これは少しだけ時が巻き戻った夜の出来事。
山田太郎が高町美由希と高町恭也に敗北を喫した後の話。
恭也は太郎を肩に担いである場所に向かっていた。本来ならば電車で行った方が早かったのだが、流石に人を担いでいる光景を見られたくなかったということもあり、徒歩で目的地を目指す。
幸い駅二つ分程度なので恭也ならばそれほど時間もかからない。
だが晩御飯にはどう考えても間に合わないので結局、高町家に電話をかけ、先に食べてるように頼むことになったのだが。
その途中、普段の鍛錬場所である八束神社へと登る為の階段に差し掛かったところで夜の闇にまぎれているが、階段に座り込んでいる人影があるのを恭也は見つけた。
目を凝らすことなく、すぐさまそれが誰なのか恭也は気づく。
服装はすでにぼろぼろになったジャージの上下。髪もまったく手入れをされておらず伸び放題。歳は五十過ぎから六十。白髪混じりの髪と無精髭が目立つ初老の男性。
「お久しぶりです。名無しさん」
「ん?おお、高町の坊主じゃねーか。どうしたこんな時間に?」
「ええ、ちょっと明心館に用がありまして」
名無しと呼ばれた老人は無精髭をさすりながら立ち上がった。
恭也がこの老人と出会ったのはおおよそ四年前くらいになるだろう。この老人が八束神社の裏手で寝ていた時にたまたま出会い、それからの顔見知りとなった。
はっきりいってしまえば老人が名乗る名無しというのは明らかに偽名なのだろうが、そこは触れてはいない。触れられたくない過去もあるだろうと踏んだからだ。
見かけはどう見ても浮浪者なのだが―――実際ただの浮浪者である。
夜には人気がなくなる八束神社を寝床にすることも多いが、他にも海鳴の隅っこにある廃ビル地帯や海鳴臨海公園なども寝床とすることもあるという。
「坊主……肩に背負ってるそれはなんだ?」
「ええっと……まぁ、深い理由が……」
肩に背負っている山田太郎を訝しげに見て、質問を投げかける名無し老人。
正直に答えるわけにもいかず、返す言葉を濁す。
そんな恭也の様子にハハァンと何かに気づいたような名無しは、口元に厭らしい笑みを浮かべた。
「お前も人が良さそうに見えて中々あくどいな……身代金目当てか?」
「……違います」
「なに?それじゃあ、体目当てか?」
「……もっと違います」
「ってことは―――どっかに埋めるのか?」
「違うっていってるでしょうが、糞爺」
しつこい名無しに冷静に返事をする恭也。何気に最後にちょっとした悪意を込めた返事になっていたりしたが。
それに対して全く気にした様子も見せず、名無しはじろじろと遠慮無く太郎の全身を嘗め回すように見る。
「なかなか良い身体してるじゃねーか」
「……」
うわぁ、と珍しく恭也が本当に嫌そうな表情で名無しから距離を取る。
しかし、名無しは嘗め回すような視線をやめようとしない。むしろ、最悪なことに視線を太郎から恭也に移してくる。
「そいつは大した腕前の小僧だな。なかなかできる。なんなら俺が預かってやってもいいぞ?」
「遠慮します」
一秒で名無しの提案を切って捨てた恭也がスタスタと名無しを置いて歩き始めた。幾ら山田太郎とはいえ、このまま名無しに引き渡してしまうのは気が引ける。
まさか断られると思っていなかったのか、名無しは滑り込むように歩き去ろうとする恭也の足にすがりつく。
意外としっかりとしたタックルだったのか恭也は歩みを止めざるを得なかった。
「まぁ、待て。俺はこう見えても一昔前は、不敗の化身。無敗の帝王等と世界中の猛者に怖れられていたんだぞ!?その俺がそいつを預かってやろうと言っているんだ!!」
「その話はすでに十五回も聞いていますが……。その不敗の化身が何故にこのようなところでそんな生活を?」
「こ、これは世を忍ぶ仮の姿だ!!い、今はこの海鳴を守護している最中なんだぞ!?」
「この海鳴にそんな守護はいらないと思います。多分この地は世界で一番人外魔境ですしね。下手な守護者では長生きさえもできませんよ」
足にしがみついていた名無しが、先を急ごうとする恭也の腰に絡み付いてくる。
性質が悪いことにがっしりと掴んでいるため、そう易々と振り切ることが出来ない。
「離してくれると助かるんですが?先程も言いましたが明心館にいかないとならないので」
「お、おれを置いていくのか!?」
「ええ。置いていきます」
「俺とのことは遊びだったのね!?」
「ええ。遊びでした」
渾身のボケを放ったつもりだったのだろうが、そんな名無しに対して突っ込みもせず掴まれている手を腰からあっさりと外す。
急に手を外されてバランスを崩した名無しはゴロンと道に転がった。その際に少し身体を打ったのか、道端に倒れたまま立ち上がろうとしない。
流石に老体に対して可哀相な事をしたかと恭也は、倒れた名無しに手を差し伸べるが、名無しは顔を見上げ―――。
「俺を倒しても……第二第三の俺が必ずお前を倒す……」
「何ゲームのボスみたいな発言をしてるんですか」
「いや、なんとなく」
一人で芝居するのが急に恥ずかしくなったのだろうか、名無しは頬を染めて恭也の手を借りることなく立ち上がった。
神社の階段の下で、男を肩に担いだ青年と頬を染めた老人。なんとも微妙な光景が出来上がっている。
恭也とて男。爺に頬を染められるよりは異性に染めてもらった方が好ましい。
「それで結局何か用なんですか?」
このまま下手に足止めをくらうより、名無しの用事を済ませてからここを離れたほうが早いのじゃないか、と考えた恭也が問い掛けた。
さっきからこれほどしつこく食い下がるのだから自分に用事があるからに違いないと踏んだ故の質問だったのだが、名無しはあっさりと首を横にふった。
「いや、用事なんか全くないぞ?」
「……」
