できる限り、子どもたちの相手をしてあげて、春希を支えること――それがしんどくないわけではもちろんない。母、曜子の言うとおり、痩せ我慢と言われても仕方がない。切なさに泣き出しそうになることも一度や二度ではない。 ――だが、まだ耐えられる。というより、いくらでも無限に耐えられるような気が、かずさはしていた。そもそも、かずさは春華と雪音の小さな姉妹を溺愛していた。しかしそれだけではない。(そりゃそうだよ、私がいないもの。) 脳裏の雪菜がちょっと膨れっ面をしてみせた。(そうだな――何だかすまないな。)(それは言わない約束でしょ?) 今度は楽しそうにケタケタと笑う。そう、この脳裏の雪菜は自分にとりついた悪霊などでは更々なかった。どちらかというと守護霊に近い、とさえいえる。我ながら都合の良すぎる妄想を抱いてしまうものだ、とちょっぴり自己嫌悪に陥ることもあるが、とはいえあの雪菜が自分に恨み言や呪いを吐きつけるなど、自分にはたとえ無意識にさえ想像できないということが、何となく嬉しかった。(大体、かずさも春希君も大人なんだから、「さびしい」とか「つらい」とか言ってたまに泣くのはいいけど、手を休めるのはだめだよ。守らなきゃいけない相手がいるんだから。子どもたちや、曜子さんや。) 脳内で訳知り顔で説教を続ける雪菜をそのままに、かずさは練習を再開した。既に暗譜した楽曲は、そろそろ自動的に指先から流れ出すところまで来た。ここから再び、徹底的に理詰めで考え直し、解体、再構築していかねばならない――のだが、ついつい思考はあさっての方を向いて漂っていく。 ――つらいけど、耐えられる。それはちょうど、雪菜と出会う前に、春希に甘えてすがりつきたいのに見栄を張っていた頃と同じだった。同じ見栄を張った痩せ我慢でも、「春希を想うのは自分だけだ」と思い込んでいられたときと、雪菜と出会い、いつ春希を奪われるかわからないという不安にさいなまれるようになってからとでは、まったく違う。 今の自分には、雪菜という「敵」はいないし、春希の自分への想いへの揺るがざる確信もある。拒絶への恐怖で身がすくむこともない。 ――そういうネガティブな不安ではなく、どうすることが春希にとって、子どもたちにとって一番よい選択なのか……そこのところでまだ確たる方針が定まらないところが、最大の難点だった。(だーかーらー、「見る前に跳べ」って言ったじゃない!)(なんだよ、酔った紛れに押し倒せっていうのか?)(そんなこと誰も言ってないよう……うーん、でも、いまみたいにぐじゃぐじゃ悩んでるだけよりはましかな?) 勝手に動く指先を尻目に、脳内対話は続いていた。(わかってるかなー、これってホンッッッッットにしょうもない、ぜいたくな悩みなんだよ? 春希君がかずさに告ってくれるか、かずさが春希君に告るか、それだけであっという間に全部片付いちゃうんだよ? 何を意地張って変なチキンレース続けてるのかな?)(別に根競べなんかしてるわけじゃない。ただあたしは、まだ自分に、春希と子どもたちを支えて、守ってやれるという自信が、持てないだけなんだ。)(だから言ってるじゃない、「見る前に跳べ」って! 結局それじゃ、ただ春希君を受け身で待ってるのと変わんないよ?) ――違う。 そこのところだけは、妙な確信があった。 おせっかいで世話焼きで有能な春希もまた、自分と同様、何が一番かずさと、子どもたちのためになるのか、ひどく悩んでいるのは明らかだった。しかしそれにとどまらない、もう少し複雑な悩みを抱え込んでいる――かずさはそうにらんでいた。とりわけあの怪物、女優の瀬之内晶に会って以来。 少しセーブしている、と春希は言っているし、たしかにこのところ早く子どもたちをお迎えし、引き上げることが多い。