宴は―――逃げた。
その場から距離を取った。
正確には現れた恭也から離れるように動いたのだが。
恭也との距離は、普段戦うときの倍、いや三倍近くの間合いを取って宴は油断なく恭也の全てを見逃さないように集中した。
さもなくば、相手の動きに反応することができないという、漠然とした予感を感じたのだ。
すでに先ほど戦っていた晶とレンのことを忘れたかのように、ただ恭也だけを凝視する。
晶やレンなどが比較できない。圧倒的な―――脅威。
口の中が乾く。唾液すら出てこない。
喉もからからに乾き、呼吸も苦しい。
宴をして、その実力を掴めない。
あまりにも巨大すぎる威圧感。頂が見えない山の麓から、空を見上げたような……。
自分が、どれだけちっぽけなのか理解できる―――真の強者の中の強者。
翼と戦ったとき強いと思った―――だが、本気をだせば負けるとは思わなかった。
レンと戦ったとき強いと思った―――だが、楽しかった。
だが、目の前のこの男は、駄目だ。
勝てるとか、楽しいとか、そういう問題の話ではない。
この男と戦えば間違いなく。確実に。絶対に。
―――コロサレル。
そう認識した瞬間、ぶわっと冷や汗が全身から流れた。
初めて感じる死への恐怖。
蜘蛛の巣にかかった虫のように―――己に忍び寄る死。
死神がその鎌を首元へとつきつけているような、実体化したかのよう死の体現者。
桁が違いすぎる。格が違いすぎる。次元が違いすぎる。
闇が蠢く。一切の光も無い。真の漆黒。
目の前の男に比べたら相馬でさえも霞む。相馬は影だ。光がなければ存在しない影。
なれど、この男は違う。単体で存在しえる闇。光を塗りつぶす、原初の漆黒。
ガチガチと歯がぶつかり合う宴の背後で―――押し潰されそうな、殺気が膨れ上がった。
振り向かなくても分かる。物心ついたときから、傍にいた相馬の、感じなれた気配だからだ。
先程までの、美由希と翼との戦闘とは明らかに異なるレベル。別人ではないかと錯覚するほどの殺気。
恭也が来た事により、一瞬とはいえ緩んでいた美由希と翼は、宴が恭也と距離を取ったと同じように相馬から間合いを外した。
二人は完全に自分達の気が緩んでいた。そう実感していたのだが、それが逆に不思議であった。
今の一瞬の間を持ってすれば、どちらかは確実に斬られていた。相馬ならばそれが可能だったろう。
だというのに相馬は二人には一切の注意を払うことなく、ゆっくりと恭也に近づいていく。
隙だらけに見えるその背中を二人は斬りつけることができなかった。
相馬を包む、不吉なオーラ。例えこちらに注意を払っていなかったとしても、間合いに入った瞬間、一刀両断にされる。それほどの気配を相馬は纏っていたのだから。
それは、随分と久しぶりとなる、相馬の全力の威圧。
相馬とともに裏の世界で生きてきた宴でさえ、本気をだした相馬を見たことは、ただの一度だけ。
香港国際警防部隊最強の男―――陣内啓吾との戦いの時だけだ。
周囲の人間たちを問答無用で、怯えさせ、恐怖させ、跪かせる。剣鬼と剣鬼の、圧死しそうなまでの殺気のぶつかり合い。
そんな重圧を全く感じていないのか、その剣鬼の一人である恭也は晶を壊れ物を扱うかのように抱きかかえると後ろに居るレンに預けた。
「お前も大丈夫か、レン?」
「……大丈夫です、お師匠……うちより、なのちゃんが……」
「……そのことは赤星から聞いた。なのはのことは―――あいつに任せてある。心配するな」
「……すんません。お師匠……すんません」
「何を詫びる必要がある、レン?お前には感謝しかない。よく、よくあれほどの相手からなのはと晶を守ってくれたな」
守れてなど、いない。
謝るレンは恭也を泣きそうな顔で見上げる。
しかし、恭也はそんなレンに首を振る。そして、優しく肩を叩いた。
「分かるさ。でなければあんな、外れた敵を前にして、なのはの命は―――」
なかっただろう、とは続けなかった。その台詞を最後までは言わなかった。言えなかった。
仮に仮定であったとしても、なのはが死ぬなどということを口にだしたくはない。
ゾクリと、レンは恭也の静かな怒りを感じた。
その怒りを封じている楔も、何か切欠があれば今すぐにでも崩壊しそうな、そんな危うさ。
これほどまでに怒っている恭也を、レンは見た事が無い。
自分達に見せるのとは全く異なる―――敵へと送る本当の憤怒。
レンは晶を受け取ると―――生憎抱いていられるほどの体力もまだ戻っていなかったので邪魔にならないように壁際へと下がり寝かす。
恭也は、宴と同じ場所で止まり激しくこちら睨みつけている相馬へと向き直った。
「……何が目的だ?」
ドクンとその場にいた全員の心臓が胸を打つ。
普段は見知らぬ相手ならば敬語を使う恭也だが、今回ばかりはそんなことはない。
明らかな敵。なのはを、晶を、レンを傷つけた、憎むべき敵。
許すことなど―――できるものか。
「理由はただ一つだ。御神当主の座を受け取りに来た」
「御神当主……お前は……」
「俺のことを忘れたのか?生憎と俺はお前のことを一目見てわかったぜ?士郎に似て―――そしてあの頃の面影があるな、お前は」
「……ま、さか」
ズキリと頭痛がした。
その声。その姿。その殺気。
幼き頃に見て、感じたあの頃の剣士の姿。
「ああ、俺だ。御神相馬だ。十数年ぶりか、恭也。まさかあの小僧が生きているとは思わなかったぞ」
「それはこちらの台詞だ。それに今更一体何の用が―――」
「言ったはずだ、恭也。御神当主の座を―――いや、御神宗家を継ぎにきた、といったほうがいいか。あの亡霊を、宴に宿しにきた」
「……宴?」
「俺の娘だ。どうだ?なかなかの剣士だろう?」
宴という名前に眉を顰め聞きなおす恭也。相馬は隣にいる宴を親指で指すと、ニヤリと笑う。
相馬に指差され、恭也に見つめられた宴は、頬をひきつらせる。
恭也の圧倒的な気配に、普段の軽い反応を返すことさえできやしない。
宴を見た恭也の反応は意外なものであった。
先程まではしっかりと視界にいれてなかったということもあっただろう。
相馬に言われ、直視した恭也は、呆然とした表情でとなり、その瞳が揺らいだ。
「まさか……琴絵、さん?」
「似てるだろう?幾ら俺とは血を分けた姉だったとはいえ、俺の娘がここまで似るとは思わなかった」
「……」
「若い頃のあいつに……瓜二つだ。勿論、剣の腕の方も、な」
「……確かに」
こちらを緊張して窺っている宴は、相馬の言うとおり強かった。
恭也の見立てでは、恐らく美由希とほぼ互角。いや、僅かながら美由希のほうが上か。
年齢のことを考えるならば、その評価は逆転する。年齢の分だけ美由希の力量の方が上といったところか。
「お前に一つだけ聞きたい」
「……」
そんな恭也の思考に割って入ってくる相馬の真剣な問い。
それに答えない恭也だったが、相馬は気にせずに口を開く。
「お前は、何を捨て、何を失い、何を持ってそこまでの域に達した?」
「―――全てを」
相馬の問いに恭也淀むことなくそう答えた。
「不破恭也としての全てを。高町恭也としての全てを。ただ一振りの刀として―――今の俺はここにいる」
「くはっは……そうか、そうか、そうか!!俺の予想を覆したか!!俺の想像を遥かに超えたか!!俺の領域の上に逝ったか!!」
嬉しくてたまらない。そういった相馬の様子に皆が皆呆れる。
美由希と翼は特にそうだ。
二人は恭也の力というものを知っている。誰よりも深く心に刻んでいる。
自分達では到底及ばぬ、絶対たる世界に住む剣士。
そんな恭也を前にして、相馬は全くの恐れを知らず、正面から向かい合っていたのだから。
有り得ないだろうが、万が一恭也と敵として戦うことになったら、二人は恭也にたいしてこのような態度をとれるだろうか―――答えは否だ。
「今日は驚かされることばかりだ。神をも恐怖させる武才。御神宗家の名に恥じぬ剣士。血塗られた人斬り。そして―――極めつけはお前だ、恭也」
バチリと黒い稲妻が二人の間で散った気がした。
二人の鬼気のぶつかり合いはとどまる所を知らない。
この場にいるのは全員が強者だ。とてつもない武人達だ。
それでも、気圧された。二人の異様な気配に。全身を襲う、圧倒的なまでの悪寒。
「全く、お前は尋常じゃねぇ。生きながらにしてカミの域にまで達したか?ヒトの身であの亡霊にも匹敵するかよ、バケモノめ。ああ、ヒトというのも生温い。修羅。鬼人。剣神。いや、真なる破神よ。御神宗家のジジイどもが生きてたならば狂喜乱舞するだろうよ。奴らが願った理想の果てがお前だ、恭也」
その場に居る誰も気づかない。
恭也と相馬の殺気。それには決定的に違う所がある。
恭也の殺気は言ってしまえば、威嚇。
だが、相馬のそれは―――追い詰められたものが放つ虚勢であった。
つぅと相馬の頬に汗が一筋流れる。
ここまでの力の差を感じたことは【御神】と向かい合ったときだけだ。
「強いな、恭也。お前はどれだけの修練を積んできた?どれだけの死線を越えてきた?どれだけの強者と戦ってきた?どれだけの人を斬ってきた?ヒトを外れたヒトよ。はっきり言ってやろうか?お前はすでにヒトという域を越えている。お前は間違いなく真なる破神となれる剣士だ。この俺が見てきた裏の世界の猛者どもが―――子供に見えるぞ」
勝てない―――相馬は確信をもった。
美由希と翼を二人同時に相手をしたとしても相馬は勝てるだろう。
だが、恭也と戦ったならば、勝てるイメージがわかなかった。
「全く持って信じられんが、認めるしかあるまい。恭也―――お前が御神の宿願、破神の域を目指したということを。士郎が、静馬が、美影が聞いたら大層驚いただろうな。いや、それとも喜んだか?あの小さかった小僧が、それを目指し、そして叶えようとしているのだからな」
「御神の、宿願?」
聞きなれぬ単語に美由希が思わず話に割ってはいる。
そんな美由希には一瞥もくれずに、相馬は続けた。
「なんだ恭也から聞いていないのか?まぁ、いい。教えておいてやろう。御神流とは文字通り神を御する者達。即ち【御神】を宿すが故についた名だ。知ってるか?そもそも永全不動八門とは……遥か昔一つの流派だったということを」
「……そんな、馬鹿なこと……」
「……聞いたことないわね」
驚く美由希と翼。互いにそのような話を聞いたことはない。
想像もしたことが無い。
確認するように二人は恭也を見ると、恭也は静かに頷いた。
「永全不動の創始者は、武技に優れ、智に優れ、霊力にも優れていたという。時代の闇に潜み、己を鍛え上げることに全てを費やした。そんな創始者には八人の弟子がいたが―――その全ての武を継ぐことは誰一人できなかった。それ故に、それぞれの弟子は一つずつの技を受け継ぎ、生まれたのが永全不動八門だ」
初めて知るその事実に美由希と翼は呆然とする。
まさか自分達の源流が同じものであったとは。
「その創始者は、死の間際最も優れた弟子に、全ての霊力を込めて精神を移した。それが―――【御神】だ。永全不動八門全ての祖。全ての源流。全ての武の頂点に立つ者」
「故に御神流は―――御神宗家は特別な存在だ。永全不動の開祖たる【御神】を宿しているのだから」
続けるように恭也は語った。
相馬はやはり知っていたか、とでも言いた気に笑みをこぼす。
