「結論的に言わせてもらえば、馬鹿げてるよ。お母さんの、おまえに余計な心配をかけまいというやせ我慢を、俺は支持するね。」 まだ日が高いというのに、地元末次の、しかし学生たちが寄り付かないようにと、開店前の古い会員制ショットバーへと春希を連れ込んだ友近博士は、バーテンの皮肉な笑みを意に介さず、ギムレットをぐいっと呷ってから断言した。「今更、北原と関係を持つつもりなんか、ないんだろう? お母さんも、それを望んでおられる。冬馬家の方でも、北原にひょっとしたら少しくらいの義理はあるかもしれんが、それでも状況から判断するに無視してかまわん程度のものだろう。だとしたら、余計なことに首を突っ込むもんじゃない。人間、知らない方が幸せってこともある。古い親戚のゴタゴタなんぞ、こっちに火の粉がかからないうちは、知らんぷりを決め込むもんだ……泣いている子供でもいりゃ、また別だが――何より今のお前には、おせっかいをしてでも目を背けたいものが、あるわけじゃないんだろ?」 ――どうして、十年以上も会っていないのに、この男はこうも図星をつくのか? それはもちろん、ずばぬけてできるやつではあったけれど、それはせいぜい自分と同じような意味での「キレ」であって、千晶のような正真正銘の「怪物」ではなかったはずだが。(もちろん千晶の「怪物」ぶりなど、当時の自分は気付きもしなかったわけだが。) 春希はほっ、とため息をついて、応えた。「もちろんそうだ。今の俺は、妻と子と、二人の母を守るので精いっぱいだ。そしてそれで満足している。だからこれは、おせっかいなんかじゃない。そうじゃなくて、必要なんだ。」「必要? ――だから、火の粉がかからないように身を守るというだけのことだったら、別にいちいち詮索する必要なんかないさ――学者らしかならぬ物言いかもしれんがね。しかしな、情報を集めて処理するのにもコストはかかるしリスクもある。それに見合うリターンが見込めないことは、せんでもいいよ。」 友近はかぶりを振った。そうして、しばらく黙りこんだ後、懐からシガレットケースととライターを取り出して、春希に向けて軽く振って首をかしげた。春希がうなずくと、紙巻を一本だけ取り出して火をつけ、軽く燻らしてから口を開いた。「――まあ、俺も突っ込んで調べたわけじゃあない。報道されている程度の常識を、俺が解釈するとどうなるか、って程度の話だ。 ハイテクベンチャーで家族企業ってのは、実のところそんなに異常な存在じゃない。極端な話、産業革命期の歴史的企業にはありふれた話だ……なんていうと極端だけどな、今だって、ぽっと出の無名人が事業を立ち上げるときに親類縁者を頼るのは普通のことで、それはハイテクベンチャーだろうと、肩書といや卒業証書か、よくてもPhDしかない若造なら当然のことだ。インドや中国みたいな新興国なら、なおさらの話さ。 ――北原だって、はじめのうちはそれと大差ない。ただ、大概の場合は、成功してでかくなってくれば、株式を上場して、近代的な企業の体裁を整えるもんだ。そういうのがめんどくさい生粋の技術屋だったら、上場した株式を高値のところで売り抜けて、さっさと会社から手を引けばいい。儲けた金を元手にあとは遊んで暮らすか、それとも新しい事業に手を出すかは、ひとそれぞれだがな。ビジネスマンにだって、新しい事業を起こすのは好きだが、軌道に乗ったら退屈して放り出しちまう人種なんて、珍しかない。 ところがまあ、北原の場合は、その意味じゃ中途半端なんだ。大きくなったのに家族企業のまま、非公開で延々やってきた。昔風の「家業」の意識のまま、もはやベンチャーとも言えなくなったハイテク巨大企業を、にもかかわらずそこそこうまく盛り立ててきた。そこに付け込んでうまい汁を吸おうとする禿鷹みたいなやつが、取引先や銀行筋にいたわけだし、内部の子飼いの連中の中にも、「従業員」扱いに我慢できなくなった獅子身中の虫がいて、こいつらがつるんで本家の足をすくった、ということだ。――まあ、この程度のこと、おまえだって調べてるんだろう?」「――ああ……。まあ、おおざっぱな事実関係は。ただ、俺が知りたい、というより理解したいのは、何でそんなめんどくさいことを、ってことだ。」「言ったろう? 少なくとも企業としての幼児期においては、家族企業はむしろ当たり前の、正常といっていいくらいの存在なんだ。だからそれにかかわる人間が、そういう意識から脱却できないのも、これまた普通のこと、正常なことなんだ。ただそういう人間的な情の常識を、容赦なく資本の論理というか、市場の常識がぶった切っていく。だから普通は、ほどほどのところで妥協して、創業家は有力株主程度の地位に納まるのが順当なわけだ。ただこれがな、なかなか割り切れない人もいる。ハイテク企業で、技術そのものに思い入れがある創業家の場合は、そうなりがちでな……。」 友近は紙巻をもうひと口吸い、ふーっと長く煙を吐き出してから、「お前の親父さん。北原本家の直系で、しかも技術者だったんだろ? たぶん、そこが面倒なところなんだ。」