なんだろう。凄く疲れた。
そう心の底から思った恭也が名無しに今度こそ背を向ける。
この老人は何時もこうなのだ。意味があるのかないのか、他の人間とは碌に話もしない癖に、恭也にだけは無駄に絡んでくる。
「最近駅前のロータリーで一暴れしなかったか、坊主?」
「……!?」
思いもしなかった名無しの台詞に恭也の足が止まった。
一瞬とはいえ動揺を隠せずにいた恭也を一目見て確信したのだろう。名無しはやれやれと呟きながら階段に腰をおろす。
ぼろぼろのジャージのポケットから煙草を取り出すと、同じく取り出したマッチで火をつけて吸う。浮浪者なのに何気に嗜好品を手に入れていることが多く、恭也とてそれが不思議でならない。
「俺の情報網をなめるなよ……この海鳴で俺にわからないことはねぇ。横の繋がりってのは重要なんだぜ」
「……横の繋がりですか。誰に教えてもらったんですか?」
「実は俺がその時偶々その現場に出くわしただけだ」
情報網はどこに言った!?と反射的に突っ込もうとした恭也だったが、喉まででかかったそれをなんとか押さえる。この男はそう突っ込んで欲しくてたまらないはずだ。だからこそ、敢えて我慢する恭也。
横の繋がりもなにも、名無しが恭也と殺音の相対する現場を見かけただけという単純な理由だというのに、意味深そうに語ってくる名無し。
「正直、ちびりそうになったぜ。坊主が、あの水無月殺音とガチでやりあおうとしてたんだからな」
「……」
そして、名無しの発言は今度こそ本当に恭也を驚愕させた。
恭也と殺音の殺気が乱れ飛び、支配したあの空間で二人の姿を確認し、なおかつ水無月殺音の名前を知っている。
まさか、ただの浮浪者である名無しがそれほどの胆力と知識を持っているとは思ってもいなかった。
「言っただろ、坊主。俺も昔は第三世界でそれなりに動いていたってな」
「確か不敗の化身とよばれていたんでしたか?」
「……正直すまんかった。それは忘れてくれ」
自分が名乗った二つ名だというのに良く考えたら恥ずかしかったのだろうか。
恥も外聞もなく、恭也に向かって土下座をする。しかも、ガンガンと頭を地面に叩きつけて激しく謝罪をしてくる様は、少し怖かった。
「ところで何故水無月殺音のことを知っているんですか?」
「……裏の世界に少しでも足を踏み入れたらアイツのことを知らない方がモグリだぞ。アンチナンバーズのⅧ【猫神】。人間が、いや……人外含めてアレに勝てる奴なんざ探すほうが難しい」
「まさか本当に名無しさんは【そちら】の世界で活動していたのですか?」
今まで名無しから多くのことを聞かされていたが実は恭也はあまり信じてはいなかった。
曰く、これまでの生涯で敗北を知らず。曰く、これまでの生涯で勝利しか知らず。曰く、伝承級にさえも匹敵した。
水無月殺音のことを知っていたが故に、伝承級の強さを身に刻んでいた恭也に、その話はあまりにも胡散臭過ぎる。
確かに第三世界のことはそれなりに精通しているようだが、あくまでもそれだけだ。恭也の目から見て正直な話、名無しの力量は―――。
「なぁ、坊主。伝承級の化け物にだけは関わるな。関わっていいことなんて一つもねぇ。俺がそのいい見本だ」
「見本、ですか?」
普段の名無しとは異なる、真摯は瞳で恭也を見てくる。
それは本当に恭也の身を案じている者の視線であった。名無しは土下座を止めると、再度階段へと座り込む。
「……俺はな、今はこうだが昔はそれなりに名前が通っていたってのは本当だ。自負があった。誇りがあった。強さもあった。負け知らずだったってのもマジな話だ。でもな、それは所詮井の中の蛙だっただけだ」
名無しは深い深い、虚ろな瞳で恭也を捉える。
いや、その視線は恭也を見ているようで、実はその遥か後方を見ていた。まるで遠い過去を覗き込むように。
「馬鹿だったよ。天災のように人を殺し尽くしていた伝承級の化け物が許せなくてな、牙を剥いたんだ。だが、一緒に立ち向かった仲間は皆死んじまった。生き残ったのは俺ともう一人だけさ。でもな、まだその敗北からは立ち直ることができた……俺にはまだ支えてくれる家族がいたからな。だけど、もう一度とんでもない怪物に全てをぶっ壊されてしまった」
名無しの放つ吐息には、ただ絶望しかなく―――。
「……俺は、親が居なかった。だから孤児院を経営していたんだ……少しでも俺みたい奴を減らしたくて。その孤児院に奴が現れた……百鬼夜行。偶々俺が狙われたんだよ、タイミングが悪いことに」
その時のことを思い出すと、恐怖しか蘇ってこず―――。
「殺されちまった……俺のガキ達みんな。俺があまりにも弱かったせいだったんだろう……俺の本気を引き出すためにあいつは、俺の前でガキ達は腕をもがれ、足を引きちぎられ、頭を砕かれ、心臓を引き抜かれ―――あそこには絶望しかなかった。残ったのは命の無い肉塊と半死半生の俺だけさ」
ガタガタと名無しの身体が音をたてて震えている。
顔色も青く、今にも倒れそうな雰囲気で両手で身体を抱きしめた。
「情けない話だろう?皆殺されたっていうのに、俺は復讐をするでもなく、こんな格好で逃げ回っているんだ。怖いんだよ、あいつが……いや、戦うこと自体が」
それは名無しの本心だったのだろう。
もう関わりたくない。もう戦いたくない。それだけが心を埋め尽くす。
その時に名無しは完全に心を折られてしまったのだ。
「……わかっただろう?伝承級の化け物にだけは関わるな。立ち向かうな。奴らは天災と一緒だ……息を止めてじっとしてるしかないんだ」
恐れ、慄き、みっともなく名無しは震えていた。
流れ出る恐怖の涙を押さえるように、両手で顔面を押さえつける。
その両手の隙間からは、あふれ出た涙が手の甲を伝い、階段を濡らす。