「ここで疑問に思うだろう?御神流の―――破神とは何なのか、と。自分達の神ともいえる開祖【御神】を宿しているというのに、神を破るための技とはなんなのかということだ。それは―――」
「―――【御神】が望んだことだからだ」
御神が望むとはどういうことか。
美由希と翼は首を捻る。続きの言葉を逃すまいと、相馬と恭也の話に集中する。
ちなみにレンは全くといっていいほど話についていけていない。
「【御神】はな、超えてほしいのだ。自分が生み出したその技で―――自分を凌駕して欲しいのだ。だからこそ、我らは破神を名乗る。我らが頂点である開祖【御神】が望むがゆえにな」
「―――【御神】は死を恐れたわけではない。人は死ぬ。それは真理であり、覆してはならない。だが、全てを犠牲にして手に入れたその力を見つめなおしたときこう思ったらしい。なんと無様なことか―――と。この程度では、斬ってきた相手に合わせる顔がない―――と。そう、【御神】は最強になって死ななくてはならない。それだけを目的に数百年の時を生きてきたんだ」
「真なる破神、それは【御神】の望みを叶えるもの。最強となった御神を打ち倒し、最強を超える最強として存在することになる者だ。所詮、それはただの伝承だがな。当然だ、己の開祖でもあり、決して手の届かぬ果てに居る亡霊を越えようなど誰が考えるだろうか」
「何時しかそれはただの建前となってしまった。決して超えることが出来ない存在。無駄だと諦めたのだろうな、他の永全不動八門は。それ故にもはや伝承も彼らには伝わっていない。だが、【御神】は未だ信じている。何時か御神の一族が自分を超えてくれると」
「あれは……バケモノだからな。この俺とて勝てると思ったことなどありはしねぇ。ネズミが獅子に戦いを挑むようなものだ。御神の一族でさえ、誰もがそんな者が未来永劫現れるなど思ってもいなかった。だが―――」
手で口を塞ぎ、笑いを噛み殺すように、相馬は目を見開き恭也を睨みつける。
「ついに、ついに現れたということだ。予言してやる、恭也。お前は間違いなく、御神の歴史に幕を降ろす者だ。古き時代は終わりを告げ、新たなる御神の歴史が幕を開ける。【御神】もそれに確信を持っているのだろう……だからこそ【御神】はそこいる!!」
「……俺の武ではまだ、あの人には及ばない」
「人、か。アレを、あの亡霊を人と呼ぶか。確かにお前はまだ及ばぬだろう。だがあと五年か十年。それくらいの年月があれば、お前は超える。あの亡霊を必ずな」
「……」
「おっと、随分と話込んでしまったな。俺達は口で語るよりもこちらで語ったほうがいいだろう」
相馬は小太刀を叩いてそう語る。
話す時間はもう終わりだと。残りは剣で語るとしよう、と。
勝てない。それが分かっているというのに相馬は本当に嬉しそうだった。殺されるということが分かっているというのに相馬は剣を交えることを望んで居るかのようだった。
二人は―――相馬と恭也は小太刀を納刀したままじりじりと互いの間合いを詰めていく。
それこそ注意して見ていなければ近づいているのが分からないほどに少しずつ。
すり足で、短く呼吸を繰り返しながら、二人の剣の間合いが近づいていく。
「動くなよ、小娘。斬るぜ?」
恭也に加勢しようと動こうとした美由希にそう告げる相馬。
背後にいたというのにまるで見えているかのような物言いに足が止まった。
相馬の言うとおりだ。もし相馬に攻撃を加えようとしたら確かに、斬られるであろう。それは確信でが持てるほどの鬼気。
そんな美由希を制したのは意外にも翼であった。
相馬に向かって構えていた小太刀を抑えるように、美由希の手に自分の手を重ねる。
まるで、手をだすなという無言の行為に美由希が抗議の視線を送るが、翼は首を振った。
「分かっているでしょ?私達は―――【今】の私達は邪魔よ。恭也の足を引っ張るだけ」
「……そう、ですね」
美由希とて本当は分かっていた。
相馬は―――強い。強すぎる。今の自分達では到底及ばぬ剣士だ。
水無月殺音と戦ったときのように、恭也を見守り、己の無力さを嘆くことしかできない自分。
それが美由希は悔しかった。
じりじりと近づいていった恭也と相馬。
すでに二人の剣の間合いはあと一息で重なる。
周囲の空気が止まったかのように、見ている者が息も忘れてその二人に魅入っていた。
―――抜刀が、くる。超速の―――。
相馬がゴクリと唾を飲み込んだ瞬間、互いの間合いは重なった。
その抜刀術がくると理解できたのは相馬だからこそだろう。その体勢、その状態から己へと迫るその技は―――虎切。
間違いない。あまりに完璧すぎる、完全すぎる、完成された御神流の抜刀術。
相馬の耳に聞こえたのは澄んだ鍔鳴り。
視界に映るのは、己の腕を一刀のもとで切り伏せんと抜き放たれた小太刀。相馬の想像通り、生涯見たどの虎切よりも、美しく、死を告げる軌跡を描く。
その虎切を防ぐことが出来たのは意識しての行動ではなかった。無意識のうちの防衛本能。それが恭也の抜刀からの一太刀を防ぐことに成功させた。
追の太刀を浴びせようとした恭也の瞳に映ったのは相馬の後方にいた宴が懐から何かをこちらにむかって投げる姿。
そして、それは世界を埋めつくすような閃光を発した。閃光弾、そう理解した恭也は瞬時に目をつぶって距離を取る。
向きが悪かった。相馬はその閃光弾に背を向けていたのでめくらましにはならない。浴びたのは恭也と、レン。そしてこちらを宴と同じ方向から見ていた美由希と翼。
「逃げるよ、おとーさま!!」
「……くそが」
「手段を選ぶなっていったのはおとーさまでしょうが!!」
そんな二人の声が聞こえる。
必死な宴と苦々しげにはき捨てる相馬。
逃がすものかと、恭也はその場から離れようとする二つの気配を感じ取るように集中する。
例え視界が覆われていたとしても、気配くらいは掴み取れる。
それを予想していたのだろう。
空気を裂く音が聞こえた。それは、飛針だろう。鋭利な飛び道具が迫っていた。
恭也にならば、容易く防ぐことはできた。だが、その目標となっていたのは―――レン。
レンならば避けることができるか、という信頼はある。
だが、今は気を失った晶を庇わなければならない。
恭也の取った行動は―――敵を追うことよりも、レンを庇うことだった。
レンに向かって投げられた飛針に向かって隠し持っていた飛針を飛ばす。
一寸の狂いもなく、レンへと迫っていた飛針を弾き落とした。
これ以上の攻撃はないと安心して恭也は相馬と宴の気配を探索するが―――遠すぎる。
この僅かな時間で二人はすでに高町家から随分と逃げ去っていたのだ。
追うことを諦め、恭也はふぅと肺の中の空気を吐き出した。
小太刀を鞘におさめ、じわりと汗が滲んでいた掌を見る。
―――乗り越えた。
それが恭也の率直な感想だった。
幼き頃に嫌というほど叩き込まれた恐怖。存在感。相馬という人間を。
恭也は確かに乗り越えることが出来た。
トラウマともいえる、幼い頃の壁を、己の手で打ち壊すことができたのだ。臆することなく、恭也は小太刀を振るうことが出来た。
汗で滲んだ手を力強く握り締め、恭也は倒れている晶へと近づいた。
「もう、おとーさまの超大嘘つき!!なにがたいしたことないの!?あれって本当にヒトですか!?」
「……いうな、宴。一番驚いてるのが俺だ」
「いやいや、私の方が十倍は驚いてる自信があるよ!!」
周囲はすでに暗闇に覆われている。
道路を照らすのは薄暗い街頭。道を歩く人ももういない。
そこを二人は疾走していた。少しでもあの剣鬼から遠ざかるように。
なんとか奇襲ともいうべき方法で逃げ出すことができた。相馬が注意をひきつけていたからこそ、宴の放り投げた閃光弾で視界を塞ぐことができた。
まさか、こんな無様にも逃げ出すことになろうとはこの海鳴に来た時は思ってもいなかった。
相馬と宴。
二人の予定は完璧に壊されていた。それに頭を抱えたくなる。
ある程度の戦闘は予想していた。それなりの使い手だろうとは思っていた。
だが、どこがある程度だったろうか。
レンも晶も、美由希も翼も。誰一人として舐めてかかれる相手ではなかった。油断をすれば地に伏すことになったのはこちらのほうだ。それほどの力をもった相手。
まだそれだけならばよかっただろう。十分に相手をすることができた。
だが―――恭也だけは完全に予想の遥か上をいっている。
あんな馬鹿げた剣の腕。一体どうすればあそこまでとち狂えるというのか。
足を止めることなく二人は海鳴の町を駆け抜ける。
横目でちらりと相馬を見るが、斬られそうになったというのにその顔は何時もどおりだった。
この男もまた、恭也には及ばないだろうが剣に狂った御神の剣士。
常人とは一線を駕する精神構造をしている。
ハァと深い深いため息をついて宴はぽつりと呟いた。
「それにしてもおとーさま。よくあの抜刀術……虎切かな?よく見えなかったけど、防げたね?」
「……まぁ、俺も自分で少し驚いている。あの一刀は、正直言うと防ぐことなどできないと思ったんだがな」
「ええ、いやいや。ならなんで防げてるの?」
その頼りない相馬の返答に宴が逆に驚かされる。
後ろから見ていた宴だからこそ分かることもある。
恭也が放った虎切。あれは、凄まじいものだった。完全に完成された、理想ともいえる抜刀からの一太刀。
あれを見てしまったら、自分の虎切がどれだけ未熟だったのかと実感させられる。
相馬でさえも、無駄が多く思われてしまう。
だが、相馬はあの一撃を防いでいた。
宴の目からみてだが、あの防ぎ方は、カンや一か八かの賭けによる結果ではなかったはずだ。
確実に、確信を持って、小太刀で防御していたのだ。
宴は相馬が己の意思と判断で防いだと思っていたのだが……肝心の相馬の返答がこれだ。
「おとーさま、絶対嘘ついてるでしょう?あの防御は、絶対に確信を持って防いでたってば」
「……」
宴の責めるような言葉に相馬が考え込むように視線を明後日の方向に向けた。
そう言うが相馬は虎切を防げたのは無意識のうちの判断だ。
恭也のあの構え、そして体勢から放たれるのは、虎切だと分かったがゆえに防ぐことができただけだ。
完成された虎切故に、全てを一刀のもとにて切り伏せんと相馬に向かってきた。
だからこそ―――長年に渡って身体に染み付いていた動きだったからこそ、命を拾うことが出来たのだ。
そこで相馬は気づく。
頭の隅でひっかかっていたことに。
完成されていた―――。
あの虎切は間違いなく、相馬より、宴より、静馬より、士郎よりも完全に完成されていた―――。
だからこそ―――。
「……」
「ん?どーしたの?どっか斬られてた?」
足を止めた相馬に不思議そうに首を傾げる。
相馬は―――笑っていた。
禍々しく。どす黒く。嘲笑うかのように。
ゾクリと宴の背筋に冷たいものがはしる。
こんな父を初めて見た。こんなにも、狂いそうなまでに、恐ろしい笑みを浮かべる父を―――。
「逃げるのは、止めだ。あいつと―――恭也との決着をつける」
「え?いやいやいやいや、無理無理無理!!止めておこうって、おとーさま!?多勢に無勢だし!!」
「安心しろ。恭也の相手は―――俺がする。残りは宴、お前がやれ」
「ええ!?いや、どっちも無理そうなんですが」
「……できるか、できないか。それだけをお前に聞くぞ?」
