山田太郎。
彼は平凡な名前と同様に平凡な人生を歩んでは―――いなかった。太郎が歩いてきたのは栄光の道といっても良い。
自分の異常性に気づいたのは何時頃だったろうか。物心ついたころには気づいていたのかもしれない。
人並み外れた身体能力。同年代を遥か後方に置き去りにする桁違いの運動能力を所有していた。
そして、もう一つ。自分のイメージしたとおりに身体が動いてくれるのだ。僅かな狂いも無く。特に戦いという場においては絶大な効果を発揮する。中空に描く想像の軌跡をなぞるように腕を振るえば如何なる相手も地に沈んだ。
太郎は凄かった。圧倒的なほどに強かった。これまでの人生で戦ってきた相手で、太郎を苦戦させるような敵はいなかった。それはどんなスポーツに置いてもそうだったのだ。
努力をせずとも、他を圧倒できる純粋な才能。それだけで、太郎は最強という称号を欲しい侭にしていた。
だからこそ、つまらなかったのだ。どんな相手も敵となりえる存在が居なかった故に。太郎は己と対等に渡りえる敵を誰よりも求めていた。
そして、ようやく出会えた。高町美由希という雌獅子に。
一目で心を奪われた。
勝てるかどうかわからない。本気でそう思える存在にようやく出会えたのだ。
歓喜しか太郎にはなかった。そこでひたすらに考えた。どうすれば高町美由希の全力を引き出せるのか。
考えた末の方法。妹の高町なのはを餌にするという碌でもない手段だったが、しっかりと高町美由希をおびき寄せることが出来た。
ようやく戦えるのだ。ようやく本気で潰しあえるのだ。
ああ―――愉しみだ。
倒れ伏した太郎には目もくれず、美由希はベッドに寝かされているなのはに駆け寄ろうとして足を止めた。
壁に激突して地面に寝転がっていた太郎がゆらりと立ち上がったからだ。足取りは多少は覚束ないようではあったが、それでも立ち上がったことに驚きは隠せない。
脇腹を殴られ、顎を蹴り上げられたというのに、太郎の表情は普段と変わらない笑顔を見せている。いや、逆に普段より笑みが深いような気がした。
「いやはは。素晴らしいね。僕の反応よりさらに早く……これほどとは思わなかったよ」
全く堪えていないような様子の太郎に、美由希の眉がピクンと跳ねる。
たった二発とはいえ、全力の拳と蹴りを叩き込んだのだ。だというのに平然とする様子は予想外ではある。
赤くなった顎を手でさすりながら、壁際から美由希に一歩ずつ近づいてきた。
「……っ!?」
出し抜けに、背筋を悪寒が突き抜けた。
幾千と繰り返してきた戦いの経験が反応し、流れるように身体が動く。
咄嗟に顔の前で組み合わせた腕に激しい重みと痛みがはしった。
崩れかけたビルに山彦が響くように肉と肉がぶつかり合った音が木霊する。
その衝撃に美由希の重いとはいえない身体が後方へと流された。
そのまま仰向けに倒れそうになるのを堪えながら、太郎の行動を見逃さぬよう体勢を整える。
太郎は追撃を仕掛けるでもなく、右手を前にした半身の構えを取り呼吸を短く吐いた。
それに美由希は首を傾げたくなる。確かに見事な構えだとは思ったが、何かがおかしい。
足は大地に根を生やしたかのようにどっしりと踏みしめられ、背筋は鉄棒がはいっているのではないかと疑いたくなるほどに伸び、構えに隙が無い。まさにお手本のような姿勢。
一種の理想ともいえるが―――あまりにもそれが完璧すぎた。外側だけが一分の隙も無いのだが、肝心の中身が―――。
地面を叩きつける音が聞こえ、太郎の身体が空を跳ぶ。
数歩の間合いは、一瞬で消え去り、左右の拳が美由希へと襲い掛かった。
先程のお返しと言わんばかりの右拳が美由希の左脇腹を狙うが、一歩後ろに引くことによってかわす。続いて、左拳が美由希の側頭部に放たれた。
その左拳が美由希に着弾すると思われた瞬間、太郎の下半身から地面への感覚が突如消えうせる。
太郎の死角となる位置から足払いをかけられた。遠くから見ている者がいたならばはっきりとそう分かっただろう。
だが、太郎は足を払われたと理解できることはなく―――視界が反転するなか、美由希の肉薄を許していた。
必死の思いで、体勢も定まらぬまま、苦し紛れの拳を振るう。
そんな攻撃が美由希に通じるわけも無く、救い上げるような美由希の左拳が太郎の腹部に喰らいつく。
先程と同様に身体を突き抜ける、衝撃。か弱い少女の拳だというのに、その一撃は鉄槌で殴られたと錯覚するほどに重い。
「ぐっはっ!!」
拳の衝撃に口から唾液が撒き散らされる。
透明なものだけでなく、赤い血が混じった唾もあった。この前にくらった顎への蹴りで口の中を切っていたらしい。
唾液を吐き出しながらも、美由希が左足で踏み込んだのが見えた。そして―――右足がぶれる。
脇腹への衝撃で頭が下がったため、太郎の頭は美由希の蹴りで狙える絶好の位置へと落ちていた。
放たれる右足。霞むような速度で跳ね上げられた右足は太郎の側頭部めがけて蹴り上げられた。
どれだけ速くても、来る場所が分かれば防御することは容易い。左手をあげることによって、直撃だけは避けようとしたが……太郎の左腕に防がれる瞬間、右足がさらにぶれた。
蹴りの角度が突如変化。隙だらけとなった脇腹へと叩きつけられる。
「―――っぁぁぁ!?」
想像もしていなかった一撃に、太郎の喉からは言葉にならない悲鳴しか上がらない。
腹部を襲う激痛を必死で無視しながら、美由希から逃げるように距離を取る。
太郎の頬を汗が滴り落ちた。太郎が攻撃に転じた一瞬を美由希は悔しくなるほど完璧に見切っていたのだ。
恐ろしいほどに上手い。完全な死角からの掬うような足払い。
そこからの回し蹴りも驚くしかない。頭を狙った蹴りを、太郎が防御したのを見た途端、腹部へと変化させた。