そんな名無しに、恭也は今度こそ背を向け歩き出した。足を止めることなく、その場から離れていく。
「―――覚えましたよ、百鬼夜行の名」
「……え?」
恭也の独り言に、名無しが去っていく恭也の背中を呆然と見つめる。
不思議とその背は静かな怒りを宿しているように思えた。名無しが持てなかった怒りを変わって背負っているように感じた。
「もし遇ったならば―――斬って見せましょう。貴方の無念を、怒りを、悲しみを刃に乗せて」
「ぅ……ぁ……」
言葉にならなかった。
恭也の台詞に、名無しの目から恐怖とは異なる涙が零れ落ちる。
この数年ずっと逃げていた。卑怯者だと、臆病者だと罵られても仕方の無いことをしてきた。
誰よりも可愛がっていた家族を皆殺しにされたというのに、恐怖に脅えて世界中を放浪してきた。その名無しを恭也は責めなかった。逆に名無しの弱さを受け止めてくれた。
それが名無しには何よりも嬉しい。自分よりも十数倍も年下の青年に名無しは心の底から感謝していた。
昔を思い出す。ここ海鳴に四年前に辿り着き―――恭也と出会った。その頃の恭也は確かに強かったが、それでもまだまだ未熟者だったのだ。
初めて会ったときも全身ぼろぼろの姿で、刀を振るうことさえも苦労するほどの状態だったというのに、目だけは決して死んでいなかった。
敗北の毎日。それでも恭也は諦めなかった。己の心に負けなかった。
自分とは違う心の強さに、名無しは魅入られた。だからこそ、未だこの海鳴に名無しはいるのだ。
見届けたい―――高町恭也の行く末を。
見届けたい―――高町恭也の強さの果てを。
見届けたい―――高町恭也の世界最強への道を。
名無しは、涙を流しながら―――恭也の背中を見送っていた。
名無しとの出会いで随分と時間を消費してしまった恭也は、急ぐように歩くペースをあげる。
すでに相手先には電話をしていたのだが、その約束の時間をこのままだと過ぎてしまう。待たせている相手が相手のため、冷や汗をかきつつ歩道を駆けた。
幸い警察に呼び止められることなく無事に駅二つを超えた先にある、明心館の道場があるビル前へとたどり着くことができた。
警察には呼び止められなかったが、途中何度も道端で歩行者とはすれ違い、奇異の視線を向けられてきたのには少しだけ気まずい思いをした。
明心館の道場は、駅から少し離れているとはいえ、それでもやはり人の流れは多く、恭也は身を隠すようにビルに入り階段を上る。
このビルで教えているのは明心館巻島流―――全盛期を過ぎたとはいえ実戦空手の雄、巻島十蔵が教える流派だ。
なんでも若いころには人間では物足りなくなり、熊や虎と素手で戦ったという伝説も持つ六十近い空手家。
年齢が離れているが父・士郎の古い友人のため、恭也や美由希も時々稽古をつけて貰うためこの道場には足を運ぶ―――ただし、その稽古は明心館の人間には見せることはないが。
運がいいのかビルの階段をのぼるさいに、明心館の人間に見咎められることはなかった。
幾人かは顔見知りなのだが、知らない人間のほうがずっと多いため、不審者扱いされかねない。特に今は太郎を担いでいることもある。
ビルの四階に辿り着き、階段の傍にあったドアをノックする。
「おう。開いてるから勝手に入ってこい」
「失礼します」
挨拶をして、扉を開けた恭也に一直線に迫りくる拳。
その一撃は恐ろしいほどに鋭く、速く―――美由希をも上回る音速の正拳付き。恭也をして、目を奪われる完成された打撃。
反応を敢えてしない恭也の鼻先の手前で拳はピタリと止まり、数秒間の沈黙がそこにうまれた。
拳を放ってきたのは、一人の男性。
ワックスで塗り固められた短く刈られている黒髪が照明をあてられ、ぴかぴかと光っている。
年のころは外見だけならば四十代でも通る若々しさ。歪めている口元は、肉食獣のように獰猛だ。
この男こそ―――明心館館長巻島十蔵。
「おせえぞ、恭也。もう帰っちまうところだったぜ」
「申し訳ありません。少し込み入った事情がありまして」
「ま、別にいいけどよ。とりあえず、座れよ」
そういって巻島は部屋の中央の高級そうなソファーにどっしりと腰を下ろす。
部屋の中にあるのは大きいテーブルを挟み込むように二つのソファーが置いてあり、その周囲には多くの賞状、トロフィーなどが並べてある。
「いえ。すぐにお暇するのでお気になさらずに」
「ん、そうか。それで、電話では詳しく聞いてないが何の用だ?」
「……そうですね。この少年を預かっていただきたいのですが」
「そのガキを、か?」
恭也の肩に担がれた太郎を品定めをするように見る巻島だったが、考え込むように両腕を組む。
流石に肩に担ぐのも疲れたのか、ソファーにゆっくりとおろし寝かせた。
「逸材、だと思いますが」
「……まぁ、そうだな。久々に面白い素材だとは思うがよ」
その会話を最後に部屋に静寂が舞い降りた。
部屋に響くのは時計が針を進める音のみで、二人とも次の言葉を待つように口を閉ざす。
この部屋に他の人間が居たらプレッシャーに押しつぶされたに違いない。例え二人にその気が無かったのだとしても、この二人は十二分、人にして人を外れた怪物同士。二人の間で揺らめく空気は尋常ではない。
「……一つだけ聞かせろ、恭也。こいつはお前の―――敵と成り得るか?」
「はい。今はまだそれだけの力がなくとも、何時か必ず」
一瞬の躊躇いもなく頷いた恭也に、巻島は決心がついたのかパァンと膝を手でたたいた。
消していた獰猛な笑みを再度浮かばせ、楽しそうに恭也に笑いかける。
「いいだろう。この俺がこいつを―――お前の敵にまで育て上げてやる。お前に土をつけることになる相手を自分の情けで作り出すことになっても構わんのだな?」
「是非も無く」
「よし。ならば後はこの俺に任せておけ」