真剣な相馬の問いに宴は本気ななのだと感じ、諦めたように幾度目になるかのため息をつき空を見上げた。
宴の視界に映るのは美しい月。
夜の支配者だと無言で語っているかのようだ。
「【本気】でいっていいの?」
「無論だ。ああ、あのレンとかいう小娘は頭数にいれなくていい。失った体力、集中力はそう簡単には戻るまい」
「……ん」
トントンと道路を足で叩く。
美由希と翼のことを思い出す。
素晴らしい剣士達。尋常ならざる剣士達。圧倒的ともいえる剣腕を持つ剣士達。
だが―――。
「勝てるよ。あの【程度】があの子達の本気なら―――私の相手じゃない」
自信満々にそう宣言する宴。
あの美由希と翼を相手にしてなお勝てると言い放つその大言は、誰もが聞いても呆れ果てることだろう。
「そうか。ならば任せた」
だが、相馬はそれを信じた。
まるでそれが当然のことだといわんばかりに。
「疲れるから本当はあまりやりたくないんだけどねー。それよりおとーさまのほうこそ大丈夫なの?あの人、多分私が【本気】になっても無理だよー」
「ああ、任せろ。むしろお前の言うとおりだ、お前では勝てん。静馬だろうが、士郎だろうが、美影のババアだろうが、あいつには勝てん。あいつに勝てるのは―――」
一瞬、宴は見惚れた。
あまりにも禍々しい相馬の笑みに。
だが、絶対の自信を持って言い放つその姿に。
あの、バケモノというのも生温い。真なる破神を可能とするであろう剣士と戦うというのに―――相馬は自信に満ち溢れていた。
自分でさえ到底及ばぬ、完成された御神の剣士と戦うだというのに―――。
「この世界でただ一人。この俺だけだ!!」
月が夜を照らしていた。
静かに。禍々しく。不吉を告げるかのように。
剣鬼と戦う相馬を祝福するように―――月は輝いていた。
気を失っている晶の診察を終えた恭也が深く息を吐く。
それは安堵のため息であった。外傷はかなり酷く見えるが、どうやら後遺症が残るような怪我は無いようだ。
これも晶の柔軟な肉体のおかげであったか、と晶の髪を梳いてやる。
レンとの戦いで数え切れないほど倒されてるのもあるかもしれないという考えはこの際置いておく。
何度も地面に倒れ付したのだろう。綺麗な髪が砂と埃に塗れている。
戦っていた宴は強かった。晶では到底及ぶぬ相手であった。
晶とてそれは分かってい筈だ。それでも戦ったのだ。自分の意思で、戦って遂には一矢を報いた。
「お前は……強いな、晶」
愛おしそうにゆっくりと幾度も晶の髪を梳く。
ぼろぼろで、小さなその身体が恭也にはとてつもなく大きく映る。
「お前はゆっくりと成長していけ。お前はきっと―――計り知れないほどに強くなる」
その光景を羨ましそうに見るレンと美由希。そして翼。
子供が欲しがっている玩具を見る光景にも見える。そのうちレンならば指を咥えて見そうな勢いだ。
じーと見つめる翼の視線に気づいたのか、美由希が不思議そうにちらりと横目で翼を見る。まさかあの翼がそんな物欲しそうに恭也を見るとは思ってもいなかった。
その気配に気づいたのか慌てて視線を明後日の方向に向ける翼。心なしかその頬は赤くなっている。
ちらりと窺うように美由希へと視線を戻し、目が合う。
それにビクっと反応をして、唇を尖らす。
「な、なによ。何か言いたいことでもあるのかしら?」
「……いえ、別に」
「……言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「んーと。天守さんって意外と可愛い人なんだなーて思っただけです」
「ば、馬鹿じゃないの?寝言は、寝てから言いなさい」
慌てたようにそう言うと、ふんっと再度そっぽを向き恭也の方へと近づいていく。
冷たい人かとおもったがどうやらそれだけではないらしい。
仲良くなれるかもと、苦笑すると美由希も固まるように握っていた小太刀を鞘に納め翼の後を追った。
「お師匠。晶は大丈夫ですか……?」
恭也に撫でられるという至高の褒美を与えられている晶に蹴りの一つはくれてやりたい気分のレンだが、流石に今回ばかりは晶の頑張りを知っているだけにそのようなことはしない。
逆に心底晶の身体のことが心配だ。幾ら頑丈なのは身を持って知っているとはいえ、あれだけ攻撃を受けて無事ですむはずがない。
特に晶を認めてからの宴の連撃はまさに苛烈の一言。もし仮にあれだけの攻撃を自分が受けていたとしたら―――。
背筋が凍るような気持ちのレンに恭也は頷く。
「ああ。見かけは酷く見えるが、後遺症が残るようなことはないだろう。医者に見てもらわないと安心はできないが」
「そうですか……よかったです……」
胸を撫で下ろすレン。
恭也がそう言うならば恐らくは大丈夫だろう。
怪我になれているせいか恭也はこういったことには滅法詳しい。
美由希の鍛錬も我武者羅にしているのではなく、科学的な根拠に基づいた鍛錬も混ぜて指導しているのだ。
それに比べて自分には滅茶苦茶な鍛錬を強いているのだが……。
「その娘の容態は……大丈夫のようね」
「ああ、翼か。すまなかったな。どうやらこちらの身内同士の争いに巻き込んでしまったようだ。面倒をかけた」
「気にするほどのことでもないわ。興味深い話も聞けたことだしね」
「永全不動のことか……。天守で聞いたことは無かったか?」
「父ならもしかして知ってるかもしれないわね。本当に知らないのかもしれないけど」
肩をすくめる翼に恭也は晶を抱きかかえて高町家の縁側へと歩いていき寝かせる。
晶の横へと腰を下ろすと小太刀を鞘ごとはずし、床に置く。
「遥か昔の話だからな。【御神】が存在する御神宗家以外はすでに言い伝えが途切れても仕方の無いことだろう」
「それもそうね。それにしてもあの【御神】が永全不動八門の開祖だったなんてね……。通りで強いはずよ」
「ああ。あの人は―――強い」
翼の言葉に少しだけ嬉しそうにする恭也。
翼は【御神】のことを評価したのだというのに、まるで自分のこと以上に喜んでいるようだ。
あの感情を見せにくい恭也だというのに、誰が見てもわかるほどに―――。
「ところで恭ちゃん。あの人……相馬さんはどうするの?」
話題に入れていなかった美由希が、翼に割り込むように問いかけてくる。
恭也との会話を邪魔されて少しだけ不機嫌そうに眉を顰める翼。
その美由希の質問に、恭也は横に置いていた小太刀に手をやり握り締める。ミシリという音が聞こえた。
「俺達の家族に手を出したんだ。それなりの報いは受けて貰う」
「うん……そうだね」
コクリと力強く頷く美由希だったがふと思い出したように恭也に慌てたように詰め寄る。
「そういえばさっき聞こえたんだけどなのはがどうかしたの?」
「……美由希ちゃんあの時おらんかったね。あの男がなのちゃんを……」
恭也の代わりにレンが苦々しげにもらす。
相当後悔しているのだろう。最後まで言う事はできなかった。
そのレンの言葉に驚いたのが美由希だ。まさかなのはまで傷つけていたというのかという驚き。
「な、なのはは大丈夫なの!?」
「俺は診てないからなんともいえん、が。生死に関わるというほど酷い怪我ではないらしい。今は赤星が海鳴病院へ連れて行ってくれている」
「……そっか。でもなのはまで傷つけるなんて……許せないよ」
ぎゅっと唇を噛み締める美由希。
本当に悔しそうにかすれる声で呟いた。
自分たちならば剣に生き、剣に死ぬ覚悟はできている。
だが、なのはは違う。ただの小学生なのだ。あんな小さい少女を痛みつけるとは―――。
「ああ。だから言ったはずだ。それなりの報いは―――受けて貰うと」
ぞっとした。
恭也の声は平坦だ。冷静だ。いつもと変わらない。
そう思っていた美由希は、自分の考えが甘かったと認識した。
恭也が冷静?
そんな訳がなかった。
なのはの父である士郎はなのはが産まれた歳に命を落とした。
だからこそ恭也はなのはのことを、時には父として、時には兄として見守ってきたのだ。
父としての恭也。兄としての恭也。二人分の愛情を持って接してきたといってもいい。傍目には分かりずらいかもしれないが―――最大限の愛情をもって接してきたといってもいい。
そのなのはが傷つけられたのだ。大切な娘が、大切な妹が―――。
怒っていないわけがない。憎んでいないわけがない。冷静でいられるわけがない。
平坦な声の裏に隠されていたのは、沸々と煮えたぎるマグマのような熱き怒りであった。
「……何?」
そのとき、突然不可思議な顔をして恭也は縁側から立ち上がると遥か遠方へと視線を向ける。
すでに薄暗く遠くなど見えるはずもない。見えるのは家々と、空に浮かぶ月。そして星々。
立ち上がった恭也を不思議そうに窺う美由希達。
次に気づいたのは翼であった。
ピクリと眉を顰めると恭也と同じ方向に身体を向ける。先程までの気が抜けた空気はすでに存在していなかった。
遅れること数秒。美由希もようやく気づき、驚いたように目を大きく見開く。
そんな三人の行動に首を傾げていたレンだったが―――ようやく理解できた。何故そんなに皆が驚いていたのか。
高町家から遥か遠方。
どれくらいの距離か分からないが、確かに居る。
彼が。御神相馬が。
気配を隠すわけでもなく、禍々しい気配をこちらに察知させるかのように振りまいている。
攻撃的な気配。肉食獣のように、今にも爆発しそうなまでの荒々しさ。
その気配を放つ相馬は高町家から離れるわけでもなく、近づくでもなく、同じ位置を保っている。
相馬のその行為。明らかにそれは―――。
「誘っている、な」
「ええ、そうね。しかもこれは恭也をご招待したいらしいわ」
「うん。恭ちゃんのことを―――挑発してるね」
「……なんかお師匠だけでなく美由希ちゃんまで人間離れしてきましたなぁ」
レンの呆れたような物言いに美由希が本気で嫌そうな顔をする。
それは無言の反論であった。
恭ちゃんみたいな人間離れした人と一緒にしないで、と美由希の目は語っている。
「……目は口よりもモノを言うとは上手くいったものだ」
「あ、あははは」
それを見破った恭也の冷たい視線が美由希を貫く。
笑って誤魔化そうとした美由希だったが、恭也の視線は冷たいままだ。
―――二人とも、というか三人とも十分人間離れしとります。
そう内心で呟いたレンだったが、もし晶が起きていたらこういっただろう。
お前も人間離れしてるっつーの―――と。
「仲良いわね。貴方達」
翼の語るその言葉は褒めているようだったが―――少し棘々しさがあった。
それに少し居心地の悪さを感じながら美由希が気を引き締めるように小太刀の柄に手をかける。
「さっきは逃げたのにどうしたのかな……」
「考えられることは二つね。仲間がいた。つまりは戦力増強で勝ち目がでてきたからこその挑発。もう一つは―――バンザイアタックといったところかしら」
「後者は考えにくいな。俺が覚えている限り、あの人は勝ち目のない戦いはしない筈だ。御神の一族が健在だった時代……あの人は【御神】に決して戦いを挑むような真似はしなかった」
「……ということは前者かな?」
「恐らくは……そうだと思うけど。確信は……もてないわ」
相馬の恐れることのない気配が逆に不気味だ。
勝ち目などないのは分かりきっているだろうにこれほど力強く挑発してくるとは余程の使い手の仲間がいたのか。
だが、幾ら手だれの仲間がいたとしても恭也相手ならばどうだろうか?