単純な力では太郎の方が上だろう。だが、動きの速度は美由希の方が遥かに速い。さらに技術に関しては太郎とは桁が違っているといってもいい。
それを認識した太郎が慎重に間合いを測りつつ、口元を汚す唾液を拭う。
戦う前まで喜びに満ちていた太郎の心は、動揺に襲われ平常心を保つことさえも難しい状態であった。
そんな心を無理矢理に押さえつけるように、深呼吸を繰り返し、冷静に美由希の全身を視界にいれる。
対する美由希は息を全く乱すことも無く、軽くリズムを取るように身体を上下させていた。
美由希の攻撃は変幻自在。後手に回ったならば防ぎきるのは難しいと判断した太郎が、放たれた矢の如き勢いで飛び出す。
息もつかせぬ連続攻撃。右拳。左拳。時には左右の蹴りを混ぜ合わせながら、美由希の防御を貫こうと我武者羅な連撃。
だが、それは届かない。
美由希は、その攻撃すべてに反応し、あっさりと防ぎ、払う。
十数発は打ち込んだ打撃は一撃たりとも、美由希を捉えることは出来なかった。
それでも太郎は、美由希に反撃の機会を与えまいと攻め続ける。
美由希の真似をするように、死角からの地を這うような足払い。
しかし、それは美由希にとって死角からとはなり得ない。その足払いを足の裏で受け止め、足払いの威力を利用し後方へと跳躍。
結局太郎の連撃は、美由希の防御を穿つことはできなかった。
「は、はははは……想像以上だよ。この僕がここまで子ども扱いされるとはね」
「……一つ質問しても良いですか?」
「うん、なんだい?」
「貴方はこれまで何か武術を極めようと努力したことはありますか?」
平坦な美由希の質問に太郎は首を横に振った。
「いいや。僕にはそんなもの必要ない。神から与えられた才能。天に愛された武。それだけで十分さ。僕には、そんなもの(努力)など必要ない」
「そうですか……。それが本当なら貴方は凄い」
「―――え?」
まさか褒められるとは思ってもいなかったのだろう。
予想外の美由希の返答に、気の抜けた返事を返す。
美由希は深く息を吐くと、首を振った。少しだけ羨ましそうに。そして、心底残念そうに。
「それほどの才を持ちながら―――このまま地に埋もれるのは本当に残念です。貴方の才は確かに……素晴らしい」
拳を太郎に向けながら、寂しそうな瞳が全身を射抜く。才能だけで防戦一方とはいえ美由希の攻撃に耐え、ここまで渡り合える。それは美由希自身で驚くしかない。
太郎は強い。これまでの人生で負け知らずだったのにも納得はいく。それでも才能だけでなんとかなるほど―――美由希達がいる世界は甘くはない。
太郎の構えは確かに完璧だった。だが、それはあくまでも模倣。中身のない薄っぺらな武。
いざというときに頼るものがない、惨めな孤高。
「できれば貴方には正々堂々とぶつかってきて欲しかった。そして―――兄と戦って欲しかった。そうすれば、きっと貴方は理解できたはず。本当の強さを。真の強者とはどんな境地なのかを」
「なに、を―――」
返答は返さず、美由希の姿が残像を残す程の動きで太郎へと迫った。
その動きは速すぎた。今までよりもさらに速く。それが美由希の全速だということを認識する暇もなく、左右の掌打が顎と鳩尾を同時に打ち抜いた。
反撃を考える隙も与えず、美由希の膝が唸る。止めをさすような二連続の鳩尾への打撃。
耐え切れず、さらに前のめりとなった顎を打ち上げた。
のけぞりながらも、無意識のうちに拳を美由希にふりまわすようにして放った太郎は賞賛されるべきだろう。
だが、その苦し紛れな一撃が美由希に当たるはずもない。
その攻撃を払いのけつつ、左回し蹴り。メシリという嫌な音が太郎の右足から響く。
ガクンと崩れ落ちそうになった太郎の後頭部に、蹴り足が直撃。
弾き飛ばされるように太郎の全身が泳ぐが―――最後の一撃。
廃ビル全体が揺れるほどの強い震脚。地震が起きると錯覚するほどの。そっと美由希は太郎の腹に手を当て……。
「―――這い上がってきてください。貴方は、強かった」
それが太郎がこの日最後に聞いた、高町美由希の声だった。
山田太郎の意識を呼び起こしたのは―――意外なことに顔にかかる水滴であった。
ピチャン。ピチャン。と、一定感覚で顔に落ちてくる冷たい水滴が、太郎の意識を浮上させた。
先日降った雨がどこかに溜まっていたのか、ぼろぼろになっている天井から漏れ出しているようだ。
激しく痛む全身を押して、近くにあったベッドに手をかけて何とか立ち上がる。
我に返り、辺りを見回すがそこは意識を刈り取られる前に、美由希と戦っていた場所であった。
口の中に感じるのは生臭い鉄の味。それ以外にも何か硬いモノと、生暖かい液体がある。
床にそれを吐き出すと、ベチャリと吐いた場所を赤く染めた。それと一緒に床に転がる白い歯。顎を何度も殴られたせいだろう。折れにくい奥歯をやられてしまったらしい。
気を失ってどれくらい経ったのだろうか。生憎時計は持ってないので正確な時間はわからない。
未だ下半身に痺れが残っているのを考えると何時間も気を失っていたとは考えにくい。当たり前のことだが、ベッドにはすでに高町なのはの姿は影も形もなかった。
「なんて、無様な……」
気がついて最初に口から飛び出したのは、そんな台詞だった。
全てが予想外の出来事。そう、今夜起きたことは太郎の想像を遥かに超えることしかおきていなかった。
その最も大きな誤算は、高町美由希の実力。
自分と同等に戦える雌獅子。そう考えていた自分が愚かしい。
強かった。あまりにも強すぎた。手も足も出ずに、子ども扱いどころではない戦いの結果。
高町美由希が雌獅子ならば―――太郎は鼠に過ぎなかった。
美由希の実力を測れなかったこと以上に、許せないこともあった。
