「孝宏君と、亜子さんの式が、6月か――。」「ずいぶん、引っ張らせちゃったな。謝る筋合いのことじゃないんだが、なんだか、申し訳ない気持ちが、いまだに抜けないよ。」 小木曽家からの帰路、北原家へと向かう途上。後部座席にうとうとする春華と雪音を乗せたかずさのBMWの運転席と助手席で、かずさと春希はポツリポツリと言葉を交わした。 4月の半ば、かずさのソロリサイタルまであと1週間という日。春華の入学祝と誕生祝をかねてという名目で、小木曽家に春華、雪音ともども夕食に招かれたその夜。ちょうどよい機会なので、春希とかずさは、小木曽家の面々に、婚約の報告をした。うきうきとはしゃぐ子どもたちに比べて、春希、そしてかずさはいやがうえにも緊張していた。 二人とも、実の親たち――北原の母と、曜子にはすでにあいさつを済ませていた。 涙を流して礼を言う北原の母に、かずさはひたすら恐縮するのみで、さすがに雪菜のようにあっさり距離を詰めることなどはできそうもなかった。もちろんそんなことは、春希とて期待してはいないし、する資格もない。そもそもこうやって平静に、そこそこ親しく母と自分やかずさが口をきけるようになったこと自体、雪菜のおかげなのだから。雪菜の死によって事態が後退しなかったことは、もっけの幸いだった。 一方曜子はと言えば。北原家の冬馬邸への引っ越し、そして同居という提案も込みで行なったためもあってか、今度のあれこれに向けていやでも実務的な話をせねばならず、北原の母の場合のような愁嘆場にはならない――かと思ったが、終始ニコニコと上機嫌だった曜子がふと、「――そっか……私、おばあちゃんになるまで生きのびられたか……。もう、思い残すこと、ないなあ……。」と漏らしてしまったことにかずさが激昂し、次いで泣き出してしまった。半休を取ってかずさと二人、子どもたちなしでの挨拶だったことがよかったのか悪かったのか……さすがに子どもたちの前では、曜子は決してそんな弱音を吐きはしなかったろう。そして、何とか泣きやんだかずさが、「まだ、血のつながった孫の顔は、見てないだろう……それまでは、冗談でだって、そんなこと言っちゃだめだ!」と言い切ったのに対して、今度は自分の方が泣き崩れることもなかったろう。 タフな闘病生活を10年近く続け、そろそろ60の声を聞こうというのに、いまだに凛とした美しさを失わない冬馬曜子の、これほど弱い姿を見るのは、春希としては初めてだった。(そうか、俺は、子どもたちやかずさだけではない、この人も守っていかねばならないのか……。) 家庭のことだけではない。麻理には申し訳ないが、場合によっては開桜社を退き、冬馬オフィスでかずさのマネジメントに専念することさえ、ひとつの選択肢として春希は計算に入れていた。そこまでいかなくとも、冬馬オフィスの経営に参画すること自体は、既定の方針として胸に刻んだ。 そして迎えた今日。雪菜の母の心づくしの御馳走を前にして、春希とかずさはテーブルの向こうの小木曽夫妻に、そして孝宏と、婚約者の亜子に報告した。「……お義父さん、お義母さん。孝宏君、そして、亜子さん。突然の話で、恐縮ですが、俺……いや、私は、ここにいる、冬馬かずささんと、再婚させていただくことに、決めました。雪菜が亡くなって、まだ、1年かそこらしかたっていないというのに、大変――。」 息を整えてから決死の形相で切り出した春希の話を、雪菜の父はあっさり「それはよかった。お二人とも、おめでとうございます。」と途中で切って落とした。雪菜の母もにこやかに、「おめでとう、春希さん、冬馬――かずささん。やっと、決心されたのね。いいえ、遅すぎたくらいですよ。1年だなんて、実際にはもうそろそろ2年になろうってところじゃないですか。そうよ、この秋には、雪菜の三回忌……。ああ、時がたつのは早いわねえ……。」と祝福してくれた。孝宏と亜子も「おめでとう北原さん、冬馬さん! ぼくたちも6月には式を挙げますから、むしろ頃合いですよ。」