相馬クラスの使い手など言いたくないがそうはいない。
はっきりいって相馬の戦闘能力は―――十分に常人とは次元が違うといっても過言ではない。
今まで見てきた誰よりも、強者。人間という種族の枠組みの中での話しでだが。
「……もしかしたら恭也の注意を自分達にひきつけておいて、他の仲間がこちらを強襲するということもありうるわね」
「仲間がいたら……うん、そうだね。有り得るかもしれないよ」
それならば、こちらには翼と美由希が残り、恭也が一人で相馬達に向かうという方法を取るかと考えた翼だったが即座に首を振る。
確かに翼と美由希が高町家に残れば相馬以外ならば十分に相手ができるだろう。だが、万が一恭也に相馬と宴。それに仮に仲間が居たとして、複数人で襲い掛かられたらどうする。流石の恭也とて厳しい。
恭也が負けるわけがないと信じてはいるが、不安なことに変わりはない。
下手に自信満々な気配で挑発しているだけに、相馬の考えを読めず、反射的に髪の毛を指で弄くる。
「……俺が行こう」
そんな翼の葛藤を見かねた恭也が口にだす。
俺一人で行くと。
恭也の提案にから翼が考え込むように髪の毛を弄っていたがそれも僅かな時間。
ふぅとため息をついて、指を髪の毛から離す。
「仕方ないわね。美由希―――貴女が恭也と一緒にいきなさい」
「え?で、でもそうしたらこっちは……」
「相馬以外ならば私一人でもどうにでもできるし、それとこの娘達は海鳴病院へ連れ行くわ。相手もあんな人が多い病院ならうかつに手はだせないでしょう」
「それはそうですけど……」
「あら、私一人で不安なのかしら?」
「……そういうわけじゃないですよ」
からかうような翼の返しに、美由希が狼狽するように否定する。
確かに翼ならば並大抵の使い手では相手になるまい。
慌てる美由希にクスリと笑みをこぼす。
「援軍をよぶからこちらのことは心配しなくても大丈夫よ」
「……援軍?」
訝しげに聞き返す恭也に頷く翼。
「他の永全不動八門よ。皆がそれなりに使える連中だから戦力として数えても良いと思うわ」
「……俺が知っているのは如月さんと鬼頭さんの二人だが、確かに強いな」
「あら、何時の間に会ったの?まぁ、いいわ。あの二人は別格だけどね。他の連中もそこそこできるわよ」
「助かるが……良いのか?」
「どうせどこかで鍛錬でもしてる暇な連中ばかりでしょうしね。この娘達のことは―――任せて」
「すまんな。恩にきる」
「いいのよ。今度御飯でも奢ってくれれば」
「……それだけでいのか?」
「ええ。十分よ」
それとなく御飯の約束をした翼に末恐ろしいものを感じる美由希。ついでにそこそこ扱いされた葛葉にそっと涙する。
それでも確かに以前見た永全不動八門の使い手達―――紅葉に葛葉が居るだけでも随分と違うだろう。
翼はポケットから携帯電話を取り出すと素早くボタンを押して耳に当てる。しばらくコール音が続く。
『もしもーし。て、天守から電話って珍しいねー。どうしたの?』
「恭也……不破の家まで車をだしてくれないかしら?」
電話にでたのは水面であった。
対して翼は恭也と名前を呼んで、それではわからないと思ったのだろう。すぐさま不破と言い直して水面に伝える。
『……んと、めんどーとか言える様な雰囲気じゃないみたいだね。すぐ行くからまってなさいなー』
「ええ。如月も拾ってきてくれない?ついでに葛葉も拾えたらお願いね」
『葛葉はついでかい!りょーかい。なにやらワクワクするよーな事態になってるみたいね。血がさわぐよ』
「騒がないでいいから速く来なさい」
『つれない娘だね。それじゃあ、切るから』
携帯電話をポケットに戻し、恭也に向かって頷く。
「こちらは気にしないで―――決着をつけてきて」
「ああ。感謝する」
恭也は置いていた小太刀を持つと玄関の方へと足を向ける。
それに続くように美由希も後を追う。
「お師匠……ご武運を」
「勝ちなさいよ、恭也」
翼とレンに見送られて二人は夜の街へと飛び出した。
実は恭也の背を追う美由希は、二人に声もかけられなかったことに少し悲しかった。
どうせ私はおまけなんですよーと心の中で呟く。夜の街が滲んでみえるのは気のせいだった。気のせいと思いたかった。
恭也と美由希が夜の街を走る。尋常ではない速度で相馬が放つ気配へと近づいていく。
そんな時、相馬の気配が動いた。
恭也と美由希が近づいてくるのがわかったのだろう。先程までは同じ場所にとどまっていたのに今度は二人から遠ざかるように逃げ去っていく。
いや、逃げるというのは適切ではない。
その荒々しい気配は僅かな淀みもなく、恭也を挑発していた。
恭也が近づいてきた分引き離している。
時折通りすがるサラリーマン風の男達が驚きながら恭也と美由希の背中を振り返るが、すでにその次の瞬間には二人は夜の闇へととけている。
走る。走る。走る。
相馬の気配を追って。憎き敵を追って。
何時までたっても止まることのない相馬に、こちらを疲れさせる気なのだろうかと疑いを持ち始めた頃―――相馬の気配が止まった。
その気配のすぐ傍に覚えがある気配。間違いなく宴だろう。
そこがゴールだと言わんばかりに、一際相馬の気配が燃え上がった。
周囲は見覚えがある景色が続き、家々も少なくなっていく。
街灯の光も心細くなっていく。だが、この道は二人にとっては馴染み深い。
そう。この道が行き着く果ては―――。
「よう。遅かったな。あまりにもこちらに来ないんで俺の挑発を見逃していたのかと思ったぜ」
相馬は笑いながらそう語りかけてきた。
恭也と美由希の視界に映ったのは、先が見えないほどの長く続く階段。
その階段に腰掛けて恭也と美由希を待ち構えていたのは相馬と宴であった。
周囲を見回すが誰か隠れているというわけでもないようだ。
だというのに相馬の自信の溢れようは一体なんだというのか。
「……二人?」
「なんだ?何を言っている?見ての通りの二人だが……」
美由希の思わずもらした呟きに相馬が言い返す。
その顔には疑問がありありと浮かんでたが、ふと何かに気づいたように、ああと呟いた。
「まさか伏兵でもいると思っていたか?お前達の立場ならば思っても仕方ない、な。安心しろ。俺と宴だけだ。そもそも他の連中など連れてきても仕方ない」
「……」
疑っている美由希だったが、恭也は相馬の言うことが正しいのだと理解した。
そもそも相馬は恭也達がこれほどの使い手だったということを知らなかったのだ。
自分ひとりでもどうにでもできる。その程度の予想で海鳴にきたはずだ
それが当然の予想のはずだ。たかだが二十になったかならないか程度の青年と、二十にも満たない少女が自分を凌駕するなど誰が考えるだろうか。
元々相馬が人とつるむことが好きではなかったはずだ。仲間自体いるかどうか分からないが確実に勝てるであろう相手に態々仲間を連れてくることは考えにくい。
自分達の考えすぎだったかと恭也が安堵する。
それはレンや晶。それに翼達に敵の手が忍び寄ることがないのが分かったからだ。これで全力でいける。
だが、疑問がもう一つある。何故、相馬は真っ向から向かってくるのかということだ。
「不安の種は取り除かれたか?そろそろ始めるとするか」
よっこいしょと、親父臭い掛け声を上げて立ち上がる相馬。
親指を階段の上へと向けてついてこいうというジェスチャーをする。
階段をゆっくりとあがっていく相馬に続く宴。
その二人から少し距離をあけて続くのは恭也と美由希だった。
いきなり上から斬り付けられるかもしれない。それくらいの注意をはらって二人は続く。
そんな注意を払っている二人を全くきにかけずに相馬と宴は一足先に階段を登りきる。
それに幾ばくか遅れて恭也達も到着した。
見なくても分かる。そこは恭也と美由希が何時も鍛錬を積んでいる場所―――八束神社だった。
相馬達が選んだ決戦の場所が八束神社とは皮肉としか言いようがない。
境内の丁度中心で相馬と宴が向き直る。
ピシリと音をたてて空気が緊張した。先程までの宴は恭也に対して恐怖を抱いていた。
だが、いまの宴は全くといっていいほど普段通りだ。
宴もまた乗り越えていた。恭也という名の恐怖を。
「……美由希。彼女を頼むぞ」
「うん。任せて」
恭也は信頼を乗せて美由希に託す。
それに嬉しそうに―――しかし、緊張を解かずに頷いた。
相馬の相手は自分がする。そう言ってのけた発言に等しいこの言葉に相馬はおかしそうに口元をゆがめた。
「良いのか?俺の相手が恭也、お前で?悪いが俺の娘は―――俺より強いぞ?」
「……戯言を」
そうきって捨てる恭也。
それも当然だ。確かに宴は強いが、どう見ても相馬より格下だ。
ある程度の力を隠しているようだが、それを加算しても相馬には遠く及ばない。
美由希なら十分勝てる相手だと確信を持てる。
確信が―――。
チリっと恭也の首筋に焼きつくような痛みを覚えた。
夕方に感じた悪寒と似たような不吉を孕んだ―――。
「まぁ、いい。こちらとしてもお前とは俺がやりあいたかったからな。丁度いい。お前が選んだ道と俺が突き進んだ道……交わることのないこの道のどちらが正しいか確かめて―――」
「にひっ。いくよー美由希さん!!私と遊んで貰うからね!!」
相馬の台詞の途中で我慢できないという様子の宴が飛び出した。
地面を蹴る音が夜の境内に鳴り響く。
残像を残すかのような速度で美由希との距離を一気に縮めると、抜刀。
煌くような輝きが美由希へと襲い掛かる。
その牙を美由希も抜いた小太刀で払い落とす。
だが、宴の猛攻は留まるところを知らない。
息もつかせぬ連続の斬撃。一瞬の間もなく続いていくその連撃は無限に続くかと思わせる。
それでも、宴の小太刀は美由希へとかすることも許さず、完全に防がれていた。
「これはまた凄いね!防御だけなら翼さんよりも遥かに上だよ!」
翼が使う獲物は刀。美由希は小太刀。
攻撃力に劣る分圧倒的な防御を誇るのだからそれも当然の話なのだが。
それを差し引いても美由希の小太刀による防御は鉄壁といっても良かった。
埒が明かないと思ったのだろう。
宴は美由希から大きく距離を取ると神社の後方へと続く巨大な森の入り口へと陣取った。
にひひと笑うと手招きするように美由希を誘う。
「視界の効かない闇夜の森の中を追って来る自信はあるかにゃん?」
「……」
気の抜けるような語尾を残して宴は森の中へと進入していく。
それを追おうとした美由希は一瞬だけ恭也へ振り返る。相馬と向き合っている恭也と視線が合う。
「恐れるな。迷うな。普段通りのお前ならば必ず勝てる―――だが、気をつけろ」
「有難うございます。師範代……ご無事で!!」
恭也に背を向けて宴を追跡する。
確かに視界が悪い。たださえ鬱蒼としている森だというのに、夜ということもある。
しかし、それは相手も同じ条件だ。
それならば、何時もここを鍛錬場所に使っている美由希の方が遥かに有利。
大体の自分の居場所、遮蔽物の感覚などはある程度掴んでいられる。
短く呼吸を繰り返す。随分と走っているのにもかかわらず息切れはしていない。
この程度で疲れがでるほど軟な鍛え方はしていないのだ。
薄暗い視線の先に、葉っぱを舞い上がらせ、先を駆けている宴の姿が微かに見える。
この視界の悪さの中、身軽に走る宴に舌を巻く。
駆ける。駆ける。駆ける。
何時まで走るのかと美由希が疑問に思う。もうすでに相馬達からどれほどはなれただろうか。
こちらに攻撃をしかけるでもなく、引き離すでもなく。一定の距離を保って宴は森の中を疾走している。
―――これはまるで相馬と恭也から距離を取っているような―――。