戦いの最中、太郎は途中から焦燥に駆られていた。力の差に絶望を感じ、勝ち目がないと諦めてしまった瞬間が、あの短い戦いの中で確かにあったのだ。
勝てるどうかわからない相手との潰しあい。その結果例え死ぬことになったとしても受け入れる。
それを誰よりも望んでいたはずの山田太郎は―――美由希に恐怖し、戦えなくなっていた。
勝てないのではない。戦わないのでもない。戦えない、という唾棄すべき結果を残したことを、山田太郎は許せなかった。
今まで得てきた勝利など。今まで得てきた栄光など。
そんなものを一笑にふすほどの敗北感。絶望感。そして、虚無感。
太郎は手を握り締め、ベッドを力いっぱい殴りつける。歯を食いしばり、ぶつりと歯で噛み千切った唇から血が滴り落ち、ベッドを汚す。
山田太郎の心に残されたのは―――己に対する目も眩むような憤怒だけであった。
幽鬼のようにふらふらと、廃ビルを降りていく。途中何度も、座り込みそうになりながらも壁に手をついてゆっくりと降り続ける。
廃ビルから外に出ると、月光が静かにあたりを照らしていた。普段だったら好むその光が憎らしい。
ざっざと砂を踏みしめる音をたてて太郎は歩く―――そして、足を止めた。
そこに、いた。何かが、いた。人の形をしただけの怪物が、いた。
壁に背をもたれさせ、両腕を組んだ状態で高町美由希の兄である―――高町恭也が悠然と立っている。
何をするでもなく、壁にもたれているだけ。だというのに、その空間はねじまがったような歪みを発生させていた。
人はその気配を肌で感じなんと称するのだろうか。
殺気。闘気。戦気。鬼気。そういった気配とはまた一線を画した―――究極。
「高町……きょう、や?」
どこからどう見てもそこにいたのは高町恭也だった。高町恭也以外のはずがなかった。
しかし、別人だと言われなければ分からない。別の存在だと言われなければ理解できない。
以前見た恭也は武の気配など感じさせない、一般人にしか見えなかったというのに―――今は、一般人に見えるという方が無茶な話だった。
「き、キミは……一体、なんだ?」
声が震えている。詰まりながらしか音を紡ぐことができなかった。
太郎の耳にガチガチという不快な音が聞こえる。それが自分の歯が噛み合わさりたてている音だということに気づくまでしばしの時を要した。
目の前にいるのが人だということに納得がいかない。
―――おかしいじゃないか。なんで、こんな、こんな、こんな―――。
「ばけ、もの」
全てを忘れて気を失いたい。意識を手放したい。
そう願っても、恭也の圧力は逃げることを許さなかった。
「妹が世話になったようだ」
沈黙を保っていた恭也が口を開く。
初めて聞いた声だったが、考えていたよりもずっと人間味溢れる声ではあった。
例え機械のような抑揚のない平坦な声だったとしても納得できてしまう。そんな圧迫感が恭也にはあったのだから。
轟と恭也の身体から、火柱が立ち昇ったかに思われた。人の姿だというのに人智を逸した重圧は、恭也の姿を一種の幻想の生物にも幻視させた。
果たして恭也の台詞の中にあった妹という単語の意味指すものは、美由希かなのはか。
一体どちらのことを指しているのだろうか。それとも両方を含んだ言葉だったのかもしれない。
少なくとも今の太郎にその真意まではわからなかった。
「……ぅ……ぁ……」
太郎の舌は上手く回らず、意味をなさないただの文字の羅列となる。
あまりにも、桁が違いすぎた。いや、違う。そんなレベルではない。高町美由希でさえも桁が違ったが、高町恭也は―――次元が違う。
蟻と獅子。いや、蟻と竜。それほどの距離が二人にはあった。同じ土俵に立つことすらできない。本当に人間なのかと疑ってしまうほどの存在。
「美由希を狙うのは、良い。だが、お前は―――なのはに手を出した」
恭也が腕組みをやめ、一歩ずつ太郎に近づいてくる。
近づくにつれ、その圧迫感が凶悪になっていく。土下座をしてでも許しを請いたい。そんな逃避の思考が思い浮かぶ。
だが、そんなことはできない。すりきり、削られた太郎のプライドが辛うじて、そんな思考を弾き返した。
残り数歩。そんな間合いで恭也は足を止める。今にも地面にへたり込みそうな太郎の顔には何時もの笑顔はすでになく、泣き笑い。それが相応しい表情となっていた。
「戦いたいのならば、小細工抜きで美由希と向かい合え。次は―――無い」
言葉を理解する暇もなく、太郎の体が跳ねた。
瞬きするよりも速く、認識するよりも速く、一秒を遥かに短くした刹那の瞬間。美由希のスピードが鈍く見えるほどの超速度。
恭也は、すでに太郎の目と鼻の先にいた。そして、一撃。無造作に、たいした力も込めずに、虫を振り払うように掌打を太郎の米神に放った。
それだけで、太郎は自動車にぶつかったかのような勢いで、その場で一回転。地面へと激しい音をたてて倒れこんだ。
「山田太郎。この領域にまで登ってきて見せろ。なのはのことは許すことはできないが―――美由希の良きライバルであってくれ」
なのはに傷一つでもつけていたら我を忘れていたかもしれない。
ほんの少し前に、美由希が気を失っているなのはを抱いて廃ビルを出てきたときは心の底から胸をなでおろした。
無論、言葉通り太郎を許す気持ちなど一片たりともない。
そして、太郎の心に僅かでも美由希を憎悪や恨む気持ちがあったならば、この場で負の連鎖となるそれを断絶していただろう。
だが恭也から見た太郎の心には不思議とそういった感情は見受けられなかった。
憎悪はあった。怨恨もあった。でもそれは、自分の無力さに対するものであり―――美由希に対して一切それは向けられていなかったのだ。
故に恭也は太郎に一撃だけ入れることによって自分の気持ちに折り合いをつけた。
山田太郎は確かに才あるものである。
