「ごちそうさま。――さて、それじゃあたしはこれで帰るから、お前も夜なべ仕事なんかせずに、さっさとやすむんだぞ? いいな?」 二杯目の極甘コーヒーを飲み干し、かずさが立ち上がった。「ああ、わかってる……下まで、送ろうか?」と春希も腰を上げたが、「いいよ、そんなこと――ここで結構。ちびたちを置いてくんじゃない。」かずさは玄関へと続く短い廊下から振り返り、笑って首を振った。そのほんの少しの距離が不意にもどかしく、ほんの少しの時間が急に名残惜しく感じられて、立ち上がった春希も彼女を追って、つい玄関まで来てしまった。そしてこちらに背中を向けてコートを着込む姿を、声をかけるでもなく見つめていた。 コートを着終えたかずさが、春希に向き直った。「それじゃ、来週は、火、金でいいんだな?」「あ、ああ、頼む。最近は、少し余裕を持って組んでるから……。」「本当か? 年度末なんだろ? なんかいろいろあるんじゃないのか? うちなんかいま美代子さんと税理士さんとで、申告に向けててんてこ舞いだ……。お前、平気なのか?」「お前、俺はただのサラリーマンで、副業も副収入もないんだぞ。……少なくとも今は。全部会社の総務におんぶにだっこだよ。」「ほう、そりゃ気楽なもんだな――って、そうか。そうだよな……。」 ふっとかずさが黙り込んだ。そこでつい春希も、自分が軽く失言をしてしまったことに気付いた。 副業も副収入もないサラリーマン――それが現在の自分だった。いずれ実家の財産の幾分かが、自分のところに転がり込んでくる可能性はあったが、当分先のことだし、本家が面倒くさいことを言って来れば相続放棄くらいしてやるつもりはあった。問題はそんなことではない。つい一昨年までは、毎年自分にもささやかな副収入が、給料以外にも舞い込んできたのである。そう、作詞家・演奏家としての印税が、ほんのちょっとだけ。 三人の合作である「時の魔法」は『アンサンブル増刊・冬馬かずさ総特集』付録のミニアルバムから、正規の冬馬かずさファーストアルバムにもフィーチャーされた。そしてアルバムの増刷がかかるたび、印税が春希と雪菜のもとにも律儀に振り込まれた。その後も二人はかずさのアルバムに(かずさと雪菜の共謀によって、春希の希望は意に介されずに)二回ほど動員されたので、その分まで合わせると、大体毎年コンスタントにギリギリ六ケタていどの報酬を、雪菜と春希は得ていたことになる。この他にも雪菜には、インディーズミュージシャンとしての収入も、スズメの涙程度にはあった。 しかし、一昨年雪菜が亡くなってからは、音楽活動どころではなかった。もちろん旧作は市場に出回り続けてはいたが、なんだかんだあって昨年はどれも増刷がかかっていない。そういうわけで昨年の春希の、そして北原家の収入は、春希の給与のみ、ということになった。 ――さて、どういってこの場を繕うか――と春希が逡巡していると、かずさが小さな声で、「――落ち着いたらさ、また、やろうか?」とつぶやいた。「や、やるって、何を?」と春希は、狼狽しつつ我ながら間抜けな反問を返した。かずさは上目づかいで少し膨れて見せて、「決まってるだろう――歌だ。また、作ってくれ。あたしのために、詞を書いてくれ。」と、小さく、しかしはっきりと言った。「――しかし――ボーカルは、誰が? 雪菜は、もう、いないんだぞ?」思わず春希は聞き返した。「わかってる。――だから……そこは、未定だ。でも、とにかく、作ってみてくれないか? そうしたら、あたしも頑張って、曲をつける。ボーカルは――誰に歌ってもらうかは、それから決めればいい。と言うより、そうしなきゃいけない――。」と、そこでかずさは一瞬下を向き、ぶるっと震えてから、春希に向き直った。「だって、雪菜は、もう、いないんだから。それでもあたしは、うたっていかなきゃいけないんだから。そして、お前も。」 まっすぐに見つめるかずさの眼を、春希もまたまっすぐに見つめ返した。少しの間をおいてかずさは視線をそらし、くすっと笑った。「柳原さんが――朋がさ、言ってたんだよ。」「柳原さんが? 何を?」「今回、なぜ「司会」だけで、「うたのおねえさん」はやらなかったのか、って聞いたらさ。「雪菜の完コピか、自分の完全オリジナルか、どっちかでなければやる気になれなかった」ってさ。今回は、そのどっちも間に合いそうになかったから、一切歌わないことにしたんだって。」「――そうか……。いかにも、あの人らしいな。」「そうなんだ。しっかり、筋を通して、あっちにもこっちにもニコニコいい顔をしているように見えて、実はあきれるほどわがままで、自分のやりたいことしかやってない。それでいて、誰にも甘えてないんだ――すごいよ。」 手放しで朋をほめるかずさに、春希は思わず苦笑した。「んーー、あれで学生時代は、なりふり構わず、手段を選ばず、人の迷惑顧みず、みんなを振り回す困った奴だったんだが……。」「ふーん。でも、甘えん坊じゃなかったんだろう?」「――それは、な……そういうふりして誰かをだましたことくらいは、あったろうけど。」「そうなんだよ! わがままであることと、人に甘えることとは、違うんだ! あたしは馬鹿だから、この齢になってようやくわかったんだよ! ――考えてみれば、母さんがまさにそういう人だったんじゃないか!」 かずさは熱のこもった瞳で春希を見上げた。「だから私も、お前にまた、わがままを言わせてもらう。だってこのわがままは、甘えなんかじゃあないからだ。――あたしのために、また、詞を書いてくれ。」 その力強い一言に、春希はしばらく押し黙り、そして答えた。「四月まで――年度が明けるまで、待ってくれ。そうしたら、考えてみる。」 その答えにかずさは、簡単に納得したようだった。「そうだな――なんだかんだ言って、年度末は忙しいだろうし、それに何といっても、春華が小学校に上がるもんな。――お前、ちゃんと準備してるか?」「――当たり前だ。お前こそ、お祝いの方、よろしく頼むぞ。」「ふっ――まかせとけ……っと、思わぬ長話になっちまった。じゃあ、今度こそ、お休み。またな。」と軽く手を振り、かずさはドアの向こうに消えた。閉じたドアを見つめたまま、しばらく春希は立ち尽くしていた。それからかぶりを振ると、書斎兼寝室へと引き返して、パソコンを立ち上げた。 ――かずさにああ言った手前、適当なところで切り上げなければならないが……。 だがこれは会社の仕事ではない。もちろん、かずさに今しがた頼まれた作詞ではないが、しかしこれもまた――いや、これこそが彼女の言おうとしていたことに違いない――つまり「自分の歌をうたう」ことに。 ――ディスプレイ上に開かれたテキストファイルの題名は「歌を忘れた偶像」だった。