美由希のその考えが相手に伝わったのか、宴の走る速度が徐々に落ちていく。
軽く流す程度の速度になった宴がクルリと美由希へと向き直った。
美由希も宴から一足一刀の間合いで足を止める。
周囲を油断なく見回すが、他に誰か居るというわけでもない。単純にこの場所が周囲に木々はあるが、比較的障害物の少ない場所だったから止まったようだ。
「ここまで離れればいいかなー。あまり近いと邪魔になっちゃうしね。あの人外コンビの」
「……それもそうですね」
相馬と恭也のことを人外コンビという宴に少し納得してしまう。
だが、わざわざここまで離れなくてもいいのではないかと首を捻る。
何か他に魂胆があるのではないかと―――。
「んじゃ。御神美由希さん。ちゃちゃっと決着をつけましょうかー」
あまり真剣味を感じさせない宴が軽くそう言って来る。
それは明らかに自分の勝利で決着がつくと暗に語っているようなものであった。
それに自然と、宴に向ける視線が鋭くなる。
確かに宴は強い。だが、恭也の読みどおりその実力は美由希より若干下である。
「不思議そうだねー?確かに美由希さんの読みどおり、私と貴女が戦ったら多分私負けるかなー」
美由希の内心を読み取ったように宴は笑った。
自分が勝てないとはっきり口にだしておきながら、その態度に変わりはない。
その宴の態度にドクン、と心臓が胸を打った。
不吉な、何かよくないことが起きるような―――そんな予感。
宴がゆっくりと目を瞑る。
「予想外だよね。貴女に会うまで絶対私の方が強いとおもってたのに―――困ったものです」
グラリと眩暈がした。
風邪をひいたときのような眩暈がする。
逃げ出したくなるような、悪寒。宴から立ち昇るようにみえる気配が変化していく。
圧倒的なまでの―――強者の気配。
相馬に匹敵しかねない、暗い―――殺気。
「だから、【本気】でいきますねー。大丈夫。痛いのは一瞬です。決して超えられぬ―――種族の壁というものをみせてあげますよ」
宴が笑いながらそう告げた。
そして、ゆっくりと目を開けたときその瞳は―――真紅に輝いていた。
御神相馬と夜の一族の間に産まれた御神宴。
その彼女が―――夜の支配者としての力を解放した。
「ガキどもはガキどもで遊ばせておくとして―――こちらも始めるとするか」
相馬が気負いもなくそう言い何の予備動作もなく、恭也との間合いを詰めた。
神速とは異なる御神の歩法。その動きから抜刀された小太刀は相手の虚をつき、絶命させる。
だが、恭也をそう簡単に斬れる筈もない。苦もなく小太刀で受け止めた二人の鍔迫り合い。
互いに全力で押し合うが―――力は互角。
拮抗したかのようにその場から動かない。動けない。
相馬は鍔迫り合いを止め、距離を離す。
もとより、先程の虚を突く一撃で恭也に一撃入れれるとは思っていない。
次に攻勢にでたのは恭也だった。
相馬と似たような動きで間合いを詰めると、流れるような踏み込みから叩き込まれる恭也の連続突き。
恐ろしいほどに―――速い。
刀身が残像に次ぐ、残像を生み―――防ぎきることなど不可能に思われた。
恭也自身も相馬が左右か後方のどちらかに逃げると予想していたのだが―――。
金属音が高鳴った。
少しだけ恭也の眉毛がピクリと動く。
相馬はその場から一歩も動かず恭也の連続突きを流すように弾いていたのだから。
相馬の口元の歪みが濃くなったような気がした。
亡霊のように今度は相馬が恭也へ向かって踏み込んだ。
相馬の踏み込みに恭也は嫌な予感を覚え―――その場から大きく飛びのいた。
恭也の予感がつげている。
この男は―――何かが危険だと。
抜刀して恭也を窺っている相馬は、先程見たよりも遥かに大きく見える。
得体の知れない威圧感に満ちていた。
集中力を高めた恭也に向かって、相馬が油断なく突撃する。
真正面から振り下ろされた小太刀を恭也は半身になってかわすが、続くもう一方の小太刀。
その小太刀を受け止め、跳ね上げた。
―――押し返す!!
相馬の威圧感に不気味なものを感じつつ、恭也がその威圧感ごと飲み込もうと小太刀を振るう。
それは、重く鋭い斬撃の乱舞。一撃で武器を断ち、二撃で身体を斬り、三撃で心を砕く。
御神流の斬術の一つ―――虎乱。
「な、にっ!?」
珍しい。本当に珍しく恭也が上ずった声をあげた。
それもそのはずだ。相馬を打ち倒すためのその技は、かわされたわけではない。防がれたわけでもない。
放たれるかどうかという前の刹那の瞬間、相馬が虎乱がくるのがわかっていたかのように、割り込むようにして止めたのだ。
互いに無言のまま弾き、距離を取る。
結局どちらの攻撃も互いにかすることもゆるさなかった。まさに息も詰まる攻防戦。
「バケモノめ。一瞬でも間違えれば、それで終わる。その歳でよくぞそこまで上り詰めた」
相馬が賞賛した。
それにこめられたのはたった一つの感情。
御神の一族のなかで確かに才能はあったほうだろう。それでも自分達には遠く及ばなかったあの小さな少年が、自分を超えた御神の剣士として成長をとげたことへの尊敬。
相馬は純粋に恭也の剣士としての力を褒め称えた。
「不思議な顔をしているな?何故俺がお前と戦えるのか。何故虎乱を出す前から潰されたのか」
「……」
「なぁ、恭也。俺はな、【御神】に勝てると思ったことはねぇ。数百年の年月を精神だけとはいえ生きてきた亡霊に……俺の剣が及ぶわけがない。そう思っていた」
突如相馬が語り始めた。
恭也に向かって、弱音ともいえることを吐き出し始めた。
「一体何を……」
「まぁ、聞け」
恭也の疑問を一蹴し、相馬は油断なく構えたまま、口を開く。
「御神の一族が健在だった頃からそう思っていた。だが、ふと思った。【御神】に御神の剣士として戦うのならば勝てるはずもない。ならば―――御神の剣士ではなかったらどうだ?」
「……なんだと?」
「【それ】が形になるまで十年はかかった。残りの年月はひたすら【それ】を昇華するのに費やした」
ぞくりと恭也の背筋が粟立った。
淡々と語る相馬は、一体どこを見ているのかわからないような―――虚無のような目つきで恭也を見ていた。そして、それ以外の誰かを……。
「俺はな、【御神】を倒すことを諦めたわけじゃない。いや、むしろ逆だ。【御神】を上回ることだけを考えてこの十数年を生きてきた」
相馬の動きが―――止まった。
一切の動きを絶ち、揺らぎのない湖面のような気配。
先程までの荒々しさなど全く残っていない。
「【御神】を倒すためだけに創り上げた対御神流剣術。それは常に【御神】を相手することを想定して創った。なぁ、恭也。お前は凄い御神の剣士だ。完成度でいえば俺をも遥かに超える。地獄ともいえる鍛錬を積んできたのだろう?幼き頃に見た【御神】を目標として―――」
「……対御神流、剣術?」
恭也が思わず聞き返した。対御神流剣術。まさかそんなものを……いや、御神流を修得した相馬だからこそ、最強の名を欲しいままにした相馬だからこそ可能としたのか。
相馬の言ったことはまさしく的を射ていた。そうだ。恭也は憧れた。尊敬した。
あの存在を。【御神】を。
誰よりも強き御神の剣士を。完成された御神の剣士を。
「お前の動きは―――【御神】とそっくりだ。あいつを目標として練り上げられたのだ、それも当然か。だが、それが仇となったな」
「……」
恭也は無言だ。
黙ったまま……相馬の言うことを聞いている。
「理解しろ、恭也。お前の目の前に居る俺は―――お前と【御神】の天敵だということを」
温度を感じさせない、その瞳が恭也を貫く。
「戦う前にも言ったな。【御神】を尊敬し、背を追ったお前と―――【御神】を超えようとした俺。どちらの道が正しかったのか―――決着をつけよう」
静謐な気配を漂わせ、相馬はそう宣言した。
相馬のその気配が周囲を満たし、恭也は初めて―――緊張したようにゴクリと唾を飲み込んだ。
恭也は間違いなく気圧されている。そう確信を持った相馬がその隙を逃すはずがない。
今まで以上の速度で速く、深く踏み込むと先程恭也が放った連続突きに匹敵する突きを繰り出した。
その速さ、恭也にも勝るとも劣らず。
神速の域から放たれる連続突きを、恭也は辛うじて捌き、受け流す。
動揺しているのか、その動きには普段の洗練さは失われている。
対して相馬の動きは打って変わっていた。
猛獣のように荒々しく、攻め立てるというわけではない。
相馬の動きはまさに静と動の調和。虚像入り混じり、相手を翻弄する。
幾ら恭也といえど、かわしきるのは不可能と思われた。
だが、恭也は僅かな焦りのようなモノを感じさせつつも、相馬の攻撃をかわし、防ぐ。
その攻勢の合間を縫って恭也が反撃にでようとするが、相馬がそれを許さない。
恭也が攻勢に転じようとする瞬間が分かっているかのように絶妙のタイミングで、攻撃の起点となる動きを牽制し、潰す。
前触れもなく、相馬の足が恭也の腹部を狙って蹴り出された。
音をたてて、空気を打ち抜く。
見るだけでその威力は理解できただろう。
その蹴りが恭也の腹部に直撃した。
顔を歪めて後ろに吹き飛ばされる恭也。
それを相馬は追おうとしなかった。
理由は単純。自分の足に残った感触はあまりにも軽いものだったからだ。
自分から後ろに跳んで、衝撃を逃がしていた。
確かに直撃はしたがダメージなどそうはあるまい。
恐らく恭也の様子は……芝居。相馬を無理に攻勢に出させようとする恭也のブラフ。
そう判断した相馬はその場で足を止め、恭也の出方を窺う。
その予想は正解だったようで、吹き飛ばされた恭也は、あっさりと体勢を整えていた。
二人の剣気が、気合が、殺気が、ジリジリと音をたててぶつかり合う。
僅かな隙も命取りとなる。そんな息も詰まる戦い。
優勢なのは―――相馬。
相馬の攻撃は確かに恭也に届いてはいない。
だが、相馬は恭也に攻勢にでることさえ許していない。
見事なまでに相馬は恭也を封じていた。
そんな戦いの中で相馬の内に渦巻いていたのは……歓喜だ。
自分が【御神】と戦うために考え出した対御神流剣術が確かに通用している。
十数年かかって練り上げたこの剣技は全て【御神】を斬るためだけに作り上げ、練磨したといってもいい。
相馬の人生の全て。
それをかけて高め上げた剣技が【御神】の剣の分身ともいうべき存在に―――恭也に通用している。
これを喜ばずにどうしろというのか。
今は戦いの最中だ。
先程相馬が口に出したとおり僅かでも間違えれば全てが終わる。
今まで戦ってきた相手とはレベルが一桁も二桁も異なる戦いの次元。
だというのに、相馬は心の奥底から湧き出る喜びを抑えきることが出来なかった。
全てを捨てて己の突き進んだ道が正しかったことを天が証明してくれたのだ。
相馬が地面を蹴る。
土が抉れ、宙を飛ぶ。
土が地に落ちるよりなお速く、相馬の剣が空を舞う。
美しく、流麗で、冷たい。
人を斬ることを全く躊躇わない、人斬りの剣。
圧倒的だった。
あの恭也を相手にして相馬の剣技は凄味を、切れ味を増していった。
防戦一方の恭也。
なすすべもなく、追い詰められるだけであった。
小太刀が、夜風を切り裂いて、爆ぜるような連撃。
幾度も。竜巻のように。止むことのない超速度の嵐。
だというのに。それだというのに。
相馬が気づいた。いや、ようやく気づけた。
恭也に掠り傷一つつけることができていないということに。
ゾワリと、今までの幸福感を吹き飛ばす、吐きそうになるほどの悪寒。
相馬の剣は確かに恭也を押さえ込んでいたはずだ。
押さえ込んで……。押さえ込んでいたというのは、相馬の勘違いだったとでもいうのか?
