「かずささん、ちょっとすいません。」「はい、橋本さん。――何でしょう? 今日はもう終わりですが……。」 音楽監督と打ち合わせをしていた冬馬かずさは、背後からかけられた声に振り返った。大兵肥満の影が視界の半分ほどを覆った。その男は、巨躯に似合わぬ小さな声――よく注意すればその底に、人並み外れたエネルギーが脈打つのを感じることができるとは言え――で遠慮深く切り出した。「今日この後、開桜社の北原さんに、お会いになられますか?」「――予定はありませんが……何かお言伝か、お届けものでもありますか? よろしければ……。」 春希に会う口実ができたことはうれしかったが、今の彼女はそれを認めたくなかった。しかしそんな彼女の心のうちなど構わず、巨漢――橋本健二は続けた。「――そうですか、それはありがたい。でしたらこのCDですが、北原さんのお手許に届けてください。メールでもかまわないんですが、何分大部でして……。」 170と女性にしては上背の高いかずさでも、その顔を見るにはおとがいを上げて見上げなければならない巨躯を、申し訳なさそうに縮込めて頭をかく男のありさまに、さしもの彼女もクスリと笑った。「わかりました、お預かりします。――お差し支えなければ、中身、教えていただけませんか?」「ぼくの論文と、演奏のファイルです。」「――ああ……。」 大きな両手で「どうぞ!」と差し出された小さなディスクケースを受け取り、かずさはかぶりを振った。「出版の話、ですか?」 今度は巨漢――橋本の方が頭をぷるぷると振った。「いえいえ、そんな具体的な話じゃありません――そもそも本にして売れるような代物じゃあない。『アンサンブル』の連載の方が、まだ脈がありますよ。――ただお読みになりたい、お聞きになりたい、とおっしゃっていただけです。」「――うーん。あいつに橋本さんの研究のすごさがわかるとは、思えないんですけど……。」と意地悪く言うかずさに、橋本は「そんなことはありませんよ。あの方は大変な勉強家で努力家です。連載の方もとてもよくやってくださっていて、駆け出しの物書きとしては助かりますよ。――原稿料だってたくさんいただいて……。」とあくまで腰の低さを自信をもって維持していた。「先行投資ですよ。あいつは腹黒い奴なんです。そうやって恩に着せて、相手を身動き取れなくしてから、ゆっくりと料理にかかるんです。そのとき慌てても知りませんよ? ――ああ、なんてことだ、橋本さんのような立派な方が、あいつに食い物にされるのをみすみす見ていなければならないなんて!」「まあまあ――あっ、それじゃ、今日ぼくはこれからバイトなんで失礼しますね。北原さんとそれから、冬馬先生――曜子先生にもよろしくお伝えください。お疲れ様でした――。」「――お疲れ様です。あとは当日、本番までこちらにおいでになる必要はありません。ありがとうございました。」 挨拶を返したかずさににっこりと笑って、巨漢――日本では「若手ナンバーワン」と斯界の誰しもが認めるピアニストにして、かずさの兄弟子でもある橋本健二はきびすを返し、そそくさと楽屋を出て行った。 久々の「冬馬かずさの〈親子のための〉ピアノコンサート」の最初のリハを終えたかずさが、そのまま北原家に直行したときには、時計の針は8時を回っていた。今日は春希が早く帰ってお迎えをしているはずである。夕食も、雪菜の母が出張してきてくれていて、何の憂いもない。つまりは自分が行く必要のない日だが、橋本さんのおかげで用事ができた――以前ならそれに素直に喜べたかずさだが、今日は少しばかり心がざわついていた。 ――わかってる。あの化け物のせいだ……。 先週の北原家での出会いが、いまだに彼女の心を騒がせていた。 瀬之内晶。付属時代、自分たちを物陰からじっと観察していた女。大学時代、自分の正体を隠して春希と雪菜にちょっかいを出していた女。三人の愚かで苦しい、しかしかけがえのない過去を、遠慮会釈なく解剖し、衆目の下にさらした女。 それだけではない。