恭也の二度目の頷きに、巻島は豪快に笑い返す。
巻島から見た恭也は正直な話、完璧だ。完全だ。完成されていると評価しても過言ではない。
この若さでこれだけの高みにいる剣士を―――人間を巻島とて知らない。若き頃の不破士郎でもこれほどではなかった。
昔から恭也は強さに貪欲だったが、それは今でも変わってはいない。だからこそ敵を求めている。自分と渡り合える敵を。自分を怖れない敵を。
何故こんな若い男がそれほどまでに強さを求めているのか……巻島は不思議でならなかったが、それについては問い詰めることはしなかった。
「有難うございます。それでは俺はこれで。ああ、もし渋ったら話してもいいですよ、昔話を」
「いいのか?まぁ、わかった。それと、今日は一本やっていかないのか?」
「……今日は遠慮しておきます」
「珍しいな……お前がやるきが起きないなんて」
「ええ。夕飯が遅れるのと―――少し高ぶっていまして」
口元を歪めた恭也の口からでたのは底冷えする声だった。
ぞくりと薄ら寒い空気を巻島は感じると、反射的に立ち上がり恭也に向かって拳を向けて構える。
対して恭也は巻島に頭を下げ、それ以上言葉をかわすことなく、部屋から颯爽と姿を消した。
恭也が部屋から去っていった後も巻島は構えを解くことはできず、一分以上たってようやく巻島は息を吐きつつ自然体へともどる。
すでに恭也はビルからも出て行ったはずだというのに、部屋に満ちる空気は極寒の世界を思い起こさせた。
「ちっ。恭也の野郎ちょっと前に一戦やらかしたばかりかよ」
巻島は残念そうに先程まで座っていたソファーに腰をおろした。
その予想は間違っておらず、恭也はほんの一時間前に、永全不動八門の若者達と一戦交えたばかりであった。
その中でも葛葉と紅葉の二人は恭也の心の琴線にふれるだけの覚悟と力を持っていたため、普段とは異なり気持ちがあらぶっていたのだろう。
このまま戦いを始めたら下手に巻島の力量が高い故に、どうなるか分からない。そう判断した恭也は大人しく帰宅していったのだ。
「そんで、小僧……お前の名前はなんてんだ?」
「……っ」
巻島の突然の問いかけは―――気絶している太郎に向けてであり、その問いにビクリと身体が反応する。
隠し切れないと諦めたのか、太郎はゆっくりと身体を起こし、ソファーに座ったまま巻島とテーブルを中間に置き対面する。
「……何時から気づいて?」
「恭也がソファーに降ろしてすぐ目を覚ましただろう?ああ、あいつも気づいていたぞ」
「……」
あっさりと言い当てられ、返す言葉も無い太郎だったが目を覚ました後、恭也が去っていく間際に放たれた気配に吐き気をもよおす。
思い返すだけで寒気がする。これまで出会ってきた強者とは別次元の存在である高町美由希。そして高町恭也。
己がどれだけ無謀なことをしたのか、過去にもどれるならば死ぬ気で止めていたことだろう。
「で、もう一度聞くが……名前は?」
「……山田、太郎」
「偽名ってわけじゃないよな?俺は巻島十蔵。名前くらいは聞いたことあるだろう?」
「……鬼の巻島」
なんだ、知ってるのか。そんな巻島の呟きが聞こえた。
巻島十蔵の名前を知らぬ者などそうはいまい。その名は有名どころの話ではない。
戦い続ける達人。これまでの空手道において不敗を誇る空手家。虎殺し。熊殺し。様々な異名を持ち、人間離れした力量のため鬼とまで称えられた男。
そんな噂を聞いていたが、太郎とて話半分に考えていた。噂とは勝手に大きくなっていくものだと思っていたからだ。
だが、実際に向かい合ってみてようやくわかった。
目の前の還暦近い男の計り知れない実力。自分では遥かに及ばぬ化け物がまた一人ここにいる。
世界は太郎が考えているよりも遥かに―――広かった。
「ま、行くぞ」
何を、と問う暇は無かった。
座っていた体勢から上半身の力だけで跳ね上がり、太郎の顔面に拳を放つ。
その動きには一切の無駄は無く、太郎は反応することができず―――拳が着弾する直前に拳を開き、掌で顔を掴むとソファーに頭を叩きつけられた。
まだ柔らかなソファーだったから良かったものを、もし床や地面だったならば到底無事で済むはずもなかった。
頭に軽い衝撃が伝わり、そこでようやく太郎は自分が巻島によって地面に叩き伏せられたことに気づく。
反応さえ許すことなかった巻島は、太郎から手を離すと元の位置に戻ってため息をついた。
「こりゃ、随分と鍛えなおさないと駄目だな」
「……貴方に師事すると、僕は納得していませんが」
「お前が納得するしないはどうでもいいんだ。俺が納得してるしな」
「……」
「それともお前はこのまま負けっぱなしで終わっていいのか?敗北者のままの自分を受け入れられるのか?」
巻島の問いに太郎は答えられない。
これまでの人生で敗北を知らなかった山田太郎は、今夜だけで二度の敗北を知った。そして、目の前の巻島十蔵にも確実に勝てないだろう。
それはとてつもなく悔しい。今までの驕りを捨て去り、更なる強さを求めたい。
だが―――。
「……勝てるわけ、ないだろう……あんな、化け物に」
結局、それだった。
どれだけ努力しても自分は決してアレには及ばないだろう。
どれだけ鍛錬を積んでも自分は決してアレに勝つことはできないだろう。
どれだけ修練を修めても自分は決してアレに掠り傷一つつけることはできないだろう。
山田太郎の心には明確な恐怖が刻まれていて、これまで敗北知らずの太郎はそれをのりきる術を持ってはいなかった。
彼の心は、恭也や美由希ほどに鋼の意思を宿してはいないのだ。
力ない暗い瞳で自分を嘲笑う太郎に、巻島は怒りはしなかった。憐憫も持たなかった。
