも無く翼に背を向ける度胸。
その背に追いすがり斬りつけようとする翼だが、相馬のほうが圧倒的に速い。
「時間を、稼ぎなさい!!」
翼の叫び声が聞こえた。
それを聞きながら美由希は相馬を迎え撃つ。
頭を低く、弾丸のように美由希に迫った相馬の一振りを、驚きながらも小太刀で受けとめるが、今まで以上の衝撃と重さ。
金属音が響き、その衝撃を逃がそうと後ろに逃げる美由希。
それを追撃する間も与えず、背後から肉薄した翼が容赦なく首元を狙って斬りつける。
背中に目があるかのように、あっさりと片手の小太刀を引き上げて弾く。
全力による一太刀を片手で受け止める相馬の膂力に舌打ちする翼。
翼の一撃を弾き返すと、振り向きざまに小太刀を払った。
その軌跡は弧を描き、翼の鼻っ面をかすめる。
のけぞってかわしていた翼の腹部に、続けざまに見舞われる刺突。
その刺突を、刀で弾き落とすが、生き物のように多様に変化する小太刀が翼へと襲い掛かる。
歯を食いしばりながらその連撃から逃れたが、翼の視界のなかで、美しい黒髪が幾本か舞ったのが見えた。
無言の殺気が相馬を打つ。
背後から踏み込んできた美由希が滑るように仕掛けた一撃は火花をうんだ。
火花が散らしただけで美由希は跳びのいた。
片手の小太刀を翼に向け、もう一方を美由希へと向けて威嚇している相馬。
二対一だというのに迂闊に攻撃にでれない。相馬の周囲は結界を張っているかのようであった。
美由希と翼は先ほど以上に集中力を高める。
少しでいい。髪の毛一筋程の隙でいい。
それだけあれば、勝負を決めれる。
二人の腕さえあれば、それが可能だ。
だというのに―――その隙さえ相馬にはない。
「いい集中力だ。だが、攻勢にでないと俺を倒すことはできんぞ」
「……せかす男は嫌われるわよ?もっと悠然と構えなさい」
「下らん。時間をかけて俺の体力が底をつくのでも狙うか?……下策だな。俺の体力とお前たちの集中力、果たしてどちらが長続きするか分からんのか?」
翼の策を見破ったかのような物言いの相馬に、翼は返答をしない。
翼の瞳に迷いはなく、己を信じている光がそこにはあった。
その翼の様子に、美由希を持つ。
翼をよく知っているわけではない。だが、剣を交えたことがあるからこそわかるのだ。
彼女がこのような待ちを好むような剣士ではないということが。
圧倒的な才能で相手を押しつぶす。
だというのに翼は何故仕掛けないのか?相馬の隙のなさに仕掛けることが出来ないだけなのだろうか。
それも少しおかしい。隙がないのなら翼ならば、隙を作ろうと自分から動くはずだというのに。
翼はまるで時間を稼いでいるような―――。
「言ったでしょう、美由希?時間を稼げ、と―――私の、私達の勝ちよ」
笑うのを我慢できない。そんな翼が、厭らしい笑みを浮かべ、美由希に、相馬に高らかに宣言した。
「ぁぁああああああああああああああああああ!!」
晶が吼えながら地面を蹴って宴へと疾走する。
その動きは速い。レンと普段戦っている時以上の速度だ。
「威圧?うーん、違うかな。虚勢ってところかにん」
そんな晶を冷静に評価する宴は、迫ってきた晶が放つ拳を赤子をあやかすかのように優しく手の甲で受け流す。
それと同時にミシリと腹部に発生した激痛に、晶が声にならない声をあげて肺にたまっていた酸素を吐き出した。
いつのまにか繰り出したのか分からない前蹴りが晶の腹部に突き刺さり、そのまま晶の腕を掴むと投げ落とす。
地面に激しく衝突し、その衝撃と突き刺さったままの足が気の遠くなるような激痛を晶に加えた。
―――猿落とし。
恭也が闇討ちしてくる晶によく使用する御神流の技の一つ。
恭也と同じ技でやられるとは皮肉としかいいようがない。
