4月。春、新しい年度の始まり。北原家の長女、春華は近所の公立小学校に入学し、毎朝近所の友達といっしょに集団登校を始めた。しかし雪音の方は以前と変わらず、保育園への送り迎えをしなければならない。春華の方も近所の学童保育にぎりぎり空きを見つけることはできたが、深夜預かりは望めないから、春希も小木曽の義母も、そしてかずさも、それほど余裕ができたわけではなかった。 それでもこの春、かずさはなんとなく浮き立つような気持ちを抑えられずにいた。近々久々のソロリサイタルが予定されているが、じっくりと長い時間をかけて調整してきただけに、仕上がりは順調である。子供向けのプログラムではもちろんないが、今回は小学生になった春華、そしていよいよピアノに触りはじめた雪音の二人を、最高の席に招待してやることに、かずさは決めていた。 更に、それだけではなく……。 ――一方春希も、新しいステップを踏み出そうとしていた。 開桜社、風岡麻理のオフィスで、春希は麻理と机をはさんで向かい合っていた。おもむろに麻理が切り出した。 「――北原。例の話だが……結論は、出ているか? 7月、遅くとも10月の異動に間に合わせたいと思っているのだが――。」 「――もちろんです。本来でしたら、この4月の異動に間に合わせるべき案件でしたところを、わがままを聞き入れてくださって、麻理さん――次長には感謝しています。で、お話の件ですが、私でよければ、喜んで受けさせていただきます。7月の異動で、問題ありません。」 「――うん……。では私も、7月から、ということで調整させてもらう。これからいろいろと引継ぎで、忙しくなるぞ。――そのあとは、ちょっと、寂しくなるがな。」 「――ええ……。麻理さんの口から、その言葉を聞くと、ちょっと意外な感じもしますが。」 「――おまえ、私をいったいなんだと思っているんだ? ――まあいい。私にとっては、二度目だしな。勝手知ったるなんとやら、だ。――なあ北原。」 と、麻理はデスクの向こうから身を乗り出してきた。 「はい?」 春希はかぶりを振った。 「今のような時代の変わり目にはな、私たちのような出版人にも、いろいろな選択がありうる。昔ながらのエディターに徹するというのもひとつの道だが、これからの世の中、それだけで何とかなるとも思えない。ある者は、メディアの境界線を越えたプロデュースに挑もうとするだろう。ある者は逆に、むしろ自ら作家と同じ地平に降りて、コンテンツの作り手になろうとするだろう。もちろん、そうしたプロフェッショナルな職人であるよりは、「制作」の枠を踏み越えたビジネスに乗り出す、企業家たらんとする者もどんどん出てくる。――私は、まあ、職人というよりは、企業家になりたいらしい。」 「ええ。わかっている、つもりです。」 「だから今回、アメリカに私は、支社長としていく。プロデューサーではなく、単なるマネジャーとしてでもなく、経営者として、な。遅かれ早かれ、いずれはそうするつもりだった。――そして、仮に日本に戻ってくるとしたら、この会社全体のマネジメントに突っ込んでいくだろうし、あるいはひょっとしたら、向こうで転職なり、起業なりするかもしれん。」 「はい。」 「――そして私は、留守をおまえに預けていく。おまえなら、本社の雑誌部門の元締めとして、完璧にやり遂げてくれると、信じている。」 「――若輩ですが、最善を、尽くします。」 「当たり前だ。――ただ、心残りがないではない。……奥さんがあんなことになってさえいなければ、私はおまえにまずは、私の後任になるんではなく、私の代わりに、アメリカに行ってほしかったんだ。――おまえを、ただ単なるエディター、プロデューサーとしてではなく、ビジネスパーソンとして、経営者として育てたかった。――まあ、これからまだまだ時間はたっぷりあるといえばあるんだが、それでも、できるだけ早いうちに、おまえに海外を経験させてやりたかった。」 「身に余る、お言葉です。」 「――だがな、今はまだやっぱり、海外は無理だな。小さなお子さんを二人も抱えた、男やもめではな。それに……。」 