「おめでとうございます、お二人とも。お互い、幸せになりましょうね。――春華ちゃん、雪音ちゃんも、よかったわね。大好きなおばちゃんと、いっしょに暮らせるよ。」と明るく言った。「それで、お式はいつに……。」と畳み掛ける雪菜の母に、春希は「決めてません。夏まではお互い忙しいですし、秋には、雪菜の三回忌ですし……あわてずに行こうかと思っています。いっそ、式などあげなくても……。」と応えたが、雪菜の母は「いけません! ――そりゃ、かずささんは有名人だし、大げさなパーティーとか開くとかえって面倒くさい、というのはわかるわ。それでも、内々の小さなものでいいから、御式はちゃんとおあげなさい、それもできるだけ早く。なにより、かずささんは初めて、バージンロードを歩くのよ……ね、かずささん?」と厳しく言った。「え、あ、はい、いえ、わたしは、春希がいれば別に……。」「だーめ。こういうものはね、えてして本人たちのためというよりは、周囲のためのものなのよ? あなたのお母さまだって喜ぶし、ちびちゃんたちだって、ね?」「うん!」「かずちゃんのドレス、見たい見たい!」 この辺の、子どもを小狡く味方につけるテクは、見習わねばならない――とかずさは思った。「そりゃさ、もちろん、祝福してもらえるとはわかってたよ。わかってたけど……。」 帰りの車中、酔いも手伝ってか、少しもつれた口調で春希がひとりごちた。「わかってたけど、何だ?」「何だか、申し訳なくて……。」「気持ちは、わからないでもないけどさ――。何だか、後ろめたさを感じてるから、その分、むしろ責めてほしい、っていう気持ちもさ。それは、あたし自身の気持ちでもあるから。でもさ。」 運転しながらかずさは続けた。「そういうのって、おまえの――いや、あたしのでもあるな。あたしたちのエゴだよ。勝手な都合だ。」「そう――だな……。」 春希はため息をついた。「責められる方が楽で、祝福の方が気が重いっていうなら、それこそ、あの人たちの祝福は、あたしたちへの罰だ。後ろめたさがあるんなら、甘んじて受けるべき罰だよ。違うか?」 かずさは、少し意地悪な含み笑いとともに言った。春希は驚いたように「――おまえ……性格悪くなったな? まるで――。」「まるで、何だ?」「付属時代に、戻ったみたいだ……。」「――ふん。」 かずさには、春希に話していないことがあった。 食事の後、酒を酌み交わして歓談する春希(今日は行きは春希、帰りはかずさ、と相談して決めた)と雪菜の父、そして子どもたちとゲームに興じる孝宏と亜子を置いて、雪菜の母に誘われてかずさは小木曽家の2階に上がった。「何でしょうか、雪菜のお母さん?」「――そう、それそれ。もし、いやじゃなかったら、春希さんのように、これからはあなたも、私のことを単に「お母さん」って呼んで下さらないかしら。」「えっ? そ、それは――。」「冗談よ。いえ、冗談じゃなく、ほんとにそう呼んで下さったらうれしいんだけど、ずうずうしくお願いするつもりはないわ。これは単なる、私の願望です。それより――。」と雪菜の母はかずさに向き直った。「あなたがいない5年間の、二人――雪菜と、春希さんのこと。いえ、というより、大学時代の3年間のこと。ご存じよね?」 かずさは少し絶句して、それから「――はい……。」と正直に答えた。「それは、春希さんから聞いたの? それとも、雪菜から?」「――両方……です。春希と雪菜、それぞれから、それぞれの事情を、それぞれの想いを、聞きました。」「――そう……。」 雪菜の母はほっ、と息をついた。「――我が家の男性陣は、その辺のこと、全然知らないわ。わたしだって、当の雪菜からは、何も聞いていない。ただ、何となく気づいてはいた。――あとで、朋ちゃんから、少しばかり裏付けを取ったけどね……。高校を卒業して、大学に入ってから――あなたが日本を去ってから3年間、あの子は荒んでいた。