他を圧倒する選ばれた人間。天才を凌駕する天才であった。
だからこそ、惜しいと思った。このままここで朽ち果てるのはまだ早いと何かが囁いた。
恭也は意識を失った太郎を肩に担ぐ。
身長は恭也と同じ位であるが、体重はそうでもないらしい。確かに見た感じ細身ではあった。
軽々とと男一人を担ぐと、廃ビル群から離れようと歩き出そうとした瞬間―――。
「それ、消さなくてもいいんですか?」
無機質な声が響く。
感情が一切こもっていない、機械のような声。
振り返った先には悠然と恭也を見据える少女の姿。海鳴にいれば注目を集めるであろう容姿と服装だ。
それもそのはず、巫女服に朱の帯。その帯には日本刀が差してあった。それが夜だというのに異彩をはなっている。
純粋な黒で塗りつぶしたような真っ黒な髪。声と同じ、深い黒の瞳は月の光を拒絶するような冷たい光を放っている。
身長も年齢も美由希と同じくらいだろうが、美由希とはまた異なる怖気を見るものに感じさせた。
「貴方の家族に牙を剥いたというのに命を奪わないとは……噂とは違い甘いんですね」
太郎を視線だけで射抜き、それ扱いする少女。
人を物と見ている発言に恭也とてそう気分がいいものではない。
「……君は?」
「申し遅れました。【不破恭也】殿。永全不動八門が一。【御神】の闇―――【不破】が末裔。深淵に辿り着きし剣士」
懐かしき旧姓を言い当てられて、恭也の眉尻が僅かに上がる。
不破の名を知っている者。恭也のが不破であることを知っている者。
そんな者などすでに数えるほど。ましてや、恭也たちの戸籍は父である士郎があり得ないほどに弄くり、もはやそこからたどり着くことは不可能のはずである。
訝しげに少女を見る恭也だったが、軽く頭をさげ、恭也と視線を交差させる。
「わたくしは永全不動八門の一。この天(国)を守護せし、天守家の次期当主。天守翔(カケル)と申します」
「天守、家か」
「はい。天守宗家の次女。今年で十五を迎える若輩者ではありますが、宜しくお願いいたします」
自己紹介を続ける少女―――翔だったが、その最中にも表情には感情の色を見せては居なかった。
恭也は翔の全身を確認するように眺める。といっても別に下心がある視線ではなく、本当に確認をするためだけであった。
「成る程。最近風芽丘で感じていた違和感。妙な気配を幾つか感じていたが―――そのうちの一人は君か」
「……っ!?」
感情を顔に出さない翔が、初めて驚いたように目を僅かに見開く。確かに最近から翔は風芽丘学園に潜伏していたが気づかれていたとは思っていなかったのだろう。
その動揺を消すように、翔の雰囲気がさらに冷たく、深くなる。
「気づかれていましたか……その通りです」
「それで、今更永全不動八門が―――何用だ?」
翔の賞賛を突き放すように恭也が問い掛ける。言葉に組み込まれた威圧感。それが、波動となって翔を襲う。
それに僅かに気圧されたように一歩後ろへ下がった。無意識のうちだったのだろう。
自分が一歩下がっていたことを恥じるように、恭也へと一歩足を踏み込む。
「不破恭也殿にお願いしたいことがございます」
「願い、とは?」
「―――御神美由希との戦いを認めていただきたい」
翔が口に出した途端、空気が変わった。
その場に居た誰も駆もの心臓を止めんと、凍て付いた空気を呼び起こした。
翔の表情に明らかに恐れの感情が、浮かび上がってきている。だが、口は止まらない。
「わたくしは次期当主と言いましたが、あくまでも次期当主候補。精々が二番手程度の資格しかありません。だからこそ、永全不動八門の老害共が畏れる【御神宗家】の剣士と戦い破った―――その証明が欲しいのです。御神宗家を倒したという事実はどんなことよりも評価される筈です。わたくしの魂に誓います。決して卑怯な手等使わず―――正々堂々と戦うことを」
恐れていながら、翔は一気に言い切った。
恭也のプレッシャーに襲われながらも、退くような事はせず、真摯な瞳で訴えかける。
己に出来る精一杯の思いを言葉に乗せ、翔はさらに一歩恭也へと歩み寄った。
先程までは機械のような少女だったはずが、今は決してそうは見えない。感情がないというわけではないようだ。
考え込むような恭也の様子に、どのような返答をしてくるのか不安なのか、ごくりと喉が鳴るのが聞こえた。
「そういう理由ならば好きにするといい」
「―――へ?」
翔を襲っていた重圧は気がついたら消えていて、周囲は平穏そのものの空気が流れていた。
至極あっさりとそう返答した恭也の台詞が信じられなくて、気の抜けた返事をしてしまう翔。さらには疑問系。
まさかこんなに簡単に了承を得られるとは思ってもいなかったのだ。
「あ、あの―――本当に宜しいので?」
「ああ。俺の家族に手を出さなければ、美由希とは好きに戦えばいい」
ある意味冷たいとも取れる恭也の答えだったが、翔はその言葉の裏を読み取っていた。
美由希は強い。その美由希と真正面から戦って勝利を掴めるのと思うのならば、挑んで見せろ、と。
込められていたのは絶対の信頼。自分が手塩にかけて育てた高町美由希の力。
どのような状況でも、どのような相手でも、必ず打ち倒し、勝利する。
「あいつは、強いぞ?」
自信に満ちた恭也の台詞に、翔は言い返すことが出来なかった。
圧倒された。高町恭也の想いに。高町恭也の心に。高町恭也の言葉に。
「ああ、流石に七対一というのは勘弁してやってもらいたいが」
「……気づいていましたか」
そこで、ふと思いついたように翔に語りかける。いや、翔にではない。その後方の暗がりへと恭也は話しかけたのだ。
ざわりと翔の心が揺れた。
見抜かれていたことにもはや驚くことはない。この男には小細工など通用しないのは明らかだ。