「まー、なんだ。恭也とやりあったら今のお前みたいになっても仕方ないっちゃー仕方ない。子供用プールにデビューした子供を次は大海のど真ん中に放置するようなもんだろう」
「……」
自分のことを子供扱いされた太郎だったが、否定をする気力もない。
事実、自分と恭也の力の差を比べたらそれくらいはあるだろう。巻島の例えは決して間違ってはいない。
「だけどな、お前には才能がある。それもあの恭也が逸材、というほどのな。それは掛け値なしの本音のはずだぞ。そうじゃなかったら、態々俺のとこにつれてきたりはしない」
巻島の推測は間違ってはいなかった。
恭也は太郎の才能を高く買っている。美由希と恭也の二人に一蹴されはしたが、その実力は非常に高い。
並みの者では、相手にもならないほどの力が太郎にはあるのだ。しかも、一切の強くなる努力をしていない。完全な才能のみでの力。
「……気軽に言ってくれる。あんたも、あの高町恭也も、この気持ちを、敗北を知らないから……そんな気軽に言えるんだ」
太郎は納得できず、巻島に自分の感情を吐き捨てた。
巻島も恭也も、強すぎる。圧倒的な強者。だからこそ、今の惨めな太郎の気持ちはわからない。最強だと信じていた自分が崩されて、これまでの自信が壊された。
そんな自分の気持ちを―――理解できるはずもない。
太郎の吐露された本音をキョトンとした表情で聞いていた巻島は、右手の親指で額をかく。
今の太郎に何を言っても無駄だろう。誰もがそう思ったかもしれない。しかし、巻島は額をかくのをやめ、両腕を組む。
天井を見上げてトントンと床を足でリズムを取るように叩く。
「敗北を知らない、か。それは少し違うな。あいつの―――恭也の場合は」
「……な、に?」
「あいつの許可は得ているしな。まぁ、ちょっと昔話をしてやろう。剣に生きるある馬鹿の話だ―――」
巻島は過去を思い出すように語る。
グラリと心が揺れる。古い過去を……恭也から聞き、自分が実際に恭也とともに過ごした遠い過去。
巻島は懐かしむように―――口を開いた。
雪化粧をまとった名も知れぬ巨山が圧倒的な存在感で、恭也の視線の先に迫っていた。
素晴らしい眺めで、思わず自分が樹海を横断しようとしていることを忘れてしまう。
周囲の広葉樹は時期が時期だけに軒並み葉が抜け落ちている。恭也の背丈を遥かに越える木々だが、その隙間をぬって見えるのは透き通るようなスカイブルーの空。
吐く息も白く、この季節だと夜になると寒さも洒落にならないことになる。
高町恭也―――十三歳。
中学生だというのに、桃子を説き伏せ全国武者修行の旅にでている年若き剣士。だが、十三歳という年齢と半比例して、容姿も雰囲気も大人びていて、身長も百七十近いため、初見で中学生と見てくれる人はまずいない。大概が高校生。悪いと大学生に見てくる相手もいる。
既にこの時には士郎は亡くなっており、美由希を指導していたのだが……どうしても実戦の経験の必要性を感じ、半ば無理矢理旅に出ている状態であった。
数ヶ月前に人外の怪物に膝を砕かれ、圧倒的な力の差を思い知らされたのも、恭也の中に焦りを生み出した原因だろう。
巨山に見惚れていた恭也だったが、夜までには樹海を抜け出さねば野宿をすることになるため、疲れを見せず軽快に道ともいえぬ道を駆ける。
樹海に侵入してからはや三時間は歩き続けたが、恭也には全くの疲れは出ていない。
他の人間が聞けば正気を疑うような体力作りを普段から行っているため、この程度で恭也に疲れがでるはずもなかった。
日本全国を旅してまわって気づいたことがある。
高名な剣士。武術家。そういった相手と手合わせを行った結果―――強い相手は多かった。
今の恭也では勝つのに難しい相手は幾らでもいた。【裏】に住んでいるような実力者とは剣を交えてはいない。それは―――例えば永全不動八門といった輩は恭也の知識では所在地が調べられず訪ねてはいないからだ。
だが、決して勝てない相手ではなかったのだ。あくまで勝つのが難しい相手なだけであって。
記憶にある御神、不破の一族に比べたら見劣りする腕前の相手ばかりで……特に不破士郎に匹敵する者など探しても見つかりはしなかった。
それでも実戦は実戦。誰一人として命を賭けた死合いなど引き受けてはくれなかったが、恭也の経験として蓄積されていく。
だが―――足りない。
それこそが高町恭也の偽りなき本心。強き者を探して、恭也は邁進を続ける。
樹海を歩き続け、さらに二時間は経過しただろうか。木々を抜け、恭也の前方には人の手によって造られた道路が広がっていた。
迷ってはいなかったとはいえ、流石に樹海を横断するのには少しは緊張したのかもしれない。
普段だったら汗一つかくことない恭也だったが、汗が冷えて急激に寒さが見に沁みてきた。
街がある方向と距離は地図で確認したため、道路沿いに歩いて行く。
樹海を合計五時間以上も歩いていたが、幸いなことに街までの距離はそれほどでもないため、強行軍にはなったが無事に目的地につくことができた。
そしてそのまま、駅を探して街の中を探し回る。地図で確認する限り、この街が駅がある最も近い場所だったのだ。
半年以上も全国武者修行をして、様々な実力者と実戦を経験した恭也だったが、心のどこかで感じた物足りなさ。
それを解消するために更なる相手を探していて―――今日閃いた相手がいた。
むしろ何故、もっと早く気づかなかったのかと自分を罵りたい気持ちも湧き出るほどに身近にそういう相手がいたのだ。
―――巻島十蔵。
鬼とまで呼ばれるに至った空手家。
士郎の古い知り合いで、存命の時に何度も会った事がある相手。最後に会ったのが士郎が亡くなったときなのでおおよそ二年程前になるのだろうか。
そのためすっかりとその存在を恭也は忘れていた。