「それに――なんでしょうか?」 麻理は薄く笑った。 「私に隠し事をしても無駄だ。おまえ、生意気にも、二足のわらじを履こうとしているな?」 「――! 申し訳、ありません――お気づきでしたか?」 「当たり前だ。杉浦小春とおまえがちょくちょく会っているという情報なら、私の耳にも届いている。ところが、杉浦小春の作品がこっちの雑誌に載るとか、単行本の企画が動いているとかいう話はない。となればここで杉浦小春は、作家としてではなく、鴻出版の編集者として動いているんじゃないか、という推測が成り立つ――おまえ、小説を書いているのか?」 「――まだ、真似事に、過ぎません、が。」 「そうか……おまえは、そっちで生きるのか?」 「――わかりません。生意気な言い方ですが、編集者であることとはもちろん、ビジネスマンであることとも、ものを書くことは、決して矛盾するものではない、と思います。ただ、今はまだ――。」 「わかっている。根を詰めやすいおまえのことだ、がんばりすぎてぶっ壊れられては元も子もないからな。――しかし雑誌担当次長とならば、両立できる、というわけか? それはそれでずいぶん、思い上がった発言に聞こえるぞ?」 麻理は心底楽しそうに笑った。 「申し訳ありません!」 春希は改めて深く頭を下げた。 「日曜小説家、というわけだ――。まあいい、7月以降は、社では管理業務を中心にして、極力、直接に企画を担当したり、自分で取材して記事を書いたり、といった現業は減らせ。――おまえのことだ、ゼロにしろ、といっても聞くまいがな、それでも極力減らせ。意地悪上司に徹するんだ。いいな? ――だが、ミュージシャン活動の方は、どうなっている? そっちはもうしばらく、お休みか?」 「――いえ、それが……。」 春希はばつが悪げに頭をかいた。 「――なんと、三足のわらじか……。」 麻理はあきれたように天井を見上げた。 「別に止めやしないが、しかしおまえ、一番大切なことを、忘れるなよ?」 「もちろんです。――というより、そのためにがんばっているんです。」 春希は真顔で応えた。「なあ、雪菜。」 (――なあに?) 「あたしは馬鹿だから、やっとわかったんだけどさ。」 (――?) 「あたしも、いつかは、死んじゃうんだよな?」 (――そうだよ? いつかはね。誰でも、みんな、いつかは、死んじゃうんだよ?) 「――あたし、母さんが病気になってから、ようやく、「人は死ぬものだ」って、少しまじめに考えるようになったんだ。それはとっても怖かったけど、おまえがいたおかげで、立ち向かえるようになった。――でもまだ、怖がったり、考えたりするだけだった。」 (……。) 「――おまえが死んでしまったから、やっとわかったんだ。「人は死ぬものだ」って。抽象的にじゃなく、具体的に。大事な人を実際に失ってしまってから、やっと。」 (――それは仕方ないよ……私だって、かずさにえらそうにお説教したときには、頭でわかってただけで、骨身にしみてたわけじゃないし。) 「それでさ。もうひとつ、ほんのちょっとだけ、わかったんだ。あたしもいつかは死ぬって。――あの時、卒園式で、春華の歌を、聴いていたら。」 (――えええええっ? 穏やかじゃないなあ。何なのそれ?) 「春華、本当に大きくなったよ。――おまえに、見せたかった。あのしわくちゃのお猿さんみたいだったのが、あんな素敵な女の子になった。いや、それどころか、10年前には、あの子、影も形もなかったんだぞ? およそこの世に存在していなかったんだ。ところがどうだ。春華も、雪音も、あんなにかわいくて、生意気で、騒がしくて……。なあ? 不思議で仕方がないよ。」 (――そしてかずさも、30云年前には、影も形もなかったんだよ?) 「まあ、それはお互いに、な。あたしも、雪菜も、春希も、生まれる前には、存在していなかった。――そしていつかは、いなくなるんだ。実際、雪菜は、もういなくなってしまった。怖いとか悲しいとかだけじゃなくて、とっても不思議だ。でも、そうなんだ。かつてはいなかったし、いつかまたいなくなってしまう――でもその間は、いるんだよ。