足を地面に倒れている晶からどかすと、壁にもたれかかっているレンへと向き直る。
「うーん。素質は悪くない、というか凄い娘なんだけどねー。まだまだ青いかな」
私の歳でいう台詞じゃないけどー、と笑う宴に対してレンは少しでも体力を取り戻そうと呼吸を繰り返す。
結局晶が稼ぐことができたのは三十秒足らず。だというのにレンの瞳には諦める色は見えない。
宴はそんなレンに対して首を捻る。
レンは口元に笑みを湛えて首を振った。
「そいつは……晶は死ぬほどしぶといで?」
「っ、いててて……」
レンの台詞を肯定するかのように、転がっていた晶が腹部を抑えてゆったりとだが立ち上がる。
ふらつきながらも再び拳を構える晶。
「……へ?」
立ち上がった晶に対して不可思議な生き物を見るかのように、宴は間の抜けた声をあげた。
まじまじと晶と、蹴ったはずの足を交互にみやる。
「えーと……まともに決まったはずなんだけど……」
「この程度で、俺は倒れるわけには、いかねーんだよ!!」
熱く燃える晶はダメージを感じさせずに再度、宴に突撃する。
片足で地面を踏み込み、鋭い回し蹴りが宴の胴に炸裂する一歩手前で、その蹴りに片手を合わせた宴。
「な、う、ぁあああ」
何が起こったかわからない。
そんな悲鳴をあげて晶はぐるりと回転。激しく地面に叩きつけられる。
投げられたと気づいたのはぐにゃりと揺れる世界が見えたときであった。
後頭部を激しく地面に打ち据えながらも、ふらふらとまた立ち上がる晶。
「いやいや、おかしいでしょう?頑丈すぎるのにも程があるんですけど」
呆れたような宴は頭をかきむしる。
無論、晶も効いていないわけではない。むしろ、今にも倒れこみたいくらいに効いている。
だが、約束したのだ。五分は持たせると。
それならば例え死んだとしても―――その約束だけは守る。
「はぁあああああああああああああああああ!!」
喉がつぶれるかのように雄叫びをあげ、晶は揺れる世界を走る。
晶の拳が届く前に、宴の前蹴りが晶に叩き込まれた。
顔面蒼白になって膝をついた晶の顔面に、薙ぎ払われる回し蹴り。
必死になって腕をあげ、受け止めようとする晶。
そんな晶を嘲笑うかのように蹴り足が、消えた。
骨と骨。硬いものがぶつかりあい、鈍い音が響き渡る。
途中で軌道をかえ、側頭部に蹴り込まれた晶は、耐え切れないように晶は横様に倒れた。
ふぅ、とためいきをもらした宴は油断なく倒れた晶を見下ろす。
流石にもう立ち上がってこないだろう。
そう判断した宴の耳が聞き覚えのある声を拾った。
うげぇと下品な呻き声をあげてしまった。
それもそのはず。相馬と向かい合っている女性は―――先ほど自分がやりあったばかりの剣士。天守翼だったからだ。
「気をつけてよ、おとーさま!!翼さん、本気で強いから―――!!」
とりあえず相馬にそう注意を促しておく。
あの相馬ならば大丈夫だとは思うが、万が一ということもありえる。
そんな宴の視界の端で、動く影を見つけた。
「ちくしょう……つえぇな、やっぱり……」
擦れるような、だが意識ははっきりしている声で、晶は呟きながら、立ち上がった。
まだ立ち上がる晶に、頬をひきつらせる宴。
「打たれ強いのにも程があるんだけど……」
幾ら全力で攻撃してないとはいえ、まともに攻撃が何度はいったと思ってるのか。
宴は別に殺すことを目的とはしていない。
だから、晶の将来を考えて後遺症の残るような一撃、徹などをこめて打ってはいないのだが、それでも異常である。
もはや突撃してくるだけの力もないのか、構えたまま宴を睨みつけるだけの晶。
宴は、少しだけ真剣に晶に踏み込むと掌底で晶の顎を揺さぶった。