といった。「やっぱり、そうか……。」 つぶやいた春希に、友近はさらに言葉を継いだ。「データだけじゃない、おぼろげではあれ、生身の人間としての親父さんの記憶も、おまえには少しはあるんだろう? 憶測だけでも俺にもこのくらいなら想像はつくんだ……。」 つまりは、そういうことなのだ。 家業を継ぐことを拒み、妻とともに東京に出てきた春希の父は、純情な若者であっただけではなく、己を恃むところの大きい、野心的な研究者でもあったのだ。学部こそ北原と縁の深い、地元国立大の出だが、大学院は海外で研鑽を積み、北原なんぞとかかわらなくとも、自分は十分やっていける、という自信はあった。そこへもってきて自分の大切な女性を、北原本家は辱めたのだ。北原に頼らずとも、業界全体に十分勢いはあり、自身の能力にも自信はあった。そこで青年は生家と縁を切り、在京の製薬会社に職を求めた。 ――北原本家はそんな若者に対し、数年後、そろそろ若くなくなってきた頃を見計らってか、今度は「経営」のためにではなく「研究」のために戻ってくることを求めたのだ、おそらくは。「まあもちろん、おまえの記憶による補強はあっても、ここまでの話は所詮、憶測の域を出るもんじゃない。それに、この話は、北原が左前になる前の状況までをしか念頭に置いてない。だから、北原が乗っ取り同然の目に会う前後に、おまえの親父さんが何を思い、どう動いたか、そして今何を考えているのか、までは、こっからいくら想像をたくましくしてもわかるもんじゃない。それに、おまえたちにとってもっと大事なことだって、わかりやしない。」「もっと大事なこと――?」 反問した春希の眼を、友近はまっすぐに見つめた。「――たとえば、北原に戻った時、結果的には親父さんはお前と、お母さんを捨てたわけだ。しかし、それは果たして、一方的なものだったのか? とかな。全くの憶測だが、最初に揉めたときはともかく、呼び戻しの時にはご本家だって「妻子を捨ててこい」なんて言わなかったんじゃないかと思うんだ。おまえという更なる跡継ぎ候補だってできてたわけだし、交換条件として「嫁としてきちんと迎え入れる」くらいのことは言ったと思う。でも実際には、おまえのご両親は決裂した。そこの問題はもう、たぶん、北原という会社や、北原の家の問題というより、夫婦の問題、おまえのお母さんと親父さん、二人の間の問題だったんじゃないかな、と思う。――おまえが本当に知りたいのは、むしろその辺なんだろう? そして意地悪く言えばだ、お母様がお前にあまり知られたくないのも、そこなんだろう。」 そこまで言って、今一度グラスをぐいっとあけると、友近は春希をにらみつけた。「――なあ、そんなこと今更知って、どうしようっていうんだ? おまえは今、幸せなんだろう? そしてお母さんも今、そんなおまえの幸福を喜んでくれているんだろう? 今更、過去をほじくり返して、なんになる?」「――逆だよ。」「ん?」「そうじゃないんだ。きっとおれは、母や父に恨み言を言いたいから、過去を知りたいと思ってるんじゃないんだ。反対に、二人にきちっと、礼を言いたいんだ。俺をこの世に生んでくれてありがとうって、ちゃんと言いたいんだ。――そのためにも、これまで何があったのか、今何が起きてるのか、理解しておきたいんだ。」「――よく、わからんな。」 首をかしげる友近に、春希は苦笑いした。「――すまん、実のところ俺も、自分でもよくわかってないんだ。ただ、雪菜が生きていたら、そうしろって……あのお人よしで、それでいて頑固者の雪菜なら、きっと「お義父さんとも仲直りしなさい!」って言ってたと思うから。――さすがに「仲直り」するつもりはないけど、理解はしてやりたいと思うんだ。」「――へえ……雪菜さんなら、ねえ?」 友近は空のグラスを見て、ひとりごちた。「――こんなこと言ったら、またおまえに殴られるかもしれないけど、雪菜さんって、ほんとにいい女だったんだなあ……素敵なひとだったんだなあ……。でも俺、雪菜さんがそんなに素敵なひとだったなんて、全然知らなかったんだ――それなのに俺、口説いたりしてさ……なんて失礼なこと、したんだろう……。」「俺だってそうだよ。――だから、殴られるべきは、今も、そしてあの時も、俺の方なんだ。」 かずさのコンサートから逃げ出したあの時、大阪で「それでもわたし、あなたを許さないよ」といった雪菜。 プロポーズした夜、ベッドで「誰もが幸せでないと嫌なの! 誰もが私たちを祝福してくれないと、嫌なの…」といった雪菜。 そして今や、あの雪菜と同じくらい、強くなったかずさ。 それに見合う男になれるなんて、いまだに……いや、今ならなおさら、思えない。 それでも、そんな雪菜の、そしてかずさのすごさを、きちんと思い知れる男には、なっておかねばならないのだ、自分は。====================== ご無沙汰です。 リアルで母が亡くなりまして、いろいろ思うところあって、頑張って更新しました。 またよろしくお願いします。