友だちもつくらず、大学に行く以外は家に引きこもって――時たま、ろくにおしゃれもしていないくせに「デート」とか言って出かけては、酔っ払って帰ってきて――でも全然楽しそうじゃなくて。――でもうちの男どもは、それでもすっかり騙されて、雪菜は高校時代からずっと、春希さんとお付き合いしてる、って思い込んでいた……。」 雪菜の母は笑った。「――あたしの、せいです。」 かずさはうつむいて言ったが、雪菜の母ははっきり「違うわ。そんなのはもちろん、雪菜と、春希さん、二人の問題です。あなたに何の責任もあるわけはない。――ねえかずささん?」「――はい?」「私は、あなたのことを、付属の3年生のころから、知ってるわよね。あなたと、雪菜と、春希さん、3年生の後半には、いつも一緒だったことを、覚えてるわ。」「……。」「だから、雪菜と春希さんの間がぎくしゃくしていたその理由が、あなたにあるんじゃないか、ってことくらい、当然考えてたわ。」「――だったら……!」「「原因がある」っていうことと、「責任がある」っていうことは、それでも、全然別ものよ? それは恋愛についてだってそう。そうでしょう?」「……あたしが、意気地がなかったのが、いけないんです。あたしが、逃げ出したから、二人を迷わせてしまった……。」「それを言い出したら、そもそも最初から、雪菜と春希さんが結ばれていなければよかった、ってことになるわよ? ――もちろん、あながち間違ってもいないけど。もし早めにあなたが雪菜に引導渡してくれていたなら、あの子も、他に誰か素敵な人を見つけられたでしょうし。でも、今更そんなこと言ったって、何にもならないわ?」「――それだけじゃありません。あたし――あの時にも――5年ぶりに日本に戻ってきたときにも、雪菜から、春希を奪おうとしたんです……。」「――それでも、同じことよ。もちろんそこで負けた方が、雪菜の受けた傷は、より深かったでしょうけど。でも、あなたと雪菜は戦って、そして雪菜は勝った。それで、変な言い方だけど、「恨みっこなし」で友だちに戻ったんでしょう?」「それは……。」「――ねえ、かずささん。あなたは、雪菜に負けて、春希さんをとられて、たくさん、泣いたわよね? でも、日本に戻ってくる前と、戻ってきてからとでは、どちらが、幸せだった?」「――それは……戻ってきてから、です。雪菜には、春希をとられたけど、それ以外にたくさんのものを――生きていく力を、もらいました。雪菜のおかげで、あたしは、母さんのそばにいて、母さんを支えられるようになったんです。」 かずさははっきりと言った。「雪菜も、そうよ。春希さんと結婚するしばらく前から、そう、あなたが戻ってきてから、あの子ははっきりと「大人」になった。春希さんのおかげであの子は幸せになったけど、あなたのおかげであの子は成長したの。――むしろ、春希さんがいると、あの子、子どもに帰っちゃうくらいだったわ。――ひょっとして、あなたも、そうじゃない?」「――自覚は、あります……。」「なら、そういうことよ。」 雪菜の母は、いたずらっぽく笑った。「――? どういうこと、ですか?」「男は――いえ、春希さんは結構、バカだ、ってこと。それでも、あなたたち三人は、出会うことができて、とっても、幸運だった、ってこと。――その幸運を、これからも、大切にしていってください。お幸せにね。」「――おかあ、さん……。」「あら? 「お母さん」って、呼んでくれるの?」「――いえ、あのっ、これは……。」「どちらにせよ、私は春華ちゃんと雪音ちゃんのおばあちゃんなんだから、これからも、よろしくね。」「はい……こちらこそ、よろしくお願いします。」「たしかに、おまえは、バカなやつだな……よい意味でも、悪い意味でも。」 かずさはつぶやいた。しかし、返事はなかった。ふと見やると、助手席で春希は、こくりこくりと、舟を漕いでいた。「――ふん。三人とも、寝ちゃったのか?」 北原家までは、あと少しだった。