顎を揺さぶられた晶は、ガクンと腰が砕けたように地面に尻餅をつく。
これでもう立ち上がれないだろうと宴が一息つくが―――。
晶は震える両足を自分の拳で叩き、無理矢理に立ち上がる。
ぐらぐらと身体を揺らしながらも宴と向かい合う姿は、幽鬼のようだ。
「キミは―――何故そこまで立ち上がるの?」
「……レンはな……言いたくないけど、とんでもなく強いやつなんだよ……」
「え?」
宴の問いに全く答えになってない答えを返す晶。
「そんなレンが、な……言ったんだ……頼んだんだ……俺に」
ミシリと音がなるほど強く拳を握り締める晶。
焦点の定まっていない瞳で、宴を睨みつける。
だが、そこには光があった。レンの瞳にもあったような光。決してあきらめることのないだろう光が。
「腕が折れようが……足がおれようが……その頼みだけは、死んでも守って、やらなくちゃ駄目だろう!!」
恐怖の震えはすでに止まっていた。
折れたはずの心は―――さらに強く蘇っていた。
「……詫びるよ、キミに。その強き心。今までの全てをキミに詫びる。キミは―――強い。力も技もスピードも、何もかもが足りなくても、心が誰よりも―――強い」
宴が頭を下げた。
晶の魂の咆哮に、心の底から頭を下げた。
甘く見ていた。侮っていた。
力が劣るからといって。相馬の殺気に怯え、逃げたからといって。この少女のことを。
確かに怯えた。恐怖に逃げた。心が折れた。
だが、それがどうだというのだろうか。
例え一時そうだったとしても、この少女は立ち向かってきたのだ。
負けるとわかっているのに。圧倒的な力量差を理解していたというのに。
きっとそれは―――誰にも真似できない、勇気ある者の行動だ。
「全力でいくから……せめて安らかに、眠ってよ」
レンと戦っていたときと同じほどに集中しはじめた宴が地面を蹴った。抉るほどに強く踏み込んだ。
疾風となった拳の一撃が晶を吹き飛ばす。
だが、倒れない。
先ほどの遊びではない、正真正銘の全力の蹴りが腹部に決まる。
だが、倒れない。
遠心力を加えた裏拳が晶の側頭部に決まる。
だが、倒れない。
幾度も幾度も幾度も幾度も。
一撃決まれば、大人でも気をうしないかねない一撃を幾度浴びても晶は倒れなかった。
意識がとんでいるのではないか、と怪しむ宴だったが、瞳に宿る光は失われていない。
「……まだ、まだぁぁ……!!」
呟きが漏れる。
そんな晶の様子にビクリと宴が気圧された。だが、すぐさま連打を再開する。
拳が。掌底が。肘が。膝が。蹴りが。
マシンガンのように晶に浴びせられる。
だが―――倒れない。
その光景を、今にも飛び出しそうになる自分を必死でおさえ、レンは唇を噛み締めながら見ていた。
今すぐにでも晶を助けに飛び出したい。だが、飛び出してどうする。
晶はレンのために戦っているのだ。レンの体力を回復させるために、勝てない敵に立ち向かったのだ。
少しでも時間を稼ぐために。一分一秒を命を削って、晶は稼いでいるのだ。
そうや。それがお前や。それが城島晶や。
心が折れても、恐怖に怯えても―――最後にはそれを克服する真っ直ぐな気持ち。
―――勇気。
それがお前の強さや。
涙が出る。
その光景をレンは涙を流しながら心に刻んでいた。
「もう倒れてください、って!!これ以上は……これ以上は!!」
追い詰めてるはずの宴が悲しみを堪えるように叫んだ。
これ以上はまずいのだ。如何に晶が打たれ強くとも限界は存在する。
これだけの攻撃を受けてただで済むわけがない。
それに加えてこれ以上攻撃を加えてしまえば、本当にどうなるか分からない。
この素晴らしい可能性を秘めた少女の将来を―――壊すことはしたくない!!
