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「やはり……聖杯は私を選ばなかったか」
深山町、洋館の立ち並ぶ区画にある遠坂邸──その一室、館の主たる遠坂時臣の書斎にて彼は椅子に腰掛けながら、何も描かれていない自らの手の甲を窓から差し込む月明かりに透かしながら嘯いた。
聖杯戦争。
およそ二百年近くも前から続けられる、聖杯という名を借りた願望機……万物の願いを叶える奇跡の所有権を巡る争い。
七人のマスターと七騎のサーヴァントの壮絶な殺し合いの果て、ただ一組の勝者にだけ胸に抱いた祈りを叶える権利が与えられる。
これまで三度の戦いが行われ、その全てが失敗に終わった。誰の手にも奇跡は渡ることなく、己が悲願を叶え損なった者達の怨嗟だけが残された。
そして今、この町で都合四度目の儀式が執り行われようとしている。
戦いは六十年の周期で行われてきた。三度目までは確かにそうであったというのに、今度の四度目は何の不具合が働いたのか、十年遅れての開催と相成った。
その時に向けて準備をしていた始まりの三家は大いに混乱し、しかし無情にも戦いは行われぬまま月日が流れ、今頃になってようやく聖杯はその起動を始めた。
戦いが十年もずれ込めば趨勢も変化する。魔術師であるが故に肉体的な年齢はそう影響を与えないにしても、老いは身体のキレを確実に衰えさせ、思考に鈍りを与えて判断を狂わせる。全盛期を誇っていた実力にも陰りが見えても仕方がない。
「しかしこの遠坂に限って言えば、この開催の遅延は大いに喜ばしいものと言える」
十年前に開催されていれば、間違いなく時臣本人が戦いに参じる事となっただろう。その意気込みはあったし、誰にも劣らぬ自負と磐石の布陣を用意していた。されどその準備の全てが水泡と帰し、それでも時臣はこれを天啓と捉えた。
十年という歳月は確かに時臣より力と思考を奪ったのだろう。無論研鑽を怠った事などないし、魔術のキレには些かの衰えもないと言い切れる。
時臣の真意は自身にはない。時の流れは無常であり老衰を刻むものであれど、同時にそれは成長をも促すものでもあるのだ。
「この五代遠坂家当主──遠坂時臣に成り代わり聖杯を巡る争いに臨むのだ、敗北など許されない。
無論それだけでなく勝利は優雅に、そして敵の全てを打ち倒して勝ち取らなければならない。分かっているね──凛」
「────はい、お父さま」
書斎の中心、薄い月光だけが染める室内に、少女は冷徹な瞳を湛えて立ち尽くす。
遠坂凛。時臣とその妻である葵との間に生まれた長女。葵の特異体質も手伝って、彼女はおよそ考えられる限り最高の才能を持って生れ落ちた。
凡俗であり修練のみで地位と実力を築いた時臣を、この歳で凌駕しかねないほどの稀有な才能。
当然にして彼女はその才能に胡坐を掻いていた訳ではない。父と兄弟子の指導の下、血反吐が滲み死んだほうがましだと思えるほど過酷な修練に十年以上耐えて研鑽を積み、余りある才能により磨きを掛けた。
結果、完成したのは完璧な魔術師。
遠坂時臣など軽く凌駕し、時計塔に蠢く血の重みだけを尊ぶ貴族や化け物じみた天才達と肩を並べても何の遜色もない魔性。それが遠坂凛という少女であり、第四次聖杯戦争に遠坂から参じるマスターの名だった。
「聖杯は遠坂のマスターとして私ではなく凛を選んだ。ああ、それは当然だ。聖杯に意思があり、自らを用い願いをより叶えやすい者を選定するのなら、名ばかりの当主よりも才能に溢れた凛を選んで当然だ」
時臣は机の上で肘をついて手を組み、直立する凛を見つめる。
「凛、おまえは……いや、我々は必ず聖杯を手に入れなければならない。他の二家は元より外来の誰の手に渡る事もあってはならない」
「はい」
「聖杯は遠坂の悲願であり、同時に今やその用途を正しく行える者は我らをおいて他にいない。妄執に駆られたアインツベルンや原初の祈りを忘却したマキリにさえも譲り渡してはならない。聖杯を手に入れるのは、我々だ」
「分かっています、お父さま」
凛の才能をもってすればどんなサーヴァントを召喚したところで最高のスペックを引き出せるだろう。しかしそれでは磐石ではない。時臣はかつて自身が触媒にしようと調達した聖遺物を用い、凛に最強の英霊を喚び出させる腹だった。
最強の存在の能力を余すことなく引き出せる最優のマスター。これでも充分に戦えるのだろうが、時臣は更にもう一つの姦計を仕組んでいる。
「入ってきなさい、綺礼」
「────はい」
厳かに開かれる扉より室内に足を踏み入れたのは長身の男。僧衣に身を包み胸のロザリオを月明かりに輝かせる聖職者だった。
「君には凛のサポートを務めて貰いたい。無論、監督役としての任もそうだ」
「はい。父に成り代わり監督役の責務を果たし、その上で遠坂の勝利に力添えをさせて頂きます」