己を襲う疑問。そして続く悪寒。
相馬の斬撃を弾き飛ばすような、一振り。
相馬の想像通りの軌跡を描き、迫ったその一撃を、受け止めようとして弾き飛ばされた。
今までの比ではない、衝撃。文字通り桁が違う徹のこもった剣撃。
小太刀が悲鳴をあげ、手から零れ落ちそうになった小太刀を歯を食いしばって握り締めなおす。
だからこそ相馬は逃げた。攻撃の手をやめ、大きく距離を取った。
「お前は、お前は何だ……恭也、お前はなん、だ!?」
言葉にはならなかった。
取りとめもない、自分でも何を言っているのか分からない何かが口から飛び出す。
「……貴方は凄い、な」
慌てる相馬とは裏腹にぽつりと恭也は静かに漏らした。
「御神流をベースとしているとはいえ十数年でよくそこまで……」
恭也の言葉には怒りは存在していた。
それも当然のことだろう。家族を傷つけたのだ。
だが、その裏には隠しようのない尊敬の念があった。
「もし、もしも貴方がこの十数年ただひたすらに御神流を極めようとしていたならば……俺の上を行っていただろう」
だからこそ、惜しかった。悔しかった。
この目の前の男が、御神の道を踏み外してしまったことに。
「たかが十数年で何を誇ることがある?御神流は―――その数十倍もの年月を受け継がれてきた」
相馬が恭也に見た焦りにも似た感情。
それは、焦燥ではなかった。
その感情は―――憐憫。
御神相馬という御神流の天才剣士が、御神の道を踏み外し、自分と戦っていることへの。
恭也の言うとおり、もし相馬が恭也と同じように御神流を極めんとしていたならば、或いは恭也に匹敵、いや確かに上回っていただろう。
かつての相馬はそれほどまでに強かった。士郎達を上回る剣士として恭也の思い出に嫌というほど叩き込まれていたのだから。
だが、相馬は曲がってしまった。
御神流とは違った道を歩んでしまった。
全ては【御神】を超えるために―――いや、違う。
そう、違うと恭也は首を振る。それは【御神】を超えるためではない。
「貴方は【御神】から、御神流から逃げただけだ。御神の底は貴方が考えているほど―――浅くはないぞ」
ぞっとした。
真冬に裸で外に居るような、脊髄を抜かれ変わりに氷柱を突っ込まれたかのような。
完全に相馬は気圧されていた。
たかが二十の若造に。かつてせせら笑った幼き剣士に。
「貴方に御神の真髄をお見せしよう」
限界だった。
これ以上恭也の言葉を聴くことなど出来なかった。
己が積み上げてきた十数年の努力が無駄だとは、思いたくはなかった。
「あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
相馬は叫ぶ。
喉が焼けても構うものかと。
狂気と殺意を乗せて、生涯最高最速となる踏み込み。
疾風となった一陣の風。烈風を纏って神速で横薙ぎにされる二刀の小太刀。
相馬の視界の中で未来を予知したかのように恭也の動きを読み取ることが出来た。
両脇から迫る二刀を、恭也も両の小太刀で受け止める。両手が塞がったその状態になった瞬間、蹴りを放つ。
そう相馬は予測した。
相馬の予想の通りに、恭也は小太刀で受け止めた。
だが―――。
耳障りな金属音が鳴り、耳を打つ。
蹴りを打つ暇もなく、相馬の腕を伝わる衝撃。
―――徹。
ただ、それだけだ。
あまりにも完成された、完全なる徹。
完成された基本の徹は、相馬の攻撃を防ぐことはおろか、逆に相馬の腕を数秒とはいえ使い物にならなくさせた。
そして、その数秒で決着はつく。
恭也の小太刀が閃き、相馬は身動きする間もなく―――。
「がぁああっ!?」
恭也の腕に伝わってくる人の肉と骨を断つ嫌な感触。
遅れて聞こえる相馬の悲鳴。
地面にぶちまけられる鮮血。
ボトリと音をたてて、境内に落ちる、相馬の右腕。
恭也の小太刀は、相馬の片腕を何の躊躇いもなく半ばから断っていた。
声にならない声が相馬の口から漏れる。
痛みのあまりに、悲鳴すらこれ以上あがらない。
あふれ出る血を押さえ込むように、ハンカチを取り出すと器用に口ともう片方の腕を使って脇をきつく締める。
対して恭也は追撃をするでもなく、そんな相馬を見下ろしていた。
決着はついた。
片腕が使えなくなった以上、もはや相馬に勝ち目はなし。
地面に膝をつき、俯いている相馬。それを見下ろす恭也。そんな光景が暫しの時間続いた。
「……くっ……はっはっは……無駄、だったか。俺の、やってきたことは、無駄だったか……」
痛みで朦朧としているのだろう。
相馬は薄ら寒い笑い声をあげながら、地面をみつめたまま自嘲する。
ボタボタと腕から流れる血が少しずつ少量になっていく。
「おれ、は……そうだな。【御神】を、倒すために……御神流を捨てたんじゃない、ってことか……そう、俺は逃げたんだ……【御神】を倒すためという理由で、御神流から……逃げたんだ……」
相馬が顔を上げた。
虚ろな瞳が恭也と交錯する。
「俺は、諦めたんだ……俺の道は、そこで終わっていたんだ……続いていたと思ったのは、俺の見ていた、幻だった……」
ゆらりと相馬は痛む身体をおして立ち上がった。
片方しかない腕で小太刀を握る。
まだ戦う気かと眉を顰める恭也。
例え片手しかなくなったとしても向かってくるならば容赦はしない。
そんな表情の恭也に気づいたのか相馬は我慢できないように笑みを浮かべた。
「……片手で、お前に勝てるかよ……この勝負、お前の勝ちだ、恭也……」
どこか清清しいような笑みを浮かべた相馬にもはや戦意はない。
それに恭也も構えたままだった小太刀を下ろす。
勿論、鞘に納めるまではしないが。
「……貴方に聞きたいことがある」
「くっ……なんだ?勝者は、お前だ……何でも答えてやるよ……」
痛みを堪えながらも相馬は皮肉気に笑ったままだ。
「……昔、貴方は随分とまともだったと聞く。とある事件に遭遇してから酷くなったと……琴絵さんが教えてくれた。あの人は貴方のことを気にかけていた。その理由は……」
「ああ、なんだ……そんなことか。出会っただけだ……決して覆すことができない差をもった、絶対の化け物に……」
恭也の質問に簡単に答える相馬。
思い出す。御神流こそが最高だと、【御神】こそが最強だと信じていた時代。
それを覆す超生物にであってしまったのだ。その時に、数多の友を殺された。
だが、その悲しみよりも、そんな感情を全て吹き飛ばすほどの、圧倒的な暴力を見てしまったのだ。魅入られたといってもいい。
圧倒的な原始の暴力に魅入られて相馬は曲がった。外れた。【人】が扱う御神流の限界を感じてしまった。
そのためだろう。夜の一族の女との間に子をもうけたのは。
生まれついての、人を遥かに超える身体能力と再生能力。そして異能力を持つ存在に御神の技を受け継がせ、百鬼夜行を超えさせようとしたのだ。
そして御神流を修得し、全てを超えた宴に宿った【御神】を……最終的には自分が創り上げた対御神流の剣術で凌駕するつもりだった。
そう、つもりだった……。
言葉では【御神】を倒すと幾度も言っていた。だが、心の奥底のどこかでは考えていたのかもしれない。
人では超えられぬ壁がある、と。
「……お前も、知っているだろう……闇夜に生きる、夜の一族の頂点……王の中の王……百鬼夜行……アレは、アレは、御神流を上回る暴力の化身、だ」
乾いた笑み。
相馬は失った血液が相当の量に達しているのだろう。
青ざめた顔のまま、だが、両足だけは震えずにしっかりと立っていた。
そんな状況だというのに相馬は、何かを思いついたように笑みを深くした。
「お前は、強いな。本当に、たいしたモノだ。だからこそ、お前が宴と戦い……美由希を俺にぶつけたならば……あいつは死ななかっただろうに……」
「な、に!?」
「戦う前に言った……宴が俺より強い……それを冗談だとでも思った、か?」
「……何を、何を言っている!?」
血を流しすぎて正気をうしなったのかと勘ぐる恭也。
だが、相馬の瞳はしっかりと恭也を射抜いている。
「お前には、言ってなかったな……あいつには半分だが、夜の一族の血が流れている……」
恭也の首筋がチリっと痛んだ。
心臓が早鐘のように胸を打つ。
何度も恭也を襲った悪寒。
それの正体がようやく分かったのだ。
「ハーフの、せいだろうな……あいつが、本気をだせるのは……夜だけだ……あいつの歪みは、夜中に頂点に達する……夜の一族の力を解放した宴は……俺より、強いぞ?」
「……くっ!!」
恭也が反射的に走り出した。
美由希の気配を探るが―――遠すぎる。
普段の自分の察知できる範囲内にはいなかった。範囲を意識的に広げてようやく二つの気配を捕まえた。
集中して気配を探っている今だからこそ分かる。宴の異様とも言える気配。
……強い。或いは獣人化していない時の水無月殺音にも匹敵するのではないか―――というほどのレベル。
だというのに、美由希と宴が居るであろう場所。そこは数分もあればたどり着けるであろう場所だ。
それでも、遠すぎるのだ。僅か数分がどれだけ絶望的な時間なのか。
「まて、よ……」
その声で……恭也は足を止めた。
止めざるを得なかった。
その声にはそうしなければならない何かが込められていたのだから。
振り返った恭也が見たのは、蒼白になりながらも小太刀を構える相馬の姿であった。
流石に苦虫を噛み潰したような表情になる。
恭也は人を斬ったことは……ある。
だが、喜んで斬ったことなど一度としてない。
やらねばやられる。そのようなどうしようもない状況でのみ斬ってきたのだ。
片腕を斬られるという、剣士としての生命が終わる、ある意味死ぬことよりも辛い状態の相馬とこれ以上剣を交えるというのは多少なりとも気が引ける。
「今すぐ医者にかかれば命だけは助かるはず、だ」
そんな恭也の言葉も無視して、相馬は小太刀を己の目線の高さまで持っていく。
自分の血で真っ赤に染まっている小太刀を目を細めて眺めると。
「いい勝負だった、と。俺の中ではそう思っている、が……お前からしてみれば、取るに足らない相手だったの、だろうがな……」
ギラギラとした野獣のような目つきに戻り、小太刀から恭也へと視線をうつす。
「……相手にも、ならなかった……お前は……強すぎる……」
相馬の言葉とは真逆に、どこか嬉しそうな口調で語る。
