「ちょっと、武也」
「――ん?」
顔を上げると、いつの間にか依緒たちはずっと先を歩いていた。
「何ボーッとしてんの。置いてくよ」
「っ悪い」
慌てて二人に追いつく。
「武也くん、大丈夫? やっぱり、さっきのお店で待たせちゃったよね?」
雪菜が武也を心配そうに振り返る。
「いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけだよ」
雪菜を安心させるように軽く笑って、武也は答えた。
「そうそう。心配することなんかないって。女の子との買い物なんか何千回とこなしてる奴なんだから。ペース配分くらいお手の物ってもんよ」
「…せめてケタをひとつ減らしてくれ」
武也と依緒のやりとりに、間に挟まれた雪菜がくすくす笑う。
『三人』でいるとき、武也と依緒は決して並んで歩かない。
それは、あの時からの暗黙のルールだった。
「何買ってきたんだ?」
「えっと、マフラー。ずっと欲しかったのがクリスマスセールで安売りしてたから」
雪菜が紙袋を持ち上げる。
「依緒とお揃いで買ったんだ。ふわふわであったかそうなの」
「へぇ、そりゃあ雪菜ちゃんに似合いそうだな」
「依緒と、お揃いなんだよ?」
「絶対似合うだろうなぁ。今度遊ぶとき巻いて来てよ」
「だからその、依緒が…」
「雪菜もういい。こいつにコメントを期待する方が馬鹿なの。だから店の中に連れてかなかったんだから」
「もう、依緒…」
唇を持ち上げた依緒をなだめる雪菜。
もちろん、依緒だって本気で拗ねてはいない。雪菜だって武也だってそのことはわかっている。
こんな軽口の応酬が自然にできるようになったのは、それほど昔のことではない。
あれから――
あいつがいなくなってから、武也と依緒は毎週のように雪菜を外に連れ出していた。
ショッピングモール、映画館、遊園地。夏は海、冬はスケート。
終業時間が合えば、毎晩だって呑みに誘う。…もちろん、門限の範囲で。
しつこいくらい頻繁に雪菜のスケジュールを確認し、休みを合わせ、決して彼女を一人にさせなかった。
すべては、『三人』のため。
そのためなら、飯塚武也は自分の恋だって諦められた。
「次、どこ行こっか」
依緒が武也に目線を送る。
コースのプランニングは武也担当だからだ。
「そうだなぁ…」
頭の中で、周辺の地図を検索する。計画より少し早く買い物が終わってしまったのだ。女性の買い物にかかる時間を警戒しすぎたらしい。小木曽家のパーティまで、まだ少し時間があった。
「あそこは?」
考えながら歩いていると、雪菜が前方を指差した。
大きな倉庫のような建物。
「リサイクルショップ?」
「雑貨とかあるかもしれないよ」
「あー。最近多いよな、こういうとこ」
雪菜が行きたいと言うのならば、二人が反対するわけもない。
しかし店の中は、予想とは少し違っていた。
「寸胴に、大型コンロに、雪平鍋12個セット?」
依緒が棚に並んだ物を挙げていく。
「こっちはオフィス用品だな。ボールペン箱買いしてくか?」
「馬鹿」
「あはは…ごめん」
雪菜が苦笑する。
「最近多いらしいぜ。店じまいとか引越しのときに出る不用品を買い取って、整備し直して売るんだ」
「あ、でも、あっちの方は家具とかあるよ。雑貨とかあるかも」
依緒が指差した一角に行ってみると、確かにこちらは引越しの回収品ゾーンらしかった。
「でもやっぱり、家具とかが多いね」
「いま本棚とかCDラックを買っても荷物になるしなぁ…」
それでも、商品を指差しながらあれこれ喋るのは飽きない。
ぶらぶら歩いていると、ようやく小物や雑貨の置いてある棚を見つけた。半端な数の漫画や雑誌、二世代くらい前のドライヤー、動くかどうか怪しい扇風機などが、特に法則性もなく並べられている。
「――あ」
突然、雪菜が声を上げた。
その視線の先、壁に立てかけられているのは――
「ギター、か?」
雪菜が黒いケースを開けると、中からアコースティックギターが現れた。
くい、と武也の袖が後ろから引っ張られる。
振り返ると、依緒が眼で何かを訴えかけていた。
――わかってるよ。
アイコンタクトで応える。
「…ケース付きで七千五百円か。あーでもこれ、新品で買ってもせいぜい一万五千くらいだな。相当な安もんだよ」
「…」
「楽器に興味あるなら、ちゃんとした店で新品買ったほうがいいよ。今度連れてくからさ」
「…」
雪菜は武也の言葉など聞こえない様子で、ネックを指でなぞっている。
「まさか……だけど……」
雪菜はケースからギターを取り出すと、
「雪菜、ちゃん?」
顔を近づけ、匂いを嗅ぎ始めた。
――どうなってんのよ!