恭也の七対一という部分に反応したのだろうか。
翔の後方。恭也からさらに離れた暗がりから六人の男女が姿を現す。
「ほらほらー。下手に隠れないほうがいいって言ったじゃんー?」
「そうですよ。不破さんに私たちの隠形術が通じるわけないじゃないですか」
六人の中で一番背の低い女性―――鬼頭水面がやれやれといいながら肩をすくめる。
それに追随するように、恭也の方を心配そうに見やる如月紅葉。
「……これが、不破恭也か」
「……鬼神か、剣神か。噂通り……否、噂以上」
髪を短く刈り込み、恭也よりは頭一つ小さいが、がっしりとした体格の少年。闇夜に片手で持った槍が光る―――葛葉弘之。
今にもこの場から離れたそうにしている黒髪セミロングの目の細い少女―――小金井夏樹。
「驚いた、という話ではすまん。長老達が言っていたことは―――甘すぎた」
「……僕、帰ってもいいかい?」
坊主頭の少年は、ただただ驚き。恭也を凝視している。片手に持っている大型の弓を自在に操る弓使い―――風的与一。
泣きそうな表情でそう聞く、女性も嫉妬するような容姿と長い黒髪の少年―――秋草武蔵。
無手の如月。針の鬼頭。槍の葛葉。棍の小金井。弓の風的。糸の秋草。
刀の天守と小太刀の御神をあわせて―――人はその八族を―――永全不動八門と呼ぶ。
日本の辺境の、ここ海鳴の地で永全不動八門が集結した。
勿論、恭也はこの場に現れた少年少女の顔と名前は分からない。
ただ、紅葉の顔をみた瞬間、僅かに首を捻る。昔にどこかで見たことがある。そんな感想を抱いたのだ。
そして思い出す。それほど昔というわけでもない。およそ三年前。日本のある場所で行われた永全不動八門会談―――その時に会った少女だ。
三年前の事件はあまりにも悲惨で、残酷で、凄惨で、救いようのない、血と臓物の臭いが支配する絶望の世界だった。
そんな出来事だったからこそ、その時に会った【二人】の少女達は恭也の心に深く刻まれている。
恭也に凝視された紅葉は恥ずかしそうに頬を赤くしながらうつむいた。
「勘違いさせるような真似をして申し訳ありません。ですが、彼らも私と同じ立場。次期当主候補として、御神宗家を倒したという証明が欲しい者達です。無論、七対一で倒した、では笑い話にもなりません。一対一。正々堂々という言葉に偽りはありません」
恭也が勘違いしては全てが破算となる。
それを恐れて、翔は恭也の誤解を解こうと必死で説明を始めた。
翔の説明を聞きながら、恭也は冷静にその場に居る者達の実力を見極めようと精神を集中させる。
相手の力量を完全に見極めるというのは、はっきりいって難しい。
だが、ある程度ならば確実に掴み取ることは恭也ならば可能だ。
隠形の技術は全員がたいしたレベルの使い手だった。少なくとも誰もが美由希に匹敵するといってもいい。
それ以外はどうか。力量的に大きく劣っている人間はこの場には居ないようだ。
この中でずば抜けているのは―――矢張りというべきか天守翔。仮にもかつての御神の一族と並び立ったという天守の当主候補。
だが、恭也をして首を捻る二人の存在が居た。
如月紅葉と鬼頭水面。この二人の力量がいまいち掴み取れない。まるで空に浮いている雲のようで、ふわふわとして掴みどころがないのだ。
美由希よりも遥かに上手に見えもするが―――それ以下にも見える。
「まぁ……君たちの好きにすればいい」
翔の発言に嘘はない。
絶対の真実を恭也に告げている。それくらいは読み取れるわけで―――だからこそ翔の願いをあっさりと受け入れた。
一対一という戦いを必ず相手は守るだろう。態々恭也に許可を取るまでしてきたのだから、卑怯な手段を使うつもりもないはずだ。
実際の死合いならば、卑怯もなにもない。しかし、命をかけた実戦の経験が皆無に等しい美由希が、それほどの好条件で実戦を行えるのはまたとない幸運だ。
それにここに居る誰もが美由希とて楽に勝てる相手は居ない。自分の実力と均衡した相手との戦闘の経験値は計り知れない。
もし、仮にここにいる全員との戦いを経験したら、美由希はどれほどまでに化けるか。
美由希の成長が、どこまで伸びるのか―――恭也とて読みきれない。
「話はそれだけか?ならば俺はそろそろ帰らせてもらおう」
躍る心を悟られないように恭也は太郎を背負ったまま七人から離れていこうとする。
そろそろ帰らないと晩御飯に遅れてしまうという割とリアルな問題が恭也を苛んでいるからだ。
「ああ、待ってくれ」
去って行こうとするのを止めたのは葛葉だった。
永全不動八門一派―――葛葉流槍術の使い手。若き天才と褒め称えられる槍使い。
「俺は葛葉弘之。是非あんたに、一手ご教授願いたいんだが」
吹き出す音が六つ聞こえた。
冷静沈着を表面上保っていた翔でさえ、葛葉の台詞に不意をつかれたのだ。
秋草なんかは、何言ってんのこのバトルジャンキー頭可笑しいんじゃないのか、とぼそりと呟いたのを恭也は聞き逃さなかった。
実は水面だけは吹き出した意味が違っていた。他の五人は、葛葉のとんでも意見に驚いたのだが、水面だけはあまりにも葛葉らしい台詞に笑いそうになるのを堪えたためだった。結局堪え切れなかったが。
「馬鹿者!!此方と彼方の力の違いがわからんのか!?」
「……拳銃に玉六発入った状態でロシアンルーレットするようなもんだよ?」
「止めましょうよー葛葉さん。というか止めてくださいね?欲求不満なら私が涅槃に送ってあげますから」
必死で葛葉を止めようとする風的。
冷静に自殺志願者だよ、お前といっている小金井。
そして、優しく、言い聞かせるように死刑宣告を行う紅葉。
「わかってないのですか、葛葉?彼の力を。彼の底を。今のわたくしたちでは―――」
「―――五月蝿えよ、馬鹿かお前ら」
全員に罵倒されながらも葛葉に揺らぎはなかった。