「……これ以上の、戦いなど……お前以上の相手など、望むことはできまい……片腕を失った今の俺ではなおさら、な……」
今度は正反対の絶望が入り混じった吐息が漏れた。
そんな相馬は小太刀を己の首元へともっていき―――。
「……例え、無駄だったとしても……意味がなかったのだとしても……」
ぷつりと首の皮が一枚切れた。
つぅと糸のような赤い血が首から垂れていく。
「俺は、俺の道を……貫き通した!!俺が歩んできた道に……僅かたりとも後悔はねぇ!!」
ぞぶりと音をたてて小太刀が首を切り裂いていく。
相馬の放つ得体のしれない狂気に恭也は言葉を失った。
「……永遠と続く、戦いの螺旋から……先に降ろさせて貰う。涅槃で、お前を待っているぞ……恭也ぁあああああああああ!!」
それは断末魔ともいえるだろう。
相馬の雄叫びが響き渡り、怨念のような悪意が周囲を満たした。
直後、相馬の頭がずれるように地面へと落ちて音をたてた。
暫くして思い出したように頭を失った胴体は足元へと湖を作っていた血の池へと倒れ付す。
恭也は不覚にも魅入られてしまった。その凄惨な光景に、嫌悪を抱くよりも。
一瞬とはいえ、相馬の行動に。
確かに、人としては最悪ともいえる人間だったのかもしれない。
だが、剣の道にこれほどの命をかけることができた人間を知っているだろうか。
かつて見た御神の一族の誰よりも、相馬は剣に命をかけていたのかもしれない。・
全てを捨てて己の信じた剣の道を歩いた。文字通り剣に生き、剣に死んだ。
家族が居る。護りたい者がいる。
相馬を真似することなど決して出来ない恭也にとって、少しだけ、ほんの少しだけ―――羨ましかったのかもしれない。
恭也がもし、復讐に生きたのならば……或いは相馬の歩んできた道と交差したのかもしれない。
だが、首を振った。
羨ましいという気持ち以上に、家族が大切なのだ。
ただ一振りの刀として覚悟を決めたとしても、桃子が、なのはが、美由希が、レンが、晶が、フィアッセが―――大切なのだ。
最後に一瞥だけ相馬に視線を向けると、恭也はそれ以上振り向くことなく、美由希と宴の戦っているであろう場所へと疾走した。
「はぁ……はぁ……」
ぼろぼろだった。
あの美由希が、全身の至るところに傷を負い、小太刀を構える姿さえ、頼りなく見える。
美由希の鋭い視線の先、月の光を浴びてこちらを窺っているのは御神宴。
夜の一族の血を受け継ぐ、闇夜の剣士。
美由希とは正反対に、宴は全くといっていいほどの無傷。
それどころか余裕も見て取れる。
「凄いですねー。まさかまさか、本気の私と五分も戦える相手がいるとは思わなかったですよー」
口調は軽い。
本気になる前と一切変わっていないように見える。
しかし、美由希はその裏に賞賛を込められているのを感じ取った。
成る程。確かに宴のその気持ちも分かるだろう。
本気になった宴は強い。これほどまでに強い相手を美由希とてそうはしらない。宴が生きてきた中で互角に渡りあうことができる力持つものがいなかったとしても仕方ない。
当初の予想通り、水無月殺音にも匹敵する。
だが―――獣人化した殺音には到底及ばない。
だからこそ美由希は覚悟を決めた。この少女を、御神宴を倒すという覚悟を。
この少女を倒すことができれば、自分が目指す恭也に一歩近づけるのだから。
「これだけの差を見せられて心が折れませんか……」
心底呆れたような、尊敬したような、二つの感情が入り混じったため息がもれる。
美由希の姿は確かに傷だらけで敗北の淵が開きかけているかのようにみえる。
それでも心は宴の言うとおり全く折れてはいない。
逆に先程より一層、強くなっている。
「……では、そろそろ終わりにしましょうか」
宴の身体がぶれた。
神速を使っていないというのにその速度は視認することさえ難しい。
人とは明らかに異なる超速度。
一瞬で間合いを詰めてくると力任せに小太刀を振るう。
美由希はその斬撃を受け止めようとはしない。
すでに宴の膂力は人を遥かに超えているといっていい。
あの恭也でさえ、水無月殺音と剣をまじえる際には、刃筋を逸らせて受け流していた。
それはまともに打ちあってはあっさりと刀ごと叩き切られることになったからだ。それほどまでに力の差があった。
生憎と今の美由希はそこまでの域には達していない。
恭也のお株を奪うかのようなミリ単位の見切りをもって宴の刃をかわす。
いや、かわしきれてはいなかった。頬をかすめたのか、僅かに血が流れる。斬られた髪の毛がはらりと風に乗って飛ぶ。
ミリ単位でかわしているのではなかった。ミリ単位の差でしかかわすことができなかったのだ。それほどまでギリギリの世界で美由希は命を繋いでいたのだ。
力も速度も相手の方が遥かに格上。
それも埋めようがないほどの圧倒的なほどの―――差。
美由希の視界から一瞬にして姿を消す。
なんという理不尽なまでの、速度なのか。
師は、恭也はこれほどまでの、いや、これ以上の相手との戦いで勝ちを拾ってきていたのか。
見ている側ではなく、戦ってようやくわかったのだ。
これが、人外の中でも最高峰に位置するであろう、真の夜の一族。バケモノと呼ぶに相応しき、夜の剣士。
だが、気持ちだけは負けてなるものか。
無言の気合が、空気を打つ。
何の前触れもなく感じた背後からの殺気。
地面を蹴って、前に跳ぶ。
宴の蹴りが美由希の頭があった場所を刈っていた。
蹴りが起こした風が美由希に届く。
幾ら月が照らしているとはいえ、周囲は森だ。
木々が鬱蒼としていて視界が悪い。
だというのに宴は何の迷いもなく周囲を駆け巡る。
その動きは高町家で見たときと速度が段違いで異なる以外は変わらない。
地面を蹴った後、忘れていたかのように地面に落ちている枯葉が飛び散る。
凄まじい速度で、美由希を撹乱するかのように駆け回る宴の瞳だけが、爛々と赤く輝いている。
宴の動きを予測して飛針を投げる。
だが、それは全く見当違いのように木々に突き刺さるだけだ。
今度は真正面から踏へとみ込んできた宴の小太刀が舞った。
美由希は横っ飛びに転がって、宴の突進をかわす。
即座に方向を変え、美由希へと迫ってくるが、反射的に美由希は回し蹴りを放つ。
反射的といっても、その蹴りは実に見事であった。
切れるような美しさを秘めた蹴りを、宴は軽く飛び上がってかわし―――美由希を唖然とさせた。
瞬時に蹴った足を引き戻そうとした美由希の足の先に、宴が確かに乗ったからだ。
重さを感じさせる前に、宴が薄く笑って跳躍。美由希から距離を取った。
その動きはまさに……天守翼が、相馬にしてみせた動きそのものであった。
それに驚くなというほうが無茶であろう。
「っ……!!」
息を呑みながらも美由希は、意識を宴から外すというような真似はしない。
霞むような速度の宴から、一瞬でも意識をそらすと言う事は、待っているのは呆気ないほどの死だろう。
美由希はからからに渇ききった唇を軽く舐めて湿らす。
その時グラリと眩暈がした。ズキリと頭痛がする。
何故そんなことがおきたのか。集中力を使いすぎたのか。普通ならばそう思っただろうが、美由希はその理由がはっきりと分かっていた。
「……っさい……」
「うん?」
宴の聴覚でさえ聞き取れないほどの小さな呟き。
それに思わず聞き返す。
「……うるさい!!貴女が、でてくるな!!これは、私の戦いだぁぁあああああ!!」
烈火の雄叫び。
決して譲らぬ、美由希の鋼鉄の意志がそれには込められていた。
強く、気高い。荘厳さを感じさせる。
高町美由希の魂の咆哮。
ビリビリとその雄叫びは空気を揺るが、宴をうった。
それが自分に向けられたものではないのは一目瞭然。
だというのに、宴は心を直接揺さぶられたかのような衝撃を受けた。
美由希は持っていた小太刀の柄で力いっぱい己の額を打ち付けた。
ゴンという激しい衝突音が響き渡る。
相当強く打ち付けたのだろう。グラリと一瞬体が揺れるが、すぐさま体勢を整える。
額が真っ赤に染まっているのが少しばかり間抜けであった。
その光景を唖然としてみていた宴だったが、面白そうに笑った。
それは、馬鹿にしたような嘲笑ではなく、友達に向けるかのような屈託のない笑顔であった。
「あははははは!!美由希さんって面白い人ですねぇ……うん、素敵な剣士です」
「有難うございます。でも、その言葉はそっくりお返しします」
「にひっ。ちょっと嬉しいかも」
二人は剣を交えている。
だというのに、笑うことなど場違いだというのに……二人はそれが当たり前であるかのように笑っていた。
そこに憎しみはなかった。悲しみもなかった。怒りもなかった。
美由希と宴の間にあったのは―――強いものと戦いたい。
単純な、ただそれだけの純粋なまでの剣への欲求。渇望。
「何時までも貴女と剣をまじえていたけど……」
「そうですね……そろそろ終わりにしましょう」
クスリと二人は笑って……空気が凍った。
互いに次の一撃で決めようと、全ての残された力をその小太刀に込めて―――。
空気が張り詰めている中、美由希は一筋の勝利への光を見ていた。
宴は強い。自分では到底及ばぬ圧倒的な身体能力。
だが―――。
「……御神美由希。参ります」
大地が爆ぜた。
今までを超えた速度で迫ってくる宴。
風を従えて、黒く瞬く流星となって、放たれる一刺。
その姿はなんと美しく、なんと眩い姿であったことか。
宴は己の小太刀が美由希を貫く予見をしたのだが―――。
バサリと、衣服がはためく、不思議な音を宴は聴いた。
それは、幻聴だったのかもしれない。だが、確かに聴いたのだ。
己の脇腹に走った、理解できない痛みとともに。
「なん……で……?」
美由希と宴。互いに交差した瞬間、倒れたのは―――宴だった。
切り裂かれた腹部を押さえて、膝をついた宴の後方で、小太刀を振り切った体勢のままの美由希がいた。
美由希の握る小太刀には確かに宴を斬った証明として、赤く流れる血を纏っている。
そこでようやく止めていた呼吸を、いや忘れていた呼吸を激しく繰り返す美由希。
極限にまで研ぎ澄まされた集中力。一瞬とはいえ、先程の美由希は、遥か遠い世界に踏み込んでいた。
もし、恭也が見ていたならば驚きのあまり言葉を失ったであろうか。それとも喜びで、言葉を失ったであろうか。
ハァハァと息切れしている美由希は、膝をついている宴に振り返ると流れ落ちている汗を拭った。