眼で怒鳴り込んでくる依緒。
――知らねぇよ!
無言で怒鳴り返す武也。
しばらくギターに鼻を近づけていた雪菜は、続いてケースの中にも顔を突っ込む。
その表情は、おそろしく真剣だった。武也たちのウケを狙ってやってるようには見えないし、そもそも雪菜はそんな性格ではない。
――まさか。
武也の中で、ひとつの有り得ない仮説が思い浮かぶ。
――引越しの不要品。
――二年前、『あいつ』が使った引越し業者が、もし……
依緒の顔を見る。
同じタイミングで彼女も同じ仮説に至ったらしく、表情を固くしている。
――あの野郎。
――あれから二年も経ったのに。自分だけ逃げたくせに。
――また雪菜ちゃんを縛ろうとするのか。
このギターが、あいつのものだという証拠はない。
だが、このタイミングの悪さは、どうしてもあいつの仕業としか思えない。
「雪菜。あっちに古着があるみたいだよ」
何も言わなくなった武也を見限って、依緒が雪菜の気を逸らそうと声をかける。
雪菜は聴こえているのかいないのか、
「…………これ、買いたい」
ギターを抱きしめた。
「で、どうすんのよ?」
帰り道、武也と並んで歩く依緒が言う。
小木曽家主催のクリスマスパーティは、和やかで明るかった。雪菜の父と母も、そして武也も依緒も。彼女がいるはずの孝宏だって、この日ばかりは家族を優先する。
例年通り御馳走に舌鼓を打ち、他愛のないおしゃべりをして…、
そして誰も、雪菜の持ち帰ってきたギターには触れようとしなかった。
「しょうがないだろ。自分へのクリスマスプレゼントとか言われちまうとさぁ…」
「そりゃあ、あの子が自分から何かをやり出すなんて、数年ぶりのことだったけど…」
俯いた依緒が言う。
「新しい恋でもいい。やりがいのある仕事でもいい。雪菜が立ち直れるならね。でも、過去の思い出にすがるのはまずいよ。それじゃいつまで経っても、あいつを忘れられない」
あの楽器には、思い入れがありすぎる。
いい思い出も、そうじゃない思い出も、数え切れないくらい。
「あー!」
そのとき、道の向こうから聞き覚えのある声が聴こえた。
「もしかして、もう終わっちゃったんですか!? 二次会断って走ってきたのに!」
肩で息をしながら走ってきたのは、柳原朋。
特殊な業界に就職したため、学生時代に比べるとなかなかスケジュールが合わないのだが、なんだかんだと重要なイベントには必ず顔を出してくれる。
「雪菜、寂しがってませんでした?」
「…おばさんは、寂しがってたぞ」
「とりあえず顔だけでも見せてきます! 勝手に帰らないでくださいよ!」
「あ、ちょっと!」
依緒の言葉も聞かず、再び走りだす。
「相変わらず、こっちの話を聞かない子だよね…」
依緒が溜息をつく。
「…………ねぇ。あたしたち、いつまで雪菜のそばにいられるんだろうね?」
「…」
それは、武也がずっと考えないようにしていたこと。
たとえば、依緒がどこか地方に転勤しただけで、武也も今のようには雪菜に会えなくなってしまう。
男の武也が雪菜と気軽に接せるのは、あくまで依緒を間に挟んでいるからだ。雪菜にとっても、雪菜の両親にとっても、武也の存在はかなり危ういバランスの上に成り立っている。
誰かに恋人が出来てしまってもまずい。
しかも、武也と依緒という組み合わせが、一番まずい。
三人の中の二人がカップルになるという関係だけは、絶対に作ってはいけないのだ。
それは、雪菜を一番傷付けてしまうから。
雪菜たちに負けないくらいの年月をかけた、悲願の恋だとしても。
――俺が、どうにかしないと。
――どんなにそばにいても決して恋愛対象にならない、絶対に安全な男にならないと。
安心、安全、安定。
かつて、学内一のプレイボーイと呼ばれた男とは思えない思考。