士郎と試合っているのを見たことがあるが―――信じられないことにあの士郎と互角に渡り合えた男だ。
そんな相手を忘れているとは、本当に前しか見えていないと自嘲気味に恭也は首をふった。
街を歩き回っていると、然程大きくがないが駅を発見した恭也は駅員に海鳴までの行き方を教えてもらい、改札を通り構内へと入った。
生憎と普通車しか止まらないようで、時刻表を確認しても十五分に一本程度しか電車はこない。
逆に十五分に一本くればいいか、と考えた恭也は時間を構内にある時計で見てみると、運がいいのか二、三分ほどで電車がやってくるタイミングの良さであった。
座るまでもないと恭也はその場で電車を待っていたが、アナウンスが流れ、すぐに電車は駅へと到着した。
電車は夕方だというのに、随分と空いている箇所が目立つ。
その席のうちの一つに腰を下ろした恭也は、電車が出発し次々と変わりゆく外の景色を窓を通して眺めていた。夕暮れが差し、茜色の空が印象に残る。
電車に揺られながら恭也は自分に何が足りないのか考える。
力。スピード。技量。機転。経験。その他にも様々なものはあるだろう。
ようするに高町恭也は―――全てが足りない。
ミシリと音が鳴るほどに強く拳を握り締める。
恭也は焦っていた。特に天眼と名乗る化け物と出会ったときよりそれは顕著となっていた。
あの人外の化け物が予言した時まで、残り一年と半年ほどしかない。もし、その予言がなければ恭也とてもう少し腰を落ち着けて鍛錬に励んだかもしれない。
だが、あの化け物が恭也に語った予言は一笑できない何かを感じさせた。
―――今から二年後に、貴方は地獄を見るでしょう。今程度の力では確実に死にますよ?
どこまで強くなればいいのかわからない。一体どんなことが起きるのかわからない。
ただ一つ言えることは……強くならなくてはならないのだ。
水無月殺音との約束の為にも。これから先の未来を生きるためにも。
恭也は再度己の意思を固めると、駅員に教えてもらった電車の乗継通りに駅を降り、新たな電車へと乗車する。
何度も電車を乗り換え、三時間程度はかかっただろうか。電車の窓から見える風景は見慣れたものへと変化していく。
海鳴より二つ手前の駅にて電車を降りると、士郎とともに歩いた道筋を記憶を辿りながら、明心館があるビルへと向かう。
すでに太陽は沈み、辺りは暗闇に包まれている。時間は九時過ぎ。今はまだ練習に励んでいる門下生も多数いるだろうと予測し、目的のビルは見つけたが、その近くの路地裏の壁にもたれ時間をつぶす。
多くの人が行き交い、雑踏のなかを明心館の練習生らしき若者や壮年の男性達が挨拶を交わし去って行ったのを確認した恭也は気配を断ちながら路地裏から表通りへと出て、そのままビルへと侵入する。
ビルの明かりはまだついているので誰かが残っているだろう。そういった人に見つからないよう細心の注意を払って階段を踏み進めていく。
目的とする場所は分かっている。集中しないでもはっきりと掴み取れる、圧倒的な気配が一つだけ存在するのだから。
三階に辿り着くと恭也は深く深呼吸を繰り返し自分を落ち着け―――眼前の扉を開け放った。
ぶわぁと生暖かい風が吹き付けてきたような気がした。
反射的に一歩後ろへ下がった恭也だったが、この場所へ来た意味を心に叩き込み、己を奮い立たせる。
逃げ出したいという気持ちが支配する体を無理やりに動かし、道場の中へと足を踏み入れた。
何十人と鍛錬ができそうな広い部屋。畳で床が覆われたそこを土足で踏むわけにもいかず、靴を脱いで足を踏み入れた。
道場の丁度中心に、巻島十蔵は仁王立ちでまるで恭也が来ることをわかっていたかのように待ち構えていた。
うだるような熱帯夜の熱い空気が道場には充満している。恭也の頬を汗が滴り落ちる。
それは暑さではなく―――計り知れない重圧。巻島から放たれる押し潰されそうな闘気。
入ってきた恭也を見て、巻島は首を捻った。まるで予想外の人間がその場に現れた時の反応に良く似ている。
「物騒な気配をしている奴がいると思ったが……なんだ、まだガキじゃねーか」
「……気配は消していたと思いますが」
「阿呆。ビルでは消していたかもしれんが外から消してこないと意味ないだろう。ビルに入った途端消したら不自然すぎるぞ」
「……仰るとおりで」
基本的なことを指摘され、恭也は素直に頭を下げる。
ビルの人間に気づかれないように侵入した時から気配断ちをしていたが、確かに巻島の発言の通りあからさま過ぎたことに反省する。
そんな恭也の顔をじろじろと見ていた巻島だったが、ふと何かを思い出そうとしているのかコンコンと人差し指で米神を叩いていた。
十数秒程度だったろうか……記憶を辿っていた巻島は答えに辿り着いたのか、あっ、と思わず声をあげる。
「お前まさか……恭也、か?」
「お久しぶりです。突然のご訪問をお許しください
別に正体を隠す必要もないのであっさりと巻島の質問に恭也は頷いて答えた。
二年近く会っていないというのに恭也の顔を思い出した巻島のことが意外であったが、その理由は実は巻島は高町家のことを随分と気にしていたからだ。
士郎とは歳が親子近く離れていたが、それでも仲のいい有人であり、巻島と互角に戦える唯一の喧嘩仲間といってもよかった。
その忘れ形見である恭也と美由希のことが気にかからないはずも無い。
「……巻島さんに折り入って頼みたいことがあって、不躾ながら窺わせていただきました」
「おう。なんだ?大抵のことなら聞いてやるが」
「……俺と本気で戦っていただきたい」
「……」
久しぶりに会った恭也の成長が嬉しかったのか笑顔だった巻島の表情が突然曇る。
真剣な表情の恭也の発言に、それが冗談ではないと理解している巻島は深いため息をついた。