葛葉の目には、すでに恭也しか入っていなかったのだから。有象無象が何を言った所で気にするほどでもない。
逆に他の六人を見下すように吐き捨てる。翔の台詞を遮るように葛葉は言葉とは裏腹に面白そうに笑った。
「不破が強い?そんなもん見れば分かるだろう?すげぇじゃねーか。俺達より幾つか年上だからってあんな境地に至れる不破は本当にすげぇ。うちの親父が―――葛葉当主が不破にだけは関わるなっていった理由がはっきりわかるぜ?」
笑いながら、葛葉は恭也を褒め称える。
嫌味はなく、本当に心の底から言っているのは誰の目から見ても明らかだった。
「世界最強って言葉に憧れたことあるだろう?俺はある。いや、俺はそれを目指している。でも、それが何なのか良く分からなかった。一体どれだけ強くなればその称号に相応しいのか。あの天守の異端児―――【天守翼】を見たときこいつがそうなんだなって考えたよ。でも、どこか心で納得できないもんがあった」
天守翼という名前が出た瞬間、翔の漆黒の瞳に一瞬だが憎しみの炎が宿った。
もっともそれに気づいた人物はこの場には誰も居なかったが。
「なぁ、喜べよ?ようやく出会えたんだぜ?世界最強を体現した人間に!!目の前居にいるんだ!!天守翼を凌駕する剣士が!!永全不動八門の誰もが恐れる剣士が!!」
葛葉が己の内に燃え滾る喜びを、戦いへの興奮を抑えきれずに雄叫びをあげるように叫ぶ。
他の六人はそんな葛葉に呑まれたように、言い返せない。
「俺の親父は言った。【御神】を剣士として最高とするならば、不破恭也は―――深遠に辿り着いた剣士、だと。どっちが凄いのか俺には分からん。でもな、間違いなく不破恭也は俺の中で世界最強、だ!!」
持っていた槍を構え、重心を落とす。
ぎりぎりと筋肉が凝縮されていく。解放されるのを今か今かと待ち望んでいる。
肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべ―――燃え滾る烈火の気配を発し、後は合図を待つだけだ。
「そんな相手が目の前にいるんだ!!戦うって選択肢以外―――あるわけがないだろうがぁああああああああああああああああ!!」
吼えた。
夜の静寂を引き裂かんと、猛虎の咆哮が高らかにあがった。
「さぁ、始めようぜ!!俺とあんたの戦いを!!命と命を賭けた祝賀会!!俺の全力を持って―――あんたの魂に届かせる!!」
葛葉の目が爛々と輝く。
恭也と戦える喜びで。自分の理解を遥かに超える剣士と相対できることに感謝しかない。
最高潮にまで高められた葛葉の感情に、恭也は―――笑みを浮かべた。
馬鹿にしたような笑みではない。葛葉の言葉に確かに恭也は嬉しそうだった。いや、嬉しかったのだ。
ここまでストレートに戦いを求めてきた相手などそうはいない。いや、殺音くらいかもしれない。
恭也の力を知って―――絶望しそうになるほどの力量差を知ってなお、気持ちを奮い立たせ、立ち向かってくる。
それは、なんて、なんて―――。
「―――素晴らしき、戦士だ」
もはやそれしかない。それ以外ない。
葛葉は恐らく多くの敗北を知ってきたのだろう。
それでも決して諦めることなく、強さを求め、立ち止まらずに進んできた。
愚直だったとしても。ただ真っ直ぐに。
恭也は肩に担いでいた太郎を地面に降ろすと、手招きをする。
「来い―――我、不破恭也。全力を持って君と戦おう」
「応!!」
猛りきった雄たけびをあげて特攻するのは、葛葉ただ一人。
知略も、策略も、なにもなく、両手で握りしめた槍を携えて、恭也へと挑む。
―――速い。
その場にいた誰もがそう思い、驚きを隠せなかった。
互いに何度も顔を合わせ、短い間とはいえ行動を共にしてきた仲ゆえに葛葉の力量は皆知っている。
葛葉はその時の精神状態によって随分と強さに差が出てくる。
弱い者と戦うときにはテンションがあがりきらず、その時の力量はおそらく今いる永全不動八門の者達で最も低いだろう。
それとは逆に強い者と戦うときは葛葉の戦闘力は信じられないほどに跳ね上がる。
そんな葛葉の今のスピードは―――。
「はや、すぎる!?」
翔のかすれるような呟き。
他のメンバーはどうすればいいか迷う中、信じがたいスピードで葛葉は恭也への間合いを詰めていくのだから。
恐ろしいほどまでに高まりきった葛葉の戦闘本能が、彼自身の潜在能力を無意識のうちに引き出していたのだ。
恭也と相対することによって、葛葉は己が感じていた幾つもの壁を叩き壊していた。
「―――これならば、いけ―――」
今の葛葉の速度ならば恭也とて、そう簡単にはさばけまい。
確信にも似た一瞬の思考。翔でも反応さえできないのではないか、と思えるような速度で迫ってきた葛葉が恭也と交差した次の瞬間には宙に舞う。
意識がないのだろうか、ろくな受け身もとれずそのまま地面に叩き付けられた。
もはや戦闘続行は不可能だろうと一目でわかるその様子に、その場に居た全員が呆然と結果を視界におさめた。
超速度の葛葉を―――槍で突かせることはおろか、反応することさえ許さず地に沈めた恭也に驚愕しか抱けない。
「いい動きだった」
恭也が意識を失っている葛葉にそう語りかける。
まじりっけなしの本音の一言。美由希でも滅多にかけてもらえることのない称賛を葛葉は引き出したのだ。
そんな恭也が他の六人に視線を向けたが―――すでに幾人かは覚悟が決まっていた。
葛葉の炎のような闘気がその場に居た数人に火をつけてしまったのだ。
「……あの馬鹿が向かっていたのに私が戦わないなんて癪だし」
「……人を超えた者と戦うのもまた、一興」
「負け戦は決まってるけどだけど―――まぁ、やるっきゃないか」