「貴女は凄かった、です。人を遥かに超えた身体能力……脅威の一言でした。ですが―――」
少しだけ悲しそうに、宴を見下ろす。
「夜の一族の力を解放してから貴女はそれに頼り切っていました。圧倒的な力に。絶対的な速度に。ですが……御神の技はそんなモノに負けるほど安くはありません」
「あ、あは……は……。そうか、そうだったね……力に溺れちゃったの、か……」
美由希の発言に宴は力なく笑うと、ドサリと音をたてて地面に身を投げ出した。
思い出す。確かに美由希の言うとおりだった。
驕っていたのだろう。自分の人間を超えた超身体能力に。
本気をだせばどんな人間にも勝てると。その力だけで、あらゆる存在を打倒できるという慢心。
そんな驕りを―――御神の技で打ち砕かれた。
「ちょっと、残念ですかに……ここが、私の終焉……ですかー」
仰向けになると丁度見下ろしてくる美由希と目が合った。
力強い眼だった。
恐怖に負けない。どこまでも先を見ている。例え、躓いても立ち上がり未来へと歩いて行く。
そんな、強き剣士の眼だった。
「貴女に、負けたのならば……満足、ですかに……」
儚げに笑うと、宴は眼を閉じた。
その姿は、言葉には出さないが止めを刺してくれと、そう語っていた。
眼を閉じて広がる黒一色の世界。
ふとその黒一色の世界に今までの思い出が蘇ってくる。
ああ。これが走馬灯ってやつですか―――。
そのどれもが相馬とのろくでもない思い出ばかりなのが悲しいことだが。
物心ついたときから剣に生きてきたのだから仕方ないかもしれない。
友達も、恋人も、なにもなかった。あったのは相馬と、そして剣。
……本当にろくでもない人生だった。
でも―――後悔はない。
何時までたっても来ない最後の時を不思議に思っていた宴だったが、そんな宴の耳に聞こえたのは小太刀を鞘に納める音だった。
眼を開けてみればこちらに背を向けて立ち去ろうとしている美由希の後姿が見えた。
その光景を理解できずに固まるが、反射的に美由希の足を止めようと声をかけた。
「なんで、とどめをささないん、ですか?」
「……貴女を斬りたくない、そう思っただけです」
それに宴が眉を顰める。
「あまい、ですよー。私は……貴女の家族をどれだけ、傷つけたと思って、いるんですか?」
「そうですね。別に貴女のことを許したわけではありませんよ?ですけど、命まで奪う気はありません。だって、貴女だって晶とレンを殺さなかったでしょう?」
「あれ、は……素手で戦っていた、からですし……」
「うん。そうですね。でも、貴女ほどの御神の使い手だったならば……素手でも人を殺せたはずです」
「……」
「でも、貴女はそれをしなかった。レンと戦っていたときもそうです。小太刀を使えば幾らレンが相手だったとしても、貴女は勝利を容易くつかめたのに。晶との戦いもそうです。あれだけ攻撃を受けた晶が何の後遺症もない?そんな馬鹿なことがあるはずがないです」
「それ、は……」
「貴女は真っ直ぐなんですね。気持ちのいいくらい……剣を交えた私だから分かります」
詰まったように言葉が出ない。
目の前の美由希に圧倒されて、何を言えばいいか分からない。
「でも、貴女の妹を……」
「なのはのことですか?確かに許せない気もちはあります。でも、貴女は―――やってないはずです。貴女がなのはみたいな子供を傷つけることはできません。それくらいわかります」
「……」
まるで見ていたかのようにそう語る美由希。
宴は―――黙るしかなかった。
「憎しみも怒りも……消すことは出来ません。でも、貴女みたいな剣士をこんなところで失いたくない。そう思ったんです。ですから……」
宴を振り返る美由希。
「また、戦りましょうね?」
にこりと屈託のない笑みを宴に送り―――美由希は森へと姿を消した。
残された宴は呆然と美由希の後姿を見送り、諦めたかのように空を見上げた。
鬱蒼とした木々が乱立するこの空間で、何故か空だけは綺麗に見えた。
星々が煌き、月が輝く。
ぐにゃりとそんな世界が歪んだ。
疑問に思って指で眼をこすると理由が分かった。
泣いていた。
涙が眼から溢れかえっていた。
宴は初めて涙を流す。
それは美由希の優しさと大きさに触れたためか―――。
子供のように宴は涙を延々と流していた。
----------エピローグ--------------
「大丈夫ですカ?美沙斗……」
「ああ。お蔭様で随分と身体も動くようになったよ。こういうのも変だけど、うまく斬られていたらしいね。傷の治り方も早いみたいだよ」
「そうですカ。それはよかったデス」
警防隊がよく利用する病院。
その一室でベッドに横になっているのは御神美沙斗であった。
ベッドのすぐそばに置いてある椅子に座っているのは弓華だ。
宴に貫かれたときは慌てたものだったが、どうやら重要な臓器を傷つけていなかったようで、回復のあまりの早さに美沙斗自身が驚いていた。
隊の仲間も暇があれば見舞いにきてくれたようで少しこそばゆかったが、それ以上に嬉しさがあった。
特に弓華は仲も良かったこともあるが、美沙斗が襲われたとき傍にいながら何も出来なかったことを悔やんでか仕事がない日はほぼ毎日といっていいほど来ていた。
「林檎でも剥きましょうカ?」
「いや、今はいいかな。弓華もゆっくりしてくれるといいよ」
「有難うございマス」
二人の間にゆったりとした空気が流れる。
入院するまでは仕事仕事でゆっくりする間もなかった。
だからこそ、こんな時間も少しいいかなと美沙斗はふと思ったが……。
「……ノックくらいはしたほうがいいと思うよ?」
「……っえ?」
美沙斗が入り口の方に顔をむけて諭すようにそう言葉を投げた。
それに疑問の声をあげたのは弓華だ。誰かが入ってきたような物音はしなかったというのに。
弓華の視線の先には―――美沙斗を刺した張本人である御神宴の姿があった。
弓華は反射的に椅子から立ち上がり隠していた武器を持って宴を威嚇しようとするが、それを抑えたのは他ならぬ美沙斗だった。
「敵意はないみたいだけどどうしたんだい?私に止めをさしにでもきたのかい?」
「……今日は、謝罪にきました」
宴がそう搾り出すように返した。
そして、何の躊躇いもなく、床へと座り美沙斗に向かって土下座をした。
ガンッと音が成る程強く額を床に叩きつける。
「謝ってすむ問題だとは思いません。私が殺されたって仕方のないことだと思います。ですが―――申し訳、ありませんでした」
頭を上げることなく、宴はただ美沙斗に向かって謝罪をし続ける。
そこには何の裏もなく、心の底から美沙斗に謝っているのが誰であろうと一目でわかった。
弓華はどうしたらいいかわからず美沙斗と宴を交互に混乱したかのように繰り返して見るだけだ。
美沙斗はそんな宴を見ていたが、どこか納得したかのように、優しい笑みを浮かべた。
「君は……会ってきたんだね。戦ってきたんだね。私の娘と……そして恭也と」
「……はい」
「私の娘を……美由希をどう思った?」
「……凄い、剣士でした。私の、目標です」
宴の嘘偽りない答えに美沙斗は嬉しそうに笑った。
自分の娘がこの少女を―――御神宴の目標になったことを喜んだ。
暫く見ない間にまた随分と大きく、強くなったようで、美沙斗は美由希のことを誰よりも誇りに思った。
「……君も、真っ直ぐ生きなさい。今からでも遅くはないよ……手遅れだなんてことはきっとない」
ポタリと音がした。
美沙斗と弓華からは見えないが、それでもわかった。
少女が泣いているということを。
ポタリポタリと雫が床をぬらす。宴は―――。
「……はいっっっ!!」
ただ、そう答えることしか出来なかった。
「……と、いうことがあってね」
「何処に行ったかと思ったら宴さんって、かーさんのところまでいってたんだ」
「……なかなか行動力がありますね」
高町家の縁側にて、美沙斗と美由希、そして恭也がお茶をのみながら団欒に興じていた。
恐るべきは御神美沙斗。どこからどうみても姉兄妹の兄弟にしかみえやしない。
御神の一族は若作りの血筋であるのだろうか。
「でも、暫くたってまた香港から姿を消してしまったみたいだよ。今はどこにいるかわからないね」
「そうなんだ」
美味しそうに手に持っていた湯飲みを啜る美沙斗。
それに相槌をうつ美由希だったが、意地悪そうな美沙斗の視線に首を傾ける。
「あの娘は……強くなるよ。きっと、とんでもなく、ね」
「……うう。あの時は本当に運が絡んだ勝利だったのに……一歩間違えば私負けちゃってたよ」
「ふふ。美由希も強くならないとね」
「……精進します」
そんな二人を温かい眼でみていた恭也だったが、ふと視線を外にずらす。
広がっているのは晴天。
雲ひとつない、清清しいまでの青。
そんな空にふと宴の姿が浮かんできた。
琴絵に似た、だが違う少女。
また近いうちに会うことになるかもしれない……そう、理由もなく恭也は感じていた。
「早くしなさい、葛葉」
そう冷たい声がとんでくる。葛葉は両手で抱えている巨大なダンボールに入ったテレビを腰が砕けそうになるのを必死で耐えながら翼の後をついて行っていた。
前回は冷蔵庫だったが今回はテレビだ。もう暫くたつと地デジ化とかよくわからない状況のせいでテレビが映らなくなるらしい。それで新しいテレビを買うために翼に荷物もちとして借り出されていたのだ。
今度こそ小さいテレビにしろよと何度も言ったのだが全く相手にもして貰えず、結局凄まじい大きさの画面のテレビを買われてしまった。
前回と一緒で飯を奢ってくれるからという甘言にのってほいほいと呼び出されるべきではなかったとまたまた後悔していた。
馬鹿だ馬鹿だと鬼頭水面に散々言われるのはここらへんが関係しているのだろう。
ズシンズシンと音がたちそうなくらい震えながらゆっくりと歩いている葛葉だったが、翼が足を止めているのに気づき、目線をやって、固まった。
翼の視線の先、そこは海鳴駅から降りてきた人ごみのなか―――、一際人々の視線を集める少女。
何時ぞやに見た、妖精のような美少女……御神宴。
自分を見ている翼に気づいたのか、大きく手を振って答える。
「やっほー。翼さーん!!暫くこの町にお世話になるからよろしくねー」
天真爛漫な宴は、向日葵のような笑顔で笑っていた。