本来ならば十年前、監督役を務める筈だった綺礼の父──璃正は既に逝去している。その為監督役の権限は息子の綺礼に引き継がれ、父と時臣の父との間に交わされた友誼に基づき綺礼は遠坂に肩入れしている。
監督役という本来ならば公平なジャッジを行わねばならない立場の人間が一勢力に助勢するなど許されるものではないが、これは遊びではなく殺し合いだ。
不正は暴かれなければ不正ではなく、そして勝利の為の方策を卑怯と謗るのは負け犬の遠吠えに過ぎない。
勝利への道を磐石にし、使えるものは全て使う。その上で他者の悉くを叩き潰し、誰もが認めざるを得ない勝利を手にする。それが時臣が思い描く勝利の形であり、娘に送る父としての助力だ。
「綺礼、君には損な役回りを押し付けてしまう事になる。それは心苦しいものだが、どうか娘の勝利の為に力を貸して欲しい」
「導師、そのような心配は不要です。どの道私は聖杯というものに興味がない。この手に刻まれた令呪も、何かの間違いなのでしょう」
璃正が逝去する直前に時臣と綺礼は引き合わされ、そして璃正たっての頼みもあり二人は知己となった。
己自身の歪みを幼少期より自覚し、煩悶と共に生きてきた綺礼にとって魔術師の知人というのは初めてのものだった。
父が敬虔な信徒であることもあり、綺礼は生まれついての教会の人間。異端と叫ばれる魔術師は打ち倒すべき敵であり、事実代行者として神の敵を滅ぼしたことは数え切れないほどである。
歪みに対する許しも答えも得られぬまま、死別した妻との別れの折に自らが信じ続けてなお救われなかった信仰とさえ決別した綺礼にとって、時臣との出会いは新たなる出発であった。
今まで敵方であった魔術師の側になら、もしかしたら求めるものがあるかもしれない……そんな一縷の希望、藁にも縋る思いで時臣に弟子入りを志願し、魔術の門徒となりその門扉を開いた。
結果、得られたのはより深い絶望だけだったが、綺礼はその時既に世界の全てを諦めていた。求め欲するものはなく、探し求めても見つからない。ならばそれはこの世界にはないのだろう。ないものを探していたのなら、それはまさに無駄骨だ。
そんな悟りにも近い心境を経た綺礼は物事に対する興味が薄れている。
万能の釜にも奇跡にも用はない。求めたものを求めた形でしか返さないものでは綺礼の望みは得られない。
聖杯が綺礼の何を見てマスターとなる権利とも言える令呪を託したのかは知らないが、この男はそれを得ても何の感慨もないまま、ただ時臣に報告しただけだった。
時臣はこの令呪の発現がより遠坂の勝利を磐石のものとする為の助力であると言っていたが、それが真実であれ間違いであれ綺礼にはどうでも良かった。
ただ何かに打ち込んでいる時は心の煩悶と向き合わなくて済む。未だ払拭されない迷いから目を逸らす事が出来る。ただそれだけで充分だった。
……この戦いもまた、私には何の答えも齎さない。ならば木偶のように導師の指示に従うだけだ。
監督役でありながら参戦するマスターであるという異常な立場を遠坂を利する為だけに使うことに異議はない。唯々諾々と粛々と、自身に課せられた任務をこなすだけだ。
「最優のマスターと最強のサーヴァント。審判を司る者の支援と更にサーヴァントを一体使役可能。これだけの布石を以って、遠坂は勝利を掴む。
凛、これで負けるようならばおまえはただの無能だろう。私を落胆させぬよう尽力しろ」
「はい」
「勝利の暁には聖杯獲得の栄誉と根源への切符、更には遠坂の家門もおまえのものだ。名目上の当主でしかない私はこれでお役御免というわけだ。私の肩に圧し掛かり続けていた重圧からようやく解放される日が訪れる」
時臣が名目上の当主でしかない理由は既に魔術刻印を凛に譲り渡している為だ。実質的な当主の権利を持つのは何年も前から凛であるのだが、彼女が未だ修行中の身であった為、当主としての面倒を時臣が一手に引き受けていた。
あと数年、戦争の開始が遅ければ名実共に凛が当主を継承していたのだろうが、戦いの開幕はもうすぐそこだ。可能性としては低いがこの戦いでの敗北……即ち死亡が考えられる以上はそんな儀を執り行う意味はない。
全ては勝利した後。最高の栄誉と共に遠坂の家門を継ぎ、凛は歴代最優の当主となる。
「私もこれまで以上に最大限の助力をさせて貰う。凛、そして綺礼。君達の勝利を、心から祈っている」
それで話は終わりだと、時臣は背を向ける。
背中で部屋を辞する二人の礼を告げる声を聞きながら、窓越しに空を仰ぐ。
煌々を冴え渡る蒼い月。
凍るように冷たい色の光を浴びながら、時臣は亡き妻に想いを偲ぶ。
見ていてくれ葵。
私達の子は必ずやその手に勝利を掴むだろう。
見守っていてくれ、凛の勝利を。
祈っていて欲しい、凛の無事を。
私はただ、それだけを君に願いたい。
一人の父として夫して。
そして魔術師として。
時臣は月に祈りを捧げたのだった。