誰かの代わりを演じようとしていることに、武也はまだ気が付いていない。
その夜、雪菜はギターを抱いて眠ることにした。
しがみつくとゴツゴツして冷たかったが、雪菜は気にもかけない。
懐かしい匂いがする。
あの部屋の、あの人の匂いがする。
ネックに頬をすり寄せ、脚をボディに絡ませて眠っていれば、せめて夢の中だけでも、あの頃に戻れる気がした。
人生でいちばん幸せだった二年間に。
「…ん」
不意に、弦が鳴った。
姿勢を変えようとして、脚が弦を引っ掛けたのだ。
――この、音は。
あのとき、毎晩のように電話をかけては、雪菜が寝付くまで聴かせてくれた音。
布団の中で、雪菜はそっと弦に触れてみた。
ゆっくり、はじく。
懐かしい音と、懐かしい匂いに包まれて。
雪菜は久しぶりに、ぐっすりと眠ることができた。
「あー、だから、そこで薬指」
武也が指摘すると、雪菜は慌てて指を動かし、
「っ!」
左手を抑えてうずくまる。
「ちょっと! 武也」
「俺がやったんじゃねーよっ!」
依緒を睨み返した。
「もっと初心者向けの曲を選びなさいよ」
「最初はみんなこの曲をやんだよ。俺だってこれで覚えたんだっつーの」
「だいじょうぶだいじょうぶ。だんだんわかってきたから」
そんな二人に、雪菜は笑いかける。…指をさすりながら。
クリスマスイヴから一週間後の日曜日。
つまり、大晦日。
『うちでギターを教えてくれない?』
どうやって雪菜を忘年会や二年参りに連れ出そうか、という二人の企みは、そんな本人の一言で消えてしまった。
そうして、もうかれこれ三時間ほど、雪菜の部屋でのレッスンは続いている。
とっくに薄れた知識と経験を必死に思い出してアドバイスしてはいるのだが、そもそも思い出せるほど大層な知識や経験があるわけでもなく。
「ほら指見せて。マメできてる」
依緒が絆創膏を取り出して言う。
「ありがと。でも、絆創膏すると感覚が変わっちゃうから」
雪菜は練習を止めようとしなかった。
「でも、雪菜ちゃん飲み込み良いよ。楽器はじめてってほんと?」
「うん。ギター歴はまだ一週間。やっと楽譜が読めるようになったとこ」
「一週間って…ちょっと雪菜、まさか買ってからずっと練習してたわけ!?」
依緒が雪菜に駆け寄り、無理矢理手のひらを開かせる。
マメが出来ている…が、ひとつどころではない。そして、これがはじめてではない。この一週間で、いくつのマメが出来て潰れたのか、武也にはわからなかった。
「一日十時間、ってわけにはいかないけどね」
「じゅう…ってそんな」
顔を見合わせる武也と依緒。
「楽器は、ある程度まとまった時間やらなきゃいけないんだって」
なんでもないことのように笑って、雪菜はギターを弾き続ける。よく見ると、目の下にクマが出来ているのが見えた。
「ま、まぁ、上手になれることに越したことはないよな」
「そ、そうよね」
雪菜に、というより、自分たちに言い聞かせる。
その後も、レッスンは続いた。
「武也くん、ここなんだけど」
「ん?」
雪菜が楽譜を指差したので、武也は顔を近づける。
――あ。
その、甘い薫りに、武也の頭が一瞬、停止した。
ずっとそばにいたはずなのに、いや、だからこそ忘れていた。
小木曽雪菜は、綺麗なのだ。
憂いを帯びた瞳、長い睫毛、手触りの良さそうな髪、キメの細かそうな肌、瑞々しい唇…。
ミス峰城大附三連覇で、大学でも、おそらく職場でも、数多くの男性を惹きつけてきたその美貌。
想い人がいなければ、応援すべき彼がいなければ、武也だってその例外ではないのだ。
――まずいぞ。
表面上は冷静を装って雪菜にアドバイスをしつつ、
――このままじゃ、俺は……
隣にいる依緒の顔を決して見ないようにしながら、
――第二の、友近浩樹になっちまう。
誰の代わりを演じつつあるのか、武也はようやく気が付いた。