今回もまた、必死に押し隠し、こらえていた自分の気持ちを、こともあろうに春希の前にさらした女。「――空気を読めない、いや読まない奴め!」 普段なら忌み嫌うはずの「空気」という言葉を持ち出して毒づく程度には、かずさは平常心を失っていた。 ――あたしは相変わらず愚かな女だが、それでも、あの頃よりは少しはましになったはずだ。愚かな強がりで、相手のためではなく、自分の弱さから目を背けるために、自分を偽ったりはしない。かといって、弱さを餌に相手の心を乱すような、卑怯な真似もしない。 あたしは自分の想いを、これ見よがしにひけらかしたりはしない。だからといって隠してもいない。それはあいつだって同じだ。あいつだってあたしの気持ちは知っている。「知っているぞ」と大声で言ったりしないだけで。 雪菜が元気な頃から、ずっとそうだった。雪菜だって、全部わかっていた。普段は何も言わずニコニコして、折に触れてあたしを抱きしめて。そしてほんの時たま、悲しげに、詫びるような目つきであたしを見つめて。 あたしが春希を愛していること。そして、春希があたしを愛していること。そんなことはお互いにわかっている。それどころか、周囲の誰もが知っている、わかっている。 ――ただ二人は、お互いを愛してはいるが、愛し合ってはいない。 そして周囲の誰もが、たぶん、あたしたちが愛し合うようになることを望んでいる。それもあたしは、そしてきっと春希もわかっている。それでも、誰も、はっきりとは何も言わない。 わかったところで、ものごとはそう簡単ではないからだ。そのこともみんな、わかっているからだ。 ――そんな、全部わかりきっていることを、得意げに突きつけて、あの女は、いったい何がしたかったんだ? 芝居のため? やりたきゃ、勝手にやるがいい! 激したあまり、つい、足元を蹴りつけそうになったかずさは、既に自分が春希たちのマンションの部屋の前まで来ていることに気付いた。自分の足元にあったのは、よりにもよって、雪音が大事にして乗っている子供用自転車だった。「あぶないあぶない――っと。」 かずさは深呼吸して気を落ち着け、チャイムを押した。どたどたと足音がして、インターホンから「はーい。」と応答があった。「冬馬でーす。」「はーい、待ってくださーい。」更にドタバタ、そして子供の嬌声が響いてきた。玄関のドアが勢いよく開き、「いらっしゃーい、おばちゃん。」「いらっしゃい、かずちゃん!」と、春華と雪音が出迎えてくれた。「まあ、冬馬さん、いらっしゃい。」「おう、どうした?」 両脇に姉妹をぶら下げてかずさが居間に入ると、夕食はすでに終わっていたようで、後片付けをしながら雪菜の母と春希が挨拶してきた。「お邪魔します、小木曽のお母さん。春希、今日リハで橋本さんと一緒でな。荷物を預かってきた。」とディスクを手渡すと、春希は「――あれかあ! ああ、リハで疲れてるだろうにありがとうわざわざ。橋本さんも、言ってくださればこちらからうかがったのに……。」と恐縮してみせた。「完璧なあの人が、相手に余計な苦労を掛けさせるはずはないだろう?」とかずさは返したが、「いや、結局お前の手を煩わせることになってるじゃないか……。」と春希は続けた。その言葉でかずさは「あの橋本さんまでが、自分に余計な気を使った」と思い至って絶句した。「みんな」のなかに橋本健二までが入っていたとは――急にあの温顔が憎たらしくなった。「……。」「――どうした、かずさ?」「なんでもない!」吐き捨てたかずさに、雪音が「怒っちゃやーだー、かずちゃあん。」と甘えてきた。春華とは言えば、既に台所に駆け込んでいて、「おばちゃん、甘い甘いミルクコーヒー作ってあげるから、待っててねー。」と声をかけてきた。 この状況で、怒りを持続させるのは、難しかった。(続く)================================================ 若手ナンバーワンピアニスト橋本健二さんは、今回はキャラクターとしては自立せず、どっちかというと舞台装置にとどまります。多分。