しかしながらあいつは夜中に家で何やらこそこそとやっている。何かに集中的に取り組んでいる。あたしの眼はごまかせない。(あいつはあいつで、自信がないんだ。――というより、もう一歩踏み出そうとしているところなんだ。そこで一歩踏み出せたら、きっとあたしに対しても、もう少し前向きになってくれる。というより、あたしに向き合うためにこそ、その一歩を踏み出そうとしてくれているんだ。) でも――それにしても、具体的には、その「一歩」とはなんなんだろう……? もちろん、作詞とかギターだとは思えない。 つい、脳裏の雪菜にたずねかけてしまう。しかし雪菜も(なんだろうねえ……?)と頼りなかった。そうこうしているうちに演奏は、ツボを見失ったまま終了してしまった。「……もういっぺんやり直しだ。」(詞じゃなくてさあ……曲を先に作っちゃって、春希君に押し付けたら?)(――なるほど、それもありかな?) 結局のところ、自分にできることなどそう多くはない。 自分は、気力や体力は人より多少は勝っているようだが、基本的には平凡な愚物である。 それが、北原春希の自己認識だった。 そうである以上、瀬之内晶/和泉千晶はもちろんのこと、橋本健二の真似をしても仕方がない。他人の人生を、本人以上に深く理解して劇的に表現することもできないし、終わってしまった過去の出来事を、未知の未来に開かれた現在へといったん差し戻して、かき消された可能性を発掘することも手に余る。 ただ、彼らのどこが自分を引き付けるのか、そしてまた、彼らにとって物語とはなんなのか、を理解することは、たぶん何かの役には立つはずだ。 ――そんな風に思いながら春希は、何度となく千晶の舞台のDVDを見直し、橋本健二の草稿を読み返していた。 そしてもうひとつ。亡くなってから、思い出すのがつらさに遠ざけていた雪菜の歌を、また少しずつ聞き直すことを始めた。かずさと自分との合作のCDも、他のバンドへの客演のビデオもひっくるめて、生真面目に聞き込んでみた。 ――雪菜にとって歌とは、一体何だったんだろうか。 ひょっとしたらかずさにとってのピアノ以上の意味が、雪菜にとっての歌にはあったのではないか。 春希と離れていた間、かずさはピアノにのめりこみ、幻想の中の春希と逢瀬を重ねた。それに対して雪菜は、春希とかずさを思い出すのを恐れて、歌を一切封印した。 その違いはいったいなんだったのか。 ――それを少しでも理解しようと思って春希が始めたのは結局、雪菜と、かずさの物語をつづることだった。 それはひょっとしたら、自分などの器では足りない、それこそ千晶の物真似にすぎない作業なのかもしれない。しかしそれは同時に、自分の物語でもあった。雪菜を主人公に、自分を第三者として描くことで、ひょっとしたら自分自身をもうまく突き放して、よりよく理解することができるかもしれない。 そう思いながら、自身の記憶、そして雪菜の思い出話を掘り返しつつ、春希はまずあの三年間の物語を、雪菜の視点から少しずつ組み立てていった。それに行き詰ると今度は、雪菜と出会う前の、自分とかずさの物語を、かずさの視点でつづっていった。 ――正直、楽しい作業ではない。むしろ苦痛だった。しかも、そうやって自分を傷めつけながらつづるこの物語も、縁もゆかりもない他人の眼からすれば、愚かしくも甘酸っぱい、陳腐な青春ドラマにしかならないだろうことがわかるだけに、余計に気がめいった。「あいつなら、こんな陳腐な話でも、圧倒的な説得力で表現するんだろうけれど……。」 とはいえ、和泉千晶のアドバイスを受けるというのは、もちろん筋違いだ。同じ鼻で笑われるのなら、一応自力で作った完成品をこそ笑いのめされるべきだ。「むしろ、意見を求めるなら……?」 しばらく会っていない、古馴染みの顔が思い浮かんだ。(続く)