――おまえも、確かに、生きていたんだよ。あたしは、そのことを知っている。」 (……。) 「要するにさ、生まれてこなければ、生きていなければ、死ぬこともないってことさ。――あたしが死ぬってことは、つまり、今は生きているってこと。そういうこと!」 その言葉を聞いて雪菜は、にっこり笑って消えうせた。「……ずさ――。かずさ?」 はっと気づいて目を覚ますと、そこは北原家の子ども部屋、春華と雪音のベッドサイドだった。いつものことだが、子どもたちを寝かしつけながら、自分も居眠りをしていたらしい。かたわらにはこれもいつものことだが、コーヒーマグを片手の春希がいた。 「――あ、ああ……すまない。また寝ちまってた。」 「問題ない。台所もきれいに片付いてるしな。――それよりおまえ、コンサート前なのに、大丈夫なのか?」 春希は心配そうにかずさの顔を覗き込んだ。ややばつが悪くなってかずさは笑った。 「それこそ問題ない。ばっちりだ。これでも毎日12時間は弾いてるんだ。予定通りちゃんと進んでいるさ。」 「おまえ、それじゃ朝5時からぶっ続けってことじゃないか。――ちゃんと食べてるのか? 睡眠、足りてるのか?」 「今夜も、小木曽のお母さんのご飯を、ちびたちといただいたさ。問題ない。母さんの方は、ヘルパーさんががんばってくれている。睡眠だって、まあ、毎日4時間は寝てるよ。」 「――おまえさ、もうそんなに若くもないんだから、10年前のつもりでやってたら、からだ壊すぞ?」 「若くない」の一言に思わずかずさもカチンと来て、 「――その言葉、おまえにそっくり、返してやる。おまえこそ、節制しないと、そろそろ太るか禿げるか、それともその両方だぞ?」 と返した。 「――大きなお世話だ。」 春希はむっつりと黙り込んだ。なんとなく気まずくなって、かずさも黙ったまま、両手でマグを抱え込んで、コーヒーをゆっくりとすすった。 ――しばらく沈黙が続く中、コーヒーを飲み干したかずさが、 「そ、それじゃあ……。」 と立ち上がろうとすると、先に春希が 「ちょっと待ってろ。」 とかずさを制して立ち上がり、書斎へと消えた。そしてしばらくして、A4のコピー用紙を持って現れた。ふいにかずさの胸が高鳴った。 春希はかずさの前に再び腰を下ろし、コピー用紙を差し出した。 「遅くなって、すまない。とりあえず、これを、見てくれないか?」 差し出された用紙のその第一行目には 「春の雪」 とタイトルが記されていた。かずさは、ほうっ、とため息をついた。 「おまえ……センスは全然ないけど――馬力だけはあるよな……。」 「何だよそれ……。」 春希は苦笑いした。 「だっておまえこれ、あの小説を書き上げてから、そして年度末のあのごたごたを切り抜けながら、つくったんだろ?」 「――ん……まあな。」 「あの小説だって、あの短期間に、昼の勤めをしながら、一体何百枚書いたんだよ? ほんと、「睡眠不足」だなんて、おまえにだけは言われたくない……。」 泣き出しそうになるのをこらえつつ、かずさは一所懸命軽口をたたいた。 「悪かったな。――それで、ギターの方も、ちょっとだけだが、練習を再開してる。まだ、人に聞かせられるようなもんじゃないが……。」 「――あー、大丈夫だ、そっちはまったく期待してないから。」 「おまえなあ……。」 「――それに、これで十分だ。おまえは、約束を守ってくれた。あたしのわがままを、聞いてくれた。今度はあたしが、がんばる番だ。」 かずさはきっぱりといって、春希を見つめた。 「ちょ、おま、何言ってんだ、おまえこれからコンサートじゃないか……。」 「――大丈夫、あたしを甘く見るな。あたしがその気になれば、できないことなんかない。――まあ、料理の方は、別にしてだ。とにかく、後はあたしに任せろ。この歌を、しっかり仕上げてやる。この、雪菜のための歌を。」 その言葉に春希はうつむいた。その春希に、かずさはこの上なくやさしく、声をついだ。 「「届かない恋」は、あたしのための歌だった。それを雪菜に歌わせるなんて、おまえもあたしも、残酷な子どもだったな。