「今日は家に帰れ……もう夜も遅いしな」
恭也に背中を向けて、言葉には出さないが態度で拒絶を示す巻島。
巻島は恭也と戦う気は無いと、物言わぬ背中がそう語っていた。
「俺程度では巻島さんの相手にならないのは百も承知。ですが、そこを―――」
「俺は帰れと言った」
有無を言わさぬ巻島の言葉が、恭也の台詞に割ってはいる。
巻島とて好きでこのような態度を取っているわけではない。もし、恭也の望みが稽古をつけて欲しいといったことだったならば巻島は何の躊躇いもなく受け入れただろう。
だが、恭也の願いは【本気】の巻島との戦い。一歩間違えれば大怪我では済まない仕合をまだ十三にしかならない子供と行うことの愚かさを理解する分別が流石の巻島とてあった。
恭也も自分がどれだけ無茶なことを頼んでいるのかわかってはいる。
それでも、今ここでとまるわけにはいかない。巻島と戦うためにここまでやってきたのだ。
「……最初にお詫びしておきます」
ぞわり、と―――恭也の一切の手加減抜きの、正真正銘全力の殺気が迸った。
高町恭也の身体から、見えないが、確かに感じられる何かが噴き出し道場を占有する。
その殺気を身体全体に受けた巻島は本能が危険を告げ、振り返り構えを取った。
呼吸が乱れ、胃袋を直接掴みあげられたような重圧。心臓がバクンバクンと悲鳴を上げる。頭痛に似た、痛みがチリチリと脳内を焼き尽くす。
巻島の想像を上回る恭也のプレッシャーに驚きを隠せなかった。まだ十三になったばかりの少年だというのに、ここまで己に危険を感じさせるだけの殺気を放つことが出来るのに驚嘆を禁じ得ない。
心胆を寒からしめ、魂を痺れさせる危険な気配。ここまでの危険を、士郎が死んでから久しく感じさせる相手が存在しなかった。
恭也は真剣を使う―――というわけではなく、使うのは木刀。
腰に二刀を差す、二刀差しと呼ばれる刀の差し方。最初から小太刀を構えずに、巻島の出方を見計らって抜刀する考えだ。
こういう時不便だ、と巻島は自嘲する。
戦いに生き、そして死ぬ。無駄に長生きするより、強い者と戦いたい。そういった考えを信念とする生粋の戦闘者である巻島は―――年若いとはいえ恭也ほどの使い手に本気で挑まれたならば拒絶は出来ない。
頭が考えるよりも、身体が戦いを望んでしまう。
だが―――。
「大した奴だよ、恭也。それでも、まだ足りねぇ」
巻島の体がゆらりと揺れる。
残像を残すほどの疾速で、恭也との間合いを詰めていく。道場に響き渡る踏み込みの音。恭也との距離はまだ遠く、到底届かない位置から大振りとも言える正拳突き。
迎え撃つ恭也が、踏み込んできた巻島に対して抜刀。拳は届かなくても、小太刀は届く。巻島の拳を切って落とす目的を持って斬り上げられる筈だった小太刀は―――ぐしゃりという音と激しい痛みが恭也の指を襲っただけに終わった。
巻島の狙いは恭也の小太刀を握り締めた手。寸分の狂いも無く、巻島は恭也の指を狙い砕いた。
激痛に表情を歪める恭也に、巻島は容赦のない前蹴りを放つ。
避ける間もなく鳩尾につま先を叩き込まれ、その衝撃に恭也の身体は後方へと吹き飛ばされ畳を転がる。
二転三転して止まるが、恭也は腹部を押さえて声もあげれず蹲ったままだ。
「っ……ぁ……」
「お前は強ぇえよ……もう一度言うがたいしたもんだ。自分を誇りに思ってもいい。だが、十年たったらまた来い」
激しい腹部の痛みで巻島の台詞など聞けてはいないだろうが、そう言い捨てて道場からでていこうとする。
巻島の言ったとおり恭也は強かった。それでも、巻島と戦うにはまだ早過ぎた。十年は大袈裟にしても、三年、五年は必要だっただろう。
まだ身体も出来上がっていない状態の恭也では、見切りの術も身体が追いつかない。
「くっ……はっ……はっ……」
恭也の口から漏れるのは苦しみの声だと思っていた巻島が足を止め首を捻った。
確かに苦しんでいるようだが、それだけではない。
途切れ途切れになってはいるが、それは―――隠しようの無い笑い声。
「ここに来て、良かった……貴方を思い出した、自分を褒めたい……」
ガクガクと震える足で恭也は立ち上がる。
手の甲で口の周りの唾液を拭い取ると、今度は出掛かりを潰されぬように木刀を構えた状態で巻島と相対する。
立ち上がってくるとは予想だにしていなかった巻島は、恭也の心に見えた鋼の意思にただ驚くばかりだ。
次に仕掛けたのは恭也だった。
その踏み込みの速度は巻島の戦ってきた猛者の中でも十分上位に位置する速度である。士郎には及ばずとも、近い将来追いつくであろうことが予想できる。
が、恭也が一歩踏み込み、二歩目を踏み出すとした時には、既に間合いを詰めていた巻島が恭也の眼前にいた。
反射的に振るった斬撃を、腕を押さえることによって無効化する。
そして、道場に響き渡る絶望的な震脚。前傾姿勢となった巻島の拳が……。
―――高町恭也の胸板を穿ち貫いた。
恭也の短い人生最大の一撃を受け、嵐の日の小船の如く翻弄され、吹き飛ばされる。
床に激突し、跳ね上がり壁へと轟音をたてて激突して止まった。
ずるずると床に倒れこみ、今度は咳き込むどころか一切の反応をしていない。意識が無いのだろう。
魔拳―――吼破。
何時しか誰かがそう呼び始めるようになった巻島の奥義の一つ。
弓を放つように、全体重を乗せた正拳打ちを叩き付ける……ただそれだけの技だ。
単純故に、実戦で使うのは難しく、隙も多い。だが、その威力はどんな一撃をも凌駕する。
反射的に、否、本能的に吼破を使ってしまった巻島はまじまじと自分の拳を見つめる。
別に使わなくても恭也を倒せたはずだ。使う必要なんてなかった。
だというのに、先程の交差で巻島は吼破を使ってしまった。いや―――。
―――使わされ、た?