小金井夏樹がふぅとため息を吐く、風的与一は皮肉気に口元をゆがませる。秋草武蔵は泣きそうな表情ながらも、強い意志を込めて肩を回す。
そして、感情などというものには縁遠い翔の心にも不思議な熱さが生まれていた―――だが、それを必死の意志の強さで押し殺す。
何故ならば天守翔に敗北は許されない。一時の感情に流されて戦い、これ以上の敗北を生むことは、次期当主候補として不利にしか働かない。其の全ては―――姉を超えるために。
「ま、あんた達おもいっきりやっておいで」
「頑張ってきてくださいねー」
一方水面と紅葉の二人は葛葉の燃え滾る炎のような感情に影響を受けていないのか―――その場から動こうとはしなかった。
秋草が夜の闇で見えないほどの細さの鋼糸を胸元から取り出す。小金井がすぐそばの壁にかけて置いた、木でできた棍を手にもつ。風的が両手で巨大な弓を引き絞る。
「全員同時で構わない―――遠慮せずに来い」
先手を打ったのは、小金井だった。地を這うように大地を駆け抜け、恭也へと疾走する。
その動きは先ほどの葛葉には及ばずとも、美由希と変わりないほどのスピード。それに対して恭也は相変わらず構えもせず小金井を迎え撃つ。
だが、突如僅かに首を横へと傾ける。それとほぼ同時に夜の闇を切り裂くように、飛来した矢が恭也の顔があった空間を疾駆していった。
避けられたことに驚きを見せず、風的は第二矢、第三矢と、小金井を援護すべく追撃を放つ。
矢を避けたところに、小金井が迫った。棍を持つ手がしなるようにぶれるが、小金井の手に残るのは空を切った感覚だけ。
半身となってその一撃をかわされたことに、結局小金井は気づくことは出来ず、背中に強い衝撃を受け意識を失った。
小金井の背に右手の手刀をいれた瞬間、それ以上の速度で右手をその場から引く。
肉眼で確認し難い鋼糸が恭也の右手があった空間がを通り過ぎた。
もし、あと一秒でも手を引くのが遅れていたら、鋼糸によって右手を絡み取られていただろう。
恭也が地面を蹴る。衝撃で砂が飛び散り撒き散らされた。
何でもない動きだったにも関わらず、秋草と風的は恭也の姿を見失い―――気がついたときには秋草は足を払われ体勢を崩し、倒れつつある不安定な状態の顎を恭也の掌底で打ち抜かれ、どさりと音をたてて地面に横たわった。
残り一人となって風的は近づかれたら勝機なし、と踏んで瞬速の矢を放った、が―――。
風的に接近しつつ、自分に迫ってきていた矢をあろうことか恭矢は―――素手で掴み取った。
驚く暇もなく鳩尾を蹴りで貫かれた風的もまた、他の二人と同じく地に伏せる。
三人同時に戦って持たすことが出来た時間は―――僅か十数秒。
圧倒的という言葉すら生温い。恭也は格の違いを見せ付けた。
天守翔は、この光景を見て己の目を信じられなかった。ここまで強かったのか、と。驚くことしか出来なかった。
三年前に初めて姿を現した、御神宗家の代理―――不破家当主不破恭也。
永全不動八門全ての当主とそれに近しい者達による会談に現れた彼は、自分が不破の当主だという証明をしたわけでもない。できるわけでもなかった。
だが、当主達は恭也を不破家当主として認め―――御神宗家の代理として会談に参加させた。それが何故かは分からない。何か裏の取引があったのではないかと勘ぐるものも居た。
そして、その会談である事件が起こったらしい。永全不動八門及び、使用人を含め計七十八名中生存者二十一名。死亡者五十七名。
生き残ったのはそれぞれが力ある者達ばかりだった。彼らはその時何が起きたのか、決してその会談に参加していなかったものには詳細を話そうとはしなかった。
ただ、それぞれの一族にこう伝えた―――不破恭也にだけは関わるな。
それは様々な憶測や噂を呼び、何時しか不破恭也は永全不動八門にて知らぬものはいなくなった。
それほどに高名となった相手なのだ。
翔とて恭也が強いことは覚悟していた。自分では及ばぬ相手なのかもしれないということは薄々理解していた。
風芽丘学園で監視していたときは本当にそれほどまでに強いのか疑いを持っていたが―――蓋を開けてみれば強いどころの話ではない。
向かうところ敵なし。天守史上最高の剣士。剣聖。様々な肩書きを戴く翔の姉でも、霞んで見えた。
「……」
戦意などもてるはずはなかった。
他の四人のように戦いを挑むことは、翔にはできなかった。
感情よりも、己の保身を優先してしまったのだから。それが正しいことだと思っても、どこか心では納得しきれない。
天守翔は―――敗北することを誰よりも恐れていた。
恭也は、翔の戦意が枯れていることを確認すると視線を紅葉と水面に向けるが―――二人は静かに首を横にふる。
それに少しだけ残念そうに恭也は息を吐いた。
「残念だ。君とは手合わせを願いたかった。三年前と比べてどれほどに強くなったのか、見せて欲しかったんだが」
「―――え?」
思ってもいなかった恭也の言葉に―――紅葉の肩がビクリと反応した。
「えっと、あのその……わ、私のこと、お、おぼ……えて?」
「ん?三年前に―――会わなかったか?」
途切れ途切れな紅葉に、当たり前のことのように聞き返す恭也。
紅葉の表情が凍る。十数秒も固まっていただろうか必死で泣くのを我慢している、そんな今にも涙を堪えていた少女は―――空を見上げた。
零れ落ちそうな涙を見せないように。涙を流すのを耐えるように。しかし、つぅと一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
ごしごしとその涙の後を消すように袖で拭く。泣きそうだった表情は既になく、日常の太陽のような笑顔は消えうせていた。
「鬼頭先生」
「んに?なにさー?」
「すみません。うち、行きますね」
「……まぁ、あんたがそうしたいなら止めないよー。後のことは面倒見てあげるから精一杯やってくればいいさ」