思えば、それがあたしたち三人を引き裂いたんだ。でも、「時の魔法」が、その傷を癒した。あれは、あたしたち三人の歌だった。――そしてようやくおまえは、雪菜のための歌を、作ってやれたんだな。あたしたちはようやく、雪菜のための歌を、雪菜のために、歌ってやれる。――雪菜は、もう、いないけど。雪菜には、歌ってもらえないし、聞いてもらえないけれど。」 春希は、うつむいたきりだった。この上なく残酷なことをしていることは承知の上で、それでも、あらん限りのやさしさをこめて、かずさは続けた。 「遅すぎた、とおまえは思っているかもしれない。ある意味ではそのとおりだ。でも、それは仕方がないんだ。おまえは、たった一人で、耐えてきた。子どもたちといっしょに、がんばってきた。歯を喰いしばって、この二年近くを、耐え抜いてきた。だから、もう、いいんだ。」 「違う! ――そうじゃない、俺はたった一人なんかじゃなかった! 子どもたちはもちろん、おまえが……おまえがいてくれたから……。」 春希はうつむいたまま、叫ぶように言った。しかしかずさは、かぶりを振って、 「違うよ。」 と応えた。 「もちろんあたしたち二人は、ずっといっしょだった。あたしは少しは、おまえを支えてやれたと思う。だけどおまえは、一番肝心なところでは、一人で我慢していた。ある意味、それは仕方のないことなんだ。共通の友人としての雪菜のことなら、あたしもおまえと一緒に、その死を悼み、悲しんでやることができる。でも、あたしの親友にして不倶戴天の敵、雪菜の死を悼むことは、あたしにしかできない。実際あたしは、一人でそうしてきた。そして、おまえの最愛の妻、伴侶、半身たる雪菜のことを悼むことができるのも、おまえだけなんだ。」 「……。」 「卒園式のとき、な。おまえは泣いていただろう? あれって……あたしの知ってる限りでは、雪菜がなくなって以来初めて、だと思う。おまえ、あたしの知らないところで――雪菜のために、一人で泣いていたのか?」 春希は、首を横に振った。 「泣いて、いない。必死で、こらえていた。子どもたちとおまえがいれば、我慢できた。」 「あきれた……。葬式のとき、「おまえたちが俺の代わりに泣いてくれる」ってあれ、マジだったのか! 馬鹿だなあ……。いいんだよ。かまわないんだよ。あたしたちの前で泣いてもいいし、たった一人、誰も見ていないところで泣いてもいい。かまやしないよ。」 「だって……泣いたら……俺が泣いたら……。」 かずさは笑った。 「大丈夫だって。子どもたちはわかってる。春華と雪音のお父さんは、強くてやさしい、頑張り屋さんで、いつでも自分たちを守ってくれる、って。おまえが雪菜の――お母さんのために泣いたからって、なんとも思いやしないよ。第一もう遅いよ。だって卒園式のとき、もうおまえ、子どもたちの前で泣いちゃったんだから。」 「――違う! 違うんだ! 今、俺が泣いたら……雪菜を悼むだけではすまないんだ。――それだけではすまずに、おまえに甘えてしまう……。それじゃあ――。」 「――それじゃあ、なんだ? それに、繰り返すけど、もう遅いんだ。今おまえ、泣いてるじゃないか。雪菜のために、泣いてるじゃないか。」 「――! ……ち、違――。」 「いいんだよ。おまえはちゃんと、雪菜の分まで、子どもたちを守ってやっているさ。そしてこれからは、あたしがおまえを守ってやる。あたしのわがままを、聞いてくれたお礼だ。」 (あらー、嘘つきなんだ、かずさ。) 脳裏にまた、雪菜の声がこだました。 (いいだろう、少しは、甘やかして、おだててやってもさ。雪菜だって、そうしてきただろう?) (まあね? 男って、馬鹿な生き物だからね……。) (違いない。) 脳裏の雪菜とともに、かずさは心の中で苦笑した。そしてひとりごちた。 (雪菜……あたしは、春希を、おまえから奪うぞ。今度こそ、な。) 脳裏の雪菜は、意地悪な笑みとともに掻き消えた。 「――! うう……!」 気がつくと、春希は、突っ伏してすすり泣いていた。マグカップをようやく傍らにおいて、かずさは、春希の背中を、やさしくさすり続けた。