口の中の唾液を嚥下できないほどに、巻島の喉は凍りついた。
巻島の考えを押し潰す、本能が先程の交差で恭也を沈めねば己の身が危機に陥る。そう判断して身体が最大最強の一撃を放たせた。
未だ十三年しか生きていない子供が巻島十蔵の本能を刺激したのだ。
意識を失っている恭也に近づいていくとその身体を肩に担ぐ。
このままここに居ても意識を取り戻すまで暫くかかるだろう。せめて、ソファーの上にでも寝かそうと五階にある自分の部屋まで階段をあがっていく。
士郎の面影が見える恭也の容貌。矢張りこの少年はあの士郎の血を色濃くひく者だということを認識した巻島は嬉しそうな笑みを口元に浮かべた。
「……前言撤回だ。お前が強さを求めるのなら幾らでも相手をしてやるよ、恭也」
この日を境に、高町恭也と巻島十蔵の仕合は始まった。
毎晩毎晩、恭也は巻島に挑み続け、敗北を刻み付けられ、それでもただひたすらに戦い続けた。
動くことすら困難なほどに疲弊し、痛みつけられても戦い続ける様は異様ともいえ、桃子や家族に心配をかけても恭也は明心館に通い続ける。
巻島との実戦は、恭也を成長させていく。それは牛歩のように遅い一歩一歩だったとしても、確かに恭也を剣士としての高みへとあげていった。
そして、一年と半年が過ぎ―――高町恭也十五歳のある日運命は来る。
何時もの如く道場で向かい合っていた恭也と巻島だったが、雰囲気が普段とは異なる恭也の様子に巻島は訝しむ。
その視線に気づいた恭也は木刀を下ろすと自然体となった。その姿は初めてこの道場にきた時よりも随分と大人びて、落ち着いていた。
身体もあれから成長して、身長も伸びたのはいわずもがな、体格も遥かにがっしりとしている。
一番変わったのは剣の腕だろうか。雰囲気も以前のような焦ったところは見えない。
「どうかしましたか?」
「いや、何か今日は少しおかしいな、お前」
「……かもしれません。そろそろ予言の時ですからね」
「予言だと?」
「……俺が生きるか死ぬか。その分岐点だそうです」
「よくわからんな、ま、さっさとやろうぜ」
ミシリと音がなるほどに強く握り締めた拳を恭也へと向けて、昔と同じような獰猛な雰囲気を纏わせ巻島は構えを取った。
何時頃からか巻島の頭に手加減という言葉はなくなっていた。剣と拳という得物の差はあれど、二年にも満たない時の流れでここまで成長するとは巻島とて思っていなかった。
幼い頃から鍛え上げた地盤があったとしても、何十回も、何百回も叩き伏せられてなお、戦い続けた恭也の意思の強さには心の底から驚嘆を抱く。
「今日こそは一本取らせていただきます」
「十年はえーよ」
互いに互いを認め合った人にして人外の域に達した二人は、今日も戦い続ける。
そして、それは―――どれだけ時が経ったとしても変わらないだろう。
「……それでその時の戦いはどっちが勝ったのですか?」
「……俺は負けてねーぞ。負けたと自分が思ったときが本当の敗北だしな!!」
太郎の質問に巻島は答えずらそうに視線を逸らせる。
それで太郎は推測が付いた。恐らく、その時になって初めて恭也は巻島を打ち倒すことが出来たのだろう。
たった一度の勝利を掴むために何百回もの敗北を繰り返し、経験し、ようやく辿り着いたという。太郎の遥か先にいるあの人外の剣士でさえも。
敗北など経験していないと思っていた。
高町恭也も巻島十蔵も。最強という称号の頂に常にいたのだと勘違いをしていた。
それは太郎の勝手な思い込みで―――二人は互いに何度も勝利と敗北を繰り返してきたのだ。
弛まぬ努力。毎日の鍛錬。拮抗した相手との実戦。
その果てが、高町恭也だ。巻島十蔵だ。そこまでせねば、あの領域には辿り着けなかったのだ。
たった二度の敗北を知ったくらいで諦めてしまうなど、子供みたいな自分に苦笑しかできない。
だが、それでも恭也の影を踏むのでさえも果てしない道だ。一体どれだけの努力をせねばならないのか。
例え恭也の過去の話をされたとしても、すぐさまに自分の道を変えられるほど太郎は器用でもない。
太郎は己一人で道を歩いてきた。努力を必要とせず、師など持たず。
だからこそ―――。
「まずは、自分を見つめなおして、みますよ」
太郎はソファーから立ち上がると部屋から出て行こうとするが、不思議と巻島はそれを止めようとはしなかった。
巻島は去っていこうとする太郎の背に向かって、ただ面白そうなモノを見つけた笑みを浮かべ、手首を振って部屋から追い出すジェスチャーを送った。
「さっきも言ったがお前を弟子にすることには納得している。お前の覚悟が決まったら俺を訪ねて来い」
「……有難うございます」
「礼には及ばん。お前のためじゃない、恭也の願いのためだ」
「……それでも言わせて頂きます」
「くっくっく……ま、できれば早いうちにこいよ。お前には俺の取っておき―――」
巻島は悪戯小僧のような笑みを浮かべたまま。
「―――魔拳をくれてやる」
これより一ヶ月後。
山田太郎は巻島十蔵を師と仰ぐことになる。
高町美由希を。高町恭也を。追い求める修羅がまた一人。ここに生誕した。
-------atogaki-------
好感度マックスの真ヒロイン名無し登場