「有難うございます」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げた紅葉は、諦観したような水面に礼を告げ、恭也へと近づいていき立ち止まる。
間合いは僅か二メートル足らず。一足一刀の間合い。
ドクンドクンと早鐘のように心臓が胸を打つ。恭也の暗い瞳に自分だけしか映っていないのが見える。
たったそれだけだというのに紅葉は天にも昇る幸福感を全身に感じていた。
如月紅葉。彼女は元々自分の流派の後継者争いなどに興味は微塵もなく、当主候補という肩書きも辞退したい程度のものでしかなかった。
それなのに天守翔の提案にのったのは、恭也に会えるからということも大きかったが……それ以上に他の永全不動八門が恭也の敵と成り得る。
そう考えたからでもあった。だが三年ぶりに会った恭也の力は、以前の彼を遥かに凌駕しており、如何なる存在も恭也の敵にならないと理解した今日―――安心すると同時に少しだけ寂寥感を抱いたのも事実。
「―――私のこと等覚えていないと思っていました。でも、覚えていてくれた。きっと私はその一言で報われました」
年頃の少女だというのに恭也に向けている拳は拳だこでぼろぼろであった。
これくらいの思春期の少女ならば、多少なりとも気にするであろうに。その拳を誇らしげに恭也へと見せている。
「貴方が私の力を見たいと言うのならば―――私の全てを賭けて、今この一瞬に―――」
如月紅葉。
彼女は誰よりも何よりも―――不破恭也を崇拝していた。
パンと何かを叩く音が木霊する。
何が起きたのか、翔と水面には理解することが出来なかった。
気がついたときには紅葉の拳が恭也の掌で受け止められていたのだから。
二人の意識の隙間をついたかのような出来事。速いとか、遅いとか、そういった問題の攻撃ではなかった。何の予備動作もなく、紅葉は中段突きを繰り出していたのだ。
そして、驚くのは―――恭也が回避せずにその一撃を受け止めたことだ。
「―――見事」
「―――有難うございます」
最後に恭也へ見惚れるような笑みを返し、それを切欠とした様に紅葉の身体が宙に舞う。
投げ飛ばされ、自由の利かない中空で恭也の拳が紅葉の意識を刈り取った。
地面に叩きつけられそうになった紅葉の身体を受け止め、優しく地面に降ろす。気を失っているというのに紅葉は満足そうな笑みを浮かべたままだった。
残された翔と水面に戦うつもりはないのだと分かっている恭也は二人から離れ、高町家へと帰ろうとするが―――少し歩いた所で何かを思い出したように戻ってくる。
そして脇に転がしてあった太郎を再度肩に担ぐと、今度こそ二人の前から姿を消した。
それを黙って見送る翔の瞳には複雑な感情が交じり合っている。
このような宙ぶらりんの状態など翔の生涯で経験したことがなかった。様々な思念が泡のように浮かんでは消えていく。無秩序な思考。
確かに恭也へと挑まなかった翔は敗北を刻まなかった。だが、代わりに大切な何かをうしなったような錯覚を覚えた。
それを横目で見ていた水面は深い深い、それは深いため息をついた。
―――若いねぇ。敗北を恐れるか、天守の次女っ娘。この戦いでお利口なのはあんただけだったけど……本当の意味で敗北したのもあんただけさね。
永全不動八門との邂逅でさらに時間をくってしまった恭也は内心焦りながら帰宅を急ぐ。
流石に連絡もいれずこれだけ遅くなってしまったのは予想外で、何を言われるかわからない。
廃ビル地帯を横断する恭也だったが、ふと足を止める。
「―――私の妹はどうだったかしら?」
この場に相応しくない、鈴が鳴るような声が聞こえた。
その発生源は恭也の右斜め前方。数メートル先の崩れかけた建物の丁度影になった場所だ。
暗くて人影が誰なのかはっきりとは見えないが、恭也にはその声の主が誰かはっきりとわかった。
「強いな。美由希でも勝てるかわからんほどに。ただ、心が―――」
「そうなのよね。どうも、姉の私と比べられるせいか精神的に未熟なところがあるのよ」
「その分解決した時の成長が期待できるぞ?」
「そうね。私もそれを期待してたんだけど―――難しいわね」
「お前の父は何か手をうっていないのか?」
「残念ながら、父はこういったことに慣れていないようで全く頼りにならないもの」
打てば返す響きで恭也と少女は会話を続ける。
二人とも互いに全く遠慮がなく、相当に親しさを感じさせていた。
「ま、高町美由希に期待しましょうか。彼女の心は―――果たしてあの娘の凍てついた心を溶かしてくれるかしら」
「そればかりはわからんが。世の中なるようにしかならんさ」
「それもそうね。あ、そうそう。私がここにきたことは秘密にしておいてくれるかしら?また変に、翔がいじけたら困るし」
「ん、ああ。わかった」
くすりと少女がわらったような気がした。
そして少女は恭也かっら遠ざかるように歩き去っていく。
そこで何かを思い出して、一旦足を止める。
「あ、そうそう。今度御飯でも一緒にどうかしら?」
「そうだな。久しぶりの再会だ。ご馳走しよう」
「あら、優しいのね。お言葉にあまえちゃおうかしら」
言葉は軽いが、そこには本当に嬉しそうな響きがあった。
それを最後に少女はその場から姿を消す。それに合わせるように恭也もまた―――。
こうして、運命は次々と廻り始める。
次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。
救い難き破滅に向かって。静かに。ゆっくりと。
高町恭也を中心に、運命は廻り始める。
この世界の理からはずれた一人の狂った化け物が、全てを捻じ曲げながら。
運命は―――廻り続ける。