右横腹に決まった宴の拳に、不快な感触を伝えてくる。
宴はその感触に眉を顰める。
まずい―――本当にこれ以上は―――。
そう判断した宴の動きが止まる。
それを、その一瞬を晶は見逃さなかった。
もう立っているだけがやっと。そう思っていた宴は確実に虚をつかれた一瞬だった。
「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
残り全ての力を込めた一撃。
全身の筋肉に溜め込んでいた最後の力。全身の筋肉を躍動させ、全体重を乗せて放った正拳。
踏み込み、放たれた拳は宴に着弾。さらにそこからの踏み込み。
地面に足がめり込むほどに強く踏み込んだ。
その拳は、確かに宴の胸を穿ち、貫いた。
「かっ……はっ……」
普段の宴ならば決してあたることのなかっただろう拳。
晶の気迫におされ、避けることができなかった。
その一撃は―――新吼破と晶が呼ぶ我流の奥義。
空手の師である巻島が教えてくれた吼破。それを改良したのが吼破改。
そして、それを昇華させたのが新吼破。
それは、恭也や美由希が戦っている時に見た技術。徹とよばれる衝撃を伝える技法。
それを見たときに考え付いた技だ。
吼破に徹の技術を加えて放つ、外と内の両方を破壊する必殺の一撃。
その一撃が確かに宴に決まった。
全身の筋肉が、今の一撃でもう限界だ、と伝え悲鳴をあげる。
だが、晶は止まらない。
無理矢理に身体を動かし、返す刀で―――もう一撃が放たれた。
全てがスローモーションに見える世界で、ゆっくりと宴に迫っていく晶の拳。
その拳が宴に直撃する瞬間―――宴はその一撃をあっさりとかわした。
「……そんな、ばっ……かな……?」
避けられたことを信じられないかのような呆然とした晶の声。
何故、確かに新吼破は決まったのに?
何故、動ける?
ぐるぐると頭をまわる疑問。
そんな晶を見据えて宴は晶へと密着する。
そして、お返しといわんばかりの三連撃。腹部、鳩尾、そして顎。
その三連撃は一瞬の遅れも無く同時に打ち込まれたのだと晶は錯覚を覚えた。
何の容赦もないその連打を受け、晶はその衝撃で弾き飛ばされた。
新吼破は力も技もタイミングも完璧だった。
唯一つ足りなかったものは、技術。
徹とは一朝一夕で修得できるほど甘い技術ではない。
御神流では基本とされるが、それを修得するのにどれだけ気が遠くなる時間がかかるだろうか。
極めるまでいかずとも、自由自在に扱うまでにも相当な修練を要する。
晶も天才だ。努力と才能の天才だ。
だが、新吼破を編み出してから僅か半年。その程度の期間では―――徹を修得することはできなかった。
万全の状態であったならば或いは決まったかもしれない。それでも今の状態で、決めることが出来るほど甘くは無かった。
晶は、賭けに負けたのだ。
晶はすぐ後ろにあった壁に激突する勢いで、後方へと弾き飛ばされた。
上下逆に見える世界で、晶はその壁を呆然と見ている。
ああ……あの壁にあたったら痛いだろうなぁ……。
そんな思いを漠然と抱きながら迫ってきた壁を見ないためにも目を閉じた。
目を閉じた瞬間、ドンという硬い何かにぶつかったのが分かった。
確かに硬い。だが、不思議と痛くない。
それどころか、全身を包む暖かい空気。
疑問に思い、目をおそるおそるあけてみる。
目をあけた晶の目に映ったのは―――自分が最も尊敬し、敬愛する男の姿。
誰よりも強く、優しい師匠の姿。唇が震える。痛みではなく、苦しみではなく、恐怖でもなく、ただ嬉しくて。
「……し、師匠……?」
「すまなかった。遅くなったな、晶」
魂が震えるような安堵に包まれて、晶は意識を手放した。